小さくて狭い段ボール箱の中は実は結構暖かい。ベランダの外とは違って、冷たい風や雨に襲われなくてすむし、「もしかしたら、一生部屋の中には入れてもらえないんじゃないか」という心配に苛まれることも無い。僕がベランダで泣き叫ぶと、お母さんはすごく怖い顔をした。部屋の中で「うるさい!」と叫んで頭を抱えてしゃがみこんだりもした。そんなお母さんの姿を見ると、僕は悲しくなって余計に涙が止まらなかった。段ボール箱の中なら、僕はお母さんの悲しい姿を見なくてもすむ。きれいなお母さんの顔が見られないのは寂しいし、辛いけれど、僕がここにいる間お母さんは僕の事を怒ったり殴ったりしないから、気が楽だ。
お腹が空いた。最後にご飯を食べたのはいつだっただろう。思い出せない。確か、箱に入れられるちょっと前に、あんまりお腹がすいたからテーブルの上に出しっぱなしになっていた、マヨネーズをチューブから指に出して舐めたっけ。そんな姿をお母さんに見られるわけにはいかないから、ばれないようにちょっとだけ。段ボールって食べられるのかな。新聞紙はインクの味が強すぎてあまり美味しくなかった。この段ボールからは果物のような匂いがする。
お母さんはどこに行ったんだろう。きれいなお母さん。お母さんの髪の毛はきれいな栗色をしていて、さらっと長くて、触るととても気持ち良い。でも、僕が髪の毛に触れるとお母さんは大抵僕の事をひっぱたく。「汚い手で触らないで!」と、僕の事を怒る。たまに怒らないことも有る。お母さんの機嫌が良い時だ。僕は機嫌が良い時のお母さんが何よりも大好きだ。おいしいご飯もお菓子も食べさせてくれるし、一緒にお風呂にも入れてくれるし、僕に笑顔で喋りかけてきてくれるし、抱きしめてもくれる。お母さんはとても良い匂いがする。
お母さんは帰ってきたら、きっと僕の事をここから出してくれる。暖かい布団でも寝かせてくれるし、もしかしたら美味しいものも食べさせてくれるかもしれない。オムツも取り替えてくれるだろうし、今日こそはあの綺麗な髪に触らせてくれるかもしれない。そんな事を考えると、僕は何だか嬉しくなってきた。早く帰ってこないかな、僕の大好きなお母さん。

まっくろい部屋に鍵かけて
ぼくはひとりでないてるよ
何にもできなくなっちゃった
何にも見えなくなっちゃった
かなしいずぼん

遠い昔のぼくらは子供たち

たま/かなしいずぼん

電車の中で一組の母子を見かけた。母親はまだ若くてきれいだった。子どもはおそらく四歳か五歳ぐらい。子どもは窓の外の風景を眺めながら、時折母親に話しかけたり、寄りかかったりしていたのだが、母親はイヤフォンの中の音楽に集中しているのか、子どもの事を完全に無視していた。業を煮やしたのか、子どもは「僕にもそれ聴かせて」と言って、母親の片方の耳からイヤフォンをひっこぬいた。その瞬間、母親は「ふざけんな!」と大きな声を上げると、子どもの側頭部を打った。打たれた子どもは一瞬泣きそうな顔になった後、無表情になって、母親の傍らに座りなおした。祈るように、頭を抱えながら。一部始終を見ていたはずの周りの乗客の中には、誰一人として母親の行動に注意する者はいなかった。彼らのすぐ横に座っていたぼくは、掌の中の文庫本に目を落としたまま何もできなかった。

本文

私が今の大学を選んだのは、尊敬する先生のもとで心理学を履修したいと望んだからです。中学生の頃から心理学に興味があった私は、その時から「将来は北大に入ってあの先生の下で心理学を学び、心理学者になろう」と思っていました。しかし、現在の私は哲学・文化学科に籍を置いて、芸術学を専攻しています。
大学に入った当初は、心理学に関係する授業を多く取っていたし、二年に進級する時も「心理」に進もうかどうか最後まで迷いました。しかし、それでも最終的に「哲学」への道を選んだのは、哲学を学ぶという事に心理学よりも大きな魅力が有ったからです。
哲学とは、前提とする知識を必要としない学問です。言葉を理解して、思考する能力さえあれば幼稚園児ですら哲学者になれるのです。単純かつ深遠な学問。私は、そんな哲学に魅せられてしまったのです。
大学に入って一年と半年。私は実に多くの素晴らしい先生に出会い、自らの思想的な視野を広げてきたつもりです。そして、それと同時に自らの生きる道にも広がりが増してきたように思います。哲学は、満ち満ちて生きるための指標を増やすことができる学問です。哲学を学ぶ、ということは、自らの人生に迷いが生じた時に、それを鮮やかに解決するための手がかりとなる材料を集めていくことなのです。
これから私は、残りの大学生活の中であーー、もう規定字数に達しちった。はい、おしまい。お疲れ様。

前置き

最初は心理学がやりたかった筈なのに、何故か哲学を専攻してます。でも哲学書なんてレポートを書く直前ぐらいにしか読みません(そもそも、本を読まないんで)。一応、専門は芸術学だからドイツ観念論の仔細な歴史とかを理解していなくても何とかなるんですけどね。そんな事を言って自分の怠惰に理由づけをしています。ダメ学生です。
心理学を諦めた理由も、「他の人と一緒に実験をするのが面倒くさかった」からなんですよ。共同作業がすごく苦手で。いや、まあ最初から真剣に心理学がやりたかったわけでは無かったんでしょうね。「他人の心のうちを推し量る」っていう行為に何となく魅力を感じていただけで。
正味な話、勉強とかしてないっす。まともにやってるのは語学ぐらい。
授業料が無駄かしら。親不幸?ぬー。
そうそう、最近恋人ができたんですよ。まるで天使のように可愛いらしい女の子なんですけど。その子と出会ったきっかけってのがちょっと変わってて、俺が作ってるフリーペーパーを見た彼女が俺に興味を持って・・・っていう感じで付き合いが始まったんですよ。で、そのフリーペーパーは大学に入ってできた気のあう友達と作ったものなんで、俺的には「面白いフリーペーパーが作れて、しかもそのおかげで最高の恋人ができた」ってだけで大学に入って良かったとすら思ってるぐらいなんですけど、きっとこんな事を書いたら「不真面目だ」と罵られるんでしょうな。あはは。やあ、別にどうでも良いや。実を言うと、今これを書いてるのと平行して恋人とメールしてて、そっちの方が良い雰囲気なんすよね。課題作文とか頑張ってやる気はほとんど無いっす。でも、それだと他の人らに失礼だしなあ。とりあえず何かそれらしいことを書いてみます。

自殺私見の後の話

他人の価値観や考え方を否定するのは野暮なことだというのは重々承知してはいるんだけど、それでも「人には自分の死を選ぶ権利がある」なんて事を言う人は、どっかおかしいんじゃないかって思う。
「死んだ方がマシな状況」?ねえよ、そんなの。よしんば、有ったとしても、そんなの知らん。死ぬなバカ。今まで一回でも俺の人生に関わった人間は自殺するな。俺が悲しいから嫌なんだ。それ以上の理由なんて無い。
生きてるってことは、命があるってことはそれだけで奇跡的な事で、素晴らしい事で、祝福されるべき事なんじゃないの?違う?俺が言ってることおかしい?ちょっとやそっと悲しい事や嫌な事や絶望的な事が有ったとしても、そんなの「命がある」って事に比べりゃチンカスみたいなものじゃないか。
借金苦?んなもん逃げろ。自殺して逃げるぐらいなら、海外に逃げろ。
失恋?バカかお前。恋なんてしなくても生きていくのに支障なんて無い。
生きてるのに疲れた?じゃあ、休め。びっくりするぐらい休め。
っつうかさあ。生きてりゃ良いじゃん。何よ、死ぬって?俺びっくりしたよ。自殺を肯定する人があんなにいるなんて。挙句の果てには「すごい」だあ?もう駄目。完全に理解の範疇外。理解できないし、したくも無い。正直、そういう事言う人って気持ち悪い。近寄りたくない。
もう一回よーく考えろ。「死」だよ。この世からいなくなっちゃうんだよ。めちゃくちゃ怖いじゃねえか、馬鹿野郎。
百歩譲って「それでも俺は自殺を肯定する」ってんなら、「人には自殺する権利がある」なんて言い方するな。「俺には自殺する権利がある」とだけ言え。手前のふざけた意見を一般化するな。本気で腹が立つから。そういうのって。俺は、自殺する権利なんていらん。そして俺は俺の周りの人間の自殺する権利なんて認めない。「○○君が、そこまで死にたいっていうなら俺はもう止めないよ」だなんて口が裂けても言えない。だって、それって間接的に自殺志願者の背中を押すようなものじゃないか。「人には自殺する権利がある」だなんて言ってる奴は、自分がとんでも無い事を言ってるって自覚しろ。したり顔で命を冒涜するな。
推敲はしない。これは課題作文じゃない。

自殺私見

 小学校の頃からの友人だったN君が自宅マンションの屋上から飛び降りて亡くなったのは99年の6月19日の深夜だった。当時ぼく達は高校二年生だった。翌日行われた通夜には小中学校の頃の彼の友達は大勢駆けつけたけれど、彼が進学した高校の生徒は二人しかいなかったそうだ。N君が高校でどういう目にあっていたのかは分からない。色々な噂を耳にしたが、噂は噂でしか無い。
 N君が飛び降りた屋上には遺書の類は残されていなかったそうだが、代りにある物が放置されていた。ニッパーだ。N君は屋上のフェンスの金網を切るために自宅のニッパーを持ち出したのだ。N君の父親にしてみれば、自分が働いて得たお金で買ったニッパーが、間接的に息子の命を奪ったということになる。
 N君の家族も友達も教師も、N君の自殺を止めることはできなかった。みんながN君を見殺しにしたようなものだ。ぼく達はみんな、間接的にN君の死の原因となっていたのだ。

 
少し、N君がどういう人だったのかを話そう。ぼくが彼と出会ったのは小学校四年生の頃だった。ぼくは転校生だった。彼はそんなぼくに人なつっこく話しかけてきてくれて、ぼく達はすぐに友達になった。
N君は体が小さくてひ弱だったので、小学生の頃からよく休み時間に乱暴な友達に投げ飛ばされていた。とても小さくて軽い彼の体は掴んで投げるには丁度良い大きさだったのだ。中学に上がっても、そんなN君の災難は続いた。最弱王者決定戦と称して、同じぐらいひ弱な生徒と無理矢理喧嘩をさせられたり、不良生徒の覚えたてのプロレス技の実験台にされたり。
ぼくや、他のN君の友達はそんなN君の姿をただ傍観するだけで、彼を助けてやれなかった。厄介な事に巻き込まれたくなかった、というのも有るのだがもう一つ大きな理由は、どれだけ酷い目にあっても彼は常に笑顔だったからだ。その笑顔に安心して、ぼく達は判断を誤ったのだ。
もしかしたら、N君が小学生の頃から笑顔の裏に押し込めてきた怒りや憎しみや悲しみといった感情が、高校二年生になったあの日、遂に暴発してN君自身を死に至らしめたのかもしれない。
もう一度言おう。ぼく達はみんな、間接的にN君の死の原因となっていたのだ。N君はぼく達全員によって殺されたのだ。その代りにN君は、ぼく達の心の一部を殺していった。ぼく達はN君の自殺によって、自分達の中にいたN君を殺されてしまったのだ。ぼくの心の中の、かつてN君がいた場所は真っ黒に握りつぶされて、今でも鈍い痛みを発し続けている。N君は、ぼくの心の一部を殺したのだ。ぼくだけでは無い。今までN君に関わってきた数え切れないぐらい多くの人の心の一部を殺して、この世から消えていったのだ。
ぼく達が心に負う痛みは、N君を見殺しにした罪の跡だ。


N君の通夜の帰り、小学生の頃よく遊んでいた友達数人とカラオケに行った。みんなで、「本来なら、この輪の中にNもいる筈なのに」と思いながら、それを口には出さずにカラオケを楽しむ振りをした。そうでもしないと、一人になった時に襲いかかってくるであろう悲しみや後悔に耐えられそうになかった。

私の宗教論

 初詣マジファック。
 あー、はいはい。クリスマスね。良いんじゃないっすか?楽しそうで。セックスの口実ぐらいにはなりますもんね。
 未だに七五三のシステムってのが分かってないんですけど、あれって男の子が5歳で、女の子が3歳と7歳?逆?どっちでも良いや。いつか生まれてくるであろう我が子よ。肝に銘じておいてほしい。俺はお前のために着物なんて作ったり借りたりするつもりは一切無い。
 や、でもあれは好きですよ。ほら、名前は忘れたけれどカボチャかぶったり、お化けのコスプレして町を練り歩いてお菓子をねだったりする行事が有るじゃないですか。凄く楽しそう。俺もう二十歳過ぎてるけれど、あれはいまだにやってみたい。
 祭りの類って、語源は「祀る」ってぐらいだから宗教的なイベントなんですよね。神や祖先の霊を祀りましょうっていう。それが今やどうよ?お前らただ単に騒ぎたいだけなんちゃうんか、と。「三丁目ちびっこ祭り」だの「団地祭り」だの言語道断ですよ。
 祭りはもう「裸祭り」とか「道祖神祭り」みたいな奇祭以外は全部無くても良い。知ってます?「ひとり相撲」っていう祭りが有るんですって。「人間と精霊の壮絶なる戦い」として村の若い衆が孤独な相撲を取るんですよ。そんな素敵な祭りが21世紀の今でもあるだなんて日本最高。あとアイヌの祭りも良いですな。有名なアイヌモシリなんかはいまやヒッピー気取りの奴らが大麻吸いまくり祭りにしちゃってるらしいんだけど、イヨマンテとかマジ熱い。あれぞまさに宗教。小熊殺しておいて、「これでこの熊も神さまの元に帰って幸せになれる」って本気で喜んでるんだから。
 宗教なんて業が深くてなんぼですよ。
 ヒンズー教カースト制度ってのが有るのはご存知ですよね?その最下層に「ダリット(不可触民)」と呼ばれる人がいて、さらにその下、というよりカースト制の中にすら入れない「もう君ら完全に論外」的な「ハリジャン」って身分の人らもいるんですよ。この「ハリジャン」ってのは、死ぬまで不幸であり続けることを神様から保証されているという身も蓋も無い身分。で、当然そんな人たちを放ってはおけない、と数十年前から「ハリジャン」を改宗させて人並みの生活が送れるようにしよう、って動きがあったんですけど、実際に改宗に応じた「ハリジャン」は少数派だったんですって。俺はこの話を知った時身震いしましたよ。たとえ一生不幸であり続けようとも、神に定められたのならばその運命を甘んじて受け入れられるだけの覚悟があってこそ、「宗教」だと思います。本当に。
 先日、ローマ法王庁が「エイズ感染者は性交の際、コンドームを使用するな。エイズウィルスはコンドームの細かい網目をくぐって相手に感染するから意味が無い」って発言をしたらしいっすよ。カトリックとしては「避妊」という神の摂理に背いた悪魔の技術をなんとしてでも阻止したい、っていう思惑が有るんだろうけれど、その目的を達成することに必死になりすぎて頓珍漢なことになっちゃって。馬鹿らしいっすよね。でも、宗教の本質ってそういうもんだと思いますよ。馬鹿らしいことでも真剣に信じられる一種の魔法。そりゃ信じるものは救われるわ。