くじ引き友の会

くじ引きに過大な意味づけや幻想を持たずに、単なるツールとして楽しむグループです。
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言い換えれば、市民通貨じゃなく補完通貨に対応するもの。選挙などの民主主義過程を補完し、人間関係を脱力、リラックスさせます。先ずは楽しむこと。国家を揚棄するぞ、なんて力まずにね。

NAM原理を再読したけれど、くじ引きに相当幻想を抱いているのが滑稽だった。それは批判すべきだ。だけど、補完通貨もそうだけど、くじ引き全般が無意味というわけじゃない。西部忠も分析していたように、一定の環境や条件下ではくじ引きにも意味がある。それに、単に楽しむためにくじを引いてもいいだろう。遊びでLETSを発行しても良いように。

あみだくじ

ウィキペディアでの、あみだくじの説明。
くじの説明。
ちなみに僕が早稲田大学の第一文学部に入学した時、入試の小論文で室町幕府の「くじ引き将軍」足利義教について滑稽文を書いて受かった、という過去がある(笑)。くじ引きとは10年前から縁があったんだなぁ。

くじ引きの効用

くじの効果というのは、先ずもって偶然性の導入、そして無名性?の実現かな。誰もが選ばれる可能性がある、ということかしら。まぁNAMの実際の歴史は、柄谷行人の「所詮くじで決まった代表の癖に」とかいう「それ言ったらおしまいでしょ」的発言に象徴される如く、まるで理念を実現できず、裏切ってきたのではあるけれど。お話としては面白いね、というくらいのことでしょ。でも、事業とか経営なりをやっていこうという段階になったら、くじ引きでいいのか、という話は必ず出てくるよねぇ。それをどう考えたらいいのか。人間に能力や意欲の差異がある、というのは自明な事実。それを認めたうえで、なおくじ引きでやるのか、それとも立候補を重く見るのか、という意見の分かれ目が生じるね。

無名性というのは、LETSとも平行していると思う。取り替え不可能な著名人の言説ではなく、草の根の無名人による生産と交換を通じて醸成される信頼関係、ということだね。これは、理念としては今なお面白いと思う。例えば、今年参院選統一地方選があるけど、リアルな話として、ものすごいお金が掛かるわけ。それに、人望がないと出られない。ダグラス・ラミスが選挙というのは結局有力者(貴族)の支配に帰着するから、貴族政の原理なのだ、と書いていたけど、実際、お金なり卓越した能力なりがないと選ばれない仕組みになってしまっている。これがくじ引きであればどうか? 選挙資金は一切掛からない。また、平等に偶然的(笑)であり、誰もが権力を持つ可能性を秘めている。

というのは、今話題になっている、裁判員の制度に近いのかもしれない。実際NAMでも、最初に実現したくじ引きは監査委員会の選出だった。誰もが監査委員的な立場に立つ可能性がある、という意味では、日本は国家ぐるみNAM的(笑)になりつつあるのかもしれない。

けれど、例えば僕は頑固な死刑廃止論者だ。万一僕が裁判員に選ばれたら、宅間だろうと麻原だろうと絶対に死刑判決は出さない。そういう頑固な主張を貫けばどうなるか。国民感情なるものが噴出して、リンチに近い状況が生じ得るのではないだろうか。というようなことも、想像してしまう。

無限回のくじ引き

ボルヘスにくじ引きと永遠回帰を結びつけた美しい文章がある。無限回のくじ引きをやるには無限の時間が必要だと考える人に反駁して、時間が無限に分割できればそれでいいのだ、と答える不思議な印象の箴言ボルヘスなりケージなりのくじ引きだったら、面白いな。制度としてどう肉付けするか、というのは別問題だけれど。

NAMの議論で面白かったのは、野宿者問題で議論が紛糾した時に関本洋司が介入して、野宿者というのは「はずれくじ」を引いたようなものだ、という喩えを出し、それを倉数茂が肯定的に引き受けなおしてメールを投げ返したやり取り。野宿生活というような境遇も、個人の資質や自己責任などではなく「くじ運」程度のことで決まってしまうということをあからさまに語ったのは良かった。

LETSとくじ引き

僕はLETSとくじ引きは、理念、或いは象徴だと思っている。それを悪く言えば、「ママゴト」だということになるのだろう。が、僕はママゴトが全く無意味だとは思わない。遊びには遊びの効用があるものだ。効果がすぐにあらわれないと、すぐにママゴトだの何だのと悪口雑言を浴びせて全面否定してしまうのは、良くないエートスだ。もっと気長にやるんじゃなかったの(数十年単位の運動、と言った舌の根も乾かぬうちに投げ出す飽きっぽさ)? 外科手術的じゃなく、東洋医学的(代替医療的)に体質改善を進めるんじゃなかったの? 言うこととやることがこんなに違うんじゃ、話にならないね。お偉い批評家先生も、book cafeの経営者も!

将棋

飛弾五郎から、柄谷行人がNAM原理を思いついた時、思わず「詰んだ!」と叫んだ、という滑稽なエピソードを聞いたことがある。が、思うに、NAMとは詰め将棋みたいなものだった。で、実際の運動、事業、生活は対局(実際の勝負)。詰め将棋とリアルな対戦が違うのと同じくらい、NAMと実際の具体的運動は異なっていた。

僕が厭だったのは、太田出版社長の高瀬幸途のような言説。あれこれと高いハードルを掲げ、これこれをクリアしなければNAM的ではない、とする独善的な態度。僕はNAMのセンター評議会で高瀬のそのような言説をあからさまに批判していた。今も当時も、思いは変わらない。NAM的とは?などと悩んで結局何もできず、まるで動けないのでは、自縄自縛だ。そんな馬鹿なことは早くやめたほうがいい。もっと気楽に、身軽になるべきなのだ。左翼だからといって、重くなければならない、といったことはない。もっと現状に対応して、機敏に動く必要があるのだ。そして、現在を楽しまなければならない。「倫理」の重圧に押し潰されて無為になるなんて、本当に阿呆らしい。そんな必要、全くないと思う。むしろ基本は功利主義・快楽主義でいい。ただ、エコロジカルにそうあるべきなのだ。それがRAM宣言の言うところの、倫理的-経済的ヘンタイなのだと思う。僕はNAMのもろもろのプロジェクトの中でも、RAMは特に面白かったと思う。確かにNAM総体の病理を端的に表出してもいたけれど、変な人ばかりが集まって、異様なコミュニケーションを実現していた。とはいえ、岡崎乾二郎のムラでしかなかったけれど。

草の根的な生産と交換

多数多様な無名人(匿名ではないが、著名でもないといった非人称の「人」)の草の根的な生産と交換が、相互扶助のエートスや信頼を醸成することはできるだろうか。Q-NAM問題の最も核心にある問いは、それだ。西部忠は、Qの経済的信用は、無名人間で頻繁に行われていた取引の積み重ねから形成されると考えていた。他方柄谷行人は、自分が『Qが始まった』や『市民通貨小さな王国』を書いたからQが始まったのだと(言い換えれば、特権的で取り替え不可能な、抑圧的な資本主義的市民社会を突破できる卓越した能力の持ち主である自分の「名」の力でQの信用が形成されたのだと)考えていた。根本的な対立は、それだった。

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実名と匿名

思い出すのは、RAMカタログのMLで、中谷礼仁(建築家、出版組織体アセテート)が、インターネットの掲示板でそれまで活発に議論されていたのが、或る書き手が「岡崎乾二郎」であることが分かった途端皆沈黙してしまった、という事例を挙げ、匿名でやり取りする自由(生産物の質のみが問われる)を擁護していたこと。

が、例えば2ちゃんねるもそうだが、匿名の自由が卑猥な享楽や頽廃に簡単に結びついてしまう、という現実もある。尤も実名原則だから倫理があると言えるかというとそれは微妙で、例えばmixiなども建前は実名登録だがペンネームを使っている人は沢山いるし、実際上管理できていない。それに、実名でも言う奴は言うんだよ(笑)。僕だってそうだ。実名で、誰に遠慮することもなく言いたいことをどんどん言っている。

柄谷行人の言説

柄谷行人の言説は、左翼じゃないね。彼はくじ引きとLETSさえやれば、資本制企業でいい、と思っているから。反資本主義、反グローバリズムじゃない。僕は柄谷行人に対して、とりたてて愛も憎しみも抱いていない。単に、係わり合いになってしまったから、それを引き摺っている、というだけだ。僕はカントやフロイトを使って欲望を抑圧する柄谷行人の言説に、もともと反感を抱いていた。柄谷行人の言説の枠組みでは、平和を実現するのは、戦争神経症を通じて、ということになる。僕は全くそうは思わない。平和は肯定的で積極的な欲望によって実現されるものだ。僕達が心から望み、欲すれば、平和が実現できるはずだ。トラウマやら苦悩やらによって、結果的に平和になるのではない。僕は柄谷行人の傲慢な言説よりも、ガタリコミュニズムを継承したネグリ=ハートやパオロ・ヴィルノらのマルチチュード論のほうが現状分析として優れている、と思っている。

教育再生会議に貴方の声を届けよう!

教育再生会議に貴方の声を届けよう! 社会奉仕活動の義務化に反対し、補完通貨で自然に倫理的になる道を提案しよう。ボランティアは「強制」すべきものなんかじゃない。喜びなくしてボランティアなし。善意すら内申書の対象になる社会にNOを言おう!

柄谷行人は、超越性の思想家

柄谷行人は、超越性の思想家だね。彼には内在性とか生成、差異、多数多様体などが分かっていない。マイナーなものへの生成が何故革命的なのか、無意識の欲望のラディカルさなどを理解していない。柄谷行人は、超越と否定をもってことにあたる。ヘーゲルを否定しているが、実質的にヘーゲリアンだ。デカルトスピノザを論じていた頃には魅力があったが、カントに嵌って彼は変わった。それと、若い頃からの、頑固なマルクス主義マルクスと言い続けさえすれば、ラディカルだ、と言わんばかりの態度だ。マルクスの頃と比べて、時代はすっかり変わってしまったのに、何故延々とマルクスを参照し続けなければならないのか。『資本論』を読破しないと革命はできない、というような思い込みが何故この21世紀においてさえ必要だと言うのか。僕は、全くそうは思わない。

柄谷行人とNAMは、現代版の革マルだと言うことができる。「理論の革マル」とよく言われたが、NAMも理論、理論、ひたすら理論……で他の運動体を超越し、高みから批評するといった傲慢な態度を取っていた。柄谷行人自身は今でもそうだ。先の見えない運動の現場で、身体を使って闇の中での跳躍を敢えてする、ということを彼は決してしない。言葉、言葉、ひたすら言葉……。「終焉」を巡るお喋りに興じるばかりで、実践的に何かを想像/創造することがない。何かを楽しむことも、脱力することもない。延々と、国家と資本を揚棄する、揚棄する、揚棄する……とオウムのように繰り返している。それは柄谷信者らも同じだ。

はっきり言っておきたいが、book cafe経営の某氏や熊野大学の常連の某氏のような、分かり易い狂信者だけが柄谷信者なのではない。表面上、信者であることを否定し、アイロニーによって距離を取っているかの如くに装っている「知的」な連中が一番悪質な信者なのだ。僕はそういう人達に数多く会ってきた。彼・彼女らは、自分らはうまく立ち回っていると、決して騙されないと思い込んでいる。だが、それは愚かな錯覚だ。カラタニズムの生成を許したのは、この人達だ。この人達はいまだに反省なく、柄谷行人を支持・擁護している。信じ難いことに!

西部忠の言説

僕は、西部忠の文章でLETSというものを初めて知った。で、面白いけれど、マイケル・リントンのホームページなどを読んで、こんな素朴?な貨幣論で大丈夫なのかな、と疑問も抱いたりしていた。その後、西部忠とはNAMでQプロジェクトを一緒にやることになる。

西部忠と彼に触発されていた時期の柄谷行人の言説の特徴は、multi-LETSを多数多様体の実現と看做しているということだ。ドゥルーズ=ガタリの言説ではあくまで潜在的な理念であるところの多数多様体が、多元帰属という具体的な制度に現実化される、というのは僕には魅力的だった。

が、実際にやってみると、手続きの煩瑣さが予想を超えた。膨大な数のMLを管理する手間は相当なものだったし、LETSにせよ複数のそれを管理運営する余裕など到底なかった。今はCCSPがあるから、MLを立ち上げるのと同じくらい簡単にオンラインLETSを立ち上げることができるが、Windsしかなかった頃にはそんな事態は想像もできなかった。

紛争の本質

Q-NAM問題は多数のQ-NAM会員を巻き込み、生々しい人間的(或いは非人間的?)なドラマが演じられた舞台であったが、その本質を見ると、柄谷行人西部忠の理論上の一騎打ちとも捉えられる。つまり、貨幣の「信用」、その価値が何によって根拠づけられ成り立つのか、という重要な論点に対する思想が違うのである。

西部忠は、貨幣が金(きん)から紙幣に、そして電子マネーにと脱実体化していく趨勢を踏まえ、個々人の間の信頼関係をベースに成り立つ地域通貨を構想した。それに対し、『Lの理論』における柄谷行人は、国民通貨(円)に、基軸通貨ドルに、そして最終的には金(きん)に根拠づけられて初めて、流通する市民通貨が成り立つと考えた。英語版及び岩波著作集版の『トランスクリティーク』ではLETSに関する記述が完全に書き改められている。

僕は柄谷行人『Qは終わった』がNAMホームページで公表された時、西部忠が説得的な理論的反論をQのホームページに掲載していれば、Q-NAM会員はいずれの言説を信用したらいいか、自分の頭で判断できただろうに、と残念に思う。当時は、虚しいパフォーマンスや威勢の良い(その実空疎な)言説ばかりが横行しており、冷静に理論的吟味をする余裕など誰にもなかった。だが、現在は違うはずである。西部忠(Q)が正しいのか、柄谷行人(L)が正しいのか、或いは両者とも駄目なのか、自分の頭で考え判断することができるはずだ。僕は、今からその判断をするのでも、少しも遅くない、と思う。そもそも資本主義をどうにかしよう、ということ自体、時間が掛かる話だったのだから、数年遅延が生じたところで、何ほどのことでもないだろう。

権力志向とフェティシズム

Q-NAMは人間本性を変えることなく、社会変革をしようと志す運動だった。つまり、欲望のままに自然に振る舞っても、いつの間にか倫理的になってしまうような仕掛けをつくろう、としたのだ。それがLETSとくじ引きだった。

お金が欲しい、という人間の欲望を変えることはできないが、LETSを導入することで資本蓄積の動機をなくすことができる。権力志向という人間性を変えることはできないが、くじ引きをすれば権力が固定化されなくなる。それがQ-NAMの建前だった。

700人以上の人を巻き込んだQ-NAMの実験は、今の時点で客観的に見ると、ほぼ完全に失敗に終わったと見て良いと思う。Qは細々と存続しているが、NAMは惨めに潰れ、運動の再建など影も形もない。1月31日までに何かが起こる予兆などない。

で、凡庸な日常生活に戻ってきたわけだが、Q-NAM体験以前と以後で、違いもある。国家と資本への対抗的な意志ないし欲望が本性にまで肉化されているのだ。オルタナな交換なり生産なりをつくっていこう、という思いだけは募るばかりだ。実力が伴わないので、なかなか成果はあげられないけれども…。少なくとも僕は、book cafe経営の某氏や著作権専門の弁護士の言い草ではないが、Q-NAMを後50年はやるつもりだ。それは、NAMの理論と実践に拘束される、という意味では全くない。資本と国家に現実に対抗していく運動をつくっていく、ということだ。そのために全力を尽くそう。できることは少ないかもしれないが、死が訪れるまで、まだ時間はたっぷりある。

multi-LETS

西部忠と(少なくとも一時期の)柄谷行人は、multi-LETSが高度資本主義下の複雑な主観性のありように対応している、と考えていたふしがある。西部忠岩波ブックレット地域通貨を知ろう』で、個人の「多重人格性」にまで言及しているが、これは地域通貨研究者/実践家としては珍しい姿勢だと言える。地域通貨をやる人は大抵、顔が見える取引だとか言って、人格的関係の回復に望みを見出しているものだが、西部忠の場合は事情が若干複雑らしい。個人が多数の通貨(=メディア)に多元帰属して、それぞれに自己を部分的に開いていく、といった姿が理念型として想定されている。これはイメージとしては面白いと思うが、制度的に具現化していくのは若干骨が折れるかもしれない。

人間不信

この4年間、いろいろなものを見てきた。僕は、一方で西部忠に労わりの言葉を掛けながら、彼が参加していない別の場では彼を人格的に貶めるような発言をする(ダブルスタンダード!)者らを決して信用しない。QからLへ、そして訳の分からぬ自己正当化へと逃げ込んで行った連中を絶対に許さない。

大体柄谷派の人達というのは、他者(Qや重力)が上手くいっていないことを高みから見下ろして自己正当化に努めているわけだが、そうした姿勢そのものが非倫理的だ。他者のことを論う前に、自分自身の実践をつくっていくべきではないのか? 地道に草の根の運動をやっていこうという気持ちはまるでなく、心理的な穿鑿と揚げ足取りで一生を過ごす人達とは、決して一緒にやれないと思う。