見ることの位相 

 「見る」にまつわる単語は多くあります。パソコンの辞書機能で引き出すと、見る・観る・視る・看る、という風に拾い出すことができます。

 「見る」とは、平凡な肉眼への反映範囲とみなしておくとしましょうか。

 「観る」となると、観察的な意識で対象をとらえている姿が浮上してきます。客体としての対象意識がより鮮明化している感触があります。

 「視る」にいたると、凝視的な様相を呈してきます。五感を視覚に際立たせて集中し、感覚している様子がうかがえます。

 「看る」においては、予想を相応にはたらかせながら、自己の対処をいかにすべきかの手立てをもくろむ気配が見えてきます。

 かく、同じく視覚的な反映を前提するものではありながら、人間の主体的な取り組みのありかたの位相が言語的に類別され、そこにまざまざと識別をみていることは、すばらしいことにおもいます。一字でその差異をしめせる漢字のおもしろさがそこにありますが、なによりも、五感のなかで、視覚性が特筆して重視されているありさまがあらためて認識させられます。現実の五感把握において、いかに視覚性が大きく鍵を握っているかということを、それはあらわしているといえるでしょう。

 映像はその視覚性が表現の命です。その対象をいかにながめているのか、見つめているのかという、作り手の眼の奥にある脳髄の働かせ方が被写体の選択のありかたと密接に結びつき、その気配をも反映させながら視覚選択され映像化をはたしていきます。

 で、あるならば、見・観・視・看の類別で、いま自分がとらえようとしている被写体を、どの視界の眼で眺めようとしているのか、そういうことを考えて見るのも、一興以上の価値はありそうにおもえます。

「厄除け詩集」より 

勸  酒   于武陵


勸 君 金 屈 巵

滿 酌 不 須 辭

花 發 多 風 雨

人 生 足 別 離


  コノサカヅキヲ受ケテクレ

  ドウゾナミナミツガシテオクレ

  ハナニアラシノタトエモアルゾ

  「サヨナラ」ダケガ人生ダ




 井伏鱒二の『厄除け詩集』の名訳です。

 ここまでいけば、ほとんど創作と変わりありません。

 じつに、しみじみと心に沁み込む詩文です。

 情景が、さぁーっと頭に浮かんでくる。酒を酌み交わす両者の心情が、ひしひしと伝達されてきます。主観的な語り口調が素晴らしい。そしてカタカナが効果的。「ゾ」の切り落としの凄み。

 何度読んでも、感銘をあらたにさせられます。
 
 ああー、そういう映像が創りてえ。

問いかけ方の大事 

 映画とはなにか。

 この問いかけには大きな落とし穴があります。

 現在の発展形態において体験している映画作品をベースにして、映画の表現性を恣意的に概念化してしまう自分に、無自覚かつ無反省になりがちだからです。

 感動体験の印象にひきずられるあまり、劇映画的表現に偏重して映画的表現性をとらえがちとなってしまっていることには、一般にはほとんど意識さえされない現状です。

 しかし、映画=劇映画ではありません。表現性ということにおいて、劇映画の表現力は、その高峰において、高度の実力をそなえていますし、また劇映画の発展が、映画表現の発展を導いたことは歴史的事実ですが、それはなにも、劇映画=映画という構図で映画をとらえてよいということにはなりません。

 劇映画とはなにかを問うことと、映画とはなにかを問うこととは違います。まずもって、そのことに無反省な人たちが多く見受けられます。

 映画といっても、その位相は多様です。

 ジャンル的にみても、劇映画・ドキュメンタリー映画・コマーシャルフィルム・企業PR映画・実験映画・家庭記録映像などなどがあります。それらの共通的表現性としてくくられる映画一般のありかた、それが「映画」的表現にほかなりません。

 そこには、芸術的な映画もありますし、単純な記録としての非芸術的な映画もあります。ここでいう芸術とは、高度の感動性を媒介させる表現としてのそれを指示するのではなく、その実用表現性に比して鑑賞表現性を優位にかつゆたかにそなえている、ということをあらわしている相対的概念に過ぎません。それはまた表現体験者の主体性においても相対的なものとしてあります。

 この実用的な映画表現の実現も、またひとつの映画のありかたです。家庭的できごとの記録も、人間表現の実用性に重きをおいたありかたのひとつであり、それを映画という概念の枠外におくような映画のとらえかたには、やはり疑問を呈さざるをえません。「映画とはなにか」を問うならばです。

 高度の芸術表現性を問題視して映画を問うならば、「映画芸術とはなにか」と問いかけるべきことです。それは映画表現の特殊性を考察することです。それをあやまって「映画とはなにか」として問いかけ、考えを煮つめて自分なりに答えを導きだしたとしても、それが、映画表現のすべてのありかたに共通する普遍性を見いだすことはなく、映画表現の特殊性を考察したにすぎぬことになります。が、問いかけそのものが普遍的枠組みとしてあるがゆえ、あたかも普遍的な考察をおこなったかのように思い込み、そのことに無自覚ともなりかねません。

 問いかけの自省的ありかたの大切さがそこにあります。

鑑賞表現としての発展 

 鑑賞表現としての映像表現の発展は、劇映画の発展にその多くを負うています。それはある面当然のことといわなければなりません。

 劇は、人間の創造的現実表現のひとつです。劇映画は、その現実を映画的なものとして創出しつつ記録していきます。

 その仕上がりを事前に頭のなかに思い描き、その現実化のプランをきっちりと踏まえたうえで撮影に取りかかることが可能です。

 カメラまえに生じるできごとを撮影都合にあわせて創造し、その動きや光景の感性的ありかたを撮影にあわせてコントロールすることができます。当然、質の高い映像が、ショットとしても、また複雑な構成をもつ表現態としても作品化することができ、それを仕上げる可能性を高くもつことになります。

 さらに劇的構成そのものが、人間にとって、その光景をストーリー的世界のできごととして把握させ、創造世界のなかへと容易に導入させやすくさせもします。

 かくして、劇映画的な表現のありかたが、映像表現の表現的発展を牽引することとなりました。

映像表現の世界 

 映像表現と一口にいっても、じつに幅広い世界です。

 監視モニターに映し出される、なんら手が入ることのない素(す)の映像も、特定場の視覚性を即時的に別の場所に移行させて体験させるという感覚場移動を実現した、人間表現の実用的なありかたのひとつであるということもできるとわたしは考えています。

 これは極端な事例で、それを表現ということには異論が生じるかもしれません。もうすこし映像表現という枠組みでとらえやすい地点にあるものを持ちだしてみましょう。

 家庭の子供の成長を記録することや、ニュース映像、これは記録という映像表現のあり方のひとつです。それを説明する立場に立つか立たないかという構成目的の違いはありますが、現実を現実として記録し、それを観客となる人のために役立てるという点では、同じ役割をになっています。こうした映像表現のありかたは一括して、実用的な側面にウェイトがおかれた実用表現だ、ということができるとおもいます。

 こうした、実用的な表現のありかたも映像表現の一面を占めますから、そうした実用的なあり方を映像表現の枠外としてあつかうことは不当といわなければなりません。しかし、こうした表現性を創作の目的としないということにおいて、それを捨象することはできます。

 わたしたちが映像表現において実現したいとおもっているのは、自分の世界をあらわにしたいということにほかならないのではないかとおもいます。たとえ風景を記録する映像がその素材として用いられたとしても、その風景映像と映像構成のありかたにおいて、自己の感性的世界・自己世界像の映像視覚化の表現をめざして映像表現をおこなうものなのでしょう。

 これは、実用的な表現とは相対的に区別して、鑑賞を目的とする表現と位置づけることができます。

 それゆえ、わたしたちのめざす表現は、鑑賞として価値をもつものとしてのそれだといいえます。これは実用性をもつとともに実現することもできますから、この区別は相対的なものであって、一つの作品がそのどちらかに属すということではありません。そしてそれは、観客との相関関係によって、成立するものですから、その意味でもその価値は相対的なのだといえます。

胃の状態がよくない 

 胃が不穏です。胃壁がすこし爛れたようにおもいます。昨日は調子が悪く、気持がほかのことに向かわずに、臥せり気味に時をすごしました。今日はしっかりと養生をとるようにしたいとおもっています。

 自分をうまくコントロールできていないところに病の根源があるように感じます。しかし、よくよく考えて見ると、コントロールとは一体なんなのでしょうか。だれが何をどうコントロールする、あるいはされているというのでしょうか。

 こういうときは、胃自体にその真相を問いかけてみるほかありません。とはいえ、声が届く相手ではありませんから、胃の痛みの箇所に集中して、その快方がどういう状態なら導き出せるか、その条件をいろいろ自分なりに変え、その変化をうかがうという行為をします。頭の作用であれ、そのイメージ条件を質的に変えることにより、胃の痛みに変化が微量に生じます。それをキャッチするわけです。

 すると、おもわずいろんなことが見えてきます。直接的原因は無論あるわけですが、それは、単なる引き金でしかないことが多々あります。そういう表面的因子でないことに、この際、きっちりと向きあうことができます。

 いやな症状で、それ自体に集中することは重い気分が襲いますが、同一条件での再発が、自己のなにかを克服することでストップしえるとしたら、それがその場で解決のつかないことであったとしてもそれが掴みえたとするなら、それは大変、自分にとって有意義な・貴重な情報を入手したことになります。

 「山より大きいシシは出ない」ということわざがあります。この山より大きいシシを創ったのは自分自身の行為の結果であり、そこから導きだされた妄想ですから、つぎには、この行為や妄想を生じさせるまえにそれを客観視し、その行動(頭の行動も含め)の質を変容させればよいわけです。

 自己の悪いパターンを打ち破る、それを病んだという現実を媒介にたぐりよせられるとき、胃を痛めたことが、遠い将来には、よかったこととして自身に受け入れられるものになります。

 そうありたいものです。あまりにもちっぽけなところに自分がうじうじしている。そう深く感じさせられた、この胃の痛みの現実のむこうにある自分自身の発見でした。

読み返すとおもしろかった 

 お久しぶりです。論争の一件が片付いたので再開です。

 大正四年(1915)、いまから90年もまえに書かれた実用書があります。その書が、いまだに実用性を失っていない。それだけでも、じつに稀有なできごとといわなければなりません。堺利彦の「文章速達法」がその書です。題名どおり文章表現のための実用書で、その復刻が講談社学術文庫に入ったのが1982年。復刻初版からでも優に20余年がたちます。とてもとても息のながい書物です。

 わたしがはじめてこの書物を手にしたのは、86年あたりだとおもいます。そのときは、文章創作体験もほとほと浅く、いい内容の本だとはおもいましたが、ビビッとくるほどのものはありませんでした。最近、読み直して、びっくりしました。これは大変な名著だったのだと感じ入りました。自己の文章実践が、この間ほんの少しばかり積みあがって、その分、以前よりすこしは文章表現に対する意識が向上したのでしょう。

 やさしく書かれているのですが、じつに要素への目配りと配列が巧妙で、骨太い理が地中深く貫徹されています。この様な本は読むにはすこぶる楽ですが、書くにはほんとうに骨が折れるものです。その汗がしたたり見えないところが、ほんとにすごい。感服ものです。

 「談話も文章も同じことで、易いといえば易いが、さて難しいといえばどちらも難しい。つまりはその人々の才力と学問と修業とによることである。」

 さりげなく「才力と学問と修業」と述べてあるが、含蓄がなかなか深い。

 「しかしまた、演説はうまいが文章はまずいとか、文章は上手だが演説は下手だとかいう人がある。これはその人の体質の出来方と修業の仕方とによって、根本の才力と学問とが外に現れてゆく道筋に、便利な方面と不便利な方面とが出来るのである。そこで、演説でも文章でも、非常に上手になろうというには、根本の才力と学問と修業との外(ほか)、特にそれぞれの技術の最もよく適した、生理作用(もしくは心理作用)を持って生れた者でなくてはならぬ。例えば、一流の演説家になろうという人は、何よりもまず声がよくなくてはならぬ。すなわち発生機能の十分な人でなくてはならぬ。文章家の場合においては、演説家の声におけるがごとき、著しい素質の必要を指し示すことは難しいけれど、やはりどこかに、それに適する特別の機能があるに違いない。これを天稟の人という。かような天稟を持って生れた人は、別に修業らしい修業をせずとも、いつの間にか一廉(ひとかど)の名人になっている場合がしばしばある。」

 流れと具体例がバランスよく配列されています。現代的でない言葉づかいはありますが、それは自分で容易に翻訳できる範囲です。

 「しからば天稟のない人は幾ら修業しても駄目かというに、決してそうではない。相当の才力と相当の学問とがあって、それに相当の修業を加えれば、必ず相当の上手にはなれる。時としてはその方が、修業を積まぬ天稟の人より上に行(ゆ)くこともある。そこで根本の才力と、特殊の天稟とは致し方もないが、その外(ほか)にはただ学問と修業とが肝腎ということになる。」

 天賦の才はあるに越したことはないが、後天的には修業が大事。しかしである、

 「しかしまだ一つ問題が残る。右のごとくいうと、天稟が無くて、そして特別の修業をせぬ者には、到底、演説らしい演説はできず、文章らしい文章はできぬということになるであろうか。決してそうではない。特別の修業をしたことのない人でも、ある事柄について十分の知識を有し、十分の理解を有し、十分の感興を有し、十分の熱心を有し、どうしてもそのことが言いたくて言いたくてしようがないという情意を貯え、またどうしても自分がそれを言わねばならぬという地位境遇に立つときには、必ず相当に立派な演説なり文章なりをやってのけることができるものである。もちろん、その演説なり、文章なりには、種々不整頓な点もあるであろう。しかし少々の不整頓くらいは、そんな場合、決して疵になるものではない。かえって疵そのものが当人の誠実を現し、真率を示すことにもなる。」

 のです。じつに目配りとその軽重のバランスがよい。「言いたくて言いたくてしようがない」という内容をもつことがどれだけ大事であるかということが、ストンと理解される構成です。

 映像表現も、まさしくそうなのだといえるでしょう。