透明感−書き途中

dolphi2006-12-02

「少女が少女たる要素とは、いったい何なのでしょうか」


ロッテ・キシリトールガムのCM*1 を見ていて、ちょっと観じたことがあります。
それは、夏帆の持つ「透明感」、についてです。
そもそも、透明感とは何なのでしょうか。尤もらしく口には出しているものの、いざ「それが何なのか」というところに目を向けてみると、それを巧く説明することはできません。「透明感」を説明する語句は「透明感」以外にないようにさえ思えてきます。また「透明感」を得る対象によっても、その基準というのは異なってくるようです、どうやら。
そのような点を踏まえた上で、今回はアイドルにおける「透明感」という点を切り口として、冒頭の問いを考えていこうかと思っています。


アイドルを表現する際における「透明感」という用語について、代替語(≠同義語)を探すとしたら何があるでしょうか。「清純」「純粋」。大方そのあたりなのではないでしょうか。では、「清純さ」「純粋さ」の指標はいったいどこにあるのでしょう。つまり何をもって「清純」「純粋」と言っているのか、という問題が起こってきます。
そこでやはり、その指標は各々が持つ「透明感」であると、そう仮説を立ててみます。何やら禅問答の様相ですが、ひとまずお付き合いください。
その「透明感」の淵源が何か、と考えます。これはあくまで男子視点であるという事を先にお断りしておきますが、その上で考えたときに、その「透明感」というものは一種の無垢さ、言い換えるならば、夫々が持つ過去の憧憬の中に在る「女の子」の欠片に由因しているのだと思います。さらにその向こう側には尤も無垢な存在としての女性的存在、即ち母的存在の介在が指摘できるような気がしますが、しかしそれは今回の論考には余り直接的に結びついてこないのと(根本的背景環境として大きな影響があるというのは確かですが)、煩瑣を避ける為に今回は触れません。
ところで、『各々が持つ「透明感」』『夫々が持つ過去の憧憬の中に在る「女の子」』と書きました。厳密に言うならば、そもそも「透明感」というものの絶対的基準は各々の中にあるもので、それは十人十色違います。しかしそれでは「透明感」を説明する際に具合が悪いので、こうして「透明感」とは何ぞや? という事を考えるわけです。つまり、「透明感」という言葉の普遍化を目指すわけですが、そこにおいてはある程度、イメージの統一化が必要になってきます。ある程度の人々に受け入れられるようなイメージを、規定という名の元で構築していくわけです。そしてその既定から外れた所にある夫々の感覚は、「個性」として各人に回収されていくのですが、しかしこのような構造はなにも「透明感」に限ったことではなく、今ある殆どの抽象語句に関して言える事だと思います。普遍化された言葉とその説明に準ずる感覚がまずあって、そこから派生する形で自分たち夫々の感覚が存在すると考えがちですが、実際は逆なのです。ただ僕たちは、生まれたままではその内在する感覚を表す術を知らないので、それを発言できるようにする手がかり、ツールとして「言葉」を獲得していくのだと、そのように考えます。


話が逸れました。
そのように「透明感」という語の普遍化を行う際にイメージの既定、言ってしまえば固化が行われるのですが、このイメージは果たしてどのようなものなのか。僕が考えるに、アイドル、というよりは女の子における「透明感」を考える場合、その根底イメージのアウトラインとして、「夏」「田舎」といったキーワードが挙げられるのではないか、と思います。この2つについて、少し説明をしなければならないでしょう。
まず、「夏」というキーワードについてです。女の子の無垢性ということをまず第一に考えるならば、季節によってその多寡が左右されるということはないはずです。しかし「透明感」を考慮に入れるならば、それは断然「夏」なのです。舞台装置は夏でなければならない。そもそも、夏は非常に生命力の旺盛な季節です。そして、天真爛漫な季節でもあります。また、夏は着る物も薄着になり、肌の露出が増える時期とも言えます。元来生物というのは肌を露出しているものであり、人間のように衣類でその肌を覆い隠してしまっているという事は、「その人を見えにくくしている」と言ってしまうのは言い過ぎでしょうか。しかし、「透きとおるような肌」という比喩からも窺えるように、「透明感」と「肌」というのは、感覚的に元来同一のベクトル上にあるものなのではないでしょうか。
次に、「田舎」というキーワードについてです。我々が無垢さ、素朴さを追い求めるとき、大都会に帰るという人は余りいないと思います。どちらかといえば、心の安まる場所へと向かうでしょう。それを端的に示すのが「田舎」というキーワードだと思うのです。無論、生まれも育ちも大都会、親戚も都市圏内にしかいない、という人も近年では多いでしょう。しかし、そのような人々にも「田舎」のイメージはあります。それを可能にしているのは、TV等によってもたらされる情報であり、そのイメージはステロタイプなものです。では何故、彼らからしてみれば実感のない、そのようなステロタイプな「田舎」が、都市圏に在る自らの「実家」よりも優位に立つのか。それはつまり、我々が「田舎」に何を感じているのか、という点に尽きます。我々は「田舎」という一種のフィルタを通して、その向こう側に「自然」を見て、感じ取っているのではないだろうか、そんな風に思います。もっと言ってしまうのであれば、こうも言えるでしょう。僕たちは「夏」に「田舎」で、憧憬の中の「女の子」に出会うことによって、何かを取り戻すことが出来るのではないか。それが何かというのは良く分からないけれど、しかしそれはすごく大事なものである、と。*2


「裸体」「自然」「異性」と出揃ったわけですが、ここで安易に「だから、『透明感』とは僕らの野生の本能に働きかけるものなんだ!」と本能論には持っていきたくありません。人間が自らの本能を抑制しつつ人間として歩み始めてからもう気の遠くなるような時間が過ぎているわけで、ここで本能を持ち出して結論とするのは余りにもナンセンスであると言わざるを得ません。しかし、その残滓的な形で、先述した「透きとおるような肌」という比喩につながるような感覚が我々に残っているのも、また確かではあります。
これだけうだうだと御託を並べておきながら何なのですが、結局「透明感」の明快な解釈は出来ずじまいでした。「透明感」とはつまり「透明感」ということであって、それしか補うべき言葉が見あたりません。*3 ただ、やはりそこには他と違う何かがあって、それが我々の胸を打つのだということは、皆さん経験されていることであり、また解っていただけたのではないかな、と思います。


しかし、どうしても何かキモチワルイ、喉の奥になにかこうつっかえた感じが嫌だ、という方の為に。遡及的に「透明感」という言葉に挑んでみるならば、それは「『少女』の『少女』たる要因」であると、こう言うことができると、僕は考えます。漸く、戻ってきました。
「少女」とは一般に言えば年少の女子を指します。未成年の女子と言い換えることも出来るでしょう。ところで、未成年の女子を指す言葉は、「少女」の他にも様々あります。女の子、女子、幼女…。それぞれ違う言葉である以上、そこには使い分けがあって然るべきなのですが、どうも渾然一体としてしまっている観は否めません。まあ無理もないかなとは思うのですが。*4 ここではそれぞれについてその相違を検討していくことはせず、「少女」と「その他」の違いを考えようと思います。
「少女」という語の持つ清新さが、他の同義語に比べ群を抜いていると感じるのは僕だけではないと思います。爽やかで、鋭くて、それでいて哀切さのある。繊細で複雑な印象を受けます。その要因は何かと聞かれれば、「少女」の指す対象時期の問題が多分にあるのではないかと思います。「幼女」という語は、そのような点で「少女」とは相容れません。*5 「少女」の語の対象として大方の賛同を得られるであろう時期は、おそらく就学前後〜高校生あたりまでではないでしょうか。この時期はまさに、肉体的にも精神的にも成長する、変化していく時期です。その変化の仕方は人それぞれですが、その中で「少女」と呼ぶに相応しい条件は、やはり凛とした透明感―それはつまり少女期以前に構築された「何か」―を持ち続けている事です。その成長期以前にある「何か」が、変わらないそのままの形で、成長してゆく肉体・精神に内包されるからこそ、そこに繊細で複雑なものが構築されるのだと思います。「何か」は、誰もが成長の過程において(忘れる、もしくは喪失する、という形で)手放していく傾向にあるものだと思います。これは本来青春期に手放す事が多いのではないかと考えていますが、近年では思春期において手放してしまう感が強いように思います。

*1:http://www.lotte.co.jp/products/brand/xylitol/cm/index.html

*2:ここの行、なんだか「A I R」シリーズ(ソフトハウスのKeyが発売したゲームソフト)の設定に似ているんだけど?、と言われそうですが、インスパイアされたわけではありません。むしろ当初成年指定作品として「A I R」シリーズが「夏」「田舎」ということをテーマに組み込んでいるということは、ある種ここで述べた事項の反証と成りうるとも言えるのではないでしょうか。ちなみに、「鳥の詩」は名曲だと思います。杉田かおるの方じゃなくて。

*3:あくまでアイドル、及び女の子を表現する上での「透明感」という言葉に対して、という事です。念のため。

*4:明確に別事象を指しているのならばともかく、同じ対象に対するニュアンスの違いなので、そのあたりの使い分け方は(逆に)個人の裁量に(逆に)委ねられるべきかな、と。よってこの段は僕の感覚が多分に投影されたものとなっていますが、ご了承ください。

*5:「少女」の前段階が「幼女」である、という方程式はあまり作りたくないのですが、ここでは便宜上、一応その様にしておくことにします。

復活。

前回行き詰まってから約1年半弱。
ひとまず、これまで非公開だったものを公開するという形で復活です。

思えば以前は色々行き詰まっていました。
ある種このブログが清涼剤になっていたわけですが、それも結局拗らせてしまって。

…まぁ、難しい話は止しましょう。
ひとまず、再開です。

そんなに頻繁に更新はしないかもしれませんが、ぼちぼちやっていくつもりです。
まずは忘れてしまっていたはてなダイアリー固有の記法をもう一度おさらいしないと。
あとディテールに関しても詰めていかなくてはなりませんネ。細かい所を色々と。

そんなわけで、またよろしくお願い致します。

のほほんと

dolphi2005-08-11

しすぎました。
一ヶ月ぶりの更新です。いやはや、なんともはや。

この一ヶ月のあいだ、色々なことがありました。

今後基本的には週1更新ぐらいでのほほんと更新していきたいと思います。
舌鋒鋭く、とか言おうとしましたが、まあ最初からそんな意気込んでもしゃーないので。


債権(=溜まってるtopix)処理まではややそれよりも速いペースでの更新になるかとは思いますが、まあ無理のない程度に破綻しない程度にやっていくつもりです。

なにとぞよろしく。

予定メモ


そういえば未だに買ってきた『Berryz工房』見てないな…。ビニールすら破ってない。
あといい加減上戸彩考を書かないと。ごみゅん。

すみません。

dolphi2005-07-02

えらく時間があいてしまいました。
特に『℃-uteを考える』を書いて燃え尽きたと言う意識はなかったんですけれども、実際問題として燃え尽きてしまっていたみたいです。そのうえなんだか論考は読みにくいし、申し訳ない限りです。本当に。
月も改まって7月ですね。またぼちぼち更新していきます。
のんびり、のほほんとお付き合いいただければと思います。
もうしばらく連載形式はやめにしようとか思う夏の朝。


id:dolphi:20050620のコメント欄へのご返信
▼natsumi-crazy氏
こっちですみません。
そもそもプロデューサーってのは広報的なものだと思います。特にああいう形のプロデューサー稼業は、多分にそういう要素があると思いますよ。で、natsumi-crazy氏もお察しのように他のプロデューサーよりもいくぶんつんく♂Pは苦労されているのだと思います。敢えて理由は言いませんけども(w。そんなわけで、別につんく♂Pを非難したいわけじゃないんです。
natsumi-crazyさんが仰るように、現場に顔出させといて… ってのはキッズからBerryzへの過程にも見られる、いわゆる昨今のハロプロ「お得意パターン」なので、確かに一理はあると思うんですけれども、どうなんでしょうね。なんか「この期に及んで」って気が拭えないんですよ。石橋を叩いて渡るにも程があるような感じが。だってBerryzのメンバーと同じくキッズとしてそういう出方はずっとしてたじゃないですか、一緒に。なのにこの期に及んで、また新たにそこまでの「浸透期間」が必要なのかなぁ、と思ったりしちゃうわけです。ま、その辺を特に考えないあたりがもうなんか思考停止しちゃってる証拠なのかもしれませんけども。尤も、そのお披露目の舞台をなちコンに(しかも半ば強引に)設定してしまった愚に関してはもうnatsumi-crazy氏の仰るとおりなんですが、それは(w。


あ、makkingkenkenさん、ずーっとお答えできずにすいません。もうちょっとお待ちくださいな。ちょっとそのことについてはまた稿を新たに考えたいな、という気持ちもありますので。

℃-uteを考える(結)

ひとつは、その初ステージの異様さです。Berryz工房の場合、前篇の冒頭にも書いたようにCD発売前にも関わらず、中野サンプラザで大がかりなデビューイベントを行っての、まさに「鳴り物入り」のスタートでした。散々言及しているように、Berryz工房というユニットが「開拓者」である故のこの大がかりなプロモーションであったのかもしれませんが、しかしそれを差し引いてみるにしても、やはり今回の「℃-ute」の初ステージは異様です。「℃-ute」に用意された初ステージは、愛・地球博パートナーシップ事業イベント『熱っちぃ地球を冷ますんだっ。』のうちのひとつである「安倍なつみ 歌とトークの ふれあいコンサート」。これだけなら「まだ」分かります。しかしハロー!プロジェクトホームページの該当イベント詳細*1 を見てみると、

<出演>
安倍なつみ
ゲスト:保田圭ほか(環境省「環のくらし応援団」メンバー)
※出演者、開場、開演時間等は変更となる場合があります。予めご了承下さい。

と(今でも)なっているのみです。どこにも「℃-ute」の文字などありません。
シークレットゲストで… という好意的な解釈は出来なくもないですが、しかしツアーグッズの販売ページ*2 において堂々と℃-uteのグッズや生写真を販売している事を鑑みると、残念ながらこの解釈は成り立ちそうにありません。ではなぜ、「℃-ute」はこのコンサートにおいて初ステージを踏まなければならなかったのでしょう。出演者欄に名前も記されないような、このコンサートで。
ここでもう一度、つんく♂Pのプレスリリースを振り返ってみることにします。

 (前略)
で、では、Berryz工房に所属していないハロー!プロジェクト・キッズをなんて呼ぶか・・・。
いつも迷うのです。
Berryz工房以外??」「ハロー!プロジェクト・キッズの00と00と××・・・」


これは、いかん!
ということで、グループ名を決めちゃいました。
今後の活動の内容はさておき、ここは、とにかく、
安倍のふれあいコンサートにも出演するわけだし、なんか名前を!!!
・・・と思いまして。
 (後略)


http://www.tsunku.net/comments.htm#0611

もうおわかりかと思います。
序篇で僕はこのコメントに対し「そもそも、Berryz工房以外のキッズメンバーを呼ぶのにそんなに迷うでしょうか?(中略)…今回の結成劇は、なにやら根拠の段階から非常にあやふやなようなのです。」と疑問を持ちました。それがこのテクストの始まりであったわけですが、そもそもこの疑問は的外れであったのです。別に非ベリのキッズの呼び方なんて、言ってしまえばこのコンテクスト上ではどうでも良かったのです。実際今まで非ベリキッズを呼ぶときに迷ったでしょうか? そんなに慌てるほどに不便だったでしょうか?
これは呼び方がどうこうと言う問題ではありません。呼び方の問題はあくまで目を逸らさせるギミックに過ぎません。慌てて「非ベリ」の面々を「℃-ute」というユニットに糾合させた理由は、次の一行に尽きます。

安倍のふれあいコンサートにも出演するわけだし、なんか名前を!!!

そして、何故「慌てて」「出演者欄に名前も記されないようなコンサート」で初ステージを経験させねばならなかったのでしょうか。チケットも売れてしまってからの発表と言う事を考え合わせると、この状況は余りにも「℃-ute」のメンバーに酷だと言えます。この「お披露目」は事前から計画されていたものなどではなく、突発的に企画され、そして半ば強引に推し進められた計画である事は一連の不手際、慌しい動きなどから容易に想像がつきます。では事務所、そしてつんく♂Pは何をそんなに焦っていると言うのでしょうか。これに対する答えが、「℃-ute」が「鳴り物入り」などでない2つ目の理由です。


2005年5月1日、モーニング娘。に第7期メンバーとして、久住小春が加入しました。娘。にとっては久々の新メンバーですが、ここで1つ留意しておかねばならないのが、久住小春が1992年7月15日生まれの12歳である、ということです。これをハロー!プロジェクト・キッズの面々に当てはめてみると、

(以下略)
と、メンバーのほぼ半数が久住よりも年齢が上である、という事実が明らかになります。
ここにおいて、ハロー!プロジェクト・キッズモーニング娘。の「境界線」は非常に曖昧になってきたということが言えるのではないでしょうか。それによって、「キッズ」がハロー!プロジェクトにおける「予備軍」的存在から巣立つ時期が来ていた、ということが言えると思います。つまり「ハロー!プロジェクト・キッズ」という「お披露目ユニット」は、メンバーが「Berryz工房」と「℃-ute」というユニットへと展開していった課程で、その役目を終えたのです。*3
尤も、事務所的にはもう少し緩やかなペースでの展開を考えていたのだと思いますが、Berryz工房の(良い意味での)独走により、「℃-ute」結成を早めざるを得なかったのだと想像します。それが今回の歪なデビューの仕方に繋がったと思いますし、結果的には彼女たちのデビューにおける「ベストタイミング」を逃してしまったのだと感じます。


以上、及ばずながら今回の「℃-ute」結成の背景について考察してみました。今回の考察の鍵となる事象の1つに、「Berryz工房の急激な成長」という事があるのですが、その背景は以前書きかけたままほったらかしになっている「ローティーンアイドルは市民権を得たか?」の方に主に譲ろうと思うので(これもまとめ直さなきゃなぁ…)、今回はこの辺で稿を閉じさせていただこうと思います。
もちろん、絶対的に知識が不足していると思いますし、主旨に多分に関係ない論考まで含めたため煩雑な内容になってしまっている反面、必要な論考を後日に回してしまっていたりと至らない点は多々あるかと思いますがそのあたりはご容赦を。皆さんからの忌憚なきご意見をお聞かせ願えればと思う次第であります。


ってか、長っ! 余計な部分大杉でしたね。すみません。


(了)

*1:http://www.helloproject.com/schedule/01/02/list/list-abe.html

*2:http://www.helloproject.com/museum/tour/05_abe_earth/index.html

*3:そういう点で、今まで「ハロー!プロジェクト・キッズ」が有していた役割、ポジションは今後ハロー!プロジェクト・エッグに引き継がれてゆくのだと思うのですが、ハロー!プロジェクト・エッグのメンバーが基本的に非公表であり(一部公表)、まだユニットとしての活動自体が緒に就いていないところをみても、今回の展開が予想よりも早いペースで行われたものであると想像することが出来ます。

℃-uteを考える(後)

dolphi2005-06-20

id:dolphi:20050616:1118963395 からの続き)


あまりだらだらと書き続けるのも得策ではないと思いますので、今回をもって一応の結びとしたいと思います。まだまだ言い足りない部分や、舌っ足らずな部分はあるとは思うのですが、その辺りはまた後日、別稿にて補完したいと思います。少々長くなるかもしれませんが、どうぞ最後までおつきあい下さい。


前稿ではBerryz工房以前のローティーン・アイドルユニットについて、「何故どのユニットも瓦解してしまったか?」という問題意識の元、「Z-1」を事例としてその原因はどこにあるのかということを検討しました。そして「バランスの崩壊」という点をその要因の一つとして挙げたわけですが、しかしこれはある種当然のことであると言えます。言い換えるならば、それまでのローティーン・アイドルユニットはその性格上、ユニット全体としての成功は不可能であったということです。
…やや展開が飛躍してしまったかもしれません。順を追っていきましょう。
Berryz工房以前の「ローティーン・アイドル」という枠組みは、「アイドル」という枠組みの中に従属的に内包されていたと言えるでしょう。結局そうである以上、「ローティーン・アイドルユニット」は将来の「アイドル候補生」達の、良く言えば「登龍門」、悪く言えば「溜まり場」であったわけです。
確かに、彼女たちは魅力的であったかもしれませんが、しかし「候補生」はあくまで「候補生」であるわけです。常日頃から彼女たちのような「候補生」までを能動的にチェックする様な「コア」なファンはつくかもしれません。ですが結局、彼女たちの支持層はそのような限られた範囲を対象にしか広がりません。その枠を乗り越えて、大衆に自らの存在をアピールするまでの力量は、彼女たちにはまだありませんでした。なぜなら、彼女たちはまだ「候補生」であるからです。
このような「候補生」ユニットは今でもちらほら散見されますが、ではこのようなユニットにはどういった目的があるのでしょう。目的もなしにユニットを組ませ、プロモーションをするはずがありません。何か動機があるはずです。
はじめに「その性格上、ユニット全体としての成功は不可能」と書きました。もとより、事務所側がはじめからそのような考えでユニットを組ませたとは考えたくないのですが、結果的にはこれらのユニットは、次世代を担う「候補生」たちの、いわゆる「おひろめユニット」として機能したと言うことができます。業界からすれば、ファン層の狭いユニットとしての存在は(言い過ぎかもしれませんが)いわば「どうでも良い」ものなのです。その「候補生」たちの中から、いかに次世代を担う「アイドル」になりうるべき素材を見つけ出すか、という方に比重が置かれていたのだと思います。つまりBerryz工房以前のローティーン・アイドルユニットというのはユニットとしての成功を目的とした性質のものではなく、業界に候補生たちを「お披露目」するために、言ってしまえば「使い捨て」的に結成されたユニットであった、と言えるのではないでしょうか。*1 *2


さて、先ほどから「Berryz工房以前」と繰り返していますが、では「Berryz工房以後」はどうなのでしょうか。ようやくここに戻ってきました。
そもそも「Berryz工房以前」のローティーン・アイドルユニットについて考察してきたのは、それらが皆「瓦解」しているという事実があったからでした。当然Berryz工房、そして「ハロー!プロジェクト」もその延長線上にあります。しかし、前には書きませんでしたが、実は「ハロー!プロジェクト」はそれまで(Berryz工房結成まで)の段階において、これら「ローティーン世代」の呪縛からは解き放たれているはずでした。3期メンバーである後藤真希の成功により呪縛からの解放は加速し、4期メンバーの辻希美加護亜依の加入でほぼ完了したと言えるでしょう。*3
しかしこれらの「解放」は、モーニング娘。が「ローティーン世代だけで構成されたユニット」ではないという点から、やや擬似的なものでした。その様な点と、『開拓者』と位置づけましたが、Berryz工房においては「ローティーン」でさえないメンバーも交えた、どちらかといえば「アンダーティーン」に限りなく近いユニット―それはこれまでになかった全く新しいジャンル―であった点などが、プロモーション等の先行きにやや不安を与えたのでしょう。それまで「ZYX」や「あぁ!」などの実験的ユニットを経てある程度の手応えは掴んでいたものと思いますが、やはり未知の領域に踏み出すという事への不安感が、冒頭のつんく♂Pのメンバーシャッフル発言に繋がったのだと思います。
では、結果はどうだったでしょうか。


冒頭にも書きましたが、Berryz工房はそんな不安もどこへやら。シングルは7枚目を数え1st写真集も出すなど、その人気には目を見張るものがあります。今、ハロー!プロジェクトの中で最も勢いがあると言っても過言ではないと思います(私見ですが)。8人のメンバーも誰が極端に飛び出るということもなく、8人が8人とも勢いに乗っている、よくよく考えてみると驚異的なバランスのユニットに成長しつつあります。
さて、ここで予定が狂った… のかどうかは分かりませんが、冒頭のメンバーシャッフル発言の背景となっていた構想が、いい意味で打ち破られたということは言えると思います。メンバーシャッフルが、Berryz工房がブレイク出来なかった時のための活力剤的な選択肢として想定されていたのか、それともそこそこにブレイクした際にメンバーを適宜入れ替えることによって、スターティングメンバーの8人だけではない、ハロー!プロジェクト・キッズ自体の底上げを狙っていたのか…。それは分かりませんが、ひとつ言えるのは、事務所の予想よりも遙かに大規模な、爆発的な勢いでBerryz工房の人気が開花したという事です。そしてそれはさっきも触れたように、現行メンバーの絶妙なバランスの上に成り立っていると言えます。当初の言に拘って、その黄金比率を崩す事がどれだけ愚であるかは、さすがに事務所も分かっていたようです。そうして、Berryz工房は過剰なほど順調に人気を得ていきます。しかし、それはまたある種のジレンマを増大させていくということでもありました。ハロー!プロジェクト・キッズの二層分化、という現象です。
Berryz工房のメンバー達が着実に知名度と人気を得ていく中、Berryz工房のメンバーに選ばれなかった、いわゆる「非ベリ」のキッズ達がただ手を拱いていたというつもりはありません。ですが、Berryz工房が「お披露目ユニット」ではない、真の「アイドルユニット」へと飛ぶ鳥を落とすような勢いで成長して行く中、彼女たちはやや「取り残されて」しまっていたと言えはしないでしょうか。前稿の考察を用いて例示するなら、乱暴な例えになりますが、

という等式でそれぞれ表すことが出来るのではないかと思います。厳密には多々違いがありますが、「お披露目ユニット」としての役割を「ハロー!プロジェクトキッズ」が担って(しまって)いる、という考えです。


何にせよ、Berryz工房からは「取り残されて」しまった「非ベリ」のキッズ達。一方のBerryz工房は今夏、初の単独ツアー「初単独〜まるごと〜」を開催するまでに成長しています。その様な中での「℃-ute」結成の発表は、見方によれば自然な流れともとれます。Berryz工房を試金石として、(その成功が充分な形で結実した後に)満を持して残りのキッズを総動員して結成する鳴り物入りユニット、それが「℃-ute」だ、という見方です。
しかし、2つの観点から僕はこのような見方を否定したいと思います。「℃-ute」は決して「満を持して」のユニットでも、「鳴り物入り」のユニットでもないのです。

*1:ただし、これはあくまで結果論であることを強調しておきます。当初から事務所側が(「お披露目」という意識は多少なりともあったにせよ)「使い捨て」的な位置づけでユニットを組んだとは思えないし、またそうであってはならないと思うからです。

*2:これに対してはおそらく初期のSUPER MONKEYSやSPEEDを挙げた反論が出てくると思いますが、彼女たちは純粋な「アイドル」と言うよりは「歌手」であると言った方が適切でしょう。歌手色が強いから範疇外にするという事ではなく、彼女たちにおいては「歌」という誰とも対等に戦えるフィールドに立脚していたという点が異なると思います。そこでは年齢など関係ありませんし、ましてや「候補生」などというものも存在しません。

*3:このあたりについては後日別稿で補足したいと思います。