水のあれこれ 348 「他の河川にひけを取らないプロフィールを持っている」大水川

「大水川」、私がいつも利用している地図には名前が載っていません。

 

どこを流れているかというと、応神天皇陵古墳の周濠の北側の「誉田(こんだ)一号暗渠」が開渠になって遊歩道のそばを流れ、隣接する誉田円山古墳のところでぐいっと北へと流れを変える小さな川です。

 

たまたまその川を撮った写真に、欄干の「おおずいがわ」という表記が映り込んでいました。

どんな漢字だろうと検索したところ「Web 風土記 ふじいでら」というサイトで「大水川」だとわかったのですが、11ページもの説明がありました。なんという無名の川への愛を感じる先人の記録でしょうか。

 

大和川水系の大水川*

 

(おおずいがわ) 一級河川 <一級水系大和川> <大阪府

近畿日本鉄道南大阪線 土師ノ里駅より府道・堺大阪大和高田線を西へ約700m  徒歩12分

流路延長 約4.5km

流域面積2.7㎢ 指定延長 2.5km   管理:大阪府富田林土木事務所

(上記サイトより)

ここ数年であちこちの川を歩いていますが、その中でも小さな川です。

 

 藤井寺市を流れる主要河川(一級河川)を取り上げるとなると、大水川は大和川・石川・落堀川(おちぼりがわ)に次いで、どうしても4番目になってしまいます。ただし、これは流路の長さや川幅などの外見的な河川規模で比べた結果であって、別の顔ともいうべき地理的・歴史的な背景を見ていくと、大水川は決して他の河川にひけを取らないプロフィールを持っている川であると言えます。

 

この最初の一文にぐいぐいと惹きつけられたのですが、さらに大水川の地理から歴史まで、川について知りたいと思う説明が書かれていました。

添付されている地図には小さな水路の名前まで正確に記されています。

 

一見、文学的表現のような出だしですが、その小さな川の成り立ちや地形、災害や水利や下水の施設など生活に関わる歴史が網羅された正確な内容が記されていました。

 

 

*現代の大水川(おおずいがわ)と王水川(おうみずがわ)ー水源は石川*

 

応神天皇陵の周濠に沿って水路が複雑にあるのでその水路を合わせた流れだろうと推測していたのですが、このサイトには詳細が書かれていました。

 

(中略)大和川の一次支川である石川にある樋門から導入された水が、誉田御廟山(こんだごびょうやま)古墳の南から西へ流れて王水川(おうみずがわ)から分流した後、国道170号線の地下を暗渠(あんきょ)で曲がりながら通ります。この暗渠は「誉田(こんだ)1号暗渠」と言いますが、暗渠の出口が法河川としての「大水川」の開始点です。

 

石川といえば、昨年9月に狭山池から近鉄長野線と近鉄南大阪線を乗り継いで奈良へ向かった時にその両岸に美しい水田や水路があったことが記憶に残りました。

その古市駅から東へ数百メートルの石川左岸にたしかに水路と水路が交差して、その細い一本が北から北西へと曲がりながら応神天皇陵のそばの水田近くを流れています。

これが王水川だったようです。そしてその先の国道170号線とバイパスの三叉路の下で暗渠としてぐいと東へと曲がったのが、あの誉田1号暗渠でした。

 

暗渠のあたりで分水された王水川は、私が歩いたあの酒蔵やアイシェルアシュラホールのあたりから下り坂になった先の平地を潤していたようです。

 

石川から取水し、藤井寺市羽曳野市の台地の下側を潤しながら大和川へと流れる用水路だったわけですからこれだけでもすごい「プロフィール」に出会いました。

 

 

*おまけ*

 

一見、地図では大水川が現在の大和川へと合流しているように見えるので「大和川へと流れる」と書いたのですが、この資料を読んで初めて、その手前に大和川に並行して小さな落堀川があってそこに合流していることがわかりました。

 

江戸時代の大和川の付け替えの際、地形的に直接合流させることが難しいためにそのような形になったことが書かれていて、それが現代にも生かされていることにまた江戸時代の土木事業の凄さが印象に残りました。

 

 

 

 

「水のあれこれ」まとめはこちら

散歩をする 502 藤井寺駅から周濠を訪ね歩く

古墳内にも村があったことに驚きながら、近鉄恵我ノ荘駅から藤井寺駅に向かいました。

ほんとうはその間にもいくつかため池や古墳があるので歩いてみたかったのですが、とてもとても時間も体力も無理そうです。

 

実は今回の大阪内の周濠を歩く計画を立てていた時はまだ古市古墳群と呼ぶことを知らず、「羽曳野のあたりの古墳が多い場所」とか「大和川左岸のため池と周濠が多い場所」の認識でした。

こうして思い出しながら散歩の記録を書くためにあれこれ読み直して、「百舌鳥古墳群・古市古墳群」であることを知りました。

 

藤井寺駅から土師ノ里駅までの間の古墳をいくつかつなげながら歩く計画です。

ところで土師ノ里(はじのさと)駅も、その読み方を全然覚えられなくていまだに「どし」と呼んでしまうくらい、古墳やその土木技術の知識がないままです。ただただ周濠とその周囲の風景、とくに田んぼと水路を見たいというニッチな趣味ですね。

 

 

藤井寺駅から古墳を訪ね歩く*

 

 

近鉄藤井寺駅で下車し、最初の目的地仲哀天皇陵を確認しようと地図を見たらありません。よくよく見ると、あの香芝市のガイドマップのように南北が逆さまに描かれていたのでした。その土地の生活上で何か理由があるのでしょうか。

 

ちょうど11時30分で、お腹が空きました。朝からだいぶ歩き、午後も古墳を回りますから商店街でお昼ご飯にましょう。ところが「11時30分開店」と出ているお店の前で待ってみましたが気配もありません。自転車で来た男性が、待っている私を見て「今日はやっていないみたい。あっちもお店があるよ(関西弁)」と教えてくれました。なんという心遣いでしょうか。こんなところが関西っぽいですね。

 

教えていただいたお店でしたが、「今はうどんの気分」だったのでそのまま古墳をめぐることにしました。

商店街を抜けて門前町のような場所の先は、古墳に向けて少し下り坂のようです。途中に酒蔵がありました。

仲哀天皇陵の古墳の森が見えましたが、空腹に負けて応神天皇陵へと向かうことにしました。

 

地図に水色のため池のような場所が描かれているのですが、そこには大きな船の形をした「アイセルシュラホール」という藤井寺市の建物がありました。ため池を利用して造られたのでしょうか。

そのあたりから水路や畑が残る住宅地になり、最近はどこでも散歩をしていて人と出会うことが少ないのですけれど、途中、けっこうな人とすれ違いました。

 

1月中旬、蝋梅や水仙が美しく癒されながら東へと少しずつ下り坂を歩くと、住宅地の中に庭のようにサンド山古墳があり、その先に住宅地内のロータリーかと思ったら蕃所山古墳で大きな木が生えていました。

 

応神天皇陵の周濠と田んぼ*

 

緩やかに下ると水路があって、国道170号線がバイパスとに分かれるのでしょうか、交通量の多い三叉路がありその先に応神天皇陵の森が見えました。

古墳の西側には水田があります。

田んぼのそばの水路が三叉路の下から流れてくる「誉田一号暗渠」に合流し、応神天皇陵の北側からいくつかの水路を合わせながら、最後は大和川へ合流するようです。

このあたりからは水田が多いのかもしれません。

 

応神天皇陵の北西は周濠のギリギリまで、80年代ごろの住宅地でしょうか住宅が建ち並んでいます。

途中、周濠のそばに近づける場所があり、案内板がありました。

史跡古市古墳群 応神天皇陵古墳外濠外堤(がいごうがいてい)

 応神天皇陵古墳(誉田御廟山古墳)は、5世紀前半に築かれた前方後円墳で、墳丘長約425m、後円部直径約250m、前方部幅約300m、高さは後円部頂上で約36mの規模を有します。墳丘長は百舌鳥古墳群仁徳天皇陵古墳(大山(だいせん)古墳)に次いで我が国第2位の規模ですが、墳丘の体積についてはこれを凌いで我が国第1位とも言われています。また、大規模な墳丘とともに二重の濠と堤を持ち、前方後円墳の巨大性と隔絶性が最も完成された姿を示しています

 この場所は応神天皇陵古墳の前方部の北西方向の外濠に相当し、前面に広がる樹木が繁茂している箇所は内堤に当たります。

 応神天皇陵古墳は小高い丘が広がっている所に位置していますが、その地形の高まりの範囲をはみ出した部分にも土を盛って、その上に墳丘が造られているようです。さらにこの場所に古墳を築造するために、そこを流れていた河川をも付け替えていることが周辺の発掘調査から推定されています。

 また、この場所から臨むことのできる内堤に置いて、初夏にヒメボタルが飛来している様子を観察できることもあります。

          羽曳野市

(強調は引用者による)

 

先ほどの水田は、二重の濠の外側だったようです。

周濠と水田から古墳にも関心が広がりその専門用語に少し慣れてきたのですが、「前方後円墳の巨大性と隔絶性が最も完成された姿」という意味はちょっと慣れないものでした。

 

ちなみに「誉田」は「ほまれだ」かと思ったら「こんだ」と読むようですが、これが付け替えられた川だったのでしょうか。

5世紀にはすでに「川を付け替える」ことが行われていたのですから、すごいことですね。

誉田一号暗渠の水路はそのすぐ先で大きく北へと曲がり、遊歩道が整備されていました。

その角のような場所に、もう一つ小さな「誉田円山古墳」がありました。

 

水仙の花が美しく咲き、古墳の森の静けさの中、そばにある東屋でしばらく休憩をしました。

5世紀ごろ、この辺りはどんな風景だったのでしょう。

 

 

「散歩をする」まとめはこちら

 

 

 

 

米のあれこれ 81 古墳の上にあった大塚村の幻の水路と田んぼ

JR南田辺駅から桃が池公園を訪ね、近鉄線北田辺駅に向う住宅地を歩くと駅の近くに古くからのアーケード街があり、10時前だというのにけっこう年配の人たちが自転車で集まってきて買い物をしていました。

ついついその雰囲気に混じってお店をのぞいて歩きたくなりましたが、先を急がなければなりません。

北田辺駅から近鉄線で南側へと戻って大和川を再び渡り、最初は河内松原駅で下車しました。

途中、「針中野」とか「瓜破(うりわり)」と興味深い地名に途中下車したくなりますが先を急ぎます。

 

河内松原駅の南東へと少し歩いたところに小さな水路があり、その先にため池があるはずです。

少し蛇行した古い商店街を抜けるとありました。「反正山水利組合」とあるので、パッと見た感じではわからないのですが少し小高い場所にため池が造られて、西の端に分水路がありそばに墓地がありました。

おそらく水田地帯だったのでしょう。私が子どもの頃だったら、稲穂が広がる風景を見ることができたかもしれませんね。

阪和自動車道の下を東側に向かうと、森が見えます。そこが次の目的地の河内大塚山古墳で、蔵のある古い立派な家々が残る住宅地を抜けると、目の前に周濠が広がりました。

 

周濠の北側を歩くと途中から道を隔てたところに水路らしきものがあり、北東の古墳の角のあたりから一段低いところにある住宅地を歩いて恵我ノ荘駅につきました。

 

 

*かつて古墳に集落があった*

 

河内大塚山古墳はかなり大きい周濠に囲まれていますが、Wikipediaには世界遺産には含まれていないとあります。

 

古墳のそばの案内にこんなことが書かれていました。

河内大塚山古墳(かわちおおつかやまこふん)

 河内大塚山古墳は、西大塚の東除川(ひがしよけがわ)西側に発達した、中位段丘面に築かれている。周濠を持つ巨大前方後円墳である。墳丘規模は全長335m 、前方部230m、後円部直径185m、前方部高4m、後円部高45mに及び、松原市内で最も標高が高い。

 墳丘主軸長では、日本列島第5位のトップクラスだが、築造時期を決める資料に乏しい。しかし、①前方部は平板低平で、やや不整形をとること。②埴輪や葺石(ふきいし)の存在がはっきりしないこと。③後円部に「ごぼ石」とよぶ巨石が存在するうえ、江戸時代後半の毛利家文書の「阿保親王事取集(あぼしんのうこととりしゅう)」(山口県立文書館)に「磨戸石(みがきどいし)」とよぶ巨石が18世紀後半の宝暦〜明和年間に見られたこと。④古墳内にあった石室材・石棺材と思われる竜山石(たつやまいし)や花崗岩が柴籬(しばがき)神社(松原市上田7丁目)などへ移されていること。

 このようなことから、横穴式石室が後円部につくられていた可能性があり、6世紀中葉から後葉の古墳と考えられる。

 中世には、丹下氏が古墳を利用して、丹下城を築いた。織田信長によって丹下城がこわされた後、江戸時代には前方部に大塚村が形成され、後円部には氏神天満宮(菅原神社)が祀られた。

 大正10年3月に国の史跡(昭和16年12月解除)となり、大正14年9月に陵墓参考地となったことから、昭和3年までに数十戸の民家は濠外に立ち退いた。

 6世紀時代の安閑(あんかん)天皇や、欽明(きんめい)天皇陵とする説があると同時に、墳丘未完成説も唱えられている。現在、宮内庁が管理する陵墓参考地である。

           松原ライオンズクラブ 2010.11   

(強調は引用者による)

 

なんと、江戸時代から明治時代にかけて、古墳内に村があったようです。

周囲には水田が広がっていたのでしょうか。

天皇陵の周濠の水が稲作に利用されていただけでなく、その古墳の上で暮らしていたとは想像もしていませんでした。

 

 

*おまけ*

 

あの7世紀ごろ、南河内の地溝開発で造られた狭山池からの東除川がこの段丘の下を通っていることがつながりました。

狭山池からここまでも数々のため池がありますが、当時はどんな風景だったのでしょう。

 

 

 

 

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水の神様を訪ねる 97 桃が池公園の股ヶ池明神

大和川左岸にはたくさんの周濠やため池が散りばめられたような場所があり、どうやったらここを歩き尽くせるだろうと時々妄想の散歩をしていました。

 

初日は百舌鳥古墳群だけでなく久米田池の隣の和泉府中のあたりまでのため池も歩く予定でしたが、実際に歩くと広大すぎて古墳群でさえ歩ききれずに計画を断念したのでした。

 

散歩の2日目は、近鉄南大阪線道明寺駅から古市駅辺りにあるため池や周濠を歩く計画です。

大阪や奈良の鉄道網は一見東京と同じような複雑さですが、似たような鉄道会社名の路線が並走していたり、碁盤の目のような路線図でまだ慣れないことと、微妙に乗り換え駅が離れているので乗り継ぎが少し大変そうです。

 

初日に宿泊したJR阪和線和泉府中駅から東側の近鉄南大阪線の駅に行くには、いったん天王寺駅まで行ってから近鉄に乗り換えて戻るしかないのかなと地図を眺めていたところ、JR阪和線南田辺駅のそばに池があるのが目に入りました。その北東1kmほどのところに近鉄南大阪線北田辺駅があります。ここを歩いて乗り継ぐことにしようと決まりました。

その名も「田辺」ですから、水田に関係したため池でしょうか。

 

9時前にJR和泉府中駅から阪和線に乗りました。前日に歩いた百舌鳥古墳群はやはり台地だったとわかるような切り通しを抜けてしばらくすると大和川を越えました。荒川江戸川を思い出すような「放水路」の風情です。

 

 

*桃が池公園の股ヶ池明神*

 

南田辺駅の手前から線路沿いにその名も「長池公園」という長細いため池と遊歩道が見えて南田辺駅に到着。

 

桃が池の西側には池のすぐそばまで住宅地で、その細い路地を歩くと股ヶ池明神の古い鳥居が見えてきました。

池に飛び出たような場所が周囲より少し高くなっていて、森のような木々に囲まれてお社があり池が目の前に広がっています。

 

「江戸時代の石仏発見」とお手製の説明板があり、その隣に「股ヶ池明神の台風被害につきまして」というお知らせが貼ってありました。

 大風の被害に遭われた方々に謹んでお見舞い申しあげます。

平成三十年九月四日に台風二十一号が四国、関西を横断する形で非常に大きな勢力のまま横断し各地で大きな被害をもたらしました。

 股ヶ池明神においても玉垣の倒壊や、社殿の屋根が破損する被害がありました。近隣住民と話し合った結果、付近を通行される方の安全性を考慮し、誠に残念ではございますが玉垣を撤去することに致しました、本来であれば、ご寄進いただきました方々には直接ご説明に伺うべきところですが、事情をご理解いただき、ご容赦いただきますようにお願い申し上げます。

 

2018年7月は50年に一度と言われる倉敷での水害が起こり、そして9月にはこの大阪湾で台風と高潮が重なり大きな被害が起こりました。この2018年の西日本豪雨がきっかけで大雨警報レベルが見直された年でもありました。

そして猛暑も災害という認識が定着した年でしたね。

 

この少し小高い場所には、数年前まではぐるりと周囲を囲む玉垣があったようです。

囲うものがないちょっとおぼつかないような高台の端に石碑があり、「灌漑」「旱魃」といった文字が彫られています。どうやら「森岡家の林右衛門」さんがこの池の改修をした記念に1925年(大正14)に建立されたようです。

「開田」という文字も見えます。一世紀前、この辺りには水田が広がっていたのでしょうか。

 

 

「股ヶ池明神略記」は文字がかすれて読めない部分もあるのですが、もとから池があってそこに住む怪物によって怪異が起こっていたため祈祷したという内容が書かれていました、

 

池には鴨がのんびりと泳ぎ、ここにもまたカモメの姿がありました。

周囲は高架橋が交差しマンションや住宅の立ち並ぶ平地に、突如として南北に数百メートルはある広い池がある風景です。

どうやって湧き出た池で、それをどのように灌漑として利用していたのでしょうか。

 

かつての用水路や田んぼの痕跡はわからなかったのですが、地図から見つけた池と神社は2日目の散歩のスタートにふさわしい場所でした。

 

 

「水の神様を訪ねる」まとめはこちら

 

散歩をする 501 百舌鳥古墳群の周濠を訪ね歩く

大阪の古墳とその周濠を見て歩く計画は、2019年からのやり残した宿題でもあります。

 

遠出を始めたばかりの2019年2月に木曽三川からぐるりと紀伊半島を回って新大阪へと戻る時に夕闇の中で気づいたのでした。当時はまだ古墳にはそれほど関心もなかったのですが、特急で通過した時には平地にしか感じなかったのに、ちょうどブラタモリで「見晴らしの良い高台に古墳群が造られた」ことを放送していたことが記憶に残り、いつか歩いてみたいと思っていました。

「百舌鳥」という地名にも惹きつけられますしね。

 

そのうちに奈良の古墳の周濠の水は田んぼに利用されていたことを知り、大阪のこの周濠もやはりそうなのだろうかと気になっていました。

 

2022年11月に久米田池を訪ねた時は体力の限界であきらめ2023年9月に狭山池を訪ねるときは詰め込み過ぎの計画でそばを通るだけになってしまいました。

 

いよいよ今回の遠出はこの百舌鳥古墳群と、さらに翌日には古市古墳群の周濠をみてまわる予定です。ちょっと無謀な予感もするのですが。

 

 

 

 

百舌鳥古墳群を歩く*

 

 

行基さんが生まれ育った家原を訪ねて満足し、津久野駅からJR阪和線で一駅の上野芝駅に向かいました。

Wikipediaによると2019年7月に世界遺産に登録されたようですが、上野芝駅の周辺には特に案内表示はなくて、かえって巨大な古墳群が普通に生活の中にあるようなうらやましさを感じました。

 

駅を出て最初の履中天皇百舌鳥耳原南塚へ向かいましたが、途中、府道34号線がJR阪和線の下をくぐってさらに下り坂になっているのが見えました。

西と北はそれぞれ緑ヶ丘と旭ヶ丘で、時々西側へと続く道路の先に堺の港湾施設が見えました。「標高15~22mの台地の西縁部」(Wikipedia)でそばを石津川が流れているようです。

 

南側は周濠のギリギリまで住宅が建ちそのあいまに古墳の森が見えていましたが、やがて周濠が見えて、周囲の遊歩道に入りました。

1926年(大正15年)当時は「東側の周濠に沿って延びる田んぼの畦が存在した」(Wikipedia)とのことですが、どんな風景だったのでしょう。

周濠の水面を眺めながら数百メートルほど歩くと、履中天皇陵の北側と接している大仙公園に出ました。ここにも、中小さまざまな古墳がありました。

 

計画ではJR阪和線の東側にあるいたすけ古墳や御廟山古墳をまわってから仁徳天皇陵の周濠を歩くつもりでしたが、履中天皇陵の周濠だけでも相当な距離なのに仁徳天皇陵はさらに1.5倍ぐらいありますからね。これは無理だとわかりました。

 

 

*見晴らしの良い台地の上*

 

午前中からすでに19000歩、休憩も兼ねて堺市立博物館に入りました。

百舌鳥古墳群ー巨大古墳が集まるー

百舌鳥古墳群は、大阪湾上の船からよく見えるよう台地の上に造られており、このことから当時の王権が海外に目を向けていたことがよくわかります。墳丘の長さは10m~500m近くとさまざまですが、300m以上もある巨大な古墳を3基含んでいます。墳丘の形は、前方後円墳、帆立貝形墳、円墳、方墳の4種があります。この古墳の大きさと形の違いから、埋葬された人の生前の政治的、社会的な序列や身分が読み取れるため、百舌鳥古墳群古市古墳群と共に、当時の政治・社会の階層構造を示すものとして、日本の古墳群の代表といえます。

(展示より)

 

巨大でしかも数多い古墳に圧倒されましたが、その高台にある周濠を満たす水はどこから来ているのか、その水を田んぼに利用し始めたのはいつ頃なのか、素朴な疑問の答えはまだ見つからなさそうです。

土塔 についてと大和川についての資料を買って、また歩き始めました。

 

博物館を出ると、目の前が仁徳天皇陵の外側の周濠です。三国ヶ丘の駅に行くには歩き切るしかないので、疲れた足を引きずりながらただひたすら鬱蒼とした古墳の森と周濠の水を眺めながら歩きました。

日当たりの良い土手に、水仙が咲いていました。古墳の周濠の美しさにますます惹かれていきそうです。

途中、周濠から取水口と分水路のようなものがありました。かつてはこのあたりにも田んぼがあったのでしょうか。

 

 

そういえば三国ヶ丘ですからここも台地の上ですね。

駅から北へ2kmほどで現在の大和川がありますが、1704年に付け替えられるまでは淀川に合流していたとのことなので、高台はもっと北の方へと自然堤防のように続いていたのでしょうか。

 

百舌鳥古墳群を訪ね歩く」、実際には5分の1も達成できていないので、またやり残した宿題になりました。

 

 

「散歩をする」まとめはこちら

 

 

 

 

 

 

 

行間を読む 204 大和川付け替え前の新田開発の地

行基さんの生家を訪ねたあと、その斜め向かいにある家原大池に立ち寄りました。

東側の体育館や南側の公園はおそらく池を埋め立てたのだと思われますが、家原大池の歴史がわかるような説明は見つけられませんでした。

 

広大な池の道路を隔てた北側が小高くなっていて、その裾に何か史跡があるので立ち寄ってみるとお城の跡でした。

原城

 16世紀中頃は、三好長慶が近畿・四国地方で九ヶ国余りを制圧し、和泉国もその支配下にありました。しかし、永禄8年(1565)以降、三好長慶重臣であった松永久秀が、長慶の後継者である三好義継を擁する三好三人衆と対立するようになり、家原城においても対立した状況が、以下の資料でわかります。

 「細川両家記」によると、永禄9年(1566)2月、家原城には松永方の泉国の侍たち(泉州衆)がたてこもっていました。泉州衆は城を出て、堺を出撃した畠山高政と合流し、上芝(現在の上野芝)で三好義継の軍勢13000と戦いますが、敗れて岸和田城に逃れました。

 永禄11年(1568)9月には、織田信長の勢力が、三好三人衆を破り、畿内を平定しました。しかし、「細川両家記」によると、同年12月には、三好義継の家臣の寺町左衛門大夫(さえもんだいふ)・雀部治兵衛尉(ささべじひょうえのじょう)らがたてこもる家原城が、京都奪還を目指す三好三人衆に攻められ落城します。この戦いは、翌年の2月27日に上杉謙信にも伝えられました(『上杉家文書』)。

原城から逃れた人々は、踞尾(つくの)、家原に住み着いたといわれています。

 現在は、大幅に地形が改変されていますが、大池に面した部分にかつての家原城の面影を見出すことができます。

   堺市 2013年9月

 

歴史人物の記述は目が滑ってしまうのですが、案内板の絵図では堀に囲まれた家原城と、その南西に池が描かれ、石津川に挟まれた地域と東側に「田」とあるのが目に入りました。

 

てっきりこのため池も行基さんに関係があると思ったのですが、中世あたりからの新田開発のためでしょうか。

かつての田んぼのあとは片側3車線の府道61号が真っ直ぐに通り、家原城の背後には堺市総合医療センターが要塞のようにそびえていました。医療センターの入り口になぜか大きな青銅の象がいました。

 

津久野駅の近くでお腹が空いて関西風のうどんをむしょうに食べたくなり、お店に入ってうどんと親子丼のセットを頼みました。このあと古墳群を歩くので腹ごしらえが大事ですからね。

子どもの頃から食べ慣れた関西風の味とやわらかめのうどんに、「これを食べたかった」と大満足でお店を出て津久野駅に向かいました。

 

 

*津久野と踞野*

 

片側3車線の府道の周辺はマンションも多く最近開発された街かと思ったのですが、ふらりと寄ったお店の昔懐かしい味に、帰宅してから「津久野」はどんな歴史のある街なのだろうと検索してみました。

 

Wikipediaの「津久野駅」にかつては「踞尾」表記だったことが書かれていて、家原城跡の案内板にたしかに「踞尾」と書かれていることと繋がりました。まず読めないですね。

 

Wikipediaに「踞尾村」の説明がちゃんとありました。

その中に「1698年(元禄11年)に当村の北村六右衛門が摂津国西成郡の三軒家浦に新田を開発」に目が止まりました。「浦」に「新田開発」、これは干拓でしょうか。

ここから2kmほどで海岸になります。

 

大阪は土地勘がほとんどないのでWikipediaの「西成郡」を読んでもなかなか地図と重なり合わないのですが、以下の部分が何かこれからのヒントになりそうです。

一方、淀川や大和川は流してくる土砂は上町台地のはるか西の沖合いまで、いくつもの支流と小島を作って海を埋め尽くすようになった。この土砂は通行路である河川を浅くしてしまい、洪水や氾濫の原因にもなる厄介なものだったが、次第にこれらの新しい島も新田開発が進められるようになった。

 

今回の散歩は大和川のあちこちを歩いてみようというものでしたからね。

歩いた時には気づかなかったのですが、あの辺りは1704年の大和川の付け替え以前の新田開発の場所だったようです。

いつかまたこの大和川付け替えの前後の時代の行間をもっと歩きたいものです。

 

津久野のお店にふらりと入らなかったら、街の雰囲気からこの歴史にたどり着かなかったかもしれません。

これもまた散歩の醍醐味ですね。

 

 

*おまけ*

 

以前から歴史上の人物についての記述は目が滑って頭に入らなかったり、「何人衆」という表現にも興味がなかったのですが、最近の様子と重なりあって気になるようになりました。

 

「何人衆」と言われることで現代の政治家はもしかすると歴史上の人物になったような錯覚があるのかもしれませんが、最近の私は「軍勢13000」と一括りにされるような一人一人の人生の方が気になります。

少数者の利益のために一蓮托生で犠牲になった人々だったのか、見につまされる時代ですからね。

 

 

 

 

「行間を読む」まとめはこちら

城と水のまとめはこちら

あの日(2022年7月8日)から考えたことのまとめはこちら

散歩をする まとめ (501〜)

近所や都内を歩いていた散歩だったのに、最近は全国津々浦々の川や水路や干拓地だけでなく寺社や古墳まで訪ね歩き、思えば遠くに来たものだと思うことが増えました。。

そして一生のうちにもう二度と訪ねることはないかもしれないと決死の覚悟で出かけ始めた遠出だったのに、「そうだったのか」と知ったことが増えた分、知らないことがもっと出てきて再訪することも増えました。

 

そもそもブログを書き始めたのは出産や授乳の安全性について頭の中を整理するためだったのですから、ほんと、遠くに来ました。

 

散歩という言葉はいつ頃できて何を意味しているのだろうと検索したのですが、案外と漠然としているようです。「一般的に用いられるようになったのは明治時代」(コトバンク、精選版日本語大辞典)とのことで、当時はどんな感じで「散歩」と使われ始めたのだろうと気になっています。

 

途中で気になったことのメモや写真から、それにはどういう歴史があったのか、自分の年表を正確にしながら、かつ中央歴史主義史観に陥らないように、もう一度細かな事実を生活の中から見つけていくことで、誰に渡すでもない次世代へのバトンを準備する。

最近の散歩はそんな感じになってきました。

ちょうどキリのいい「散歩する 500」行基さんの生地を訪ねた記録になりました。

 

いつも神妙なことを考えているわけではなく、「あれも見てみたい」「あれを食べてみたい」と思って楽しみながら出かけているのですが、帰宅するとやり残した宿題がどんどんと増えて考えることが尽きなくなる感じですけれどね。

 

ということで、「散歩する」の501からはこちらへとまとめていきます。

 

「散歩をする」(1〜250)のまとめはこちら

「散歩をする」(251~500)のまとめはこちら

 

501. 百舌鳥古墳群の周濠を訪ね歩く

502. 藤井寺駅から周濠を訪ね歩く

 

散歩をする 500 いよいよ行基さんの生地へ

念願の土塔を訪ねることができました。

 

この土塔町の北に泉北高速鉄道がその上を通過した菰池(こもいけ)があります。このため池もまた行基さんが築造したらしいので土塔のあとそちらに向かい、次に周濠のある土師(はぜ)ニサンザイ古墳を回ろうと計画していましたが、通過した時の菰池の大きさにこれは歩ききれないと悟りました。Wikipediaの説明によれば、1980年代に一部を埋め立ててもこの広さですからどれだけ大きいため池だったのでしょう。

 

散歩の出だしからまた距離感の詰めが甘くてひとつ計画を断念し、別のルートで目的の場所へ向かうことにしました。

 

 

*深井清水の水路をたどって家原寺へ*

 

深井駅へ戻り、そこから西北西へと続く細い水路沿いに歩いて行基さんの生家を目指すことにしました。

その名も深井清水町で、地図では入り組んだ街の中を水路が通っています。どんなところでしょう。

 

駅の西側の交通量の多い府道34号を渡り住宅街を北へと歩くと、おそらく水賀池からの用水路が暗渠になって遊歩道として整備された深井花のこみちがありました。

その大きな水路の下を潜るように南東から小さな水路と交差した場所があり、家原大池という大きなため池へと流れる水路です。

「川の下に川、川の上に川」、ため池を結びながらこの地域に過不足なく水を行き渡らせる、どのような歴史があったのでしょう。

 

小さな水路は少し幅が広くなりながら、住宅地を流れていました。途中に「深井清水の旧跡」と小さな石碑が水路のそばに建っていました。両岸の住宅地は右岸側が小高くなったと思うと、今度は左岸の方が高くなり、もともとは起伏のある場所を湧水を集めながら蛇行した小さな水の流れだったのかもしれません。

コンクリート三面ばりの中には清冽な水が流れていました。

 

数百メートルほど水路沿いに歩くと、道路を隔てたところからは「準用河川伊勢路川」になり、左手は崖のような場所があったり、白っぽい土の畑が残っていたりさまざまに景色が変わるうちに、目の前が開けるように平らな場所に出ました。

水路はここから真っ直ぐ家原大池に流れ、右手に見える高台の向こうに目指す家原寺があります。

 

*家原寺(えばらじ)*

 

高台にある小学校の西側の崖下に、家原寺への山門がありました。高台へ登るのかと思ったら、山門のすぐ奥にお寺が見えます。どんな地形なのでしょう。

周囲は家に囲まれているので分かりにくいのですが、手前に池があり東側は斜面になっているので、どうやら谷戸(やと)とか谷津(やつ)のようです。

池の水は湧水でしょうか。

704年、行基さんが生家を寺にした頃は、どんな風景だったのでしょう。

 

ところで、訪ねて初めて「家原寺(えばらじ)」と読むことを知りました。

ほんと、日本語は難しいですね。

 

家原寺(えばらじ)

 飛鳥・奈良時代の高僧行基(668~749)は、この地で生まれ、父の高志才智(こしのさいち)は、百済から渡来した王仁(わに)を祖先とする一族で、母は蜂田首虎身(はちたのおびととらみ)の娘の古爾比売(こにひめ)とされています(『大僧正舎利瓶記』より)。行基は、仏教の民間布教と同時に、灌漑用の溜池を造るなどの社会事業を推し進めました。行基慶雲元年(704)に、母方の実家のあった生誕地に自ら寺院を建立したのが当寺とされています。本尊の文殊菩薩は「知恵の文殊」として、一年を通して数多くの参拝者があり、特に受験生が多く合格祈願に訪れることで有名です。

 行基の一代記を描いた、当寺所蔵の「行基菩薩行状絵伝」は、国の重要文化財に指定されています。また、当時の境内には天文20年(1551)の銘があり、大阪府の指定文化財となっています。

 大左義長法会は、「家原のとんどまつり」として知られ、多くの参拝者が昇運や無病息災を願って訪れます。

(家原寺の案内板より)

 

 

1月中旬、合格祈願の高校生がひっきりなしに訪れていました。

 

行基さんの時代と重なるこのところの世の中の雰囲気でさらに理不尽さに打ちのめされるような年明けでしたが、だからこそまた十数世紀後にも普遍的なことが伝えられていくのだと希望が見えてきました。

 

 

「散歩をする」まとめはこちら

行基さんの記事のまとめはこちら

 

 

記録のあれこれ 172 行基さんと「知識」の人々の記録

今年の1月中旬、久しぶりの遠出の計画を実行しました。

出かける時には1度、都内に初雪が降った翌日で凍てつく寒さです。真冬の散歩用に購入したスマホ用の手袋をさっそく使ってみましたが、あんまり反応はよくないようです。

 

日の出前の6時40分に品川を出発しました。品川から新綱島、新横浜から鶴ヶ峰までの歩いた場所を見逃さないようにと集中しましたが、まだ少し薄暗い中、あっという間に風景は後ろへと過ぎて行きました。残念。

6時59分、小田原の手前あたりからは霜柱が立っているのが見えました。

すっかり見慣れた沿線の風景ですが、さらにその沿線を歩いた場所が増えたので眺め続けていてもあきることがありません。あっという間に静岡から愛知県へと入り名古屋を過ぎると、建設中だった木曽川の橋がつながっていました。川風の強い中で堅強な橋を建設するのですからすごいですね。

関ヶ原はいつもなら積雪で徐行運転になることが多い時期なのに、うっすらと積もっているだけでした。滋賀県に入ると、麦が芝のように出始めていました。

散歩の始まりだというのに、次々と歩いてみたい場所ができてしまいました。

四季折々、また風景もそして生活も違いますしね。

 

 

*水賀池*

 

9時ちょうどに新大阪駅に到着、ここから乗り慣れない大阪の路線をどきどきしながらの乗り継ぎです。中百舌鳥駅泉北高速鉄道に乗り変えて、すぐひと駅の深井駅に10時16分に到着しました。

このわずか一駅区間にも3つのため池のそばや上を通過します。どんな水路の歴史がある場所なのでしょう。

 

深井駅の直前に水賀池のそばを通過しましたが、広大な池が真っ青な冬空に美しく遊歩道もあるようです。寄り道したくなりました。

周囲より少し高くなったため池でしょうか、桜などが植えられていて休日の朝の散歩をする方々とすれ違いました。のどかな場所ですが、公園の歴史は見つかりませんでした。

 

冬の水鳥に混じって、カモメもいました。堺市はやはり海が近いのですね。

 

 

国史跡土塔へ*

 

水賀池のそばはその名も水池町という静かな住宅地で、ところどころに蔵のある灰色の屋根のお屋敷のような農家もありました。行基さんの頃からこの地を耕してこられたのでしょうか。

 

駅から直線距離で数百メートルほどのところに最初の目的地があるのですが、そこまでも少し上ったり下ったり起伏がある道を歩くと、右手に公園のような場所があって写真で見た場所がありました。

 

昨年9月に狭山池博物館を訪ねた時に印象に残ったのがこの土塔で、住所も土塔町です。

あちこちのため池や水路などを造り、現代でも「行基さん」と親しみを込めて呼ばれている方ですが、こんな形の記録もあるのかと印象に残りました。

 

真っ青な空と周囲のところどころ緑の混ざる芝生に茶色いそのピラミッドのようなものが映えていて、説明板がありました。

瓦葺と文字瓦

 土塔には、前面に瓦が葺(ふ)かれていました。その数は約60,000枚にもなります。また各層の垂直面にも瓦を立てて風雨による盛土の崩壊を防いでいたようですが、葺かれていた瓦の製作年代から、室町時代までは瓦葺(かわらぶき)の補修が行われていたことがわかります。

 土塔からは、文字を記した瓦が約1,300点出土しています。大半は人名で、行基と共に土塔を建立した「知識(ちしき)」と呼ばれる人々の名を記したと考えられ、男女を問わず僧尼や氏族の名前も見られます。

 

 

行基さんと共に働いた「知識」という方々の記録*

 

行基さんの偉業の数々とは少々雰囲気の違うこの場所について、Wikipediaではこんな説明があります。

行基年譜」によると土師郷では、天平13年(741年)頃までに土室池、長土池、野中布施屋が造成されており、大野寺建立にさいしても、まず住民の利便に直結する農業生産を支える灌漑池を作ることから始め、その造成のために集まった人々を仏教用語でいう「知識」として編成し、寺と布施屋の建立が行われたと考えられている。土塔の北方約460メートルには、行基天平13年(741年)以前に造成した「薦江池(こもえいけ)」に相当すると考えられる「菰池」がある。また土塔の築造には大量の土砂が発生するため、土塔の造営と池の造営は、表裏一体の関係にあったともいえる。

土塔から西、および北西方向には奈良時代の遺跡が点在するが、その中に士師観音廃寺(堺市士師)があり、そこから八葉複弁蓮華紋軒丸瓦と均整唐草紋軒平瓦が出土しており、土塔からも同范の瓦が出土していることから、土塔の造営に、かつて百舌鳥古墳群の造営に従事した集団の後裔にあたる士師氏が関わっていたと考えられる。また、出土した瓦にあった名に「大村氏」、「荒田氏」、「神氏」などの氏族名があり、これらの氏族は、土塔の南に広がる泉北丘陵の陶邑窯跡群と呼ばれる須江器窯を中心とした遺跡群が所在する地域に拠点があったとされ、窯生産と関わりがあったと考えられる。これらのことから土木技術を持つ士師氏と、窯業技術を持つ陶邑窯跡群周辺の氏族が得意分野を生かした建造物として、土を持った上に瓦を葺くという、日本でも稀な仏塔が造営されることになったと考えられる。

(「土塔」「発掘調査からの考察」)

基本的に瓦1枚に1名の名が記されているが、文字瓦の筆跡については大半が異なっていることから、基本的に各自で名を記したと考えられる。人々が名を刻む行為は、財力や労力を寄進した人々が仏と縁を結ぶ意味で行われたと考えられる。この行為を行った人々は、行基に従った人々で仏教用語でいう「知識」とされる人々であり、行基の土塔建立を「知識」が支えたことを裏付けることができるといえ、出土刻書瓦の中には「知識」と記された出土物も存在する。

(同上)

 

「財力や労力を寄進した人々」、ふと新約聖書の1タラントンのたとえを思い出しました。

そして「知識」にはそういう仏教の意味があることを、恥ずかしながら初めて知りました。一つの言葉の変遷にも気が遠くなる歴史がありますね。

 

瓦に書き込まれた文字に、行基さんとともに生きた時代を経験してみたかったと思いながら、しばらくベンチに腰掛けて土塔を眺めました。

 

 

行基さんの記事のまとめ*

 

いつの間にか私も「行基さん」と親しみを込めて呼ぶようになりました。行基さんの軌跡に出会ったり思い出した記録がたまってきたのでこちらにまとめることにします。

 

<2019年>

修善寺から下田へ

<2020年>

「瀬田川改修の歴史」

<2022年>

ただひたすら川と溜池と水路を見に〜奈良・和歌山・大阪〜

<2023年>

ふたたび平城京へと戻る

南海電鉄から水間線へ車窓の散歩

行気様がつくった水路を歩く

麻生中大池から唐間池・堂の池の田んぼを歩く

久米田池

「政争と動乱、飢饉と災厄など混迷の真っ只中」

経世済民と経済

一世紀後の「新しい生活」

ただひたすら水の流れをたどる〜奈良から若狭へ〜

水門町から東大寺へ

お水取りとともにある生活「国の病気を取り除く」

行基さんの像と東大寺の行基堂

「富裕層を呼び込む」

ただひたすら用水路とため池と水田を見に〜香川・岡山・兵庫・大阪・奈良へ〜

後の世に「郷土の先覚者」となる

丸亀のため池を歩きつくす

昆陽池と端ケ池

<2024年>

昆陽池から昆陽寺までの水路と田んぼを歩く

「奈良から見て向こう側」

「1,400年の歴史を刻む日本最古のダム式ため池」

「行基と狭山池」「狭山池と重源上人」

近鉄長野線と近鉄南大阪線の車窓の風景を見ながら奈良へ

いよいよ行基さんの生地へ

 

「記録のあれこれ」まとめはこちら

聖書に言及した記事のまとめはこちら

散歩をする 499 ただひたすら川と水路と古墳を訪ねる〜大和川に沿って〜

昨年は全国で冬眠もしない熊出没のニュースが多かったので、川や用水路や田んぼを訪ねるのは躊躇していました。

 

奈良県は南部の山中では生息しているようですが、奈良盆地周辺での出没のニュースは耳にしないので1月に入ってそろそろ遠出を再開しようと思いました。

大阪府の「大阪府周辺部でのツキノワグマ出没情報」をみても、北部の京都や兵庫寄りでは出没するようですが、大和川のあたりは大丈夫そうです。

 

真冬の奈良を経験してみたい、いつか大和川の全域を歩いてみたいという計画がありました。

 

2020年に久しぶりに奈良を訪ねたのですが、大和川に沿って広大な水田地帯が今も残っていることが印象に残りました。てっきり大和川の豊かな水によるものだろうと思っていたところ、いにしえより水に乏しくそのためにため池や古墳のまわりに水を貯める周濠がたくさん地図に描かれていることを知りました。

 

現在の水田を潤しているのは山を隔てた吉野川からで、「大和豊年米食わず」といわれた大和平野はこの半世紀ほどで豊かな水田地帯になったのでした。

 

2022年秋には山の間を流れ出てくる大和朝倉駅のあたりを歩いたのですが、いつかここから奈良盆地を斜めに流れる大和川を歩きたいという無謀な計画がありました。

さらにまた山の間を抜けて大阪府に入るとそこには周濠のある古墳が大和川沿いにあります。

かつてはそのあたりから旧大和川は北西へと流れを変えていたようです。

現在の大和川の河口近くにも百舌鳥古墳群があり、その南東には大小さまざまな無数のため池が散りばめられた地域があります。

大阪の周濠やため池も歩き尽くしたいという無謀なことを思い付いては地図を眺めていました。

 

百舌鳥の近くへ行くのであれば、行基さんの生まれた場所も訪ねたい。

そうだ天気予報で耳にした宇陀地方も訪ねてみたい。

平城宮跡に咲き乱れるツルボを見逃さないために奈良に住んでみたいというかないそうにない夢だけれど、冬の寒さはどんな感じか経験してみたい。

 

次から次へとつながって、久しぶりの遠出なので思いきって3泊4日にしました。

詰め込みすぎでまたまたやり残した宿題が増えましたが、冬の大和川沿いの美しい風景と歴史に充実した散歩になりました。

 

というわけで1月中旬に大和川沿いを歩いた散歩の記録がしばらく続きます。

 

 

 

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