リトル・ブラザー

コリイ・ドクトロウ『リトル・ブラザー』(早川書房

情報が一方的に政府によって管理され、抑圧された近未来のアメリカの姿を描いたポリティカルフィクション。小説のタイトルが占めるように、ジョージ・オーウェル1984年』(ハヤカワ文庫epi)へのオマージュ作品である。「日常から非日常への変化」が起こり、自分の身に災厄が襲いかかって時に、恐怖に支配された人たちの反応を皮膚感覚で感じられる小説である。通常、われわれは「基準となる」参照点を持っており、その主観的な参照点をベースに日々の生活を行っている。その基準が大幅な変化がもたらされたときに、僕たちはどのような行動を起こすのか、そのスタンスを問われている。本書は、国家による恐怖をコアにした一方的な情報統制と抑圧のための暴力をテーマに、一人の少年が味わった国家による一方的な抑圧への恐怖への抵抗を描いた快作である。

サンフランシスコ湾でのテロをきっかけに、ゲーム好きな平凡な4人の高校生の人生が百八十度変化してしまう。主人公のマーカスと友人たち3人はゴールデンゲートブリッジを破壊したテロリストの容疑者としてDHSに拘束される。マーカスとほか2人は解放されたものの、幼友達のダレルだけがその後解放されず、行方不明のままになった。DHSによって自分のプライバシーを丸裸にされたマーカスはその恥辱と恐怖心の中、ダレルのためにDHSに対する抵抗を試みる。DHSがまだ手を付けていない領域、Xボックスを改良し、パラノイアリナクスというOSを作り、チャットなどで同調者を募り、DHSに対する抵抗を試みていく。

前提知識として911後にアメリカで起こっている変化について知識があると、この作品の意味がよくわかる。たとえば堤未果『ルポ 貧困大国アメリカI・II』(岩波新書)、『社会の真実の見分け方』(岩波ジュニア新書)、町山智浩アメリカ本などの本を利用しておくとより楽しめる。アメリカ社会の変化は、アルカイダとの戦い(先日殺害されたビン・ラディンが率いている)を大義名分として、さまざまな分野で戦うための兵士を得るために、実に賢いやり方で一般市民や市民予備軍の人々をイラクアフガニスタンで戦う兵士として駆り出した。この日常から非日常への転換による、社会の空気の変化というのが本書の大きなテーマである。

マーカスの父親は「テロに対する対応として政府による統制」を正当化し、セキュリティ強化を問題なしとする。つまり当事者であるかそうでないかによって、それぞれ対応が変化してくる。つまり人は局所的に、皮膚感覚で体感したことについては当事者意識を持ち、敏感に対応することができるが、そうではなければ「他人事」として思考停止に陥ることが多いということだ。社会の情勢がどちらの人々が多いかにより、グランドデザイン自体が変化することがある。その結果、民主主義の制度からは「独裁者の意見」が全体の民意を反映することもありうる。このような状況をドクトロウは、政府による過剰なコントロールに対して、どう立ち上がるのか、多様性をどう保ち続けるのかを一人の少年の抵抗運動に託して描いていく。多数の意見が正しいこともあるが、意図的な操作による多数派の形成は排除されなければならない。マスコミによる情報コントロールが強化されることにより、多様なソースから情報を選択する機会を失われることこそ(ただし、多様なソースから正しい情報を選択できない、という問題もあるがそれはまた別の話)、危惧すべきことであると考える。その結果、意図的な多数派の形成により、悪法も法になりうる。これはソクラテスも言った言葉だが、民意が反映するということはまさにこの危険性も存在しうるということだ。

社会システムと個人の在り方はきわめて難しい問題をはらんでいる。有限資源しかない社会のリソースをどう効率的に配分するのか、問題の原点はそこにある。社会のパイを大きくした後に、どう配分するかは「民主主義」というルールのもとで、決定が行われている。社会のパイを大きくするためには「多数派」を形成する必要があり、情報が統制されるということは意図的に「情報の非対称性」を作り上げるということである。政府と個人の間での情報格差を人工的に作り上げることにより、あるいはかく乱することにより、社会をコントロールすることは民主主義のシステムでは可能であるということは、過去の歴史が証明している。古来より「情報を握る」ことは支配を優越にし、権力者に権威を与える行為でもあった。

また一つ言及しておくと、XBOXをハックする行為でもそうで、企業は情報・技術を独占することで、独占利潤を得ている。ここでXBOXに象徴させたのは、ドクトロウの皮肉でもある。何らかの形で競合社が出ることは、競争の力を利用して質を高めるということにつながるわけで、よりよい技術が生まれる可能性が高い。その意味で本書は、ある主体による「独占」という行為に対するアンチテーゼをテーマにした優れた社会小説であるといえよう。 今の社会を知るうえで、必読の近未来小説だといえる。

リトル・ブラザー



コリイ・ドクトロウ『リトル・ブラザー』(早川書房

情報が一方的に政府によって管理され、抑圧された近未来のアメリカの姿を描いたポリティカルフィクション。小説のタイトルが占めるように、ジョージ・オーウェル1984年』(ハヤカワ文庫epi)へのオマージュ作品である。「日常から非日常への変化」が起こり、自分の身に災厄が襲いかかって時に、恐怖に支配された人たちの反応を皮膚感覚で感じられる小説である。通常、われわれは「基準となる」参照点を持っており、その主観的な参照点をベースに日々の生活を行っている。その基準が大幅な変化がもたらされたときに、僕たちはどのような行動を起こすのか、そのスタンスを問われている。本書は、国家による恐怖をコアにした一方的な情報統制と抑圧のための暴力をテーマに、一人の少年が味わった国家による一方的な抑圧への恐怖への抵抗を描いた快作である。

サンフランシスコ湾でのテロをきっかけに、ゲーム好きな平凡な4人の高校生の人生が百八十度変化してしまう。主人公のマーカスと友人たち3人はゴールデンゲートブリッジを破壊したテロリストの容疑者としてDHSに拘束される。マーカスとほか2人は解放されたものの、幼友達のダレルだけがその後解放されず、行方不明のままになった。DHSによって自分のプライバシーを丸裸にされたマーカスはその恥辱と恐怖心の中、ダレルのためにDHSに対する抵抗を試みる。DHSがまだ手を付けていない領域、Xボックスを改良し、パラノイアリナクスというOSを作り、チャットなどで同調者を募り、DHSに対する抵抗を試みていく。

前提知識として911後にアメリカで起こっている変化について知識があると、この作品の意味がよくわかる。たとえば堤未果『ルポ 貧困大国アメリカI・II』(岩波新書)、『社会の真実の見分け方』(岩波ジュニア新書)、町山智浩アメリカ本などの本を利用しておくとより楽しめる。アメリカ社会の変化は、アルカイダとの戦い(先日殺害されたビン・ラディンが率いている)を大義名分として、さまざまな分野で戦うための兵士を得るために、実に賢いやり方で一般市民や市民予備軍の人々をイラクアフガニスタンで戦う兵士として駆り出した。この日常から非日常への転換による、社会の空気の変化というのが本書の大きなテーマである。

マーカスの父親は「テロに対する対応として政府による統制」を正当化し、セキュリティ強化を問題なしとする。つまり当事者であるかそうでないかによって、それぞれ対応が変化してくる。つまり人は局所的に、皮膚感覚で体感したことについては当事者意識を持ち、敏感に対応することができるが、そうではなければ「他人事」として思考停止に陥ることが多いということだ。社会の情勢がどちらの人々が多いかにより、グランドデザイン自体が変化することがある。その結果、民主主義の制度からは「独裁者の意見」が全体の民意を反映することもありうる。このような状況をドクトロウは、政府による過剰なコントロールに対して、どう立ち上がるのか、多様性をどう保ち続けるのかを一人の少年の抵抗運動に託して描いていく。多数の意見が正しいこともあるが、意図的な操作による多数派の形成は排除されなければならない。マスコミによる情報コントロールが強化されることにより、多様なソースから情報を選択する機会を失われることこそ(ただし、多様なソースから正しい情報を選択できない、という問題もあるがそれはまた別の話)、危惧すべきことであると考える。その結果、意図的な多数派の形成により、悪法も法になりうる。これはソクラテスも言った言葉だが、民意が反映するということはまさにこの危険性も存在しうるということだ。

社会システムと個人の在り方はきわめて難しい問題をはらんでいる。有限資源しかない社会のリソースをどう効率的に配分するのか、問題の原点はそこにある。社会のパイを大きくした後に、どう配分するかは「民主主義」というルールのもとで、決定が行われている。社会のパイを大きくするためには「多数派」を形成する必要があり、情報が統制されるということは意図的に「情報の非対称性」を作り上げるということである。政府と個人の間での情報格差を人工的に作り上げることにより、あるいはかく乱することにより、社会をコントロールすることは民主主義のシステムでは可能であるということは、過去の歴史が証明している。古来より「情報を握る」ことは支配を優越にし、権力者に権威を与える行為でもあった。

また一つ言及しておくと、XBOXをハックする行為でもそうで、企業は情報・技術を独占することで、独占利潤を得ている。ここでXBOXに象徴させたのは、ドクトロウの皮肉でもある。何らかの形で競合社が出ることは、競争の力を利用して質を高めるということにつながるわけで、よりよい技術が生まれる可能性が高い。その意味で本書は、ある主体による「独占」という行為に対するアンチテーゼをテーマにした優れた社会小説であるといえよう。 今の社会を知るうえで、必読の近未来小説だといえる。

エンドレス・ガーデン

片理誠『エンドレス・ガーデン』(早川書房

片理誠さん最新長編。当初その体裁を見て時間がまとまったときに読もうと考えていたのだが、面白くて一気に読み終えた。物語は『ガリバー旅行記』をベースに、何となくテイストが飛浩隆の<グラン・ヴァカンス>とダンテの神曲の展開が、イーガンの『順列都市』あるいは『ディアスポラ』世界で展開される感じの物語、という感じかな。ただし、これだけではく「謎解きの要素」が絡んで、ある種ゲームブック的な感覚で読めてしまう本格SFだった。見えざる小人の国といわれる量子コンピューターによって作成された仮想世界の崩壊を防ぐために、仮想世界の管理OSであるモスと彼女に目覚めさせられた擬似人格である主人公が、住人たちの個人空間である40万もある<不可侵特区>を旅しながら、管理サイドの10個のアクセスキーを見つけるたびに出かけるというストーリー。実に理知的で、知的好奇心を刺激するSFでありました。

システムを管理する10人の不可侵特区に進入し、彼らの望む謎を解き明かすもの。特に第9章の「罪人たちのジレンマ」はマッチングに関する推論アルゴリズムが提示されていて面白い。ファンタジー仕掛けのものもあれば、ミステリー仕掛けのものもあり、<不可侵特区>という区切りをつくり、自然にオムニバス的に魅せることで、最後のSF的収束をもたらしているのは見事。うまく雨燕のメッセージを断片的に(あるいは他の人たちのメッセージをゴースト的に)残すことにより、10個のストーリーに連続性を与え、CLに起こったことを明らかにしていく。ゴーストスキャンされた人たちが、量子コンピューターの中で永遠の生を繰り返す世界。<不可侵特区>(ダンテの地獄篇的、あるいはガリバー旅行記的な個人の嗜好が極端にデフォルメされた世界で)で、10人の知恵者の出す、チューリングテスト的な試練が与えられる。その試行課程はモンテカルロ法的な、多項式時間での解散策の様子を、うまく試行の繰り返しを利用することで、エンドレスな時間の牢獄の様相(ただし多項式時間で解ける感覚)を表現している。

モスとエンデの<青い鳥>(10つのキー)を探す旅は、人々の美意識や選好を極端にデフォルメした世界になっており、多項式時間で解けるとはいえ、実にいやらしいエンドレスな墓場になっている。大局的に見た場合、大数の法則により、試行はある程度、エンデたちの行為は、「正しいアルゴリズム」にあたり、解となる確率に収束していくものの、その繰り返しの感覚こそにエンドレスを感じてしまう。むしろ無限と思われる(ただし、量子コンピュータ自体は有限なので、リソースの限界がある。そのあたりの問題も本書では面白く扱われている)。40万の墓場=地獄をめぐる旅は、改めて人は有限にしか存在を許されていない、と感じさせると同様、つねに何らかの制限が伴うことで、無限への存在となりえることを否定されているのかもしれない。

興味深かった第9章は、囚人のジレンマをベースにした繰り返しマッチングのゲームである。このゲームでは賛美歌の楽譜を5枚得るゲームで、カードの強弱によって楽譜を得ていくというもの。カードの強弱はランダムに与えられ、10人のプレイヤーがランダムに与えられた楽譜5枚を選択するというもの。楽譜が揃えばよいので、順列は考えない(ただし、楽譜が読めなければ正しい賛美歌かどうかがわからないため、そろえることができない。この時点で情報格差が出るため、フェアなゲームではないのだが、とりあえずそれぞれの楽譜に50番目までの番号をつける。正しい賛美歌の組み合わせについて(たとえばここではもろびとこぞりてを1〜5までと番号を振る)と、50組の楽譜から5枚の組を選ぶ組み合わせは、50!/5!(50−5)!である。ある選び方(ここでは、1〜5が揃ったものとする)が決まれば、残る45枚から5枚を選ぶことになる。これを行うと以下のような組み合わせになるので、ものすごい大きな組み合わせになることがわかる。つまり、50C5×45C5×…×10C5なので、そろえるだけでも大変なことになる。またこれにゲームの勝利確率、カードのランダムな配分、ランダムマッチする自分以外の9人が自分の欲しいと思っている楽譜を1枚でも持っている確率とを考え合わせると、ぞっとするような天文学的なゲームになる。

面白いのはこのゲームは「無限繰り返し」ゲームの構造になっているということである(プレイヤーは、条件を満たさなければリンボに戻されエンドレスにやり直すことができる)。そのため、一回きりのゲームであったのであれば囚人のジレンマ構造のままゲームは永久に続けられることになるのだが、無限繰り返しゲームであることに気がつけば、十分に皆が協力してベストな状況になりうる(言い換えればパレート最適な状態にもっていける)ことを示している。ただし、そうするためにはプレイヤー間の情報の非対称性を解消し、「学習効果」を入れることにより、不完全情報ゲームの構造を変えて、ベストな解を得るようなアルゴリズムをエンデは発見する話しであるといえる。不確実な情報をいかに確実に変換していくのか、そのアルゴリズムの探索であるといえる。当初は探索プログラムを打ち込み、様子を見るものの、ランダムマッチする相手もまた学習することに気がついたエンデは、「囚人のジレンマ」の状況を「協力解」に持っていくアルゴリズムを発見した、といえる。その意味で、R・アクセルロットの有名な実験(繰り返し囚人のジレンマの利得構造を持つゲームにおいて、プレイヤー間の戦略で一番利得が高かったのは「相手が協力すれば協力。もし裏切ればそのまま裏切る」という戦略であったことは有名)とも整合的で、興味深い。

もちろんその他の章についても、様々なトリックがあり(人間の認知の限界や、計算能力の限界などを利用した謎など)、こんなエンドレスな状況にはなりたくない、と思ったり。ラストは驚愕な収束の仕方をしていて、正直びっくりした。SFJの「終わりなく、終わりない」とあわせて読むとエンドレスな感覚が(ヒルベルトホテル的な)味わえる一冊。超お薦めです。

エンドレス・ガーデン



片理誠『エンドレス・ガーデン』(早川書房

片理誠さん最新長編。当初その体裁を見て時間がまとまったときに読もうと考えていたのだが、面白くて一気に読み終えた。物語は『ガリバー旅行記』をベースに、何となくテイストが飛浩隆の<グラン・ヴァカンス>とダンテの神曲の展開が、イーガンの『順列都市』あるいは『ディアスポラ』世界で展開される感じの物語、という感じかな。ただし、これだけではく「謎解きの要素」が絡んで、ある種ゲームブック的な感覚で読めてしまう本格SFだった。見えざる小人の国といわれる量子コンピューターによって作成された仮想世界の崩壊を防ぐために、仮想世界の管理OSであるモスと彼女に目覚めさせられた擬似人格である主人公が、住人たちの個人空間である40万もある<不可侵特区>を旅しながら、管理サイドの10個のアクセスキーを見つけるたびに出かけるというストーリー。実に理知的で、知的好奇心を刺激するSFでありました。

システムを管理する10人の不可侵特区に進入し、彼らの望む謎を解き明かすもの。特に第9章の「罪人たちのジレンマ」はマッチングに関する推論アルゴリズムが提示されていて面白い。ファンタジー仕掛けのものもあれば、ミステリー仕掛けのものもあり、<不可侵特区>という区切りをつくり、自然にオムニバス的に魅せることで、最後のSF的収束をもたらしているのは見事。うまく雨燕のメッセージを断片的に(あるいは他の人たちのメッセージをゴースト的に)残すことにより、10個のストーリーに連続性を与え、CLに起こったことを明らかにしていく。ゴーストスキャンされた人たちが、量子コンピューターの中で永遠の生を繰り返す世界。<不可侵特区>(ダンテの地獄篇的、あるいはガリバー旅行記的な個人の嗜好が極端にデフォルメされた世界で)で、10人の知恵者の出す、チューリングテスト的な試練が与えられる。その試行課程はモンテカルロ法的な、多項式時間での解散策の様子を、うまく試行の繰り返しを利用することで、エンドレスな時間の牢獄の様相(ただし多項式時間で解ける感覚)を表現している。

モスとエンデの<青い鳥>(10つのキー)を探す旅は、人々の美意識や選好を極端にデフォルメした世界になっており、多項式時間で解けるとはいえ、実にいやらしいエンドレスな墓場になっている。大局的に見た場合、大数の法則により、試行はある程度、エンデたちの行為は、「正しいアルゴリズム」にあたり、解となる確率に収束していくものの、その繰り返しの感覚こそにエンドレスを感じてしまう。むしろ無限と思われる(ただし、量子コンピュータ自体は有限なので、リソースの限界がある。そのあたりの問題も本書では面白く扱われている)。40万の墓場=地獄をめぐる旅は、改めて人は有限にしか存在を許されていない、と感じさせると同様、つねに何らかの制限が伴うことで、無限への存在となりえることを否定されているのかもしれない。

興味深かった第9章は、囚人のジレンマをベースにした繰り返しマッチングのゲームである。このゲームでは賛美歌の楽譜を5枚得るゲームで、カードの強弱によって楽譜を得ていくというもの。カードの強弱はランダムに与えられ、10人のプレイヤーがランダムに与えられた楽譜5枚を選択するというもの。楽譜が揃えばよいので、順列は考えない(ただし、楽譜が読めなければ正しい賛美歌かどうかがわからないため、そろえることができない。この時点で情報格差が出るため、フェアなゲームではないのだが、とりあえずそれぞれの楽譜に50番目までの番号をつける。正しい賛美歌の組み合わせについて(たとえばここではもろびとこぞりてを1〜5までと番号を振る)と、50組の楽譜から5枚の組を選ぶ組み合わせは、50!/5!(50−5)!である。ある選び方(ここでは、1〜5が揃ったものとする)が決まれば、残る45枚から5枚を選ぶことになる。これを行うと以下のような組み合わせになるので、ものすごい大きな組み合わせになることがわかる。つまり、50C5×45C5×…×10C5なので、そろえるだけでも大変なことになる。またこれにゲームの勝利確率、カードのランダムな配分、ランダムマッチする自分以外の9人が自分の欲しいと思っている楽譜を1枚でも持っている確率とを考え合わせると、ぞっとするような天文学的なゲームになる。

面白いのはこのゲームは「無限繰り返し」ゲームの構造になっているということである(プレイヤーは、条件を満たさなければリンボに戻されエンドレスにやり直すことができる)。そのため、一回きりのゲームであったのであれば囚人のジレンマ構造のままゲームは永久に続けられることになるのだが、無限繰り返しゲームであることに気がつけば、十分に皆が協力してベストな状況になりうる(言い換えればパレート最適な状態にもっていける)ことを示している。ただし、そうするためにはプレイヤー間の情報の非対称性を解消し、「学習効果」を入れることにより、不完全情報ゲームの構造を変えて、ベストな解を得るようなアルゴリズムをエンデは発見する話しであるといえる。不確実な情報をいかに確実に変換していくのか、そのアルゴリズムの探索であるといえる。当初は探索プログラムを打ち込み、様子を見るものの、ランダムマッチする相手もまた学習することに気がついたエンデは、「囚人のジレンマ」の状況を「協力解」に持っていくアルゴリズムを発見した、といえる。その意味で、R・アクセルロットの有名な実験(繰り返し囚人のジレンマの利得構造を持つゲームにおいて、プレイヤー間の戦略で一番利得が高かったのは「相手が協力すれば協力。もし裏切ればそのまま裏切る」という戦略であったことは有名)とも整合的で、興味深い。

もちろんその他の章についても、様々なトリックがあり(人間の認知の限界や、計算能力の限界などを利用した謎など)、こんなエンドレスな状況にはなりたくない、と思ったり。ラストは驚愕な収束の仕方をしていて、正直びっくりした。SFJの「終わりなく、終わりない」とあわせて読むとエンドレスな感覚が(ヒルベルトホテル的な)味わえる一冊。超お薦めです。

化身

宮ノ川顕『化身』(角川ホラー文庫

第16回日本ホラー小説大賞受賞作。3短編が収録された短編集。全体的に印象が薄い印象を持ったのだが、読み終えたら後で考えると怖いなぁと思う短編集だった。表題作よりも「雷魚」の方がジワリとくる怖さがあり、こちらは巧い。「幸せという名のインコ」は曽根圭介風味。「猿の手」の変形ですね。

「化身」は、熱帯のある地域の自力では脱出が難しい池に落ちた主人公が、生き延びるために徐々に環境に適応していく「変容」の過程を描く。人は環境に適応していくというが、その適応の仕方が「ありえるかもしれない」という意味で気持ち悪さがある。ホラーとして読むよりは、生態環境SFとして読むと楽しめるかも。しかしながら皮膚感覚として変容をとらえれば、身体が徐々に環境に適応していく感覚は痛痒感を伴うため、読者を刺激するという意味では十分ホラー作品かもしれない。

雷魚」は、釣りをする少年が出会う不思議な女性にまつわる謎を描く。古典的な展開なのだが、ラストはきれいにまとまっていて、嵐の後の快晴の朝に味わう爽快な感覚がある。少年が釣りをする沼の雰囲気などの日常風景の描写が淡々と続けられる。不思議な女性に「雷魚」を見せるため、淡い恋心を抱いた少年の望みがかなった時に、すべてが収束に向かう。少年の幻想なのか、現実なのか徐々に境目がなくなっていくのは素晴らしい。古典的な展開に則りながらも、「存在」の境界をぼかすことで、怖さを引き立てていると感じた。

「幸せという名のインコ」は、不況に苦しめられるデザイナーの一家が購入したオカメインコ。「ハッピー」と名付けたオカメインコは、ある時主人公に驚愕の事実を伝達する。そして、という展開。「猿の手」の変形バージョンで、当初は純粋な善意だったのが「悪意」に転換する。その転換が「欲」の力によってなされるとき、願いには代償を伴うことになる。ハッピーをどう解釈するかで、ラストはいくつかに解釈される。主人公の願いが歪んだものになった途端、本人においては意図せざる展開が待ち受ける。このターニングポイントの切り替えはうまい、と思った。

ということで、地味な感じながらも日本ホラー小説大賞を受賞しただけあり、おもしろいです。

化身



宮ノ川顕『化身』(角川ホラー文庫

第16回日本ホラー小説大賞受賞作。3短編が収録された短編集。全体的に印象が薄い印象を持ったのだが、読み終えたら後で考えると怖いなぁと思う短編集だった。表題作よりも「雷魚」の方がジワリとくる怖さがあり、こちらは巧い。「幸せという名のインコ」は曽根圭介風味。「猿の手」の変形ですね。

「化身」は、熱帯のある地域の自力では脱出が難しい池に落ちた主人公が、生き延びるために徐々に環境に適応していく「変容」の過程を描く。人は環境に適応していくというが、その適応の仕方が「ありえるかもしれない」という意味で気持ち悪さがある。ホラーとして読むよりは、生態環境SFとして読むと楽しめるかも。しかしながら皮膚感覚として変容をとらえれば、身体が徐々に環境に適応していく感覚は痛痒感を伴うため、読者を刺激するという意味では十分ホラー作品かもしれない。

雷魚」は、釣りをする少年が出会う不思議な女性にまつわる謎を描く。古典的な展開なのだが、ラストはきれいにまとまっていて、嵐の後の快晴の朝に味わう爽快な感覚がある。少年が釣りをする沼の雰囲気などの日常風景の描写が淡々と続けられる。不思議な女性に「雷魚」を見せるため、淡い恋心を抱いた少年の望みがかなった時に、すべてが収束に向かう。少年の幻想なのか、現実なのか徐々に境目がなくなっていくのは素晴らしい。古典的な展開に則りながらも、「存在」の境界をぼかすことで、怖さを引き立てていると感じた。

「幸せという名のインコ」は、不況に苦しめられるデザイナーの一家が購入したオカメインコ。「ハッピー」と名付けたオカメインコは、ある時主人公に驚愕の事実を伝達する。そして、という展開。「猿の手」の変形バージョンで、当初は純粋な善意だったのが「悪意」に転換する。その転換が「欲」の力によってなされるとき、願いには代償を伴うことになる。ハッピーをどう解釈するかで、ラストはいくつかに解釈される。主人公の願いが歪んだものになった途端、本人においては意図せざる展開が待ち受ける。このターニングポイントの切り替えはうまい、と思った。

ということで、地味な感じながらも日本ホラー小説大賞を受賞しただけあり、おもしろいです。

クラッシュ

J・G・バラード『クラッシュ』(創元SF文庫)

テクノロジーに囲まれた我々は、エロスと快楽という結びつきを自動車事故に見出してしまうかもしれない。インターネット上で見られる顔を粉砕された男性、大破した自動車で大やけどを負い、以前とはまったく違った生活を送っている人、折れ曲がった肉体、大破した車内にたたずむ、まるでオブジェのような運転者あるいは同伴者。バラードは、自動車事故という「聖別」によって、事故車やスピードに興奮、快楽を求める人々の可能性を妖艶に、そして生き生きと描き出す。高速道路の中にある島に偶発的に取り残され、そのまま生活を希望する主人公を描く『コンクリート・アイランド』(太田出版)や、高層ビルの上階と下階の間の対立構造をエキセントリックに描く『ハイ・ライズ』(ハヤカワ文庫SF)とはアプローチが異なり、社会・環境制約→個人へのフィードバックへという流れを明示的に示しているわけではなく、自動車事故という個人的な体験→局所的な社会・環境変化という、個人レベルでのイニシエーションを示唆している。自動車事故という強烈なイニシエーションにより、「自動車事故に遭遇したもの」という属性をもつ人間となり、その結果教祖ともいうべくヴォーンに導かれながら、主人公たちはエキセントリックな世界へと巻き込まれていく。

自動車事故のイニシエーションによるエキセントリックな機械と人間との結合は、主人公たちの内的世界に大きな影響を及ぼす。事故者の内的世界は大きく破損・変化し、メカニカルなオブジェクトと結合・和合することにより、肉と機械のオブジェとなる。これはまさに無機と有機との結合であり、新たな幾何面で構成される性と死の結合である。もともと車に機能的な側面しか感じていなかった人々が事故をきっかけに、車にエロスを感じるようになる理由は、強烈な体験だけではなく、秩序のあった美しい形態が自動車事故により、カオス的で、予想もつかないような形態になるという点だろう。その意味では、人間が好性向、すなわち完璧な美と混沌の美のうちで、自動車事故の美しさは後者に属するからであると感じる。それは美しいものを汚したい、という要求にもつながるものであり、不完全だから、完璧ではないからこそ感じられる美の幾何学をバラードは直観的に感じ取ったのだろう。

テクノロジーに囲まれる現代人がテクノストレスから解放される方法。それは、何らかの快楽を見出すことであり、それは内的世界の拡張による、外的世界へのフィードバックである。これは、閉じたシステムであった個人の内的宇宙が、自動車事故というイニシエーションにより、閉じた内的世界を別の閉じたシステムへと解放し、相関することにより、自動車事故による一つのつながりを作り出すということに他ならない。個別の内的世界が、自動車事故という強烈な体験を通じてつながることにより、より巨大なフィードバックシステムが成立する可能性がある。それを独裁的な個人の内的宇宙に求めたのが『夢幻会社』(創元SF文庫)であったり、テクノロジーというつながりによって、一種の調和的な悪夢世界を作り上げた伊藤計劃『ハーモニー』(ハヤカワ文庫JA)などの作品もある。

しかしながら、この緊張した世界の中で、我々はつねに何らかの快楽行為の代償ととして、オブセッションに囚われていることを痛感する。ゲームやインターネットにはまる人たち、仕事に夢中になる人たち。強烈な快楽を伴う行為にはつねに死が伴っており、死が伴う行為だからこそコストを度外視して、快楽を追求する。ある行為の中毒になることは、強制的ではない限り、自分の内的世界がテクノロジーによって変化させられ、それに対応する環境状況に自然と進化・対応してしまっているもの、と考えるとバラードがテクノロジー三部作で発表したことは、現代文明におけるある種の快楽原理を明示してしまったのかもしれない。創元SF文庫で復活したのがありがたい!なお本書は『残虐行為展覧会』の12章も関連しているので、興味のある人はそちらも併せて読むことをお勧めする。