つじつまのあれこれ 48 観光は虚業か実業か

昨年あたりからまたベネチアの名前をニュースで時々耳にするようになりました。

 

あの2020年の新型コロナ感染拡大で閑散としたベネチアからわずか3年ほどで今度は、人を制限し入場税まで払う状況になっているのですから、これだけの人を動かす「観光」恐るべしですね。

それでも検索すると、大手旅行会社をはじめベネチア行きのツアーがたくさんありますね。

 

やはりどこかへ行きたいという思いは世の中が混乱している時期にもありますから、私も2020年7月に国内の感染状況の動向を見ながら1泊2日の散歩を再開しました。先行きの見えない長い感染症との闘いになりそうでしたが、少しずつ付き合い方が見えてきたこともありました。

 

未曾有の感染症拡大で観光や飲食そして関連業者さんの大変さが聞こえてくる中、驚いたのが政府がこんな時に観光を勧める「GoToトラベル」をはじめたことでした。

今じゃないのに、それじゃないのにと、政府の感染症対策と「観光」への違和感を感じるようになったのがこの頃ですね。

 

 

*「アフターコロナの中で、どこまで回復したかー旅行・観光ー」*

 

「コロナ、観光」で検索したら経済産業省から上記の内容のレポートがありました。

「アフターコロナ」、最近のものかと思ったらなんと2023年5月12日付です。家族内感染が激増してまだまだ対応が大変だったのに「コロナは終わった」どころか「コロナはなかった」「今までの対策は無駄だった」といった批判がではじめて、急に社会の流れが変わったと感じた直後です。

 

その末尾には「経済産業省を代表した見解ではありません」と注がありますが、「Go Toトラベル」を評価しているようです。

 第3次産業活動指数から、鉄道旅客運送業と航空旅運送業について新型コロナの影響がなかった2019年12月からの推移をみますと、鉄道旅客運送業は、2020年5月を底にして"GoToトラベル"(実施期間:2020年7月22日から12月27日)の実施効果もあり緩やかな上昇傾向を見せ、新型コロナ前の2019年12月と比較して90%までに回復しています。

 一方、航空旅客輸送業は、2021年1月を境に緩やかな回復傾向が続いた後、2022年10月に始まった"全国旅行支援"の効果もあり、足元では新型コロナ前の2019年12月を15%ほど超えるまでに回復しています。

(強調は引用者による)

ああ、そういえば「全国旅行支援」もありましたね。

 

 第3次産業活動指数から、宿泊業と旅行業についてコロナの影響がなかった2019年12月からの推移をみますと、宿泊業は、2020年5月を底にして"GoToトラベル"実施効果から回復しましたが、第3波の感染拡大期(2020年12月から2021年1月)とともに低下し、第3波収束以降は緩やかな上昇傾向を見せて、足元では2019年12月を13%上まる水準まで回復していますが、内訳となりますホテルに比べて旅館の回復の足取りが重い傾向にあります。

2020年4月にはすでに宿泊療養でホテルを借り上げることが行われていましたが、それはこの数値にどう貢献したのでしょうか。

 

いずれにしても、"GoToトラベル”に瑕疵はなかったかのような報告ですね。

 

 

*実際には"GoToトラベル”は社会にどんな影響を与えたのだろう*

 

未曾有の感染症拡大でさまざまな考え方が混沌とする中、それでも感染症の専門家の方々が、疾病そのものがわからない中で多くの人の命や健康が脅かされる状況への対応に身を呈してくださっていた、しかも最初は見るに見かねて自主的な勉強会から政府への提言が始まった、そんなこの国の医療の末端で働くことができたことは幸いだったと思っています。

 

ただ、政治とか経済となると、社会に与えた「失敗」さえ認めないことが多いですからね。

混沌とするのは仕方がない状況の新型コロナの対応の中でもGoToトラベルについては本当にびっくりしましたが、こんな流れがあったことを「奔流 コロナ「専門家」はなぜ消されたのか」広野真嗣氏)を読んで知りました。

 官僚機構も忖度が働いたのか、諌める動きはなかった。

 首相肝入りのGo Toは厚労省内で「Go To ヘル」と揶揄されていた。政策をいったん止めた方がいいに違いないが、進言すれば自らのクビが飛ぶという自嘲の表現だ。

(p.115)

 

「人の移動で感染が拡大する」ことが当初からわかっていたのに、GoToだけでなく当初の水際対策など「観光」と「感染症」について見直そうという動きがあまり感じられないのはなぜなのだろう。

 

そんなことを考えながら観光「学」は何だろう、学問的にリスクマネージメントはどうなっているのだろうと思って読んで、納得しました。

観光学(かんこうがく)とは、観光に関する諸事情を研究する学際的学問である。ただし学問としてまだ日本では体系化されていないという研究者もあり、観光論、観光研究、ツーリズム研究と称される場合も多い。

 

1990年代ごろから「観光学科」を見かけるようになったのですが、学問として体系化されていない、そして社会全体への責任の体制がないあたりでしょうか。

 

「観光」これからどこへ行くのでしょう。

 

 

*おまけ*

 

どの分野でも怪しい話がまことしやかに「学問」の程をなして商売になりやすいのですが、「人を移動させる脳の働きに着目した人流学」(Wikipedia「観光学」)なんてあるのですね。

いやはや。

 

 

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行間を読む 206 最近の「観光」には「そこに住む人もよし」の視点がないのでは

昨日の記事は2週間ほど前にすでに下書きを書いていて、「住んでよし、訪ねてよし」に足りないものは何だろうと考えていました。

 

まあ、無理に「三方よし」にしなくてもいいのですけれど、あえて「観光業者もよし」(それで商いをする人)あるいは「観光政策を立てる人もよし」を入れないのは何かありそうと思いたくなる、昨今の政治状況ですね。

 

 

自治体までがその地域を「観光資源」として切り売りする時代*

 

さて、最近の「観光」に足りないものは「そこに住む(生活する)人もよし」の視点かなと思っていたところ、ちょうどこんな記事がありました。

 

『奈良の観光は、安い・浅い・狭い』マイナス面を三拍子で・・・こんな結論は誰が作った?奈良県観光戦略本部に聞くと

 2024年5月18日   MBSNEWS

 

 以前から、"宿泊客が少ない"などの課題が挙げられている奈良県は、観光戦略本部を立ち上げて、15日に初会合を行った。そこで委員らに示された資料には、奈良観光のマイナス面をはっきり示す衝撃的なキーワードが並んでいる。

結論『現在の奈良の観光は 安い 浅い 狭い』

これはどういうことで、誰が作成したのか。資料を読みとき、県の担当者に話を聞いた。

 

安い=観光消費額が少ない

奈良県を訪れる観光客は、一定数いる。コロナ前の2019年には全国19位(4500万人)、インバウンド客に至っては2位大阪、4位京都に続く全国トップクラスの5位(350万人)。

それにも関わらず、1人あたりの観光消費額5308円は、全国平均の9931円に大きな開きがある。

日帰り客の消費額、6年間平均を見ると、飲食費は1344円、土産代は1156円。入場料は369円。飲食費はランチ代+飲み物代程度か。

こうしたデータから圧倒的に「奈良観光は安い」ことがわかる。入場料の369円といったところから、県は体験やアクティビティなどの消費額はほとんどない、と分析している。

 

浅い=滞在時間が短い

奈良県で宿泊する客は非常に少ない、これは昔から課題に挙げられている。過去9年はほぼ46位、最高は44位で、最低は47位だ。

外国人訪問者数が全国5位に達した2019年も、外国人宿泊者となると全国24位に沈んでいる。

奈良を訪れた観光客の94%は日帰りを選ぶ。宿泊者の割合は6%、これは和歌山県の半分の値だという。

 

狭い=奈良公園周辺ばかり

人流は、年間通じて奈良公園エリアに集中。桜シーズンの吉野には人流のピークがあるものの、飛鳥、橿原、平城宮跡などほかの地域にピークはほぼない。

インバウンド客に限ると、なんと85%が奈良公園周辺だ。県は誘客イベントをするにしても、奈良公園周辺以外には、飲食店や宿泊先の受け皿環境がないとした。

また、観光客が来訪するのを待つ「大仏商法」の側面が否定できないとした。

 

結論を三拍子にしたのは奈良県自身だった

こうしたデータを基に、「現在の奈良の観光は 安い 浅い 狭い」の三拍子で結論づけられた。これを作ったのは、奈良県自身だった。

県の担当者によると、原案は観光戦略課が作成し、その後上司に上がるなど県としてまとめ上げていく中で、結論部分は『端的にまとまった、わかりやすい言葉が必要』という意見が出たという。

その結果、奈良県自らが『安い、浅い、狭い』の三拍子を打ち出した。『浅い』は『滞在時間が短く、深い魅力を知ってもらえていない』の意。ある意味自虐的にも聞こえるが、その心は、課題を明らかにしてテコ入れし、変えていこうとする姿勢のあらわれだという。

 

山下真知事『素材は良い、ポテンシャルはある』

初会合を終えた山下真知事は、奈良県について『素材は良い、ポテンシャルはある』と話した。

観光戦略本部は、2030年度の数値目標を、宿泊者500万人(273万人)、一人当たり観光消費額は6000円(4569円)などと定めて、これまでのように県全体を対象にしたプランニングではなく、各地の状況に合わせて、小さいところからはじめるという。

 

奈良の観光は『高い、深い、広い』に変わることはできるだろうか。戦略本部は、各地で観光地としての「磨き上げ」などが必要だとしている。

 

 

政争と動乱、飢饉と災厄を乗り越えてきた歴史や、「いにしえより水に乏しい」盆地の真ん中に広々と水田地帯が残り続ける意味など、一見奈良県には郷土歴史博物館が少ないようでも歩けば歩くほど土地そのものが歴史の記録を残しているし、それがまた全国各地への歴史への関心につながっていくすごい場所だと思っています。

そして四方の山をさえぎる建物が少ないダイナミックな風景も、また各地のそれぞれの歴史や時代が感じられる広い奈良、こんどは次にいつ奈良を訪ねようかと楽しみにしていました。

 

からしみじみと奈良が好きだと思うのですが、観光の視点からは「観光資源」だったり「良い素材、ポテンシャル」になってしまうのか、何だかなあ。

 

 

あれだけ観光客が多くても、経済的に観光に依存しない生活を維持できているとすればむしろすごいことだと思いますけれどね。

それなのにまさかの「国の病気を取り除くため」に今でも読経が続けられている東大寺をもじって「大仏商法」なんて言われるとは。

 

奈良で生活している方々は、どう思っているのでしょう。

少なくともその記事のコメントからは、もっと観光で稼ぎたいという雰囲気ではなさそうですけれどね。

むしろ歴史という遺産を「観光」で食い潰して欲しくないと思いながら生活されているのではないかと、静かな街を歩いていて思いました。

 

そして一時的に観光で儲けたり派手な建物がたっても、「強者どもが夢のあと」でいつかは田畑や森に戻っていく。

そんな経験もまた大いなる奈良の遺産かもしれませんね。

 

 

 

 

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生活する 45 「生活の場を歩く」と「生活の場を歩かれる」

8年ぐらい前から都内の川沿いなどを歩き始めました。

 

しだいに全国津々浦々の川や水路や田んぼを訪ね歩くようになりましたが、いつも歩いている自分を家の中から見ている感覚があります。

 

その感覚はいつ頃からあるのか思い返すと高校生の頃で、当時過ごした地域は目の前が田んぼで、田畑の畦道を通学路や犬の散歩のための生活道として使わせてもらっているのを所有者さんが見ている、あたりでしょうか。

また、1970年代になるとその頃流行り出したオリエンテーリングで住宅の庭のそば歩く人がぼちぼちと出現して、近所の人でない人が歩いていると家の中から「誰だろうね」と家族で警戒していました。

実際に母が大事に育てていた花を盗まれてしまったこともありましたからね。

 

ですから、ここ数年あちこちの田んぼや水路そして集落を訪ねて歩くことが増えたのですが、人気(ひとけ)のないように感じる場所でも家の中から見られているだろうなと思い「そっと歩かせてもらっている」「散歩させてもらっている」という感じです。

 

 

*観光とも違う*

 

新幹線や鉄道を使って遠方を訪ねて1、2泊するので、移動している人の中にいると私も観光客の一人なのだろうなと思いながらも「いや私は観光ではなく散歩」だとなんだか一線をひきたくなって気がしてきました。

まあ、「散歩」の言葉もいつからどのように使われてきたかもあいまいですけれど。

 

なぜこんなことを考え出したかというと、昨年来、急激に外国人観光客が増加して大きな荷物を持って集団で移動するので、新型コロナ以前以上の混雑と通勤時間帯の人の流れが混乱しているという微妙に生活を変えさせられている状況に、「観光」と「観光でない散歩とか旅とか」の違いはなんだろうと気になり出したからです。

 

「観光」と表現した雰囲気には、相手の生活の場に入っているという感覚があまり感じられないなあというあたりですね。

 

私がよその地域を訪ね歩いてもそれは「観光」とは呼びたくないし呼ばれたくない、そんな感じです。

 

 

*誰が「観光立国」を求めているのだろうか*

 

 

なぜここ10年ぐらい、観光が話題になっているのだろうと気になっていたところ「観光立国」という言葉に突き当たりました。

 

「国土交通白書2022」の「第3章 観光立国の実現と美しい国づくり」に「観光立国の意義」が書かれていました。

 観光は、成長戦略の柱、地方創生の切り札である。新型コロナウイルス感染症拡大により、深刻な影響が続く観光関連産業の事業継続と雇用維持を図るため、実質無利子・無担保融資による資金繰り支援や雇用調整助成金の特例措置など、関係省庁が連携して支援を行なってきたほか、観光需要の喚起策や、宿・観光地のリニューアル、観光コンテンツの充実、デジタル化の推進に関わる支援など、多面的な支援を実施してきたところである。自然、食、文化、芸術、風俗習慣、歴史など日本各地の観光資源の魅力が失われたものではない。ポストコロナ期においても、人口減少を迎える日本において、観光を通じた内外との交流人口の拡大を通じて、地域を活性化することがこれまで以上に重要であることから、「住んでよし、訪れてよしの国づくり」を実現する持続可能な観光に向けた取り組みを進めつつ、引き続き、政府一丸となって取り組む。

(強調は引用者による)

 

「観光は」を他の産業に置き換えても通じるぐらい、どの仕事も生活が厳しくなっていますね。

 

ところで「観光立国」とはいつ頃から言われ始めたのだろう、誰がその方向を求めたのだろうと思ったら、「日本の観光政策」によれば、「2007年には観光基本法に代わり観光立国推進基本法が施行され観光立国推進基本計画が閣議決定されるなど、「観光立国」に向けた取り組みが行われるようになる。」とありました。

 

2007年ごろ、何がどう動いて、誰が「観光立国」を求めたのだろう。

当時はどんな社会の雰囲気だったのだろう。

「観光立国」を求めている人はどれくらいいるのだろう。

その弊害はどのような形で現れるのだろう。

 

「住んでよし、訪ねてよし」から近江商人の「三方よし」を思い出したのですが、一つ足りないとしたらそれは何なのでしょう。

 

 

 

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水のあれこれ 357 走水の湧水「腐らない水」

出かける前に地図で走水のあたりを眺めていたら、海岸線に「ヴェルニーの水」がありました。

「ヴェルニー」、たしか横須賀中央駅の前の軍艦を眺められる公園同じ名前だったと思い出しました。

 

バスで走水まで向かう途中、海沿いに公園になにか説明板があるのが見えました。

海のそば、しかも2月ですからいつ冷たい海風が強くなるかわかりません。ところがこの日は本当に穏やかな天候でしたから、走水からこの「ヴェルニーの水」そして馬堀海岸をたどって歩けるところまで歩くことにしてみました。

 

走水の北側の湾に飛び出したようなところへぐいと上り坂になり、また降ると小さな入江があってすぐそばに小学校がありました。海を眺め、波の音を聞きながら授業を受けられるなんてなんてすてきな学校でしょう。

海岸線はそこで行き止まりで、また「海抜23メートル」まで坂道を上り反対側の海岸線へと石段を下ると漁港と集落や水産加工場があり、その先に広い公園のような場所がありました。

わずかの距離ですが、膝がガクガクです。

 

*走水水源地公園*

 

広い駐車場があり、そのすみに水汲み場がありました。

横須賀水道発祥の水 〜ヴェルニーの水〜  由来

 

 この水は、走水の湧水を利用した水道水です。

フランス人フランソワ・レオンス・ヴェルニーが、明治9年(1876年)横須賀造船所の用水として送水しました。

 また、明治41年(1908年)12月、市営水道として、小川町、大滝町若松町の人々に給水されました。

 給水開始100周年を記念して、ご利用いただけるようになりました。

 

竣工平成20年(2008年)3月   横須賀市上水道

 

浄水施設と砂浜の間の細い道を抜けると公園が続いていて、また案内板がありました。

 

走水水源地

 明治九年(一八七六)走水の湧水を横須賀造船所に通水したのが始まりで、市内唯一の自己水源地です。明治三五年(一九〇二)に完成した煉瓦造貯水池と、その後に造られた国内で初期の鉄筋コンクリート造の浄水地は、いずれも国登録有形文化財となっています。

 昔から走水の湧水は水量が豊富で、ミネラルを含んで美味しく水温は十七度とほぼ一定し腐らないと評判で外国船にも好評でした。

 湧水は涸れたという記録はなく、水量は一日約二〇〇〇㎥あります。現在は市の非常用の水源地となっています。

 また水源地は災害時の応急給水拠点としての機能を備えるとともに桜の名所ともなっています。

          大津行政センター市民協働事業・大津探訪くらぶ

 

 

「走水」は浦賀水道の流れと関係した名前なのかと想像していたのですが、もしかしたら「湧水」が由来でしょうか。

 

「腐らない水」を確保することは海運には重要だった歴史もひっそりと過去のものになってしまった、それほど何もかも驚異的に変化する時代でした。

 

海に向かってベンチがありました。

目の前の浦賀水道を、ひっきりなしに船が通過していきます。

沖を航行していた色とりどりのコンテナを満載した船が浦賀水道へ入るのにしだいに近づいてきました。

遠くでは大きいなあぐらいだったのが、近づくととてつもない大きさです。

雨にも風にも波にも動じることなく海を渡っていく風景も、思えばわずか1世紀ぐらいでしょうか。

 

海のそばでの仕事をしてみたかったなあと思いながら、飽きもせず船を眺めていました。

まあ海の仕事も、そして世の中のさまざまな仕事も世の中のため人のために、地道に支えているのは同じですね。

 

誰もいない海岸線を独り占めしてしばらく眺めました。

 

 

 

 

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散歩をする 506 走水を歩く

2月初旬、日差しが暖かいのにつられて、海を見に行きたくなりました。

 

そうだ、三浦半島で気になっていたあの場所を歩いてみようと、逗子行きの湘南新宿ラインに乗りました。武蔵小杉まで並走する区間も残念ながら新幹線に1本も出会いません。こんな時間帯もありますね。

起伏のある丘陵地帯だというのに地形もわからないくらいに家が建ち、わずかに残っていた場所も造成され始めていました。山があるようでない横浜周辺の風景ですね。

1970年代ごろに建てられた家はまだ少し庭があったのに、今はそれも切り売りされて本当にマッチ箱のような家がぎっしり建ち、その日差しを遮るかのように高層マンションが林立し、人口は多いはずなのに誰も歩いていなくて、ちょっと寂しそう。

住宅の半世紀ほどの移り変わりをぼっと考えているうちに、柏尾川沿いに残る田んぼが見えて大船観音を過ぎました。

 

12時30分に逗子駅に到着し、久里浜行きに乗り換えです。今までの風景とは一変して、沿線は山が残ってホッとする風景です。家もゆったりと建っています。都市計画はどこに違いがあるのだろうと思っているうちに田浦のトンネルを過ぎて横須賀中央駅に到着しました。

 

バスの時間まで少しあるので、海岸沿いにでて自衛隊と米軍の艦船を眺めました。案外と一人で船を見にきている女性がいるようです。

艦船の修復作業をしているのが見えました。どんな業務でどんな手順や技術が必要なのでしょう。知らないことばかりです。

ちょうど艦船が出航していきました。結構速く、そして並走する船がとても小さく見えました。

 

 

*走水(はしりみず)神社へ*

 

13時9分発のバスに乗ると、あっという間に満員になりました。海沿いの平地を抜けるとぐいっと高台へと上り海が見えるようになりましたが、海底まで見えるほど透き通っています。

またあっという間にくだり、走水漁港のそばを通過して走水神社前で下車しました。

 

 

国道16号線から一本山側の道沿いにある鳥居をくぐって、ふと後ろを振り返ると参道の向こうに濃紺の海が見えて、大きなタンカーが通過していきました。

 

石段を上がって本殿に立つとまた先ほどよりは高い位置から浦賀水道が一望でき、富津のあたりでしょうか、千葉の海岸線まで見えます。

 

横須賀風物詩 走水神社

 走水の地名は、すでに古事記(七一二年)や日本書紀(七二〇年)の中に表れています。大和朝廷時代には、上総(千葉県)を経て東北地方に渡る最も便利な道として、この地方に古東海道が通じておりました。

 走水神社の祭神は、日本武尊とその后弟橘媛命の二柱です。神社の創建された年代については、享保年間の火災で、神社の記録や社宝が焼失してしまったのでわかりません。伝説では、景行天皇の即位四十年(一一〇年)、東夷征討の命を受けた日本武尊が、この走水から上総へ渡られるにあたり、村民に「冠」を賜りましたので、冠を石櫃に納めて、その上に社殿を建て、日本武尊を祭ったことに始まると伝えています。大和武尊が渡海の際、海上が荒れ、いまにも舟が沈みそうになりました。海神の怒りであると考えられた弟橘媛命は、

 さねさしさがむのをぬにもゆるひの

  ひかにたちてとひしきみはも

の歌を残し、日本武尊に代わって海に身を投じ、風波を鎮めました。弟橘媛命は、元旗山崎に橘神社として祭られていましたが、その地が軍用地に買収されたため、明治四十二年、この神社に祭られました。

 明治四十三年六月、弟橘媛命の歌碑が、東郷平八郎乃木希典など七名士により、社殿の裏手に建てられました。

 社殿の階段下の右側にある「舵の碑」は、弟橘媛命の崇高な行いにあやかり、航海の安全を願って国際婦人年(昭和五十年)を機に、また、左側にある「包丁塚」は、走水の住人大伴黒主が、日本武尊に料理を献じて喜ばれたとの古事により、包丁への感謝と鳥獣魚介類の霊を慰めるため、昭和四十八年に建てられたものです。

 

後半の文章は、軍港にふさわしいとされた地であるが故の白を黒に、黒を白にの時代の葛藤なのかもしれませんね。

 

古代の人はこの海の風景を見て、なぜ「走水」と名前をつけたのでしょう。

水に関わる場所らしいと推測できるのですが、どんな歴史がある街なのでしょう。

 

 

 

ということでようやく2月の散歩の記録に入りました。

どんどん散歩の記録がたまっています。

 

 

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シュールな光景 35 「20代から30代の女性が半減し」

4月24日、人口戦略会議とかいうところが言い出した「消滅可能性自治体」のニュースがありました。

その日は各局、かまびすしくこの「人口戦略会議」の話題を報道していました。

 

有識者グループ「人口戦略会議」は、国立社会保障・人口問題研究所の推計をもとに20代から30代の女性の数、「若年女性人口」の減少率を市区町村ごとに分析しました。

2050年までの30年間で、若年女性人口が半数以下になる自治体は全体の4割に当たる744あり、これらの自治体は、その後、人口が減少し、最終的に消滅する可能性があるとしています。

(「"消滅する可能性がある”744自治体全体の4割に 人口戦略会議」(NHK、ニュース深掘り、2024年4月24日)

 

 

人口の伸縮がどれくらいが適正なのかは時代によっても違うでしょうし、それによって当然自治体数も変化するのに、その数よりは生まれてきた一人一人が大事にされ、充実した人生を送れるかどうかがまず優先されるべきだと、今までの「棄民」のような時代の反省を思い浮かべました。

 

ところが、ニュースの中で「若い女性に住んでもらうように」「子育てしやすいように公園や駅前のマンションを確保する」とか、果ては「生理ナプキンを無料で配る」といったことを「消滅自治体」にならないためにしているということが伝えられていました。

 

「それじゃあないのに」

せっかく「女性は結婚して25歳までに第一子」というくびきから自由になったのに、体のいい「嫁確保」の政策なのかと驚きました。

古臭い話ですよね。できるだけ政治の話に感情的に反応しないようにと思ったのですが、なんだかさすがに「腐臭漂う嫌悪感」さえ感じる古臭さでした。

 

家庭を持ちたい、子どもを育てたい、仕事も続けたい、でも女性というだけで仕事が限られ、給与が下げられ生涯賃金も年金も低く抑えられたり、女性というだけで存在そのものの価値が低くされたくない。

あるいは女性というだけで自由に歩くこともできない場所よりは、安全な場所で生活したいし、男女ともに結婚して子どもを育てるのに信頼に値する相手なのかどうか本当に賭けのような状況も多いですからね。

 

ナプキンを無料にという動きはここ数年でネットで見かけたけれど、それさえ購入できない「女性の貧困」の状況があるのであればそれはまた別の問題

 

 

 

*なぜ休止している民間の会議体が突然ニュースになるのか*

 

と、悶々と考えているうちに「人口戦略会議」とは政府のどういう部門なのだろうと検索してみました。

 

「人口戦略会議、wiki」で検索するとなぜか日本創成会議に直結していて、「民間の会議体」「2016年より活動を休止している」とあります。

 

それがなぜ今、と不思議に思ったら首相官邸のサイトに「人口戦略シンポジウム 岸田総理ビデオメッセージ」がありました。

 内閣総理大臣岸田文雄です。

 本日は「人口戦略シンポジウム」が盛大に開催されましたことを、心からお慶(よろこ)び申し上げます。

 本日、地方自治体の持続可能性分析レポートが公表されました。

 10年前の日本創成会議による896もの消滅可能性がある自治体のリストの公表が与えた衝撃は、今でも忘れていません。

 その後、政府は、まち・ひと・しごと創生本部を設置し、10年にわたり、地方創生の取組を進め、岸田政権発足後は、さらにデジタル田園都市国家構想に取りくみました。

(以下、略)

 

10年前に衝撃を受けて取り組んだというわりには、「なぜ20代から30代の女性が半減することが問題なのか」には全く触れられていませんでした。

まあ、「まち・ひと・しごと」とあえてひらがな書きの文学的表現「骨太」とか「背骨」とかかっこ付きの政策が多い政府の方向性ですからね。

 

人口が少ないだけで見捨てられそうな地域も、実際に歩いてみるとむしろ数十年の変化はものともしない堅実な生活があるようにも見えます。

 

もっと人口が少ない時から原野を開墾し集落をつくり、そして人口が余剰になると女性は売られたり男女ともに出稼ぎに行ったり、そして政府からも「子どもは2人まで」と奨励され、葛藤しながら人口を調節してきた時代の記憶がまだまだ残り続けているのに、新たに「労働力」「産むため」「介護のため」といった目的のために人を増やそうとする政策に、本当に国のことをわかっていないのだと思いました。

 

 

 

シュールですね。

最近は「人口問題」を語る人たちが、「人売り」と「人買い」に見えてきました。

 

 

 

*おまけ*

 

お隣の国の一人っ子政策では、女児は闇に葬られていたことを思い出しました。

あな恐ろしや。

 

やはり「人口問題」を切り口にするのは怖いですね。

 

 

 

 

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鵺(ぬえ)のような 27 「産めよ増やせよ」から「産児制限」そしてまた。

丹那トンネルの殉職者慰霊碑を訪ねた時のメモにこんなことを書いていました。

小田急沿線、山肌まで家ぎっしり。相変わらず小さい部屋。

人口減少を問題にするが、今まで生まれた人は大事にされたか。

今の今まで、人口が増えても生活が成り立つような仕事もなかったではないか。

誰かを貧困、奴隷にして成り立つのであれば、人口を増やすより先に今いる人がまず充実した人生を送れるようにしなければならないのではないか。

 

子どもの頃から乗っている小田急線で、かつては駅周辺の賑わいがうらやましいと思っていたのですが、当時は駅周辺以外はひと気のない田畑や山の風景が続いていました。

ほんの半世紀ほど前は資源の少ない日本でたくさんの人口は養えないといっていたことが嘘のように小さいながらもそれぞれの家を持つことができ、教育も医療も受けられるようになったのかもしれません。

 

崖っぷちに家を立たせる技術もあるかもしれないし、かつてないほど多くの人が一戸建てを求める時代になったり、後継者不足や相続税対策で農地を宅地にしたという状況もあるかもしれないし、土地や家を持った者がちのような時代だし、家だけでなく生活全てにローンを利用することが当たり前のようになったとか時代のさまざまな変化からできた風景ですね。

 

 

*人口の増減を「人口問題」とすることが問題*

 

では1億2000万人に増えた一人一人の人生はどうなのだろう。

土地を相続した人以外は、1970年代80年代ごろまでは「余剰人口」として男性であれ女性であれ出稼ぎや移民が奨励されていた時代もありました。

 

1990年代になると逆転して日本は海外からの移民を受け入れるようになりましたが、かつて世界のあちこちへ国策として移民していった人たちが「日系」として受け入れられたり、エンターテイナーや「ジャパゆきさん」あるいは農村の嫁不足のための国際結婚という形だったり、その後は「研修生」と形を変えながら労働力不足や出産する人を確保することでした。

 

2013年にその「ジャパゆきさん」や「出稼ぎの女性化」を書いてわずか10年、最近、まさかの「日本では生きていけない。稼げない」と海外へ働きに出る雰囲気が出てきました。

中には海外での「性的な労働」を目的にする人もいるようです。

 

国民総大学進学化とも言える時代に借金をしてまで高学歴化したというのに、自国では生活もできない人が増えた上に、円安だけでなく労働対価が低い国になってしまいました。

 

少子化対策」というと高齢者と対峙させる話ばかりですが、これまで人口が急増した時に国はどうしていたかの歴史が振り返られることがないですね。

結局は使いやすい労働力だったり、戦力(兵員)を確保したいのだろうと思えます。

 

 

「産めよ増やせよ」から一転して人口が増えすぎることに対しての「産児制限」の時代になり、そしてまた「産めよ増やせよ」と言われる。

人口問題を語る政策に対して、「国の政策で増やした人口は幸せにできたか」と今までの失敗の歴史に慎重になった方が良さそうですね

 

ヒトの歴史は、「自分が大事」なように「他の人も大事」であり、生まれたひとりひとりが大事にされなければならないというあたりまで進歩しているはずだと思うのですけれど。

 

 

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生活のあれこれ 44 ビジネスホテルは最強

ここ数年、あちこちに出かけるようになってホテルに泊まることが増えました。

私の場合はビジネスホテルばかりですが、一人の宿泊予約が取りやすいこと、食事なしの素泊まりが可能なこと、そして女性一人でも歓迎してもらえることが主な理由でしょうか。

 

ビジネスホテルに宿泊するようになって、自宅にいる時以上に熟睡できることが増えました。

仕事や日常生活から解放されたこともあるのかもしれませんが、この部屋の作りが「生活上に必要なものが備えられている安心感」だと思います。

 

一つの感染症を片時も忘れることなく生活するようになり、ビジネスホテルが宿泊療養のために利用されるようになった時にさらに強く思うようになりました。

一人でトイレやシャワーを使えるというのは、贅沢のようでも公衆衛生のための必要条件ですからね。

一日中適切な温度に調整できるのもありがたいことです。

願わくば小型の洗濯乾燥機まで室内に備えられていたら完璧ですけれど。

 

そして災害や防犯という意味でも建物は頑丈ですし、電気・水道あるいは備品も定期点検が行き届いているので安心です。

 

 

*時代によっても年代によっても優先的に必要なものは変わる*

 

かつては広くて部屋数もあることを求めていましたが、最近は1KかLDKに近い部屋が使いやすいかもしれないと思います。

 

というのも母が最期に暮らした公的な特別老人養護施設でもユニット式で、トイレは2部屋で共同でしたが基本的に個室が基本でした。

バリアフリーで車椅子でも使いやすい広さもありました。

洗濯とお風呂はユニット内で共同でしたが、もし室内にシャワーと小型の洗濯乾燥機とwifiがあれば私も住みたいと思う住環境だと思いました。

 

そうだ、こういうビジネスホテルのような年金者住宅があれば、退職後の基本は自立で暮らせる年代から介護が必要になる時まで途切れることなく住み続けられるのに。

年金だけでは終の住処にも入れず、介護度とともに生活の場を転々と変えなければならず、それまで築いてきた「健康で文化的な生活」のレベルを下げなければならない日本とは違うようです。

日本でそれまでの生活レベルも維持したいといったら、億の単位が必要な施設になってしまいますからね。

わずか20年ほどだというのに飛躍的に制度が整った介護の世界ですが、元気なうちに終の住処を準備することはむずかしく、介護が必要な状態になって初めて探さなければいけないし、ようやく施設に入れても体調を崩せばまた一から施設探しという状況です。

生活のあれこれ 35 死ぬまで生活は続く

 

高齢になってなお引っ越し貧乏にもなりそうな現状です。

 

かれこれ30年以上も今の地域に暮らし社会保険も税金も納めてきましたし、多少はその地域の保健医療にも貢献してきたつもりでしたが、高齢になってどこで生活するかという点でなかなか見通しが立たないものですね。

収入や貯蓄があって税金を納めてきた分、公営住宅に入ることは難しいという矛盾があります。

これはおかしいと思うのですけれど。

 

 

たぶん生活の場と療養の場の境界が明瞭に区切られすぎていることが、そこを行ったり来たりしながら死んでいくまでの生活の現状のニーズに合っていないのだろうと思います。

 

納税してきた人が必ず入れるビジネスホテルのような設備の年金者住宅があれば、必要な時に対応も早くなるし訪問介護や看護も集約化されて動きやすいのではないかと思うのですけれど。

 

まあ、ナイチンゲールが「看護」を言語化した19世紀半ばや、「介護」という言葉もなかった20世紀後半のヒトの平均寿命を考えると、驚異的にヒトが長生きするようになった時代のまっただ中の葛藤と言えそうですね。

 

 

 

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事実とは何か 109 熱海市伊豆山土石流災害

熱海駅から来宮駅まで歩き丹那神社と慰霊碑を訪ねたあと、初川沿いに海岸沿いまで歩き、また急な上り坂を熱海駅まで戻ったので、距離的にはそれほどではないのですが「膝が笑う」ような疲労感でした。

 

そうそう、途中で「ゼンリン」の方とすれ違いました。ああやって足を使って地図を作っていくのですね。ほんと、「平和でなければ地図づくりはできない」ですね。

 

*バスで逢初川水系をぐるりとまわる*

 

熱海駅に戻り、14時42分の伊豆山循環のバスに乗りました。市街地を出るとすぐに海岸線になり、定年後の方たち向けのマンションでしょうか、数人が下車しました。

 

逢初橋のところでぐんと東海道本線東海道新幹線の高架橋が近づき、「通行止め」が見えました。あの災害のあと、いつも新幹線の車窓から見逃さないようにしているのですが一瞬で過ぎてしまう場所です。

しばらく北東へ国道135号線を走ると、途中で「つの字」に曲がりながら県道102号線へと曲がりました。

 

そこからぐいぐいと急カーブの続く上り坂になりました。

通常の大型バスが、細い道沿いに張り付くように建っている家の軒先をかするように登っていきます。対向車とすれ違うことも多く、ドキドキしながら乗りました。ちょっとアクセルの踏み方がゆるければ後ろへ滑り落ちていきそうです。

あちこち遠出をするようになって、細い道も坂道もものともせずに運転している各地の路線バスの運転手さんの技術に敬意が増すこの頃ですが、もしかしたらこの路線が日本一ではないかと思うほどでした。

 

どんどんと見晴らしの良い場所になり、14時50分伊豆山神社前で下車しました。父とのつながりが何かわかるだろうかと立ち寄ったのですが、見上げるような石段に百数十段で挫折しバス停に戻りました。

 

こんなに急峻な地域だというのに、路線バスが1時間に2本もあります。

15時7分にバスに乗ると、すり鉢状の地形を山肌に沿って反対側の尾根のような場所へと走ると、一面茶色の土のままの場所がありました。

尾根を越えるとまた下り、そして上って熱海駅に到着しました。

 

 

*「熱海市伊豆山土石流災害」の記憶*

 

2021年7月3日、土石流の映し出された動画が拡散されていて、発生直後に見ました。「伊豆山」そろそろ訪ねてみようと思っていた矢先でした。

そしてその3日ほど前には児島湾干拓地を訪ね、10日ほど前は佐賀の干拓地を訪ね、この場所を新幹線で2週間に2往復していた時にもGPSでこのあたりかなと確認していたのでした。

2021年のカレンダーを引っ張り出してみたところ、3日のところに「伊豆山土石流」と書き込んでいました。

 

こんな急峻な川の流れのそばを通過していたのかと改めて驚いたことと、高架橋は無事で翌日には運転再開していたことも驚きました。

当時の記憶はもうあやふやになっているので確認してみたら、たまたま事前に新幹線と東海道本線は終日運転見合わせになっていたようです。

 

そしてあの動画に映し出されていた濁流は高架橋をすり抜けていたという記事がありました。

新幹線の橋の下、すり抜けた土石流…専門家「大きな被害出ていたかもしれない」

山中に伸びる土石流の跡は岩盤がむき出しになり、下流側では新幹線の線路脇に大量の土砂が押し寄せていた。国生(こくしょう)嗣治・中央大学名誉教授(地盤災害工学)が5日、読売ヘリに搭乗し、静岡県熱海市の土石流現場を上空から視察した。

国生さんが注目したのは、海岸近くを走るJR新幹線。雨の影響で災害発生前から運休しており、土石流も大部分が鉄道橋の下をすり抜けたとみられる。

ただ、土砂の一部は線路沿いにたまっており、「より多くの土砂や木々を巻き込んでいれば、橋にせき止められて線路にあふれ、大きな被害が出ていたかもしれない」と指摘した。

上流側の谷筋では、土石流が通った幅が比較的狭いことが確認できた。周辺の木々があまり巻き込まれず、下流への流出が少なかったとみられる。土石流の跡には、表層の土砂が削り取られて岩盤が露出していた。(以下、略)

(読売新聞、2021年7月5日)

 

 

*逢初川も過去に「甚大な水災害は記録されていない」*

 

Wikipedia 熱海市伊豆山土石流災害がまとめられています。

熱海市伊豆山土石流災害(あたみしいずさんどせきりゅうさいがい)は、2021年(令和3年)7月3日午前10時半(JST)頃に、静岡県熱海市伊豆山地区の逢初川で発生した大規模な土砂災害である。災害関連死1名を含む28名が死亡した。最多時は約580人避難し、建物136棟が被害を受け、2022年6月時点で被災地は原則立ち入り禁止となっている。

 

映像でもたくさんの家が建っている様子で、「土石流の幅が狭い」割には大きな被害が出たようです。

 

当時はなぜあの急峻な場所に家が多いのだろうと思っていました。

ところが「しずおか河川ナビゲーション」の「逢初川(あいぞめがわ)水系」の「治水事業の沿革」にはこう書かれていました。

*過去の水害

伊豆地方・熱海市においては、狩野川台風(昭和33年(1958年))をはじめ、度重なる台風・豪雨災害に見舞われてきましたが、逢初川(伊豆山地区)においては甚大な水災害は記録されていない。

 

そして「歴史」では「伊豆山地区では1万年ぐらい前には人々の居住が始まり」とありました。

 

当時被害の状況が少しずつ伝えられる中で、「建設残土」「盛土」を耳にすることが増えました。

被害が拡大した原因として上流山間部の違法盛土の崩壊があり、さらにその後の調査で国や自治体の杜撰な盛土規制と大量の違法盛土が全国的に存在していることが明らかになり、盛土規制の大幅強化へと発展した。

 

専門的なことはわからないのですが、こうしたニュースから自然災害というよりも人が関与していた「事故」とも言えそうな災害という印象になりました。

だましあうような社会になってきた、そんな自分が生きてきた時代を映した災害なのでしょうか。

 

 

*おまけ*

 

現在のMacのマップではあのすり鉢状の被災地に「逢初川」が描かれていません。上流と海側には水色の線があるのですけれど。

暗渠になっていくのでしょうか。残された住宅地を守るためのどのような工事が続けられているのでしょうか。

バスの車窓から見た限り、川を見かけなかったような気がするのですがすでに記憶が曖昧です。

 

 

 

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新幹線の車窓から見た場所を歩いた記録のまとめはこちら

地図についての記事のまとめはこちら

水のあれこれ 356 糸川水系、初川水系、熱海和田川水系が集まった熱海

東海道本線東海道新幹線は、熱海駅を出ると大きく西へと向きを変えてそのまま丹那トンネル・新丹那トンネルが真っ直ぐ続きます。

新幹線の車窓からは熱海駅を通過したあと海が一瞬見えて短いトンネルに入り、眼下に来宮駅とまた海が見えるとすぐにトンネルに入る区間です。最初の頃はただ海を見逃さないようにと集中していました。

 

しだいに、その急斜面に建ち並ぶ家々やマンションなどに圧倒されるようになり、いつ頃からどうやってこんな崖っぷちのような場所に家が増えていったのだろうと気になったままでした。

 

今回、初めて熱海駅から来宮駅のあたりを歩いてみようと地図を眺めていて、細い川が海へと流れ込んでいることがわかりました。

来宮駅をはさむように東側には来宮神社の境内のそばを流れる川があり、西側には熱海梅園の間を流れています。その間はわずか200~300mぐらいでしょうか。

そして南側のロープウェイの手前にも川があり、最後はわずか300mほどの海岸線へその3本の川が流れ込んでいます。

 

トンネルに向かうためだけでなく、急峻な渓谷のような3本の川を通過するために最良の場所を選びながら山肌に沿うように線路が大きく西へと曲がっている場所だったのでしょうか。想像しただけでも「難所」だと思えてきました。

 

 

*初川沿いを歩く*

 

Macのマップではその真ん中の「初川」しか川の名前が表示されないのですが、熱海梅園の中を流れたあと「水口町」を流れているようです。「水」がつく地名はどんな場所なのだろうと訪ねることにしました。

予想以上の花見客でためらったのですが、せっかくなので梅園の中の初川を眺めたあと、水口町のあたりを初川沿いに歩いてみました。

 

梅園の中もそこそこ水量はありましたが、下り坂をしばらく歩くとしだいに轟轟と水音が聞こえ、川幅数メートルもないのに駆け降りるような流れでした。

途中、「昭和11年7月竣工」とある橋のあたりからしだいに勾配が緩やかになって市街地へ入り、ところどころ河床に段が造られている場所に白い波が立っています。

ふりかえると、すぐそばに先ほど降ってきた小高い山が迫りその斜面に見上げるように家が建っています。

水口町が終わり中央町になり、電柱に「津波注意 海抜8m」の表示がありました。

 

来宮駅周辺は海抜71mで、そこからのんびり下ってきたわずか20分ほどで海抜8mですから、ほんとうに水も駆け降りるような場所でした。

 

しばらく平地を歩き、もう一本の川を渡ると息が切れそうな上り坂沿いの繁華街を抜けて熱海駅につきました。熱海駅もまた海抜70mぐらいのようです。

 

 

*三つの水系がまとまる場所*

 

初川で検索したところ、「糸川水系、初川水系、熱海和田川水系 河川整備基本方針」(平成27年静岡県)が公開されていました。

来宮駅の東側の川が糸川のようです。

その中の絵図を見て、熱海駅を通過した後の風景というのはこの3つの水系によってできた地形だということがわかりました。

 

位置関係・流域面積・流路延長

 糸川、初川、熱海和田川は、その源をそれぞれ岩戸山(標高730m)、鷹ノ巣山(標高約670m)、玄岳(標高800m)に発し、熱海市街地を貫流して熱海港に注ぐ二級河川である。流域は、伊豆半島の東側に位置する熱海市の中央部に位置している。

(上記資料)

 

水源地の山もそれほど高くないし、それぞれの川の長さも3kmほどと「小さい規模の川」に見えますが、そばを歩くとちょっと足がすくむような流れでした。

さぞかし災害が多かったのだろうと思ったのですが、意外にも「糸川、初川、熱海和田川においては、これまでに豪雨や台風による風水害に見舞われたという記憶はない」とあります。

 

資料の「近年の土砂災害一覧」には、以下のように書かれていました。

初川・熱海和田川流域内では、平成2年以降、豪雨による土石流が3件発生している。人的被害はない。

 

「しずおか河川ナビゲーション」の「初川水系」に説明がありました。

治水事業の沿革と現状

初川は、これまでに豪雨や台風による風水害に見舞われたという記録はないものの、中上流部は河床勾配が1/20以上と急流なため、昭和27年から昭和47年の間に砂防指定地に指定され、土砂災害の防止を目的とした砂防堰堤や流路工が整備されている。また、初川本川流入する谷では、平成10年8月に土石流が発生している。

河川改修に関しては、災害復旧事業や県単独事業により施設整備が行われてきた。今後の気象変動に伴う豪雨の激化により、市街化が進み人口や資産等が集中する沿川においては、河川の氾濫や土砂災害が発生した場合には大きな被害となることが懸念される。

初川流域を含む熱海地区における津波被害に関しては、元禄16年(1703年)に発生した元禄地震により、沿岸部に高さ7mから29mの津波が到達し、住宅500戸のうち10戸程度しか残らなかったとの記録が残っている。

また、大正13年(1923年)に発生した関東大地震では、6mから9mの津波により、家屋162戸が流出し、死者・行方不明者92人との記録が残っている。

 

どんなに小さな川でも水源を確定して水系を把握し、その地域の災害史も踏まえた上で私が生まれるよりもずっと前から寝ずの番で守られてきていることをまた知りました。

 

 

 

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