米のあれこれ 83 奈良平野の田んぼを横切り田原本町へ

「村屋坐彌冨都比賣神社(むらやまにいますふつひめじんじゃ)」のあたりで、大和川から離れて西へと水田地帯を歩く予定です。

当日なんとなく撮った写真に「中ツ道」という標識がありました。

南北に通る大和の古道の一つのようです。

 

2020年に久しぶりの奈良を訪ねた時には、奈良駅の周辺ぐらいしかわからず、しかも中学校の修学旅行と1980年代に友人と訪ねた法隆寺や薬事寺そして唐招提寺などもそこに集まっていると記憶違いしたままでした。

王寺から大和川を歩く計画で初めて法隆寺は離れたところにあったことに気づいたくらいです。

 

その法隆寺駅から大和路線に乗って10分の車窓からは、盆地の中心部に田んぼが広がる風景が続いているのが印象に残りました。

それなのに、いにしへより水に乏しい奈良だったとは。

ここ数年、奈良盆地の地図を拡大しては眺め、航空写真に切り替えては田んぼとため池がパッチワークのように中心部に広がる風景を眺めていました。ここを歩いてみたい、と。

 

そして、まるで平城京そのままかと思うように南北にきれいに道があります。どの道もまっすぐ北へ歩けば、平城京の中心部へと迷わず行けそうです。

「大和の古道」、今回初めてその道と水田地帯が重なって見えてきました。

訪ねるたびに、奈良盆地の地形や歴史が重層的を知ることができる楽しさですね。

 

 

*西へと水田地帯を突っ切る*

 

ため池のそばには集落や神社がありますが、全てを歩き尽くしたいもののそれは叶わないので、泣く泣く取捨選択してルートを決めました。

大和川右岸からの小さな川が合流するあたりに大きなお寺があり、こちら側には小さな地蔵堂があって伊与戸の集落へと曲がる道がありました。公園と林の向こうに灰色の屋根が揃っている美しい街並みで、醤油をつくる大きな蔵もありました。

 

西へと歩くと、広い水田地帯です。その先に少し高い土堤に囲まれているのがため池で、突っ切ることはできないので、北西へと直角に曲がりながら、次のため池を目指しました。

地図によると「大安寺池」で、ため池の手前には1970年代か80年代ごろと思われる住宅地の一角があり、ため池のそばには森市神社と公園がありました。

かつてはたくさんの子どもたちが遊んでいた公園でしょうか。水路はよく手入れされているようで、家々の前を流れています。

 

水の音に癒されながら北西へとただひたすら水田地帯を歩くと、県道50号線へと出ました。

ここから西へまっすぐ歩けば、近鉄橿原線田原本町駅のある街に出ます。

桜井駅の近くからずっと歩いてきたのでちょっと疲れましたが、やはり案外と奈良盆地は歩けるものですね。

 

南北に通る国道24号線を境に水田地帯が終り、寺川を渡ると昔からの街へと入りました。

地図で見つけた「魚町」を歩いてみたいと向かうと、広い辻のような場所に大きな説明板がありました。

田原本町・町村の歴史

大字 田原本(たわらもと)の概要

 

 大字田原本田原本町の中央部に位置し、寺川左岸にあり、近鉄橿原線田原本駅近鉄田原本線西田原本駅を中心に、東に国道24号線、西方に京奈和自動車道が通る交通の要所にあり、田原本町役場が置かれ、古代の下ツ道、中世以来の中街道を中心に商業の中心地として発展して来た正に、田原本町の政治・経済・交通・歴史・文化の中心地である。

 

大字 田原本の歴史

縄文時代

 約3500年前の縄文時代・後期に大字田原本の北西の保津・宮古遺跡、北の羽子田遺跡に人々が住み始めた。

 

「大字田原本には2500年の悠久の歴史がある」と縄文時代から鎌倉時代までの歴史がまとめられていました。

 

ちなみに「たわら もとまち」で区切るのかと思ったら、「たわらもと まち」なのですね。

地名から水田が広がる場所を想像していた通りではあるのですが、いつ頃からの水田なのでしょう。

 古墳時代の終り頃から飛鳥時代になって大字田原本から広陵町百済付近にかけて朝鮮半島百済系渡来人が多く居住し、彼らの持つ高度な土木技術によって新しく大規模な水田が開拓されていった。

気が遠くなりました。

 

現在のため池とそれをつなぐ水路のあの水はどこから来ているのでしょう。

吉野川分水がここでも使われているのでしょうか。

 

ため池と田んぼが広がる美しい奈良盆地の風景はまさにまほろば(素晴らしい場所、住みやすい場所)だと感動するのですが、わずか70年ほど前まで「大和豊年米食わず」の時代が続いていたことを考えると、いにしえの人たちはどんな思いで「まほろば」と表現したのでしょう。

 

ああ、なんだかほんとうに敵わないなあと思いながら、水路沿いに次の目的地へと向いました。

 

 

 

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散歩をする 503 三輪山と山々を眺めながら大和川を歩く

1月中旬、6時35分ごろに少しずつ山の端が明るくなり始め、数分で一気に明るくなって日が昇り始めました。

ちょうど大和川が山あいから流れ出てくるあたりです。いにしえの人たちもまた、三輪山大和川の流れ、そして日の出を心があらわれるような思いで眺めていたことでしょう。

 

2022年の晩秋の季節に万葉まほろば線沿いの山の辺の道と古墳を訪ね、大神(おおみわ)神社まで美しい水田や落ち着いた街を歩きました。その時に三輪山そのものを身体山としていることと、その神社の始まりを知りました。

いつかもう一度、この地域を歩いてみたいと思っていました。

 

いつもは距離感を間違えて歩けもしない計画を立ててしまうのですが、何度か奈良を歩くうちに案外と奈良盆地はこぢんまりとして歩ける距離だとわかりました。

 

それなら奈良盆地を南東から北西へと斜めに流れる大和川をいつか歩いてみたいと思っていました。

今回はどこまで歩けるでしょうか。

 

 

大和川へ*

 

8時半にホテルを出て、大和川の堤防沿いの道を目指しました。

小雪がちらついてきましたが、予報では晴れのはずです。

 

桜井駅周辺は車窓からは現代的な街の印象でしたが、少し離れるだけでうだつのある家並みが残っていたり、真冬だというのに水量の多い水路があります。たどると、三輪から大和朝倉駅まで歩いた時に見たいくつかの取水堰や水路とつながりました。

このあたりもかつては水田地帯だったのでしょう。

 

美しい水路沿いに歩くと極楽寺の横に出て、県道の高架橋の下をくぐると大和川の堤防が見えてきました。灰色の屋根瓦が美しい古い落ち着いた街が残り、対岸の大鳥居が見えました。

 

堤防の道を、大和川を眺めながらただただ歩きます。

青空が見えてきたので、水面も灰色から青く映え始めました。

振り返ると三輪山が見え、大鳥居が見えます。前方には天香山と耳成山が見えました。

 

堤防にはサイクリングロードがあり「法隆寺」方面への表示がありました。ただひたすら大和川沿いに行けば、美しい水田地帯の広がる法隆寺のあたりにたどりつきます。

 

途中、大和川からの取水堰があり、大泉井堰樋管記念碑と彫られた石碑が建っていました。どんな歴史があるのだろうと気になりました。いったん大和川から離れてこの水路沿いに歩くと、1970年代ごろの住宅地でしょうか、その間を縫って流れる先にまた水田地帯が広がりしばらく歩くと、また大和川から取水された別の水路と並列して流れ、その先に分水路がありました。

それほど水量が多くなさそうな大和川から、何本もの水路が複雑に左岸側の水田地帯を潤しているようです。

後ろを振り返っても、さすがに大神神社の大きな鳥居が見えなくなりました。

 

古い屋敷と竹藪の間に水路が流れ、水路の中に白鷺がたたずんでいました。驚かさないようにそっと歩いたのですが、飛び立ってしまいました。

白鷺や青鷺は田畑の近くで人間と共存しているようでも、やはり警戒されているようです。

 

天満宮のそばからまた大和川沿いへと戻りました。

ゆったりと、ゆるやかに蛇行しながら流れる大和川の向こうに遠く生駒山が見えました。

ほんと奈良盆地というのは周囲の山々が近く、そしてさえぎる建物も少ないので空が大きく広く感じますね。

 

ちょっと歩き疲れた頃に、市杵島(いちきしま)神社のそばの川沿いに東屋がありました。

大和川(初瀬川)くつろぎの空間

 大和川(初瀬川)は、古来より私達に水を湛えた歴史ある河川で、未来に続く大切な場所です。みんなでルールを守って楽しく利用しましょう。

 

東屋の中のベンチに座って、しばらく川面を眺め静寂な時間を過ごしました。

青空に白い雲が流れていきます。ここからは遠く若草山が見えました。

本当にダイナミックな奈良盆地の風景ですね。

 

大和川はこの少し先でほぼ直角に西へと流れを変えるようですが、「大西」という地名と関係があるのでしょうか。市杵島神社のそばのこの集落を歩いてみたくなりました。古い街並みも残り、家々の木の香りでしょうか、良い香りがします。

 

また大和川沿いに出て、たくさんの白鷺がいる場所に堰があり、その先の水が少なくなりました。

あちこちで大和川の水が水田へと向かうようです。

 

ただただ水田の続く先に大きな鎮守の森が見えてきました。

今回の大和川沿いの散歩はあのあたりまでの予定です。

「村屋坐彌冨都比賣神社(むらやまにいますふつひめじんじゃ)」、読めないまま訪ねました。

 

鬱蒼とした境内は人影もなく静かです。

参拝したその時に、緊急地震速報の有線放送が聞こえてきました。

わあ、誰もいないこの場所で客死したらと少し動揺しながらあたりを見ると、何か作業をしている人の姿がありましたが驚く様子もありません。

しばらくすると、近くの小学校から防災訓練の放送が聞こえてきたのでした。

ああ、びっくり。

 

なんとか無事にここまで歩けたという安堵感もひとしおです。

おおむね奈良盆地大和川の3分の1ぐらいを歩いたでしょうか。

 

ここからは大和川左岸の広大な水田地帯をまっすぐ西へ歩き、田原本町駅の方へ向かいます。

 

 

 

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小金がまわる 39 ICカードとそのモバイルICは「別物」

昨年、PASMOやSuicaが半導体不足で新規購入が中止になりました。

「十数年使っているからそろそろ買い替えておこう」と直前に購入したのは虫の知らせだったのでしょうか、幸運でした。

あれから今も販売再開のお知らせは見かけません。

 

もし購入しないまカードが壊れてしまったら、否応なくモバイルPASMOになっていました。

 

こんなことを書くと、デジタルを面倒がって使わない人のように思われてしまいそうですね。

どちらかというとまだリスクの方が未知数なのに、ここ10年ほど「機械を使いこなせない」「新しいものを取り入れようとしない」と見られることへの葛藤が大きくなりましたからね。

 

 

*現金と借金*

 

あれこれ考えているうちに、そうだ「ICカード」と「モバイルICカード」は別物だと、至極当たり前のことに気づきました。

 

ICカードは2万円の上限がありますが、チャージすれば現金そのものの価値があります。

そのチャージも現金で可能です。

 

ところがモバイルICカードは全く同じように見えて、必ずクレジット会社を通さなければ決済されないですし、チャージもまた同じ。

つまりそこにチャージされている金額は「私のもの」のようで、実は一時的にクレジット会社から借用しているものである。

 

一見同じ「キャッシュレス」でも、ICカードそのものでお店で支払いをするのは自分の現金をその場で使うのと同じですが、モバイルだと「クレジットを使って支払う」ことになって全く「キャッシュレス」の意味が違うのだと。

 

ただし、ICカードを利用できる各鉄道・バス会社や店舗は決済会社を通さないとその売り上げを得られないのでしょうが、少なくともこちら側には手数料は不要で現金と同じです。

 

 

私の20代からの「少ないかどうか、額にかかわらずローン(誰かが一時的に立て替える)を抱えない、できるだけその場でお金を支払い終える」という信念からすると、日々の交通費まで借金の形式での支払いを増やしたくない、だからモバイルPASMOモバイルSuicaに抵抗があるのだと最近はっきりしてきました。

ですから、最近はごく限られた通販の支払いのみクレジットを利用しています。

 

ところが最近は国が「クレジット会社を通したキャッシュレス社会」を進めているのはなぜなのでしょう。

 

こまごまと食品やら日用品やら交通費をキャッシュレスにしてクレジット会社を通さずにいられないのは、お金を移動して手数料で成り立つ業種には利益があることでしょう。

まるで人を駒のように動かしてその手数料で成り立つ仕事と同じかもしれないですね。

 

それが社会に必要な部分もあるけれど、実業と虚業の境界線がちょっとずれてきた時代を表しているのかもしれないですね。

 

スマホを使い始めて13年ほど立ちましたが、その便利さを楽しむとともにあまりはまり込まないように使い分ける機械だと最近は思うようになりました。

 

 

 

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生活とデジタルについての記事のまとめはこちら

 

 

生活のあれこれ 42 だまし合うような社会になった

今回の散歩の3日目は、奈良県内の大和川沿いに歩いてみようという計画です。

1月中旬、奈良盆地は1度ですから予想よりは「寒くなさそう」でした。

 

大和川が流れ出る山の方からの日の出を待つあいだにテレビを見ていると、「トランプ優勢」のニュースが流れてきました。まだ「同志」のはずの党内での候補者選びの段階らしいですが、幼稚で汚らしい言葉で罵り合う大統領選挙と同じようでした。

もしかして、二大政党制というのは結局「好きか嫌いかが、正しいか間違っているかに」に収斂されていくシステムかもしれないと漠然と感じました。

 

国内では「自民7人不起訴」のニュースに、「着服しても罪に問われないどころか議員でい続けられる方法ができてしまった」とメモしていました。

あれから3ヶ月も経ったのに、なんだか相変わらずのらりくらりと罪から逃れよう国会議員でい続けようとするだけでなく、策士の正体とその人間関係が見えてきたというのに、国会議員は恥ずかしさを感じない人たちの集まりになったのかという絶望感ですね。

ほんと、裸の王様に服を着せるのは難しいようです。

 

政治家を家業にしてしまう人たちを生み出す「選挙で議員を選ぶ」という方法が、民主主義だと思い込まされてきたのかもしれない。

そして自由とか民主とか名乗る人たちが独裁的に独占的に富を得ようとするのが、資本主義とか自由主義だと思い込まされてきたのかもしれない。

そんなことを思いました。

 

 

*政治家だけでなく騙してお金を稼ぐ風潮*

 

 

さて、早朝のBSはどの地域でもほとんどが「しわやしみ」「足腰の痛み」と不安をあおりものを買わせるものばかりで、相変わらずのテレビのあちらのシュールな世界です。

 

こういうものには「嘘くさいなあ」と感じられるのでまだ自分を守ることはできているのですが、やっかいなのがニセメールなどを見分けることですね。

「もうじき手続きができなくなるからこのメールを開け」といったものが、この数年格段に増えました。

最近は銀行を語ったものまできます。あるいは「配達に行ったが不在だったので、こちらに返信してください」といったショートメールも。

あの手この手でよく考えつくなと思うのですが、まずはこちらも一呼吸おいて怪しいものには対応しないようにしています。

 

こうした個人情報を流してそれを利用する犯罪的な「仕事」に関わる人が増えていることに、せっかく勉強してもその「賢さ」をもっと真っ当なことに活かせず、犯罪で人生を棒に振る人が増えているのではないかとそちらが心配になりますね。

 

デジタル社会の便利さの反面、個人情報を守ることと新たな犯罪のイタチごっこに生活の中でのストレスが急激に増えたというのに、国が率先して得体の知れない身分証明証を強制的に使わせようとするのですから、ほんと何をしたいのか。

 

本来ならこうした社会の問題に対応するのが政治家のはずなのに、政治家そのものが手っとり早くお金を手にいれることを国民にさせる時代になりましたね。

あげく、ポイントやら投資やら真っ当とは言えない政策で国民の生活を惑わし、政策の失敗は認めずそのつけを人が働いて得たものをむしり取って帳尻を合わせようとする。

 

ほんと、ひどい世の中になってしまいました。

 

いやいや。それでも古代から「国の病気」を乗り越えて少しずつ国を造ってきた先人たちのすごさを、今日も川沿いを歩きながらきっと見出すことでしょう。

そう思いながら、大和川へと向かったのでした。

 

 

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あの日(2022年7月8日)から考えたことのまとめはこちら

マイナンバーとマイナンバーカードについての記事のまとめはこちら

 

 

 

 

水のあれこれ 351 奈良盆地で一本の大和川になり大阪平野へ

今回の3泊4日の前半の2日間百舌鳥古墳群から古市古墳群、そして大和川の付け替えが行われた場所のあたりまで歩きました。

事前に航空写真で確認していた時には大阪側の周濠の付近にはほとんど水田がないことがわかっていたのですが、実際に歩いてみても周濠の水面には心が惹かれるものの、用水路や水田の痕跡がほとんどない風景でした。

 

近鉄安堂駅から近鉄大阪線に乗ると水田の広がる奈良へ「早く帰りたい」という気持ちになり、山あいに入り府県境を越えるとすぐに奈良平野が見えて全く違う風景になりました。

この先にあの吉野川分水西部幹線水路が潤す田んぼが広がっています。

そして近鉄五位堂駅を過ぎると見える高台にはるばる吉野川から取水された水をさらに奈良盆地の西側へと分ける香芝の円筒分水工を感じながら、川や用水路が張り巡らされため池や水田があちこちにある風景です。

 

耳成山のそばを通り、三輪山が近づき、桜井駅に到着しました。

散歩の3日目は奈良盆地大和川沿いを歩く予定です。

 

 

奈良盆地大和川から大阪平野大和川へ*

 

大阪から奈良盆地へと向かうには、北から近越けいはんな線近鉄奈良線、JR大和路線近鉄大阪線そして近鉄南大阪線とありますが、大和川の説明を読むと、それらの路線の車窓から見える奈良盆地の川や水路はすべて大和川へと流れ込むのだと改めてわかります。

 

 奈良県笠置山地を源流とする大和川の幹川流路の延長は、68kmです。上流部では初瀬川と通称され、初瀬ダムをさらにさかのぼったところに源流位置があります。この初瀬川が奈良盆地に下ると、盆地にある多くの河川が次々と合流しながら西へと流れて行き、やがて奈良盆地を出る頃には1本の川にまとまります。これが本流「大和川」です。そして生駒山地金剛山地の間の谷部を抜けて大阪平野に出て行きます。

(「Web 風土記 ふじいでら」、「藤井寺市の川と池 ー大和川ー」より)

 

奈良盆地を出る頃には1本の川にまとまります」

これが2020年に訪ねた王寺のあたりの大和川です。

たしかに地図で奈良盆地の西側に1本の川として描かれているのですが、その後奈良盆地を頻繁に訪ねて歩くようになって、奈良盆地の小さな川から水路まで全てが集まってきていることを実感するようになりました。

そう、車窓の風景に見合える水路や川は全て大和川水系なのですね。

 

その1本の大和川は府県境を越えると石川を合流して大阪湾へと流れているのですが、かつては柏原のあたりで北へと向かい、いく筋もの旧大和川に分かれて淀川へと合流していた様子がその流路図でわかりました。

 

山の向こうの奈良から1本にまとまって流れてくる大和川に対して大阪平野側の治水や流路変更の歴史を少しずつ知ると、古墳内の村やその周囲の田んぼなどかつての田園風景を思い描けるようになってきました。

 

大阪平野大和川と旧大和川のあたりを眺めていると、また水路を訪ね歩きたくなってきました。

そしてかつての河内湾や潟の痕跡も。

山を境に風景が異なる大和川水系の、その歴史を歩き尽くしてみたいものです。

 

 

*おまけ*

 

多くの大河川は都道府県境を越えると川の名前が変わることが多いのですが、大和川は府県境を越えてもそのまま大和川で、しかも付け替えが行われたあとも「大和川」と呼ばれてきたようです。

それぞれの時代に、それぞれの地域でどんな思いでこう呼んできたのでしょう。

 

 

「水のあれこれ」まとめはこちら

 

水のあれこれ 350 「水路の下を水路がくぐる」

玉川上水への関心から都内の川や水路ぞいを歩くようになった頃、次はどこを歩こうかと地図を眺めていて川と川が交叉している場所に目が行くようになりました。

最初はそのどちらも最後は海へと流れ着くのだろうと思っていたところ、二ヶ領用水のように、一方は多摩川からの取水で、もう一方は多摩川へ流れる水色の線もあることを知り、ますます目が離せなくなりました。

 

二ヶ領用水は江戸時代に造られたにしても、そこに水路を交差させるなんてマジックのような技術は近代以降だろうと思っていたところ、江戸時代にはすでに掛樋や伏越という技術があったことを見沼代用水沿いを歩いて知りました。

 

ほんと江戸時代は決して遅れた時代ではないし、その高い技術や知識を当時の農民自体が持っていたようです。

 

 

*大水川の「川の下に川!」*

 

目立たないけれど重要な川である大水川(おおずいがわ)にも旧大水川と交叉する場所があるそうで、「川の下に川!ー交叉する新旧の大水川」という説明があります。

この「川の下に川!」の表現に、あんがい私もいい線を気づいていたと満足したのでした。

 

大水川に旧大水川が暗渠で交叉しているのは内水氾濫を防ぐための昭和40年代の改修時のようですが、続けてこんな文章がありました。

「水路の下を水路がくぐる」という構造は、昔から各地で用いられてきました。江戸時代から続く構造が各地に現存しています。それほど農業水利の管理は農作地帯にあたっては重要な課題であったことを物語っています。

(「Web 風土記 ふじいでら」「藤井市の川と池ー大水川」)

 

 

そして「藤井市の川と池ー大和川」では、当時の農民の知識や土木技術について書かれていました。

土と水に頼って生きる農民の知恵

 以上のような技術的な対応策や設計上の工夫は、現代の私たちが想像する以上に綿密で優れたものであったと言ってよいでしょう。付け替え推進運動の中心となった中甚兵衛の子孫である中家には、大和川の付け替えに関する膨大な文書が残されています。それらの中には、実に多くの手間を掛けた綿密な調査記録や、新大和川の流路予定地に関する正確な測量図、細かい計算を経て作成された勾配図など、現代にあっても専門家でなければ製作は困難と思われるものが多数存在します。当時の農民層が持っていた治水・土木の知識や技術の水準には驚かされます。もともと何よりも用水が重要なものであった稲作農民にとっては、安定した用水確保のための治水の知識や土木技術は必須のものであったことでしょう。行政・司法の官僚として奉行所に勤める幕府役人よりは、こと治水・土木に関しては農民層の方が上まわっていたのではないかと思われます。

(強調は引用者による)

 

まさに、まさに。

そして最後の一文は、現代でも農業だけでなくさまざまな分野で当てはまりそうですね。

 

 

次に訪ねる地図の中の「水路の下を水路」には、どんな歴史があるのか楽しみになってきました。

 

 

*おまけ*

 

航空写真にしてみてもほとんど周囲に水田が残っていない百舌鳥・古市古墳群の周濠や大阪府内の大和川沿いは奈良県とは対照的で、今回の散歩に出かける時には正直なところあまり期待はしていませんでした。

なんといっても全国津々浦々の水田は健在な風景を見るための散歩ですからね。

ところが帰宅してからこの資料を読んで、見ていた風景の記憶が一変しました。

 

現在はすでにない水路や田畑の風景が見えてきて、また歩いてみたい場所が出てきました。

 

 

 

 

 

「水のあれこれ」まとめはこちら

利根大堰・見沼代用水・武蔵水路葛西用水路の記事のまとめはこちら

専門性とは 12 答えを急がない

大阪から奈良へと大和川をたどった散歩でしたが、散歩を終えた時点ではまだ大和川の歴史の全貌が見えるような資料には出会えませんでした。

川や用水路からその地域の歴史をとらえるような視点は少ないのでしょうか、数少ない貴重な川の資料館さえ閉館してしまう時代です。

 

ところが、私の地図では名前さえない小さな川の資料から、大和川の歴史の全体像がわかる資料に出会いました。

 

大和川の付け替えの歴史だけでなく、三国ヶ丘という見晴らしの良い場所のそばに大和川の河口があるのは、そこが泉北(せんぼく)台地と上町(うえまち)台地のちょうど間だということもこの資料の中の地図ですぐにわかりました。各地の放水路と同じですね。

 

また大阪府内の鉄道網が複雑で、駅が交差していないと乗り継ぐために天王寺まで戻るか駅間を徒歩で移動する必要がある理由も、この資料で漠然とですが見えてきました。

路線が西側に集中していて東側は「疎」なのは、西側が台地であり東側はかつては河内湾から潟になりそして水田地帯になった場所だったこと、そして大和川右岸でJR大和路線近鉄大阪線がV字で通っているのはそこが天井川だった旧大和川の流路に沿った地域らしいことも見えてきました。

 

そして大和川付け替えまでの紆余曲折だけでなく、現代にもどのような影響があるかまでそこに生活する人の視点で網羅された内容に圧倒されました。

 

どんな方がこの資料を書かれたのだろうと思いながら読むと、最後に書かれていました。

私にとっての「大和川の付け替え」

 

大和川の付け替え」の教材化

 「大和川の付け替え」については、私の胸中には特別な思いが存在します。と言うのも、50年近く前の1972(昭和47)年度、私が所属していた市の小学校教育研究会部で「大和川の付け替え」の教材化に取り組んだ体験があったからです。教師3年目のまだ新米の頃でしたが、各校から集まった部員が協同で調査・研究の作業に力を注ぎ、まとまったカリキュラムと学習資料を完成させたことは、今でも貴重な経験として強く印象に残っています。

(「Web 風土記 ふじいでら」、「藤井市の川と池」)

 

私が小学生から中学生の頃、教科書にするために始まった資料作りだったようです。

 

昭和53度版の教科書から掲載されたもののその後教科書会社が撤退したそうで、「教科書と言えども、売れてなんぼの出版業界ですから、編集企画や教材事例の選択は重要な要素でした」とあっさり書かれている胸中はいかばかりでしょうか。

 

 教科書執筆にしても、資料集編集にしても、膨大な時間と手間を費やして取り組みました。今となってはよい体験、よい思い出ですが、当時を振り返ってみると、少しでも良い教材を提供したい、その一心でエネルギーを注ぐことができたものと思います。

まさに世の中はそこに暮らす市井の人の正確な記憶と記録によって成り立つものだと、先人の記録に圧倒されました。

 

おそらく半世紀ほどの間、「わかったと思ったら、またわからなかったこと知らなかったことが増え」て、資料の内容も見直されたり充実していったのではないかと想像しました。

 

 

*何をどのような視点で伝えるか*

 

あちこちを散歩すると、たとえば石碑の難しい漢文をなんとなく読めるのも、歴史上の人物関係を覚えるのは不得手で歴史が嫌いだったのにそれが今になって資料を読むのに役立つのも、学んだことが生かされているから理解できたのだと思うこともたくさんあります。

 

膨大な歴史をどのように子どもたちに教えるか、これもまた大変な作業ですね。

 

この大和川の資料の中で、そうそう、私もそう思っていたと頷首した箇所がありました。

 明治政府以来、徳川支配の江戸時代をことさら遅れた時代だったとイメージ化させようとする日本史教育が続いていました。私の中にも小学生以来そのようなイメージが出来上がっていました。しかし、実際の江戸時代の文化・学術の水準は、私の想像をはるかに超える高いものでした。近年、江戸時代の暮らしや文化についての関心が高まり、江戸時代そのものの見方、捉え方を見直そうとする動きも盛んになってきました。江戸時代の庶民の識字率の高さは、世界的に見ても相当高いものであったことが知られています。寺子屋の普及率もかなりのものでした。それらがあってこそ、明治に入ってからの急速な近代化や西洋文化の受容が可能であったのです。決して、明治期になったとたんに近代的進歩が始まったわけではありません。私たちは、先人達の残した歴史をもう少しつぶさに知る必要がありそうです。

 

江戸時代どころか佐賀の干拓をはじめ稲作のために干拓したり、ため池や周濠や水路ををつくったり、それが十数世紀ののちにも存在していることにも圧倒されます。

 

江戸時代には利根川やこの大和川が付け替えられ、見沼の田んぼを初め各地で新田開発が行われていますが、この「土地づくり」と「川の付け替えによる治水・利水の技術」がなければ明治時代に入って工業化は成し得なかったことでしょう。

 

何より公共事業の基礎になる概念が行基さんの時代にはあったからこそ、明治時代には「人類の為に」という雰囲気になり、新たな技術や知識を外国から吸収できたのだと思うようになりました。

 

最近のハリボテの政治家ばかりに将来が不安になっていましたが、こういうさまざまな分野の真の専門家が各地にいるのだと希望の光が見えてきたのでした。

すごい先人の記録に出会えました。

 

 

 

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あの日(2022年7月8日)から考えたことのまとめはこちら

行間を読む 205 「堤防を歩きながら、1本の川をめぐる多くの先人達の願いや苦悩に思いを馳せる」

昨年9月に7世紀の南河内の地溝開発と1704年の大和川の付け替えを知ったあと、どのあたりがどのように変化したのだろうと地図を眺めては地名や現在の水路や川から想像していました。

Wikipediaの「大和川」に「治水・流路変更の歴史」がまとめられているのですが、大阪の土地勘がないので地図を重ね合わせてもわからないままでした。

 

今回の散歩で目立たないけれど重要な大水川の11ページもの説明の中に「大和川藤井寺市の川と池ー」へリンクがあったので開いてみると、なんと19ページにも及ぶ大和川付け替えの資料がありました。

 

過去から現代へ、大和川の流れ方、地形、それぞれの地域への影響などがくまなく書かれていました。

 

川の説明でこんなに詳細に書かれたものを初めて目にしました。詳細でいて全体像を見失うことなく情景が浮かぶ、わかりやすい説明です。

そしてあちこちを歩いて知った川や水路の歴史をたどろうとしても、歴史というと著名な武将の視点からの歴史はたくさん書き残されているのに、川や農業の要であった水路やため池の歴史がまとめられたものは少ないものです。

この資料は正確な地理から歴史まで、川とそこで生活する人の視点から描かれていることに圧倒されました。

 

 

*旧大和川だった地域*

 

奈良盆地から生駒山地金剛山地の間を抜けて、すぐに北へと流れを変えていた旧大和川のその先はあの巨椋池(おぐらいけ)のように広い湿地のような場所だったのだろうかと想像していました。

 

この資料の説明と図から、大阪へ出るとすぐに北へと向きを変えていた旧大和川は扇状に分かれながら、巨椋池よりももっと広大な地域を流れていたようです。

川の付け替えが必要だったのは、旧川筋が昔からしばしば洪水を起こし、流域の村々に大木は被害をもたらしてきたからです。旧川筋は、長年の間に天井川となっていて、ひとたび氾濫するとたちまち一帯が水びたしとなり水が引きにくいという流域でした。大阪平野、特に河内平野と呼ばれる旧川筋流域を安定した農作地帯にするためには、大和川による洪水を防ぐ治水対策が何としても必要でした。

(「Web 風土記 ふじいでら」「藤井寺市の川と池〜大和川〜」「人工の川ー藤井寺市大和川」より)

 

現在の大阪城から淀川両岸のあたりの「河内平野」はかつては海、そしてだったようです。

生駒山地上町台地の間の河内平野は、「古代の大阪湾」とも言える「河内湾」という内海でした。縄文時代のことです。やがて弥生時代の頃には「河内潟(がた)」となり、さらには「河内湖」となりました。北からの淀川、南からの大和川、2つの川が運んでくる砂によって、だんだん小さく浅くなっていったのです。

(同上、「宿命の川ー砂で埋まる川」)

 

ああ、だから「河」「内」なのでしょうか。

 

 

 

*「川の付け替え」が決定されるまで*

 

この資料の隅から隅までただ圧倒されるのですが、中でも川の付け替えに対する賛成・反対の立場の意見まで網羅されていたことでした。

 

 洪水の原因が、もともと川の地形のでき方にあるのであれば、川そのものの在り方を変えるしかないということになります。つまり、洪水を起こす川を無くして、代わりに洪水を起こしにくい川を新たに造るという考えです。そう考えた人々の中から「大和川を付け替えたい」という願いが広がっていきます。現在中河内と呼ばれている地域の庄屋たちが中心でした。中でも、今米村(現東大阪市今米)の庄屋であった甚兵衛(じんべえ、後に苗字帯刀を許されて中甚兵衛)は、付け替えを願う人の中心となって長い期間に渡って大きな役割を果たします。

「中甚兵衛」、大和川治水公園の説明板で知った名前です。

 

 一方では、甚兵衛達の動きに対応して、川の付け替えに反対の考えを持ち、奉行所に対して逆に付け替えをしないように願い出る人々がいました。甚兵衛たちの計画で新川の予定地となっている場所に関わる村々の農民たちです。付け替えが実現すれば、農地が新川の川ゆかとしてつぶれ地となってしまう村、農地は失わないが大和川の流路が関わることで新たな危険や不利益を被ることになる村々など、多くの村が反対の動きに加わりました。後に、実際に多少なりとも農地を失うことになった村は40カ村にも及びました。

 甚兵衛達が奉行所に嘆願書を提出すると、反対の人たちもすぐに多数の村々の連盟で嘆願書を提出するという、お互いの願いがぶつかり合う激しいものとなりました。大きな開発公共事業を巡って推進派と反対派が対峙するという、現代にもよく見られる構図ができてしまったのです。現在と違うのは、事業の決定者は幕府であり、それも一方的に決定する権力を持った支配者だったということです。

こうした激しい紆余曲折が半世紀ほど続いた後、大和川が付け替えられたそうです。

 

それによって大きな洪水はなくなったそうですが、「偉業の物語」では終わらないところがこの資料でした。

大和川の洪水を防ぐ」という付け替えの最大目的は達成されましたが、大和川という大きな川の流れを変えたことで、付け替えの後、様々な問題が起こりました。中には、300年後の今でも続いている問題でもあるのです。これらの問題のほとんどは、かつて付け替えに反対した村々の農民達が嘆願書の中で反対の理由として指摘していたことでした。付け替えの後に、次々と現実のものとなっていったのです。もともと反対派の農民達が指摘していたことは、川の実態や農業水利、地形(土地の高低)などに基づいて予測され、相当高い合理性を持つものだったのです。

それについて具体的にいくつか挙げられています。

 

昔の人たちもまた「公共のためとは何か」という正解のない葛藤に対峙してきたことが書かれていて、公共事業の歴史を知らずに批判から入っていたことをまた恥入りました。

 

大和川の説明の最後にこうまとめられていました。

大和川の堤防を歩きながら、1本の川をめぐる多くの先人達の願いや苦悩に思いを馳せてみるのも、また、一つの歴史の楽しみ方ではないでしょうか。

 

まさに。

こういう思いからまとめられているから、この資料に惹きつけられたのだと思いました。

「大水川(おおずいがわ)」を検索していなければ出会うことがなかったのですから、幸運でした。

 

 

 

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記録のあれこれ 173 大和川の付け替えと250年記念碑

近鉄南大阪線土師ノ里(はじのさと)駅についた時には空腹の限界でした。店はあっても閉店していたり、頭の中では「腹が減った」の音楽が流れているのに、さすがの五郎さんでも見つからないと思うほど食べるところに出会いませんでした。

 

予定を変更してこのまま南大阪線で奈良へ向かおうかと思いましたが、やはり今回の目的のひとつは大和川ですからね。

土師ノ里駅の次の道明寺駅道明寺線に乗り換えて大和川を渡り、柏原南口駅で下車してもう一ヶ所頑張って大和川沿いを数百メートルほど歩き、近鉄大阪線安堂駅から奈良へ向かうことにしました。

地図には何も描かれていないのですが、この辺りが大和川付け替えの場所のようです。なかなか詳しい資料に出会わないのですが、せっかくきたのでその場所を歩いてみようと思いました。

 

大和川治水公園があった*

 

大和川にかかる道明寺線の鉄橋を渡ってすぐに柏原南口の駅があります。「道明寺線の橋梁が『土木学会選奨土木遺産』に認定されました」と説明がありました。たった3つの駅を結ぶ不思議な路線ですが「近鉄の路線の中では最も歴史が古い」(Wikipedia)ようです。

 

国道25号線を渡って、大和川の堤防の上に立ってみました。ここから下流は傾斜がほとんどわからないような平地ですが、すぐ上流は渓谷のような場所をJR大和路線が川沿いに通過する場所です。

山あいから出てきた流れが北へと向かう方がなんだか不自然に見えるぐらい、かつてはここで大きく向きを変えていたようです。

 

国道25号線沿いに安堂駅の方向へ歩くと、途中、何やら堤防上の歩道が公園のようになって大きな石碑が見えました。「大和川治水公園」でした。

 

「西暦1703年代大和川流域の図」と「大和川付けかえと中甚兵衛(なかじんべえ)」という銀のプレートもあります。

 河内平野を幾筋もに分かれて淀川に注いでいた大和川が、今の姿に付け替えられたのは、元禄が宝永と改元された1704年のことです。工事は、わずか8ヶ月で完成しました。洪水に悩む地域のお百姓の訴えが実を結んだものですが、最初の江戸幕府への願い出から付けかえの実現までは、50年近くの月日を要しました。

 その間にも幕府は何度か付けかえの検分をしました。そのたびに新しく川筋となる村々から強い反対にあい計画は中止されました。しかし、3年連続して河内平野が全て泥海と化すような大洪水もあって、幕府は対策に本腰を入れ専門家を派遣、工事を行いました。この工事で、淀川河口の水はけは良くなったものの、大和川筋は一向に改善されず、川床には土砂が堆積して田畑より3メートルも高い天井川になってしまいました。

 しかも、幕府は付けかえ不要の方針を固めたため、依然洪水に悩む人々は、付けかえの要望が出来なくなり治水を望む運動の規模も、どんどん縮小してしまいました。しかし、多くの文書や絵図を作成して状況の改善と新田開発の有効さを訴え続けた根気と情熱が、幕府の方針を変更させたのです。

 この付けかえ促進派で終止運動の中心にあったのが代々の今米(いまごめ)村(現在の東大阪市今米)の庄屋に生まれた中甚兵衛で、同志の芝村・曽根三郎右衛門や吉田村・山中治郎兵衛の引退や死にもめげず、最後はたった一人で何度も奉行所に出向き工事計画を具申しました。そして、ついに力量を認められ実際の工事にも御用を仰せつかりました。また、その子九兵衛もそれを手伝ったと記録されています。

 甚兵衛、付けかえ時66歳。翌年剃髪して乗久(じょうきゅう)を名乗り、享保15年92歳の天寿を全うして亡くなりました。

 御墓は京都東山西大谷に、生地の旧春日神社跡には従五位記念碑が、またその北100メートルには生家の屋敷跡の石垣が残っています。

 

そばの大きな石碑は1954(昭和29)年の「大和川付替 二百五十年記念碑」でした。

大和川の流路を現在の如く一変した寛永元年の附替は永年にわたる郷土先賢の大なる努力の結實であり我国治水史上に輝く大事業である 大和川はもと大和盆地の諸水を集め亀瀬の峡谷を經て河内に入り石川を併せて柏原より西北に向い長瀬川玉串川に分流し玉串川は更に吉田川菱江川に分かれ深野池新開池の廣い沼澤に通じ西北に轉じて長瀬川と會し京橋に到り淀川と合流して海に注いだ 河内の流域一帯は土地低濕(しつ)のため水勢緩やかで土砂の体積夥しく河床が次第に本田より高くなり長雨ごとに堤防決潰し上代以来洪水相繼いだ 堤防を築き河床を浚えるなど應急の改修は度度行われたが根本的な治水の功を見ずして長い歳月が流れた 江戸時代に及んで水害愈々甚だしく大雨あれば氾濫して濁流襲い田畠流れ家屋没し非常な惨状を呈したので沿岸の村々は根本的な治水を切望した これに應えて今米村の川中九兵衛は芝村の乙川三郎兵衛 曾禰三郎左衛門らと協力し深く地形を研究して柏原より西に流れて直に海に入るよう大和川附替の急務を唱え幕府に訴願した 幕府は之を許さなかったが治水の根本策を樹てる必要を感じこれより度度役人を攝河の池に派遣して水域を實地踏査せしめその對策を検討することとなった 斯くして水害の根絶と新田の開發を説いて附替に賛成する者あり之に對して寧ろ河口を浚えるに若ずとして反對する者あり幕府の方針定まらずして新川豫定地の榜示が或は打込まれ或は引抜かれた 村々の間に附替賛否の論が沸き起こり激しい訴願が相繼いだ かかる間に先の人々は深い憂を抱きながら歿し幕府の瀬作も概ね河口の浚渫に傾いた この時今米村の中甚兵衛はよく先人の志を繼ぎ詳しく地域を調査し具さに得失を考究し窮境にあって少しも屈せず江戸に往來して益々熱心に附替を幕府に訴願し盡痺して己まなかった 代官萬年長十郎これに賛成し幕議ついに附替に決するに至った 元禄十六年十月二十八日幕府は大和川改修の令を發して役人を派遣し姫路藩らにこれが助役を命じて工を起こし一年の歳月を經て翌年寛永元年十月十三日この大工事は完成した ここに至って宿願全く達成せられ新大和川は西に流れて積年の水害そのあとを絶ち河床は開墾せられて廣い新田となり古川は用水川となって樋を設けよく田畠を潤して農業大いに興り嘗ての洪水の地変して近代文化の培養地となった 今や大和川附替二百五十年を迎え築留青地両土地改良區相議し記念碑を建てて先賢の功業を讃えるにあたり囑を承けてこの文を記する次第である

 昭和二十九年十月十三日  大阪府知事 赤間文三

 

 

大和川付け替えから今年でちょうど320年。

現代でも耐えられるような計画を立てたのはまさに「先賢」で、地道な調査と研究心によるものだったことを知りました。

 

予定を変更せずに立ち寄ってみて本当によかった、と思う記録が残されていました。

 

 

 

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米のあれこれ 82 幻の水田地帯が見えた

初めての場所を散歩する時には、地図を航空写真に切り替えて「田んぼはあるかな」と確認しています。

全国津々浦々の川や水路、そして水田が健在なことを記憶していくことが目的になってきました。

 

今回の3泊4日の遠出の前半に訪ねる場所は、残念ながら水田どころか畑もほとんどなさそうな市街地でした。

周濠からの水路もおそらくほとんど暗渠で、かつての水田の痕跡も見つけらなさそうです。それでも周濠の水面を眺め、どこかで水が流れているのを見ることができればまあいいかと思って出かけました。

予想通り、ほとんど水田も水路もありませんでした。

 

ようやく、応神天皇陵の西側の周濠の外側に細長く水田地帯があるのを見ることができました。

そこから大鳥塚古墳の横を抜ける時に少し水田がありました。

そこから丘のような場所へと上ると西名阪自動車道が通っていて、その北側の古室山古墳から仲姫命陵古墳へと向うと近くにはアパートに挟まれるように小規模の助太山古墳、中山塚古墳、八島古墳がありました。国府(こう)台地の中でも近鉄土師ノ里駅のあたりは高台のようで、駅まで登り坂でした。

 

西名阪自動車道の高架橋の下にも赤面山古墳があるのには驚きましたが、駅の真前にも鍋塚古墳の墳丘があります。まさに古墳群の中を歩いて駅に到着しました。

 

本当は、駅北側の允恭(いんぎょう)天皇陵も訪ねたかったのですが藤井寺でお昼を食べそびれたまま歩き、「どこでもいいから何かを食べよう」と空腹の限界に達していたので、このまま奈良へ向かうことにしました。

 

散歩の前半2日間はほとんど田んぼを見ることができませんでしたが、残る2日は奈良ですから、田んぼをひたすら歩くことができますからね。

 

 

*大水川(おおずいがわ)の水田地帯*

 

ところが帰宅して大水川(おおずいがわ)についての説明を見つけて、地図と重ね合わせながら読んだことでかつての水田地帯が見えてきました。

 

大鳥塚古墳のそばの水田地帯は大水川のすぐそばにありました。「八ヵ村」の古谷から沢田にかけての地域です。

「Web 風土記 ふじいでら」ではこう書かれていました。

 話を写真8に戻します。改修によって流路が途中から大きく変えられましたが、それには当然理由があります。写真14でわかるように、旧大水川の流域は水田地帯で大水川がどれだけ重要な存在であったかは、説明するまもないでしょう。昔の地図を見ても、大水川流域にはため池など存在しません。必要がなかったからです。

(強調は引用者による)

 写真で府道12号・堺大和高田線から北側を見ると、旧大水川の流路に少しばかり疑問が湧いてきます。なんでこんな曲がり方をしているのだろうか?そう思いませんか。自然にできた流路が、こんなに直線的な曲がり方になるはずはありません。もちろん人の手によって造られた流路です。直線的な流路は、水田の地割りに沿って造られたからです。この地域一帯は古代条理の地割りがそのまま残っている所です。写真でも、正方形の地割りの並んだその様子がわかります。この条理地割りに沿わせて、わざわざ流路をグニャグニャと曲げています。おそらくは、多くの田に水を配水しやすいように考えられた流路がこの形だったのでしょう。大水川からは、さらに多くの小さい水路で方々の田に水が入れられます。このような大水川の姿は、近世以前すでに出来上がっていたものと思われます。

(同、「変えられた大水川の流路ー曲がりくねった旧流路」)

 

大和川左岸の沢田から大井のあたりでしょうか。

土師ノ里駅の北側の国府台地が終わったあたりから、大和川にかけて水田が広がっていたようです。

昭和30年代以降ベッドタウンとして住宅地に変わり、現在は田畑がほとんどなくなったようです。

 

 

応神天皇陵のそばの小さな川から、かつての水田地帯が想像できました。

いつか歩いてみたいものです。

 

 

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