コラム:シュルレアリストの遊戯

シュルレアリスト達は、彼らの活動拠点であるカフェなどで、様々な遊戯に興じました。以下はその一例です。

(出典)
佐山一 編「シュルレアリスム事典」(『シュルレアリスムの資料』思潮社、1981 所収)
川上勉・田淵晉也・濱田明『ダダ・シュルレアリスムを学ぶ人のために』(世界思想社、1998)

1:「優美な屍骸」
もっとも有名なこの遊びには文章とデッサンの二通りあるが、いずれの場合も数名の参加者が、他の者の分担部が見えないように折った紙に主語、形容詞、動詞…(頭部・胸部…)を書いていく。「優美な屍骸」という名称は、この遊びによってえられた最初の文章、「優美な・屍骸は・新しい・酒を・飲むだろう」に由来する。

2:「問いと答え」
二人の遊びで、回答者は質問を知らずに答える。「1928年の対話」からー
ペレ「なぜ犬どもは月に吠えるのか」、ブルトン「工場の煙突が赤いからさ」
ペレ「兵役って何だい」、ブルトン「階段を降りる長靴の音さ」

3:「戸を開けますか」
ある人物を想定して、その人が訪ねてきたら迎え入れるかどうか、どんな気持ちでそうするか、その理由などを答える。呼鈴を鳴らすネルヴァルの姿が戸の隙間から見えたときの反応はー
「開ける、不安はあるけれど」(ジャン=ルイ・ベドゥアン)
「開ける、とても気がはるけれど」(ロベール・ベナユン)
「開ける、不安でなくもないが」(ブルトン)
「開けます、でもゆっくりと」(エリザ)

4:「互いの中に」
参加者のうち一人が席を離れ、自分が何になるかを決める(たとえば、階段)。その間ほかの者たちは彼を何にするかを相談し(例えば、シャンペンの瓶)、彼が戻ったらそれを告げる。そこで、彼は「私はシャンペンの瓶です」と自己紹介を始め、その特徴を列挙しながら 最終的に「階段」の像が浮かびああがってくるようにする。他の者たちはそれを言い当てる。たとえば、自分をスケート靴にみたてたトワイアンは、櫛にさせられて、次のように自己紹介した「私は歯の抜け落ちた櫛です。人々は私は、平らでとても頑丈な髪の毛に筋をつけるため、足でも用います」そこですかさず「スケート靴!」という答えがかえってくる。

5:「類推的身分証」
愛する人物を一人選んで、各自が身分証明書の一項目ずつ分担し、充分に考えてから象徴的にその人物の肖像を作りあげていく。エロイーズの身分証明書はー
写真・短刀で刺し殺された鳩/両親・黒い翼と五月の雨/生年月日・「極悪の園」の造営/出生地・トレド/国籍・聖杯にかんするアラブとユダヤの断続的伝統を保持するイスラム/職業・二重星の探究者/住所・「貴婦人と一角獣」/身長・香わしいななかまど/髪・蛍/顔・イマリー/目・凍れる涙/肌・夜の虹/鼻・花盛りのレモンの木/声・ルノー王/特徴・世俗的礼拝式/転居・井戸の鎖/宗教・堅牢染めの輪/指紋・頭の無い彼女は泣く

6:「もし…ならば」、「…する時には」
テーブルについた各人は、「もし…」、または、「…の時」で始まる仮定節と、これとは無関係な条件法、または、未来形の分節を記し、ふたりずつそれを照合する。
シュザンヌ・ミュザール「気球搭乗員らが、第七天に到着してしまう時には、」
イヴ・タンギー「彫像は冷たい夜食を出させるだろう。」
シュザンヌ・ミュザール「あなたの影の影が、ガラスの画廊を訪れれば、」
アンドレ・ブルトン「つづきは、次号に際限なくまわされるだろう。」

7:「都市の非合理的美化の若干の可能性についての探究」
…を保存するか、置換するか、変更をくわえるか、改良するか、それとも、抹殺するか。

コンコルド広場のオベリスク
アンドレ・ブルトン「屠殺場の入口に移動し、手袋をはめた女性の巨大な手にそれを掴ませよう。」
ポール・エリュアール「サント=シャペルの尖塔にそっと挿入する。」
トリスタン・ツァラ「丸くして、先端に相応の大きさのペン先をつける。」

ルフォールのライオンの彫像
アンドレ・ブルトン「これに骨を齧らせ、西方に向かせる。」
ポール・エリュアール「右手に鶏肉のポトフーをさげた潜水夫を背中に乗せる。」
トリスタン・ツァラ「巨大な串で突き刺し、赤銅の炎で焼き上げる。」

パンテオン宮殿
トリスタン・ツァラ「垂直に切断し、双方を50センチ離す。」

その他にも内容は不明ですが、「三段論法の遊び」や「霊媒とはどんな人か」といった遊戯があったようです。またこれからも発見し次第、追記していきます。

Surrealism:2 運動の拡大

このリード文は作例ばかりで、「シュルレアリスム」と「絵画」の関係、あるいはその技法といったところの記述が何もないのが大変問題です。作品の比較論にしても多少ずれているように感じますし、出典もありません。

一応翻訳しておきます(エルンストとキリコの作例解説は上述の理由により省略させていただきます)が、編集時点では作例を織り交ぜつつも、シュルレアリスム絵画をめぐる主要な議論、それから技法の列挙というかたちで対応したいと思っています。

翻訳作業を進める(といっても遅々としたものですが)にあたって、カタログ的な(まさに辞書的な)編集を意識した方がいいのかなと感じます。この点については「第一宣言」を読み直して思うところがありましたので、後日、作業仮説として提示することとします。

      • 以下、訳文

1920年代中頃の運動は、シュルレアリストらによるカフェでのデッサン共作やシュルレアリスム理論の彫琢、それに自動デッサンなどの様々な技法の探究などに特徴づけられる。ブルトンは当初、自動現象になじみにくいのではないかという理由から、視覚芸術がシュルレアリスム運動における有効性に疑念を抱いていた。この疑念は、フロッタージュやデカルコマニーといった技法の発見により克服される。

すぐにより多くの芸術家―ジョルジョ・デ・キリコマックス・エルンストジョアン・ミロ、フランシス・ピカビア、イヴ・タンギーサルヴァドール・ドール、ルイス・ブニュエル、アルベルト・ジャコメッティ、ヴァランティーヌ・ユゴー、メレット・オッペンハイム、トワイヤン、そして第二次世界大戦後にはエンリコ・ドナーティ―が運動に参画するようになる。ブルトンパブロ・ピカソマルセル・デュシャンを賞賛し、運動への参加を促したが、彼らは運動の周辺に留まった。またより多くの作家たち―ダダの活動家だったトリスタン・ツァラルネ・シャール、ジョルジュ・サドゥール―も運動に参画している。

1925年にはブリュッセルに独立したシュルレアリスト・グループが形成される。同グループには、E・L・T・メザンス(音楽家・詩人・画家)、ルネ・マグリット(画家・作家)、ポール・ヌジェ、マルセル・ルコント、アンドレ・スーリらが、1927年には作家のルイ・スキュトネールが参画している。ブリュッセル・グループはパリ・グループと通じており、1927年にはカミーユ・ゴーマンとマグリットがパリを訪れ、ブルトンのサークルにしばしば参加している。ダダやキュビスムカンディンスキーの抽象主義、表現主義後期印象主義をルーツとするこれらの芸術家たちはまた、ヒエロニムス・ボッシュのような古の血統、原始的で素朴な芸術にも通じている。

1923年のアンドレ・マッソンの自動デッサンは、それらが無意識の思考を反映するものとして、シュルレアリスムにおける視覚芸術の受容とダダからの隔絶を示すものとして取り上げられる。今ひとつの例としてはジャコメッティの1925年の「トルソー」が挙げられるが、この作品はジャコメッティの形態の単純化への志向と、ギリシャ・ローマ古典期以前の彫像からの影響をを示している。

マックス・エルンストの作例 略)

ジョルジョ・デ・キリコの作例 略)

1924年にミロとマッソンはシュルレアリスムを絵画に適用し、翌年のピエール画廊での『シュルレアリスム絵画展』(マッソン、マン・レイパウル・クレー、ミロらが参加)の開催につながっていく。同展ではシュルレアリスムが視覚芸術分野においても適用可能(当初はその可能性について議論があった)であることが確認され、また、フォトモンタージュのようなダダにおける技法も利用されている。翌1926年3月26日にはマン・レイの展示を皮切りにシュルレアリスト画廊が開廊。1928年にはブルトンが「シュルレアリスムと絵画」を出版し、1960年代まで改訂を続けている。

1920年代に開催された主な展示

・『シュルレアリスム絵画』展(1925)ーパリ、ピエール画廊で開催された最初のシュルレアリスムにおける絵画展。マッソン、マン・レイパウル・クレー、ミロらの作品が展示されている。
シュルレアリスト画廊における展示(1926)ーこの年の3月に開廊したシュルレアリスト画廊における展示。マン・レイの作品とオセアニアの未開地域におけるオブジェが展示された。

      • 訳文終わり

Surrealism:1.2 機関誌『シュルレアリスム革命』(1924-1929)〜1.3 シュルレアリスム研究所の設立

シュルレアリスムの雑誌については別項を設けて詳細を記しても面白いかもしれません。
個人的には『シュルレアリスム革命』誌での、マックス・モリーズ、ピエール・ナヴィルそしてブルトンの間の絵画論争に非常に興味がありますね。
ただ、本筋ではないので、後日コラムとしてまとめたいと思います。

      • 以下、訳文

1.2 機関誌『シュルレアリスム革命』(1924-1929)

「革命…、革命…、レアリスム、それは樹木を刈りこむこと 。シュルレアリスム、それは生を刈りこむことだ。」
ーJ・A・ボアファール、ポール・エリュアール、ロジェ・ヴィトラック「『シュルレアリスム革命』一号の序文」

「宣言」の出版からややあって、シュルレアリストたちは機関誌『シュルレアリスム革命』の創刊号を発行した(1929年までに12号を発行)。最初の編集長であるナヴィルとペレ(第3号以降はブルトンが編集長)は同誌の体裁について、当時の科学誌『ラ・ナチュール(自然)』をモデルにしている。シュルレアリスト達はその一貫したスキャンダル性と革新性に大喜びだった。同誌は記述に焦点をあてる一方、ジョルジュ・デ・キリコやエルンスト、マッソン、マン・レイらの作品の複製図版なども掲載していた。

1.3 シュルレアリスム研究所の設立(1924)

シュルレアリスム研究所(所長:アントナン・アルトー)はグループの作家や芸術家が集まり議論を闘わせ、また会見を行ったり、催眠状態での口述実験などを行った。


1924年シュルレアリスム研究所の様子(撮影:マン・レイ
後列左より、シャルル・バロン、レーモン・クノーアンドレ・ブルトン、ジャック=アンドレ・ボアファール、ジョルジョ・デ・キリコ、ロジェ・ヴィトラック、ポール・エリュアール、フィリップ・スーポー、ロベール・デスノス
前列左より、ピエール・ナヴィル、シモーヌブルトン、マックス・モリーズ、ミック・スーポー

      • 訳文終わり

Surrealism:1.1 「シュルレアリスム宣言」(1924・第一宣言)

いよいよ第一宣言ですが、ちょっとあっけないですね。これはもう少し肉付けする必要があるように感じます。もう少し抜き出したり、1929年版のテキストとの違いなども触れられると面白いでしょうか。あとはブルトンにおける「理性」の取り扱いの問題ですね。

      • 以下、訳文

1.1 「シュルレアリスム宣言」(1924・第一宣言)

ブルトン1924年に発表した「シュルレアリスム宣言」において、グループの目的を明確にした。このなかでブルトンは、オートマティスムに関する議論やその他の試みを例に、シュルレアリスムの影響力を引き合いに出す。そこでは、シュルレアリスムは次のように定義される。

シュルレアリスム。男性名詞。心の純粋な自動現象(オートマティスム)であり、それにもとづいて口述、記述、その他あらゆる方法を用いつつ、思考の実際上の働きを表現しようとくわだてる。理性によって行使されるどんな統制もなく(※1)、美学上ないし道徳上のどんな気づかいからもはなれた思考の書きとり。

百科辞典。(哲)。シュルレアリスムは、それまでおろそかにされてきたある種の連想形式のすぐれた現実性や、夢の全能や、思考の無私無欲な活動などへの信頼に基礎をおく。他のあらゆる心のメカニズムを決定的に破産させ、人生の主要な諸問題の解決においてそれらにとってかわることをめざす。(※2)

      • 訳文終わり

(※1)ここが「宣言」をわかりにくくしている要因ではあります。これ以前の箇所で「理性の監督下においてやることが、なによりの得策である」としており、この定義では「理性によって行使されるどんな統制もなく」としている。巌谷國士氏は、前者の表現をもってシュルレアリスムを「非理性主義あるいは非合理主義ではない」(※2註)として、絶対的合理主義に打ち勝とうとする運動だとしています。「宣言」の他の箇所やブルトンの後年のテキスト、バタイユなどの反論、また他の研究者の論文等を読み込むことによって、この部分については一定の結論は得ることができるとは思いますので、ここでは態度を保留することにします。

(※2)アンドレ・ブルトン著・巌谷國士訳(1992)『シュルレアリスム宣言 溶ける魚』(岩波文庫

Surrealism:1 運動の始まり(第8〜10パラグラフ)

これで第1章リードの訳文は一応終了です。

      • 以下、訳文

夢の分析のほかに、彼らは「あるものが同じフレームの中で結びつけられているとき、そこには非論理的で驚くべき効果を与えるような、ありえない要素が結合していることが見出せる」(※1)ことを強調する。ブルトン1924年の「シュルレアリスム宣言」において、詩人ピエール・ルヴェルディの1918年のエッセイ(「イメージ」)を引用しながら、この「意図せざるものの並置」について次のように語る。
「(イメージは)多かれ少なかれたがいにへだたった二つの現実の接近から生まれる。接近する二つの現実の関係が遠く、しかも適切であればあるほど、イメージはいっそう強まり―いっそう感動の力と詩的現実性を持つようになるだろう…」(※2)と。

シュルレアリストたちは、個人的・文化的・社会的そして政治的な側面において、人間の経験を革新すること、そして人々を誤った合理主義や抑圧的な慣習や構造から解放することを目指した。ブルトンシュルレアリスムの真の目的をして、「社会革命万歳!ただそれだけだ!」(※3)と述べる。
この目的達成のために、シュルレアリストたちは折にふれて共産主義者無政府主義者らと共闘した。

1924年、彼らは「シュルレアリスム宣言」(第一宣言)としてその思想を明らかにした。同年には「シュルレアリスム研究所」を設立、併せて「シュルレアリスム革命」誌を発行している。

      • 訳文終わり

(※1)英語版Wikiの記事では、出典をトマス・ピンチョン「スロー・ラーナー」としています。私は同書を読んだことがないので実際の訳文がどうなっているのか、ちょっとわかりかねます。ただ、ここでピンチョンを引用した意図が不明なので、当該箇所は審議かなと思っています。
(※2)アンドレ・ブルトン著・巌谷國士訳(1992)『シュルレアリスム宣言 溶ける魚』(岩波文庫
(※3)出典不明です。情報求ム…

Surrealism:1 運動のはじまり(第1〜3パラグラフ)(第2稿)

      • 以下、訳文

1 運動のはじまり

「シュルレアリスト(超現実的)」という言葉は、フランスの詩人ギヨーム・アポリネールが、自らの戯曲「ティレシアスの乳房」(1903年作、1917年初演)において用いたのを嚆矢とする。

第一次世界大戦の脅威はパリを拠点とする作家や芸術家を放逐し、大戦の間、その多くはダダの活動に巻き込まれていった。彼らは過度な合理主義やブルジョア的価値観が世界規模の戦争をもたらしたと信じていたのだ。ダダの活動家たちは反芸術的な集会やパフォーマンス、著述や作品をもってこれに抵抗した。戦後、彼らがパリに舞い戻ったときにも、ダダはいまだ進行形の活動であった。

医学・精神医学を学んでいたブルトンは、大戦の間、神経科医療機関で戦争神経症に苦しむ兵士たちに対し、ジークムント・フロイトによる精神分析の手法をもって治療に臨んでいた。その際に若き作家であるジャック・ヴァシェと出会っているが、ブルトンはヴァシェこそ、作家で形而「超」学の始祖たる、アルフレッド・ジャリの精神的後継者であると感じていた。ブルトンは後に「文学において常に私が惹かれたのは、ランボー、ジャリ、アポリネール、ヌーヴォー、ロートレアモンであったが、ジャック・ヴァシェにはその最大のものを負っている。」(*要出典)と述べている。

      • 訳文終わり

・いただいた情報をもとに表記を一部見直しました。英語表記ではシュルレアリス「ト」となっており疑問がわいたのですが、コメントいただき納得致しました。日本語としてはシュルレアリス「ム」として差し支えないでしょう。

(9月10日追記)
シュルレアリスムシュルレアリストに戻し、誤解を避けるため(超現実的)という文言を挿入しました。

・ジャック・ヴァシェとブルトンのエピソードについては、全体からすると瑣末かつ、ブルトンのごく個人的なエピソード(この執着がブルトンに与えた影響はとても興味深いですが)でもあるので、削除というご意見もあります(斜体部分)。全体のバランス等をみて、推敲時に判断したいと思います。

・なお、ヴァシェに関するブルトンのコメントについてはまだ明らかではありません。この点は引き続きの調査とします。

Surrealism 1:運動の始まり(第4〜7パラグラフ)

亀の歩みですが、少しでも進めておきます。

      • 以下、訳文

パリに帰還したブルトンはダダの活動に参入すると同時に、ルイ・アラゴン、フィリップ・スーポーらとともに文芸誌「リテラチュール(文学)」を創刊した。彼らはオートマティスム(自動筆記。推敲することなしに、自然発生的な思考を書き取る方法)の実験に取り組み、その結果をあたかも夢の集積のように雑誌に掲載した。ブルトンとスーポーはオートマティスムにより深くのめり込み、後に「磁場」(1920)を発表している。

彼らは書き続けることによって、新たな作家・芸術家を呼び寄せた。彼らにとってオートマティスムは、当時の支配的価値観に対抗するダダの攻勢よりも、より効果的な戦術のように思われた。グループは次第に大きくなり、ポール・エリュアール、バンジャマン・ペレ、ルネ・クレヴェル、ロベール・デスノス、ジャック・バロン、マックス・モリーズ、ピエール・ナヴィル、ロジェ・ヴィトラック、ガラ・エリュアール、マックス・エルンストサルヴァドール・ダリマン・レイハンス・アルプ、ジョルジュ・マルキーヌ、ミシェル・レリス、ジョルジュ・ランブール、アントナン・アルトーレイモン・クノーアンドレ・マッソン、ジョアン・ミロマルセル・デュシャンジャック・プレヴェールイヴ・タンギーらが加入した。

その思想が発展していくにつれ、彼らはシュルレアリスムは一般的で認知可能な表現であることが不可欠であるが、その配置についてはヘーゲル弁証法によって、想像力に向けて全面的に開かれていなければならないと主張する。彼らはまた、マルクス主義ヴァルター・ベンヤミン、ヘルベルト・マルクーゼらの思想にも目を向けた。

自由連想法夢分析、無意識といったフロイトの業績は、シュルレアリストたちにとっては想像力を解放する方法を発展させるにあたって最も重要な位置を占めていた。後にダリが語るように、彼らは根本的な狂気は拒否しながら、その特性は受け入れようとしたのである。「狂人と私の間にはたった一つの違いしかない。それは私が狂っていないということだ。」(※要出典)と。

      • 訳文終わり

ダリの(有名ですが)コメントの出典が不明です。注釈では「天才の日記」とあるのですが、邦訳があるのか、また邦訳があるのであれば、どのような表記になっているのかご存知の方は情報提供いただければ幸いです。
全体的に人物名がやたら多いですね。この辺りは最終的な編集作業のなかで落としていけばいいと思います。