散歩をする 501 百舌鳥古墳群の周濠を訪ね歩く

大阪の古墳とその周濠を見て歩く計画は、2019年からのやり残した宿題でもあります。

 

遠出を始めたばかりの2019年2月に木曽三川からぐるりと紀伊半島を回って新大阪へと戻る時に夕闇の中で気づいたのでした。当時はまだ古墳にはそれほど関心もなかったのですが、特急で通過した時には平地にしか感じなかったのに、ちょうどブラタモリで「見晴らしの良い高台に古墳群が造られた」ことを放送していたことが記憶に残り、いつか歩いてみたいと思っていました。

「百舌鳥」という地名にも惹きつけられますしね。

 

そのうちに奈良の古墳の周濠の水は田んぼに利用されていたことを知り、大阪のこの周濠もやはりそうなのだろうかと気になっていました。

 

2022年11月に久米田池を訪ねた時は体力の限界であきらめ2023年9月に狭山池を訪ねるときは詰め込み過ぎの計画でそばを通るだけになってしまいました。

 

いよいよ今回の遠出はこの百舌鳥古墳群と、さらに翌日には古市古墳群の周濠をみてまわる予定です。ちょっと無謀な予感もするのですが。

 

 

 

 

百舌鳥古墳群を歩く*

 

 

行基さんが生まれ育った家原を訪ねて満足し、津久野駅からJR阪和線で一駅の上野芝駅に向かいました。

Wikipediaによると2019年7月に世界遺産に登録されたようですが、上野芝駅の周辺には特に案内表示はなくて、かえって巨大な古墳群が普通に生活の中にあるようなうらやましさを感じました。

 

駅を出て最初の履中天皇百舌鳥耳原南塚へ向かいましたが、途中、府道34号線がJR阪和線の下をくぐってさらに下り坂になっているのが見えました。

西と北はそれぞれ緑ヶ丘と旭ヶ丘で、時々西側へと続く道路の先に堺の港湾施設が見えました。「標高15~22mの台地の西縁部」(Wikipedia)でそばを石津川が流れているようです。

 

南側は周濠のギリギリまで住宅が建ちそのあいまに古墳の森が見えていましたが、やがて周濠が見えて、周囲の遊歩道に入りました。

1926年(大正15年)当時は「東側の周濠に沿って延びる田んぼの畦が存在した」(Wikipedia)とのことですが、どんな風景だったのでしょう。

周濠の水面を眺めながら数百メートルほど歩くと、履中天皇陵の北側と接している大仙公園に出ました。ここにも、中小さまざまな古墳がありました。

 

計画ではJR阪和線の東側にあるいたすけ古墳や御廟山古墳をまわってから仁徳天皇陵の周濠を歩くつもりでしたが、履中天皇陵の周濠だけでも相当な距離なのに仁徳天皇陵はさらに1.5倍ぐらいありますからね。これは無理だとわかりました。

 

 

*見晴らしの良い台地の上*

 

午前中からすでに19000歩、休憩も兼ねて堺市立博物館に入りました。

百舌鳥古墳群ー巨大古墳が集まるー

百舌鳥古墳群は、大阪湾上の船からよく見えるよう台地の上に造られており、このことから当時の王権が海外に目を向けていたことがよくわかります。墳丘の長さは10m~500m近くとさまざまですが、300m以上もある巨大な古墳を3基含んでいます。墳丘の形は、前方後円墳、帆立貝形墳、円墳、方墳の4種があります。この古墳の大きさと形の違いから、埋葬された人の生前の政治的、社会的な序列や身分が読み取れるため、百舌鳥古墳群古市古墳群と共に、当時の政治・社会の階層構造を示すものとして、日本の古墳群の代表といえます。

(展示より)

 

巨大でしかも数多い古墳に圧倒されましたが、その高台にある周濠を満たす水はどこから来ているのか、その水を田んぼに利用し始めたのはいつ頃なのか、素朴な疑問の答えはまだ見つからなさそうです。

土塔 についてと大和川についての資料を買って、また歩き始めました。

 

博物館を出ると、目の前が仁徳天皇陵の外側の周濠です。三国ヶ丘の駅に行くには歩き切るしかないので、疲れた足を引きずりながらただひたすら鬱蒼とした古墳の森と周濠の水を眺めながら歩きました。

日当たりの良い土手に、水仙が咲いていました。古墳の周濠の美しさにますます惹かれていきそうです。

途中、周濠から取水口と分水路のようなものがありました。かつてはこのあたりにも田んぼがあったのでしょうか。

 

 

そういえば三国ヶ丘ですからここも台地の上ですね。

駅から北へ2kmほどで現在の大和川がありますが、1704年に付け替えられるまでは淀川に合流していたとのことなので、高台はもっと北の方へと自然堤防のように続いていたのでしょうか。

 

百舌鳥古墳群を訪ね歩く」、実際には5分の1も達成できていないので、またやり残した宿題になりました。

 

 

「散歩をする」まとめはこちら

 

 

 

 

 

 

 

行間を読む 204 大和川付け替え前の新田開発の地

行基さんの生家を訪ねたあと、その斜め向かいにある家原大池に立ち寄りました。

東側の体育館や南側の公園はおそらく池を埋め立てたのだと思われますが、家原大池の歴史がわかるような説明は見つけられませんでした。

 

広大な池の道路を隔てた北側が小高くなっていて、その裾に何か史跡があるので立ち寄ってみるとお城の跡でした。

原城

 16世紀中頃は、三好長慶が近畿・四国地方で九ヶ国余りを制圧し、和泉国もその支配下にありました。しかし、永禄8年(1565)以降、三好長慶重臣であった松永久秀が、長慶の後継者である三好義継を擁する三好三人衆と対立するようになり、家原城においても対立した状況が、以下の資料でわかります。

 「細川両家記」によると、永禄9年(1566)2月、家原城には松永方の泉国の侍たち(泉州衆)がたてこもっていました。泉州衆は城を出て、堺を出撃した畠山高政と合流し、上芝(現在の上野芝)で三好義継の軍勢13000と戦いますが、敗れて岸和田城に逃れました。

 永禄11年(1568)9月には、織田信長の勢力が、三好三人衆を破り、畿内を平定しました。しかし、「細川両家記」によると、同年12月には、三好義継の家臣の寺町左衛門大夫(さえもんだいふ)・雀部治兵衛尉(ささべじひょうえのじょう)らがたてこもる家原城が、京都奪還を目指す三好三人衆に攻められ落城します。この戦いは、翌年の2月27日に上杉謙信にも伝えられました(『上杉家文書』)。

原城から逃れた人々は、踞尾(つくの)、家原に住み着いたといわれています。

 現在は、大幅に地形が改変されていますが、大池に面した部分にかつての家原城の面影を見出すことができます。

   堺市 2013年9月

 

歴史人物の記述は目が滑ってしまうのですが、案内板の絵図では堀に囲まれた家原城と、その南西に池が描かれ、石津川に挟まれた地域と東側に「田」とあるのが目に入りました。

 

てっきりこのため池も行基さんに関係があると思ったのですが、中世あたりからの新田開発のためでしょうか。

かつての田んぼのあとは片側3車線の府道61号が真っ直ぐに通り、家原城の背後には堺市総合医療センターが要塞のようにそびえていました。医療センターの入り口になぜか大きな青銅の象がいました。

 

津久野駅の近くでお腹が空いて関西風のうどんをむしょうに食べたくなり、お店に入ってうどんと親子丼のセットを頼みました。このあと古墳群を歩くので腹ごしらえが大事ですからね。

子どもの頃から食べ慣れた関西風の味とやわらかめのうどんに、「これを食べたかった」と大満足でお店を出て津久野駅に向かいました。

 

 

*津久野と踞野*

 

片側3車線の府道の周辺はマンションも多く最近開発された街かと思ったのですが、ふらりと寄ったお店の昔懐かしい味に、帰宅してから「津久野」はどんな歴史のある街なのだろうと検索してみました。

 

Wikipediaの「津久野駅」にかつては「踞尾」表記だったことが書かれていて、家原城跡の案内板にたしかに「踞尾」と書かれていることと繋がりました。まず読めないですね。

 

Wikipediaに「踞尾村」の説明がちゃんとありました。

その中に「1698年(元禄11年)に当村の北村六右衛門が摂津国西成郡の三軒家浦に新田を開発」に目が止まりました。「浦」に「新田開発」、これは干拓でしょうか。

ここから2kmほどで海岸になります。

 

大阪は土地勘がほとんどないのでWikipediaの「西成郡」を読んでもなかなか地図と重なり合わないのですが、以下の部分が何かこれからのヒントになりそうです。

一方、淀川や大和川は流してくる土砂は上町台地のはるか西の沖合いまで、いくつもの支流と小島を作って海を埋め尽くすようになった。この土砂は通行路である河川を浅くしてしまい、洪水や氾濫の原因にもなる厄介なものだったが、次第にこれらの新しい島も新田開発が進められるようになった。

 

今回の散歩は大和川のあちこちを歩いてみようというものでしたからね。

歩いた時には気づかなかったのですが、あの辺りは1704年の大和川の付け替え以前の新田開発の場所だったようです。

いつかまたこの大和川付け替えの前後の時代の行間をもっと歩きたいものです。

 

津久野のお店にふらりと入らなかったら、街の雰囲気からこの歴史にたどり着かなかったかもしれません。

これもまた散歩の醍醐味ですね。

 

 

*おまけ*

 

以前から歴史上の人物についての記述は目が滑って頭に入らなかったり、「何人衆」という表現にも興味がなかったのですが、最近の様子と重なりあって気になるようになりました。

 

「何人衆」と言われることで現代の政治家はもしかすると歴史上の人物になったような錯覚があるのかもしれませんが、最近の私は「軍勢13000」と一括りにされるような一人一人の人生の方が気になります。

少数者の利益のために一蓮托生で犠牲になった人々だったのか、見につまされる時代ですからね。

 

 

 

 

「行間を読む」まとめはこちら

城と水のまとめはこちら

あの日(2022年7月8日)から考えたことのまとめはこちら

散歩をする まとめ (501〜)

近所や都内を歩いていた散歩だったのに、最近は全国津々浦々の川や水路や干拓地だけでなく寺社や古墳まで訪ね歩き、思えば遠くに来たものだと思うことが増えました。。

そして一生のうちにもう二度と訪ねることはないかもしれないと決死の覚悟で出かけ始めた遠出だったのに、「そうだったのか」と知ったことが増えた分、知らないことがもっと出てきて再訪することも増えました。

 

そもそもブログを書き始めたのは出産や授乳の安全性について頭の中を整理するためだったのですから、ほんと、遠くに来ました。

 

散歩という言葉はいつ頃できて何を意味しているのだろうと検索したのですが、案外と漠然としているようです。「一般的に用いられるようになったのは明治時代」(コトバンク、精選版日本語大辞典)とのことで、当時はどんな感じで「散歩」と使われ始めたのだろうと気になっています。

 

途中で気になったことのメモや写真から、それにはどういう歴史があったのか、自分の年表を正確にしながら、かつ中央歴史主義史観に陥らないように、もう一度細かな事実を生活の中から見つけていくことで、誰に渡すでもない次世代へのバトンを準備する。

最近の散歩はそんな感じになってきました。

ちょうどキリのいい「散歩する 500」行基さんの生地を訪ねた記録になりました。

 

いつも神妙なことを考えているわけではなく、「あれも見てみたい」「あれを食べてみたい」と思って楽しみながら出かけているのですが、帰宅するとやり残した宿題がどんどんと増えて考えることが尽きなくなる感じですけれどね。

 

ということで、「散歩する」の501からはこちらへとまとめていきます。

 

「散歩をする」(1〜250)のまとめはこちら

「散歩をする」(251~500)のまとめはこちら

散歩をする 500 いよいよ行基さんの生地へ

念願の土塔を訪ねることができました。

 

この土塔町の北に泉北高速鉄道がその上を通過した菰池(こもいけ)があります。このため池もまた行基さんが築造したらしいので土塔のあとそちらに向かい、次に周濠のある土師(はぜ)ニサンザイ古墳を回ろうと計画していましたが、通過した時の菰池の大きさにこれは歩ききれないと悟りました。Wikipediaの説明によれば、1980年代に一部を埋め立ててもこの広さですからどれだけ大きいため池だったのでしょう。

 

散歩の出だしからまた距離感の詰めが甘くてひとつ計画を断念し、別のルートで目的の場所へ向かうことにしました。

 

 

*深井清水の水路をたどって家原寺へ*

 

深井駅へ戻り、そこから西北西へと続く細い水路沿いに歩いて行基さんの生家を目指すことにしました。

その名も深井清水町で、地図では入り組んだ街の中を水路が通っています。どんなところでしょう。

 

駅の西側の交通量の多い府道34号を渡り住宅街を北へと歩くと、おそらく水賀池からの用水路が暗渠になって遊歩道として整備された深井花のこみちがありました。

その大きな水路の下を潜るように南東から小さな水路と交差した場所があり、家原大池という大きなため池へと流れる水路です。

「川の下に川、川の上に川」、ため池を結びながらこの地域に過不足なく水を行き渡らせる、どのような歴史があったのでしょう。

 

小さな水路は少し幅が広くなりながら、住宅地を流れていました。途中に「深井清水の旧跡」と小さな石碑が水路のそばに建っていました。両岸の住宅地は右岸側が小高くなったと思うと、今度は左岸の方が高くなり、もともとは起伏のある場所を湧水を集めながら蛇行した小さな水の流れだったのかもしれません。

コンクリート三面ばりの中には清冽な水が流れていました。

 

数百メートルほど水路沿いに歩くと、道路を隔てたところからは「準用河川伊勢路川」になり、左手は崖のような場所があったり、白っぽい土の畑が残っていたりさまざまに景色が変わるうちに、目の前が開けるように平らな場所に出ました。

水路はここから真っ直ぐ家原大池に流れ、右手に見える高台の向こうに目指す家原寺があります。

 

*家原寺(えばらじ)*

 

高台にある小学校の西側の崖下に、家原寺への山門がありました。高台へ登るのかと思ったら、山門のすぐ奥にお寺が見えます。どんな地形なのでしょう。

周囲は家に囲まれているので分かりにくいのですが、手前に池があり東側は斜面になっているので、どうやら谷戸(やと)とか谷津(やつ)のようです。

池の水は湧水でしょうか。

704年、行基さんが生家を寺にした頃は、どんな風景だったのでしょう。

 

ところで、訪ねて初めて「家原寺(えばらじ)」と読むことを知りました。

ほんと、日本語は難しいですね。

 

家原寺(えばらじ)

 飛鳥・奈良時代の高僧行基(668~749)は、この地で生まれ、父の高志才智(こしのさいち)は、百済から渡来した王仁(わに)を祖先とする一族で、母は蜂田首虎身(はちたのおびととらみ)の娘の古爾比売(こにひめ)とされています(『大僧正舎利瓶記』より)。行基は、仏教の民間布教と同時に、灌漑用の溜池を造るなどの社会事業を推し進めました。行基慶雲元年(704)に、母方の実家のあった生誕地に自ら寺院を建立したのが当寺とされています。本尊の文殊菩薩は「知恵の文殊」として、一年を通して数多くの参拝者があり、特に受験生が多く合格祈願に訪れることで有名です。

 行基の一代記を描いた、当寺所蔵の「行基菩薩行状絵伝」は、国の重要文化財に指定されています。また、当時の境内には天文20年(1551)の銘があり、大阪府の指定文化財となっています。

 大左義長法会は、「家原のとんどまつり」として知られ、多くの参拝者が昇運や無病息災を願って訪れます。

(家原寺の案内板より)

 

 

1月中旬、合格祈願の高校生がひっきりなしに訪れていました。

 

行基さんの時代と重なるこのところの世の中の雰囲気でさらに理不尽さに打ちのめされるような年明けでしたが、だからこそまた十数世紀後にも普遍的なことが伝えられていくのだと希望が見えてきました。

 

 

「散歩をする」まとめはこちら

行基さんの記事のまとめはこちら

 

 

記録のあれこれ 172 行基さんと「知識」の人々の記録

今年の1月中旬、久しぶりの遠出の計画を実行しました。

出かける時には1度、都内に初雪が降った翌日で凍てつく寒さです。真冬の散歩用に購入したスマホ用の手袋をさっそく使ってみましたが、あんまり反応はよくないようです。

 

日の出前の6時40分に品川を出発しました。品川から新綱島、新横浜から鶴ヶ峰までの歩いた場所を見逃さないようにと集中しましたが、まだ少し薄暗い中、あっという間に風景は後ろへと過ぎて行きました。残念。

6時59分、小田原の手前あたりからは霜柱が立っているのが見えました。

すっかり見慣れた沿線の風景ですが、さらにその沿線を歩いた場所が増えたので眺め続けていてもあきることがありません。あっという間に静岡から愛知県へと入り名古屋を過ぎると、建設中だった木曽川の橋がつながっていました。川風の強い中で堅強な橋を建設するのですからすごいですね。

関ヶ原はいつもなら積雪で徐行運転になることが多い時期なのに、うっすらと積もっているだけでした。滋賀県に入ると、麦が芝のように出始めていました。

散歩の始まりだというのに、次々と歩いてみたい場所ができてしまいました。

四季折々、また風景もそして生活も違いますしね。

 

 

*水賀池*

 

9時ちょうどに新大阪駅に到着、ここから乗り慣れない大阪の路線をどきどきしながらの乗り継ぎです。中百舌鳥駅泉北高速鉄道に乗り変えて、すぐひと駅の深井駅に10時16分に到着しました。

このわずか一駅区間にも3つのため池のそばや上を通過します。どんな水路の歴史がある場所なのでしょう。

 

深井駅の直前に水賀池のそばを通過しましたが、広大な池が真っ青な冬空に美しく遊歩道もあるようです。寄り道したくなりました。

周囲より少し高くなったため池でしょうか、桜などが植えられていて休日の朝の散歩をする方々とすれ違いました。のどかな場所ですが、公園の歴史は見つかりませんでした。

 

冬の水鳥に混じって、カモメもいました。堺市はやはり海が近いのですね。

 

 

国史跡土塔へ*

 

水賀池のそばはその名も水池町という静かな住宅地で、ところどころに蔵のある灰色の屋根のお屋敷のような農家もありました。行基さんの頃からこの地を耕してこられたのでしょうか。

 

駅から直線距離で数百メートルほどのところに最初の目的地があるのですが、そこまでも少し上ったり下ったり起伏がある道を歩くと、右手に公園のような場所があって写真で見た場所がありました。

 

昨年9月に狭山池博物館を訪ねた時に印象に残ったのがこの土塔で、住所も土塔町です。

あちこちのため池や水路などを造り、現代でも「行基さん」と親しみを込めて呼ばれている方ですが、こんな形の記録もあるのかと印象に残りました。

 

真っ青な空と周囲のところどころ緑の混ざる芝生に茶色いそのピラミッドのようなものが映えていて、説明板がありました。

瓦葺と文字瓦

 土塔には、前面に瓦が葺(ふ)かれていました。その数は約60,000枚にもなります。また各層の垂直面にも瓦を立てて風雨による盛土の崩壊を防いでいたようですが、葺かれていた瓦の製作年代から、室町時代までは瓦葺(かわらぶき)の補修が行われていたことがわかります。

 土塔からは、文字を記した瓦が約1,300点出土しています。大半は人名で、行基と共に土塔を建立した「知識(ちしき)」と呼ばれる人々の名を記したと考えられ、男女を問わず僧尼や氏族の名前も見られます。

 

 

行基さんと共に働いた「知識」という方々の記録*

 

行基さんの偉業の数々とは少々雰囲気の違うこの場所について、Wikipediaではこんな説明があります。

行基年譜」によると土師郷では、天平13年(741年)頃までに土室池、長土池、野中布施屋が造成されており、大野寺建立にさいしても、まず住民の利便に直結する農業生産を支える灌漑池を作ることから始め、その造成のために集まった人々を仏教用語でいう「知識」として編成し、寺と布施屋の建立が行われたと考えられている。土塔の北方約460メートルには、行基天平13年(741年)以前に造成した「薦江池(こもえいけ)」に相当すると考えられる「菰池」がある。また土塔の築造には大量の土砂が発生するため、土塔の造営と池の造営は、表裏一体の関係にあったともいえる。

土塔から西、および北西方向には奈良時代の遺跡が点在するが、その中に士師観音廃寺(堺市士師)があり、そこから八葉複弁蓮華紋軒丸瓦と均整唐草紋軒平瓦が出土しており、土塔からも同范の瓦が出土していることから、土塔の造営に、かつて百舌鳥古墳群の造営に従事した集団の後裔にあたる士師氏が関わっていたと考えられる。また、出土した瓦にあった名に「大村氏」、「荒田氏」、「神氏」などの氏族名があり、これらの氏族は、土塔の南に広がる泉北丘陵の陶邑窯跡群と呼ばれる須江器窯を中心とした遺跡群が所在する地域に拠点があったとされ、窯生産と関わりがあったと考えられる。これらのことから土木技術を持つ士師氏と、窯業技術を持つ陶邑窯跡群周辺の氏族が得意分野を生かした建造物として、土を持った上に瓦を葺くという、日本でも稀な仏塔が造営されることになったと考えられる。

(「土塔」「発掘調査からの考察」)

基本的に瓦1枚に1名の名が記されているが、文字瓦の筆跡については大半が異なっていることから、基本的に各自で名を記したと考えられる。人々が名を刻む行為は、財力や労力を寄進した人々が仏と縁を結ぶ意味で行われたと考えられる。この行為を行った人々は、行基に従った人々で仏教用語でいう「知識」とされる人々であり、行基の土塔建立を「知識」が支えたことを裏付けることができるといえ、出土刻書瓦の中には「知識」と記された出土物も存在する。

(同上)

 

「財力や労力を寄進した人々」、ふと新約聖書の1タラントンのたとえを思い出しました。

そして「知識」にはそういう仏教の意味があることを、恥ずかしながら初めて知りました。一つの言葉の変遷にも気が遠くなる歴史がありますね。

 

瓦に書き込まれた文字に、行基さんとともに生きた時代を経験してみたかったと思いながら、しばらくベンチに腰掛けて土塔を眺めました。

 

 

行基さんの記事のまとめ*

 

いつの間にか私も「行基さん」と親しみを込めて呼ぶようになりました。行基さんの軌跡に出会ったり思い出した記録がたまってきたのでこちらにまとめることにします。

 

<2019年>

修善寺から下田へ

<2020年>

「瀬田川改修の歴史」

<2022年>

ただひたすら川と溜池と水路を見に〜奈良・和歌山・大阪〜

<2023年>

ふたたび平城京へと戻る

南海電鉄から水間線へ車窓の散歩

行気様がつくった水路を歩く

麻生中大池から唐間池・堂の池の田んぼを歩く

久米田池

「政争と動乱、飢饉と災厄など混迷の真っ只中」

経世済民と経済

一世紀後の「新しい生活」

ただひたすら水の流れをたどる〜奈良から若狭へ〜

水門町から東大寺へ

お水取りとともにある生活「国の病気を取り除く」

行基さんの像と東大寺の行基堂

「富裕層を呼び込む」

ただひたすら用水路とため池と水田を見に〜香川・岡山・兵庫・大阪・奈良へ〜

後の世に「郷土の先覚者」となる

丸亀のため池を歩きつくす

昆陽池と端ケ池

<2024年>

昆陽池から昆陽寺までの水路と田んぼを歩く

「奈良から見て向こう側」

「1,400年の歴史を刻む日本最古のダム式ため池」

「行基と狭山池」「狭山池と重源上人」

近鉄長野線と近鉄南大阪線の車窓の風景を見ながら奈良へ

いよいよ行基さんの生地へ

 

「記録のあれこれ」まとめはこちら

聖書に言及した記事のまとめはこちら

散歩をする 499 ただひたすら川と水路と古墳を訪ねる〜大和川に沿って〜

昨年は全国で冬眠もしない熊出没のニュースが多かったので、川や用水路や田んぼを訪ねるのは躊躇していました。

 

奈良県は南部の山中では生息しているようですが、奈良盆地周辺での出没のニュースは耳にしないので1月に入ってそろそろ遠出を再開しようと思いました。

大阪府の「大阪府周辺部でのツキノワグマ出没情報」をみても、北部の京都や兵庫寄りでは出没するようですが、大和川のあたりは大丈夫そうです。

 

真冬の奈良を経験してみたい、いつか大和川の全域を歩いてみたいという計画がありました。

 

2020年に久しぶりに奈良を訪ねたのですが、大和川に沿って広大な水田地帯が今も残っていることが印象に残りました。てっきり大和川の豊かな水によるものだろうと思っていたところ、いにしえより水に乏しくそのためにため池や古墳のまわりに水を貯める周濠がたくさん地図に描かれていることを知りました。

 

現在の水田を潤しているのは山を隔てた吉野川からで、「大和豊年米食わず」といわれた大和平野はこの半世紀ほどで豊かな水田地帯になったのでした。

 

2022年秋には山の間を流れ出てくる大和朝倉駅のあたりを歩いたのですが、いつかここから奈良盆地を斜めに流れる大和川を歩きたいという無謀な計画がありました。

さらにまた山の間を抜けて大阪府に入るとそこには周濠のある古墳が大和川沿いにあります。

かつてはそのあたりから旧大和川は北西へと流れを変えていたようです。

現在の大和川の河口近くにも百舌鳥古墳群があり、その南東には大小さまざまな無数のため池が散りばめられた地域があります。

大阪の周濠やため池も歩き尽くしたいという無謀なことを思い付いては地図を眺めていました。

 

百舌鳥の近くへ行くのであれば、行基さんの生まれた場所も訪ねたい。

そうだ天気予報で耳にした宇陀地方も訪ねてみたい。

平城宮跡に咲き乱れるツルボを見逃さないために奈良に住んでみたいというかないそうにない夢だけれど、冬の寒さはどんな感じか経験してみたい。

 

次から次へとつながって、久しぶりの遠出なので思いきって3泊4日にしました。

詰め込みすぎでまたまたやり残した宿題が増えましたが、冬の大和川沿いの美しい風景と歴史に充実した散歩になりました。

 

というわけで1月中旬に大和川沿いを歩いた散歩の記録がしばらく続きます。

 

 

 

「散歩をする」まとめはこちら

 

 

 

生活のあれこれ 41 ごみについてのまとめ

神明台処分地のそばを散歩したことから、ごみ処理方法の驚異的な時代の変化のまっただ中を生きてきたのだと改めて思いました。

 

ところで「ごみ」という言葉はどこからきたのだろうと、今まで気にしていなかったことが気になりました。

意味

ゴミとは、物のくず、不要になった廃棄物。汚い屑。

語源

ゴミは、主に農家で「木の葉」を表した言葉で、各地の方言にも「木の葉」を指す言葉として残る。(中略)

ゴミが「塵(ちり)」や「土ぼこり」の意味になったのは近世以降で、不要物であるため、その頃から「取るに足りないもの」「役に立たないもの」の意味でも「ゴミ」の語は使われ始めた。

(「語源由来辞典」)

「木の葉」から「塵(ちり)」「土ぼこり」が不要のものになって、現代の「ごみ」になったのですね。

 

1960年代ごろの幼児の記憶だと、これに「生ごみ」と「雑紙」ぐらいでたまにプラスティックが含まれるぐらい現代に比べればまだまだごみの少ない時代でしたが、人口が急増してゴミ処分も追いつかなくなっていた頃だったのでしょう。

 

Wikipediaの「ごみ」を読むと、さらに資源としての価値やごみと情報、ごみと所有権と、単にその指す内容の変化だけでなくごみの存在自体が複雑になった時代だったのだと改めて思い返しました。

さらに「ゴミ」というカタカナ表記は差別的なニュアンスにもなるとか。

 

ブログを始めて12年ほどで、いつの間にか「ごみ」について書いたものが溜まってきたのも、こうした時代を頭の中で整理したかったからだとつながりました。

ちりも積もれば山、でしょうか。

 

<2012年>

カラスの巣作り

<2013年>

頑丈なカプセルの内と外

ものを持たない暮らしとの葛藤

<2014年>

ものの片付け方

掃除は誰のため?ーpublicという概念ー

大量に出る医療廃棄物

物がなければゴミもない

<2016年>

高齢者のゴミ捨て

夜は軽く、家で料理をしない

ごみの最終処分地だった「夢の島」

<2017年>

赤ちゃんのお尻ふきと紙おむつ

<2018年>

野菜や果物の保存

90年代のダイオキシン問題の頃

最後は海へ

<2019年>

「村八分訴訟」

村八分

環境に配慮するという意識

東京ごみ戦争歴史みらい館

「反対期成同盟」

土はゴミではない

使い捨てカップの飲み物

<2020年>

道路のごみ問題と道の駅

なぜ「エコ」に胡散臭さを感じてしまうのか

築いてきたものが簡単に壊される

雨は大量のゴミを海に流す

使用済み紙おむつの処理

<2021年>

なかなかペーパーレスにはならない

ゴミ置き場がなく飛ばされるゴミもないトヨタの街

しょぼさの理由

他の人の生活を知らない

境川の都県境を行ったり来たり(都県境のごみ収集)

なぜレジ袋がターゲットになったのか

ごみの捨て方をどのように習慣にしているのだろう

公共の場に家庭ごみを捨てる人

<2022年>

「野心的なマイルストーン」と便乗値上げ

琵琶湖西岸から北陸を通って帰宅(大雨の後の災害ごみ)

<2023年>

ごみ収集がストップしないありがたさ

不燃物が宝物に

<2024年>

新幹線の車窓から見える温水プール

池谷の神明台処分地

「写真で見る横浜市ごみ回収の歴史」

 

 

 

「生活のあれこれ」まとめはこちら

 

行間を読む 203 「写真で見る横浜市ごみ回収の歴史」

新幹線の車窓から見える森のすぐ向こうに神明台処分場があることを知らないまま通過していたことに、またやり残した宿題が溜まっていく気持ちです。

自分が生きてきた時代とは、あるいはその少し前の時代とはどんな時代だったのだろう、と。

 

広大な処分場跡地は芝生が広がったまるで遺跡のような場所でしたが、立ち入り禁止のようでした。

神明台処分地は、閉鎖された以降も最終処分場の「廃止の技術上の基準」を満たすまで、横浜市による管理が続く。基準を満たした跡地の一部(第二次埋め立てエリア:1976年3月〜1980年6月)は神明台スポーツ施設としての地域住民を中心に暫定開放されているが、敷地の大部分は技術上の基準を満たしていないため、跡地利用が進められないのが現状である。

Wikipedia、「泉区横浜市)」「現代」)

 

急激に人口が増え、ゴミが増えたその処理に半世紀も時が止まっているかのような場所を安全な場所にするために、日々管理してくださっているようです。

 

 

*「開港以来、横浜市の発展の歴史はゴミ処理と環境問題との戦いの歴史でもある」*

 

神明台処分場で検索したら、「月刊リサイクルデザイン 2015年6月号」(横浜市資源リサイクル事業協同組合)の「写真で見る横浜市ごみ回収の歴史」が公開されていました。

 

覚書のために書き写しておこうと思います。

明治維新以来、今日まで日本の経済は発展を続け、人々の生活は豊かになりました。進歩を続けてきた日本の近代化の中で、忘れてはいけないのがごみとの戦いです。生活が豊かになれば自ずと廃棄物も増えていきます。そこで今回は横浜市資源循環局のご協力をいただき、横浜市の清掃事業に関する資料を基に、ごみ回収に関する貴重な写真とごみ回収の歴史をご紹介します。

 

開港以来、横浜市の発展の歴史はゴミ処理と環境問題との戦いの歴史でもある

 

居留地の外国人から不衛生と訴えられる

 横浜が開港したのは、今から156年前の1859年(安政6年)のことです。外国人居留地が設けられ、邦人居留地と区分けされます。当時の日本人は衛生観念に乏しく、低地や湿地、沼地などにごみを投棄して不衛生でした。居留地に住む外国人は、自分たちへの影響を恐れ、各国の領事は奉行に改善を申し入れます。そこで、1862年に名主が回状を出し、清掃方法を細かく決め、罰則を決めました。各戸にごみ箱を設置し、回収を請け負った人たちが肩荷にして運搬したそうです。

 1868年(明治元年)当時の人口は2万8千人で、横浜ではごみ清掃、下水などの浚渫、道路や橋の清掃なども実施するようになりました。外国人居留地は政府が下水道の敷設、道路清掃などを行いましたが、風習の違いもあって、外国人による清掃対策も行われたそうです。当時は、街路、下水道などから毎日ごみを回収し、集められたごみは沖合に海中投棄していたそうです。

 

「ごみは沖合に海中投棄」

いやはや、「水辺はゴミや生活排水を処理する施設に近い感覚」が改まるのにさらに一世紀はかかりましたね。

 

 

ごみ回収・処理が横浜市の義務となる

 明治22年(1889年)に横浜市に市制が施行されます。人口は11万6千人に増加していました。この頃はごみの回収は各戸が料金を払ってごみ運搬人を雇い、処理を行っていました。回収されたごみは依然として池沼などの埋め立てに利用していました。しかし、明治33年(1900年)に「汚物清掃法」が公布され、汚物の清掃、処理が横浜市に義務付けられます。これにより、ごみの収集・処理は横浜市の仕事となったのです。ただし、実際には民間に下請けされ、相変わらず池沼などの埋立という名目の投棄が続けられていました。

 その後、ごみの埋立投棄は消毒施設などもなく、衛生上よくないと問題化し、地元市民や市議会、行政による議論が繰り返され、最終的に焼却処分にするという結論が出ます。ところが、焼却の施設建設が反対運動などで進まず、消毒散布を行いながら、この後も長く埋立投棄を続けることになります。

 

埋立地不足に陥るが焼却施設が建設できない

 大正3年(1914年)に第1時世界大戦が勃発すると、経済が活況となり、ごみの排出量が増加しますが、一方でごみ処理を行う人員が転業してしまい、次第に人手不足に陥ってきます。そのため、大正6年(1917年)に横浜市内の衛生組合長179人を集めて塵芥処理協議会を開催しますが、民間事業者の人手不足は解消が容易ではないため、翌年からごみ処理は横浜市衛生課の直営とすることになりました。

 この頃は各戸に備えられたごみ箱から収集員がごみを収集して仮置場に集め、船で滝頭町地先などの海面埋立地に運搬し、処理していました。やがて、滝頭町地先海面埋立地の埋立が進み、次第にごみを処分する場所に余裕がなくなってきます。そこでごみの野天焼却に着手しますが、地域の反対ですぐに中止。当面は、千葉県下に輸送することで埋立処理量を大幅に減量したのです。

 大正12年(1923年)9月1日、関東大震災が発生。ごみ収集・処理作業に従事していた作業員のほとんどが罹災し、運搬車も焼失したり行方不明になってしまいます。道路の破損、倒壊家屋の残材などのほか、市内のいたるところにごみが投棄されており、ごみの収集・処理は困難を極めました。それまで人力だった運搬車を牛に引かせることで作業効率が向上しましたが、滝頭町地先海面埋立地がいよいよ完成間近となり、今後の処分に窮してしまいます。この時、大地震によるがれきを埋立に利用して作られたのが山下公園です。

 当時のごみ排出量は、1日200トンほどありました。すでに東京や大阪、神戸、京都、名古屋などの大都市では焼却場を建設して、焼却処理を行なっていましたが、6大都市の中で唯一、横浜市だけは住民の反対運動によって焼却施設の建設が実現できませんでした。

 

焼却場建設により焼却処理が本格化

 昭和2年(1927年)、ようやく滝頭町地先海面埋立地に焼却場「滝頭じんかい処理所」の建設が始まり、昭和6年(1931年)に完成しました。焼却炉12台、1日250トンの処理が可能で、排熱で発電を行うための発電機も備えていました。翌年には鶴見区矢向町に「鶴見じんかい処理所」、保土ヶ谷区星川町に「星川じんかい処理所」が建設され、ごみの焼却処理が本格化します。

 昭和20年(1945年)に第2次世界大戦が終戦を迎えますが、市内の大部分は灰塵と化していました。横浜市の住民は、世帯数17万6千戸から4万9千戸に減っていました。ごみの収集、運搬、市街地の清掃が昭和21年から再開されますが、3か所あった焼却処理所は、すべて使用不能となっていたため、埋立処理するしかありませんでした。磯子区杉田町、神奈川区出田町、鶴見区上末吉町など6か所に埋立処分所が設置され、投棄されました。

 昭和28年(1953年)、壊れていた鶴見、星川の焼却処理所が復旧し、再稼働します。さらに、人口増加によってごみ量が増加したため、新たに焼却処理場を新設し、全部で6か所の処理場体制となります。

 この頃のごみ回収は6日に1回で、ごみ箱から手車(籠車)やオート三輪で収集し、トラックに積み替えて埋立処分地や焼却処理所に運んでいました。昭和35年(1960年)になると、清潔な街づくりをめざし、街路からごみ箱をなくしてごみ集積場所を設置するようになります。週2~3回の回収を行う定時制収集方式となり、同時に、ふた付きの容器を使用するようになりました。

 

私の幼児の頃の東京のごみの記憶までの歴史ですね。1960年代、転勤先の地方では生ごみを森に捨てていました。

 

ごみ戦争で意識が高まりリサイクル活動へと進展

 昭和40年代になると高度成長期に入ります。物資が豊かになると同時に大量消費時代となり、家電や家具などを含む多様な廃棄物が増加し、廃棄物の不法投棄が問題化しました。昭和45年(1970年)に「廃棄物処理法」が公布されましたが、不法投棄は後を絶ちませんでした。やがて、さらなる人口増加と経済発展により、廃棄物の多様化と増大化が進み、行政の対応が追いついかなくなります。いわゆる「ごみ戦争」の始まりです。

 昭和48年(1973年)にオイルショックが起こり、各家庭が古紙をちり紙交換に出すようになり、ごみ中の古紙混入率が減少しますが、一方でごみの多様化が進み、プラスチック類の高熱による焼却炉の損傷と塩化ビニールによる有毒ガスの発生が公害として問題となります。

 ごみ戦争、公害問題を通じて、市民の環境意識が高まり、この頃からごみの減量化の促進、リサイクルシステムの確立に取り組むようになります。横浜市は、昭和53年(1978年)に「私たちの町は私たちの手できれいに」を目標に町の美化・浄化運動を展開。翌年には「さわやか運動」として、ごみ収集日に合わせた地域清掃活動やごみ集積場所の美化促進などを推進していきます。

 こうして町の美化、ごみの減量、資源リサイクルは、市民活動として定着。その後の横浜G30プラン、ヨコハマ3R夢(スリム)プランの成功、資源集団回収による古紙回収100%達成へと続き、現在に至るのです。

 

まさにごみ処理の方法が驚異的に変化する時代を目の当たりにして生きてきたのだと、添付されていた写真に子どものころの記憶が重なりました。

 

 

「行間を読む」まとめはこちら

ごみについてのまとめはこちら

 

散歩をする 498 泉が湧き、狭い川瀬の小谷がある地を歩く

食べきれなかった揚げ春巻きを持ち帰りにしてもらいいったい私は今どこにいるのだろうと混乱したまま店を出て歩き始めると、東へと坂道を登る途中にお寺があり我にかえった感じです。

そうそう、この散歩はここから新幹線の線路沿いに歩く散歩で、今私は現代の日本にいるのでした。

 

坂道をのぼり切ったところは見渡す限りの畑地になりました。車窓から見えた畑はここかなと思いましたがあまり記憶にない風景ですし、一向に新幹線の気配がありません。それもそのはず、畑の北側が切り通しになってそこを通過しているようです。車窓では見えませんね。

台地を切り拓いたところを通過しているようです。

 

しばらく下から聞こえる走行音に沿って畑地の道を歩くと、第二和泉跨線橋という環状4号線との交差点があり、そこを越えると下り坂になって小さな川を越えました。北側を新幹線が通過していくのが見えました。和泉川のようですが、次回は見落とさないようにしたいものです。

 

 

*阿久和川*

 

川を渡るとすぐに上り坂で、神社のすぐ先の道を北へと曲がると古くからの住宅も残る一角があり、その道の先に新幹線の高架橋が見えました。

ぼーっと新幹線が通るのを眺めていると、細い道なのにけっこうトラックが通ります。牛舎もありました。どんな地域の歴史があるのでしょう。

手前を右へと曲がると、住宅が途切れたところにまた台地の上のような草むらが続き、ここは同じぐらいの高さで新幹線が通過していくのが見えました。

 

その先に団地と小学校があり、「阿久和」という珍しい地名です。また小さな牛舎がありました。

ここから両側が森と公園になっている急な下り坂になり、小さな水路のような川をこえると遊水池があり、その先が急な上り坂です。

 

北側を新幹線が通過して行きました。地図で確認すると、新幹線の線路の北側200mほどのところにある熊野神社のあたりから水色の線が始まっています。Macの地図では川の名前がわからないのですが、ここから南へ流れてJR戸塚駅の近くで柏尾川に合流する阿久和川であれば水源はさらに北側の長屋門公園で、数百メートルの暗渠区間がありそして大きな遊水池が作られるくらいですからたびたび洪水が起きた川でしょうか。

 

*「池の谷」へ*

 

阿久和川を渡るとその左岸はまた見上げるような坂道です。

下を向きながらのぼり切ると、また台地の上のひらけた感じかと想像していたら少し違いました。

尾根のような場所で、すぐ先に穴のように低い場所があります。ここが地図では灰色に描かれている「池の谷」でどんな場所なのか以前から気になっていました。

 

地図に「神明台処分地スポーツ施設」あり、ゴミの最終処分場だとわかったのは中学生の頃にその名前をニュースで耳にした記憶があったからでしょうか。

1973年10月から第一次埋め立てが開始され、以降2011年3月末までの第7次埋め立てを以って終了した。約40年に渡る埋め立て期間は全国最長である。埋め立てが始まった1973年当時、いずみ野線は開通しておらず住宅も殆ど無い状況で、一部の地主が所有する広大な里山と農地しかなかった。所謂、陸の孤島で土地の利用価値は非常に低く、最終処分場として好都合の場所であった。

Wikipedia、「泉区横浜市)」、「現代」)

1970年代、全国の都市部でのゴミ問題が大きくなり埋め立てから焼却への転換期の軋轢もまた大きい時代でした。

 

陸の孤島」の北西100mほどのところに新幹線が通っています。なぜ今までこの場所に気づかなかったのだろうと不思議だったのですが、実際に歩いてみてわかりました。弧を描くように通る処分場の北西部の道は尾根のように高い場所で、新幹線の通る地域へとまた斜面になっていて高い木々がありましたから、おそらく車窓からは森のように見えたのでは無いかと思います。

こんな近くを通っていたのですね。

ちなみに埋め立てられた現在もすり鉢状でだいぶ低く見えるのですが、かつてはもっと深い谷だったのでしょうか。

 

 

南万騎が原駅へ*

 

あちこち寄り道していたら日没が近くなってきました。二俣川駅までは無理そうなので、南万騎が原(みなみまきがはら)駅に向かうことにしました。最終処分場の端から駅までわずか数百メートルと思ったら、急な坂道を下り、そしてまた急な坂道を上ると車道の下をくぐって駅側に出るという高低差のある場所でした。

わずか100mほどのところを新幹線が通っているというのに、小高い場所に遮られて気配も感じません。こんな場所を通過していたのですね。

 

あと少しで南万騎が原駅というところで大きな池がありました。相鉄線所有の遊水池のようです。その向こうに少しだけ新幹線の高架橋が見えて、下りが夕陽に輝きながら通過して行きました。小高い場所のように見えるここに遊水池が必要とされるのはなぜなのでしょう。

 

いやあ、それにしてもわずか7kmほどでしたが、アップダウンの多い散歩でした。

 

そしてようやく到着した南万騎が原駅も谷の底に線路が通っているような場所で、とてもこのあたりの地形は覚えられそうにありませんね。

 

 

泉区瀬谷区

 

今回の散歩大和市から泉区瀬谷区をまたいであるきましたが、泉区瀬谷区という区名から湧水が多そう、谷が多そうというイメージでした。

 

横浜市の南西部に位置し、相模野台地と呼ばれる関東ローム層に覆われた比較的平坦な台地の一部で、区の西側を境川と和泉川が南北に流れ、北側を阿久和川、東側を宇田川(村岡川)が流れている。台地の辺縁には湧水が分布する。

Wikipedia泉区横浜市)」「地理」)

 

区域は大和市との境界である境川に沿って南北に細く5つの川が流れている。

Wikipedia瀬谷区」「地理」)

 

まさに「南北に細く流れる5つの川」が作り出した地形を歩いたようでした。

ちなみに「瀬谷」の由来は「狭い川瀬の小谷がある土地に由来」(同)もあるようです。

 

相模原(あるいは相模野)台地の辺縁部の複雑な地形を、新幹線はまっすぐ通っていることがわかりました。

 

 

 

「散歩をする」まとめはこちら

新幹線の車窓から見えた場所を歩いた記録のまとめはこちら

ごみについてのまとめはこちら

食べるということ 96 大和の牛肉のフォーと揚げ春巻き

小田急高座渋谷駅に12時58分につきました。

ここで「たかざ」だと思い込んでいたのですが、「こうざしぶや」と読むことに初めて気づきました。前回この駅を利用したときにはぼっとしていたのか気づきませんでした。

ちなみに古くは「たかくらぐん」とも読んだとあり、7世紀まで遡って記録があるようです。

 

さて、まずは駅前の広場に行き駅周辺地図を眺めて納得しました。小田急線と交差する100mほどの区間がトンネルになって東海道新幹線は地下を通っていました。高架橋で交差していなかったのは、境川と引地川に挟まれた尾根のような場所を小田急線が通っているからかもしれません。

この地図にも「歴史と自然のふれあいコース」「大和ゆとりの森コース」というその地域のウォーキングコースが描かれていました。いつか歩いてみたいものです。

 

まず西側のトンネル口を見て、「新幹線のトンネルの上」を歩き、東側のトンネル口も見て満足しました。100mほどなので、あの愛知用水大高トンネルのようにほんと、「あっ」というまに通過して気づきそうにないですね。

 

*散歩のスタートはランチから*

 

駅周辺は川にはさまれた尾根の上のわずかな平地という感じで、国道467号線を渡って境川方向へ向かうとすぐに下り坂になりました。

 

坂の途中の林と竹藪の中に、地図で見つけた下和田区の左馬神社とケヤキがありました。文字がかすれてしまった案内板に「屋敷林」と読めるように、このあたりはそばを新幹線が通過しているのが信じられないような昔の雰囲気がありました。

じきに境川のそばに長細く県営団地が広がる風景になり、川を渡るときに300mほど上流を新幹線が通過していきました。冬の真っ青な青空に白と青線の車体が本当に美しいですね。

 

川の反対側にも県営団地が続き、その敷地が途切れるあたりで境川左岸の段丘へと急な上り坂が見えました。

その手前を右手に入ったところにあるお店が最初の目的地です。

散歩の途中や終わりに「ランチする」のが夢ですが、今回はスタートからのランチです。

 

12月下旬、この日はプールの年内最終営業日で、まずはひと泳ぎしてそのあと散歩をする計画にしたのもお腹を空かせてこのランチを食べるためでした。

 

 

*牛肉のフォーと揚げ春巻き*

 

お店はすぐにわかったのですが、営業中かどうかよくわかりません。いつもならそれでひるんでやめてしまうところですが、今日はここが目的ですから思い切って入ってみました。

 

数人のお客さんとお店の人も混じって、宴会でもしているかのようににぎやかに食事中でした。ベトナム語だというのはわかりました。

突然の闖入者になりしばらく観察されている静けさがありましたが、どうやら営業中のようです。

 

ずーっと夢見ていた難民キャンブの屋台や難民の方々の家に呼ばれて食べたベトナム料理の味が再現される期待が高まってきました。

90年代ごろからは日本でもベトナム料理の本格的なお店が増えてベトナム料理を食べることはできるのですが、私が求めている「あの味」にはなかなか出会いません。

 

目の前に大量の生野菜が盛られた上に大きな揚げ春巻きがど〜んと運ばれてきて、次にあつあつのスープの上に生のもやしとハーブがこれまたあふれんばかりにのった牛肉のフォーが来ました。

ああ、これだ。気取ってなくて、野菜や肉がこれでもかというぐらいにのっていて、みんなでわいわいとした雰囲気で食べる料理。

 

隣りに若い男性が座りました。3世ぐらいの世代かなと思っていると、「そんなに食べられるのですか?」と普通に日本語で話しかけられました。

想像より多くてびっくりしたと答えると、笑っていました。

あまりあれこれ詮索するような会話もぶしつけかと思い、ベトナムからか尋ねるとカンボジア出身だとのこと。

インドシナ難民として定住した方の3世ぐらいでしょうか、それともそれよりあと、研修生やらのシステムで来日して働いている方でしょうか。

40年ほどのこうした国々との関係も、思えば遠くへ来たものですね。

 

日本人のこれくらいの若い世代の人だと、知らない「おばさん」になんて絶対に話しかけないでしょうけれど、なんだかこの相手との気さくな「溝のなさ」も懐かしくなったのでした。

 

ベトナム語が飛び交いカンボジアの青年がそばに座って食べていて、山盛りの料理が出てくる。これこそが本場インドシナ難民キャンプのあの味だと満足してお店を出ました。

お店を出るとそこは日本の風景だったので、一瞬、いつのどこにいるのか混乱するような感覚に陥りました。

 

 

そして団地の中を歩き始めると、同じ味のようでやはり先ほどのは「大和の本場ベトナム料理」だったのだと思い直しました。

40年ほどこの団地で暮らしながら、日本の生活に慣れていかなければいけないさまざまな葛藤のなかで変わらないようにしていった料理だったのですからね。

 

 

 

 

「食べるということ」まとめはこちら

新幹線の車窓から見えた風景を歩いた記録はこちら

あわせて「難民についてのあれこれ」のまとめもどうぞ。