国語教科書の思想 (ちくま新書)

国語教科書の思想 (ちくま新書)

評論入門のための高校入試国語 (NHKブックス)

評論入門のための高校入試国語 (NHKブックス)

この日付の文章は石原千秋によって議題設定された国語科の十年を清算したいに移行しました。

反論の技術―その意義と訓練方法 (オピニオン叢書)

反論の技術―その意義と訓練方法 (オピニオン叢書)

新版 論文の教室 レポートから卒論まで (NHKブックス)

新版 論文の教室 レポートから卒論まで (NHKブックス)

欠陥書:香西秀信『反論の技術 ―その意義と訓練方法』学生向きではない欠陥書:戸田山和久『新版 論文の教室 レポートから卒論まで』へのリンクをしておきます。宣伝です。しかし、以前にも同系統の内容をはてなに書いて反応ゼロだったので、今回もたぶん何もないだろう。

【新共通テスト記述式】大学側が採点する方法に反対する-特に採点の観点から-:rochejacmonmoの日記でリンクし引用し言及評価していただいた。こんなことは生まれて初めてと言って良いくらいのものであり、ありがたいという思いがする。自分には及びもつかないほど丁寧な検討をしている記事である。とは言え、2016-8-27の記事であるにもかかわらず、ここでのリンクを踏んで私のダイアリーに訪問した人は今回が初めてである。多くの人はブログ等をもう真剣に読んだりしていないのだろうな、と思う。今は個人的事情でこれ以上読んだり書いたりする気になれなくて、著者さんには申し訳ない。

フェイスブックが「活動」の役に立たないと思う理由

フェイスブックは、営利企業や社会事業や言論活動などの目的的かつ継続的な活動のためにはあまり役立たないツールである。その主な理由は、ユーザの多くは自分のホームにある「ニュースフィード」しか見ていないことにある。「ニュースフィード」しか見ていないというのは、次の三つを含意する。一つめ。ユーザの多くは「個人のプロフィールページ(個人ページのタイムライン・ウォール)」や「Facebookページ」を見ていない。つまりユーザの多くは「ページ」全般をそもそも見ていない。二つめ。ホームにある「ニュースフィード」には、たとえばそのユーザの「友達」の投稿がすべて表示されるわけではない。あるいは自分の投稿が、自分の「友達」すべての「ニュースフィード」に表示されるわけではない。三つめ。これは推測だがユーザの多くは、「ブログやサイトへのリンク」をする記事を見たとき、そのリンク先のページをめったに参照していない。これにあとプラスして四つめ。友達以外からのメッセージがごみ箱送りになっていることに気づいていないユーザが確実に存在する。以上四点。

一つめの点はたとえば次のウェブページで主張されている。★友達はあなたの投稿を見に来ない! 「トップに固定」効果を勘違いした私でである。このことの帰結は大別して2つある。

1つは、情報の発信者が知ってほしい順番でユーザが情報を受け取るわけでは全くない、ということである。どういうことか。通常、発信者は、まず基本的な情報や前提を知ってもらい、それを踏まえたうえで徐々に重要度の落ちる活動や最新記事などを受け取ってほしい、と思うはずだ。要するに重要な順に情報を受け取ってほしいと思うはずだ。しかしこの原則が可能なのは「ページ」においてのみであって、「ニュースフィード」では真逆になる。つまりユーザは最新情報しか見ない。最新情報からしか見ない、のではなく、そもそも最新情報しか見ないのである。情報の発信者が、重要な順に情報を知ってもらいたい場合にコントロール可能なのは「ページ」だけであり、そこはユーザの多くは見ないからである。

もう1つは、ユーザは記事を原則としてそもそも「一回限り」しか見ないということだ。というのは、「ニュースフィード」に表示された記事はそのまま他の記事に埋もれて、少しずつ下の方に沈んでいくだけだからだ。発信者が記事を編集して内容に変更があっても、再び最上部に上がるわけでもおそらくない。反面、「いいね!」やコメントがつくと、そのことによって「ニュースフィード」の最上部に再度上がることはありうるが、発信者がそれをコントロールできるわけではあまりない。これが「ページ」で閲覧される記事との決定的な差である。つまり「ページ」に書かれた記事なら何度でも読み返すことができるし、そうしたほうが良いものが記事として書かれがちだが、実際にはフェイスブック上の記事は読み返されることなく終わっているわけだ。

二つめの点は、★「最新情報」に切り替えてもFBの投稿すべては見られない。でも、試す価値ある機能だ!!★Facebookのリーチ数、届くのはあなたの想像よりずっと少ない! 1というウェブページに参考になる見解が示されている。自分の「ニュースフィード」に自分がフォローしているページの投稿がすべて表示されるわけではない、ということが、あるいは、自分をフォローしているすべての人の「ニュースフィード」に自分の投稿が表示されるわけではない、ということがまず一つ重要だ。だがもう一つ重要なのは、記事の送り手の行動ではなく、受け手の行動によってこそ表示頻度等が変わる、ということである。たとえば私の「ニュースフィード」への表示頻度は、私の「友達」のアクティビティによって大きく変わる。反面、送り手の行動によっては変わらない。特に「記事の編集」によっては変わらない。むろん、送り手もまた何らかのアクティビティを自分の記事に対して示せばいいわけだが、そこには限度がある。フェイスブックが現実的な活動のために向かない理由の一つがここにある。つまり、確実な連絡ということにフェイスブックはとにかく向かないのだ。確実な連絡のためには「ニュースフィード」ではなく「ページ」で記事を参照してもらわなければならないが、そういうユーザは稀少だからである。

三つめの、記事のリンク先のページが参照されていない、というのは私の推測ではあるが、以下のページにも同じ推測をやや断定的に述べた箇所がある。★ニュースフィードで友達にみっともない姿、見せていませんか?! FBの基本を押さえようでは


私はしばしばブログへの誘導記事を書くが、総じて友達の反応はよくない。

せっかくニュースフィード(友達の投稿)を読んでいるというのに、そこから連れ出して「俺のを読んでよ」と言っているのも同然だから、冷たくされて当然だ。

と述べられている。もしそのような事態が事実であるのなら、フェイスブックでの記事は早い話リンクする行為と合わないのだ、ということにもなる。仮にもし、ユーザがネット上の「ページ」を閲覧しているときなら同じことには比較的ならないだろう。しかしフェイスブックの場合、多くのユーザは「ページ」を閲覧しているのではなく、あくまで「ニュースフィード」のみを閲覧している。なのでそのことがおそらく原因となって、フェイスブック記事とリンク行為との相性の悪さが生まれていると推察できる。どのみちフェイスブックの記事では引用タグも使えないし、記事の途中にURLを挿入することもやりやすくない。すなわち、フェイスブックはa要素によるいわゆるリンクのためにあるのではない、と思った方が良いのだ。これもフェイスブックが特に言論発信や情報提供を中心とした諸活動と相性が悪い理由の一つである。ちなみにリンク先のこの記事は、「友達のニュースフィードにどう表示されるかを意識すること」を「社会性がある」と呼び、「自分の個人プロフィールページを見に来る読者を意識すること」を「社会性」のうちにまったくカウントしていないも同然なわけであり、そのことが自明視されているというとても気分の悪い記事ではある。しかしフェイスブックにおいては「ページ」を中心に考えること自体が「社会性が無い」と見なされうるという、そういう感覚を知ったことは勉強になりはした。そういうユーザがほとんどいないのだから、そういう、存在しないユーザを想定する行為は「社会性が無い」というわけなのだろう。

四つめ。友達以外からのメッセージがごみ箱送りというのは、以下の記事に指摘がある。Facebookのメッセンジャーの仕様が変わって知らない人からのメッセージはほぼ発見不可能にである。ここに書かれていることが事実なら、「友達申請のために非友達にメッセージを送る」ことが不確実であることをまずは意味するだろう。それ自体も自己破壊的な話ではある。しかし、友達申請に限らず、メッセージ機能が見かけだけ機能するように見せておいて友達以外には実際には機能しないのなら、メッセージ機能を用いた活動が役に立たないことを意味する。連絡なども確実には行なえないことになる。

以上四点が、フェイスブックが目的的かつ継続的な諸活動に向かないと感じる理由である。これにあと一つ付け加える。以上の四点の多くは、私はフェイスブックユーザから直接教わることが無かった事柄だ。そういうことに関心が無いのか、知らないのか、不親切なのかはわからない。私は一年未満のフェイスブックユーザであるが、他のユーザが大して当てにならないことに驚いたものだ。ともかく、フェイスブックというメディアはそれにふさわしいようなユーザによってこそ使われている、としか言いようがない。だから(と言いながら飛躍するが)、フェイスブックやそのメッセンジャーではなく、ウェブサイトとメールを中心とした「フェイスブック以前の時代」のツールこそが、現実的な諸活動に向いているツールなのである、と思うのだ。そしてこの記事自体も、フェイスブックに投稿などして発表してもしようがないので、はてなで書くことにしたというわけなのだ。

レッド・ステイツの真実 ――アメリカの知られざる実像に迫る

レッド・ステイツの真実 ――アメリカの知られざる実像に迫る

西森マリー『レッド・ステイツの真実』より、引用しておきます。内容をその後追加しました。

p72。


この章では「under God」をめぐる法的争いに関して説明させていただくつもりですが。本題に入る前に、大多数のアメリカ人が「社会主義」を嫌う理由をおさらいしておきましょう。

アメリカ人の多くが社会主義を嫌う最大の理由は、大きな政府が様々な側面を取り締まる社会主義社会には個人の自由が存在しないからです。

p73。


キリスト教徒の多くが社会主義を嫌う最大の理由は、マルクス唯物論は神の存在そのものを否定するものだからです。


ソ連共産主義ですが、共産主義社会主義の延長線上にあるので、多くのキリスト教徒は「社会主義」という言葉を聞いたとたんに反射的に宗教弾圧を思い浮かべてしまうのです。

アメリカ人の多くが「社会主義」「共産主義」を生理的に受け付けない、という事実が分かったところで、本題に入りましょう。

上掲の引用をよく覚えておくことがあとで重要になります。「第二十一章 疎外感を味わう保守派キリスト教徒」の叙述を読むときに少し注意が必要になるからです。p263。


この一言と様々な調査結果が物語っている通り、少なくともここ数年のアメリカのメディアは圧倒的に「左寄り」なのです。

というときの「左寄り」は、日本での「左寄り」とは異なっており、「社会主義共産主義寄り」を意味しないことがわかります。アメリカ人の多くはそれらを生理的に受け付けないはずなのですから、メディアが「圧倒的に社会主義共産主義寄り」になどなるはずがないからです。ここでの「左寄り」は「オバマ寄り」「民主党寄り」「リベラル寄り」のことにすぎません。

したがって、それ以降この章で「左翼」「左派」「極左」などの形容詞が出てきた時も、それらは社会主義共産主義」的であることを意味しないと読むのがおそらく妥当です。著者は、日本の読者が「社会主義的・共産主義的」の意味として読みかねないことを知って、この章で意図的に印象操作しているのではないかと思われます。その疑いがあります。読むときに注意が必要な箇所だと思いました。いずれにせよ「米民主党寄り」の立場のことを「左翼」「左派」などと定式化するのは通常の用語法ではまったくありません。

ここにあった文章は古い書評:許光俊『クラシックを聴け!―お気楽極楽入門書』:結局はドイツロマン派入門だがそれで良いに移行しました。

クラシックを聴け!―お気楽極楽入門書

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