これから

ここ、はてなダイアリーのサービスが、予定を前倒して1月に更新を終了するとのことで、何かスパッとした記事でも書こうかと、いくつか考えたのですが、それ以前に挨拶だなと思い直しました。すこし前から*1気分は変わっておらず、はてなブログに移行しようという気は、さっぱり湧かないのです。


遡ると2009年、小さな商売を離陸させようと毎日必死だった頃に、新聞記者をされていた、当時のお客さんから、どこかで何か書けと促していただいたことが、発信を始めたきっかけでした。あらためて深く感謝します。振り返ると本当に不思議で、そうして書き始めて結果的に、かけがえのない友人が沢山できました。人生わからないよなと、控え目に言って最高と、そう感じています。


そうです。呼んでいただいたときには、スケジュールさえ合えば、わりと気軽に出かけていました。「電話をくれ」だとか、何度か記事に書きましたが、本当に連絡をいただけるケースがあったのです。中には一緒に仕事をしたケースもありました。信じられるかい。そんなふうにぶっちぎりの体験をして、だからきっとまた、どこかでまとめて何か書いたり、したくなるんだろうけど、とりあえず一旦休みます。プランは特にないです。でも、連絡は待ってます。ただ悪意のある奴は、ぶっ飛ばすからなマジで。


そうそう http://beerbalance.net/http://chopsticks.trade/ という2つの気に入ってるサービスをつくったのですが、これらは自分では、ここに書き溜めてきたことの具現化のつもりなのですが、その中には引き続き居ります。それから https://twitter.com/ にも居ります。そして新しいサービスもつくります。乞う御期待。


さ、このへんで。皆さんのすべてのチャレンジに、幸運が訪れることを、いつも祈ってます。ありがとう。

君はFRBを信用するか

と、そんなこと聞かれても、それ一体何の話スカと。なるのが普通だと思うのだが、こと通貨やら中央銀行の話になると、ビットコイン以降に突然貨幣論をぶち上げた酔っ払い起業家から、本格的な所属と肩書きで硬派を装うニャンコ先生まで、揃いも揃って、急に信用だとか信頼だとか信認だとか言い出す。BAAKA。なあ、あんたの言う信用について、もうちょっと説明してみてくれないか。俺がツッコミ入れるからさ。ふわっとしすぎだぜ。


さて、投機屋にとって信用とはシンプルで、貸したカネが返ってくることを指す。で、タイトルに戻るわけだが、FRBに貸したカネは、うん、まず戻ってくるだろう。が、しかし以前と比べて相対的には、彼らの財務はちょっと怪しくなってきたようだと、四半期報告からブルームバーグの報道である。


FRB資産に665億ドルの含み損、トランプ氏が攻撃材料にする恐れ - Bloomberg
https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2018-12-12/PJMMBW6TTDS201

最新の四半期報告によれば、FRB保有証券の含み損は9月30日の時価基準で665億ドルだった。純資産の391億ドルを大きく上回る事実上の債務超過であり、普通の企業であれば財務の脆弱(ぜいじゃく)性として受け止められるのは間違いない。


いやいやいや、トランプ大統領は知らんけど、そんなもん俺だって攻撃するわ。全米が叫んだっておかしくないだろ、納税者をなめるなと。誰が補填するんだと。で、割とよく耳にするタイプの解説は続く。

当然ながら、FRBは普通の銀行とは異なり、保有資産を時価会計で処理しない。従って当局者らは理論上の損失が持つ意味を重視せず、「特異な非営利機関」として金融政策を運営、もしくは財務省に利益を納付する能力に影響はないと主張する。実際にFRBは今年1−9月、516億ドル以上を財務省に納付した。


いやいやいや、BAAKAも休み休み言いなさいよ。君らが普通の銀行に要求する評価の方法を、自分自身に対して採用しないからといって、実態として財務の問題は生じないと。あのねツッコミどころは一文に一つにしてくれないと、こっちも悩むんですよ。よし、じゃ聞こう。カネを貸す相手が、持ってる資産の自己評価を変えたからといって、以前よりカネが返ってくるとか、返ってこないとか、君は評価を変えるかい。そもそも相手が自称する評価なんて、君はマジで参考にしちゃうのかい。あるいはなるべく参考になるように、普通の銀行に要求してる評価の方法があるんじゃないのかい。その納付にしてもさ、例えばタコ配を出す投信には、君らだってツッコミ入れるわけでしょ。

ケビン・ウォーシュ元FRB理事は「中央銀行債務超過になっても、理論上は問題にならない」と指摘する。「しかし実際には、信頼性というFRB最強の資産が目減りするリスクを冒す」と電子メールでコメントした。


どんだけヘボい理論だよ。その実際には問題になっちゃう理論。この有名な理事さえ、こんなこと恥ずかしげもなく言うんだぜ。だからこそ、いいですか大事なところです、このジャンル未来があるよな。だって、こんなにプリミティブなんだもの。そんなふうに、いつものように思う年の瀬、本格的寒くなってきました。皆さんいかがお過ごしですか。

銀行の株価パズル

ちっともパズルじゃないという指摘もあろうかと思うのだが、よく考えてみると銀行の株価はよくわからない。例えば乱暴に、あるいは未来の一つの姿として、BSの左側は全部債券で、右側は短い借金と株式と思うとき、要するに債券ファンドだと捉えれば株価はざっくり純資産と近くてもよさそうだが、両者に大きな乖離がある金融機関は少なくない。もちろん我が国の銀行を見渡せば、その多くは株価は下方に沈んでおり、また諸外国を含めて見渡せば、大きく上方に株価が乖離した「割高な」金融機関も見かけることがある。


おそらく個々の融資は、さまざまな理由で、さまざまに金利が付いているのだろう。例えば誰もが手を出しにくい、しかし返済を期待できる借り手を新たに開拓できる金融機関は、リスクの対価に加えて、そうした開拓のプレミアムを金利から得ることができるだろう。また例えば極端な競争環境下にあり、また風変わりな役所の指導があって、お前は既に死んでいる的な借り手にもLove注入を続けざるを得ないような金融機関は、失なわれるカネが株価に表現されざるを得ないだろう。


個々の融資に見られる変わった金利は、そう思うと、未来に向かって裁定チャンスにも見えてくる。時間の対価とリスクの対価と、その変わった金利との差分について見比べたくなってくる。時に参入したくなってくる。グラスを片手に、個別の銀行について語るときには大いに楽しめた話も、こうしてまとめてみると、いかにも当然な、何も言っていない同語反復先輩になってしまった。だから理屈は冷たくて好きだ。

しばらく先の話

それが大きなものか、あるいは継続的なものか、いずれにせよ金融市場に来たるべき調整が入った、その後の話を、ちらほら目にするように*1なってきた。中央銀行が誘導する金利は、どうしてもゼロに貼り付かざるを得ないだろうとか、リスク資産の購入のような非伝統的なプログラムが再び必要になるだろうとか、要するに、そらそうだろ的な、知ってるよ的な議論である。


もちろん当ブログでは、更にその先を見つめたいわけだが、短く終わる話だが、そうした無理な刺激策と、山師の活躍、その後に続かざるを得ないクラッシュは、結局のところ単に繰り返しで、繰り返すほどロクことにならないと皆に自覚されるまで、続かざるを得ないのだろう。他方で、中央銀行を含む政府部門の財務は、そうしたプロセスの中で、もちろん徐々に削られていくことになる。


最近では狼少年のような扱いになっている高インフレーションは、いずれ必然的に訪れざるを得ない。日本に関して言えば、まだ大分先の話になるだろうが、言い換えれば諸外国の中に先輩が現れることは予見されるし、そうした際には当該通貨に対して、もちろん円は強いだろう。その強さの中には、つまり刺激策の余地が残されていて、また次の繰り返しへと進む。尽き果てるまで。


さて、そうして世界中が茹でられることに対する自衛の策はシンプルで、まずはカネを借りる側に回ることだ。これは意外に簡単でないのは、特に庶民には、銀行はデカい金額は貸してくれない。どうしても例えば(投資用の)不動産を買うこととセットになってしまう。そう、自衛の策さえ、この狂ったサイクルの片棒を担ぐわけだ。不思議に思われるだろうか。花見酒が強制されるとき*2には、だって飲んだもの勝ちさ。

Keeping At It

ボルカーの体調がよくないそうで、来月に予定されていた新刊のリリースが、来週に前倒しされるとのニュースを目にした。同時に、いくつか営業的な記事も出てきていて、もう待ちきれない。こんな熱さ、久しぶりだぜ。一部抜粋してみる。

Since then, under the chairmanship of Ben Bernanke and then under Yellen, Alan’s general principle ― to me entirely appropriate ― has been translated into a number: 2 percent. And more recently, a remarkable consensus has developed among central bankers that there’s a new “red line” for policy: A 2 percent rate of increase in some carefully designed consumer price index is acceptable, even desirable, and at the same time provides a limit.


I puzzle about the rationale. A 2 percent target, or limit, was not in my textbooks years ago. I know of no theoretical justification. It’s difficult to be both a target and a limit at the same time. And a 2 percent inflation rate, successfully maintained, would mean the price level doubles in little more than a generation.


I do know some practical facts. No price index can capture, down to a tenth or a quarter of a percent, the real change in consumer prices. The variety of goods and services, the shifts in demand, the subtle changes in pricing and quality are too complex to calculate precisely from month to month or year to year. Moreover, as an economy grows or slows, there is a tendency for prices to change, a little more up in periods of economic expansion, maybe a little down as the economy slows or recedes, but not sideways year after year.


Yet, as I write, with economic growth rising and the unemployment rate near historic lows, concerns are being voiced that consumer prices are growing too slowly ― just because they’re a quarter percent or so below the 2 percent target! Could that be a signal to “ease” monetary policy, or at least to delay restraint, even with the economy at full employment?


Certainly, that would be nonsense. How did central bankers fall into the trap of assigning such weight to tiny changes in a single statistic, with all of its inherent weakness?

https://www.bloomberg.com/opinion/articles/2018-10-24/what-s-wrong-with-the-2-percent-inflation-target


10年に一度のデカいリリースだ。僕はきっと、これから10年、この地図*1と向き合い続けるだろう。聖なる戦いは終わらない。

*1:

Keeping At It: The Quest for Sound Money and Good Government

Keeping At It: The Quest for Sound Money and Good Government

はてなダイアリー

ここ、はてなダイアリーのサービスが終了するようです。なのですが、正直あまり引っ越しする気が起きません。ここ最近2つの記事は、なかなかよく書けた気がしていて爽快ですが、もういくつか春まで、お付き合い下さい。


その後?ゆっくり考えるよ。ひとまずツイッターには居ります。そうそう http://beerbalance.net/http://chopsticks.trade/ にも、もちろん居ます。新しいサービスもつくりますよ。乞うご期待。

25世紀のネバーランド

それよりもずっと後の話、25世紀のネバーランドには、銀行が無数に存在した。貸す金利は、低い方が好まれるので、皆なるべく低くしようとした。預かる金利は、高い方が好まれるので、皆なるべく高くしようとした。


預金を安心して使えるように、A)その銀行が潰れる、B)潰れない、という保険をセットにすることが義務だった。リスクを好む者は、そうした取引の反対側に回った。保険のない預金は、つまりリスクのある投資商品だった。


銀行を介さない、個々の貸借も増えた。「今度払います」という約束を記録したり、あるいは譲渡することは、技術的には容易だった。その内容も、例えばコメでもビールでも、多様なものを扱うことができた。もちろん保険を付けることもできた。


金利は、誰も自由には決められなかった。低く貸すことはできたが、そのとき資金の調達は困難だった。高く預かることはできたが、そのとき資金の運用は困難だった。つまり続かない。銀行の倒産は増えたが、金融危機は減っていた。