ヴァージン・スーサイズ(asin:B00005HTH1)

あの頃、俺はどんな風にして過ごしてたんだっけな、ということを漠然と考える。キーワードは「あの頃」。
何か理想化してしまう。そしてそのまま時が止まっていればいいのに、などと考えたり。ソフィア・コッポラは、この映画の中で、そういう永遠性と美しさを、過ぎ行く時間の中で見せている。
「宇宙人が存在しない証拠は無い」みたいな命題と一緒で、どちらが正しいか、という議論ではないような気がする。でもそこに渦巻く何かがある。それが怖いし、美しいし。僕の場合は、それが知りたくて、時を歩まずにはいられない。
それと、音楽はAIRなんだ。ローマン・コッポラ監督の「CQ」ではMellowだった。ローマン・コッポラもこっちの映画製作にかなり関わっているから、似たテイストになるのかな。もちろん好きだし、いいのだけど。
特典映像のメイキングを見ていると、コッポラ家総出で製作していたようで。彼ら家族の歩みも、映画のテーマに合わせて相対化してしまう。ここに至るまで、どういう過ごし方をしてきたのだろう?そして、これからどういう風に歩んでいくんだろう?

インストール

上戸彩たんカワイイー。ああいう、これからもずーっと続くと思っていたものが、ある日突然無くなる、しかもそれがごく日常的で個人的なものだったりするというのは、僕がいちばんハマるテーマです。最後には元気ハツラツ!という感じだけど、いいことも、悪いことも含めて、これからも色んなことがあることを見据えている。またひとつ成長したよ。
男の子(神木隆之介)もかわいかった。よく最後までやり通した。偉いぞ!

しかし、予想通り良かったので、本当に良かった。最近、期待が裏切られることが多くて。

仕事はじめ

だというのに、しょてから寝坊。ぎりぎりだった…

ま、それはともかく、その原因は最近の寝つきの悪さにある。
変な夢を見よってからに…。あるバス停(その名称も覚えているが、恥ずかしいので書かない)を下りると、起伏のある野原に、2本が対になったような木々がぽつぽつとある…。そんなところ、全く見覚えも聞き覚えもないのに。

もしかしたら今後の自分の生き方のどこかに関わるかもしれないので、一応書き示しておきました。

過防備都市 五十嵐太郎 中公新書ラクレ(ISBN:4121501403)

盲目的な「セキュリティ」の大合唱が、さらに不安を掻き立て、高度なセキュリティへの要望を人々の心に植え付ける。根本的には、そのことに対する疑いがこの本である。それはわかるのだが、内容はほとんどが現在の事例の羅列。例えばこんな感じで…。

第一章では、「情報管理社会」という視点から、街中にある監視カメラや標識などの実例の紹介。それから、ドゥルーズのスキャニングによる対象の選別でアクセシビリティが決定されるというような理論の紹介(知っている人にとっては、「シングルサインオン」とだけ言えば伝わると思うけど)。
第二章では、自治体レベル、市民レベルでのセキュリティ強化を図る、条例制定や自警団などの活動の紹介。
第三章では、池田小学校の事件などを受けた、学校でのセキュリティ強化の取り組み、その中での「開いた学校」「閉じた学校」というのジレンマに関わる議論の紹介。
第四章では、住宅の中にひとつの付加価値として標榜されるセキュリティの現在の紹介。
第五章では、オウム真理教やスペイン・マドリードのテロなどを引き合いに出して、都市でもテロリズムは起こり得るとして防衛を強化していく各都市の動向紹介。

…それがそれで、ひとつの本の書き方というのならそれでも良い。確かに読み手に対する問いかけもある。ただ、「それは違うんじゃないか」「それではこうなってしまうのではないか」という主張だけでは弱いと思う。現状はわかったとしても、ではどうすれば良いのかを明らかにしていないのだ。
一番最後の方に、「問われるべきは社会構造」として、恐る恐る根本のところを突こうとする。でもそこで書いているのも、他人の引用。だからそれはわかったって。
そこが、この著者の限界で、そのうち消えていくんだろーなーと思わずにはいられない。

虚無への供物(上・下) 中井英夫 集英社文庫

上(ISBN:406273995X
下(ISBN:4062739968

「反推理小説」という筆者の問題意識が、これだけの作品に仕上がったのだと思う。この小説の設定である昭和29年から30年にかけては、近年になく災害や大きな交通事故が多く、殺人事件も多かったようで、著者もそれを背景に据えている。そこには、確かに事件の予兆はあったのかもしれない…。自分自身の関わる範囲を規定しながら、事の起こる帰結をどう捉えるか?起きた事件に関して、どこまでを推理の対象とするのか?結局のところ、何を解き明かせば十分だったのか?
もちろん、そんなものわかるわけはない。しかし、そのような「どうしたってわからないもの」を放ったらかしにするのではなく、それを意識して見据える(別次元の入り口が、ぽっかりと開いていることを見る)ことは、自ずとプロセスを大事にする創造活動に繋がると思う。

植物に関する蘊蓄、黒・白・赤・青・黄の不動の話だけではなく、さまざまな東京の場所に関する知識といった現実世界と、色の名を冠した登場人物や、推理小説の原則といったフィクションの絡ませ方。もともとの問題意識と、こうした絡みを紡いでいったプロセスのひとつひとつが、このような創造の結実に繋がったことに、僕は「あぁなるほど」と感服するほかない。

それにしても、これを読むと、調べれば調べるほどの東京の魔都っぷりが明らかになる。大阪でも、こんなことが同じように考えられるのだろうか…。