『ゴールド・ボーイ』(2023)

内容に叙体が合わないためなのか、そもそも語り手が狂っているのか。物語を統べるはずの倫理・価値観の消失点が捉え難いのである。


まず叙体の古さに出鼻をくじかれる。現代の流行から見れば中庸な、平成初期の叙体である。


金子修介の登用は一面において正当性がある。コザの街頭を行く少年らのスナップにノスタルジックな文体は嵌り、その瞬間だけ画面は時代性から自由になれる。叙体がジュブナイルの内容と時折一致を見せるのだ。義父の安否を確認した後、アバンチュールにはしゃぐような体で少年と少女が駆けていく。彼らを正面から捉えたロングなどはジュブナイルの最たる絵面だろう。だからこそ狂っているのだ。内容を見ればジュブナイルになっていはいけない場面である。


少年は初めからサイコ丸出しであったが、殊に義父の場面では初めて暴力の行使に及ぶのである。怯えるべき少女は少年のサイコ性にさほど感応しない。少年の行動がますます常軌を逸していっても、何事もないように並行して恋の話が進む。情事を盛り立てる劇伴が狂気に花を添える。


この違和感は意図なのだろうか。少年のサイコ性が後段になって発覚する構成ならば意味はある。しかしどこから見てもサイコの男がサイコをやって、その傍らでジュブナイルをやる。これはホラーだが叙体はジュブナイルである。性格や筋の一貫性におおらかな大陸製劇画の雑さなのか。金子の叙体が内容に対応できないのか。金子が狂っているのか。


本作の沖縄観は辛辣である。島は血縁原理に汚染し腐敗している。地元の有力企業に入った軍用地主の子弟が貴族階級を作っている。物語はそうした沖縄社会を風刺している。血縁原理を潰すために科挙や宦官を発明し文革ポルポトをやった大陸知識人の問題意識がロケーションに反映しているのだろう。


松井玲奈に浮気された入り婿の岡田将生は血縁社会に対する挑戦者である。血縁の島では血縁原理で動かない人間はサイコでしかない。だから妻には疎まれてしまう。奄美出身の設定も政治的にイヤらしい。彼は本島の隷属民なのだ。


岡田の人物造形はやや道化じみている。尋問に対し如何にも準備したごとくスラスラと答えてしまえば、手際のよさがかえって疑いを呼ぶだろう。彼は二流のサイコだからマンガのようなサイコとして挙動するのは正しい。理知と天然がないまぜになった造形は金子らしい。


本作のタイトル、ゴールド・ボーイとは数学コンテストで優勝した少年を指す。岡田は次席である。ふたりを結びつけるのは数学を媒介にしたメリトクラシーの絆である。


少年にとって血縁原理を代表するものは、13歳の息子にスキンシップを躊躇しない黒木華のウザさだろう。だが少年は母を誤解していた。血縁原理で稼働するそのウザい女に彼は最後に売られてしまった。血縁原理を信じたのは少年の方だった。彼は母を信用したのである。母は血縁原理を克服してサイコに打ち勝った。しかし、話はそこにとどまらない。


語り手には少年のサイコ性を隠すつもりはない。クラスメイトの自決も少年の介在は最初から見え透いている。むしろ自明にして、真に隠すべき対象から受け手を遠ざけようとしている。


本当に隠されていたこと。それは少女の内面である。少女は全てを承知の上でジュブナイルをやっていた。少年のサイコ性も犯行も把握した上で恋をしていた。むしろ知ったからこそのめり込んでしまった。自覚の競争において少女は男を上回り、彼を刺し違えて破壊する資格を得たのだった。


それは、甲斐性ある男のフェロモンに感応した女が狂走する物語だが、少女は決して犠牲者ではない。フェロモンが自分に埋没する勇気を発見させ、少女は本当の自分と出会ってしまった。


少女の勇気は母に伝播する。黒木華は母性とフェロモンの感染を混同していた。これを自覚した黒木は根性を発揮し、自分を矮小化する芝居をやって血縁原理を克服する。しかし本当のところは血縁原理の深淵に少年が飲み込まれたに過ぎないのでないか。


結末も多層的である。江口洋介と対峙する少年は下手に追いやられ劣勢は明らかである。その背後、下手から上手に向かって血縁原理に挑むようにF-15が暴力的に横切る。マンガ寸前の構図だが、懲悪によるサイコの矮小化を回避させるのはこのF-15である。少年はいまだやる気満々なのだ。