フリクション

▲ ファーストアルバム「軋轢」を発表した1980年前後のReck


Reck(Vo,Bass)とドラムのチコ・ヒゲを中心に1979年頃に結成。

日本を代表するパンクバンド(当時の言い方だと)として、日本の音楽界に燦然と輝く。数多くのライブ盤やシングルを出しているが、スタジオ録音のフルアルバムは、


・1980年「軋轢」
・1982年「Skin Deep」
・1988年「Replicant Walk」
・1995年「Zone Tripper」

ということになると思う。

ファーストアルバム「軋轢」は坂本龍一のプロデュースだったが、Frictionの持ち味であるスピード感と音の迫力が削がれてしまい、アルバムの評判を落としてしまった感がある。そういう意味では、次の「Skin Deep」が一番の衝撃作だったかもしれない。しかし、この4枚はどれも日本のロック音楽史上には極めて重要なもので、また、フリクションという存在は、日本の80年代インディーズの最大の重要バンドであっということも書いておきたい。

これは好き嫌いの問題ではなくて、例えば、英国でのSex Pistolsの存在の重要性については、彼らのことが好きだろうが嫌いだろうが、英国のパンクを語る上で外せないはずで、フリクションもそれと同じなのである。日本の1980年代パンク・ニューウェイブ、そして後の日本の音楽とファッションに与えた影響性について語る上で外すことはできないのだ。


Friction公式サイト
http://www.yk.rim.or.jp/~ubud/friction.html


Amazonで探すFriction

▼これが2007年1月に発売された最新のアルバム。ベストアルバムのようなものと考えてもらっても構わないが、Frictionを知っている人も知らない人もこれを聴けばすべてわかる。日本のパンクとロックンロールの頂点を極めたバンドの存在をそこに感じることができるだろう。

Maniacs

Maniacs



読みは「フュー」。

Aunt SallyのボーカルだったPhewのソロ活動ネーム。
80年に、坂本龍一とのコラボ「終曲」を発表。そのためか、一般にはAunt Sally時代よりも認知度は上がったと思われる。
坂本龍一の演奏もPhewの個性を損なうことなく、良かった。しかし、作風はAunt Sally時代よりも更にディープに進化し、一般のロック・ポップスファンには理解することが難しい位置にまで行った感がある。その後はドイツにおいて、CANのHolger Czukayらのプロデュースでアルバム「Phew」を録音。PASSレコードから発売される。

1982年に一度、音楽活動を停止した後に、1986年に音楽活動再開。記録では、2001年までの音楽活動が記されている。


公式サイトではないが、Phewの年表がきわめて詳細に書かれているサイト。
http://home.catv.ne.jp/dd/phew/Pages/Phew.html



[当時を聴く方法]

デビューアルバム「終曲/うらはら」はアナログ盤なら貴重だろうか。「終曲/うらはら」も「Phew」もどちらもCDで再販されている。



▼ オススメは1981年のこのアルバム。
CANの元メンバー、コニー・フランク等によるプロデュースで、演奏構成はこの時代の最先。坂本龍一の前作よりも単純にカッコイイ。

PHEW

PHEW

Les Rallizes Denudesという表記が正式なようだが、馴染まないので「裸のラリーズ」で統一する。


80年代の時点で裸のラリーズはすでに伝説と化していた感があるが、まだ精力的にライブをやってもいた。

1967年に同志社大学の学生だった水谷孝を中心に結成。オリジナルメンバーのうち、ベースの若林盛亮は1970年の「よど号」ハイジャック犯として北朝鮮に。

もともとはアングラ劇団との共同活動が音楽活動の発端だった。その後、ラリーズ水谷孝ひとりのバンドとなっていく。途中、久保田真琴夕焼け楽団→サンディ&サンセッツ)のラリーズへの参加もあった。80年代からは元村八分の山口富士夫が参加し、第二の伝説へと歩き出す。その後も活動を続け、公式には1997年が最後のライブとなっている。



裸のラリーズ(非)公式サイト
http://www.yk.rim.or.jp/~ubud/rallizes.html


YouTubeより

▲1980年にテレビ番組に出演した時のもの。曲はデビューシングル「20世紀の終わりに」。


1977年に東京キットブラザーズ出身で、劇団を主宰していた巻上公一を中心に結成。
吉祥寺のライブハウスなどでライブ活動を開始した後、その音楽が近田春男の目に止まり、(近田春男の眼は確かだが、しかし、そうでなくとも、ヒカシューはメジャーになっていたと思われる)1979年にシングル「20世紀の終わりに」でレコードデビュー。当時、テクノポップブームが沸き起こっていたが、その中軸を担うバンドとして、P-MODEL、プラスティックスらと共に時代の寵児となった。巻上公一の演劇がかった歌唱法とテクノサウンドの融合は独特であった。

1980年、アルバム「ヒカシュー」とセカンド「夏」をリリース。「パイク」という曲は映画「チェンジリング」の主題歌として使われている。最近、「ツインベスト」というヒカシューのベストが出たが、内容の多くがこのファーストアルバムとセカンドからのもので、いかにこの2枚のインパクトが強く、また後に残る作品だったかということがわかる。

ちなみに、ツインベストを買えば、初期ヒカシューのおおよその曲はカバーできるが、聴いたことのない人にとっては、ヒカシューというバンドが「きわめてアクの強い」ユニットだということを知ってから聴いてほしいと思う。好きな人はとても好きだが、嫌いな人にはきわめて嫌いなものだと思われるからだ。それほどのインパクトの強い音楽ユニットだったのだ。

その後、メンバーは替わったが、ヒカシュー自体は巻上公一を中心に幅広い表現活動を行っている。演劇フィールドでも、麻布ディー・プラッツでのフェスティバルなどに出演したりと活動の幅は広い。


ヒカシュー公式サイト:
http://www.makigami.com/hikashu/


YouTubeより。テレビ出演した際のヒカシュー。曲はホラー映画「チェンジリング」の主題歌ともなった「パイク」。


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ツイン・ベスト

ツイン・ベスト



ボーカルの平沢進を中心に前身のバンド「マンドレイク」を経て、1979年に結成。
ヴァン・ヘイレンの来日コンサートの前座を務めてから、当時としては特異な音楽性と奇抜なコスチュームでの演奏を続けて、ロックファンの間でその評判は一気に高まる。このヴァン・ヘイレンの前座のP-MODELを見て、それまでのハード・ロックだけの価値観から、別の音楽へと価値観を変えた人は多いはずだ。当時としては、それくらい衝撃的なバンドだったのである。

同年の1979年、デビューアルバム「IN A MODEL ROOM」をワーナーから発売。テクノポップの寵児として大きな話題を引っさげての登場だった。そのアルバムも強烈なテクノポップサウンドとロックの融合を果たした記念碑的なアルバムだった。

オリジナルメンバーは平沢進(Vo,G)、田中靖美(Key,シンセ)、田井中貞利(Drum)、秋山勝彦(Bass)。

この4名での活動は2枚目のアルバム「ランドセル」まで。3枚目の「ポプリ」からはマンドレイク時代のオリジナルメンバーの平沢、田中、田井中に戻る。4枚目の「Perspective」に至るまでにその音楽性は大きく変わり、すでにテクノポップというジャンルのユニットではなくなる。

「ANOTHER GAME」、「KARKADOR」とアルバムを発表し続けた後、1988年頃、一度活動を停止するが、1990年を過ぎた頃から再度テクノポップを目指す 展開となる。メンバーも平沢進以外は変わり、今では平沢進P-MODELというユニットの境界は見出しにくいかもしれない。

P-MODELというバンドは、あくまでロックフィールドから発生したバンドだったということを忘れてはいけない。それまで、ハードロックなどにしか興味のなかった多くの若者たちを別次元の音楽の世界に引き入れた最大の功労者なのである。

後年の平沢進は出演ビデオでこう語っている。

「もう今は、"新しい音楽"というものはないんですよ。これまでの音楽の解体と再構築という作業だけになっている。もはや楽器とかセクションという意味もないんです」。

私も同意である。

もはや、新しい音楽というものはない。
過去の再構築をきちんと行うことが今の音楽家たちの仕事なのかもしれない。


平沢進P-MODEL公式サイト
http://www.chaosunion.com/



YouTubeより。▲ ファーストアルバム「IN A MODEL ROOM」に収められている「ヘルスエンジェル」。多分、1980年。
胸に「P」のバッジをつけてライブを行っているライブ映像は貴重だと思う。


AmazonP-MODELを探す。
「IN A MODEL ROOM」とサードアルバム「ポプリ」は日本のロック史に残るものだと思います。

IN A MODEL ROOM

IN A MODEL ROOM

ポプリ

ポプリ


JOJO広重を中心に1980年に結成されたノイズユニット。「非常階段」という同一メンバーによる固定ユニットがあるというわけではなく、JOJO広重以外のメンバーは流動的。

80年代では、舞台での破壊や排泄などを行うというようなギミックを軸にノイズジャンルでの一番人気を誇り続けた。

JOJO広重の最大の功績は、非常階段での活動という以上に、1984年に設立したアルケミーレコードの設立である。アルケミーレコードは自主制作レーベルとしてスタートしたが、1990年代後半からは、かつての自主制作レコードを次々とCD化し、「あんなものはもう世に出ることはないだろう」という作品群を再度、世に出したことだ。ほぶらきんやウルトラビデもこのおかげで再発されている。


Youtubeにある非常階段ライブ映像


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賀県が生んだ、不思議なバンド。

関東圏での活動が多くはなく、私個人はライブは未見である。

作品的には少なくともアルケミーレコードから4枚程度のレコードとソノシートを出している。私が実際に聴いたのは4枚目の「ゴースンの一生」だけだが、非常にコンセプチュアルな作品で、ノイズとノスタルジーとコメディの融合のよう なイメージの作品だった。ほとんどの作品が数十秒から1分程度だが、それがひとつひとつ繋ぎ合わさり、壮大な(?)オペラのようなアルバムとなっている。文化に余裕のあった80年代だから存在し得たようなユニットだったと思われる。

現在ではもう音楽活動はしていないと思われる。

音源入手に関しては、ソノシート版を探すのはかなり難しいだろうが、90年代に入って、アルケミーからCDが発売されているので、ソノシートの音源は辿れるのではないかと思う。ただ、ほぶらきんは根強い人気があり、比較的、売り切れている状態が多いと思われる。


ほぶらきん

ほぶらきん