<寸感>音楽の話題----- 音大、運弓(1)、運弓(2)、運弓(3)

音楽大学
 イギリスで音楽を学んだ若者たちが結成した弦楽四重奏団がある----- グリラー弦楽四重奏団。確かな技巧で、かつ爽やかな名演を聞かせる。

チェリストの物語

チェリストの物語

 ここのチェリストのハンプトンは、欧州や米国の音楽界の因習に捉われない音楽に関する名著(「チェリストの物語」)を残した。
 かなり辛辣な言葉がある。
◇ 私が音楽大学で学べなかった唯一のものは「音楽」である。
◇ 音楽教師は、早く技術のことは忘れて、音楽の教育に専念すべきである
◇ 批評家は、大嫌い。


 ハンプトンの技巧は優れたものだが、とりわけ冒頭のコメントには驚かされる。音楽教育全般への批判である。音大はどうあるべきなのか。
 これに応えるのは容易ではなさそうだ。
 日本では、まだ芸大、桐朋大が制度的に力を発揮する以前に、父親だけの指導で、オイストラフハイフェッツを唸らせた天才少年/鈴木秀太郎が世に現れた(12歳前後)。その名演は3枚のCDに記録されてい。


● 運弓(1)
 私はヴァイオリンを自作し愛用している。自作する人は少なくないが、それを合奏の場にまで持ち込んで変な音をバラまく人はそう聞いたことがない。かなり厚かましいことではないだろうか。
 楽器制作は演奏のためにある。しかし、現実にはここいらが曖昧で、名器が投機の対象にされていることすらある。そのため名器が死蔵されたり、また不適当な扱いをされるようになるのは残念なことである。
 話はいろいろあるが、例えば、ヴァイオリンと弓捌き(運弓)については、次ぎのことが言えるだろう。


  Vn制作と運弓
◇ ヴァイオリンの表板(柔らかい松)は、2枚の板を貼り合わせてあるものがある。継ぎ目の厚さは僅か 4ミリ(周辺は3ミリ弱)。接着剤はニカワ。
 表板はこれで4弦のかなりの圧力に耐えているわけである。内部では、一本の細い丸木(魂柱)だけが、表板の圧力(音響)を支え、それを裏板に伝えている。かなり危ない話ではないか。
 ヴァイオリンは、ニスを塗られているが、それは表だけのことで、従って湿気、高温、ホコリ、害虫に弱い。暖房の部屋では要注意だが、それと共に、運弓での「フォルテ」にも注意が必要となる。
◇ しかし、弦を発音させるためには、初動の(垂直方向の)「フォルテ」は不可欠。但し、直ぐにその圧力を横に逃がし、その余力を弦の振動を綺麗に持続させる為に、弓を横に弾く必要がある。
 これが「運弓」の一つの意味である。ただ上下させるだけの運動は初心者レベルに留まる。
 テレビや映画で天才ヴァイオリニストを演ずる俳優さんたちの「動き」で、不自然さが隠しきれないのはこの点である。
◇ 上手な「運弓」とは。
 楽器を壊さない配慮を加えつつ、
 同時に、楽器から最善の美音を引き出すためのもの。
 更に、上級者は「ピアニッシモ」の運弓からでも美しい、充実した音を出すことが出来る。


● 運弓(2)
 ヴァイオリン演奏については、世間では閃くような左手指の動きだけに注目が集っているようだが、実際には右手の動きが死命を制する。その割合は7対3 ぐらいである。
 前述のように「ただ上下させるだけの運動」は名演に程遠い。


● 運弓(3)
 運弓は音程(左手指の運指)の正しさによって、その真価を発揮できる。
 運指の正確さは、正しい運弓から齎される豊かな音/和声のなかにあってこそ磨かれるものである。
 私は現在 新設のアマチュア オーケストラ=「ヒューマン ハーモニー オーケストラ」 のお手伝いをさせて頂いているが、ここは私の初めての経験として、練習開始前のウオーミングアップに、ゆっくりとした賛美歌風で和声の豊かな曲の練習を課している。
 素敵なことで、今後に期待すべきものがある。


● 運弓(4)
 アマチュアの世界には世に隠れた才人が少なくないと思われる。
 ヴァイオリニストの多くは、何でもないようにヴイオラを弾くが、これだって市井の人から見れば飛び抜けた才能のように思われることかもしれない。
 あるヴァイオリンの名手は文章道にも長けた文武両道の達人。音楽を超え政治、文化、社会等の各般に及ぶブログでの名筆は、かねてから愛読させて頂いてきたところである。
 その彼が残したブログでの名文のうち「ホラ スタッカートの弾き方」に関する論考は、永久保存に値する研究業績だと思われる。
 どこが凄いのかというと「ホラ スタッカート」の技法は、ハイフェッツのような天才でなければ不可能と言われてきたなかで、彼はアマチュアの身でありながら、鋭意この技法を研究し、遂には達成されたその研究成果をブログに纏められてたからである。
「ホラ スタッカート」という技法は、普通の上向き、あるいは下向きの「一弓」運弓の間に、数十個のスタッカート音(しかも、旋律となっている)を入れ込む手法で、まるで手品/魔法のように見える。
 ヴァイオリンのプロでさえ、これを制覇するのは難しいらしく、ある人は「時間をかけて、弾けるようになったからといっても、どうというものではない」「普通のスタッカート技法で充分対応出来る」と(口惜しそう?に)言っている。
 私は別に口惜しいと思うことはない。この技法を試みるだけでも無駄な抵抗だからだ。
 私の知人(Vn)もかねてからこの技法に興味をもち、その言う所によれば、
 ------ 例えば、普通のスタカートで、上下に細かく動く弓の、たとえば、上向きの動きだけを省略すれば、自然に下降ホラ スタッカートになる(筈である)、と言っている。


 そう、たしかに理屈はその通りなのだが、理想と現実が違うのは世の常。
 ハイフェッツの演奏を捉えた映像のなかに巧みに「ホラ スタッカート」を弾きこなす場面があり、それを驚嘆の目で見ている聴衆が興奮している場面がある。


 彼はプロでさえ辟易するこの難技巧を独力で研究し、論考では「弾けました」として「上向きスタッカート」「下向きスタッカート」に分けて、その技法を解明している。驚くべきことで、アマチュア音楽人の誇りでもある。
(了)。

甘辛談義 2題---- 音楽と食材。

ハイドン:弦楽四重奏曲第17番&第67番&76番&第77番

ハイドン:弦楽四重奏曲第17番&第67番&76番&第77番

● まず甘い/音楽のほうから。
 甘い音楽というものがあるのかどうか分りませんが、聞いていて春風のように快く、気持を和ませる音楽のことです。
 メンデルスゾーンの「歌の翼に」、滝廉太郎の「春」などがそうなのでしょう。
 同じ音楽でも、弦楽四重奏は特異な世界で、批評家が話題にするのは4人の奏者の技巧とか絡み合いのことが多いようですが、折角4人も居る奏者が作り出すハーモニーのことが、とかく忘れられがちのような気がいたします。
 カルテットで温かい和声、つまり春のような甘い響きを作り出すことが如何に難しいことか、を物語っているようです。


 ところが、最近求めたカルテットのCDで何十年ぶりかの感銘を受けました。----- 日本の若手の弦楽四重奏団 「カルテット エクセルシオ」(以下、エクセルシオ)が演奏する「ノクターン」(ボロデイン/弦楽四重奏曲 第2番)とドヴォルザークアメリカ」です。


 音楽仲間うちで何かと話題になるので、若者たちの才気走った演奏だろう、と、つい買ってみたのですが、驚きました。
 全員が桐朋出身で、結成後もう20年もの実績があるとのことですから、手慣れた演奏であるのは当然のこととして、まずそのテクニックが凄い上に、実によく歌う。上向フレーズで、最初デタッシェで始まり、緩急の呼吸よろしく次第にスタッカート気味に転じていくあたりの手際など、感じ入るばかりです。
 これまで聞き慣れていた筈の曲から全く新しい響きと歌い回しが披露され、およそ失敗や曖昧さからは最も縁の遠いファーストヴァイオリンの妙技には絶対の信頼がおけます。現在日本での最も優れた、世界水準を超えた存在か、と言ってよいかと思われました。先年、世界をリードした「東京カルテット」を上回る存在感です。欲を申せば、よく(完璧に)歌うファーストに比べ、ヴィオラ、チェロにもう少し歌が欲しいというところでしょうか。


 実は、数十年前から私の気に入りのカルテットがありました。「イタリア弦楽四重奏団」----- この団体には「黄金の響き」という異名があり、カルテットの本領である「旋律」「ハーモニー」の豊かさを合わせ持った恐らくは唯一の団体として私はかねてから私淑して参りました。------- 特にボロデイン/ノクターンアメリカの演奏において。
 そのハーモニーの豊さは、スメタナにもアルバンベルグにもウイーンコンツエルトハウスにもないものでした。このたびの「セクセルシオ」の演奏で、実に数十年ぶりに「黄金の響き」に再会出来たということになります。


 この団体はファーストの逝去に伴って解散しましたが、その名演を讃え、ファーストのポルテイアーニ氏の名を冠した国際弦楽四重奏コンクールがイタリアで開催されています。例にないことではないでしょうか。
  エクセルシオはいろいろなコンクールで一位入賞していますが、この難関「ポルテイアーニ」でも当然のように優勝しています。エクセルシオの演奏がどことなく「イタリア」のそれに似通った雰囲気を持っているのも故なしとしないでしょう。


 エクセルシオには更なる美点があります。上記の豊かな和声は、特にセカンドヴァイオリンの質の良さによって齎されていることです。例えば「アメリカ」第2楽章にはファースととセカンドのデユエットが多く聴かれますが、それらは何というか、美しい和声を超えた「甘い香り」のような雰囲気を持っています。このような経験は初めてのことでした。


● 次は音楽に関係のない食材の話題です。しかし、普段は眠ってばかりいる私の頭を一発、ドヤしてくれた出来事でした。
 まあ「頭の体操」ということでも、最近、自分の健康に関わることだけに、印象の深いものがあります。


 私は医師からカロリー制限を受けているため、ここ10年ばかりおよそ美食、グルメ、食べ歩きとかには縁のない生活です。友達付き合いも悪くなり、申訳ない次第です。


 私の日常は、すべて薄味でカロリーの少ない、つまり味のない「粗食」というもので、生活から食べる楽しみを除いたものが如何に貧相なものか、よくよく実感させられているのが実態で、それがもう10年も続いているのです。


 最近は考え方も変わり、食事は楽しむものというよりも生活に不可欠な活動の一部と心得て、浮いた時間を他に善用したい----- など一応は殊勝な考えてに落ち着いております。
 同類の健康障害では、食事制限は当然のこと、その直後には時間厳守での自己注射が欠かせない人も少なくありませんから、私などはまあ恵まれたほうでしょうか。
 定年後であることを幸いに、月に2回、かかりつけのクリニックに通うのが生活のパターンになっています。課題の一つに血糖値自己測定というのがあり、これを診察時に見て貰い、その数値がグラフになって、医師から叱られるというのもパターンの一つです。
 その医師から薦められたのが、クリニックに詰める管理栄養士さんからの指導。栄養士さんは医師と繋がったパソコンを見ながら、私に適した食事指導内容を考えて頂き、最近では直接に病院食のような健康食を拵えて、食事しながらの指導を受ける、という有難いサービスを受けております。
 前置きが長くなりましたが、最近頂いた健康食の際に「逆転の発想」とも言うべきものがありました。
 頂いた食事のレシピには食材や料理方法、カロリー、などが書かれてあります。
 そこに驚きの一行!
 味付けに用いた塩、砂糖等は、その後「洗い流す」とあります。
 驚きには2段階ありまして、最初は粗食(味がない)筈の食事に適度の味付けがなされていること、次は、その調味料が洗い流されるという事実。
 大袈裟に言えばコロンブスの卵のようなものですが、粗食/節食に馴らされた者は、頭から「調味料は使ってはいけない」という考えが沁み込んでいるため、そこから「荒い流す」という発想はまず「浮かばない」ものなのです。


 話はたったこれでのことですが、ここまで来るのに10年もかかったと思うと、自分の頭の容量の小ささ、指導教育の難しさ、など多くのことを考えさせられた次第でありました。(了)。

両雄 並び立たず?

 
同格の医師と歴史学者は「 並び立つか」という、些か子供じみた頭の体操である。
 しかし、人の命にかかわるとなると、容易には結論は出せない。


群馬大学病院で8人もの過失致死?と見られる医療事故問題は、何が原因か。
 一人の医師のミスだと疑われているようだが、何故そんな重大ミスが看過されるのか。

 
 医療の世界は、我々の日常から遠い、いわば密室のなかの出来事だから、名作「白い巨塔」(山崎豊子)をもってしてもその実像は分りづらいものがある。


 私の乏しい入院経験での見聞では、医療スタッフの責任体制から見ていかないと真相には迫りにくいものがあろう。
 例えば、こういう立錐はどうだろう。群馬大では「その医師」に全権が任されていて、他が口を挟む余地がなかった------.
普通、通院/入院すると一人の主治医が決まる。主治医は医局等の意見を徴することはあっても、最終的な決定権は彼にあるとされているのであろう。主治医が何人も居ては責任の所在が曖昧になる。
 この意味では「両雄 並び立たず」である。
 私の経験はこうだった。
 胆石の疑いで入院し、担当主治医は熱心に看てくれて、お腹に棲息していると見られ、酷い痛みを齎す胆石を探し出そうとしてくれていた。見付かれば後は手術で除くだけのこと。しかし、どうやっても見付からない。私は時限爆弾を抱えたままで退院を迎えることになった。
 ところが、主治医に口出しをして説得出来る人物が一人だけ居た。上司の内科部長である。部長は自分が直接内視鏡で見てやろう、と提案し、その結果私の石が見付かり、引き継ぎを受けた外科医の執刀で石は除かれ、以後全く後遺症もない。


 病院も人間の世界だから「いろいろと」あるのは当然に推測出来る。
 近くは理研STAP細胞問題もあり、責任の所在が問題となった。STAP細胞騒ぎは直接人の生死には関係しないが(自殺者は出たが)、群馬大の問題は多くのことを考えさせられる問題であり、今後への影響も大きい。


● もう一方の歴史に関わる「両雄」問題。
 これは、歴史小説を趣味とする人には関心があるところかもしれない。

死んでたまるか

死んでたまるか

 近頃、これは面白いと思って読んだ本に「国家の盛衰」(渡辺昇一、本村凌二)がある。
 どこがどう面白いか、というと、
 ----- 普通、歴史書は一人の学者が書くものだろうが、ここでは二人が、小さな見出し(例えば、ローマ衰退の理由)毎に、ほぼ同じような文章を述べる。「同じような」といっても二人の史観や史実の捉え方は少しずつ異なり、例証も挿話も異なる。
 一人の著者が他の史観/史実を排しながら書く文章とは少し赴きが違って、読者にはそこが面白いと感じられることになる。読者は無責任だから、まずは「面白さ」が先に立ち、それが正確であればなお良い、と考えるものだ。

 
 今日買ってきた本は「死んでたまるか」(伊東潤)だが、著者はこう言っている。
 既に歴史の経緯を知っている読者に、出来るだけ納得出来る形で新しいものを提示する。それが歴史の解釈であり、醍醐味である。(了)。

デジタル人間、男料理

● デジタル人間は小成に甘んじる? 
 週刊新潮(15.3.5)に日本の技術力(ノーベル賞授賞関連を含む)を高く評価する成毛眞氏(元 マイクロソフト社長)の寄稿があった。
 '' 日本の「技術の現場」は巨大で精密で夢がある'' ----- 内容はこの題名とおりのものだが、巨大土木工事をも「精密」と評価している点では私も勉強になった。


 面白いのは、いまのベンチャー企業を引き合いに出して、一体に覇気に乏しいのは、世の「デジタル化」で大きな発想が生まれにくくなっているからではないか、としている点である。
 では、アナログの世界と比べてみるとしよう。アナログ人間の例として、スマホを使わず(使えず)、電子楽器ではなく、捉えどころのないヴァイオリンとかの楽器を弾き、ワープロでなく萬年筆で手紙を書き、自転車を愛用する------ そんな人間の頭の中はどうなっているのだろう。
 萬年筆で文章を書いている場合、ワープロよりは遥かに筆の運びは遅いようだが、文章の仕上がりの良さという点では、速成のワープロ文が内容粗略で改稿を繰り返したり、ものの役に立たない恐れがあることから見て、萬年筆派に軍配が挙るのではないだろうか。私はスマホを使ったことがない時代遅れだが、あの小さいスマホの画面に文章を起草して、適切な推敲が施せるとは到底思えない人間である。


 電子楽器はモノトーンの音しか出せないような気がするが、あの扱いにくいヴァイオリンやチェロは、たとえ下手であっても滋味に富んだ演奏が出来るような気がするのだがどうであろうか。頭の中(右脳/左脳)も普通以上の緊張感で複雑な音出しに対応していることだろう。
 学校の宿題の論文を書く場合、パソコンがあればキー操作だけでいろいろな資料を取り出せて、それらを適当にコピペすれば、もっともらしい論文が出来上がる、と言われる世の中である。しかし、それを読まされる側も、ぬかりなく適切なソフトを使って、そのコピペの出所を突き止められるそうだから、そういう世相のなかに生きるデジタル人間の頭は、少々「出来」が違ってきていても不思議ではない気がする。


 更に、成毛氏はこう言っています。
 ------ 技術力の基盤は「年功序列、終身雇用」である。


 味のある言葉ではありませんか。


● 男料理

 私はカロリー制限を受けている身なので、塩分、砂糖、油もの等の取り過ぎには気を付けるようにしている。自分で料理を作ることはあまり無いが、それでも調味料等はなるべく控えるようにしている。従って、美味しい料理というものには既に縁がなく、レストラン、グルメ等の言葉も殆ど死語に等しい。


 先日、行きつけのクリニックに行ってコロンブスの卵! といった経験をさせられた。栄養士さんが栄養指導の実践篇として、低カロリーの模範食を作って食べさせてくれたのだが、調味料を控え目にしている筈なのに、これが私には一流レストランの食事のように美味しく思えた。
 そこでそのレシピを見てみると、調理にはちゃんと塩、砂糖を用い、しかる後にそれらを「洗い流す」と書いてある。
 これはショックだった。私のような素人は、最初から塩、砂糖は使ってはいけないものだ、という頭しかなく、そこからは「洗い流す」という発想が導き出される筈がない。
 コロンブスの卵!
 言われてみれば当り前のことなのだが、自分からは決して思いつけないことであるのが残念。
 やはりプロを立てて、一から教えて貰う必要がある。それらの蓄積がなければ、出るものも出てこないだろうから。


 昔、一度だけ行って止めてしまった男の料理教室がある。
 指示されたエプロン持参で行ってみると、既に調理予定の食材が料理卓に並べられてあり、鍋、包丁、コンロ、調味料、食器類もぬかりなく用意されてある。更に念の入ったことに、ボランテイアの主婦さんたちが大勢いて、料理素人の男性たち十数人をサポートすべく待ち構えている。男たちのなかには、初めて包丁を持つという猛者?もいたが、料理教室の常連もかなり居て、そうした人たちは手慣れた様子でレシピに従って作業を進め、料理クズを処理し、使用済みの食器等を手早く洗って片付けてしまう。せっかく包丁捌きの初歩から習いに来た人も、あれよ あれよ と眺めているだけの場面も少なくなかった。しかし、御陰で予定調理コース は順調に終了し、我々は出来上がった料理を目出度く賞味させて頂くことが出来た。


 私には一つの疑問があった。
 用意された食材を巧みに調理し、美味しく頂く方法は会得出来ても、例えば、冷蔵庫を開けた時、そこにあった食材だけを使って調理する方法まで会得しなければ、料理教室の意義は半減してしまうのではないか。
 現実問題として、一番必要に迫られそうなのは、いま目の前にあるだけの(それしかない)食材から美味しくて満腹出来る食事を作り出す(創造する)技術である。それは無人島に漂着した場合には直ちに役に立つだろう。


 一冊の本がある。「男子厨房学入門」玉村豊男、文春文庫。
 これは、上記の私の疑念に応えてくれる(恐らくは唯一の)貴重な本である。(了)。

高倉、YouTube 革命? 

高倉健の辞世の句 
 世に知られるようになった一句、


 往く道は精進にして、忍びて終り、悔いなし


 私も座右の銘に頂戴しようかと思っているのだが、


 「忍びて、終り悔いなし」なのか「忍びて終り、悔いなし」なのか二説あって、少し迷うところがあった。ところが、最近見たものでは、


「忍びて終り悔いなし」となっていて、これなら悟りに縁遠い素人でも迷うことはない。

 この「精進」や「忍びて終り悔いなし」に関して、人が解説して曰く、
 ーーー これを時間に直しと「1万時間」になるのだと説く。


 例に挙げられた天才モーツアルトは、早くから神童と言われたにも拘らず精進怠りなく、まだ青年らしい客気が残る最初のピアノ協奏曲を作曲するまでには、約3500時間の勉強を経ている、と言う。弦楽四重奏曲にしても若気といったところが抜けきれす、後世、人を驚かせるk.387 以降の傑作群を生み出すまでに、研鑽の日々を重ねたと言われている。


 経済評論家/勝間和代氏は、外資系会社で活躍した身であるのに、語学では苦労し、英語マスターのためには最低ます 1000時間の努力を惜しむな、と力説している。世間では語学に文法は不要だとか、速成は可能である、といった説が蔓延しているのに対する精一杯の反論/正論であろう。
 「1万時間」と比べれば「1000時間」は僅かなものだが、それでも勝間氏の声が世論をリードするには至っていない。文科省も小学校への英語導入には熱心ンだが、一方での国語重視の声には殆ど無関心であるかのようだ。


日本は有難い国で、義務教育以来、一切の勉強を日本語に依拠し、しかもそれでノーベル賞授賞者を多数輩出している。こんな国は他に例がない。
 英語を勉強するのは結構なことだが、海外で出て苦労するのは本人だけで誰も変わってあげることは出来ない。本人だけが苦労するという仕組みになっているから、傍でそう心配することもなかろう。
 私の意見は、学校を卒業するまでに、日本語でしっかりとした考えを持ち、それを海外で活かすためには、社会人になってからでも充分に間に合うだろう、------といったところ。
 つまり、日本語で順序立ててものを話せない人が、英語でスラスラ話せる筈はなかとう、というものである。
 その前には「1000時間」の初期投資(時間)が必要となるが。これをケチると「忍びても悔いは残る」ことになるのではなかろうか。
 「1万時間」だと10年くらいかかる計算になるそうだが「1000時間」は1年くらいだそうだ。80年の生涯と見て、「1年」の苦労は長いのか短いのか、思案のしどころであろう。


YouTube 革命?

持ち重りする薔薇の花

持ち重りする薔薇の花

 
最近、YouTubeの精度が上がり、私の安物パソコンでもなんとか見られるようになった。もっと精度が上がればCDなど買わなくてもすむようになるだろう。しかし、一方で、古いLPレコードの人気が復活したりして、人の好みが一様でないことも分る。
 私としては、いま楽器で練習中の曲がどのようなものなのか、精度は悪くても大体の輪郭が分ればそれでよい。
 いままではYouTubeで視聴出来る演奏は定評のあるプロのものだったが、最近は少し頂けないものも見かけるようになった。------- アマチュア演奏家の投稿演奏である。
 いままで「投稿動画」として人を楽しませてきたものに、アマチュアの演奏が仲間入りしたものだ。
 しかし、これは(残念ながら)頂けないものが多い。プロが丹精込めた演奏でさえ、あれこれと批評(難癖)が加えられるものを、アマチュアの生煮えのものが無傷ですむわけがない。
 アマチュアの天狗たちのなかには、自宅で練習してきて、そのまま本番ステージに臨む猛者も居るので、これはアマチュアのレベルがそこまで上がった、と好意的に理解すべきなのなのかもしれない。その上で、自分たちの演奏が茶の間で視聴する(させられる)人たちの好み、批評に耐えうるものかそうか、一歩退いて考える余裕があれば良いと思われる。


 クラシック音楽は、とかく「理解出来ない」「堅苦しい」「高尚だ」とかの批評を受けてきた。それにコンサート等で聴衆に公開されるのはごく一部で、活動の多くは密室でシコシコと訳の分らぬ高尚なことをやっている------という印象は免れえない。


 YouTubeのお陰でアマチュア音楽の実体が広く世の中に知られ、いままで近寄り難かった「高尚な趣味」が、一般庶民でも楽しめる「普通の趣味」ということが理解されれば、これはクラシック音楽普及の面からも極めて意義のあることと思われる次第。
 天狗の鼻が多少低くなるのは我慢のしどころ、ということになるのだろう。(了)。
 

青い目のアマチュア観、イグノーベル賞、男の発明品

● 青い目のアマチュア観。 
 オジサン、オバサンが年を忘れてジャズ演奏に興ずる姿、1万人の「第九」合唱に深川の芸者さんがあでやかな着物姿で参加する風景、小学生の「第九」演奏、千人のチェロ奏者の大合奏、数え切れないほどのアマチュアオーケストラ公演、さらにはオペラ自主公演 ------ これらは、最早珍しくもない日本の音楽状況だが、はて、これを「普通」とみていいのだろうか。

Not by Love Alone: The Violin in Japan, 1850-2010 (English Edition)

Not by Love Alone: The Violin in Japan, 1850-2010 (English Edition)


海外の青い目にはどう映っているのか----- 最近、外国の女性史家が本を出した。マーガレット メールさんの“Not by Love Alone ; The Violin in Japan, 1850-2010”。極東の日本で何故ヴァイオリンが普及したのか、という問題意識のもとに、日本のヴァイオリン音楽史を概観したもの。従来から、西洋音楽を直接に耳にしたのは織田信長である、など、日本の西洋音楽受容についてはそれなりの論考はあったが、アマチュア音活動にまで触れたのは本書が初めてではなかろうか。


そう、我々はクラシック音楽はプロの専有物ではなく、それを広範なアマチュア層が支えていることを忘れてはいないだろうか。
メールさんについて特筆すべきことは、来日の折は日本のアマチュア弦楽奏者たち(日本アマチュア演奏家協会)と合奏を楽しみ、その経験が著作に活かされていることであろうか。腕前もべ–トーヴェンの後期の難曲をクリアするなど刮目すべきものがある。かつ、日本語の音楽資料を渉猟するなど、すでに音楽は趣味やサイドワークの域を越えている。氏は多くの日本人奏者から(実に日本的な)彼我の音楽演奏体質の違いについて山ほど質問されたそうだが、氏の答えは「個人差」にすぎない、というものであったという。いまや日本からは、優秀な弦楽器奏者が群をなして海外へ輸出される時代なのである。


 氏の著作によって初めて日本のアマチュアの実像を知る、というのは誇らしい事であると同時に、一寸恥ずかしいことなのではあるまいか。氏は近くまた来日し、合奏の機会を与えてくれるかもしれないという。
 仮に会話に不自由があっても、楽譜という世界共通語があるのだから合奏は何時でも、何処でも誰とでも可能である。ただ、演奏の「個人差」------ つまり人によって演奏に上手下手がある、ということだけは俄には改善出来ない。好ましい国際交流には、やはりそれなりの努力が必要である、ということであろう。


● イグノ−ベル賞。
 輝かしいノ−ベル賞の陰にあって地味な存在のように見えるが、科学と人間との暖かい繋がりを実証してくれているのが「イグノ−ベル賞」である。
 本質は真面目な科学的実証に立脚していながら、人に「笑い」と「夢」を与えるのを本懐とする。授賞するには、それなりの深みと、それが笑いを招くものであるなど、ハードルは高いと見る。
 最近の授賞例は、バナナの皮で何故滑り易くなるのか、といった研究であ会ったと思う。


「音楽ネタ」にも関係するが、ある手術を施したマウスの平均寿命は2週間程度であるのに、これにオペラ「椿姫」を聞かせると、数十日に伸びる、という研究が授賞した。椿姫は薄幸な女性であったが、思いがけず人の研究のお役に立てて、しかも表彰までされたことを(マウスとともに)喜んでいることだろう。
 人間の音楽療法にも応用出来るかもしれない。笑う門には福来たる。


● 男の発明品。
 いまや女性の活躍が注目され、担当の大臣かでが置かれる時代とはなった。
 男もイクメンが注目されるなど美点はあるが、その他にも目立つものがないでもない。男の発明開発したものについての特集記事を見かけたので紹介してみよう。沢山ありますよ(女性の発案で開発されたものもあるでしょう)。
 (間違っていたら訂正して下さい)。 


 iPS細胞、コンピュータ、インターネット、カメラ、テレビ、ラジオ、映写機、羅針盤、火薬 、ダイナマイト、レントゲン、無線機 、電子レンジ、エアコン、電話機、顕微鏡、望遠鏡、聴診器 、麻酔、抗生物質内視鏡、マイクロサージェリー、マイクロスコープ、ガイガーカウンター 、超音波診断機 、印刷機、拡声器、レコード、CD、DVD、時計、 電子顕微鏡、CT、MRI 、レーザー 、人工衛星、カーナビ、電池、ロボット、高層ビル、耐震建築、防火建築、形状記憶合金、ステンレス 、鋼材、グラスファイバー、カーボン、金属探知機 、溶接機、自動車、電気自動車、ハイブリッカー、飛行機、ロケット、ジェット機、ヘリコプター 、グライダー、水上機、船、潜水艦、ホーバークラフト、スノーモービル、雪上車、ロープウェイ 、ケーブルカー、リニアモーターカー 、新幹線、蒸気機関車電気機関車、電車、オートバイ 、スクーター、自転車、電動自転車、地下鉄、モノレール、エレベーター、エスカレーター 、複写機 、冷蔵庫、洗濯機、扇風機、電灯、炊飯器、乾燥機、電気掃除機、超伝導太陽電池燃料電池、 合成繊維、合成皮革、プラスチック、イオン交換膜、ペースメーカー、透析機 、発電システム。送電システム、信号システム、通信システム、複式簿記 、水道システム 、、下水システム、消火システム、防犯システム、汚水浄化システム、医療システム、 スクーバダイビング、スカイダイビング、パラグライダー、アニメ、映画・3D、三権分立、 免疫療法、ワクチン療法、オペラ/椿姫によるマウス延命器・・等々。 (了)。
 

  本に教わる。高倉健の辞世 

<寸感>  本に教わる。高倉健の辞世 

ローマ帝国衰亡史〈1〉五賢帝時代とローマ帝国衰亡の兆し (ちくま学芸文庫)

ローマ帝国衰亡史〈1〉五賢帝時代とローマ帝国衰亡の兆し (ちくま学芸文庫)

● 小〜大
 いま一番頼りにしている文章指南書は「編集手帳の文章術」(竹内政明)である。
 読売新聞の名物コラム「編集手帳」の著者の本で、名文作成の手の内を明かしてくれている。
編集手帳」は僅か460字で、「産経抄」の690字に比べると、明らかに苦戦しているが、内容の重さに甲乙がないのは流石である。この「流石」のなかに名文作成の秘訣秘伝があるわけだが、おいそれと真似出来るものではない。
 ただ、どの名文も小さい材料を組み合せ昇華させて一流の文章に仕立てる手際は同じらしく、ここらが検討のポイントとなる。


 かってベストセラーとなった「知的生産の技術」(梅棹忠夫)には「こざね法」という作文の手法説明があって、これは有難く借用させて貰っている。これも小さい材料の積み重ねの手法である。
「知的生産の技術」時代にはワープロという利器はなく、梅棹氏は苦労されたようだ。とりわけ文章術で苦労させられるのは「検索」で、いまのパソコンなら、数語を入力するだけで魔法のランプのように何でも取り出せるようになった。つまり、材料を活かす頭の働きがより重要になったということである。


 頭の働きは文体に現れる。文章の材料をゴテゴテと並べただけでは底が浅いと見られる----- ので素人には辛い。
 ある書評で画家/野見山暁児の文章が凄い、とあったので早速「四百字のデッサン」を求めてみたが、確かに人間観察に優れていてエッセイ賞を受けている。材料だけでは賞は取れないことが分った。
 話は繋がって、次ぎに須賀敦子のエッセイを求めてみたところである。


 この正月休み、自分へのささやかなお年玉として新書版の赤いブックカバー(一応 革装仕立て)を求めてみた。いままでは「編集手帳の文章術」が入っていたが、いまは「国家の盛衰」(渡辺昇一、木村凌一)。なにしろ小学校以来マトモに歴史教育を受けたことがなく、日本の中世期は専ら司馬遼太郎の小説から学んだというお粗末さである。
 この本からはいろいろと教わった。
カルタゴとオランダの類似点。 
◇ ローマ、アメリカは建国に際し、アテネに学んだ。
◇ 海戦に破れた国は発展しない。
◇ 国を支えるのは経済力と軍事力である。
アメリカには中世がない。
◇ ローマの興亡史のなかに、学ぶべきすべてがある。


 思い出すのは、かっての大平総理のこと。
 氏が外相だった頃、難しい中国との外交交渉を終えて帰国の機中でのことである。お疲れだろう、と随行員が座席を覗くと、大平外相は寝ているどころか、何やら難しそうな本を読んでいる。
 それはローマ帝国興亡の歴史書であった、というのである。


高倉健の辞世の句
 高倉健が残した辞世の句として知られるようになったのは、高倉が私淑したとされる酒井師から贈られたという、


 往く道は精進にして、忍びて終り、悔いなし


 最初、これは、


   忍びて、終り悔いなし


 -------- か、と思っていた。いろいろと忍ぶものはあっても、最終的には悔いのない生涯に恵まれる〜
 しかし「忍びて終り」が正しいようだ。句読点の違いはあっても、両者は同じようにも思えるが、そこは素人の思案を越えたものがあるようだ。(了)。