俺の《居場所》

勝手に確保するしかないのは変わらないんですが、何と言うか《所謂ヲタ》ではなく、《オタ趣味の人》でありたいと思っています。《外》の人のステレオタイプを崩すのは難しいのかもしれません。が、俺の周りにいる人で《ここ》の事情、《ヲタの事情》を知ってしまった人には、何としてでも《俺はオタ趣味の人なのですよ〜ん》とアピールする必要が出てくるでしょう。ただ「アピール」といっても、安易な方法ではアイタタなだけです。だからそういう活動を行うときは慎重に。そもそも俺は「周りの人」と呼べる人を増やすのが先決とかそういう状態なんですけどね。人嫌いをやってたので当然の後遺症ですよ。これは《俺の内実の問題》。だから自分で考えるしかないんですね、というありきたりな〆で本エントリーは終了。

《居場所》があるとすれば

もし、前述のような「どうしようもない」状況から無理矢理《居場所》を作るとすればどうなるか。《他人》をダシにするんです。TRPG関連での話だと「無根拠に自分が《上》である」と思い込むのです。やたらと「ハイスペック捏造キャラクターシート」を持ってきても、マスターという暴君には正面切って勝てません。じゃあ他PCを脅すのです。それは一見「PCに」当たっているようにも見えますが、ターゲットは当然《他プレイヤー》です。だからもうね、苦笑するしかないのですね。ゲームの進行としては殆ど意味はないのに、自PCの有用性をひたすら誇示するけど、やはりプレイヤーがバカなためPCの運用ができてません、とかこれも苦笑するしかない事態になります。情報取ったら「他PCに絶対公開しません」とか言っちゃって、セッション崩壊も厭わないとか素敵過ぎます。結局《他人》に対して自分が《上》だと感じたいだけですね。TRPGにはシステムがあるから、そこを拠り所にする、TRPGは対人ゲームなのでそこで「出し抜く」とかしたくなっちゃう。TRPGというゲームはそんな奴を入れたら壊れるんだってば。そうでなくてもマスタリングは大変になるだろうし、いい事は何一つないと言う状態になります。追い出せ追い出せ。

《居場所》なんぞあるはずがない

長々書いてますが、「《会話もどき》ができればOK」「自分は周りと同じだと無根拠に信じて安心する」「《自己否定》しなきゃいけない理由の考察はしない・する気がない」というのがある限り、《自分を受け入れてくれる人》なんて出てこない、もしくは見つからないのではないかと思います。「《ここ》はヲタのレッテルが貼られているからここでやるよん。安心だよ〜ん」というのは、《ここ》に用がある俺みたいな人種には迷惑でしかないのです。そして《会話》が必要と思う人は、そんな《会話もどき》しかしない生き物に、基本関わりません。やっぱり《ここ》にも《居場所》はないのよ。「ヲタだから弾圧されてます」などと思って居場所のなさを感じて、「それをどうにかしたい!」と思ってるのかどうかも怪しい連中が《群がって》来てるだけだという現状がありますよ。秋葉原駅前でDS持って立ってるだけの連中とか見てるとどうでしょうかね。TRPGでいえば、地蔵の多くはこれですね。《群がって》くるんだけど、それだけ。それでしかないから「基本使えないから優先度下げます」なんて言われちゃうのです。そもそも「地蔵」なんて名称はどうやってつけられたのでしょうか?…何もしないからです。ゲームをしに来ていない。人の集まる匂いを嗅ぎに来ているだけ。だから普通にゲームにならない。マスターとしちゃ来たら来たで「どうやってそいつにかける時間を最小化するか」みたいな事も考えなきゃならんのですよ。次からは警戒しますね。こうやって《居場所》というのはどんどん減っていくのです。「その無自覚さ」を何とかしろよ、と俺は思うのですが、どうやらそれは難しい注文かもしれません。

《近寄るな》というのは簡単ですが

まぁそんなに危険な場所なら近づかなければいい、というの確かにありますね。例えばそういう趣味がなければ新宿二丁目で飲んだりしないとか。でもね、俺は《ここ》で「話せる人」を見つけたいと思ってきてるんです。だから「近づくな」というのは解法になりません。自衛は必須だし、暴力での犠牲になることは極力避けなければなりません。それに、どこに行っても《勘違いした奴》ってのはいるもんですし。《ここ》は、その《勘違い君》がやたらと多くて、《外》からは「そんなもん」というレッテルを貼られて、それ故に無批判に「みんな同じだよね」という感覚を共有したつもりでいやがるのが多いんです。俺の場合は《ここ》というのはTRPGだったり同人音楽だったりするというわけですね。何度も言いますが、俺は「同好の士」を求めてるのであって、《会話もどき》に付き合いたいとは全く思っていないのです。それだけですよ。「自分と同じ問題を抱えた人がいるよねー」等とは思っていません。だから「一緒にすんな」とか思ってますよ。それこその「奴ら」というレッテル貼りです。ただ、その個体数が異様に多くて苦戦を強いられるなぁと再認識しているというわけです。

一緒にしないでください

さて、この界隈で困るのは「《ここ》にいる奴、みんな俺と同じ前提条件!」と思っている奴が多すぎる事です。俺は確かに《ここ》にいるけど、そんな《自己否定》はしていないし、《会話もどき》ができればそれで満足では「決して」ないのです。確かに《ここ》はヲタの領域として片付けられますが、だからといって《妙な自己否定》をした連中だけが集う場ではないのです。それがわからないか無視している奴が多すぎる、というのは「壮絶に馴れ馴れしい」という状態を生みます。そりゃ「みんな俺と同じ!」ですから当然といえばそうなのですが。そういう「前提」で人に接するのは、時々暴力的だったりしますよ、という事が言いたい。上では「会話ができない」と言っています。またそこでは「まともな会話をさせない行動原理がある」と言っているつもりです。それは十分暴力的な事態を引き起こすのではないかなと思っています。何か話そうにも、センテンス最後まで発話することすらままならないというのはどうなんでしょうか。殴られたりするわけじゃないけど、十分なストレスとなります。誰かが何かを言いかけたら口を挟んで会話を切り、自分の話題で塗り替える。「思いつきとか連想の結果」でもいいですし、俺語り(ひいては俺自慢)でただ《自分だけが喋る》。それで自分の喋ってる時間をマキシマイズするのが、こういう人達の行動原理です。これは一種の暴力だろと思いますが、どう思われますでしょうか。まぁ姑息と言うか、そういうやり方が実に「らしい」とか何とかつい思っちゃいますね。

伝わらない

まぁ《自己否定》してても構わないけど、自分を否定しまくっているからこその《自虐》だし《会話に主観を絡めた話が少なすぎ》という状態が出来上がる。自分で「想う」事なんてないのに、《会話》はしたいもんだから、《会話》セッションのパチモノを構築しなきゃいけなくなるんです。これは多分、最初の話者を放っておけば、延々と《タレ流し》を続ける事は想像に難くない(朝礼で校長先生の話が長いのはいい例かもしれません)ので、それを抑止するための「話者交代システム」が「連想ゲーム」というわけ。これなら今まで培ったヲタ知識の自慢もできていいでしょ?というわけ。でもね、目の前にいる他人は、全員が全員「そういう状態」にないという事くらいはわかって欲しいなーと常々思っています。こんな《会話もどき》をしなくてよくなる時は来るのか、というのは指標の一つ。ダメそうならその場から抜けるとか、他の方法を考えないといけなくなりますのでね。

その昔に

「《奴ら》は会話をしない」とネットのどこかに書いたことがある。「そこにあるのは《会話》ではなく単なる言葉のぶつけ合いだ」というような旨である。「そういう人達」というのは、「目の前に出てきた単語から連想した事がある」という理由で、《会話》をぶち切って「今自分が思いついた事」を口走る。これが「俺はこう思う」等の意見の類ではなく、「どこかに書いてあった事とか自分がした事」をただ読み上げる、というより《タレ流す》だけなのである。何か言いたいことがあっても、こんな場では何も言えない。《話》は、センテンスの最後まで言う事すら難しく、途中で無理矢理ぶち切られ、乗っ取られて全然違う話になってしまう。もうね、「何か意見なり言いたい」とか思って口を開いて、《会話》というセッションを作りたいんだけど、それを他の全員がブチ壊そうとするように動く事が《普通》になってるんだ。そもそも(簡潔なものであっても)ひとつの事を伝えようとすると、必ず「そうそう、それで思い出したんだけど」って口を挟まれてセッションを切られちゃう。殆ど全員がこれをやるから、《会話》セッションなんてのは殆どの場合成立しない。まともに話なんてできません。俺がしたいのは「どっかに書いてあることの読み上げ合戦」だけじゃなくて、意見とか《想い》とか「そういうの」も伝えるという事だ。勿論、他の人の「そういうの」も聴きたい。ここがないと、人と直接会って話す意味がない。「どこかに書いてある事」も重要かもしれないけど、それは主に「目の前に出された言葉」を検証するとか(それはゴールデンルールに記載があります、とか)、補足とかに使われるんじゃないのか、と思うわけです。が、現実はそうでもないわけでして。「他人様の言葉にぶつける言葉や思いつき」がない場合(《弾切れ》)なんつう場合に、前にも書きました「今朝コンビニで牛乳買ったんですけど」などといきなり切り出されて困るような事も多々あるわけです。