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私たちの想像力はもう尽きてしまっただろうか。それとも、かけらのような燃えかすでも残っているだろうか。細い糸を手繰り寄せる。光明の向こう側に開ける世界。誰もたどり着いたことがなく、それなのに、理解可能なあの芳醇な匂い。
唾棄すべき感動主義。感情の赴くままに解き放たれて野生へ帰ってしまった哀れな動物たち。すでに野へ帰る力さえも失って、昏迷を彷徨うだけだというのに。
明晰さは、論理的能力は、そして未来への希望は、理性から生まれるはずではなかったのか。ただ人間だけが未来を想像しえて、世界を理解しようとしているのに。科学とは時代遅れの遺物になってしまったのか?世界は再び闇へ帰ろうとしているのか。私たちが手にした火は、すでに消えかけているのか。
そうではない!ただ意志だけが、私たちを未来へ運んでくれる。
鏡の国2
落ちる。
ねぇ、知っているかい。僕は重力の色をした傘なんだ。
ねえ、知っているかい。僕の姿を。
セタは地に着かない足で宙を蹴りながら居場所を探していた。ずっと前からこうだったような気がするのだ。ずっと前から足は地に着かないままで、ずっと前から、方向はないままで、ただ行き先だけがセタを前に進めてきた。だが、その行き先でさえ、今ではおぼろげになっている。
遠くから聞こえる音のせいか、セタはかすかに方向を思い出した。方向を思い出したとたん、重力がセタを捕らえた。
落ちる。
僕は落下する傘の色をした重力だ。
降り立った地は灰色をしている。セタはついに世界の底へやってきたようだった。
鏡の国1
ふとふりかえると、ずっとこのままだったような気がする。ところどころ、すっぽり穴があいて欠落しているが、その欠落はなかったもののように、今では自分の姿を写すばかりになっていた。
意思は、その始まりから主体を必要とし、いや、それともそれはただの差異でしかなかったのだろうか。
他者。
他者だって?
セタは不意に背中を振り返った。僕を見ているのは誰か?視線が交わる場所にいるのは、セタの顔をした誰かだった。
だが、あれは僕ではない。
なぜなら、僕はここにいるからだ。
何故か危ういものを感じながら、セタは繰り返しつぶやく。
僕は、ここにいるからだ。
目をあげた先を覆うのが何なのか、すぐにはわからない。
やがてそれが自分の顔であることに気づく。あまりにも滑らかに自分をトレースするものだから、セタはつい、目の前の影から自分が話しかけているような気になる。
僕はここにいるのだ。
途端に体が宙に浮くような不安に囚われる。
ここって、どこだ?
唇の僅かな震えさえも捉える完全に一致した影が、セタを捉える。
鏡の向こう側が声もなく立ちすくむセタを吸い込み、無限の反復が始まった。
インテルメッツォ
(インテルメッツォ)
セタは探している。自分が何を探しているのか探している。セタにはずっと、何かを探す必要はなかった。でも、名前の国を出てからセタは、ふと何かを探してみようかという気になった。
とはいえ、あてどなく彷徨っているだけのセタであったから、そもそも何かを探すというのが難しい。何かを探すというのは、そも、どういうことだったろう。セタはない記憶を探り、まだ見ぬ未来に目を眇めた。何か。僕はいったい、なにをすべきなのだろう。
乳白色の闇から背の高い門へ出たとき、セタは自らの分身が膨大に居並ぶさまを見た。近づけば近づき、揺らげば揺らぐ。それは鏡であった。乳白色の中に、セタは浮かんでいた。
「ようこそ。ふたごの国へ」
静かな声が、鏡を開いた。セタは誘われるがまま、鏡の奥へ姿を消す。
なまえの国
『なまえの国』
その国に到着すると、誰もかれもが地面に鼻の先がくっつくんじゃないかというほど顔を近づけて、必死に何かを探している。セタは不思議に思った。あれはいったいどういうことだろう。だって、地面にはなんにも落ちてやしないじゃないか。
「あのう、すみません」
顔を地面にこすりつけながら瓶底眼鏡で他の人よりもさらに一層懸命に何かを探している青年に、セタは話しかけた。途端に、青年はものすごい剣幕でセタの歩いた場所から何かを拾い上げた。
「ふざけるんじゃないよ、そんな風に土足で入ってこられたんじゃこちらとしてもいい迷惑というものだ」
「いったいどうされたんです、そんなに必死んなって。何が落ちてるっていうんです」
青年はずり落ちた眼鏡をあげるでもなく、さらに深くかがみこむ。
「なまえだよ」
「はあ」
「他にいったい何を探すっていうんだね」
「いや、まあ、人生の目的とかそういうものでしょうか」
「馬鹿なことをお言いでない。人生なんてのはね、いいかい、なまえがあって初めて成立するもんなんだ。名もない人間の人生なんて、存在した試しがないじゃないか」
「それで、あなたもなまえを探している」
「当たり前さ。他にいったい何を探すっていうんだ」
「いや、まあ、はあ」
セタは特に何かを探さなければならないという気持ちになったことがない。
「それじゃ、あなたにはなまえがないんですかね」
「君は馬鹿か。なまえはあるに決まっているだろう。今よりいいなまえを探すんだよ。今よりずっとお金もちで生活に困らないだけの余裕があるなまえをさ」
「あなたは生活に困っている」
「なまえを探す人間が、困っていないわけがない。君はほんとうにものを知らないな。あっ」
青年はそう言うと、ふたたびセタの足元を探った。
「言わないことではない。君はいろんななまえを犠牲にしすぎるな。もうここからは出ていったほうがいいぞ。さしあたって、君には必要ななまえというものがないらしいからな。それに僕は忙しいのだ。君の相手をしているひまなんぞない。さあ、いった、いった」
結局セタは、青年の名も知らぬままその国を出ることになった。遠くからその国を眺めると、こんもりと霞がかってまるでその国だけ雲の中にあるようだった。
なまえというのはそんなに大事なものなのだろうか。セタは、これまで自分が犠牲にしてきたなまえについて考えてみようとしたが、セタは生まれたときからセタであったので、それ以外のなまえというものについて思いを馳せることさえできなかった。
ゆらぎの国
【ゆらぎの国】
その国では、すべてがバランスを保っている。ひとつの動きが、他の動きに影響を与え、ひとつの思想が、他の思想に影響を与え、最終的に丸く収まるように調整されている。
「われわれの国ではね」
国民の一人が、セタに説明して言った。彼らはコンパスのような脚とやじろべえのような腕を持ち、耐えずゆらめきながらバランスを取る。このコンパスもまた、話しながら常にどこかしら揺れている。
「あらゆるものが相互に関連しあっています。私の動きは、私だけのものではありません。私の指の動き、瞬きひとつ、すべてが他の誰かの動作や思想に影響を与え与えられています」
そういいながら、その人物は右腕をセタのほうへ差し出した。
「失礼。これは私の意思とは関係がないことです。後ろをご覧ください。あそこに立っている女性が誰かに道を尋ねている。そのせいで、私の腕が動いたのです」
セタが振り返ると、交差点で女性と思しきコンパスが、別の女性と思しきコンパスとしきりに何かを取り交わしている。二人は耐えず揺らめき、触れそうで触れない動きを繰り返した。
「ことほどさように、私たちの行動は、私たちの意思のみで決定されているわけではありません。私たちは全体でひとつの大きなバランスを保つようになっているわけです」
それならば、バランスの中心のようなものはないのだろうか、と尋ねてみる。
「ある意味で」
コンパスが左に大きく傾いた。
「中心は私であり、中心はどこにもない。誰もが中心であり得、誰も中心ではない」
よくわからないな、とセタはつぶやいた。
「この国では、すべてが均衡を保つために、そしてそれだけのために存在しています。余計なものはなく、必要なものしかありません。私たちは耐えず揺らぎ、傾き、元に戻り、再び揺らめきます。誰もが誰かに影響を与え、与えられています。私の意思は確かにここにあるものですが、かといって、私の意思がすべてを決定できるわけではありません。それゆえ、私は中心ではありますが、同時に、中心ではない」
僕も、君たちのバランスの中にいるのだろうか。それとも、ただの部外者なのだろうか。
「あなたの動きも思想も、私たちとは何の関係もありません」
コンパスはきっぱりと言い放った。
「私たちは私たちだけで完結しております。あなたは必要でも不可欠でもありません。ただ」
そのとき、唐突に風がやみ、コンパスはゆっくりと揺らめきの速度を落としていった。
「ほら、こういうことがあります。揺らぎはときどき、完全な均衡状態に陥ることがある。そうなると私たちは一瞬ですが、完全に」
言葉は途切れ、コンパスは静止した。セタは静止したコンパスの周囲をぐるりと見回す。見えるところにあるすべてのコンパスが、静止していた。なんとなく、ため息がつきたくなった。それはもしかするとほんの一瞬だったのかもしれないし、かなり長い時間だったのかもしれない。セタは瞬きを何度かしたような気がするが、一回もしなかった気もする。比べるものがないとき、時間というのは消えてしまうものなのだとセタは初めて気付いた。気付いたころには、その国のバランスは再び動き出していた。
「静止することがあります」
再び話し始めたコンパスには、揺らぎが戻っている。
「その時、たまたま存在していた部外者は、ある意味でバランスの中心にいると言えるかもしれませんね。その部外者の影響によって揺らぎは再び開始されるからです」
セタの体がゆっくりと揺らめいている。
「人間は本来、バランスを取るために耐えず体を揺り動かしています。瞳も、皮膚も、内臓も、常に動いています。そして、その動きは、さきほどのような均衡状態においては、私たちにも少なからず影響を与えます。ですから今や、あなたの動きも私たちに影響を与えるものとなっているのです」
だが、僕は部外者だとさっきあなたは言った。
「静止の場面に立ち会ったものは、すでに部外者とは言えません。あの瞬間から、あなたは私たちのバランスの一端を担う存在となったのですから。ほら、ご覧なさい。あなたの動きはもうすでにあなたの意思だけでは完結していませんよ。私たちは、今や相互に影響を与えあっている」
コンパスの向こう側に、男性と思しきコンパスが、知り合いと思しきコンパスと話し合っているのが見える。セタは、自分の腕がゆっくりとその光景を指差すのを、自らの視界の端でとらえた。その横で、コンパスの両足がゆっくりと円を描き始めた。