「村屋坐彌冨都比賣神社(むらやまにいますふつひめじんじゃ)」のあたりで、大和川から離れて西へと水田地帯を歩く予定です。
当日なんとなく撮った写真に「中ツ道」という標識がありました。
南北に通る大和の古道の一つのようです。
2020年に久しぶりの奈良を訪ねた時には、奈良駅の周辺ぐらいしかわからず、しかも中学校の修学旅行と1980年代に友人と訪ねた法隆寺や薬事寺そして唐招提寺などもそこに集まっていると記憶違いしたままでした。
王寺から大和川を歩く計画で初めて法隆寺は離れたところにあったことに気づいたくらいです。
その法隆寺駅から大和路線に乗って10分の車窓からは、盆地の中心部に田んぼが広がる風景が続いているのが印象に残りました。
それなのに、いにしへより水に乏しい奈良だったとは。
ここ数年、奈良盆地の地図を拡大しては眺め、航空写真に切り替えては田んぼとため池がパッチワークのように中心部に広がる風景を眺めていました。ここを歩いてみたい、と。
そして、まるで平城京そのままかと思うように南北にきれいに道があります。どの道もまっすぐ北へ歩けば、平城京の中心部へと迷わず行けそうです。
「大和の古道」、今回初めてその道と水田地帯が重なって見えてきました。
訪ねるたびに、奈良盆地の地形や歴史が重層的を知ることができる楽しさですね。
*西へと水田地帯を突っ切る*
ため池のそばには集落や神社がありますが、全てを歩き尽くしたいもののそれは叶わないので、泣く泣く取捨選択してルートを決めました。
大和川右岸からの小さな川が合流するあたりに大きなお寺があり、こちら側には小さな地蔵堂があって伊与戸の集落へと曲がる道がありました。公園と林の向こうに灰色の屋根が揃っている美しい街並みで、醤油をつくる大きな蔵もありました。
西へと歩くと、広い水田地帯です。その先に少し高い土堤に囲まれているのがため池で、突っ切ることはできないので、北西へと直角に曲がりながら、次のため池を目指しました。
地図によると「大安寺池」で、ため池の手前には1970年代か80年代ごろと思われる住宅地の一角があり、ため池のそばには森市神社と公園がありました。
かつてはたくさんの子どもたちが遊んでいた公園でしょうか。水路はよく手入れされているようで、家々の前を流れています。
水の音に癒されながら北西へとただひたすら水田地帯を歩くと、県道50号線へと出ました。
ここから西へまっすぐ歩けば、近鉄橿原線田原本町駅のある街に出ます。
桜井駅の近くからずっと歩いてきたのでちょっと疲れましたが、やはり案外と奈良盆地は歩けるものですね。
南北に通る国道24号線を境に水田地帯が終り、寺川を渡ると昔からの街へと入りました。
地図で見つけた「魚町」を歩いてみたいと向かうと、広い辻のような場所に大きな説明板がありました。
田原本町・町村の歴史
大字 田原本(たわらもと)の概要
大字田原本は田原本町の中央部に位置し、寺川左岸にあり、近鉄橿原線・田原本駅、近鉄田原本線・西田原本駅を中心に、東に国道24号線、西方に京奈和自動車道が通る交通の要所にあり、田原本町役場が置かれ、古代の下ツ道、中世以来の中街道を中心に商業の中心地として発展して来た正に、田原本町の政治・経済・交通・歴史・文化の中心地である。
大字 田原本の歴史
「大字田原本には2500年の悠久の歴史がある」と縄文時代から鎌倉時代までの歴史がまとめられていました。
ちなみに「たわら もとまち」で区切るのかと思ったら、「たわらもと まち」なのですね。
地名から水田が広がる場所を想像していた通りではあるのですが、いつ頃からの水田なのでしょう。
古墳時代の終り頃から飛鳥時代になって大字田原本から広陵町百済付近にかけて朝鮮半島の百済系渡来人が多く居住し、彼らの持つ高度な土木技術によって新しく大規模な水田が開拓されていった。
気が遠くなりました。
現在のため池とそれをつなぐ水路のあの水はどこから来ているのでしょう。
吉野川分水がここでも使われているのでしょうか。
ため池と田んぼが広がる美しい奈良盆地の風景はまさにまほろば(素晴らしい場所、住みやすい場所)だと感動するのですが、わずか70年ほど前まで「大和豊年米食わず」の時代が続いていたことを考えると、いにしえの人たちはどんな思いで「まほろば」と表現したのでしょう。
ああ、なんだかほんとうに敵わないなあと思いながら、水路沿いに次の目的地へと向いました。
「米のあれこれ」まとめはこちら。