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第1章 物語映画的な演出とontological realism
第1節 物語映画的な演出に対してのontological realism
 モナコが、「ハリウッドにおける編集の古典的スタイル・・・はなめらかさ、流動性、ぜい肉のなさを特徴」(183)とし、またそれは、

 継ぎ目のないショットの転換を可能にし、目下の出来事(アクション)に注意を集中させるように意図されていた。直接性と出来事の流れとを保つのに役立つものは善であり、そうでないものは悪なのである。(183)

 と述べるような、ハリウッドの物語に対する頑固な姿勢は、「会話場面をマスター・ショットと切り返しショットで編集する厳密な経験的方法」(モナコ 183)と、“the consciousness of one or more central characters”(カーニー 77)を中心として利用するという基本的な概念、つまりジル・ドゥルーズGilles Deleuzeの指摘する「カメラが「見る」ものが客観的であり、人物が見るものが主観的となっている」(206)慣例に裏付けられる。
こういった決まり事に守られてきたハリウッドの物語映画的な演出における「なめらかさ、流動性、ぜい肉のなさ」(モナコ 183)に対立するものとして、『フェイシズ』において先ず明らかなのは、クヴァロスの指摘する“Cassavetes’s refusal to proffer an explanation of the motivations guiding the characters’ outbursts and actions”(48)であり、カーニーが繰り返し指摘する“veiling”(79)である。クヴァロスは『フェイシズ』序盤における、リチャードRichardとフレディーFreddieがコールガールであるジーニーJeannieと共に、酔っ払って騒ぎながら彼女のアパートへ入り、その高揚した気分のまま3人が会話するシーンを例にとり、“we are not sure of the degree to which Richard and Jeannie know each other or even if they have met before.”(48)とした上で、“narrative back-story”(48)の不在を指摘し、その結果として“we move forward, not in a position of knowledge, but tethered to the moment-to-moment revelations of the camera.”と述べる。ここで言い表されている“moment-to-moment revelations of the camera”とは、まさにモナコが物語映画の演出について述べるときの「ぜい肉」(183)という弊害に相当し、ここには、古典的ハリウッド流の、「出来事の流れ」(モナコ 183)と物語が共に支え合う関係、言い換えれば、物語に意味づけられた出来事や、物語を補強するための出来事はなく、物語に意味づけられていない出来事、もしくは物語を補強しない出来事、つまり単なる出来事があるのみである。

Cassavetes’s use of a telephoto lens in this scene, and elsewhere in Faces, brings us extraordinarily close to the actors and their expressions. At the same time, however, the flatness of the image also generates an equally powerful sense of distance or detachment. The shallow depth of field and the presence of bodies blocking our view of the women render the scene fluid and open to a range of influences and impositions.(44)

第2節 ontological realism に対するtheatricality

 Despite the apparent naturalism of its settings, Faces illuminates an approach to cinema that is highly conscious of its own procedures and process. This awareness is manifested during the prologue, which sets up−without developing−the suggestion of a film-within-a-film framework in which the characters watch themselves perform.(51-52)

第3節
エルセサーが、“Citizen Kane (as with all fiction films)attempts to negate or go beyond its direct, automatic, mechanical recording of reality.”(201)と、フィクションにおいてまでも“ontological realism”を主張するバザンに疑問を抱くとき、またベラ・バラージュBéla Balázsが、「自然に対するあのかんじん要の主観的関係をつくり出すために客観的自然に介入すること」(117)こそ、映画という芸術の仕事であると主張するとき、さらにはドキュメンタリー映画作家である森達也が、「表現行為であるかぎり、ドキュメンタリーは客観性やら中立性などとは絶対に相容れない」(225)と、映像の中の現実性に無神論的な態度を示すとき、そこに顕在してくるのはエルセサーが指摘したような、現実から映像へと向かう映画の“linearity”(197)であり、その逆の流れ、つまりバザンが推し進めたような、映像の中に現実を見ることや、映像に現実性を持たせることの意義と可能性は奪われることになるのだろうか。仮にそうであるとすれば、この章の第一節における論立てそのものが脅かされる事になる。その問いへの返答と成りうる映画、つまり“linearity”に対するバザンの逆行の到達点が、リュミール兄弟Auguste Marie Louis Lumière, Louis Jean Lumièreのシネマトグラフであることに疑いの余地はない。たとえ『列車の到着』の現実性が、森による、

ドキュメンタリーの側から言えば、キャメラワークや編集はもとより、その瞬間にキャメラを回しているという行為そのものが、作り手の行為であり現実への干渉であり加工である。(224)

という主張によって否定されるとしても、ダイ・ヴォーンDai Vaughanがリュミエール兄弟の『港を出る小舟』において、波に襲われた舟の漕ぎ手たちが自分たちの努力を小舟のコントロールに差し向けなければならず、その努力が被写体としての意識を超えてしまったことについて、

 自生的瞬間の挑戦に応じることによって、彼ら自身もその自生性に組み込まれてしまったという事なのだ。・・・それは主役たちをも自らの支配下におさめてしまったのだ。男たちはもはや山師的な自己表現者というよりも、奇跡的なものとして、葉っぱや埃と等しいものとなってしまった。(37)

と述べたときの、この「自生性」を見るリアリズムまでは否定できないだろう。かといって、ヴォーンによって語られる「背景で葉っぱが揺れている」(36)ことや、「小舟が波に襲われたとき」(37)や、「シナリオにはなかった馬のいななき」(40)のような「自生性」(37)は常に自然がもたらすリアリズムであり、ここで扱っている『フェイシズ』はカサヴェテスのフィルモグラフィにおいて極めてロケーションによる撮影の少ない映画である。 

ドゥルーズ

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序論
アメリカの映画監督、ジョン・カサヴェテスJohn Cassavetesについて映画史上で語られるとき、(インディーの本引用)といった言説が広く用いられ、また、ジェイムズ・モナコJames Monacoが

アメリカでは個人的、独立的な作家中心の映画が打ち立てられて後進への道を拓いた。その最初の重要作品のひとつがジョン・カサヴェテスの『アメリカの影』(1960)であった。(258)

と述べるように、(特にこの時期にフランスで始まっていたヌーヴェル・ヴァーグと重ねられ、時に対比される形で、)現在までに展開されてきたアメリカ映画の独立的、作家中心的な映画制作に一つの文脈を求める場合、スパイク・リーSpike Lee、ジム・ジャームッシュJim Jarmusch、ジョエル・コーエンJoel Coenとイーサン・コーエンEthan Coen、ハーモニー・コリンHarmony Korineなどの、やはり独立的と言える映画作家へと繋げられる流れの大きな始点として取り上げられることが多い。結果的にカサヴェテスが流れの始点と成り得た要因については幾通りかの推測が成されるが、特にその中心として考えられるのは、レイ・カーニーRay Carneyが、

Cassavetes understood that his films offered new forms of experience. When we watch them, we are asked to participate in new intellectual and emotional structures of understanding.・・・ Our nervous systems are reprogrammed. Our range of sensitivities is subtly (and sometimes not subtly) shifted. We are made to notice and feel things we wouldn’t otherwise. (2)

と指摘するような、純粋な知覚としての映画体験における新しさ、および異質さである。その新たな体験の一形態としてカーニーは、

From Griffith and Capra to Coppola, Scorsese, and De Palma, the main line of American feature filmmaking uses the consciousness of one or more central characters as the organizing center of the narrative (77)

のように、何人かの登場人物の意識を通して語りに主体を持たせる技法を、アメリカ映画の主流として挙げ、さらにその最たる例としてアルフレッド・ヒッチコックAlfred Hitchcock監督が1960年に制作した『サイコ』Psychoにおける感情移入の効果を導く語りについて、

We enter into and participate in their points of view − optically, psychologically, and intellectually. Hitchcock’s camera has such intimacy with his characters that it not only allows us to see into their hearts, minds, and souls, but often allows us to move inside and look out. At moments, we can virtually be Marion, Lila, or Norman. (77)

とした上で、それに対してカサヴェテス映画においては、

In his work we watch characters not the way we watch ourselves, but the way we watch other people. ・・・ We look at his characters. We eavesdrop on their actions and words, but can’t read their hearts and souls. (77〜78)

と述べるような、登場人物に対する“intimacy”を観客に与えないような語りが優先されるとし、さらには、

The veiling goes on in different ways throughout the films. Not only is our knowledge of interiors blocked (what characters feel, intend, know, or essentially “are”); our view of exteriors also is frequently occluded (our ability simply to see or hear characters or to see or hear what they are responding to). (79)

と指摘している。登場人物の心象内外での“veiling”の実践についてカーニーは、カサヴェテスが1968年に監督した『フェイシズ』Facesを例として挙げ、

At a climactic moment in Faces, after Richard asks his wife, Maria, for a divorce and calls Jeannie on the phone, Cassavetes withholds a close-up of Maria’s face. Her protracted silence and turn away from the camera during and after Richard’s call is much more imaginatively stimulating than her visibility would be. ・・・Characters mention things that happened outside of the space or time of the narrative, whetting the viewer’s appetite to understand them, yet denying him to access to them. (80)

と主張している。この主張自体は正しいように思える、しかしながら、ここでは“whetting the viewer’s appetite to understand them”というような作家主義的な見方がなされており、そもそもカーニーがあらかじめ強調していたカサヴェテス映画における“new forms of experience”は、監督であるカサヴェテスが観客へ提示したものとして、また観客にとっての“new intellectual and emotional structures of understanding”はカサヴェテスから強要されたものとして、見なされている。つまりカーニーの言説上では、映画史上にも置き換えることのできるであろう“Our range of sensitivities”の微かなシフトが、カサヴェテスによって成された、と説明されるにとどまっており、(それがカサヴェテス自身の意図であるかどうかに関わらず、)例えばカーニーの指摘した“veiling”の結果として私たち観客は何を見ることになるのか、つまり、その微かなシフトとはどういった形態で起こるのか、という問題が疎かになっている。さらには、カーニーが、

Cassavetes’ goal is to force a viewer to confront the full complexity of sensory reality for as long as possible before making the simplifying move from perceptions to conceptions. (81)

と述べるときの、“the simplifying move from perceptions to conceptions”は、カサヴェテス映画を前にしては常に避けるべきこととされ、カサヴェテス映画の分析を半ば放棄するように、“Closure and resolution are the enemies. Absolute openness is the ideal. ”80 としている。このように、カサヴェテス映画によって生まれる複雑な形態を持った知覚をむやみに単純化しようとせず、知覚のままにしておこうというカーニーのアプローチに対してジョージ・クヴァロスGeorge Kouvarosは、
Just as worrying, Carney’s writings continue the trend of situating Cassavetes’ work as somehow beyond the reach of debates involving cinematic representation. Such a framing succeeds in sustaining many of the commonplace understandings of Cassavetes as a “maverick” and “radical individualist.” (27)
と、先に述べたようなカサヴェテスの映画史上での立ち位置も含めた懸念を示している。本論ではこれを受けて、『フェイシズ』を主なモデルとして、カサヴェテス映画における特殊な“cinematic representation”の形態を、つまりカーニーが言うところの新たな、異質な映画的体験を、すでに交わされてきた映画における現実感についての諸議論を通して分析する。
また、本論において“the simplifying move from perceptions to conceptions”へ陥るという事態を避けるために、ここでは先ず、本論で繰り返し取り扱うフランスの批評家、アンドレ・バザンAndré Bazinが広義で用いたリアリズム論について捉え直す必要がある。それは例えば、バザン以降の批評家であるパスカル・ボニゼールPascal Bonitzerが、
アンドレ・バザンによれば、二種類の映画作家がいるという。現実を信じる映画作家と映像を信じる映画作家である。たとえばモーリス・ピアラは現実を信じる映画作家といえるだろうし、ゴダールは映像を(映像だけを)信じる映画作家といえるだろう。そこには常にリュミエール的なものとメリエス的なものの対立がある。 (8)
と述べるときに、バザンが一般的には“映像を信じる映画作家”よりも“現実を信じる映画作家”を尊重するような一つの主張のことであり、彼がオーソン・ウェルズOrson Wellesとロベルト・ロッセリーニRoberto Rosselliniとを、
正反対の技術的手段によりながら、両者ともに、ほとんど同じように現実を尊重する《デクパージュ》へと達している。オーソン・ウェルズの空間的深さとロッセリーニのリアリズムへの決意とが、ともに同じように、である。そのいずれにも、われわれは、背景(デコール)に対する俳優の同じような依存関係、カメラの視野の中に現れる全ての登場人物たちに彼らの劇的《重要性》がどうであれ均しく課せられている同じような演技のリアリズムを、見出す。(47)
と結びつける際に、この二者が共有するとされる演出上の要素のことであるが、ここでの捉え直しとは、言わばその“オーソン・ウェルズの空間的深さ”と“ロッセリーニのリアリズムへの決意”を、同じ一つのリアリズムとして片付けるのではなく、もう一度、二種類の現実感として区別することである。
まず、バザンの言う“オーソン・ウェルズの空間的深さ”とは、

古典的なカメラのレンズが場面(シーン)内の様々な場所の上に次々と焦点を合わせてゆくのに対して、オーソン・ウェルズのカメラは、劇的空間の中に同時的に存在する視覚的空間の全体を、同じ鮮明さでとらえてしまう。(30)

とある通り、ウェルズが『市民ケーンCitizen Kane(1941年)の所々で用いたような、ディープ・フォーカスや1シーン1ショットといった技法の、画面内に映る全ての対象への平等さ、つまりトマス・エルセサーThomas Elsaesserが、

Dramatic realism is achieved in the deep-focus, long-take shot because it refuses to separate several planes of action - the actor from the décor, the foreground from the background – since it respects the spacio-temporal unity of the scene. (199)

と説明する“dramatic realism”にあたる言葉である。
次に、“ロッセリーニのリアリズムへの決意”とは、バザンが、“全体的な意思による、現実の全体的な描写”と定義したネオ=リアリズムの中心的存在であるロッセリーニ映画における現実性について説明するために用いられた言葉である。バザンは、ネオ=リアリズムについて、

ネオ=リアリズム的と言われるすべての映画(フィルム)の中に、まだ、見世物的・劇的な、あるいは心理主義的な、伝統的なリアリズムの残滓があります。それらの映画を次のようなやり方で分析することもできるでしょう。すなわち、他のものよりも記録的な現実性の方が勝っているかです。(221)

とした上で、ロッセリーニを、

彼の場合には、文学的なものも、あるいは詩的なものも全くない。お望みなら、言葉の快い意味で《美しい》と言っていいものさえも、全くありません。彼は出来事を演出するだけなのです。 ・・・ あの『ドイツ零年』の少年の、幻覚めいた死への歩み!それは、ロッセリーニにとっては、仕種と変化と肉体的な運動とが、人間という現実の本質そのものを構成しているからなのです。ということは、また、それらの仕種と変化と肉体的な運動とが、様々の背景(デコール)を―その各々がさらにまた通過しながら登場人物を横切ってゆくような背景(デコール)を―横切ってゆくということでもあります。 (221)

と賞賛する。つまり、ここでバザンが強調するのは、登場人物と背景(デコール)とが平等に撮影されている、つまりロッセリーニがカメラの本来持っている記録性を重要視していることである。これにはモナコロッセリーニの『無防備都市』Roma, Citta, Aperta(1945年)について、

ドイツ軍占領下のローマにおいてひそかに計画されたこの映画は、連合軍による解放の直後に撮影された。 ・・・ レジスタンスのリーダーと司祭がゲシュタポに捕えられ殺されるという物語の『無防備都市』は、凄まじい緊張感によって際立っているが、それは制作されたその実際の時と場所から直接に生じたものであった。ロッセリーニは手に入るあらゆるフィルム−それはしばしばリールの撮り残しの分であったりしたが−を用いて撮影を進めた。 ・・・ アンナ・マニャーナとアルド・ファブリッツィを除けば、役を演じていたのは全員素人だった。(250)

と述べるような制作時の状況が深く関係している。つまり『市民ケーン』と『無防備都市』とに共通してあるのが、登場人物と背景(デコール)を引き離さない平等な視点であるとしても、『市民ケーン』の背景(デコール)には『無防備都市』の背景(デコール)そのものが放つ強い歴史性が無く、また、『無防備都市』の演出には『市民ケーン』のディープ・フォーカス及び1シーン1ショットに見られるような、形式そのものによるリアリズムは無い。エルセサーは、バザンを受けて、

Ontological realism restores to the object and the decor their existential density, the weight of their presence. This is achieved by means of the photographic image’s automatic, mechanical recording capacity, which takes a mold in light of reality: ・・・ (199)

と述べ、 “dramatic realism”と“ontological realism”とを以上のように区別しているが、本論では、ここまで述べてきたように、例えば『市民ケーン』が持つようなリアリズムの性質を前者に、『無防備都市』が持つようなリアリズムの性質を後者に、それぞれ分類し、これら二種類のリアリズムの結果として現れる、より包括的な三番目のリアリズムとしてエルセサーが挙げた“psychological realism”(199)の、カサヴェテス映画における形態を検証する。
なお、カサヴェテス映画を用いた“cinematic representation”に関する議論の必要性を主張したクヴァロスは、“ontological realism”的な側面から『フェイシズ』を分析しており、本論の第一章では、クヴァロスの分析をベースとしながら、『フェイシズ』に見られる、物語映画的な演出に対する“ontological realism”について述べ、続く第二章では、クヴァロスが取り上げなかった“dramatic realism”に対しての、『フェイシズ』に見られる空間的不連続性について述べ、“cinematic representation”及び“psychological realism”についての結論へとつなげる。



第一章 物語映画的な演出に対するontological realism



第二章 dramatic realismに対する空間的不連続性



結論

In its most extreme form, Cassavetes’ nonestablishing becomes antiestablishing. 80



参考文献

Elsaesser, Thomas. and Buckland, Warren. “Realism in the photographic and digital image”. Studying Contemporary American Film. London: Arnold, 2002.
Giannetti, Louis. Understanding Movies. 9th ed. 2002. 『映画技法のリテラシーⅠ─映像の法則』.堤和子他.東京:フィルムアート社、2003.
─. Understanding Movies. 9th ed. 2002.『映画技法のリテラシーⅡ─物語とクリティック』.堤和子他訳.東京:フィルムアート社,2004.
Monaco, James. How to Read a Film: The Art, Technology, Language, History, and Theory of Film and Media. 1977. 『映画の教科書─どのように映画を読むか』.岩本憲児他訳.東京:フィルムアート社,1983.

Cassavetes, John, dir. Faces.

Rossellini, Roberto, dir. Roma, citta, aperta.

卒論フライングサロン

doorniatama2007-11-09

第1回 卒論フライングサロン
ジョン・カサヴェテス映画とそのリアリズム〜 

<場所> 新栄カフェ・パルル cafe parlwr
    (新栄と千種の間、少し南) 

<日時> 11月9日(金)通常営業のあと、19時30分から
     ※入場無料です。(飲食のオーダーをお願いします。)

<卒論提出予定の学生> 
立石草太(ジョンのサン、愛知県立大学

トークゲスト>    
新見永治(parlwr、はち)
角田まゆみ(仙台短編映画祭実行委員会)
西出剛大(マルオト、即興音楽家
仁藤由美(名古屋シネマテーク

<内容> 
実際に作成途中の卒業論文(12月20日期限)を通して、参加者がそれぞれに好き勝手な論を交わす、開かれたトークイベントです。
今回で取り扱う卒論は、インディペンデント映画の父と言われつつも、(その難解で硬派なスタイルからか?)未だに語られることの少ない「ジョン・カサヴェテス監督の映画」がテーマ。
彼の熱狂的ファンから冷静なスペクテイターまで、多彩な(意外な)論客を迎え、その夜限りの切り口で話し合ってみます。
カサヴェテス映画に親しみのない方でも、どうぞお気軽におこしください。

<企画> はち、立石草太

嵐さんに会っている時はだいたい疲れている時です、嵐さんは悪くない

doorniatama2007-11-03

早稲田祭2007ライブイベント
「猫楠」

日時:11月3日(土)

場所:早稲田大学西早稲田キャンパス七号館405教室

イベント時間午前10時〜午後五時まで。

入場無料、カンパ制。

<出演>

楽団☆タクマニア。

熊猫深山(村上巨樹+佐藤幸樹)

石橋英子×アチコ

new toledo

ジョンのサン

kleptomaniac+mofomoom

※ジョンのサンは1時30分から。new toledoと石橋さんの間。やったー。


●昆虫キッズ・サクリファイス
「シンデレラの腹の上で逢いましょう」

11月3日㈯
open:17:30  start18:00

西荻窪FLAT

チケット料金1000円+ドリンク代

<出演>
昆虫キッズ

麓健一

馬軍団と馬コーチ(大阪)

ジョンのサン(名古屋)

u+uco

コワルチョフスキー

gasrope

ジャ

doorniatama2007-10-23

『世界』までのジャ・ジャンクー映画における一貫された視覚的テーマとして、画面内の奥行き、カメラから画面外のある場所までの距離、その間での登場人物の移動などが挙げられる。このことは、最初期作である『一瞬の夢』の冒頭、シャオ・ウーが旧友ヨンの結婚式に招待されていないことを知り、別の友人からヨンに電話をかけさせた後、自らヨンのところへ歩いて行くシークエンスですでに確立されている。まず、友人が経営する店舗の立ち退き要請に来た警官から結婚式のことを聞かされるショットではすでに、店の壁から壁への距離を巻尺で計る様子がパンで追われており、その後には、結婚式の準備をしているヨンがいる地点と、ビリヤード台のある地点とを電話による会話でつないだ切り返しショット、そしてヨンが電話をしていたまさに同じ地点の同じ構図までシャオ・ウーが歩いていく移動主観ショットが続き、人物間の距離とその移動にかかる時間が強調される。また、これへの対比としてテレビ、電話、ポケベル、ポピュラー・ミュージックなど現代のコミュニケーションの中心にあるような要素が、向こうから勝手にこちらへ接近して来るものとして何度も画面に登場する。この例としては、「厳打」に関するインタビュー・シーンや、カラオケ・ボックスでの閉塞感、ラスト・シーンの通行人達からの視線などがある。
立ち退き作業を終えてカメラに向かって走ってくるトラックや、賑わう夜の街の風景を、道が伸びるのと平行な角度で撮影することで、「この地点からあの地点への」直線的な距離をシャオ・ウーとその他の登場人物(または社会全体)との距離と重ねて表した『一瞬の夢』に比べ、次作『プラットホーム』はその直線の始点が定まらない群像劇であり、距離というテーマはより重層的な意味を持つようになった。ほぼ全編がオープン・フォームのロング・ショットで撮影されたため、画面内における登場人物たちの重要度が下がり、その代わりに、ロケーション撮影の背景が持つ力が強調された。また、『一瞬の夢』でも見られたような、主人公達を中心とした語りから視点が脱線していくシーンが増えた。例えば『プラットホーム』では、4人の劇団員が中心となって語りが進んでいくことを期待させるが、巡業先でミンリャンが再会した親戚のサンミンや、新たに劇団に加わる双子のダンサーをしばらく追い、またふと主線に戻ってくるような見る側の意識を散らす視点で撮られている。また、『プラットホーム』で新たに加わった要素として女優チャオ・タオによる歌やダンスがある。すでに述べたように、『一瞬の夢』でのテレビやポピュラー・ミュージックは、距離の遠近や、それ自体が持つ伝達能力による移動の不必要性を意味していたように思えるが、本作からジャ・ジャンクー映画に繰り返し登場するようになったチャオ・タオのダンスは、テレビからのニュースやラジオからの流行歌と同じ役割を持ち、それまでの意味に加えて、画面外世界の「代表」、もしくは「誤写」という意味を補足している。つまり、無限に広がる世界を自分の経験的で主観的な領域にまで圧縮して、他者に見てもらい楽しませるダンスという行為は、画面に入りきらない世界を画面内に、しかも主人公達よりも小さい物質として納めるテレビと同じ働きをしている。そして、ジャ・ジャンクーの観客も映画内の登場人物もみな分かっているのは、ダンスやテレビというものが、「これが世界だ」と語りかける反面、「世界そのもの」では決して無いという矛盾ではないだろうか。ここで、ジャ・ジャンクーにおける「世界そのもの」について考えるときに気をつけるべきは、画面外から聞こえる音声と画面内の(例えばテレビやラジオが構図の中に入っていて、主人公がある程度能動的に聴いている)音声との区別である。テレビやラジオという媒介物によって圧縮された音声は、主人公達にとってさほど脅威ではないが、画面外音声の下に配置されると彼らはたちまち無力になる。つまり、展開していくドラマと全く関わりの無い内容の流行歌や共産党のアナウンスが画面外から天の声のように重ねられる事で、スクリーンに納まらないほど巨大なものによってコントロールされているような、抵抗しようの無い残酷な状況に置かれることになるのである。この画面外音声は、中央政府の経済政策によってトップ・ダウンで形成された活気や多幸感に満ちた全体イメージから個人レヴェルで分離していくジャ・ジャンクーの『青の稲妻』までのテーマに、ひとつの表現形式として大きく貢献している。『青の稲妻』の冒頭で、ビリヤード場から出てきた2人の主人公に、宝くじに関するアナウンスが画面外から重なり、そしてカメラと彼らの間を横切った警官達に釣られるようにカメラがパンして、公衆電話での逮捕へとつながるシーンは、画面奥からビリヤード場、主人公達、犯人と警官、アナウンス、という画面外音声を含めた4層で成り立っており、主人公達が画面内で持つ力は極端に弱くなっていることがわかる。
また、『一瞬の夢』で、シャオ・ウーが衰弱したメイメイを見舞ったシーンで見られた、画面の上半分が窓からさす自然光の白によってぼやけていて、下半分に主人公達がその自然光に背を向けてカメラ側を向いて座るような、いわば逆光のショットが、『プラットホーム』から『青の稲妻』にかけて多用され、そのコントラストも強化されていった。ここでの自然光もまた、画面外音声に加え、「世界そのもの」の記号化として読み取ることができる。これは単純に、外世界からの圧倒的な力としての太陽光という解釈もできるが、ここでは、「世界の圧縮」として登場するテレビが人工の光源であるのに対して、「世界そのもの」は画面に納まりきらない自然光に当たると考えることにする。このことは、『青の稲妻』において、「世界の圧縮」たるダンサーのチャオ・タオが外を歩くとき、いつもカーディガンを日除け代わりに使っていることからも見受けられる。登場人物が世界から分離している事を表すシーンとして『プラットホーム』のテレサ・テン