最近の関心事

ニコラウス・クザーヌス その生涯の素描 E・モイテン著
栗田勇著作集 新書館
デリダ『留まれ、アテネみすず書房刊行
性現象事典   小宮卓、 光風社出版
六朝思想の研究 /中島隆蔵/平楽寺書店
共鳴する場へ 日本・フランス現代美術交流 芸術計画Z・A
【大哲学者の根本問題】現代Ⅰ・Ⅱ
中国古代思想論 大浜 晧 (著) 勁草書房 1977年1刷
瀧澤克己著作集
美土路達雄選集
禅と食 小倉玄照、誠信書房
ブレヒト作業日誌 全4巻 河出書房新社 岩渕達治他訳
トマス・アクィナスにおける真理論 渡部菊郎
矢内原忠雄 嘉信 全7冊 みすず書房
神田盾夫著作集
礼の起源と其発達/加藤常賢・著/中文館
レヴィ=ストロース『裸の人2』みすず書房
ガストンバシュラール エチュード 初期認識論集 法政大学出版会
中世の医学― 治療と養生の文化史 ハインリッヒ・シッパーゲス
美学の破壊 ピーサレフとニヒリズム 白夜書房 渡辺雅司
仮想化しきれない残余 スラヴォイ ジジェク
マリオン『還元と贈与』
グラムシ政治論文選集 全3巻 石堂清倫 五月社
テオフィル・ド・ヴィオー/文学と思想/井田三夫
『IC』特集「映像・歴史・メディア」佐藤真 四方田犬彦 今福龍太
多木浩二『欲望からの批評1 視線の政治学』GSファイル
アリストテレス研究 存在と認識の諸問題 藤井義夫著 岩波書店
純粋感情の美学:ヘルマン・コーヘン
ロシア・フォルマリズム論集 詩的言語の分析 現代思潮社
ホーチミン レ・ズアンファン・バン・ドン
反射概念の形成 カンギレム

「三代以上有法,三代以下無法。何以言之?」

これは格調高い黄宗羲「明夷待訪録」の一節ですが、この意気昂然を我々が現代に見いだすとすればE・サイードでしょうか。蘇軾の思治論に天下常患、無財、無兵、無吏とあるが、当時北宋の満朝文武、人材済済なるを、自選舉之格嚴。而吏拘於法不志於功名。つまり、無一人与百姓同悲と断じた姿を彷彿とします。こういった不法之法をヘーゲルの法を読みながら考えさせられることがありました。
彼は続けて言います、「三代之法,藏天下於天下者也」
しかし法的に純粋な力とはそもそも現実の写し身でありながら、それはマイネッケの指摘の通り自然法則型の思惟とは現実に適用されるやいなや死文と成らざるを得ない。ユートピアニズムリアリズム闘争はこうして何度も論じられてきました。しかし、リアリズムは如何なる国家理論をも支持しないというのも事実であり、ユートピアニズム同様リアリズムも現実という事象の写し身たることは出来ないのです。それは形式にしか宿らないものであり、対立を生み出しているこの自然主義実証主義はそもそも哲学史上からみれば同根でした。
法の記述とはそもそも自然学の記述であり、世界の事象を担保しなくてはならない。そして「則ち人間理性である」というモンテスキューを経て、西洋近代の根拠がその信念の下に組み立てられます。それは国家が理念であるからであり、人間がそれによって理念的存在だからである。
何が法を支えてきたかというと、ヘーゲルからは自然と一体になっていた宗教起源的なギリシア精神であるという答えが返ってきます。
それは大きくは戦争の歴史であり、人間の意志が法という歴史の不合理性に対する戦いの経験に慣れた結果です。東洋医学にある猛薬晩求急病の謂いです。

法の自動的調律はアメリカ的肥大となりイスラム圏やその他の法と衝突するのは何故か。それはコルテスやピサロと同じ羨望よりなる恐れです。つまり今日も同様に法に於ける人間規定が常に人間存在を外れていくのは常に法への不信からというよりも自らの人間への不信からといえましょう。
人間は法を疑えません。それはただ絶対知の或いは記号たる言語の「置き換え」「再編」「再生」として認識されるものであるがゆえに宗教問題なのです。政治を力学の延長上に置き、人間の行動原理を一元的な理論で計ろうとする野心的な思考とは近代にあってはその啓蒙の誘惑にありました。
銃器をもって非欧の没落を論じ、歴史進化論を滑り込ませるJ・ダイヤモンド的な図式であったり、動物本能という概念を人間行動のアレゴリーに平行移動する動物的図式、或いは数学的に自然を主人として秩序化するという図式、或いは精神とは脳による物質的変化であり、それらはすべて脳の臓器としての自律器官たる所為であるという脳科学よりなる機械的図式を、これら神学的図式をもって人間が抗えない法として定着させようとする意志です。その神々の深き欲望故に我々をこれほどまでに魅了して已まない。法という神々の戦いに於ける経験が中国では古来より兵法と呼ばれた所以です。

日記をはじめる

惜しむらくはネットの可能性が利用の面で閉じてしまっていることではないでしょうか。
有り得べき前提の欠落が発言の成立に決定的に影響しないことは強みであり、概念が先取されること。
しかし開かれていればこそ、逆に発展という内的企図に未来を奪われ、流れていればこそ、刷新という自我が棹差す外的規範への依存に機会を閉ざしている。

孔曰,文勝質則史。
統一的史観が亡霊のように立ち現れるまさに根本的な批判たらしめてきたもの『「みずから欲すること」は必然的にまだ批判的ではない土壌に根をおろし、それに参与している。たとえその土壌が、前批判的ではなく、まだ前批判的ではないにしても。(増田一夫氏訳・Spectres de Marx)』このメシア的なうねりを我々が何処でいかなる入れ物で受け取るか、これが言語を扱う者にとって焦眉なのです。
有為無為の諍論熾盛とは、社会を肉体化した復亦精神としてこれを古典的方法の下に剥離する。
貞観二年、天下収骸骨の事(旧唐書

芝蘭君子性,松柏古人心


曰雷者,以神用。用莫神於聲,(洵・樂論)
とありますが、我々にとって聞くべき響きを持っている音楽とは何か。
鶴鳴九皐、聲聞于天(小雅・鶴鳴)我々にとってそれは同じ響きを聞く心であり、同じ心であるとは、ギリシア的に言えば善を求める主体としての人間です。天が士を捕らえ、士が天命に聞くという連環を存在、或いは欲望というタームで読み解く時、今日我々がインターネットに欲望することは、ワルソーからの生き残りとして語ることでなければなりません。
龍逢、比干の心とはなんであったのか
蘇秦張儀の術とはなんのためのものか
これが問われる場所を求めて