記録のあれこれ 173 大和川の付け替えと250年記念碑

近鉄南大阪線土師ノ里(はじのさと)駅についた時には空腹の限界でした。店はあっても閉店していたり、頭の中では「腹が減った」の音楽が流れているのに、さすがの五郎さんでも見つからないと思うほど食べるところに出会いませんでした。

 

予定を変更してこのまま南大阪線で奈良へ向かおうかと思いましたが、やはり今回の目的のひとつは大和川ですからね。

土師ノ里駅の次の道明寺駅道明寺線に乗り換えて大和川を渡り、柏原南口駅で下車してもう一ヶ所頑張って大和川沿いを数百メートルほど歩き、近鉄大阪線安堂駅から奈良へ向かうことにしました。

地図には何も描かれていないのですが、この辺りが大和川付け替えの場所のようです。なかなか詳しい資料に出会わないのですが、せっかくきたのでその場所を歩いてみようと思いました。

 

大和川治水公園があった*

 

大和川にかかる道明寺線の鉄橋を渡ってすぐに柏原南口の駅があります。「道明寺線の橋梁が『土木学会選奨土木遺産』に認定されました」と説明がありました。たった3つの駅を結ぶ不思議な路線ですが「近鉄の路線の中では最も歴史が古い」(Wikipedia)ようです。

 

国道25号線を渡って、大和川の堤防の上に立ってみました。ここから下流は傾斜がほとんどわからないような平地ですが、すぐ上流は渓谷のような場所をJR大和路線が川沿いに通過する場所です。

山あいから出てきた流れが北へと向かう方がなんだか不自然に見えるぐらい、かつてはここで大きく向きを変えていたようです。

 

国道25号線沿いに安堂駅の方向へ歩くと、途中、何やら堤防上の歩道が公園のようになって大きな石碑が見えました。「大和川治水公園」でした。

 

「西暦1703年代大和川流域の図」と「大和川付けかえと中甚兵衛(なかじんべえ)」という銀のプレートもあります。

 河内平野を幾筋もに分かれて淀川に注いでいた大和川が、今の姿に付け替えられたのは、元禄が宝永と改元された1704年のことです。工事は、わずか8ヶ月で完成しました。洪水に悩む地域のお百姓の訴えが実を結んだものですが、最初の江戸幕府への願い出から付けかえの実現までは、50年近くの月日を要しました。

 その間にも幕府は何度か付けかえの検分をしました。そのたびに新しく川筋となる村々から強い反対にあい計画は中止されました。しかし、3年連続して河内平野が全て泥海と化すような大洪水もあって、幕府は対策に本腰を入れ専門家を派遣、工事を行いました。この工事で、淀川河口の水はけは良くなったものの、大和川筋は一向に改善されず、川床には土砂が堆積して田畑より3メートルも高い天井川になってしまいました。

 しかも、幕府は付けかえ不要の方針を固めたため、依然洪水に悩む人々は、付けかえの要望が出来なくなり治水を望む運動の規模も、どんどん縮小してしまいました。しかし、多くの文書や絵図を作成して状況の改善と新田開発の有効さを訴え続けた根気と情熱が、幕府の方針を変更させたのです。

 この付けかえ促進派で終止運動の中心にあったのが代々の今米(いまごめ)村(現在の東大阪市今米)の庄屋に生まれた中甚兵衛で、同志の芝村・曽根三郎右衛門や吉田村・山中治郎兵衛の引退や死にもめげず、最後はたった一人で何度も奉行所に出向き工事計画を具申しました。そして、ついに力量を認められ実際の工事にも御用を仰せつかりました。また、その子九兵衛もそれを手伝ったと記録されています。

 甚兵衛、付けかえ時66歳。翌年剃髪して乗久(じょうきゅう)を名乗り、享保15年92歳の天寿を全うして亡くなりました。

 御墓は京都東山西大谷に、生地の旧春日神社跡には従五位記念碑が、またその北100メートルには生家の屋敷跡の石垣が残っています。

 

そばの大きな石碑は1954(昭和29)年の「大和川付替 二百五十年記念碑」でした。

大和川の流路を現在の如く一変した寛永元年の附替は永年にわたる郷土先賢の大なる努力の結實であり我国治水史上に輝く大事業である 大和川はもと大和盆地の諸水を集め亀瀬の峡谷を經て河内に入り石川を併せて柏原より西北に向い長瀬川玉串川に分流し玉串川は更に吉田川菱江川に分かれ深野池新開池の廣い沼澤に通じ西北に轉じて長瀬川と會し京橋に到り淀川と合流して海に注いだ 河内の流域一帯は土地低濕(しつ)のため水勢緩やかで土砂の体積夥しく河床が次第に本田より高くなり長雨ごとに堤防決潰し上代以来洪水相繼いだ 堤防を築き河床を浚えるなど應急の改修は度度行われたが根本的な治水の功を見ずして長い歳月が流れた 江戸時代に及んで水害愈々甚だしく大雨あれば氾濫して濁流襲い田畠流れ家屋没し非常な惨状を呈したので沿岸の村々は根本的な治水を切望した これに應えて今米村の川中九兵衛は芝村の乙川三郎兵衛 曾禰三郎左衛門らと協力し深く地形を研究して柏原より西に流れて直に海に入るよう大和川附替の急務を唱え幕府に訴願した 幕府は之を許さなかったが治水の根本策を樹てる必要を感じこれより度度役人を攝河の池に派遣して水域を實地踏査せしめその對策を検討することとなった 斯くして水害の根絶と新田の開發を説いて附替に賛成する者あり之に對して寧ろ河口を浚えるに若ずとして反對する者あり幕府の方針定まらずして新川豫定地の榜示が或は打込まれ或は引抜かれた 村々の間に附替賛否の論が沸き起こり激しい訴願が相繼いだ かかる間に先の人々は深い憂を抱きながら歿し幕府の瀬作も概ね河口の浚渫に傾いた この時今米村の中甚兵衛はよく先人の志を繼ぎ詳しく地域を調査し具さに得失を考究し窮境にあって少しも屈せず江戸に往來して益々熱心に附替を幕府に訴願し盡痺して己まなかった 代官萬年長十郎これに賛成し幕議ついに附替に決するに至った 元禄十六年十月二十八日幕府は大和川改修の令を發して役人を派遣し姫路藩らにこれが助役を命じて工を起こし一年の歳月を經て翌年寛永元年十月十三日この大工事は完成した ここに至って宿願全く達成せられ新大和川は西に流れて積年の水害そのあとを絶ち河床は開墾せられて廣い新田となり古川は用水川となって樋を設けよく田畠を潤して農業大いに興り嘗ての洪水の地変して近代文化の培養地となった 今や大和川附替二百五十年を迎え築留青地両土地改良區相議し記念碑を建てて先賢の功業を讃えるにあたり囑を承けてこの文を記する次第である

 昭和二十九年十月十三日  大阪府知事 赤間文三

 

 

大和川付け替えから今年でちょうど320年。

現代でも耐えられるような計画を立てたのはまさに「先賢」で、地道な調査と研究心によるものだったことを知りました。

 

予定を変更せずに立ち寄ってみて本当によかった、と思う記録が残されていました。

 

 

 

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米のあれこれ 82 幻の水田地帯が見えた

初めての場所を散歩する時には、地図を航空写真に切り替えて「田んぼはあるかな」と確認しています。

全国津々浦々の川や水路、そして水田が健在なことを記憶していくことが目的になってきました。

 

今回の3泊4日の遠出の前半に訪ねる場所は、残念ながら水田どころか畑もほとんどなさそうな市街地でした。

周濠からの水路もおそらくほとんど暗渠で、かつての水田の痕跡も見つけらなさそうです。それでも周濠の水面を眺め、どこかで水が流れているのを見ることができればまあいいかと思って出かけました。

予想通り、ほとんど水田も水路もありませんでした。

 

ようやく、応神天皇陵の西側の周濠の外側に細長く水田地帯があるのを見ることができました。

そこから大鳥塚古墳の横を抜ける時に少し水田がありました。

そこから丘のような場所へと上ると西名阪自動車道が通っていて、その北側の古室山古墳から仲姫命陵古墳へと向うと近くにはアパートに挟まれるように小規模の助太山古墳、中山塚古墳、八島古墳がありました。国府(こう)台地の中でも近鉄土師ノ里駅のあたりは高台のようで、駅まで登り坂でした。

 

西名阪自動車道の高架橋の下にも赤面山古墳があるのには驚きましたが、駅の真前にも鍋塚古墳の墳丘があります。まさに古墳群の中を歩いて駅に到着しました。

 

本当は、駅北側の允恭(いんぎょう)天皇陵も訪ねたかったのですが藤井寺でお昼を食べそびれたまま歩き、「どこでもいいから何かを食べよう」と空腹の限界に達していたので、このまま奈良へ向かうことにしました。

 

散歩の前半2日間はほとんど田んぼを見ることができませんでしたが、残る2日は奈良ですから、田んぼをひたすら歩くことができますからね。

 

 

*大水川(おおずいがわ)の水田地帯*

 

ところが帰宅して大水川(おおずいがわ)についての説明を見つけて、地図と重ね合わせながら読んだことでかつての水田地帯が見えてきました。

 

大鳥塚古墳のそばの水田地帯は大水川のすぐそばにありました。「八ヵ村」の古谷から沢田にかけての地域です。

「Web 風土記 ふじいでら」ではこう書かれていました。

 話を写真8に戻します。改修によって流路が途中から大きく変えられましたが、それには当然理由があります。写真14でわかるように、旧大水川の流域は水田地帯で大水川がどれだけ重要な存在であったかは、説明するまもないでしょう。昔の地図を見ても、大水川流域にはため池など存在しません。必要がなかったからです。

(強調は引用者による)

 写真で府道12号・堺大和高田線から北側を見ると、旧大水川の流路に少しばかり疑問が湧いてきます。なんでこんな曲がり方をしているのだろうか?そう思いませんか。自然にできた流路が、こんなに直線的な曲がり方になるはずはありません。もちろん人の手によって造られた流路です。直線的な流路は、水田の地割りに沿って造られたからです。この地域一帯は古代条理の地割りがそのまま残っている所です。写真でも、正方形の地割りの並んだその様子がわかります。この条理地割りに沿わせて、わざわざ流路をグニャグニャと曲げています。おそらくは、多くの田に水を配水しやすいように考えられた流路がこの形だったのでしょう。大水川からは、さらに多くの小さい水路で方々の田に水が入れられます。このような大水川の姿は、近世以前すでに出来上がっていたものと思われます。

(同、「変えられた大水川の流路ー曲がりくねった旧流路」)

 

大和川左岸の沢田から大井のあたりでしょうか。

土師ノ里駅の北側の国府台地が終わったあたりから、大和川にかけて水田が広がっていたようです。

昭和30年代以降ベッドタウンとして住宅地に変わり、現在は田畑がほとんどなくなったようです。

 

 

応神天皇陵のそばの小さな川から、かつての水田地帯が想像できました。

いつか歩いてみたいものです。

 

 

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水のあれこれ 349 目立たないけれど重要な大水川

誉田御廟山古墳応神天皇陵)のそばの大水川(おおずいがわ)は、石川から取水した重要な用水路だということまでわかりました。

 

では、古墳と用水路ではどちらが先なのだろうという素朴な疑問が湧きました。

さすがに古代にここまで大掛かりな用水路を引くことはなかったでしょうからね。

 

*石川からの取水はいつ頃だったのか?*

 

そのすごい役割を持つ水路であることを知ることができた「Web 風土記 ふじいでら」という先人の記録には、詳細な説明がありました。

 

まず、石川からの水路は18世紀の頃のもののようです。

 大水川(おおずいがわ)の水源を引き込む取水堰は、国道170号応神陵前交差点の横に立つ大水川説明板によれば、「八ヶ樋取水口」となっています。①図で「王水樋」と表示している取水堰のことです。「八ヶ樋」の「八」とは、「八ヵ村」のことを表しており、もととなるのは「八ヶ村王水組合」です。八ヶ樋取水口とは八ヵ村王水樋組合によって設置・管理されていた取水堰なのです。

 この八ヵ村王水樋組合は、江戸時代までに成立していたもので、現在の羽曳野・藤井寺の両市域に存在した8ヵ村によって構成されていました。この8ヵ村とは、18世紀段階では誉田(現羽曳野市)・道明寺・古室(こむろ)・沢田・林・藤井寺・岡・小山(以上現藤井寺市)でしたが、『藤井寺市史第2巻 通史編二 近世』の「第2章 水をめぐる村むらのむすびつき」の記述によれば、戦国時代にはすでに王水樋組合が成立していたことが述べられており、17世紀段階では7ヵ村組合であったことも示されています。8ヵ村組合が記録された最も古い史料は、1654(承応3)年のものだそうです。構成する村の和也組み合わせには、時代によって若干の変動があったようです。

 

大和川が付け替えられたのが1704年ですから、その時代に造られたのでしょうか。

 

 

現在の地図を見ると、応神天皇陵の周濠から北へと曲がった大水川は古室から沢田地区へと流れ、沢田の交差点の先で北西へとまっすぐ流れています。その北西へと向きを変えるところから北東へも小さな水路が描かれていますが、これが「旧大水川」あるいは「大乗川」だったそうです。

 

 現在藤井寺市の北部を流れている大和川は、1704(宝永元)年に造成工事によって造られた川です。それまでの石川と合流して北へ向かっていた大和川の流路を、合流点から西へ曲げて大阪湾まで新しい流路に変えるという大工事でした。「大和川の付け替え」と呼ばれている歴史的な大事業でしたが、事業の全体像は別ページを見てください。

 その付け替え工事でできた川の一部が、23)図に見える大和川です。よく見ると、北方へ流れていく大乗川が大和川によって断ち切られているのがわかります。大乗川の水を新大和川流入させることはできないので、堤防の南側に作った落堀川に合流させ、西の方へ流してから大和川流入させるようにしました。大乗川から直接大和川流入させる構造だと、大和川の増水時に逆流してしまうのです。

確かに地図で確認すると、大水川はそのまま直接大和川へ合流しているわけではなく、手前に並行する水路があってそちらに合流しています。

これは現代の治水工事によるものかと思ったら、江戸時代の川の付け替えの技術だったようです。

 

*古墳が造られた時代は水はどう流れていたのだろう?*

 

もう一つの疑問は、応神天皇陵の周濠の水はどうやって得られたかということです。

大水川が石川と新しい大和川を結ぶ用水路として整備されたのであれば、それ以前は水をどうやって得ていたのだろうと。

 

答えがちゃんと書かれていました。

応神天皇陵ができる前は、南側からその大乗川(旧大水川)がまっすぐ北へと流れている図がありました。

もともと川があったようです。

 図でわかるように、藤井寺市域の地形は南側が高く、北側へ緩やかに下って行ってます。市の南部は、羽曳野丘陵と呼ばれる南から伸びる丘陵地形の北端部に当たります。それは低位段丘と呼ばれる地形で、V字型の段丘を形成しています。東側の半島のような形の段丘は、「国府(こう)台地」とも呼ばれる場所で、多くの古墳が築かれた場所として知られています。

 

そういえば、藤井寺駅の方から応神天皇陵のある場所へは下り坂で、その東側はまた小高くなっていた記憶があります。この後訪ねたいくつかの古墳があり、土師ノ里駅も確かに小高い場所にありましたが、これが国府台地だったようです。

 

大水川のあたりがV字型の底の部分で、古墳が造られた時代には丘陵から流れ出たまっすぐな川があったようです。

そして5世紀初頭に応神天皇陵が造られた時に、大乗川が周濠に沿って付け替えられたようです。Wikipediaには「不安定な氾濫原」と記されています。

 

この先人の記録に出会ったおかげで、大水川とその地形や歴史がパズルを解くように見えてきました。

 

*「目立たずとも重要な『大水川』*

 

11ページにわたる大水川の説明の最後に、こうまとめられていました。

 少々長い説明となりましたが、「大水川」という川が、度々流路を変えられたり名前を変えられたりしてきた歴史を紹介しました。藤井寺市内では、同じ市内に大和川や石川という川が流れているために、川と言うとどうしてもそちらに目が向いてしまいます。しかしながら、紹介したように地形との関係を見ていくと、この地域にとって大水川が大変重要な存在であることをわかっていただけると思います。日頃大水川が注目されることは、まずないと言ってよいでしょう。注目されることもほぼありません。実に目立たない川と言える存在だと思います。ところが、ひとたび地域が集中豪雨にあえば、大水川の役割は最重要となってくるのです。落堀川の立場もほぼ同じだと言ってよいでしょう。

 

 

全国津々浦々、地図に名前さえ載っていないどんな小さな流れでも、同じようにその存在に意味がある。

次はどの川の歴史と出会えるのか、そしてその先人の記録に出会えるのかまた楽しみになってきました。

 

 

 

「水のあれこれ」まとめはこちら

水のあれこれ 348 「他の河川にひけを取らないプロフィールを持っている」大水川

「大水川」、私がいつも利用している地図には名前が載っていません。

 

どこを流れているかというと、応神天皇陵古墳の周濠の北側の「誉田(こんだ)一号暗渠」が開渠になって遊歩道のそばを流れ、隣接する誉田円山古墳のところでぐいっと北へと流れを変える小さな川です。

 

たまたまその川を撮った写真に、欄干の「おおずいがわ」という表記が映り込んでいました。

どんな漢字だろうと検索したところ「Web 風土記 ふじいでら」というサイトで「大水川」だとわかったのですが、11ページもの説明がありました。なんという無名の川への愛を感じる先人の記録でしょうか。

 

大和川水系の大水川*

 

(おおずいがわ) 一級河川 <一級水系大和川> <大阪府

近畿日本鉄道南大阪線 土師ノ里駅より府道・堺大阪大和高田線を西へ約700m  徒歩12分

流路延長 約4.5km

流域面積2.7㎢ 指定延長 2.5km   管理:大阪府富田林土木事務所

(上記サイトより)

ここ数年であちこちの川を歩いていますが、その中でも小さな川です。

 

 藤井寺市を流れる主要河川(一級河川)を取り上げるとなると、大水川は大和川・石川・落堀川(おちぼりがわ)に次いで、どうしても4番目になってしまいます。ただし、これは流路の長さや川幅などの外見的な河川規模で比べた結果であって、別の顔ともいうべき地理的・歴史的な背景を見ていくと、大水川は決して他の河川にひけを取らないプロフィールを持っている川であると言えます。

 

この最初の一文にぐいぐいと惹きつけられたのですが、さらに大水川の地理から歴史まで、川について知りたいと思う説明が書かれていました。

添付されている地図には小さな水路の名前まで正確に記されています。

 

一見、文学的表現のような出だしですが、その小さな川の成り立ちや地形、災害や水利や下水の施設など生活に関わる歴史が網羅された正確な内容が記されていました。

 

 

*現代の大水川(おおずいがわ)と王水川(おうみずがわ)ー水源は石川*

 

応神天皇陵の周濠に沿って水路が複雑にあるのでその水路を合わせた流れだろうと推測していたのですが、このサイトには詳細が書かれていました。

 

(中略)大和川の一次支川である石川にある樋門から導入された水が、誉田御廟山(こんだごびょうやま)古墳の南から西へ流れて王水川(おうみずがわ)から分流した後、国道170号線の地下を暗渠(あんきょ)で曲がりながら通ります。この暗渠は「誉田(こんだ)1号暗渠」と言いますが、暗渠の出口が法河川としての「大水川」の開始点です。

 

石川といえば、昨年9月に狭山池から近鉄長野線と近鉄南大阪線を乗り継いで奈良へ向かった時にその両岸に美しい水田や水路があったことが記憶に残りました。

その古市駅から東へ数百メートルの石川左岸にたしかに水路と水路が交差して、その細い一本が北から北西へと曲がりながら応神天皇陵のそばの水田近くを流れています。

これが王水川だったようです。そしてその先の国道170号線とバイパスの三叉路の下で暗渠としてぐいと東へと曲がったのが、あの誉田1号暗渠でした。

 

暗渠のあたりで分水された王水川は、私が歩いたあの酒蔵やアイシェルアシュラホールのあたりから下り坂になった先の平地を潤していたようです。

 

石川から取水し、藤井寺市羽曳野市の台地の下側を潤しながら大和川へと流れる用水路だったわけですからこれだけでもすごい「プロフィール」に出会いました。

 

 

*おまけ*

 

一見、地図では大水川が現在の大和川へと合流しているように見えるので「大和川へと流れる」と書いたのですが、この資料を読んで初めて、その手前に大和川に並行して小さな落堀川があってそこに合流していることがわかりました。

 

江戸時代の大和川の付け替えの際、地形的に直接合流させることが難しいためにそのような形になったことが書かれていて、それが現代にも生かされていることにまた江戸時代の土木事業の凄さが印象に残りました。

 

 

 

 

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散歩をする 502 藤井寺駅から周濠を訪ね歩く

古墳内にも村があったことに驚きながら、近鉄恵我ノ荘駅から藤井寺駅に向かいました。

ほんとうはその間にもいくつかため池や古墳があるので歩いてみたかったのですが、とてもとても時間も体力も無理そうです。

 

実は今回の大阪内の周濠を歩く計画を立てていた時はまだ古市古墳群と呼ぶことを知らず、「羽曳野のあたりの古墳が多い場所」とか「大和川左岸のため池と周濠が多い場所」の認識でした。

こうして思い出しながら散歩の記録を書くためにあれこれ読み直して、「百舌鳥古墳群・古市古墳群」であることを知りました。

 

藤井寺駅から土師ノ里駅までの間の古墳をいくつかつなげながら歩く計画です。

ところで土師ノ里(はじのさと)駅も、その読み方を全然覚えられなくていまだに「どし」と呼んでしまうくらい、古墳やその土木技術の知識がないままです。ただただ周濠とその周囲の風景、とくに田んぼと水路を見たいというニッチな趣味ですね。

 

 

藤井寺駅から古墳を訪ね歩く*

 

 

近鉄藤井寺駅で下車し、最初の目的地仲哀天皇陵を確認しようと地図を見たらありません。よくよく見ると、あの香芝市のガイドマップのように南北が逆さまに描かれていたのでした。その土地の生活上で何か理由があるのでしょうか。

 

ちょうど11時30分で、お腹が空きました。朝からだいぶ歩き、午後も古墳を回りますから商店街でお昼ご飯にましょう。ところが「11時30分開店」と出ているお店の前で待ってみましたが気配もありません。自転車で来た男性が、待っている私を見て「今日はやっていないみたい。あっちもお店があるよ(関西弁)」と教えてくれました。なんという心遣いでしょうか。こんなところが関西っぽいですね。

 

教えていただいたお店でしたが、「今はうどんの気分」だったのでそのまま古墳をめぐることにしました。

商店街を抜けて門前町のような場所の先は、古墳に向けて少し下り坂のようです。途中に酒蔵がありました。

仲哀天皇陵の古墳の森が見えましたが、空腹に負けて応神天皇陵へと向かうことにしました。

 

地図に水色のため池のような場所が描かれているのですが、そこには大きな船の形をした「アイセルシュラホール」という藤井寺市の建物がありました。ため池を利用して造られたのでしょうか。

そのあたりから水路や畑が残る住宅地になり、最近はどこでも散歩をしていて人と出会うことが少ないのですけれど、途中、けっこうな人とすれ違いました。

 

1月中旬、蝋梅や水仙が美しく癒されながら東へと少しずつ下り坂を歩くと、住宅地の中に庭のようにサンド山古墳があり、その先に住宅地内のロータリーかと思ったら蕃所山古墳で大きな木が生えていました。

 

応神天皇陵の周濠と田んぼ*

 

緩やかに下ると水路があって、国道170号線がバイパスとに分かれるのでしょうか、交通量の多い三叉路がありその先に応神天皇陵の森が見えました。

古墳の西側には水田があります。

田んぼのそばの水路が三叉路の下から流れてくる「誉田一号暗渠」に合流し、応神天皇陵の北側からいくつかの水路を合わせながら、最後は大和川へ合流するようです。

このあたりからは水田が多いのかもしれません。

 

応神天皇陵の北西は周濠のギリギリまで、80年代ごろの住宅地でしょうか住宅が建ち並んでいます。

途中、周濠のそばに近づける場所があり、案内板がありました。

史跡古市古墳群 応神天皇陵古墳外濠外堤(がいごうがいてい)

 応神天皇陵古墳(誉田御廟山古墳)は、5世紀前半に築かれた前方後円墳で、墳丘長約425m、後円部直径約250m、前方部幅約300m、高さは後円部頂上で約36mの規模を有します。墳丘長は百舌鳥古墳群仁徳天皇陵古墳(大山(だいせん)古墳)に次いで我が国第2位の規模ですが、墳丘の体積についてはこれを凌いで我が国第1位とも言われています。また、大規模な墳丘とともに二重の濠と堤を持ち、前方後円墳の巨大性と隔絶性が最も完成された姿を示しています

 この場所は応神天皇陵古墳の前方部の北西方向の外濠に相当し、前面に広がる樹木が繁茂している箇所は内堤に当たります。

 応神天皇陵古墳は小高い丘が広がっている所に位置していますが、その地形の高まりの範囲をはみ出した部分にも土を盛って、その上に墳丘が造られているようです。さらにこの場所に古墳を築造するために、そこを流れていた河川をも付け替えていることが周辺の発掘調査から推定されています。

 また、この場所から臨むことのできる内堤に置いて、初夏にヒメボタルが飛来している様子を観察できることもあります。

          羽曳野市

(強調は引用者による)

 

先ほどの水田は、二重の濠の外側だったようです。

周濠と水田から古墳にも関心が広がりその専門用語に少し慣れてきたのですが、「前方後円墳の巨大性と隔絶性が最も完成された姿」という意味はちょっと慣れないものでした。

 

ちなみに「誉田」は「ほまれだ」かと思ったら「こんだ」と読むようですが、これが付け替えられた川だったのでしょうか。

5世紀にはすでに「川を付け替える」ことが行われていたのですから、すごいことですね。

誉田一号暗渠の水路はそのすぐ先で大きく北へと曲がり、遊歩道が整備されていました。

その角のような場所に、もう一つ小さな「誉田円山古墳」がありました。

 

水仙の花が美しく咲き、古墳の森の静けさの中、そばにある東屋でしばらく休憩をしました。

5世紀ごろ、この辺りはどんな風景だったのでしょう。

 

 

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米のあれこれ 81 古墳の上にあった大塚村の幻の水路と田んぼ

JR南田辺駅から桃が池公園を訪ね、近鉄線北田辺駅に向う住宅地を歩くと駅の近くに古くからのアーケード街があり、10時前だというのにけっこう年配の人たちが自転車で集まってきて買い物をしていました。

ついついその雰囲気に混じってお店をのぞいて歩きたくなりましたが、先を急がなければなりません。

北田辺駅から近鉄線で南側へと戻って大和川を再び渡り、最初は河内松原駅で下車しました。

途中、「針中野」とか「瓜破(うりわり)」と興味深い地名に途中下車したくなりますが先を急ぎます。

 

河内松原駅の南東へと少し歩いたところに小さな水路があり、その先にため池があるはずです。

少し蛇行した古い商店街を抜けるとありました。「反正山水利組合」とあるので、パッと見た感じではわからないのですが少し小高い場所にため池が造られて、西の端に分水路がありそばに墓地がありました。

おそらく水田地帯だったのでしょう。私が子どもの頃だったら、稲穂が広がる風景を見ることができたかもしれませんね。

阪和自動車道の下を東側に向かうと、森が見えます。そこが次の目的地の河内大塚山古墳で、蔵のある古い立派な家々が残る住宅地を抜けると、目の前に周濠が広がりました。

 

周濠の北側を歩くと途中から道を隔てたところに水路らしきものがあり、北東の古墳の角のあたりから一段低いところにある住宅地を歩いて恵我ノ荘駅につきました。

 

 

*かつて古墳に集落があった*

 

河内大塚山古墳はかなり大きい周濠に囲まれていますが、Wikipediaには世界遺産には含まれていないとあります。

 

古墳のそばの案内にこんなことが書かれていました。

河内大塚山古墳(かわちおおつかやまこふん)

 河内大塚山古墳は、西大塚の東除川(ひがしよけがわ)西側に発達した、中位段丘面に築かれている。周濠を持つ巨大前方後円墳である。墳丘規模は全長335m 、前方部230m、後円部直径185m、前方部高4m、後円部高45mに及び、松原市内で最も標高が高い。

 墳丘主軸長では、日本列島第5位のトップクラスだが、築造時期を決める資料に乏しい。しかし、①前方部は平板低平で、やや不整形をとること。②埴輪や葺石(ふきいし)の存在がはっきりしないこと。③後円部に「ごぼ石」とよぶ巨石が存在するうえ、江戸時代後半の毛利家文書の「阿保親王事取集(あぼしんのうこととりしゅう)」(山口県立文書館)に「磨戸石(みがきどいし)」とよぶ巨石が18世紀後半の宝暦〜明和年間に見られたこと。④古墳内にあった石室材・石棺材と思われる竜山石(たつやまいし)や花崗岩が柴籬(しばがき)神社(松原市上田7丁目)などへ移されていること。

 このようなことから、横穴式石室が後円部につくられていた可能性があり、6世紀中葉から後葉の古墳と考えられる。

 中世には、丹下氏が古墳を利用して、丹下城を築いた。織田信長によって丹下城がこわされた後、江戸時代には前方部に大塚村が形成され、後円部には氏神天満宮(菅原神社)が祀られた。

 大正10年3月に国の史跡(昭和16年12月解除)となり、大正14年9月に陵墓参考地となったことから、昭和3年までに数十戸の民家は濠外に立ち退いた。

 6世紀時代の安閑(あんかん)天皇や、欽明(きんめい)天皇陵とする説があると同時に、墳丘未完成説も唱えられている。現在、宮内庁が管理する陵墓参考地である。

           松原ライオンズクラブ 2010.11   

(強調は引用者による)

 

なんと、江戸時代から明治時代にかけて、古墳内に村があったようです。

周囲には水田が広がっていたのでしょうか。

天皇陵の周濠の水が稲作に利用されていただけでなく、その古墳の上で暮らしていたとは想像もしていませんでした。

 

 

*おまけ*

 

あの7世紀ごろ、南河内の地溝開発で造られた狭山池からの東除川がこの段丘の下を通っていることがつながりました。

狭山池からここまでも数々のため池がありますが、当時はどんな風景だったのでしょう。

 

 

 

 

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水の神様を訪ねる 97 桃が池公園の股ヶ池明神

大和川左岸にはたくさんの周濠やため池が散りばめられたような場所があり、どうやったらここを歩き尽くせるだろうと時々妄想の散歩をしていました。

 

初日は百舌鳥古墳群だけでなく久米田池の隣の和泉府中のあたりまでのため池も歩く予定でしたが、実際に歩くと広大すぎて古墳群でさえ歩ききれずに計画を断念したのでした。

 

散歩の2日目は、近鉄南大阪線道明寺駅から古市駅辺りにあるため池や周濠を歩く計画です。

大阪や奈良の鉄道網は一見東京と同じような複雑さですが、似たような鉄道会社名の路線が並走していたり、碁盤の目のような路線図でまだ慣れないことと、微妙に乗り換え駅が離れているので乗り継ぎが少し大変そうです。

 

初日に宿泊したJR阪和線和泉府中駅から東側の近鉄南大阪線の駅に行くには、いったん天王寺駅まで行ってから近鉄に乗り換えて戻るしかないのかなと地図を眺めていたところ、JR阪和線南田辺駅のそばに池があるのが目に入りました。その北東1kmほどのところに近鉄南大阪線北田辺駅があります。ここを歩いて乗り継ぐことにしようと決まりました。

その名も「田辺」ですから、水田に関係したため池でしょうか。

 

9時前にJR和泉府中駅から阪和線に乗りました。前日に歩いた百舌鳥古墳群はやはり台地だったとわかるような切り通しを抜けてしばらくすると大和川を越えました。荒川江戸川を思い出すような「放水路」の風情です。

 

 

*桃が池公園の股ヶ池明神*

 

南田辺駅の手前から線路沿いにその名も「長池公園」という長細いため池と遊歩道が見えて南田辺駅に到着。

 

桃が池の西側には池のすぐそばまで住宅地で、その細い路地を歩くと股ヶ池明神の古い鳥居が見えてきました。

池に飛び出たような場所が周囲より少し高くなっていて、森のような木々に囲まれてお社があり池が目の前に広がっています。

 

「江戸時代の石仏発見」とお手製の説明板があり、その隣に「股ヶ池明神の台風被害につきまして」というお知らせが貼ってありました。

 大風の被害に遭われた方々に謹んでお見舞い申しあげます。

平成三十年九月四日に台風二十一号が四国、関西を横断する形で非常に大きな勢力のまま横断し各地で大きな被害をもたらしました。

 股ヶ池明神においても玉垣の倒壊や、社殿の屋根が破損する被害がありました。近隣住民と話し合った結果、付近を通行される方の安全性を考慮し、誠に残念ではございますが玉垣を撤去することに致しました、本来であれば、ご寄進いただきました方々には直接ご説明に伺うべきところですが、事情をご理解いただき、ご容赦いただきますようにお願い申し上げます。

 

2018年7月は50年に一度と言われる倉敷での水害が起こり、そして9月にはこの大阪湾で台風と高潮が重なり大きな被害が起こりました。この2018年の西日本豪雨がきっかけで大雨警報レベルが見直された年でもありました。

そして猛暑も災害という認識が定着した年でしたね。

 

この少し小高い場所には、数年前まではぐるりと周囲を囲む玉垣があったようです。

囲うものがないちょっとおぼつかないような高台の端に石碑があり、「灌漑」「旱魃」といった文字が彫られています。どうやら「森岡家の林右衛門」さんがこの池の改修をした記念に1925年(大正14)に建立されたようです。

「開田」という文字も見えます。一世紀前、この辺りには水田が広がっていたのでしょうか。

 

 

「股ヶ池明神略記」は文字がかすれて読めない部分もあるのですが、もとから池があってそこに住む怪物によって怪異が起こっていたため祈祷したという内容が書かれていました、

 

池には鴨がのんびりと泳ぎ、ここにもまたカモメの姿がありました。

周囲は高架橋が交差しマンションや住宅の立ち並ぶ平地に、突如として南北に数百メートルはある広い池がある風景です。

どうやって湧き出た池で、それをどのように灌漑として利用していたのでしょうか。

 

かつての用水路や田んぼの痕跡はわからなかったのですが、地図から見つけた池と神社は2日目の散歩のスタートにふさわしい場所でした。

 

 

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散歩をする 501 百舌鳥古墳群の周濠を訪ね歩く

大阪の古墳とその周濠を見て歩く計画は、2019年からのやり残した宿題でもあります。

 

遠出を始めたばかりの2019年2月に木曽三川からぐるりと紀伊半島を回って新大阪へと戻る時に夕闇の中で気づいたのでした。当時はまだ古墳にはそれほど関心もなかったのですが、特急で通過した時には平地にしか感じなかったのに、ちょうどブラタモリで「見晴らしの良い高台に古墳群が造られた」ことを放送していたことが記憶に残り、いつか歩いてみたいと思っていました。

「百舌鳥」という地名にも惹きつけられますしね。

 

そのうちに奈良の古墳の周濠の水は田んぼに利用されていたことを知り、大阪のこの周濠もやはりそうなのだろうかと気になっていました。

 

2022年11月に久米田池を訪ねた時は体力の限界であきらめ2023年9月に狭山池を訪ねるときは詰め込み過ぎの計画でそばを通るだけになってしまいました。

 

いよいよ今回の遠出はこの百舌鳥古墳群と、さらに翌日には古市古墳群の周濠をみてまわる予定です。ちょっと無謀な予感もするのですが。

 

 

 

 

百舌鳥古墳群を歩く*

 

 

行基さんが生まれ育った家原を訪ねて満足し、津久野駅からJR阪和線で一駅の上野芝駅に向かいました。

Wikipediaによると2019年7月に世界遺産に登録されたようですが、上野芝駅の周辺には特に案内表示はなくて、かえって巨大な古墳群が普通に生活の中にあるようなうらやましさを感じました。

 

駅を出て最初の履中天皇百舌鳥耳原南塚へ向かいましたが、途中、府道34号線がJR阪和線の下をくぐってさらに下り坂になっているのが見えました。

西と北はそれぞれ緑ヶ丘と旭ヶ丘で、時々西側へと続く道路の先に堺の港湾施設が見えました。「標高15~22mの台地の西縁部」(Wikipedia)でそばを石津川が流れているようです。

 

南側は周濠のギリギリまで住宅が建ちそのあいまに古墳の森が見えていましたが、やがて周濠が見えて、周囲の遊歩道に入りました。

1926年(大正15年)当時は「東側の周濠に沿って延びる田んぼの畦が存在した」(Wikipedia)とのことですが、どんな風景だったのでしょう。

周濠の水面を眺めながら数百メートルほど歩くと、履中天皇陵の北側と接している大仙公園に出ました。ここにも、中小さまざまな古墳がありました。

 

計画ではJR阪和線の東側にあるいたすけ古墳や御廟山古墳をまわってから仁徳天皇陵の周濠を歩くつもりでしたが、履中天皇陵の周濠だけでも相当な距離なのに仁徳天皇陵はさらに1.5倍ぐらいありますからね。これは無理だとわかりました。

 

 

*見晴らしの良い台地の上*

 

午前中からすでに19000歩、休憩も兼ねて堺市立博物館に入りました。

百舌鳥古墳群ー巨大古墳が集まるー

百舌鳥古墳群は、大阪湾上の船からよく見えるよう台地の上に造られており、このことから当時の王権が海外に目を向けていたことがよくわかります。墳丘の長さは10m~500m近くとさまざまですが、300m以上もある巨大な古墳を3基含んでいます。墳丘の形は、前方後円墳、帆立貝形墳、円墳、方墳の4種があります。この古墳の大きさと形の違いから、埋葬された人の生前の政治的、社会的な序列や身分が読み取れるため、百舌鳥古墳群古市古墳群と共に、当時の政治・社会の階層構造を示すものとして、日本の古墳群の代表といえます。

(展示より)

 

巨大でしかも数多い古墳に圧倒されましたが、その高台にある周濠を満たす水はどこから来ているのか、その水を田んぼに利用し始めたのはいつ頃なのか、素朴な疑問の答えはまだ見つからなさそうです。

土塔 についてと大和川についての資料を買って、また歩き始めました。

 

博物館を出ると、目の前が仁徳天皇陵の外側の周濠です。三国ヶ丘の駅に行くには歩き切るしかないので、疲れた足を引きずりながらただひたすら鬱蒼とした古墳の森と周濠の水を眺めながら歩きました。

日当たりの良い土手に、水仙が咲いていました。古墳の周濠の美しさにますます惹かれていきそうです。

途中、周濠から取水口と分水路のようなものがありました。かつてはこのあたりにも田んぼがあったのでしょうか。

 

 

そういえば三国ヶ丘ですからここも台地の上ですね。

駅から北へ2kmほどで現在の大和川がありますが、1704年に付け替えられるまでは淀川に合流していたとのことなので、高台はもっと北の方へと自然堤防のように続いていたのでしょうか。

 

百舌鳥古墳群を訪ね歩く」、実際には5分の1も達成できていないので、またやり残した宿題になりました。

 

 

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行間を読む 204 大和川付け替え前の新田開発の地

行基さんの生家を訪ねたあと、その斜め向かいにある家原大池に立ち寄りました。

東側の体育館や南側の公園はおそらく池を埋め立てたのだと思われますが、家原大池の歴史がわかるような説明は見つけられませんでした。

 

広大な池の道路を隔てた北側が小高くなっていて、その裾に何か史跡があるので立ち寄ってみるとお城の跡でした。

原城

 16世紀中頃は、三好長慶が近畿・四国地方で九ヶ国余りを制圧し、和泉国もその支配下にありました。しかし、永禄8年(1565)以降、三好長慶重臣であった松永久秀が、長慶の後継者である三好義継を擁する三好三人衆と対立するようになり、家原城においても対立した状況が、以下の資料でわかります。

 「細川両家記」によると、永禄9年(1566)2月、家原城には松永方の泉国の侍たち(泉州衆)がたてこもっていました。泉州衆は城を出て、堺を出撃した畠山高政と合流し、上芝(現在の上野芝)で三好義継の軍勢13000と戦いますが、敗れて岸和田城に逃れました。

 永禄11年(1568)9月には、織田信長の勢力が、三好三人衆を破り、畿内を平定しました。しかし、「細川両家記」によると、同年12月には、三好義継の家臣の寺町左衛門大夫(さえもんだいふ)・雀部治兵衛尉(ささべじひょうえのじょう)らがたてこもる家原城が、京都奪還を目指す三好三人衆に攻められ落城します。この戦いは、翌年の2月27日に上杉謙信にも伝えられました(『上杉家文書』)。

原城から逃れた人々は、踞尾(つくの)、家原に住み着いたといわれています。

 現在は、大幅に地形が改変されていますが、大池に面した部分にかつての家原城の面影を見出すことができます。

   堺市 2013年9月

 

歴史人物の記述は目が滑ってしまうのですが、案内板の絵図では堀に囲まれた家原城と、その南西に池が描かれ、石津川に挟まれた地域と東側に「田」とあるのが目に入りました。

 

てっきりこのため池も行基さんに関係があると思ったのですが、中世あたりからの新田開発のためでしょうか。

かつての田んぼのあとは片側3車線の府道61号が真っ直ぐに通り、家原城の背後には堺市総合医療センターが要塞のようにそびえていました。医療センターの入り口になぜか大きな青銅の象がいました。

 

津久野駅の近くでお腹が空いて関西風のうどんをむしょうに食べたくなり、お店に入ってうどんと親子丼のセットを頼みました。このあと古墳群を歩くので腹ごしらえが大事ですからね。

子どもの頃から食べ慣れた関西風の味とやわらかめのうどんに、「これを食べたかった」と大満足でお店を出て津久野駅に向かいました。

 

 

*津久野と踞野*

 

片側3車線の府道の周辺はマンションも多く最近開発された街かと思ったのですが、ふらりと寄ったお店の昔懐かしい味に、帰宅してから「津久野」はどんな歴史のある街なのだろうと検索してみました。

 

Wikipediaの「津久野駅」にかつては「踞尾」表記だったことが書かれていて、家原城跡の案内板にたしかに「踞尾」と書かれていることと繋がりました。まず読めないですね。

 

Wikipediaに「踞尾村」の説明がちゃんとありました。

その中に「1698年(元禄11年)に当村の北村六右衛門が摂津国西成郡の三軒家浦に新田を開発」に目が止まりました。「浦」に「新田開発」、これは干拓でしょうか。

ここから2kmほどで海岸になります。

 

大阪は土地勘がほとんどないのでWikipediaの「西成郡」を読んでもなかなか地図と重なり合わないのですが、以下の部分が何かこれからのヒントになりそうです。

一方、淀川や大和川は流してくる土砂は上町台地のはるか西の沖合いまで、いくつもの支流と小島を作って海を埋め尽くすようになった。この土砂は通行路である河川を浅くしてしまい、洪水や氾濫の原因にもなる厄介なものだったが、次第にこれらの新しい島も新田開発が進められるようになった。

 

今回の散歩は大和川のあちこちを歩いてみようというものでしたからね。

歩いた時には気づかなかったのですが、あの辺りは1704年の大和川の付け替え以前の新田開発の場所だったようです。

いつかまたこの大和川付け替えの前後の時代の行間をもっと歩きたいものです。

 

津久野のお店にふらりと入らなかったら、街の雰囲気からこの歴史にたどり着かなかったかもしれません。

これもまた散歩の醍醐味ですね。

 

 

*おまけ*

 

以前から歴史上の人物についての記述は目が滑って頭に入らなかったり、「何人衆」という表現にも興味がなかったのですが、最近の様子と重なりあって気になるようになりました。

 

「何人衆」と言われることで現代の政治家はもしかすると歴史上の人物になったような錯覚があるのかもしれませんが、最近の私は「軍勢13000」と一括りにされるような一人一人の人生の方が気になります。

少数者の利益のために一蓮托生で犠牲になった人々だったのか、見につまされる時代ですからね。

 

 

 

 

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城と水のまとめはこちら

あの日(2022年7月8日)から考えたことのまとめはこちら

散歩をする まとめ (501〜)

近所や都内を歩いていた散歩だったのに、最近は全国津々浦々の川や水路や干拓地だけでなく寺社や古墳まで訪ね歩き、思えば遠くに来たものだと思うことが増えました。。

そして一生のうちにもう二度と訪ねることはないかもしれないと決死の覚悟で出かけ始めた遠出だったのに、「そうだったのか」と知ったことが増えた分、知らないことがもっと出てきて再訪することも増えました。

 

そもそもブログを書き始めたのは出産や授乳の安全性について頭の中を整理するためだったのですから、ほんと、遠くに来ました。

 

散歩という言葉はいつ頃できて何を意味しているのだろうと検索したのですが、案外と漠然としているようです。「一般的に用いられるようになったのは明治時代」(コトバンク、精選版日本語大辞典)とのことで、当時はどんな感じで「散歩」と使われ始めたのだろうと気になっています。

 

途中で気になったことのメモや写真から、それにはどういう歴史があったのか、自分の年表を正確にしながら、かつ中央歴史主義史観に陥らないように、もう一度細かな事実を生活の中から見つけていくことで、誰に渡すでもない次世代へのバトンを準備する。

最近の散歩はそんな感じになってきました。

ちょうどキリのいい「散歩する 500」行基さんの生地を訪ねた記録になりました。

 

いつも神妙なことを考えているわけではなく、「あれも見てみたい」「あれを食べてみたい」と思って楽しみながら出かけているのですが、帰宅するとやり残した宿題がどんどんと増えて考えることが尽きなくなる感じですけれどね。

 

ということで、「散歩する」の501からはこちらへとまとめていきます。

 

「散歩をする」(1〜250)のまとめはこちら

「散歩をする」(251~500)のまとめはこちら

 

501. 百舌鳥古墳群の周濠を訪ね歩く

502. 藤井寺駅から周濠を訪ね歩く