自殺私見(メガンテ)

時々ニュースで、自殺者が何万人を越えたとか、どこどこで集団自殺が起こったとか、そういうことが話題になる。人々が避けて通ろうとして、なおも頻発してしまうこの話題。世間には、主に2通りの視点がある。即ち、「自殺はよくない」と、「死にたい奴は勝手に死ねば良い」というそれだ。両者とも、一見正反対でありながら、一方は良識者として、もう一方は傍観者として、その‘禍々しいもの’を遠ざけようとしている点において共通している。
自殺は何ら現実的解決を生まないという点で、現実逃避の一種である。しかし、現実を見据えているからこそ、それに絶望してしまったという見方も出来る。私は過去に、12歳くらいで自ら命を絶った少年の詩を読んだ。多くは、稚拙ながら適切な表現で、日常の1コマをスケッチしているものであった。その中に、とても子供のものとは思えない、深い心の闇を覗かせるものがあった。たった3行ほどの詩に、少年の孤独、更には人々の孤独という宿命と、人間存在の空しさがうたい込まれていたのだ。それは、まるで人生というものを達観した人間が記したかのごとく私には映った。いや、本当はその詩ばかりでなく、全ての詩にそのような世知辛さが(程度の差こそあれ)織り込まれていたことと思う。読み進めていくと詩は半分くらいで途切れ、親族や友達、先生による追悼文集となっていたのが印象的であった。
自殺のきっかけとなるものは、突発的な不幸と思われがちだが、実際そればかりではない。現実世界の無常というか、不条理なものへの不満が積み重なり、それに対して無力な己の姿を知ったとき、人は絶望に晒され、「自殺」という選択肢を眼前に見るようになる。ただひとつ言えるのは、普通の人間でも、バランスを崩せばこの様な事態に陥るということである。脳内物質のバランスや、人間関係のバランス、オンとオフのバランスetc. バランスが崩れたときに、普段はシャットアウトされている余計な情報までが流入してしまい、それは大概、悲しみや怒り、そして絶望を余分に惹き起こすのだ。そして正確な判断が出来なくなる。あるものは独善的になり、あるものは悲観的になり、あるものは殺め、あるものは自ら命を絶つ。。。。
そう思えば、人間の心も、絶妙なバランスの上に成り立っているものだと考えることが出来る。人を好きになったり、慈しんだりするのは、それはそれで素晴らしいことだ。しかし、妬んだり、嫌ったりはおろか、それを正当化しようとする自分をも、心の何処かで認めなければならない。要はバランスであり、多くの価値観に触れ、様々な感情を抱くことで、それを調整することが出来る。ときに矛盾に苦しむこともあるが、それを抱えながら、あるいは折衷・止揚させながら、生きていくのが人間だ。何故生きていくのかなんて、青臭い私には未だ解らないが・・・・時間や空間を越えて、多くの人間と関わっていこうとする人間存在の本質が、或いはそう駆り立てているのではないかと思う。

変にシリアスなお題を出してすみません。書きにくかった方もいるかと思います。私も、もっと書きたいことがあったけど、一応自主規制入れておきました。でも、もしよかったら、いつか知って欲しいと思います。感謝とともに、カットした最後の文を添えて。。。。

しかし、私の信頼できる人の描く私というものを取り敢えずは信頼しているし、こうして誰かを必要とし・必要とされる毎日から当分抜け出せそうにないので、相互理解を深めるべく、こうして駄文を書き連ねる日々を(性懲りもなく)送っているのである。