『さかなのこ』(2022)

現実の当人とは関連のないカメオ的な役柄で原作者が投入されたのなら、不都合は生じなかったはずだ。当人に類する姿態で登場するから存在論の不穏が始まる。彼は何者なのか。


原作者はのんの雌雄反転配役に信憑性を与える補助線なのだろう。当然ではあるが、原作者の方がさかなクンを的確に演じられるために、雌雄反転がますます絵空事になる。地に足がつかなくなるのは意図なのか誤算なのか。意図にしては原作者の様態が社会的リアリズムに寄りすぎている。これは地上に落下した天女を観察する話である。のんの地上感のなさは最も非日常たるべき原作者を一人の生活者に還元してしまうほどすさまじい。


原作者の演技には作為の安心感がある。腹に力のこもる達者な発声で彼は台詞をいう。のんとの対比で演者としての力量がわかってしまう。


原作者は初出から生活感丸出しである。言動は例によって浮世離れしている。腕に提げた買物カゴとそこから突き出るネギがその挙動を傷ましくして地上的にする。訪ねてきた幼少ののんに原作者は愚痴る。太い実家に生まれたが今は困窮すると。任意同行による退場も社会派過ぎる。


小学生が不審中年と出会う件は時系列的にあり得ないコンタクトであるために、原作者は虚構的人物として劇中では扱われたと解せる。しかし終盤で彼は再登板する。地上波デビューしたのんの姿に彼はかぶりつきになる。墜落天女が地上で然るべき場所に納まったのだが、架空戦記のような裏テーマそこにがあるのだ。さかなクンになれなかった男の物語である。


守屋文雄が一日中、床屋の店先で喫煙している。のんの前には老若問わず”ダメな人々”が次々と現れては消える。タコを殴り殺した父。奇行と夢を嗤う級友たち。転がり込んできた夏帆母娘。守屋はダメな人々の補助線であり、夏帆は原作者と同様にあり得たかもしれない分岐した人生に放り込まれている。彼女はのん母娘の失敗例である。


夏帆と形成する疑似家族の顛末がのんに甲斐性の観念を教える。あの母娘を救える力がなかったのはつらい。しかしより応えるのは、自分の存在が夏帆にとってプレッシャーになっていたことだ。ただ好きを追求するだけで人に圧を加えてしまう。多くの人は夢追う他人に耐えられない。自分の人生が問われるからだ。ごく一部の聖人だけがのんの夢に感応し、柳楽優弥は猛勉強の末にTV屋となり磯村勇斗は寿司屋を開く。


最たる聖人は井川遥である。彼女はのんの夢に吸われるように始終疲弊の色を隠せない。彼女の聖性すら耐えられないのである。父と兄の消失は無理もない。


好きが否応なく社会性を帯びるメカニズムは、さかなクンの意味合いを変えてしまう。自分の夢をかなえるのが目的ではなかった。背負うべきは他人の人生であり夢である。


ラスト、さかなクンになったのんが子どもたちに追われ、坂田の路地を疾駆する。天女の笑みが他人の人生を背負う根源的な辛みをたたえている。彼女は媒体となった。急き立てるのは井川や柳楽や磯村の夢ばかりではない。さかなクンになれなかった男と夏帆母娘の、あるいは彼女の前を通り過ぎていった夢に耐えられなかった人々の人生も抱合されている。あの帽子は人間の営為全体を俯瞰視する機構そのものなのだ。