水のあれこれ 351 奈良盆地で一本の大和川になり大阪平野へ

今回の3泊4日の前半の2日間百舌鳥古墳群から古市古墳群、そして大和川の付け替えが行われた場所のあたりまで歩きました。

事前に航空写真で確認していた時には大阪側の周濠の付近にはほとんど水田がないことがわかっていたのですが、実際に歩いてみても周濠の水面には心が惹かれるものの、用水路や水田の痕跡がほとんどない風景でした。

 

近鉄安堂駅から近鉄大阪線に乗ると水田の広がる奈良へ「早く帰りたい」という気持ちになり、山あいに入り府県境を越えるとすぐに奈良平野が見えて全く違う風景になりました。

この先にあの吉野川分水西部幹線水路が潤す田んぼが広がっています。

そして近鉄五位堂駅を過ぎると見える高台にはるばる吉野川から取水された水をさらに奈良盆地の西側へと分ける香芝の円筒分水工を感じながら、川や用水路が張り巡らされため池や水田があちこちにある風景です。

 

耳成山のそばを通り、三輪山が近づき、桜井駅に到着しました。

散歩の3日目は奈良盆地大和川沿いを歩く予定です。

 

 

奈良盆地大和川から大阪平野大和川へ*

 

大阪から奈良盆地へと向かうには、北から近越けいはんな線近鉄奈良線、JR大和路線近鉄大阪線そして近鉄南大阪線とありますが、大和川の説明を読むと、それらの路線の車窓から見える奈良盆地の川や水路はすべて大和川へと流れ込むのだと改めてわかります。

 

 奈良県笠置山地を源流とする大和川の幹川流路の延長は、68kmです。上流部では初瀬川と通称され、初瀬ダムをさらにさかのぼったところに源流位置があります。この初瀬川が奈良盆地に下ると、盆地にある多くの河川が次々と合流しながら西へと流れて行き、やがて奈良盆地を出る頃には1本の川にまとまります。これが本流「大和川」です。そして生駒山地金剛山地の間の谷部を抜けて大阪平野に出て行きます。

(「Web 風土記 ふじいでら」、「藤井寺市の川と池 ー大和川ー」より)

 

奈良盆地を出る頃には1本の川にまとまります」

これが2020年に訪ねた王寺のあたりの大和川です。

たしかに地図で奈良盆地の西側に1本の川として描かれているのですが、その後奈良盆地を頻繁に訪ねて歩くようになって、奈良盆地の小さな川から水路まで全てが集まってきていることを実感するようになりました。

そう、車窓の風景に見合える水路や川は全て大和川水系なのですね。

 

その1本の大和川は府県境を越えると石川を合流して大阪湾へと流れているのですが、かつては柏原のあたりで北へと向かい、いく筋もの旧大和川に分かれて淀川へと合流していた様子がその流路図でわかりました。

 

山の向こうの奈良から1本にまとまって流れてくる大和川に対して大阪平野側の治水や流路変更の歴史を少しずつ知ると、古墳内の村やその周囲の田んぼなどかつての田園風景を思い描けるようになってきました。

 

大阪平野大和川と旧大和川のあたりを眺めていると、また水路を訪ね歩きたくなってきました。

そしてかつての河内湾や潟の痕跡も。

山を境に風景が異なる大和川水系の、その歴史を歩き尽くしてみたいものです。

 

 

*おまけ*

 

多くの大河川は都道府県境を越えると川の名前が変わることが多いのですが、大和川は府県境を越えてもそのまま大和川で、しかも付け替えが行われたあとも「大和川」と呼ばれてきたようです。

それぞれの時代に、それぞれの地域でどんな思いでこう呼んできたのでしょう。

 

 

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水のあれこれ 350 「水路の下を水路がくぐる」

玉川上水への関心から都内の川や水路ぞいを歩くようになった頃、次はどこを歩こうかと地図を眺めていて川と川が交叉している場所に目が行くようになりました。

最初はそのどちらも最後は海へと流れ着くのだろうと思っていたところ、二ヶ領用水のように、一方は多摩川からの取水で、もう一方は多摩川へ流れる水色の線もあることを知り、ますます目が離せなくなりました。

 

二ヶ領用水は江戸時代に造られたにしても、そこに水路を交差させるなんてマジックのような技術は近代以降だろうと思っていたところ、江戸時代にはすでに掛樋や伏越という技術があったことを見沼代用水沿いを歩いて知りました。

 

ほんと江戸時代は決して遅れた時代ではないし、その高い技術や知識を当時の農民自体が持っていたようです。

 

 

*大水川の「川の下に川!」*

 

目立たないけれど重要な川である大水川(おおずいがわ)にも旧大水川と交叉する場所があるそうで、「川の下に川!ー交叉する新旧の大水川」という説明があります。

この「川の下に川!」の表現に、あんがい私もいい線を気づいていたと満足したのでした。

 

大水川に旧大水川が暗渠で交叉しているのは内水氾濫を防ぐための昭和40年代の改修時のようですが、続けてこんな文章がありました。

「水路の下を水路がくぐる」という構造は、昔から各地で用いられてきました。江戸時代から続く構造が各地に現存しています。それほど農業水利の管理は農作地帯にあたっては重要な課題であったことを物語っています。

(「Web 風土記 ふじいでら」「藤井市の川と池ー大水川」)

 

 

そして「藤井市の川と池ー大和川」では、当時の農民の知識や土木技術について書かれていました。

土と水に頼って生きる農民の知恵

 以上のような技術的な対応策や設計上の工夫は、現代の私たちが想像する以上に綿密で優れたものであったと言ってよいでしょう。付け替え推進運動の中心となった中甚兵衛の子孫である中家には、大和川の付け替えに関する膨大な文書が残されています。それらの中には、実に多くの手間を掛けた綿密な調査記録や、新大和川の流路予定地に関する正確な測量図、細かい計算を経て作成された勾配図など、現代にあっても専門家でなければ製作は困難と思われるものが多数存在します。当時の農民層が持っていた治水・土木の知識や技術の水準には驚かされます。もともと何よりも用水が重要なものであった稲作農民にとっては、安定した用水確保のための治水の知識や土木技術は必須のものであったことでしょう。行政・司法の官僚として奉行所に勤める幕府役人よりは、こと治水・土木に関しては農民層の方が上まわっていたのではないかと思われます。

(強調は引用者による)

 

まさに、まさに。

そして最後の一文は、現代でも農業だけでなくさまざまな分野で当てはまりそうですね。

 

 

次に訪ねる地図の中の「水路の下を水路」には、どんな歴史があるのか楽しみになってきました。

 

 

*おまけ*

 

航空写真にしてみてもほとんど周囲に水田が残っていない百舌鳥・古市古墳群の周濠や大阪府内の大和川沿いは奈良県とは対照的で、今回の散歩に出かける時には正直なところあまり期待はしていませんでした。

なんといっても全国津々浦々の水田は健在な風景を見るための散歩ですからね。

ところが帰宅してからこの資料を読んで、見ていた風景の記憶が一変しました。

 

現在はすでにない水路や田畑の風景が見えてきて、また歩いてみたい場所が出てきました。

 

 

 

 

 

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利根大堰・見沼代用水・武蔵水路葛西用水路の記事のまとめはこちら

専門性とは 12 答えを急がない

大阪から奈良へと大和川をたどった散歩でしたが、散歩を終えた時点ではまだ大和川の歴史の全貌が見えるような資料には出会えませんでした。

川や用水路からその地域の歴史をとらえるような視点は少ないのでしょうか、数少ない貴重な川の資料館さえ閉館してしまう時代です。

 

ところが、私の地図では名前さえない小さな川の資料から、大和川の歴史の全体像がわかる資料に出会いました。

 

大和川の付け替えの歴史だけでなく、三国ヶ丘という見晴らしの良い場所のそばに大和川の河口があるのは、そこが泉北(せんぼく)台地と上町(うえまち)台地のちょうど間だということもこの資料の中の地図ですぐにわかりました。各地の放水路と同じですね。

 

また大阪府内の鉄道網が複雑で、駅が交差していないと乗り継ぐために天王寺まで戻るか駅間を徒歩で移動する必要がある理由も、この資料で漠然とですが見えてきました。

路線が西側に集中していて東側は「疎」なのは、西側が台地であり東側はかつては河内湾から潟になりそして水田地帯になった場所だったこと、そして大和川右岸でJR大和路線近鉄大阪線がV字で通っているのはそこが天井川だった旧大和川の流路に沿った地域らしいことも見えてきました。

 

そして大和川付け替えまでの紆余曲折だけでなく、現代にもどのような影響があるかまでそこに生活する人の視点で網羅された内容に圧倒されました。

 

どんな方がこの資料を書かれたのだろうと思いながら読むと、最後に書かれていました。

私にとっての「大和川の付け替え」

 

大和川の付け替え」の教材化

 「大和川の付け替え」については、私の胸中には特別な思いが存在します。と言うのも、50年近く前の1972(昭和47)年度、私が所属していた市の小学校教育研究会部で「大和川の付け替え」の教材化に取り組んだ体験があったからです。教師3年目のまだ新米の頃でしたが、各校から集まった部員が協同で調査・研究の作業に力を注ぎ、まとまったカリキュラムと学習資料を完成させたことは、今でも貴重な経験として強く印象に残っています。

(「Web 風土記 ふじいでら」、「藤井市の川と池」)

 

私が小学生から中学生の頃、教科書にするために始まった資料作りだったようです。

 

昭和53度版の教科書から掲載されたもののその後教科書会社が撤退したそうで、「教科書と言えども、売れてなんぼの出版業界ですから、編集企画や教材事例の選択は重要な要素でした」とあっさり書かれている胸中はいかばかりでしょうか。

 

 教科書執筆にしても、資料集編集にしても、膨大な時間と手間を費やして取り組みました。今となってはよい体験、よい思い出ですが、当時を振り返ってみると、少しでも良い教材を提供したい、その一心でエネルギーを注ぐことができたものと思います。

まさに世の中はそこに暮らす市井の人の正確な記憶と記録によって成り立つものだと、先人の記録に圧倒されました。

 

おそらく半世紀ほどの間、「わかったと思ったら、またわからなかったこと知らなかったことが増え」て、資料の内容も見直されたり充実していったのではないかと想像しました。

 

 

*何をどのような視点で伝えるか*

 

あちこちを散歩すると、たとえば石碑の難しい漢文をなんとなく読めるのも、歴史上の人物関係を覚えるのは不得手で歴史が嫌いだったのにそれが今になって資料を読むのに役立つのも、学んだことが生かされているから理解できたのだと思うこともたくさんあります。

 

膨大な歴史をどのように子どもたちに教えるか、これもまた大変な作業ですね。

 

この大和川の資料の中で、そうそう、私もそう思っていたと頷首した箇所がありました。

 明治政府以来、徳川支配の江戸時代をことさら遅れた時代だったとイメージ化させようとする日本史教育が続いていました。私の中にも小学生以来そのようなイメージが出来上がっていました。しかし、実際の江戸時代の文化・学術の水準は、私の想像をはるかに超える高いものでした。近年、江戸時代の暮らしや文化についての関心が高まり、江戸時代そのものの見方、捉え方を見直そうとする動きも盛んになってきました。江戸時代の庶民の識字率の高さは、世界的に見ても相当高いものであったことが知られています。寺子屋の普及率もかなりのものでした。それらがあってこそ、明治に入ってからの急速な近代化や西洋文化の受容が可能であったのです。決して、明治期になったとたんに近代的進歩が始まったわけではありません。私たちは、先人達の残した歴史をもう少しつぶさに知る必要がありそうです。

 

江戸時代どころか佐賀の干拓をはじめ稲作のために干拓したり、ため池や周濠や水路ををつくったり、それが十数世紀ののちにも存在していることにも圧倒されます。

 

江戸時代には利根川やこの大和川が付け替えられ、見沼の田んぼを初め各地で新田開発が行われていますが、この「土地づくり」と「川の付け替えによる治水・利水の技術」がなければ明治時代に入って工業化は成し得なかったことでしょう。

 

何より公共事業の基礎になる概念が行基さんの時代にはあったからこそ、明治時代には「人類の為に」という雰囲気になり、新たな技術や知識を外国から吸収できたのだと思うようになりました。

 

最近のハリボテの政治家ばかりに将来が不安になっていましたが、こういうさまざまな分野の真の専門家が各地にいるのだと希望の光が見えてきたのでした。

すごい先人の記録に出会えました。

 

 

 

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あの日(2022年7月8日)から考えたことのまとめはこちら

行間を読む 205 「堤防を歩きながら、1本の川をめぐる多くの先人達の願いや苦悩に思いを馳せる」

昨年9月に7世紀の南河内の地溝開発と1704年の大和川の付け替えを知ったあと、どのあたりがどのように変化したのだろうと地図を眺めては地名や現在の水路や川から想像していました。

Wikipediaの「大和川」に「治水・流路変更の歴史」がまとめられているのですが、大阪の土地勘がないので地図を重ね合わせてもわからないままでした。

 

今回の散歩で目立たないけれど重要な大水川の11ページもの説明の中に「大和川藤井寺市の川と池ー」へリンクがあったので開いてみると、なんと19ページにも及ぶ大和川付け替えの資料がありました。

 

過去から現代へ、大和川の流れ方、地形、それぞれの地域への影響などがくまなく書かれていました。

 

川の説明でこんなに詳細に書かれたものを初めて目にしました。詳細でいて全体像を見失うことなく情景が浮かぶ、わかりやすい説明です。

そしてあちこちを歩いて知った川や水路の歴史をたどろうとしても、歴史というと著名な武将の視点からの歴史はたくさん書き残されているのに、川や農業の要であった水路やため池の歴史がまとめられたものは少ないものです。

この資料は正確な地理から歴史まで、川とそこで生活する人の視点から描かれていることに圧倒されました。

 

 

*旧大和川だった地域*

 

奈良盆地から生駒山地金剛山地の間を抜けて、すぐに北へと流れを変えていた旧大和川のその先はあの巨椋池(おぐらいけ)のように広い湿地のような場所だったのだろうかと想像していました。

 

この資料の説明と図から、大阪へ出るとすぐに北へと向きを変えていた旧大和川は扇状に分かれながら、巨椋池よりももっと広大な地域を流れていたようです。

川の付け替えが必要だったのは、旧川筋が昔からしばしば洪水を起こし、流域の村々に大木は被害をもたらしてきたからです。旧川筋は、長年の間に天井川となっていて、ひとたび氾濫するとたちまち一帯が水びたしとなり水が引きにくいという流域でした。大阪平野、特に河内平野と呼ばれる旧川筋流域を安定した農作地帯にするためには、大和川による洪水を防ぐ治水対策が何としても必要でした。

(「Web 風土記 ふじいでら」「藤井寺市の川と池〜大和川〜」「人工の川ー藤井寺市大和川」より)

 

現在の大阪城から淀川両岸のあたりの「河内平野」はかつては海、そしてだったようです。

生駒山地上町台地の間の河内平野は、「古代の大阪湾」とも言える「河内湾」という内海でした。縄文時代のことです。やがて弥生時代の頃には「河内潟(がた)」となり、さらには「河内湖」となりました。北からの淀川、南からの大和川、2つの川が運んでくる砂によって、だんだん小さく浅くなっていったのです。

(同上、「宿命の川ー砂で埋まる川」)

 

ああ、だから「河」「内」なのでしょうか。

 

 

 

*「川の付け替え」が決定されるまで*

 

この資料の隅から隅までただ圧倒されるのですが、中でも川の付け替えに対する賛成・反対の立場の意見まで網羅されていたことでした。

 

 洪水の原因が、もともと川の地形のでき方にあるのであれば、川そのものの在り方を変えるしかないということになります。つまり、洪水を起こす川を無くして、代わりに洪水を起こしにくい川を新たに造るという考えです。そう考えた人々の中から「大和川を付け替えたい」という願いが広がっていきます。現在中河内と呼ばれている地域の庄屋たちが中心でした。中でも、今米村(現東大阪市今米)の庄屋であった甚兵衛(じんべえ、後に苗字帯刀を許されて中甚兵衛)は、付け替えを願う人の中心となって長い期間に渡って大きな役割を果たします。

「中甚兵衛」、大和川治水公園の説明板で知った名前です。

 

 一方では、甚兵衛達の動きに対応して、川の付け替えに反対の考えを持ち、奉行所に対して逆に付け替えをしないように願い出る人々がいました。甚兵衛たちの計画で新川の予定地となっている場所に関わる村々の農民たちです。付け替えが実現すれば、農地が新川の川ゆかとしてつぶれ地となってしまう村、農地は失わないが大和川の流路が関わることで新たな危険や不利益を被ることになる村々など、多くの村が反対の動きに加わりました。後に、実際に多少なりとも農地を失うことになった村は40カ村にも及びました。

 甚兵衛達が奉行所に嘆願書を提出すると、反対の人たちもすぐに多数の村々の連盟で嘆願書を提出するという、お互いの願いがぶつかり合う激しいものとなりました。大きな開発公共事業を巡って推進派と反対派が対峙するという、現代にもよく見られる構図ができてしまったのです。現在と違うのは、事業の決定者は幕府であり、それも一方的に決定する権力を持った支配者だったということです。

こうした激しい紆余曲折が半世紀ほど続いた後、大和川が付け替えられたそうです。

 

それによって大きな洪水はなくなったそうですが、「偉業の物語」では終わらないところがこの資料でした。

大和川の洪水を防ぐ」という付け替えの最大目的は達成されましたが、大和川という大きな川の流れを変えたことで、付け替えの後、様々な問題が起こりました。中には、300年後の今でも続いている問題でもあるのです。これらの問題のほとんどは、かつて付け替えに反対した村々の農民達が嘆願書の中で反対の理由として指摘していたことでした。付け替えの後に、次々と現実のものとなっていったのです。もともと反対派の農民達が指摘していたことは、川の実態や農業水利、地形(土地の高低)などに基づいて予測され、相当高い合理性を持つものだったのです。

それについて具体的にいくつか挙げられています。

 

昔の人たちもまた「公共のためとは何か」という正解のない葛藤に対峙してきたことが書かれていて、公共事業の歴史を知らずに批判から入っていたことをまた恥入りました。

 

大和川の説明の最後にこうまとめられていました。

大和川の堤防を歩きながら、1本の川をめぐる多くの先人達の願いや苦悩に思いを馳せてみるのも、また、一つの歴史の楽しみ方ではないでしょうか。

 

まさに。

こういう思いからまとめられているから、この資料に惹きつけられたのだと思いました。

「大水川(おおずいがわ)」を検索していなければ出会うことがなかったのですから、幸運でした。

 

 

 

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記録のあれこれ 173 大和川の付け替えと250年記念碑

近鉄南大阪線土師ノ里(はじのさと)駅についた時には空腹の限界でした。店はあっても閉店していたり、頭の中では「腹が減った」の音楽が流れているのに、さすがの五郎さんでも見つからないと思うほど食べるところに出会いませんでした。

 

予定を変更してこのまま南大阪線で奈良へ向かおうかと思いましたが、やはり今回の目的のひとつは大和川ですからね。

土師ノ里駅の次の道明寺駅道明寺線に乗り換えて大和川を渡り、柏原南口駅で下車してもう一ヶ所頑張って大和川沿いを数百メートルほど歩き、近鉄大阪線安堂駅から奈良へ向かうことにしました。

地図には何も描かれていないのですが、この辺りが大和川付け替えの場所のようです。なかなか詳しい資料に出会わないのですが、せっかくきたのでその場所を歩いてみようと思いました。

 

大和川治水公園があった*

 

大和川にかかる道明寺線の鉄橋を渡ってすぐに柏原南口の駅があります。「道明寺線の橋梁が『土木学会選奨土木遺産』に認定されました」と説明がありました。たった3つの駅を結ぶ不思議な路線ですが「近鉄の路線の中では最も歴史が古い」(Wikipedia)ようです。

 

国道25号線を渡って、大和川の堤防の上に立ってみました。ここから下流は傾斜がほとんどわからないような平地ですが、すぐ上流は渓谷のような場所をJR大和路線が川沿いに通過する場所です。

山あいから出てきた流れが北へと向かう方がなんだか不自然に見えるぐらい、かつてはここで大きく向きを変えていたようです。

 

国道25号線沿いに安堂駅の方向へ歩くと、途中、何やら堤防上の歩道が公園のようになって大きな石碑が見えました。「大和川治水公園」でした。

 

「西暦1703年代大和川流域の図」と「大和川付けかえと中甚兵衛(なかじんべえ)」という銀のプレートもあります。

 河内平野を幾筋もに分かれて淀川に注いでいた大和川が、今の姿に付け替えられたのは、元禄が宝永と改元された1704年のことです。工事は、わずか8ヶ月で完成しました。洪水に悩む地域のお百姓の訴えが実を結んだものですが、最初の江戸幕府への願い出から付けかえの実現までは、50年近くの月日を要しました。

 その間にも幕府は何度か付けかえの検分をしました。そのたびに新しく川筋となる村々から強い反対にあい計画は中止されました。しかし、3年連続して河内平野が全て泥海と化すような大洪水もあって、幕府は対策に本腰を入れ専門家を派遣、工事を行いました。この工事で、淀川河口の水はけは良くなったものの、大和川筋は一向に改善されず、川床には土砂が堆積して田畑より3メートルも高い天井川になってしまいました。

 しかも、幕府は付けかえ不要の方針を固めたため、依然洪水に悩む人々は、付けかえの要望が出来なくなり治水を望む運動の規模も、どんどん縮小してしまいました。しかし、多くの文書や絵図を作成して状況の改善と新田開発の有効さを訴え続けた根気と情熱が、幕府の方針を変更させたのです。

 この付けかえ促進派で終止運動の中心にあったのが代々の今米(いまごめ)村(現在の東大阪市今米)の庄屋に生まれた中甚兵衛で、同志の芝村・曽根三郎右衛門や吉田村・山中治郎兵衛の引退や死にもめげず、最後はたった一人で何度も奉行所に出向き工事計画を具申しました。そして、ついに力量を認められ実際の工事にも御用を仰せつかりました。また、その子九兵衛もそれを手伝ったと記録されています。

 甚兵衛、付けかえ時66歳。翌年剃髪して乗久(じょうきゅう)を名乗り、享保15年92歳の天寿を全うして亡くなりました。

 御墓は京都東山西大谷に、生地の旧春日神社跡には従五位記念碑が、またその北100メートルには生家の屋敷跡の石垣が残っています。

 

そばの大きな石碑は1954(昭和29)年の「大和川付替 二百五十年記念碑」でした。

大和川の流路を現在の如く一変した寛永元年の附替は永年にわたる郷土先賢の大なる努力の結實であり我国治水史上に輝く大事業である 大和川はもと大和盆地の諸水を集め亀瀬の峡谷を經て河内に入り石川を併せて柏原より西北に向い長瀬川玉串川に分流し玉串川は更に吉田川菱江川に分かれ深野池新開池の廣い沼澤に通じ西北に轉じて長瀬川と會し京橋に到り淀川と合流して海に注いだ 河内の流域一帯は土地低濕(しつ)のため水勢緩やかで土砂の体積夥しく河床が次第に本田より高くなり長雨ごとに堤防決潰し上代以来洪水相繼いだ 堤防を築き河床を浚えるなど應急の改修は度度行われたが根本的な治水の功を見ずして長い歳月が流れた 江戸時代に及んで水害愈々甚だしく大雨あれば氾濫して濁流襲い田畠流れ家屋没し非常な惨状を呈したので沿岸の村々は根本的な治水を切望した これに應えて今米村の川中九兵衛は芝村の乙川三郎兵衛 曾禰三郎左衛門らと協力し深く地形を研究して柏原より西に流れて直に海に入るよう大和川附替の急務を唱え幕府に訴願した 幕府は之を許さなかったが治水の根本策を樹てる必要を感じこれより度度役人を攝河の池に派遣して水域を實地踏査せしめその對策を検討することとなった 斯くして水害の根絶と新田の開發を説いて附替に賛成する者あり之に對して寧ろ河口を浚えるに若ずとして反對する者あり幕府の方針定まらずして新川豫定地の榜示が或は打込まれ或は引抜かれた 村々の間に附替賛否の論が沸き起こり激しい訴願が相繼いだ かかる間に先の人々は深い憂を抱きながら歿し幕府の瀬作も概ね河口の浚渫に傾いた この時今米村の中甚兵衛はよく先人の志を繼ぎ詳しく地域を調査し具さに得失を考究し窮境にあって少しも屈せず江戸に往來して益々熱心に附替を幕府に訴願し盡痺して己まなかった 代官萬年長十郎これに賛成し幕議ついに附替に決するに至った 元禄十六年十月二十八日幕府は大和川改修の令を發して役人を派遣し姫路藩らにこれが助役を命じて工を起こし一年の歳月を經て翌年寛永元年十月十三日この大工事は完成した ここに至って宿願全く達成せられ新大和川は西に流れて積年の水害そのあとを絶ち河床は開墾せられて廣い新田となり古川は用水川となって樋を設けよく田畠を潤して農業大いに興り嘗ての洪水の地変して近代文化の培養地となった 今や大和川附替二百五十年を迎え築留青地両土地改良區相議し記念碑を建てて先賢の功業を讃えるにあたり囑を承けてこの文を記する次第である

 昭和二十九年十月十三日  大阪府知事 赤間文三

 

 

大和川付け替えから今年でちょうど320年。

現代でも耐えられるような計画を立てたのはまさに「先賢」で、地道な調査と研究心によるものだったことを知りました。

 

予定を変更せずに立ち寄ってみて本当によかった、と思う記録が残されていました。

 

 

 

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米のあれこれ 82 幻の水田地帯が見えた

初めての場所を散歩する時には、地図を航空写真に切り替えて「田んぼはあるかな」と確認しています。

全国津々浦々の川や水路、そして水田が健在なことを記憶していくことが目的になってきました。

 

今回の3泊4日の遠出の前半に訪ねる場所は、残念ながら水田どころか畑もほとんどなさそうな市街地でした。

周濠からの水路もおそらくほとんど暗渠で、かつての水田の痕跡も見つけらなさそうです。それでも周濠の水面を眺め、どこかで水が流れているのを見ることができればまあいいかと思って出かけました。

予想通り、ほとんど水田も水路もありませんでした。

 

ようやく、応神天皇陵の西側の周濠の外側に細長く水田地帯があるのを見ることができました。

そこから大鳥塚古墳の横を抜ける時に少し水田がありました。

そこから丘のような場所へと上ると西名阪自動車道が通っていて、その北側の古室山古墳から仲姫命陵古墳へと向うと近くにはアパートに挟まれるように小規模の助太山古墳、中山塚古墳、八島古墳がありました。国府(こう)台地の中でも近鉄土師ノ里駅のあたりは高台のようで、駅まで登り坂でした。

 

西名阪自動車道の高架橋の下にも赤面山古墳があるのには驚きましたが、駅の真前にも鍋塚古墳の墳丘があります。まさに古墳群の中を歩いて駅に到着しました。

 

本当は、駅北側の允恭(いんぎょう)天皇陵も訪ねたかったのですが藤井寺でお昼を食べそびれたまま歩き、「どこでもいいから何かを食べよう」と空腹の限界に達していたので、このまま奈良へ向かうことにしました。

 

散歩の前半2日間はほとんど田んぼを見ることができませんでしたが、残る2日は奈良ですから、田んぼをひたすら歩くことができますからね。

 

 

*大水川(おおずいがわ)の水田地帯*

 

ところが帰宅して大水川(おおずいがわ)についての説明を見つけて、地図と重ね合わせながら読んだことでかつての水田地帯が見えてきました。

 

大鳥塚古墳のそばの水田地帯は大水川のすぐそばにありました。「八ヵ村」の古谷から沢田にかけての地域です。

「Web 風土記 ふじいでら」ではこう書かれていました。

 話を写真8に戻します。改修によって流路が途中から大きく変えられましたが、それには当然理由があります。写真14でわかるように、旧大水川の流域は水田地帯で大水川がどれだけ重要な存在であったかは、説明するまもないでしょう。昔の地図を見ても、大水川流域にはため池など存在しません。必要がなかったからです。

(強調は引用者による)

 写真で府道12号・堺大和高田線から北側を見ると、旧大水川の流路に少しばかり疑問が湧いてきます。なんでこんな曲がり方をしているのだろうか?そう思いませんか。自然にできた流路が、こんなに直線的な曲がり方になるはずはありません。もちろん人の手によって造られた流路です。直線的な流路は、水田の地割りに沿って造られたからです。この地域一帯は古代条理の地割りがそのまま残っている所です。写真でも、正方形の地割りの並んだその様子がわかります。この条理地割りに沿わせて、わざわざ流路をグニャグニャと曲げています。おそらくは、多くの田に水を配水しやすいように考えられた流路がこの形だったのでしょう。大水川からは、さらに多くの小さい水路で方々の田に水が入れられます。このような大水川の姿は、近世以前すでに出来上がっていたものと思われます。

(同、「変えられた大水川の流路ー曲がりくねった旧流路」)

 

大和川左岸の沢田から大井のあたりでしょうか。

土師ノ里駅の北側の国府台地が終わったあたりから、大和川にかけて水田が広がっていたようです。

昭和30年代以降ベッドタウンとして住宅地に変わり、現在は田畑がほとんどなくなったようです。

 

 

応神天皇陵のそばの小さな川から、かつての水田地帯が想像できました。

いつか歩いてみたいものです。

 

 

「米のあれこれ」まとめはこちら

 

水のあれこれ 349 目立たないけれど重要な大水川

誉田御廟山古墳応神天皇陵)のそばの大水川(おおずいがわ)は、石川から取水した重要な用水路だということまでわかりました。

 

では、古墳と用水路ではどちらが先なのだろうという素朴な疑問が湧きました。

さすがに古代にここまで大掛かりな用水路を引くことはなかったでしょうからね。

 

*石川からの取水はいつ頃だったのか?*

 

そのすごい役割を持つ水路であることを知ることができた「Web 風土記 ふじいでら」という先人の記録には、詳細な説明がありました。

 

まず、石川からの水路は18世紀の頃のもののようです。

 大水川(おおずいがわ)の水源を引き込む取水堰は、国道170号応神陵前交差点の横に立つ大水川説明板によれば、「八ヶ樋取水口」となっています。①図で「王水樋」と表示している取水堰のことです。「八ヶ樋」の「八」とは、「八ヵ村」のことを表しており、もととなるのは「八ヶ村王水組合」です。八ヶ樋取水口とは八ヵ村王水樋組合によって設置・管理されていた取水堰なのです。

 この八ヵ村王水樋組合は、江戸時代までに成立していたもので、現在の羽曳野・藤井寺の両市域に存在した8ヵ村によって構成されていました。この8ヵ村とは、18世紀段階では誉田(現羽曳野市)・道明寺・古室(こむろ)・沢田・林・藤井寺・岡・小山(以上現藤井寺市)でしたが、『藤井寺市史第2巻 通史編二 近世』の「第2章 水をめぐる村むらのむすびつき」の記述によれば、戦国時代にはすでに王水樋組合が成立していたことが述べられており、17世紀段階では7ヵ村組合であったことも示されています。8ヵ村組合が記録された最も古い史料は、1654(承応3)年のものだそうです。構成する村の和也組み合わせには、時代によって若干の変動があったようです。

 

大和川が付け替えられたのが1704年ですから、その時代に造られたのでしょうか。

 

 

現在の地図を見ると、応神天皇陵の周濠から北へと曲がった大水川は古室から沢田地区へと流れ、沢田の交差点の先で北西へとまっすぐ流れています。その北西へと向きを変えるところから北東へも小さな水路が描かれていますが、これが「旧大水川」あるいは「大乗川」だったそうです。

 

 現在藤井寺市の北部を流れている大和川は、1704(宝永元)年に造成工事によって造られた川です。それまでの石川と合流して北へ向かっていた大和川の流路を、合流点から西へ曲げて大阪湾まで新しい流路に変えるという大工事でした。「大和川の付け替え」と呼ばれている歴史的な大事業でしたが、事業の全体像は別ページを見てください。

 その付け替え工事でできた川の一部が、23)図に見える大和川です。よく見ると、北方へ流れていく大乗川が大和川によって断ち切られているのがわかります。大乗川の水を新大和川流入させることはできないので、堤防の南側に作った落堀川に合流させ、西の方へ流してから大和川流入させるようにしました。大乗川から直接大和川流入させる構造だと、大和川の増水時に逆流してしまうのです。

確かに地図で確認すると、大水川はそのまま直接大和川へ合流しているわけではなく、手前に並行する水路があってそちらに合流しています。

これは現代の治水工事によるものかと思ったら、江戸時代の川の付け替えの技術だったようです。

 

*古墳が造られた時代は水はどう流れていたのだろう?*

 

もう一つの疑問は、応神天皇陵の周濠の水はどうやって得られたかということです。

大水川が石川と新しい大和川を結ぶ用水路として整備されたのであれば、それ以前は水をどうやって得ていたのだろうと。

 

答えがちゃんと書かれていました。

応神天皇陵ができる前は、南側からその大乗川(旧大水川)がまっすぐ北へと流れている図がありました。

もともと川があったようです。

 図でわかるように、藤井寺市域の地形は南側が高く、北側へ緩やかに下って行ってます。市の南部は、羽曳野丘陵と呼ばれる南から伸びる丘陵地形の北端部に当たります。それは低位段丘と呼ばれる地形で、V字型の段丘を形成しています。東側の半島のような形の段丘は、「国府(こう)台地」とも呼ばれる場所で、多くの古墳が築かれた場所として知られています。

 

そういえば、藤井寺駅の方から応神天皇陵のある場所へは下り坂で、その東側はまた小高くなっていた記憶があります。この後訪ねたいくつかの古墳があり、土師ノ里駅も確かに小高い場所にありましたが、これが国府台地だったようです。

 

大水川のあたりがV字型の底の部分で、古墳が造られた時代には丘陵から流れ出たまっすぐな川があったようです。

そして5世紀初頭に応神天皇陵が造られた時に、大乗川が周濠に沿って付け替えられたようです。Wikipediaには「不安定な氾濫原」と記されています。

 

この先人の記録に出会ったおかげで、大水川とその地形や歴史がパズルを解くように見えてきました。

 

*「目立たずとも重要な『大水川』*

 

11ページにわたる大水川の説明の最後に、こうまとめられていました。

 少々長い説明となりましたが、「大水川」という川が、度々流路を変えられたり名前を変えられたりしてきた歴史を紹介しました。藤井寺市内では、同じ市内に大和川や石川という川が流れているために、川と言うとどうしてもそちらに目が向いてしまいます。しかしながら、紹介したように地形との関係を見ていくと、この地域にとって大水川が大変重要な存在であることをわかっていただけると思います。日頃大水川が注目されることは、まずないと言ってよいでしょう。注目されることもほぼありません。実に目立たない川と言える存在だと思います。ところが、ひとたび地域が集中豪雨にあえば、大水川の役割は最重要となってくるのです。落堀川の立場もほぼ同じだと言ってよいでしょう。

 

 

全国津々浦々、地図に名前さえ載っていないどんな小さな流れでも、同じようにその存在に意味がある。

次はどの川の歴史と出会えるのか、そしてその先人の記録に出会えるのかまた楽しみになってきました。

 

 

 

「水のあれこれ」まとめはこちら

水のあれこれ 348 「他の河川にひけを取らないプロフィールを持っている」大水川

「大水川」、私がいつも利用している地図には名前が載っていません。

 

どこを流れているかというと、応神天皇陵古墳の周濠の北側の「誉田(こんだ)一号暗渠」が開渠になって遊歩道のそばを流れ、隣接する誉田円山古墳のところでぐいっと北へと流れを変える小さな川です。

 

たまたまその川を撮った写真に、欄干の「おおずいがわ」という表記が映り込んでいました。

どんな漢字だろうと検索したところ「Web 風土記 ふじいでら」というサイトで「大水川」だとわかったのですが、11ページもの説明がありました。なんという無名の川への愛を感じる先人の記録でしょうか。

 

大和川水系の大水川*

 

(おおずいがわ) 一級河川 <一級水系大和川> <大阪府

近畿日本鉄道南大阪線 土師ノ里駅より府道・堺大阪大和高田線を西へ約700m  徒歩12分

流路延長 約4.5km

流域面積2.7㎢ 指定延長 2.5km   管理:大阪府富田林土木事務所

(上記サイトより)

ここ数年であちこちの川を歩いていますが、その中でも小さな川です。

 

 藤井寺市を流れる主要河川(一級河川)を取り上げるとなると、大水川は大和川・石川・落堀川(おちぼりがわ)に次いで、どうしても4番目になってしまいます。ただし、これは流路の長さや川幅などの外見的な河川規模で比べた結果であって、別の顔ともいうべき地理的・歴史的な背景を見ていくと、大水川は決して他の河川にひけを取らないプロフィールを持っている川であると言えます。

 

この最初の一文にぐいぐいと惹きつけられたのですが、さらに大水川の地理から歴史まで、川について知りたいと思う説明が書かれていました。

添付されている地図には小さな水路の名前まで正確に記されています。

 

一見、文学的表現のような出だしですが、その小さな川の成り立ちや地形、災害や水利や下水の施設など生活に関わる歴史が網羅された正確な内容が記されていました。

 

 

*現代の大水川(おおずいがわ)と王水川(おうみずがわ)ー水源は石川*

 

応神天皇陵の周濠に沿って水路が複雑にあるのでその水路を合わせた流れだろうと推測していたのですが、このサイトには詳細が書かれていました。

 

(中略)大和川の一次支川である石川にある樋門から導入された水が、誉田御廟山(こんだごびょうやま)古墳の南から西へ流れて王水川(おうみずがわ)から分流した後、国道170号線の地下を暗渠(あんきょ)で曲がりながら通ります。この暗渠は「誉田(こんだ)1号暗渠」と言いますが、暗渠の出口が法河川としての「大水川」の開始点です。

 

石川といえば、昨年9月に狭山池から近鉄長野線と近鉄南大阪線を乗り継いで奈良へ向かった時にその両岸に美しい水田や水路があったことが記憶に残りました。

その古市駅から東へ数百メートルの石川左岸にたしかに水路と水路が交差して、その細い一本が北から北西へと曲がりながら応神天皇陵のそばの水田近くを流れています。

これが王水川だったようです。そしてその先の国道170号線とバイパスの三叉路の下で暗渠としてぐいと東へと曲がったのが、あの誉田1号暗渠でした。

 

暗渠のあたりで分水された王水川は、私が歩いたあの酒蔵やアイシェルアシュラホールのあたりから下り坂になった先の平地を潤していたようです。

 

石川から取水し、藤井寺市羽曳野市の台地の下側を潤しながら大和川へと流れる用水路だったわけですからこれだけでもすごい「プロフィール」に出会いました。

 

 

*おまけ*

 

一見、地図では大水川が現在の大和川へと合流しているように見えるので「大和川へと流れる」と書いたのですが、この資料を読んで初めて、その手前に大和川に並行して小さな落堀川があってそこに合流していることがわかりました。

 

江戸時代の大和川の付け替えの際、地形的に直接合流させることが難しいためにそのような形になったことが書かれていて、それが現代にも生かされていることにまた江戸時代の土木事業の凄さが印象に残りました。

 

 

 

 

「水のあれこれ」まとめはこちら

散歩をする 502 藤井寺駅から周濠を訪ね歩く

古墳内にも村があったことに驚きながら、近鉄恵我ノ荘駅から藤井寺駅に向かいました。

ほんとうはその間にもいくつかため池や古墳があるので歩いてみたかったのですが、とてもとても時間も体力も無理そうです。

 

実は今回の大阪内の周濠を歩く計画を立てていた時はまだ古市古墳群と呼ぶことを知らず、「羽曳野のあたりの古墳が多い場所」とか「大和川左岸のため池と周濠が多い場所」の認識でした。

こうして思い出しながら散歩の記録を書くためにあれこれ読み直して、「百舌鳥古墳群・古市古墳群」であることを知りました。

 

藤井寺駅から土師ノ里駅までの間の古墳をいくつかつなげながら歩く計画です。

ところで土師ノ里(はじのさと)駅も、その読み方を全然覚えられなくていまだに「どし」と呼んでしまうくらい、古墳やその土木技術の知識がないままです。ただただ周濠とその周囲の風景、とくに田んぼと水路を見たいというニッチな趣味ですね。

 

 

藤井寺駅から古墳を訪ね歩く*

 

 

近鉄藤井寺駅で下車し、最初の目的地仲哀天皇陵を確認しようと地図を見たらありません。よくよく見ると、あの香芝市のガイドマップのように南北が逆さまに描かれていたのでした。その土地の生活上で何か理由があるのでしょうか。

 

ちょうど11時30分で、お腹が空きました。朝からだいぶ歩き、午後も古墳を回りますから商店街でお昼ご飯にましょう。ところが「11時30分開店」と出ているお店の前で待ってみましたが気配もありません。自転車で来た男性が、待っている私を見て「今日はやっていないみたい。あっちもお店があるよ(関西弁)」と教えてくれました。なんという心遣いでしょうか。こんなところが関西っぽいですね。

 

教えていただいたお店でしたが、「今はうどんの気分」だったのでそのまま古墳をめぐることにしました。

商店街を抜けて門前町のような場所の先は、古墳に向けて少し下り坂のようです。途中に酒蔵がありました。

仲哀天皇陵の古墳の森が見えましたが、空腹に負けて応神天皇陵へと向かうことにしました。

 

地図に水色のため池のような場所が描かれているのですが、そこには大きな船の形をした「アイセルシュラホール」という藤井寺市の建物がありました。ため池を利用して造られたのでしょうか。

そのあたりから水路や畑が残る住宅地になり、最近はどこでも散歩をしていて人と出会うことが少ないのですけれど、途中、けっこうな人とすれ違いました。

 

1月中旬、蝋梅や水仙が美しく癒されながら東へと少しずつ下り坂を歩くと、住宅地の中に庭のようにサンド山古墳があり、その先に住宅地内のロータリーかと思ったら蕃所山古墳で大きな木が生えていました。

 

応神天皇陵の周濠と田んぼ*

 

緩やかに下ると水路があって、国道170号線がバイパスとに分かれるのでしょうか、交通量の多い三叉路がありその先に応神天皇陵の森が見えました。

古墳の西側には水田があります。

田んぼのそばの水路が三叉路の下から流れてくる「誉田一号暗渠」に合流し、応神天皇陵の北側からいくつかの水路を合わせながら、最後は大和川へ合流するようです。

このあたりからは水田が多いのかもしれません。

 

応神天皇陵の北西は周濠のギリギリまで、80年代ごろの住宅地でしょうか住宅が建ち並んでいます。

途中、周濠のそばに近づける場所があり、案内板がありました。

史跡古市古墳群 応神天皇陵古墳外濠外堤(がいごうがいてい)

 応神天皇陵古墳(誉田御廟山古墳)は、5世紀前半に築かれた前方後円墳で、墳丘長約425m、後円部直径約250m、前方部幅約300m、高さは後円部頂上で約36mの規模を有します。墳丘長は百舌鳥古墳群仁徳天皇陵古墳(大山(だいせん)古墳)に次いで我が国第2位の規模ですが、墳丘の体積についてはこれを凌いで我が国第1位とも言われています。また、大規模な墳丘とともに二重の濠と堤を持ち、前方後円墳の巨大性と隔絶性が最も完成された姿を示しています

 この場所は応神天皇陵古墳の前方部の北西方向の外濠に相当し、前面に広がる樹木が繁茂している箇所は内堤に当たります。

 応神天皇陵古墳は小高い丘が広がっている所に位置していますが、その地形の高まりの範囲をはみ出した部分にも土を盛って、その上に墳丘が造られているようです。さらにこの場所に古墳を築造するために、そこを流れていた河川をも付け替えていることが周辺の発掘調査から推定されています。

 また、この場所から臨むことのできる内堤に置いて、初夏にヒメボタルが飛来している様子を観察できることもあります。

          羽曳野市

(強調は引用者による)

 

先ほどの水田は、二重の濠の外側だったようです。

周濠と水田から古墳にも関心が広がりその専門用語に少し慣れてきたのですが、「前方後円墳の巨大性と隔絶性が最も完成された姿」という意味はちょっと慣れないものでした。

 

ちなみに「誉田」は「ほまれだ」かと思ったら「こんだ」と読むようですが、これが付け替えられた川だったのでしょうか。

5世紀にはすでに「川を付け替える」ことが行われていたのですから、すごいことですね。

誉田一号暗渠の水路はそのすぐ先で大きく北へと曲がり、遊歩道が整備されていました。

その角のような場所に、もう一つ小さな「誉田円山古墳」がありました。

 

水仙の花が美しく咲き、古墳の森の静けさの中、そばにある東屋でしばらく休憩をしました。

5世紀ごろ、この辺りはどんな風景だったのでしょう。

 

 

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米のあれこれ 81 古墳の上にあった大塚村の幻の水路と田んぼ

JR南田辺駅から桃が池公園を訪ね、近鉄線北田辺駅に向う住宅地を歩くと駅の近くに古くからのアーケード街があり、10時前だというのにけっこう年配の人たちが自転車で集まってきて買い物をしていました。

ついついその雰囲気に混じってお店をのぞいて歩きたくなりましたが、先を急がなければなりません。

北田辺駅から近鉄線で南側へと戻って大和川を再び渡り、最初は河内松原駅で下車しました。

途中、「針中野」とか「瓜破(うりわり)」と興味深い地名に途中下車したくなりますが先を急ぎます。

 

河内松原駅の南東へと少し歩いたところに小さな水路があり、その先にため池があるはずです。

少し蛇行した古い商店街を抜けるとありました。「反正山水利組合」とあるので、パッと見た感じではわからないのですが少し小高い場所にため池が造られて、西の端に分水路がありそばに墓地がありました。

おそらく水田地帯だったのでしょう。私が子どもの頃だったら、稲穂が広がる風景を見ることができたかもしれませんね。

阪和自動車道の下を東側に向かうと、森が見えます。そこが次の目的地の河内大塚山古墳で、蔵のある古い立派な家々が残る住宅地を抜けると、目の前に周濠が広がりました。

 

周濠の北側を歩くと途中から道を隔てたところに水路らしきものがあり、北東の古墳の角のあたりから一段低いところにある住宅地を歩いて恵我ノ荘駅につきました。

 

 

*かつて古墳に集落があった*

 

河内大塚山古墳はかなり大きい周濠に囲まれていますが、Wikipediaには世界遺産には含まれていないとあります。

 

古墳のそばの案内にこんなことが書かれていました。

河内大塚山古墳(かわちおおつかやまこふん)

 河内大塚山古墳は、西大塚の東除川(ひがしよけがわ)西側に発達した、中位段丘面に築かれている。周濠を持つ巨大前方後円墳である。墳丘規模は全長335m 、前方部230m、後円部直径185m、前方部高4m、後円部高45mに及び、松原市内で最も標高が高い。

 墳丘主軸長では、日本列島第5位のトップクラスだが、築造時期を決める資料に乏しい。しかし、①前方部は平板低平で、やや不整形をとること。②埴輪や葺石(ふきいし)の存在がはっきりしないこと。③後円部に「ごぼ石」とよぶ巨石が存在するうえ、江戸時代後半の毛利家文書の「阿保親王事取集(あぼしんのうこととりしゅう)」(山口県立文書館)に「磨戸石(みがきどいし)」とよぶ巨石が18世紀後半の宝暦〜明和年間に見られたこと。④古墳内にあった石室材・石棺材と思われる竜山石(たつやまいし)や花崗岩が柴籬(しばがき)神社(松原市上田7丁目)などへ移されていること。

 このようなことから、横穴式石室が後円部につくられていた可能性があり、6世紀中葉から後葉の古墳と考えられる。

 中世には、丹下氏が古墳を利用して、丹下城を築いた。織田信長によって丹下城がこわされた後、江戸時代には前方部に大塚村が形成され、後円部には氏神天満宮(菅原神社)が祀られた。

 大正10年3月に国の史跡(昭和16年12月解除)となり、大正14年9月に陵墓参考地となったことから、昭和3年までに数十戸の民家は濠外に立ち退いた。

 6世紀時代の安閑(あんかん)天皇や、欽明(きんめい)天皇陵とする説があると同時に、墳丘未完成説も唱えられている。現在、宮内庁が管理する陵墓参考地である。

           松原ライオンズクラブ 2010.11   

(強調は引用者による)

 

なんと、江戸時代から明治時代にかけて、古墳内に村があったようです。

周囲には水田が広がっていたのでしょうか。

天皇陵の周濠の水が稲作に利用されていただけでなく、その古墳の上で暮らしていたとは想像もしていませんでした。

 

 

*おまけ*

 

あの7世紀ごろ、南河内の地溝開発で造られた狭山池からの東除川がこの段丘の下を通っていることがつながりました。

狭山池からここまでも数々のため池がありますが、当時はどんな風景だったのでしょう。

 

 

 

 

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