一般に翻訳とは、ある言語によって書かれたものを母国語などの他なる言語によって移し換えることです。したがって、翻訳が成立するためには、翻訳される言語と翻訳された言語との間に差異がなければなりません。ここから、「翻訳とは何か」という問いがすぐさま「言語とは何か」という問いに直結することがわかります。ともあれ、ここでは、言語においてどこにこうした差異が見出されるのかということを問題にしたいと思います。

まず考えられるのが、先にのべた母国語と外国語など、異なる国語間に見出される差異です。しかし、この差異は、国が異なるから生じるのか、あるいはそもそも差異があるから国語が異なるのかという問題に直面します。この問題は言語とナショナリティ、言語における国家の政治的介入といった興味深い論点を多く含んでいますが、これは今は措きます。ともあれ、一般的な意味での翻訳という行為は、こうした他国語間の差異という水準において理解されると思われます。

ところが、言語における差異は、何も他国語間にのみ見出されるものではありません。すぐ思いつくように、同じ国であっても地方によってさまざまに用いられる言語、すなわち方言があります。これは同一言語内での差異だから、他国語間において見られるほど大きな差異、つまり理解不可能なものではないと思われるかもしれません。関東で用いられている方言と関西で用いられている方言などを想定すればそれらの相違は取るに足りないものかもしれません。しかし、地域的により離れた地方で話される方言を考えてみれば、外国語と同様、まったく理解不可能なものであることが容易に想定されます。これはもちろん、地域的な距離の遠さだけでなく、時間的な距離の遠さにも適用することができるでしょう。またこうした観点からすると、標準語というものを話している人間など存在しないことが分かります。関東のことばであったとしてもそれは他の地方との関連においては方言でしかないからです。重要なことは、標準語が存在しないということではなく、標準語というのは諸方言間の相対的な関係性においてのみ規定されうるひとつの抽象的なモデルだということです。もちろん、ここにも先に指摘した、国家や政治、ナショナリティの問題が絡んできます。

さて、これまで確認してきたことは、言語における差異が見出されるのは、異なる言語と言語の間、および同一言語内における方言と方言の間であるということでした。しかし、こうした国語や方言における差異より前に、言語における重要な差異が見出される場所があります。それは、話者と聴者との間です。殊更言うまでもないことですが、言語はひとりの人間だけでは決して生じません。独り言というのがあると言われるかもしれませんが、人は、自分が語るときに自分の声を聞くことなしに語ることはできません。すなわち、独り言とは、他者との間にすでに成立している関係を単に類推的に個人に当てはめているにすぎないのです。言語における差異は、この話者と聴者との間に見出されます。

今、「自分が語るときに自分の声を聞くことなしに語ることはできない」と言いました。ここでは、私は語ると同時に聞くという二つの役割を果たしています。つまり、言語における差異は、話者自身の中にも見出されるということです。
では私は自分が語るとき何を聞くのでしょうか。容易に考えられるのは、一連の物理的な要因によって生み出される音でしょう。例えばイヌという音は、イという物理音とヌという物理音によって構成されています。しかし厳密に言うと、ここで私たちはイやヌといった物理音を聞いているわけではありません。実際の場面においては、イとヒ、ヌとムなどはほとんど区別がつかないほど類似していて聞き分けることが困難です。つまり、私たちは単に物理音を聞いているのではなく、イに引き続いてヌが発声されるのを聞くことによって、それがアでもウでもなく「イ」であり、ナでもネでもなく「ヌ」であったことを事後的に知るのです(事後的とはいえここでは経験不可能な時間が問題となっていますが)。
ここでの「イ」や「ヌ」といったものを、言語学では音素といって物理音から区別しますが、このように、一連の音の連鎖が、それを構成している音素間の区別(これを弁別特徴といいます)を事後構成的に示すという事実を明らかにし理論化したのが、ロシアの言語学者ローマン・ヤコブソンを代表とするプラーグ言語学派の功績でした。

そして、このようにイヌという音が聴取されるやいなや、私たちはそれが一般に「犬」という名で呼ばれる特定の動物種であることを理解します(厳密には、これが「犬」と理解されるということも注意して考える必要があります。イヌという音だけではそれが「居ぬ(居らぬ)」かもしれないという可能性を払拭できないからです)。このように聴取された音に伴う「犬」のようなものを一般的に表象と呼びます。この場合のように「犬」であれば、何かしらの個別的なイメージを伴っているかもしれませんが、想像不可能な対象(千角形など)のようなものはイメージを伴いません。したがって、表象においてイメージはまったく必要がありません。表象においてイメージが必要ではないということは、表象においても、先ほどの物理音のときと同様に、私たちは「犬」という概念を直接的に認識しているわけではないことが分かります。それはまさに、「猿」でもなければ「猫」でもなく、「机」でもないものとして「犬」を理解しています。ラネカーなどの認知文法、あるいは認知言語学が指摘しているように、ある一定の言語表現に伴ういくつかのパターンがある程度は規定されており、諸個人間の認知においてある程度の類似が認められるのも事実ですが、そのパターンは無限にあるのであって、人間がそれらをひとつひとつ記憶し、それらを実際の言語運用において逐一用いているというのは、物理的、発達論的な観点からしても不可能でしょう。

したがって人が語るとき、適切にいうと、話者が語るときに自らの語りを聞いている場合、そこに見出されるのは、音素によって構成されている物理的な音の連鎖と、それに伴っているイメージなき表象との差異です。そして言語学者ソシュールは、前者を音響イメージ、後者を概念と呼びました。

重要なことはふたつあります。まずこれまで確認してきたように、音響イメージにおいても概念においても、私たちは単一の音の連鎖なり、単一の概念をそれ自体として直接的に把握しているのではないということです。私たちが語りを聞くときの音響イメージとは、無際限に存在する音の無限の連鎖からなる音と音との間の関係です。それはノイズと言語音との間にある無際限の程度の差異であると同時に、昨日発せられた「諸君」という発声と今後発せられるであろう「諸君」という発声との間にある無限の差異からなる多様体における関係性です。また、音響イメージに伴う概念もまた同様に、無際限に存在する概念の無限の連鎖からなる概念間の関係のことです。音響イメージも概念のいずれもが、こうした無限の多様体ともいうべき対象であり、音響イメージと概念の間に見出される差異そのものが、こうした二つの差異の多様体の間にあることが分かるでしょう。
そして、より重要なことは、話者における音響イメージと概念の結合は、私たちの経験的な時間においては厳密に同時的であるということです。したがって、音響イメージと概念との間にある差異は、継起する時間のような私たちの一般的な時間表象によっては絶対に捉えられません。にもかかわらず、「自分が語るときに自分の声を聞く」とき、音響イメージを聞くということと、そこで聞かれたものとしての概念は厳密に区別されるのです。話者における聞くこと(音響イメージ)と聞かれたこと(概念)との間に、経験的には与えられない差異が生じること、この二重性の発生こそが言語においてもっとも重要なものであると思われます。そしてこの二重性こそが、一般的に意識という名で呼ばれるものの実態であると思いますがこれはまた次の機会に述べます。

これまでの議論で分かるとおり、私たちが言語と呼ぶものはこうしたきわめて雑多な要素から成る複合体であり、無際限の差異を含んだ対象なのです。こうした異なる複数の多様体から構成される私たちの言語現象のことをソシュールは言語活動(ランガージュ)といって言語から区別しました。ソシュールにとって言語は、こうした言語活動においてある一定の期間においてのみ保持可能な社会的慣習や制度であり、それは言語活動における相対的に自律的な定義をすることが可能な部分であると考えられています。

私たちはこれまで、故意に意味やコンテキスト、あるいは意識と意識内容といった伝統的な概念を排除して議論を進めてきました。それはこうした伝統的な概念が、複雑な言語活動という問題系をそもそも隠してしまう危険性があるからであり、こうした概念を排除することで、翻訳の問題そのものを言語活動という無限の多様体へと結びつけるためです。こうした観点からすると、単に他国語間において行われているように思われる翻訳という行為は、実際には、こうした言語活動の総体という無限の差異から構成されている多様体を内に含んだ行為であることが分かります。すなわち翻訳とは、国語から話者の水準に至るまで、無限の差異と無限の差異との間に、あるひとつの結合を作り出す行為であり、その限りにおいてきわめて創造的な行為であるといえるのではないでしょうか。(続く)

心身の合一―マールブランシュとビランとベルクソンにおける (ちくま学芸文庫)

心身の合一―マールブランシュとビランとベルクソンにおける (ちくま学芸文庫)

メルロ=ポンティが1947年から1948年にかけてエコールノルマルにて行った講義録である。あとがきによると、これは、1945年出版の『知覚の現象学』と、1949年(パリ大学)における発達心理学的な議論の中間に位置する講義である。主題は心身問題なのだが、思惟と延長という二つの実体からなるデカルトマールブランシュにおける叡知的延長とは異なる形で心身問題を考えるうえで、メルロ=ポンティがメーヌ・ド・ビランを高く評価している点は注目に値する。

その第八講でメルロ=ポンティは、ブランシュヴィックの『人間的経験と物理的因果性』の分析から、心身問題におけるビランの独自性を引き出そうとしている。
マールブランシュが「自己意識」と「物についての意識」を明確に区別したのに対し、メーヌ・ド・ビランは「身体とその運動性との経験を出発点にする」(82)。(観念論哲学を標榜するブランシュヴィックは前者を評価し、後者を、哲学的な明証性を伝達不可能な個人的自我(心理学的証明)に貶めたものとして拒絶する。)
もちろん、メルロ=ポンティが与するのはビランの側である。ビランにとって心身関係の証明にとっては「事実」の確認だけで十分であった。「ビランの「非哲学」はむしろ、哲学に新しい領土を併合する増殖した意識に向おうとする努力の表現ではないのだろうか。」(85)メルロ=ポンティが評価するのは、ビランが努力の経験において見出した、運動と意識の同時性という原始的な「事実」である。「彼〔ビラン〕は、努力の意識がその手段についての完全な無知を伴っていること、またそれは運動の意識に先立つのではなく、この意識と同時的であることを承知している。」(85)ビランにとって努力の意識は、ある意志的決定と、有機体の反応に関する情報との出会いに出現する。すなわち、「事実がわれわれにとって存在するのは、われわれがわれわれ自身の個体的存在についての感情と、対象であれ変様であれ、われわれの個体的存在と競合しまたそれから区別ないし分離されている何ものかについての感情とをもっている限りにおいてのみである。・・・というのも、事実なるものは、もしそれが認識されているのでなければ、言いかえれば、認識する個体的・恒常的主体が存在しなければ、何ものでもないからである。」〔メーヌ・ドビラン『心理学の基礎についての試論』からの引用〕(91)
ビランはデカルトのように思惟する意識から出発するのではなく、この本源的事実から出発する。すなわちそれは、すでに画定された認識主体なのではなく、「自分が存在することを意識しつつある存在」に他ならない。ビランにとって事実とは、こうした自己の存在の意識へと向う「内在性と外在性との総合を指し示すのである」(92)。「主体は他のものから派生するのではなく、本質的にみずからを他のものに関係させるのである」(93)。ただ、ビラン自身はこの本源的な二元性を単に並置させるだけでそこからひとつの哲学を作り上げることはなかったというのがメルロ=ポンティの判断だ。

こうしたビランの議論に対しメルロ=ポンティは、その運動性と思考との関係を深化させる。ビランは単に自分の身体を動かす主体の経験について述べているのではなく、意志と知覚とのあいだに相互的な含み合いがあることを主張している。すなわち、「彼〔ビラン〕がわれわれに理解させようとしているのは、自分の身体を動かすこととそれ〔自分の身体を動かすこと〕を知覚することとの間には差異がないということ」(98)だ。「もし私が初めに自分の身体を動かしているという意識をもっていないとしたら、私は私の運動の諸手段についていかなる問いをたてることもないであろう。」(99)
そしてこの議論は、私の身体に対してのみ妥当する。というのも、他人の身体機構は外部に表象され、その運動性は外感に依拠するのに対し、私の身体に対する私の能力ないし意志は、もっぱら内感によって統覚されることによって明証的に認識されるからである。「もしわれわれが網膜の神経と発光体とを表象するのだとすれば、われわれはもはや色を見ないであろう。自分自身の内側に見るように組織された眼が、外側にあるものをどのようにして見ることができようか。まさにそんなわけで、自分自身の意志の働きのバネを客観的に認識するためには、自己であると同時に他者でなければならぬということになるのだ。」〔ビランからの引用〕(101)
この意味で、私の身体に対する私の知覚は、誇張的懐疑以前にある(知覚は誤らない!)。「ビランにとっては、デカルトのように「見るのは魂であって、眼ではない」と言うのは、誤謬となるであろう。」(126)

ここからメルロ=ポンティは以下の結論を引き出す。

「してみると、身体の認識は純粋に外的でも、純粋に内的でもありえない。もしわれわれが自分の身体に住みつくと同時に、それを認識しようと思うならば、われわれは自己自身であると同時に他人である必要があろう。まさにそこに、内部と外部の原始的二元性を権利上基礎づけようとする一般的試みの出発点があるわけである」(101)


こうした議論を踏まえた上で『眼と精神』などを読むと、私の身体、あるいは見えるもの(visible)に関する議論が尋常ならざる記述に思えて仕方がない。少なくとも、それは単に、私の身体が世界と同じ質料から構成されている云々といった議論に回収されるものではないだろう。しかし、ざっと検索したところ、『眼と精神』をメルロ=ポンティによるビラン解釈と関連付けて論じた文献が見当たらない。『思想』 (メルロ=ポンティ生誕100年) に、中敬夫氏による「身体の自己触発―メルロ=ポンティ、アンリ、ビラン」という論文があるので確認しておきたい。

現代版言語起源論

心とことばの起源を探る (シリーズ 認知と文化 4)

心とことばの起源を探る (シリーズ 認知と文化 4)

人間と他の類人猿は、遺伝子の水準で見れば99%近い一致率を持っている。また、人間以外の霊長類であってもすでに「他の個体間の第三者的な社会関係、例えば第三者うしの間に成り立つ親族や支配関係などを理解する」(20)。これは、広い意味でのメタファーとメトニミーがすでに言語運営能力に先立って存することの証左であるように思われるのだが、ともかく、認知的能力において人間と他の霊長類が生物的遺伝によって持つ特性はほとんど同じである。にもかかわらず、人間だけが文字や貨幣、産業や芸術といった高度に固有な文化を創造することができた。なぜか?

トマセロの主張は、人間と他の霊長類との差異は、「他者を意図を持った主体として認識すること」ができる点にあるというものだ。これが人間固有の文化に結実する認知能力を生み出す要因となる。
さらに、他者を意図を持った主体として認識する能力は、生後九ヵ月の人間の赤ちゃんにおいて発揮される。この能力を持った赤ちゃんが、ある一定の期間に渡り、他の人間との相互的な社会的認知過程(硬い表現だが、たとえば指差しによる対象の相互承認など)に参与することで、対象、大人(他者)、自己を同時に含む共同注意場面の認識、他者の伝達意図の理解、他者との役割交替による視点の内在化を学習する。(したがって、他者の意図を理解する能力が往々にして欠如しているとされる自閉症者などは、こうした社会的認知能力を発揮しない)こうした人間に固有の認知能力が言語(ここで言われる言語もまた、文法や語彙というより、ラネカーの認知文法などのように、言語表現に含まれるパターン認識や、その認知的な運営能力に強調点が置かれる)の基盤となる。

人間と霊長類に共通の認知能力と、人間に固有の社会的過程とが相関的に関係することによってのみ、人間固有の言語およびその運営能力が生じるというのがトマセロの主張だ。すなわち、人間固有の認知能力(つまりは人間本性)の発生を考えるには、系統的要因と個体発生的要因を同時に考慮する必要がある。したがって、トマセロが言うように、無人島に一人生まれ育ったロビンソン的子供は、系統的要因を持つがゆえに、霊長類程度の外的諸関係に関する認知能力は発揮するだろうが、しかし、他者との相互的な社会的認知過程を欠くがゆえに、共同注意や他の視点の内在化(つまりは言語の獲得)は不可能となるだろう。「私〔トマセロ〕の推測によれば、現代の自然言語に似たものが進化するには何世代もかかり、文字や複雑な数学や政府その他の制度ができるには間違いなくさらに多くの世代が必要であろう。」(283)

こうした主張によってトマセロは、多くの認知科学や社会科学が採用している遺伝子還元論や言語の生得的モデル(チョムスキー)を否定し、進化論的な時間の問題*1と、それとは逆に、言語的能力の発現がなぜ幼児期初期から中期にかけてこれほど多くの時間がかかるのかという問題を同時に解消する*2

トマセロによるこの議論を経てもなお、言語の超越性や生得性を云々することはさほど意味がない。むしろ、トマセロが主張するように、最低限の遺伝的条件に加え、個体発生の水準における社会的環境要因を考慮しなければならないし、またそれが何代にも渡って継承され精緻化されていく歴史的な時間を勘案しなければならない。これが示すことは、個人と環境との間にはつねに相互的な作用があり、これによって人間の認知能力が進展するだけでなく、文化的環境もまたそれに伴って累進的に展開することが可能となるということだ。

「われわれの目標が人間の認知をその進化的、歴史的、個体発生的な次元で動的・進化論的に捉えることであるならば、先天的な素質か育つ環境か、生得的か学習によるものか、さらには遺伝子か環境か、などという古くからの疲弊した哲学的なカテゴリー対立では静的かつ断定的すぎてその目標達成には役立たないのである。」(290)

だからこそ、言語や制度、技術の発生と展開を論じるうえで、物理的な要因や身体部位の特定化を行うよりも、それがいかなる社会的なコンテキストにおいて(これを集団的アレンジメントと呼んでも良い)、どのような因子にしたがって、どのような個体を構成するのかを、自然史的時間と歴史的時間というスパンの異なる時間性の相関関係のなかで考察することが必要なのだ。


人間本性としての言語を考える上で、トマセロの議論はその実証性と論理性から言っても最上のものであると思う。しかしながら、それでもなお…、という印象も残る。
トマセロの主張の要は、人間と霊長類を区別する他者の意図を理解する能力と、それによる認知能力の発揮(習得)にある。トマセロの議論が巧妙なのは、この能力が、厳密に進化論的な意味において人間が何世代にもわたる適応と淘汰の結果身に付けたものであるので、その起源や発生を問うことはできない(というか意味がない)とすること、したがって、言語が人間固有の本性なのではなく、逆に人間の認知能力の表現型が言語であるとしているところだろう。

しかし、個体発生のレベルでみれば、この能力の発揮は、自己における意図と運動との間にある因果性の理解と、その外的対象への適用に基づいている(これはトマセロ自身も認めているように思われる)。ならば、これを単に内観の外的適用としてしまうのは、若干の飛躍があるのではないだろうか。むしろ、そうした自己における意図と運動の因果性をなぜ理解できるのか、なぜそれを外的対象へと適用することが可能となるのか、これを問わなければならないだろう。そもそも上記の意味で自己の内観を獲得するためには、すでに統一的に把握された自己の身体像と、意志と非意志を区別する認識が成立していなければならない。好意的にトマセロの文脈に落とすとすれば、これらを可能にしているのが文化的慣習と考えることもできるかもしれないが。

*1:「人間に特有の認知機能の場合には、…たった二五万年の間に出現したのであるから、こうした機能がこれだけ多く進化する時間が十分にあったとは言えない」(273)。

*2:「社会的認知と文化に対する基本的な人間の適応性を実際の社会的なやりとりの中で数年間にわたって行使する必要があるからである」(265)。

超越、有限、感性=一般形而上学

カントと形而上学の問題 (ハイデッガー全集)

カントと形而上学の問題 (ハイデッガー全集)

なぜ数学や自然科学といった知が成立するのか。なぜ有限な人間の経験によってはその妥当性を論証することができないものが成立しうるのか。これをカントは「アプリオリな総合的判断はいかにして可能か」という問いで引き受けた。ハイデガーの主張は、このカントの問題を理解するためには、何よりも人間の本質としての「有限性」の開明が必要であり、それはすなわち形而上学の根拠づけを行うことと相同的であるとするものだ。
そして、「有限的存在者に対して、その中で「有と非有とのすべての関係が成立する」ような必然的な活動空間をはじめて開く」(91)もの(純粋認識)を構成しているのが、純粋直観、純粋構想力、純粋統覚の三元性であるとされる。
有限的な認識作用が問題となる限りにおいて、純粋に客観的に存立するカテゴリーもまたその感性化が問題となる。したがって、「一般形而上学の根拠づけとしての超越論的感性論と超越論的論理学との統一において到達したものを、より根源的に自分のものにする」ために、ハイデガーは、純粋悟性概念の図式性の重要性を理解することが必要であることを指摘する。これと相同的に、感性と悟性をつなぐ中間的媒介者として超越論的構想力もまた重要な基礎的要素として取り出される。「超越論的構想力は、オントローギッシュな認識の内的可能性およびそれと共に一般形而上学の内的可能性がその上に立てられる根拠なのである。」(130)

カントの形而上学の根拠づけは、オントローギッシュな認識の本質統一の内的可能性の根拠を問うものである。その根拠づけが突き当たる根拠が超越論的構想力である。心性の二つの根拠源泉(感性と悟性)の端緒に対して、この構想力は中間能力として押し出されてくる。(192)

さらに、カントにおける超越論的構想力は、悟性と感性をつなぐ中間者であるだけでなく、むしろこれら二つの能力を発生させ、それらを保持するものである。ハイデガーはこれを根源的時間における三つの様相(純粋統覚・純粋再生・純粋再認)によって根拠づける。すなわち、根源的時間は、自発的受容性であると同時に受容的自発性である超越論的構想力を可能にするのだ(193)。

超越論的構想力および図式性の本質的役割、三つの時間様相による根源的時間規定、主観の主観性、これらが人間の有限性を規定している。そして、この人間の有限性が、経験の可能性の規定化を意味する限りにおいて、それは自らの現有〔現存在〕を超越し、かつ自らがそれに依存している有〔存在〕に「対立してある」ということ自体を問う可能性を開くことになる。だからこそ、カントにおける「形而上学の根拠づけは、人間における有限性への問いにおいて、しかもそれはこの有限性がいまやはじめて問題となりうるという仕方で根拠をもつ」(211)ことになるのだ。


最後の章はカントにおける人間学がいかに形而上学を根拠づけるのかという内容のもの(のはず)なのだが、明らかに前章までに見られた「切れ」がなく、『存在と時間』の単なるレジュメにしか見えない。付録にカッシーラーとのダヴォス論争が収められているが、そこでカッシーラーが「君の話だと、人間の有限性がいかに必然的かつ普遍的な真理に到達しうるのか、あるいはそのような真理の存在そのものを問うこと自体不可能となるのではないか」という批判があがるのももっともなように思われる。

自己矛盾的自己統一

資本論の哲学 (平凡社ライブラリー)

資本論の哲学 (平凡社ライブラリー)

マルクスが『資本論』第一巻「商品論」で示したのは、直接生産過程において、使用価値(寒さを凌ぐための上着がもつ価値)と交換価値(20エルレのリンネルに値する上着の価値)の「自己矛盾的自己統一」として成立しているのが「商品」であるということだ。単に使用価値としてだけの上着は「学としての経済学の対象ではない」。経済学において使用価値が対象となるのは、それが「交換価値の質料的担い手」たるかぎりにおいてである。すなわち、ある商品の価値は、それが交換されることによってのみ生じるが、この商品が交換されるためにはそれが単なる使用価値だけでなく、交換されるに足る価値をあらかじめ持っている必要がある。これは明らかにパラドクスだ。しかし広松氏は、この矛盾を引き受け、むしろマルクスはこれを肯定的に捉える視座を提示しているのだと主張する。『世界の共同主観的存在構造』で論じられた四肢的構造、および関係としての一次的存在了解などを念頭に置きながら、広松氏はマルクスの論理構制のなかに使用価値と交換価値との相補的(弁証法的)対立を見て取り、いかにしてこれが哲学的伝統上における唯名論実念論との二項対立を超える地平を拓くものであるのかを論証している。

この夏、ソシュールに関する「文章」を書いていたのだが、このマルクスにおける論理的矛盾ないしパラドクス、および、それに対して提示された論理構制が、ソシュールにおける言語の問題とまったく相同的であることに気づく。ソシュールもまた同様に、言語はわれわれの経験において直接与えられるのではなく、質料的な音と形相的(社会的)な価値の複合体としてのみわれわれに与えられると考えている。ならば単に物理音の変遷や発声器官の調整といった質料的側面だけを扱う音声学などは言語学とは言えず、むしろ、その学を成立せしめている言語それ自体を研究対象としなければならない。悪く言えば、音声学や歴史言語学は、音声変化や語族や属格などといった抽象の産物を言語と置き換えることで、上記のパラドクスをひた隠すことでのみ成り立っている。むしろソシュールはこのパラドクスを正面から引き受け、マルクスと同様、それに応じた理論体系を構築しようと試みる。

今のところ「裏をとって」いないので確証的なことは言えないが、ソシュールが言語を関係論的な価値として考えていたことは周知の事実だが、「価値」に関するソシュールの手稿を見ると、それが「経済学由来」の概念であることが明確に述べられている。ソシュール自身がマルクスを読んでいたかは定かでないが(出版状況、年代的に見てもない話ではない)、ともあれマルクス自身が独自の価値論を展開した理論的背景をソシュール自身もまた言語学という領域において、同じように共有していた可能性は十分にあるだろうし、これはある程度実証的に「裏を取る」ことのできる論点だろう。

あと、ソシュールマルクスの類似が示唆しているのは、19世紀後半から20世紀初頭にかけて、すでに超越論的哲学がひとつの理論的な限界(肯定的にいえば完成)をむかえていたということではないだろうか、と思う。これ以降のいわゆる超越論的哲学において、上記のパラドクスをマルクスソシュール(ここにフロイトを含めても良い)が行ったように関係論的視座から解消する以外になにか別の方策が「肯定的に」示されたことがあっただろうか。勉強不足ながら私は知りません。これはもちろん悲観することではなく、彼らを相対化して語るための第一歩ではあるのだけれど。

とどきますか、とどきません。

勝手にふるえてろ

勝手にふるえてろ

研究会の合間を縫ってジュンク堂新宿店で購入した『勝手にふるえてろ』を一気に読む。問いを立てたうえで、問いそのものを破壊するのが川上未映子だとすると、いくつもの描線や点描を重ねることで、ひとつの解答を浮かび上がらせるのが綿矢りさだと思う。

人の感情や行動なんてものは単純な因果関係で成り立っているわけではない。人は頭でものを考えた後にそれを語るのではなく、語りながら考えることもあるし、何も考えずに話始めたものを自分の考えであったと錯覚することもある。ましてや誰かしら常に相手がいるのだから、相手の言うことを馬鹿にしつつも同意しているように見せたり、正直な本当の自分の思いを吐露した途端、相手に拒絶されることもある。そんな一瞬一瞬の無数のやりとりが、人の感情や状況を作り、変化させる。だから、相手や自分にとっては単なるひとつの感情や行動も、無数の要素と複数のパースペクティブを内に含んでいる。そしてこれがリアルを作る。
だから綿矢りさの文章は、全く道徳臭くも説教じみてもない真理を描くことができている。(内容に関わるので漠然としか言いませんが)本の冒頭に置かれた命題と、最後の解答は傍から見れば全く同じ。しかし、概念内容は全く水準が違う。凡庸な解答で妥協するのでも、諦めて引き受けるのでもない。凡庸さを限界まで引き上げた先に真理を見せる、そんな作品でした。

凡庸といえば、論文や研究発表の際、凡庸なタイトルしかつけられない僕は、こういう優れたタイトルをつけられるセンスがとてもうらやましい。