夏は続く。

 新しい服を買って新しい音楽を聴く。
 そうやって自分を刷新していく。更新していく。アップデート。その繰り返しを、昔は太陽の光を感じながら、ただその光だけで感じ取れていた。
 夜明けの目覚めにわくわくして、朝の静けさに違う世界を見て。いつもと違う時間帯の街の通りには、ランニングをする近所のおじいさん、息の荒い小型犬を連れたお兄さん。明け方のコンビニの店員は眠そうに何処か一点をぼうっと見つめて、朝日の射し込む広々とした駐車場には秋の訪れを感じさせる落ち葉が散らばる。
 そんな記憶。むかしの思い出。あの朝には私は、生まれ変わるということがどういうことか、新しく始めるということがどういうことなのかを、少しだけ分かった気がした。

 夜が若者の時間だというなら、朝は健やかな大人達の時間だ。
 多くの物が出て来ては消え、出来上がっては壊れていく中で、残っていくものというのはきっと、いつもの朝の風景にあるものなのだろう。
 そうして夏は続く。

グッデイ

 中学生くらいの息子とやたら仲の良い、メガネのお母さんを見た。
 一緒にあと、娘が二人いて、それぞれその息子よりも年上で、どうやらいろいろと肩身がせまそうだ。女家族に囲まれて暮らす男の子は皆こんな感じかもしれないね。可愛がられるような、手の上で転がされてしまうような。
 男は少し肩身が狭いくらいが良い。偉そうにされるより全然良いね。女の人が元気な家庭は、なんだか安心する。ただ、男の人の無駄に高いプライドが嫌いなのかもしれない。

 また髪が伸びてきた。袖の短いシャツを着たら、それが目立って困る。
 湿気のある日は、髪質と相まって頭全体がうねうねする。風のかたちが髪の毛を介して現れているみたいだ。見えないものが、見えるものを通して姿を表す。といっても、結局は癖っ毛だ。厄介。

 大人になると答えがどんどん出せるようになる。
 こどもであるということは、いくつもの「どうしてだろう」を生み出せる力があるということかもしれない。どうしてあの人は疲れて座っているの。どうしてあの人はあんなに優しいの。どうして生きる力がある人と、無い人がいるの。
 問題を見つけるのはいつもこどもで、それを解決していくのが大人の役目。そんな気がする。

 それでも、「どうして大人になろうと思ったの?」という質問には、うまく答えられない。

 そこに答えが見つからないままだから良いこともあるんだよ、そんな答えがある気がするよ。何事にも意味を求めてはいけない。意味の無い、利益の出ない、得もしない。でも価値はある。
 この感覚を掴むことはきっと、ある種の運が必要で、その運も自分の力だけでは手に出来ない。巡り合わせのような、偶然の重なりや出会いの連続が、その感覚を支えている。もしかしたら、いずれまたこどもに戻りたくて泣き出すかもしれない。そんな日が来るとは思えないけれど、もしかしたら、分からない。先のことは、人生のことは、大人もこどもも、分からないのだから。
 今は大人でいようと思う。それは確かだと思える。

 最近移動中にこの曲を聴いて泣きそうになった。
 子どもが泣くように、大人だって泣く。でも自分の為にでは無くて、何かの為に泣く。

 偉そうに大人ぶるつもりは無いけど、大人であることから逃げるわけにはいかない。そういうのを大人って言うのか、わからないけれど。

「詩という仕事について」

詩という仕事について (岩波文庫)

詩という仕事について (岩波文庫)

 買いました。これから読みます。
荒木飛呂彦の奇妙なホラー映画論 (集英社新書)

荒木飛呂彦の奇妙なホラー映画論 (集英社新書)

 これも。先生の活字本はあまり読んだ事が無いので楽しみです。
 とんと漫画から離れてしまいましたが、今もお元気そうで何よりです。
 初心に立ち返ろうという気持ちもこめて。