横文字のあれこれ 5 「スタートアップ」と「起業家」

一時期、渋谷の駅をつなぐ通路に「スタートアップは渋谷から」だったと思うのですが、そんなポスターが貼ってありました。

 

「スタートアップ」って起業のことかなと想像したのですが、具体的にどんな仕事なのか思い浮かばない心もとなさを感じました。

坂道沿いに小さなそれでいて魅力的なお店がつくられていった1970年代から80年代ごろの渋谷が、ちょっと冷たく壊れそうな街に変化していく雰囲気と重なりました。

 

 

ベンチャーとも違う、起業とも違う?*

 

なぜ突然、「スタートアップ」を思い出したのかというと、最近ちょっと話題になった参議院議員Wikipediaを読んだら「政治家、起業家」とあったからでした。

 

起業家って何か専門性があるのだろうか。私の感覚からいくと起業(創業)したその仕事が何か、どんな専門性なのかの方が重要に感じるのですが、なんだかケムに巻かれたようだなと思って頼みの綱を検索してみました。

 

「スタートアップ」で検索するとWikipediadでは「ベンチャー」にまとめられるようです。

ベンチャーとは、企業として新規の事業へ取り組むことをいう。このような事業をベンチャービジネスという。事業は新規に起業したベンチャー起業によって行われるものを指すことが多いが、既存の企業が新たに事業に取り組む場合も含む。

 

ベンチャー」とか「起業」はいつ頃から耳にするようになったのか記憶が曖昧ですが、こんなことが書かれていました。

ベンチャービジネス」という言葉は、元法政大学総長で日本ベンチャー学会特別顧問の清成忠男らによって概念が作り出された和製英語である。

日本ベンチャー学会は1997年に設立されたようですが、「ベンチャービジネス」が和製英語だったとは。

そして「ベンチャーとスタートアップを区別する場合もあるが、日本ではその差は明確にされないことが多い」とも書かれていて、「スタートアップ」も定義があいまいなのでしょうか。

 

和製英語とか定義があいまいな用語ははどこまでデジタルで表現できるのか、そちらの方が気になりますね。

 

*「問題解決」より先に「自分のやりたいことを見つける」*

 

ここ最近、時々「高校生がこんなことを始めた」というニュースを目にしますが、教育の中にすでに「起業」が組み込まれているのですね。

 

「起業家教育事例集〜中小企業庁「学びと社会の連携促進事業(起業家教育)〜」(平成31年)という資料がありました。

「地域の課題をどう解決するか?高校生と地域住民が一緒に取り組む」という研修が書かれているのですが、その順番を見ると「価値観を言語化する」→「ターゲットのペルソナを掘り下げる」→「問題を発見・解決する」→「最終発表、プレゼンと表彰」になっています。

 

問題を解決するためにはまず観察があり、それを共有するために言語化があり、そして仮説をたてていく、という仕事のための段階を学ぶのではなく、「自分のやりたいこと」を見つけることが目的のようです。

「学ぶ」ではなく「学び」という言葉を使う方向性だということがわかりますね。

 

そして高校生への教育であれば、まずは歴史から学ぶとか失敗から学ぶことも大事だと思うのですが、その地域の歴史を学ぶとか起業の失敗からの再発防止のような内容はなさそうでした。

 

 

*「鉱物の見かけだけを取り繕う」*

 

「起業」と「スタートアップ」、日本語でも定義やその違いが理解できないのですが、すでに専門の大臣までいるそうです。

スタートアップ担当大臣

2022年8月1日に、成長戦略の1つである新興企業(スタートアップ)支援の司令塔となる「スタートアップ担当大臣」を岸田内閣の下に新設した。

 

ふと「錬金術」を思い出したら、こんな一行が目に入りました。

錬金術鉱物の見かけだけを取り繕うものであると考え、さらに、錬金術は通過の価値の暴落をもたらすことによって、神により創造された世界の秩序を壊しかねないとして錬金術を非難した。

(Wikiepdia「錬金術」「中世アラビア語圏における錬金術」、強調は引用者による)

錬金術の歴史を知らないまま、その言葉だけ覚えていたことに気づきました。

錬金術」もう少し知る必要がありそうです。

 

最近、政治家の皆さんの煮え切らない説明や失敗を認めない態度が国民の求めている社会と大きくずれてきたのは、もしかするとこのあたりかもしれませんね。

 

 

それにしても最近の高校生は、「ペルソナ」とかなんだかゾワゾワする横文字が多いことを学んでいると知りました。

 

 

 

 

「横文字のあれこれ」まとめはこちら

あの日(2022年7月8日)から考えたことのまとめはこちら

デジタルと生活について考えたことのまとめはこちら

「専門性とは」「仕事とは何か」も合わせてどうぞ。

専門性とは 11 専門性を認めず労働価値を貶める

「なぜレジ打ちという仕事まで私がするのだろう」ともやもやしているうちに、セルフレジはすでに「社会的失敗」という見方があるらしいことがわかりさもありなんと思いました。

 

 

いろいろなコメントを読んでいると、「なぜレジを打つ労働を購入者にさせているのか、その分安くしても良いのでは」という考え方もありました。

「その分安くしても」はちょっと違うような気がしていたら、どの記事に書き込まれたものか記録していなかったのですがこんなコメントを見つけました。

 

昔スーパーのアルバイトとしてレジ打ちもしていたが、レジ打ちになるために講習を受けてクレジットカードなどの扱いを学び、試験に合格して認定証を受け取らないとできなかった。時給もレジ打ちしない人よりも高額だった。どうしてインチキしないか店員に見張られながら客がひとつずつスキャンしなければならないのか。

 

私自身はレジの経験はないのですが、まさにお金や商品を扱う最前線ですからさまざまな知識が必要で、アルバイトであってもこうしてきちんと系統だった講習と認定制度があったのかと初めて知りました。

 

ただバーコードをスキャンするだけではないもっと知識と経験が必要なはずなのに、「誰にでもできる」「同じことの繰り返しである」だから専門性が高くないと思わせられてきた仕事がこの世の中にはたくさんあるのではないかと。

 

ああ、これがまさにもやもやの正体だったと思いました。

 

本当は「人手不足」ではなくて、時給を上げると社会保険の支払いが増えて手取りが少なくなるというトラップがあるので、自分の労働価値を低い時給のままにして非正規雇用の枠から出ないようにせざるおえない人たちを確保しておきたいからではないか。

 

 

レジを打つ仕事も、この40年ほどを思い返しても機械やシステムが驚異的に変化した時代でしたから、その仕事内容の変化と歴史を実感としてわかる人はとてもすごい経験量と専門性だと思いますね。

ところがその仕事をしてみたいと思っても、一生を賭ける価値があるのかと思いとどまらせてしまう社会の雰囲気がある。

「誰にでもできる」と思わせて。

 

人が仕事をできる期間というのはたかだか30年とか40年ぐらいだから、その間の社会の変化にも対応しつつ長い期間をかけてみる価値がどの仕事にもあると思えるようになりました。

 

ところが、まさか「お客さんがスキャンするのを見張る仕事」になってしまったのは、ほんとうに心をくじきそうですね。

 

このところそのハリボテぶりが明らかになった一部の政治家や経営者の皆さんの専門性の無さぶりに、こういう人たちによって労働価値が貶められてきたのだと思えてきました。

 

 

 

「専門性とは」まとめはこちら

「仕事とは何か」あの日(2022年7月8日)から考えたことも合わせてどうぞ。

 

 

 

水のあれこれ 345 下末吉台地の端を流れる矢上川

かつての二ヶ領用水が潤した田んぼだろうと思われる平地を、その水路ぞいに歩きました。

通常は下流に向かって水量が増えるのに、その先の矢上川に合流する手前のあたりで急に水量が減りました。

 

堰のような場所があったので、そこからどこかへと水が分けられたのでしょうか。これもかつての分水堰だったのでしょうか。そして現代の住宅が密集した低地に水を溢れさせないためのマジックを見ているような気分ですね。

 

矢上川との合流部の目の前は日吉キャンパスのある高台で、合流部から西へ少し矢上川を遡ると新幹線の高架橋があります。

さっそく上りの東海道新幹線がキャンパスの下のトンネルから出てきました。そして下りの新幹線がトンネルへと吸い込まれるように消えていきました。

いつも車窓から見ていたこの高台とそばを流れる川に立って新幹線を眺める計画を達成できました。

何本見ても飽きない風景ですが、11月中旬、日没が早いので急がなければなりません。

 

遊歩道には花壇が整備されていて、いろとりどりの花が咲き、枇杷の花の甘い香りが漂っています。もうじき冬ですね。

ここから矢上川は高台に沿ってぐいっと南へと大きく向きを変え、その先には高台の下に住宅地がありました。

上小学校のそばから上り坂になり、途中カントリークラブが高台の斜面に造られていて、そこを過ぎると、トンネルから出てきた新幹線が通過していくのが見えましたがすぐにまたトンネルに入ります。現れては吸い込まれる新幹線をまた見続けたい誘惑に駆られながら、先を急ぎました。

 

右手の急斜面に建てられた家へと見上げるような階段があります。斜面の住宅地が途切れると森へと変わりふもとは農家の住宅と畑になりました。皇帝ダリアがみごとで、大根や里芋そしてブロッコリーが植っています。

地図ではこの高台の上は慶應義塾高校の野球場やらアメリカンフットボール場で、その下を新幹線が通過しているようですが、ここから見るとその気配はありません。

 

高台が終わる頃、切り崩した斜面の住宅地になりその屋根越しに新幹線が現れました。シュールですね。

ここからは高架橋になり、鶴見川左岸の平地をおそらく20秒もかからないで通過している場所です。どこまでも平らな道を、少しずつ新幹線の高架橋から離れながら新綱島駅へと30分ほどかけて歩きました。

 

2023年3月にできたばかりの駅ですが、周囲はまだ工事中で駅舎らしいものもありません。鶴見川の下を通っているためでしょう、地下へ通りていくエレベーターで深いところにホームがありました。

 

 

*矢上台と矢上川*

 

まさに下末吉台地の端っこを歩いた散歩になったのですが、Wikipedia矢上川の地理にその場所の説明がありました。

(前略)以降、下末吉台地北縁を南東に流れ、川崎市幸区矢上で、慶應義塾大学理工学部(矢上キャンパス)の載る矢上台の縁を回り込むように90度近く向きを南に変え、矢上台と加瀬山の間を抜けて、鷹野大橋で鶴見川に合流する。加瀬山より南側の川崎市幸区南加瀬付近から鷹野大橋までは、矢上川の全工程中最も屈曲(蛇行)が激しかったことが、明治時代や大正時代の地形図で明らかであり、三日月湖の存在も見て取れる。最終氷期最寒冷期に河川は深く下刻したが、この時の矢上川(古矢上川)は、ボーリング地質調査などから、子母口で古多摩川と合流していたと推定される。従って、現在のように、矢上で多摩川低地を離れ、鶴見川支流となったのは、地質年代では比較的最近の、縄文海進が海退に入り陸化した縄文後期以降のこととされる。

 

新幹線の車窓から見える日吉の高台とその手前を曲がりながら流れる川のそばを歩いてみたいと出かけましたが、気が遠くなるような地面の歴史によるものだったようです。

こんな「比較的最近の縄文期」と突き止めていることも、こうした地形を踏まえた上で新幹線が安全に通っていることもすごいものですね。

 

 

 

「水のあれこれ」まとめはこちら

新幹線の車窓から見えた場所を歩いた記録のまとめはこちら

散歩をする 494 S字カーブの先のかつての田んぼを歩く

散歩の出だしからまた歩きたい場所ができてしまったのですが、この日はJR武蔵小杉駅から東急新横浜線新綱吉駅まで歩く計画です。

県道2号線をまっすぐに歩くと4.9kmほどのようですが、東海道新幹線の東側を下末吉台地の端っこを蛇行しながら歩くので、だいぶ遠回りになりそうです。

 

多摩川の沖積低地の高架橋*

 

新幹線の車窓から見えるNECの高層ビルは、しばらく見ないうちにまた増えているような気がしました。

ここから新幹線の西側をしばらく高架橋沿いに歩きます。周囲がビルだらけなので、上を向くことが多くちょっと首が痛くなってきました。マンションの合間に時々東海道新幹線がほとんど音もなく通過していきます。一日中、新幹線を見放題なんて羨ましいですね。

中丸子まるっこ公園のあたりで、ビル群の地域から普通の住宅地へと変わりました。

 

ここから高架橋の真下に近づくと、高架橋の下が「新幹線中丸子公園」として利用されていました。

多摩川を渡って線路がS字になって一旦武蔵小杉駅のあたりで東へ曲がり、その後西側へ弯曲しながら横須賀線湘南新宿ラインと離れていくあたりです。

さらにその先には、保育園も新幹線の高架橋の下にありました。

公園や保育園の上を走っていたのですね。新幹線の高架橋の真下というのは、走行音がそれほど聞こえないものですね。子どもたちの生活を妨げることもなさそうです。

 

線路が西へ曲がるにつれて、それまでの低地から微妙に高低差のある道になりました。

昔からの住宅地が多い地域のようで、高架橋の下もコインパーキングやゴミ置き場として利用されています。屋根ギリギリを新幹線が通過していくのですが、気にならない音量でしょうか。

 

このあたりは区画を対角線状に高架橋が突っ切っているので、線路の東側から西側へ、そしてまた東側へとジグザグに歩きます。

しばらく歩くと「昭和橋人道橋」という不思議な名前の橋があり、小さな水路沿いは遊歩道になっていました。次回は車窓から見逃さないようにしたいものです。

 

「苅宿」の地域で、武蔵小杉よりは高い場所だろうと感じたのに「想定浸水深1.6m」と表示がありました。こんな低地を新幹線は通過しているのですね。

住宅が入り組み、苅宿小学校の校庭も複雑な形です。

 

おそらくその地名からもかつては二ヶ領用水によって潤されていた水田地帯で、少しだけ高い場所に集落ができていたのではないか、そんなことを想像しながらまた高架橋の西側へと出ると、そこには古い八幡宮のお社がありました。

E席に座ったら見逃さないようにしなければ。

 

ここから直線距離だと150mほどで、あのA席から見える広大な空き地のような場所ですが、ジグザグと住宅地を歩いて西加瀬の交差点へと出ました。

 

*広大な空き地の西側を歩く*

 

あの空き地の反対側の風景は記憶にありません。どんな場所なのだろうと歩き始めると、比較的新しい公社住宅がありそのすぐ横に小さな祠がありました。

新幹線の高架橋に向かって歩くと、住宅地の中に林や畑が残っています。東側とは雰囲気が違いますね。

 

高架橋のそばまで来ると「ダイワハウス巨大物流倉庫計画中止を」という幟が立っていて、初めて何ができるのかわかりました。

南道側には朝日プリンテック川崎工場と三菱ふそうトラック・バス川崎製作所第2敷地があったが、三菱ふそうトラック・バス川崎製作所第2敷地については2017年1月に大和ハウス工業に売却され、大型物流施設を含む複合施設が建設される予定であった。また、かつては荏原製作所川崎工場(1941-1985年)であった。

Wikipedia「西加瀬」「地理」)

一時期、白い真新しいトラックが整然と並んでいた風景を記憶しているのですが、何年ごろだったのでしょうか。

 

残念ながらだだっ広い空き地は工事現場で立ち入り禁止です。そこに立って新幹線を眺めることは諦めて、高架橋の西側を歩くと水量の多いきれいな川にぶつかりました。

川に沿って新幹線の高架橋手前にある石神橋(しゃくじんばし)を渡り、高架橋の東側へ出ると高架橋のすぐ下に祠がありました。

石神宮由来

祭神 石凝姥神(いしこりどめのかみ)

 

 古来 各村々には神様を祀って、厄病が入らないよう、又村内の安泰を祈るため道祖神を祀り、石神宮もその一柱であります。

 御神体には神霊が宿りその超能力により信奉する人々の願いごとが叶えられるとして篤く侵攻され村の守り神です。

 石神宮は嘉永年間に建てられて三百余年を経て昔を偲ぶ町内唯一の史跡、文化財であります。

 今日祠堂を再建し、石神宮を心のよりどころとして 一家の安泰と繁栄を願い町の発展を祈願するものであります。

神前に立てば祝詞が奏上されます。

 

未曾有の災害や感染症だけでなく政治の腐敗と国家の病の時代に身につまされますね。

こうした守り神の上を新幹線が通過していたようです。

 

ここから300ほど先でこの川は西から流れる矢上川に合流しますが、そこがあの慶應大学日吉キャンパスの下へと新幹線がトンネルに入る場所です。

 

帰宅してから石神橋を流れる川はどこから来るのだろうと確認すると、南武線の南側で二ヶ領用水から分かれる水路でした。

西加瀬もまたかつては水田地帯だったのでしょうか。

 

 

*おまけ*

ここまでが多摩川右岸の沖積低地だろうと想像がついたのですが、何の資料かよくわからないのですが国土交通省から公開されている「1.流域の自然状況」では、さらに詳細がありました。

 沖積低地をさらに細かく見ると、二子玉川ー溝口(18K)付近より上流は扇状地性平野、二子玉川ー溝口付近以東から六郷ー川崎付近(5k)にかけての地域は自然堤防帯平野、さらにそれより下流域は氾濫平野(三角洲・デルタ)に分けられる。

 

多摩川を越えてS字カーブで走行するあたりは、「自然堤防帯平野」というらしいです。

 

 

「散歩をする」まとめはこちら

新幹線の車窓から見えた場所を歩いた記録はこちら

記録のあれこれ 171 武蔵小杉駅前の散策マップ

昨年11月中旬、お昼頃にJR武蔵小杉駅で下車しました。東海道新幹線が並走している場所だというのになんと一本も通過しません。

まあ、これから新幹線の高架橋沿いに見放題ですからね。気を取り直して改札を出ました。

 

散歩で立ち寄る駅前の地図は必ず写真を撮るようにしています。「ムサコの高層マンション」がアピールされた案内図だろうと想像していたら違いました。

「なかはら歴史と緑の散策マップ案内板」には、二ヶ領用水やかつてのその分水路でしょうか、緑道として整備されている場所が描かれています。

 

水辺と緑の散策 二ヶ領用水・渋川コース

緑と水の豊かな二ヶ領用水では、桃の花が美しく咲き、住吉桜が満開の頃には多くの人がその風情を楽しみに訪れます。かるがもの里としても知られる憩いの散策コースです。

 

そうでした、あの平瀬川がトンネルをくぐって二ヶ領用水に合流した水が久地円筒分水で分けらて潤された地域が、多摩川を渡って新幹線がS字にぐいっとカーブするその先にまずあったのでした。

 

多摩川散策と等々力緑地コース

多摩川緑地周辺ののどかな自然景観と、かつてのあばれ多摩川の足跡という自然重視の両局面を偲ぶことができます。

コース沿いには歴史、文化遺産も数多くあります。

 

「等々力」というと多摩川左岸の世田谷の等々力しか知らなかったのですが、2018年に洪水によって袂を分かち、川崎側にもあることを知りました。

「あばれ多摩川」だった時代はそんなに遠くない昔だったことも。

 

中丸子・緑道をつなく花と緑の散策コース

中丸子地区周辺の廃路散策と水田の用水路・堀を暗渠にし整備した緑道です。季節を通じて樹木や草花を楽しむことができます。

 

ここからJR南武線平間駅のあたりまでの緑道は、「水田の用水路・堀を暗渠にした緑道」だそうです。

地図を眺めただけではわからないのに、この一文で二ヶ領用水の先の水田地帯、そしてそこから工業地帯へと変化した歴史がつながっていきますね。

 

あ、もう一つ案内板の下の方に書かれているコースを見落とすところでした。

歴史の道探訪・中原街道コース

中原街道は「相洲街道」、「お酢街道」とも呼ばれていました。街道沿いでは、旧家や地名、商家、石仏、石碑などで織りなされてきた歴史を偲ぶことができます。

道に歴史ありですね。

 

 

 

こうした案内地図にその地域の歴史を重層的に重ねて記録したのはどんな方々なのだろう。

 

それぞれの地域の生活の歴史をさまざまな視点から正確に記録し残そうというたくさんの無名の市井の人の地道な仕事がこの国をかたちづくってきたのではないか、そう思うようになってきました。

 

 

「記録のあれこれ」まとめはこちら

地図に関する記事のまとめはこちら

 

 

 

存在する 36 S字カーブの先の下末吉台地

大崎のあたりのS字カーブを歩いた2週間後、今度は武蔵小杉駅のSカーブの先を歩いてみたくなりました。

 

武蔵小杉駅を過ぎると、あっという間にまた工場の跡地のような広大な場所が現れます。それでも2019年ごろから少しずつ変化して何かができるようです。

あの視界を遮るもののなさそうな場所から通過していく新幹線を見てみたい。

品川駅を出て10分ほどで次の新横浜に到着するのですが、その途中でいきなりトンネルをくぐり、また平地になって鶴見川を越えます。

 

ここが慶應大学日吉キャンパスを突っ切る場所だというのは、1980年代ごろから頻繁に東急東横線を利用していた時に知りました。そしていつ頃だったか、このあたりもかつては海だったらしいと聞いたことがあります。「かつて」というのは途方もなく大昔のことのようですが、こんな内陸なのにかつては海軍の施設があったことと何か関係があるのだろうかと気になっていたのですが、そのままになっていました。

 

多摩川左岸は川を越えている時にもはっきりと国分寺崖線がわかるのですが、対して川崎側の右岸はどちらかというとなだらかな丘陵地帯に見えます。

東海道新幹線は、この丘陵地帯の海側を通過しているように見えるのですが、いったいこの地域の名前はなんだろう。

そんな疑問もそのままになっていました。

 

*神奈川県の台地*

 

多摩川右岸、台地」で検索したら、「神奈川県の地形・地盤」(ジオテック株式会社)にわかりやすい地図がありました。

 

多摩川から鶴見川までが「下末吉台地」、鶴見川から境川までが「多摩丘陵」とその先の「三浦丘陵」と「三浦台地」、境川から相模川までが「相模原台地」そして相模川から酒匂川までが「伊勢原台地」「秦野台地」そして海側に「大磯丘陵」となっていました。

 

神奈川県は川でかなり明瞭に地形の境界線があるのでしょうか。

 

そうそう、そのいきなりトンネルに入るあたりは下末吉台地だとわかりました。

「下末吉」という地名はどこかで聞いたことがあると地図で確認したら、なんと鶴見川右岸側ですから多摩丘陵の先の低地のあたりです。

なぜ、ここに鶴見川左岸の台地の名前がついたのでしょう。

わかったと思ったら、またまたわからないことが増えました。

 

とりあえず、今度は下末吉台地の末端を感じながら東海道新幹線沿いに歩くことにしてみましょう。

 

相変わらず冬眠しない熊のニュースが全国から聞こえてきたので、これは集中して東海道新幹線のそばを歩こうと昨年の11月中旬に出かけました。

 

 

 

*おまけ*

 

目久尻川から高座渋谷まで歩いた時に、「相模川左岸の土は黒っぽい」と感じたのは勘違いだったのかと自信がなくなりかけていました。

 

この「神奈川県の地形・地盤」にこんなことが書かれています。

台地

 砂礫や泥流堆積物により形成された地形面(洪積台地・段丘面など)の上位に、火山灰質の関東ローム層が厚く分布する。ロームの層厚は、被覆している下位地形面の形成年代や地質構造によって、大きく異なる。

 住宅基盤としては良好と考えられるが、ロームの分布地域では地表付近を黒ボク土(有機質土)が厚く被覆する場合もあるため、注意を要する。

(強調は引用者による)

専門的なことは全くわからないのですが、黒っぽい土に覆われた場所もあるということでしょうか。

 

線路沿いにはさまざまな物事が存在していますね。

 

 

 

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新幹線の車窓から見えた場所を歩いた記録のまとめはこちら

 10年ひとむかし 93 武蔵小杉のS字カーブのあたりの変遷

地図で線路を眺めていると、新幹線は気持ちが良いくらいにまっすぐですね。

 

このまっすぐにするためには、江戸時代なら雨が降れば数日ぐらいは渡ることができなかった大井川などをものともせず渡る橋や高架橋の技術や、安全にトンネルを造る技術で山をあっという間に越えることができたのだと、乗るたびに圧倒されます。もちろん在来線も同じような場所を超えていくのですが、新幹線の場合は最短距離を高速で走るのですからできるだけまっすぐにと設計されているのでしょうか。

 

そうなると武蔵小杉のS字カーブとか大崎のあたりのS字カーブのように、まっすぐでない場所がかえって気になってしまいます。

 

多摩川の堤防のあたりから武蔵小杉駅の近くまで歩いた時には、その理由が地形なのかなんなのか結局よくわかりませんでしたが、このあたりの風景の記憶をたどっていたら年表にヒントがあるような気がしてきました。

 

 

*まだ武蔵小杉駅がひとつだった頃*

 

いつの間にか、地図の中では「武蔵小杉駅」が2つになっています。その南よりの駅に並走して東海道新幹線が通っています。

 

私にとって「武蔵小杉駅」というのは、東急東横線南武線が交差したところにある武蔵小杉駅しかなくて、いつだったか「離れているのにこちらも武蔵小杉駅なのか」と混乱しながら驚いたのですが、それがいつ頃の記憶だったのかも定かではありません。

 

現在は高層マンションが立ち並ぶ中にある南側の武蔵小杉駅には横須賀線湘南新宿ラインが走っているのですが、その湘南新宿ラインそのものに気づいたのが2000年代に入ってからで、そこは貨物が通っていた線路ではないかと浦島太郎の気分になったのですが、武蔵小杉のあたりとはまだ頭の中でつながっていませんでした。

 

2000年代に入るころは東横線をよく利用していて、まだだだっ広い空き地にポツンと高層マンションができた頃で工場の跡地がこれからどんな場所になるのだろうと思った記憶があります。それからほどなくして、まさに「雨後の筍」のように街が出来上がりました。

 

Wikipediaの「武蔵小杉駅」の年表を読むと、この記憶もそれほどずれてはいなさそうです。

 

1945年(昭和20年)6月16日:南武線との交点に東急の武蔵小杉駅が開業。

1953年(昭和28年)3月31日:東急の武蔵小杉駅工業都市駅との中間地点に移転し、工業都市駅を廃止する。

1964年(昭和39年)10月1日:国鉄東海道新幹線開業。本駅付近では品鶴線の西側、同線に並行して建設。駅は設置されず。

1980年(昭和55年)10月1日:東京駅ー大船駅間で東海道本線横須賀線の運転が分離され(SM分離)、品鶴線が旅客化されて横須賀線電車が運転開始。川崎市内では新川崎駅が設置。ただしこの時点では横須賀線武蔵小杉駅は設けられず。

 

工業都市駅」「品鶴線」なんてあったのですね。

1980年代から2000年代によく利用した東急東横線のこの辺りは、たしかにその雰囲気がまだまだありました。

 

新川崎駅」という名前も浦島太郎の気分になる駅名ですが、1980年代後半の東海道本線の川崎駅前も人里離れたような工場の跡地しかなかった記憶です。

 

それなのに、いつのまにあの高層マンション群の間のS字カーブを新幹線が通過し、その風景を横須賀線湘南新宿ラインの駅から眺めるようになったのでしょう。

 

年表を追って驚きました。つい最近ですね。

2010年(平成22年)3月13日:横須賀線の駅が開業し、同線と新宿湘南ライン・特急「成田エクスプレス」、特急「スーパービュー踊り子」の停車駅となる。

 

この風景になるまでにまず東急東横線複々線化、そして高架橋化していった90年代から2000年代の変化の記憶があります。

東急東横線武蔵小杉駅のあたりは、線路に商店街や住宅が接している風景の記憶です。

当時は今ほど鉄道の歴史に関心がなかったこともありますが、高架橋ではなかったので新幹線が近くを通過していることも見えなかったのかもしれません。

 

東海道新幹線によく乗るようになった2018年から19年頃、新横浜駅を過ぎていつの間にか増えた高層マンション群の間に入り、横須賀線湘南新宿ライン武蔵小杉駅に並ぶたくさんの乗客の列を斜めになりながら眺めて抜けると、川面に夜景が映る多摩川が見えて「無事に家に戻ってきた」気持ちになったのでした。

 

あの武蔵小杉駅のあたりの風景はできてまだわずか8年ほどだったのだと、今ようやく頭の中が整理されました。

 

 

 

「10年ひとむかし」まとめはこちら

新幹線の車窓から見えた場所を歩いた記録のまとめはこちら

つじつまのあれこれ 47 「本人でもない印鑑」からカードに変わっただけ

このところ、日本の政治とはハリボテのような人たちによって牛耳られていたことが少しずつ見えてきました。

その混乱の中で鳴りをひそめているかのようなマイナンバーカードの行方ですが、あまりの杜撰なシステムに当然見直されることになるだろうと思っていると、時々実弾のようなものが飛んできますね。

 

 

*まだ根本から問題を見直さず押し通そうとするのか*

 

2024年3月19日付でこんなニュースがありました。

マイナカードと運転免許証の一体化「2024年度中、なるべく早期に開始」ー河野大臣が表明

 デジタル大臣を務める河野太郎氏は3月19日、マイナンバーカードと運転免許証の一体化を2024年度中に開始するとX(旧Twitter)に投稿した。「なるべく早く始められるように調整しており、正確な時期は追って発表する」とも投稿した。

 政府はこれまでも、運転免許証とマイナンバーカードを2024年度末までに一体化させる方針を示していた。また、工程表によれば、一体化以降、マイナンバーカード機能を搭載したスマートフォンを運転免許証がわりにする「モバイル運転免許証」の運用も極力早期に開始することになっている。

CNET Japan

 

このニュースを読んでまず感じたのは、なぜ政府の方針をなぜ一私企業のSNSで伝えてしまうのか、それは公的な発表なのか、であれば総務省警察庁が発表すべき内容ではないかという疑問でした。

 

最近、任意だったものが強制されたり時間をかけて築いてきた社会の制度が前首相の一声で変えられたり、あの1980年台の東南アジアの国々で目の当たりにした独裁政権下のような手法が目につきますからね。

 

 

*「デジタル資格書」って何?*

 

長い時間をかけて試行錯誤してきた「自由」と「民主」とはほど遠い国になってしまったという絶望感で、このニュースの後半を読み飛ばすところでした。

 

32の国家資格や免許をデジタル化

 また河野氏は、運転免許証とは別に、2024年6月から税・社会保障関係を中心とした32の国家資格や免許を順次デジタル化すると発表。マイナポータルからデジタル資格証を閲覧可能になるほか、資格の新規取得や住所変更、申請に必要な支払いがオンラインで可能になり、その際の住民票などの書類添付も省略できるとした。

 対象となる資格や免許は「医師、歯科医師、薬剤師、看護師、准看護師保健師助産師、理学療法士作業療法士視能訓練士、臨床工学技士、義肢装具士言語聴覚士臨床検査技師診療放射線技師、歯科技工士、歯科衛生士、あん摩マッサージ指圧師、はり師、きゅう師、柔道整復師、救命救急士、介護福祉士、精神保健衛生士、公認心理師、管理栄養士、栄養士、保育士、介護支援専門員、社会保険労務士、税理士」。

(強調は引用者による)

 

デジタル資格証ってどんなものなのだろう。

まさかあのいち私企業が管理している電子印鑑のようなものではないですよね。

 

それまで国と自分との免許証だったはずなのに、IT企業や関連機器会社が介在する別の資格証ができるというのは意味が全く違うものになるのではないかともやもやしています。

 

そしてさらりと「住民票など」と書かれていますが、現在の国家資格の免許の変更に必要なのはまず戸籍謄本で、そのために死亡したときの原録原簿抹消がややこしく、本人は死んでもその免許は存在し続けるという不思議なことが起きるようです。

 

印鑑が自分を証明するとか住んでもいない場所を本籍とするシステムが国民に番号を振ることで解決すると期待したのですが、ただデジタル印鑑になりデジタル証明書に置き換わっただけですね。

 

デジタルとかまびすしくなるにつれ、「屋上屋を重ねる」というか何か別物になっているような印象がますます強くなるこのごろです。

 

 

*おまけ*

 

ところで、弁護士とか公認会計士とかも国家資格なのに、デジタル資格書の対象になっていないのはなぜでしょう。

32の資格はどういう基準なのでしょう。

まさか「社会保障に係る資格におけるマイナンバー制度活用に関する検討会」の資料にあった「社会保障に係る資格取得者の利便性とともに、社会保障の担い手確保等に資するよう」というのは、人材派遣会社からたくさんお仕事のメールがくるようにさせるとかではないですよね。

 

 

そんな労働や経験の対価が軽んじられてプライバシーもなくなるような資格証はいらないですけれど。

なんだか変ですよね、最近の政府は。

 

 

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マイナンバーとマイナンバーカードについての記事のまとめはこちら

デジタルについての記事のまとめはこちら

あの日(2022年7月8日)から考えたことのまとめはこちら

 

存在する 35 自分の存在の証明が主体的でなくなった

わけのわからないタイトルですね。

 

自分を証明するために四つの本人確認方法があることを以前知りました。

運転免許書はそのうちの「身元確認」で、信頼できる機関が発行しているので日常的な自分の証明はこれ一つで済みました。

そして無くすことや失効することもなければ、私自身が「それを持っていること」で事足りました。

 

ところがマイナンバーカードになると、「持っている」だけではだめでそれを読み取る機械があって初めて有効になりますね。

 

その中に「実印のように重要な本人確認方法を詰め込んだカード」を日常的に持ち歩かなければならないだけでなく、それを読み取る機械が必要で、電気や通信インフラや読み取り機をつくる会社がなければ私自身を証明できないただのカードになってしまうのは、自分の主体性を奪われてしまったような感覚です。

 

 

*印鑑証明でさえ主体性が失われた*

 

マイナンバーに期待したのはそんなカードではなく、本人でもない印鑑が意味を持ったり、そこに存在していないのに本籍地を登録したり変更しなければならない実態のない制度をどうにかしてほしいというもっと根本的なことでした。

 

最近は印鑑を廃止するような雰囲気になり、サインだけですむ場面が増えました。

このまま日本の印鑑の文化と折り合いをつけながら、自筆のサインが本人の意思確認として有効になる社会に大きく変化するのだろうと期待していました。

 

さて、先日とある書類が全てデジタル作成になるというので、電子印鑑の登録をすることになりました。

今までのように何ヶ所も住所氏名を記入し印鑑を押す必要もなく、審査に通るとデジタル書類が保存用に戻ってくるという簡素な方法になりました。

ところが送信されてきた書類を見ると、なんだか三文判を大きくしたような印鑑が隅に押されて出来上がってきました。

 

今までであればその会社との書類のやり取りだけでしたし、手元にある私の印鑑を押していました。

ところが今度はその間に電子印鑑の会社が入り、しかも私が気に入っていた実印とは程遠いデザインの印鑑がデジタル上の書類に押されています。

デジタル化ってこういう無駄を無くすのではないかと思っていたのに、相変わらず「印鑑」を押すのですね。

なんだかなあ。

 

この電子印鑑はどういうしくみで信用になるのだろうと説明を読んでも、なんだかスッキリ理解できません。

何より手元にある実印を押すという主体性さえ奪われた、なんだか敵に武器を渡したような心許なさですね。

 

行政手続きにおける印鑑の廃止に前向きな姿勢を取っている。ハンコ文化に理解を示すと同時に、業務の効率化のためにはハンコは減らすべきではないか、と述べたことがある。2020年4月27日より、防衛省内部部局、統合幕僚監部、陸上幕僚監部、海上幕僚監部、防衛装備庁、防衛大学校は、内部決裁を全て電子決裁とし、省外からの書類に関しても印鑑証明が要らないものは印鑑を不要とした。印鑑証明に代わる証明については、総務省が検討中のシステムで行う。

 

「印鑑証明に代わる証明については、総務省が検討中のシステムで行う」

そうだったのか、印鑑がなくなるというのはぬか喜びで別の方法にとって変えられることであり、それに登録しなければ自分の証明が成り立たないという主体性を放棄することだったのだと、遅まきながら気づいたのでした。

 

なんだかなあ、ですね。

 

 

 

 

 

 

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散歩をする 493 立会川に侵食された台地を感じながら歩く

目黒川を越えると品川用水が潤していた田んぼがあったあたりから、新幹線の車窓の両側には尾根から谷地までぎっしりと家が建つ風景が何度か現れます。

 

あっという間に通過していくことと、A席とE席でも風景が違うので、舌状台地末端の複雑な地形のどのあたりを通過しているのかいつも見過ごしてしまいます。

最近は海側を見ることができるA席にすることが多いのですが、最初の緊急事態宣言のあと遠出を再開した2020年7月頃は1車両に数人とか20人ぐらいでガラガラだったころに比べると、最近はE席はまず取れないくらいに乗客数も復活しました。

 

2022年7月に西大井駅あたりから立会道路、そして立会川の河口まで歩きました。立会川が暗渠になった道路です。

新幹線の車窓からこの立会道路のあたりが見えるとまた高台の風景になり、次に見えるのは呑川の両岸の風景です。

 

今回はこの立会道路に沿って、E席から見える風景を歩こうという計画でした。

 

 

西大井駅そばの立会道路へ*

 

品川区立豊葉(ほうよう)の杜学園の間の品川用水の跡の暗渠を歩くと、四間通りの交差点に出て右手をまた新幹線が通過していくのが見えました。交差点には古い地蔵堂があり、かつてはどんな風景だったのでしょう。

しばらく高架橋に並行して歩くと地図にはない公園があり、小さな「杜松小學校創立之碑」と彫られた石碑が建っていて、その向こうに新幹線の高架橋がまた見えてきました。品川平和の花壇という公園にはカンナの花が鮮やかに咲いていました。

新幹線と横須賀線の高架橋の下に北側へと杜松地下道が見えますが、「水系と3Dイラストでたどる 東京地形散歩」の3Dイラストの地図と付き合わせると、どうやらその地下道のあたりにかつて品川用水が通っていたように見えます。

 

今回は、地下道を通らずにもう一つ先のガード下まで高架橋の南側を歩くことにしました。

間口の狭いあの京都の長屋のような家々がぎっしりと続いていて、新幹線が住宅の屋根のすぐそばを通過していきます。当日のメモには「かつては水田もあった」と記録していたので、おそらく小さな暗渠を見つけたのでしょう。

 

古い石垣が残るガード下の四間通りをくぐると、その壁に小学生が綱引きをしている絵が描かれていました。

その先に大きな一本の木が残り、線路の南側とはまた違った住宅地が広がっていました。そこから南西へと少し下り坂になっているので、かつての立会川左岸でしょうか。

 

新幹線の高架橋沿いに歩くと、暗渠の水路が住宅地の道として使われていて途中の橋も残っていました。

屋根に隠れて姿は見えませんが、時々静かな走行音が通過していきます。

 

商店街に入りました。立会道路の一本北側の三間通りのようです。

走行音が聞こえるたびに振り向くと、お蕎麦屋さんや花屋さん、焼き鳥屋さんの向こうに新幹線が通過していくのが見えました。

E席からはこんな風景が見えていたようです。

 

 

*立会道路を荏原町駅まで歩く*

 

 

途中で南側へと路地を曲がると、立会道路に出ました。ここでは、真ん中の道路が一段高くなっています。かつての川の堤防の跡でしょうか。

ここから東急大井町線荏原町(えばらまち)駅方面へと立会道路沿いに歩きます。「3Dイラスト」の地図によると荏原台の高台の上を流れる川のようですが、道路の南側が小さな崖のようになってそれを利用して家が建っているのに対して、北側は少し下りのような場所でした。

 

立会川の暗渠を利用した道の両側は公園や住宅の緑があって、想像していたよりものんびりとした道です。

しだいに新幹線の走行音も聞こえなくなりました。

国道1号線第二京浜)との交差点がありその先の立会道路は遊歩道になりますが、横断歩道を渡ると、その遊歩道へは階段で降りるようになっています。

横断歩道から見えた第二京浜は両側が緩やかに上り坂になって、かつての立会川の両岸だとわかりました。

 

遊歩道になると自転車と歩行者の道が分けられているので、ぼーっとのんびりとかつての川の上を歩くことができます。

よく手入れされている木々が植えられて、途中にある特別養護老人ホームの前にはベンチもあって一休みさせてもらいました。

80年ほどのこの地域の風景の変遷を見てこられた方々にとっても、きっと川の記憶が蘇るような穏やかな場所でしょう。

 

歩く人も増え両側にお店が増えてきたあたりで昔の川は北へとぐいと曲がり、そのそばに木と小さなお社がありました。水が溢れないように、そして水が足りなくなりませんようにとたくさんの人が祈ったのかもしれません。

 

15時40分、荏原町駅の賑やかな商店街に出て、今回の新幹線の車窓を歩く散歩が終わりました。

 

お腹も空いたので、ちょうど開いていた中華料理屋さんに早めの夕食と思って入りました。

隣の席で人が寝ている気配がありました。こういう生活の雰囲気も好きだと思いながら、美味しく食べて満足して散歩が終わりました。

 

今度新幹線に乗ったら古戸越川と立会川が侵食した荏原台の地形、そしてそこでの生活の風景を見逃さないように集中しなければ。忙しくなりますね。

 

 

 

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