他人を褒める練習をしています

他人を褒めるのが苦手です

いろんなコーチングの本とかにも、「相手の良さを見つけてそこを伸ばしてあげよう!」みたいなこと書いてあるじゃないですか。
でも他人の良さを見つけるのって才能と言うか、スキルなんですよね。
その人のことを長く観察していればわかる、とか言われなくても分かってるけれど、それをしっかり見つけて、言語化して、相手に伝えるって、すごい難しいスキルなんですよ。

そもそも私のように小賢しい人間は、「他人の良さを見つける」とか「他人を褒める」のはある程度努力しなければ得られないスキルである、と言うのは本を読むまでもなく気づいているわけです。
更に自分の考えの裏付けとしてコーチングの本を読めば、とにかく「他人を褒める練習」とか「言い換えてみよう!」とかそんなのばっかり書いてあるじゃないですか。

自分がそういうことを気づいているんだから、褒められる側だってそのくらい気づいているはずでなので、他人を褒めると「こうやってお前の良さを見つけられるオレって他人の良いところ見つける天才やろ?」って言う自己顕示に思われるのでは、と感じてしまうわけです。
そこまで行くともうフェイスブックで日夜行われる自虐風自慢みたいなものですよね。

気にしすぎかもしれませんけれど。

そもそも他人を褒める時は「自分ができないことをできることを褒める」か「自分ができていることを褒める」かのいずれかのケースに分類されます。
前者の場合は褒め方一つで変な感じになっちゃうじゃないですか。
例えば私も「お、確かにその部分の考慮漏れてたね。システムテスト前に気づいて良かったわ、ありがとう」って感じで、何か声を挙げてくれたらお礼するようにしているのですが。
「お、(現時点で考慮する範囲外だから考慮してなかったけど)確かにその部分の考慮漏れてたね。(どうせシステムテストで発覚するし修正コストも0.5人日くらいだからどうでも良かったけど)システムテスト前に気づいて良かったわ、ありがとう」って感じで取られてないかなぁ、と、家に帰ってから不安になったりします。

後者の褒め方になるともう更に難しくて。
開発を依頼して、納期通りに上がってきたからとりあえず褒めようと「あ、終わった? 見積工数通りにできてるやん。最近開発も早くなってきてるし、ええ感じやね」って伝えたりしているのです。
で、家に帰ってから一人悶々と「あ、(事前に報告無かったけど)終わった? (オレのアドバイス込みで見積に3時間以上かかってるけど)見積工数通りにできてるやん。(まだまだオレの1.5倍以上工数かかるけど)最近開発も早くなってきてるし、(そもそもオレの足元にも及ばないけど)ええ感じやね」って意味にとられないかなぁ、とかすごい不安になります。

気にしすぎかもしれませんけど。

他人から褒められるのも苦手です

そんな私なので、私は他人から褒められた時も「裏があるんじゃないか」と考えてしまいます。

「君の働きに対してちょっと給与を上げたいと思うから以下略」みたいなことを上司が言ってきた時も、ありがたいと思うのと同時に「給与体系を見直す過程で自分の給与を上げるためには私の給与をあげないと整合性が保てないのかなぁ」とか「なんかついでに責任が重い仕事回すつもりなのかなぁ」とか思ってしまうんですよ。
で、どんなにポーカーフェイスを気取っていても、そういう感情って周囲に伝わってしまうもので、結果的に、なんか微妙な空気になるんですよね。

上司としては「いやいや、深い意味はないよ、ただ褒めてるだけだよ」ってフォローしようとするし、それを言われれば言われるほど「コイツマジで言ってんのか」みたいな感じでどんどん私が不審に思う、みたいな。
そういうのが続くと「あ、コイツ面倒くさい」と思われて、私を褒めることが減っていきますし、褒められる回数が減ると、また次の機会に褒められた時に褒められ慣れていないので「え、この上司は私を試そうとしてるのかな」とか考えてしまうんですね。

特に「自分はこういうことできないから君のそれは重宝するわ」みたいな褒め方をされると、「あ、この仕事ばっかり回す気だな」とかそんなことしか浮かびません。

気にし過ぎかもしれませんけど。

気にしているうちに本来の目的から逸れてしまいました

こうして、褒めることも褒められることも苦手な私は、結果的に他人の評価をマイナスでしか発言できなくなるまでに退化していきました。
諸先輩方から「深沢ってもしかして世の中の人全員嫌いなの?」みたいなことを言われるレベルです。

そもそも、「相手から悪くとられることを気にして相手を褒めない」というスタンスは、矛盾しているじゃないですか。
相手を褒めないってことは相手から悪く思われるんですから。
ですが、「悪く思われたくない」など、「○○されたくない」というネガティブな方向から考えると、当たり前ですが、何も行動てきなくなってしまうんですよね。
そうすると、どんどん本来の目的から逸れていってしまう。

褒めない、ってことは、「自分の行動が相手の人生や考えに何らかの影響を及ぼしたくない」だけに過ぎないんですよね。
私生活の人間関係では別に良いと思います。(そんな人間はいずれ孤立するだけでしょうが、それは自己責任でしょう)
ですが、仕事となれば別ですよね。
上司のミッションは部下を適切に評価することと、部下の評価を高めることの二つです。
そして、評価と言うのは、「現時点のスキル」と「将来性」の掛け算で行われます。
そこまで理解しておきながら、部下の将来性を高めるために行動しない上司って最低じゃないですか?

人を褒める練習をしています

ということで、最近は、意識して他人を褒めるようにしています。
結局、上に書いてあること全て、「別にそう思われても良い」と思うようにしたというか。
おかげで付き合いの長い後輩からは「最近深沢が褒めてくるので気持ち悪い」とか影で言われているのも知っています。ただ、それで良いと思えるようになりました。

今でも褒めることはとても苦手です。
褒めながら、口説き慣れてないのにキャバクラに行って口説いてる映像が常に脳裏によぎって、家に帰って悶々とする日々が続いています。
褒められることは更に苦手です。
褒められるだけでむず痒くなりますし、途中でラリアットしたくなります。もちろん私はスポーツができないのでラリアットはしませんが。

ですが、そんなものはこの際どうでも良いんですよ。
私が誰かを褒めることで、その人やその周囲の人のやる気が向上するなら、そのくらいするべきでしょう。
何かが好転するチャンスが有るなら、それは試す価値があるんです。

と言うことで、最近はかなり意識して他人を褒める練習をしているのでした。
まぁ、その結果どんな感じか、と言うのは、今のところ「気持ち悪い」しか言われてないのですが。

単価が安いと何故か忙しい症候群

自意識過剰ですね

結構前*1に、どうも弊社の社員にバレた気がする、ということで、しばらく様子見していました。
ゲームの話とか書いてみて探りを入れましたが、なんでそこまでして探りを入れているんだ、という自分を冷静に見つめて、ちょっと恥ずかしくなってきました。
自意識過剰ってやつですね。

と言うことで、またちょくちょく書いていこうと思います。

関西の仕事の単価の話

と言うことで、新年早々お金の話をしようと思います。

SIerから依頼を受ける請負開発会社として、色々と相場を見てきましたが、大体以下のような分布図で単価が決まっています。

プログラマ:45万円 〜 80万円 / 月
システムエンジニア:60万円 〜 110万円 / 月
コンサル:75万円 〜 120万円 〜 青天井 (私がご一緒して、単価を知っている人の中で最高額は月額750万円)

大体こんな感じですかね。
新人とか高齢なくせに仕事ができないとかそういう人とか二次請けとかだともう下限を下回ることもありそうですが、ボリュームゾーンとしてはこの辺でしょうか。

で、今回の話の主題は、「安い単価の仕事ほど忙しくなる」という話です。

安いプログラマの敵は誰か?

多分いちばん仕事が想像しやすいのはプログラマだと思うので、ここに焦点を当てて記事を書いてみましょう。

プログラマとして、仕事ができる人ボーダーは65万〜70万くらいだと思ってます。
この境界を超えた人は「SEの視点を持てるプログラマ」だとか「業務知識はある程度ある」とか、「開発チーム全体の取りまとめもついでにやってね」みたいに、ただただプログラムを組む人としては期待されていないことが多いです。感覚的に。
それだけ聞くと、「じゃあ高い単価の方がプログラミング以外をやらなきゃいけないから忙しいじゃん」って話になるのですが、じゃあそれより安い単価のプログラマって何が求められるの? と言うのがこの話のキモです。

例えば月の単価が45万のプログラマ
ただプログラムしか組めません、って人はこのラインの金額で提案するのですが、「ただプログラムしか組めない人」って言うと、オフショアと同じなんですね。
もちろん一概には言えませんけれど、中国へのオフショアであれば35万程度。インドだと30万くらいかな? というラインだったと記憶します。
言うまでも無いのですが、単価が安いプログラマの競争相手は海外にいるということですね。
「プログラム組むだけだったらインドに頼むより1.5倍高くかかるんだけど、それに見合った価値を出してくれるの?」って感じ。

もちろん、オフショアでは品質は低いですし、日本人が(悪い意味で)得意とする「空気を読んだ実装」ができません。
ですが、ここで、「高品質なソースコードを書きます」とか「雑な要件しか考えられない、朝令暮改が得意なお客様のような要件の決め方でやるならば海外と密に連携を取らなければなりません」とかそういう話で相手が納得してくれる、菩薩のような顧客*2ならまだしも、そんなものは少なくとも日本では消費税よりも低い割合でしか存在していません。

だからプログラムしかできない日本人が仕事を取るには、「保守まで含めて安価で済ませます」とか「保守引継が容易な成果物を出します」とか「日本人同士のコミュニケーションになるので、よりスピード感のある開発ができます!」とか、そういう搦め手が必要になります。
つまり、低単価のプログラマに求められるのは、海外に依頼する時よりも設計の工数が減らせる(=雑な設計で通せる)ことが重要になるんですね。
(ちなみに英語ができるシステムエンジニアって、それだけで30%増しくらいで請求できる)

で、当たり前ですが、そういう現場は必然的に、工数が少ない現場なんですよ。
ということは、それを吸収するために、単価が低いプログラマは日夜残業を繰り返し、設計者に対して毎日のように質問して、それで無理矢理納期に間に合わせる仕事をすることになります。
そうですね、おかしいんですよ。
海外のオフショアと戦おうとした結果プログラムしか組めないから安価で提案しているのに、回される仕事には設計技術を必要とするものしかこない状態になってしまうんです。

単価が高いプログラマの場合は、競争相手が「海外のプログラマ」から「国内の(安価な)システムエンジニア」になるので、彼らと戦う方が難易度が低いので、残業時間はそれほどひどいことにはならないんですけど。

単価が安い管理者をしていました

過去PGチームのリーダーを何度か経験したのですが、その中で一番戦慄したのは、私が3.5人月、300万〜350万の見積提示したものをPMが蹴って、PMが他の会社に200万で発注したプロジェクトでしょうか。
案の定その会社のスキルレベルは推して知るべしだったのですが、いやぁ、酷かったもんですよ。
そこに発注したPMはその会社の社長よりも偉そうに「なんで間に合わないんだ」とか「もっと安くなるはずだったんじゃないか」とか私の横でブチ切れかますし、そうやって恫喝に近いレベルで安価にしてる仕事だからヘルプで来る技術者も片っ端から新人レベルなわけで余計に時間がかかるし。
結局、彼らは土日も出続けて、予定通り1ヶ月(+こちらの受入が2週間)で終わらせましたよ。追加仕様は無く、大量の「不具合」だったので受入時の不具合対応は無料、つまり総額は当初通り200万円で済みましたが。
実作業工数で言えば4.5人月くらいの工数かかってたんじゃないですかね。
当然あの会社はこのプロジェクト単体で言えば真っ赤でしょう。
それでもあのふんぞり返っているPMにつかないと、きっとオフショアに仕事飛ばされるんでしょうね。
いずれにせよ、私としても苦痛なプロジェクトでした。
結局、私のPGチームリーダーとしての発言力がもとしっかりあれば、こんな事にならなかったんじゃないかなぁ、と思わなくもないですし。

そんなこんなで、一時期「管理の仕事をちゃんと勉強して、残業が多いプロジェクトばかりなのをなんとかしたい」とか考えてPMPの勉強とかPMBOKとか勉強していたのですけれど、こういうゴミみたいなPMの下につくと何をやってもマトモな管理なんてできないんですよね。
単価が低い技術者は当然おしなべてスキルも低いわけで、その人達を無理矢理まとめ上げて指定された期間で達成させるには、その中で10%程度いる仕事ができる人の稼働を上げるしか方法がないんですよね……
つまり、金額が決まってしまった後では、どんなに管理を頑張って毎日パズルを組んでも、誰も幸せにならない結果にしかならず、なんだこの賽の河原地獄は、と思っていました。

単価を釣り上げよう

で、この話の着地点ですが。
「仕事って大変だよ」とか「PMやユーザが全部悪いんだよ」とか言うのは簡単なのですよ。
技術力をつけろ、とかもまぁその通りで、技術力をつければ過度な残業はしなくて済む可能性は上がります。
ただ、前項に書いたとおり、技術力があるだけでは、「炎上プロジェクトのファイアーマン」として月間300時間とか働かされることだってあるんです。

この解決方法ってなんだろう、と言うと、もう、「相場を知って、単価を釣り上げる」ことが最優先なのかな、と最近は思ってます。
たとえば、私の場合、「プログラム開発の依頼」の場合は70万からスタートして、それを下回る場合は先に会社に「残業の瑕疵責任について取り決めるか、それができないなら私は降ります」的なことを言うようにしています。
「今は安い単価だけど次に繋げるから」とか言われることがあるんですけれど、次に繋げるって言うのは次も安い単価で叩かれる可能性もあるってことを理解した上で話し合わなければならないでしょう。

技術者なんだからお金の話をしたくない、と言うのはとても良くわかるんです。
誰か分かる人が気付いてくれれば良い、と言うのも分かるんです。
「技術がわかる人が認めてくれれば」と言う仙人のような人たちは実際にファイアーマンとして日夜炎上案件をズバ抜けた技術力でリカバリかけてくれていますし、そういう方たちには私もとてもお世話になってきました。
でも、そういう人たちの善意により掛からなければ成り立たない仕事なんて認めちゃダメでしょう。

と言うことで、もしも業務系の開発の仕事をしていたらですね。
ぜひとも「SEですか? じゃあ90万円くらいでどうでしょう?」って感じでふっかけて見て欲しいです。はい。

*1:一年以上前

*2:大体こういう菩薩のような顧客はちゃんと要件定義してくれるので逆説的にオフショアでもまかなえるんですけど

真・流行り神という実験しない実験作

すっごい期待してたんです

真・流行り神というゲームが出ました。まぁ、ホラーです。
サウンドノベルゲームで、手軽に楽しめるボリュームで、オチが恋愛に走らない、というゲームは結構貴重なので、かなり楽しみにしていました。
前シリーズの流行り神1〜3はなんだかんだ「もう少しで友人に勧めるのになぁ」って感じで、妙に惜しい佳作として見ていまして。
その新章としてみれば、そりゃあ期待します。
「あの部分はどう改善してきたのかな」みたいな。

で、先日買いまして。
本日クリアしました。ひと通り。

結論から言えば、非常に残念だったなぁ、という感じです。
面白い部分も結構あったんですよ。
じゃなきゃクリアしませんし。
ただ、それ以上に「残念さ」が目立った結果でした。

ということで、真・流行り神のレビューというか感想と言うか、そんなものを書こうと思います。

面白かった部分:恐怖を要素分解して再構成しようとする試み

真・流行り神は、「恐怖を要素分解してみよう」って言う試みを強く感じました。
流行り神は、「都市伝説」という視点から構成している手前、どうしても「人間の不気味さ」に焦点があたってしまうわけです。
ちょっと2は心霊要素が強すぎて怖い話じみていますけれど、チェーンメール流行り神)や客の消えるブティック(流行り神3)なんかは良くある都市伝説を題材にしています。
いずれにせよ、この縛りは面白い要素であると同時に、「怖さの一面化」を招きやすいです。
だからこそ3で一旦切ったのだと思いますし。

ということで、真・流行り神は怖さを分解して再構成したんですね。
人間の不気味さを描いたブラインドマン編はまぁ、これまでどおりの都市伝説を切り口としたものです。
それとは別に、極限状態における人間関係の混乱を描いたパンデミック編や、ガチガチの心霊ものの悪霊編など、「怖さのバラエティ」を強く意識していました。

これはかなり良い試みだと思うので、続編があるならその辺意識してみて欲しいなぁ、とか思ってます。

でも、面白かった点はこれだけです。

ダメだった点その一:システムのちぐはぐさ

とりあえず最大の問題は、システムのちぐはぐさでした。

流行り神1〜3は、物語の最後に「推理ロジック」という形で、各キャラクターの関係を穴埋めする部分があります。
この推理ロジック、今作では驚くほど意味をなしていません

ここでは、過去作では何故意味をなしていたのか、という部分にスポットを当ててみますね。

流行り神1〜3は「オカルトルート」と「科学ルート」という、一つの話に対して大きく二つの展開(オチ)が作られています。
# この二つの分岐点はかなり雑(物語の中盤で、科学編に行くかオカルト編に行くかの選択肢がある)なのでそこは改善して欲しかったポイントだったんですけど。

ポイントは「同じ話で二つのオチがある」と言うことで、それが推理ロジックって言うシステムに活きるんですね。
同じキャラクターなのに、どっちのルートを選ぶかで、その人を表すキーワードが異なるわけですから。
推理ロジックはキャラクターの関係の穴埋めである以上、どうやってもストーリーを総括するための読解問題でしかないので、ストーリーを総括した時に新たな発見がある仕組みじゃないと面白く無いんですよ。
ところが、今回は同じテーマでオカルト編と科学編にわかれるような、二つに分岐するような仕組みが取られていません。
結果的に、ストーリーを総括する「推理ロジック」が、本当に総括するだけの機能しか果たさず、「そんなん知ってるわ」としか言えないものになってしまいました。

他にも、新システム「ライアーズ・アート」(多分self-questionの進化版)とかも、その派手さの割にストーリーに影響を与えず、「あれ?」って思ってしまう感じでした。

ダメだった点その二:キャラクターの再利用による混乱

真・流行り神は、「選択肢によって起きる事件が異なる」という、かまいたちの夜形式のゲームです。
# ちなみに流行り神1〜3は、章立てになっていたので、逆転裁判形式のゲームといえばわかりやすいかもしれません

ところが、この話、メインルート(普通に選択すれば通るルート)である「ブラインドマン編」が他のルートと同じくらい短いんです。
大体一時間もあれば読み終わるレベル。
そこまではまぁ良いです。長ければ良いってもんじゃないので。

問題は、このゲームがかまいたちの夜形式だということです。
選択肢によってルートが切り替わり、そのルートによって起きる事件が根本的に変わります。同時に、キャラクターの相関関係や設定も、合わせて微妙に変わる構成になっています。
ところが一話が一時間程度のゲームに置いて、キャラクターの設定が話ごとに変わるのは、かなりのストレスを感じるんですね。
主軸からして話が短いので、ブラインドマン編の知識を前提として、「お、今度はこんな感じで来たな」って言う、キャラ設定を楽しむことが難しいですし。
かといって、どのルートでもキャラクターの設定が同じになるように話を組み立てているわけでもないので、「こういう面から掘り下げてきたのか」って言うワクワク感もない。
あまりにもキャラクターの掘り下げ方が雑で、設定もとってつけた感じがするために、「あ、このルートではこういう設定なのね」って理解することが求められるだけです。
しかも、理解したころにはそのキャラクターは死んでいるか、事件は解決に向かっているので、また次に向けて「キャラクターの設定に対する理解をリセットする作業」が求められる。
これはもうシステム的に大失敗でしょう。

なんで章立てにしなかったのか、というレベルで頭を抱える感じでした。
いえ、メインルートであるブラインドマン編の主要人物が罪人って時点で、章立てにしたら次の章からそいつ出てこなくなるので仕方ないのかもしれませんが。

総括として、本当に残念でした。

他にも言いたいことは山ほどあるんですよ。
インテリ設定のキャラなのにインテリじゃなくてただの変人にしか見えないとか、いろんな切り口からホラーを描こうとしているのに、最終的には生理的な嫌悪感を感じる猟奇シーンに落ち着いてるじゃん、とか。

それでもまぁ、最後までクリアできるくらいには時間を潰せました。
ただ、全エンディングをコンプリートしようとかそういうのはもう攻略サイト見ながら作業だなぁ、って感じです。

本当に、流行り神の時に革新的だったと思われる「科学/オカルトルートの切り替え」とか「推理ロジック」とか、そういう実験的な試みを全部形骸化させて、「ホラーの再構成」という試みも試みただけでから回っていて。
実験しなくなった実験作、という感じが否めないんですよね。

「どんな感じで流行り神を再構成するのかなー」と期待していただけに、本当に残念で残念で……

ということで日記を閉じます。はい。

察しないということ

その道は私も通ってきた道だ!

4月の中旬になりました。
新しく入ってきた新人と会話していて「これが去年のオレかぁ」から始まり「今年の新人はダメだなぁ」という社二病に羅患する前に、ちょっと、思い返して欲しいので、その話。

多分、最初のうちはいかにも「新人教育!」ってオーラがヒシヒシと感じられるので、新人側も、周囲の先輩たちも、教育する感じで話しているよ、って了解があるからある程度なんとでもなるのですが。
そのうちに、先輩たちには気付いて欲しいわけです。

「察しないことの重要さ」と、「察しないヤツへの対処方法を伝えること」の二つです。

言い換えれば、「相手と情報を共有した上で質問する技術」と言い換えても良いかもしれません。

こちらが察すると、相手は楽をする

コミュニケーションというものは、相手と自分の関係性に依存します。

例えば私と友人との間の会話では、前提情報はかなり大胆にすっ飛ばしてお話ができます。
友人のAさんが「ハンバーガー食べたい」って言えば、その人の言うたこ焼きが、どのお店の、どのハンバーガーを指すか、くらいは理解しているわけで。
じゃあそこに行こうか、とか、この辺にそのフレッシュネスバーガーあったっけ? みたいな会話ができるわけですね。

でも、私は部下の友人にはなれないし、仮に私が部下の友人になっても、取引先のユーザーは友人になってくれないかもしれません。
だから、ビジネスの会話としては「ハンバーガーが食べたい」というだけでは、ダメなんですね。
フレッシュネスバーガーのアボガドバーガーが食べたいのに「ハンバーガー食べたい」としか言わなかったら、上司はマクドナルドに連れて行くかもしれません。
そこで「こんな豚の餌食べられないですよ!!!!」って部下がキレたって遅いんですね。

ということで、会話の中で「自分の中にある前提条件」はうまく相手に伝えなければならないわけです。

もちろん、何度か仕事をすれば、上司だってある程度分かりますよ。
「あ、この人ヘルシー志向だわ」とか「いつもサラダはドレッシング抜きで食べてるわ」とか。
でも、そのことを上司が察してしまうと、その部下は、いつまで経っても「自分の中の前提条件を相手に言語で理解させる」ことができなくなってしまいます。

ただ、そういう形で仕事をすることを当たり前にしてしまうと、「お互いに慣れ親しんだ関係性」でしか仕事が成立しなくなるんですよね。

だから、上司は、少なくともビジネスの上では、「自分が空気を読めない」という演出しなければなりません。
ここが大切です。

まずは相手の考えを察しないことがスタート

教育であれ仕事であれ、部下に仕事を回す以上、ある程度要件や仕様は抑えているので、部下が疑問に思うことはほぼ把握できているつもりではあるし、その解法も何パターンか準備している事が多いです。
なので、相談されたら、大体は「あ、このことかな」とか「つまりこういう対応をすれば解決するのかな」とか思いながら話を聞いているわけですね。
そうでもしないと経験が浅い部下に仕事を回すことなんてできません。*1

にも関わらず、実際に部下から質問が来ると、途端に私は空気がよめない無能を演じます。
「え? ごめん、そもそも今何してるんだっけ?」
「え? その部分って何がしたいの?」
「え? つまりどういうこと?」
この辺がよく使う質問三種ですね。

これ、すっごい難しいんですよ。
事前に書いてあるとおり、「察している空気」が相手に伝わると、相手は説明の手を抜いちゃうんですよね。
かといって、こっちが本当に何も察していない状態だったら会話ができないので、上手く相手をコントロールしつつ、自分の無能さを演出しないといけないという。

もちろん、この質問だけで「どういうプロセスで説明することが求められるか」を理解してくれる人ばかりだったら楽なのですが、世の中そんなに甘くないので。

次のステップに行きますね。
つまり、「どうやれば空気が読めない相手に理解してもらえるか」を考えるステップです。

筋道を立てて説明させることがゴール

よくいるのが、ただ「自分からはわざと察しないけれど、部下にはその目的を察して欲しい」って言う関係性なのですが、大体そういうのは失敗します。
反感を買うだけでした。

なので、大切なのは、「じゃあ、相手に何を求めているか?」をしっかりと説明すること、です。

そもそも我々の仕事では、最終的にユーザーや管理者に説明する立場になることが多いです。
特に開発が山場になってきて、なんか結合テストしてたらぼこぼこ予想外の動きをしだした時とか。
あるいは導入が終わって、保守フェイズに入った時とか。

そうすると、否が応でも気付くんですよね。
「あ、話通じないな」って。

要件定義の場合は、相手も自分も「同じものを見ている」からそれとなく話が通じている錯覚を覚えちゃうんですよね。
でも、いざ不具合が起きると、「これまで自分と相手が同じ方向を向いていたと思ったら全然違う方を向いてた」って衝撃を受けるんですよ。
この衝撃はかなりのものですし、この状況に至ってから「どうやって話せば通じるか?」なんて考える余裕無いんですよね。
特に仕様の話なんかはその会話だけで数十万単位のお金が簡単に動くわけで、そのプレッシャーの外側に居るうちに、「話が通じない相手の対策」を伝えなきゃいけないわけです。

なので、一切察していないフリをしながらも、以下を説明して貰う必要があります。

  1. 今、自分が直面している問題を知るためにどういう前提知識が必要か
  2. 今の問題
  3. その問題が解決することで、自分は何ができるようになるか

この三つでしょうか。

まぁ、この三つをどうやって伝えるのが良いか、というものは、その人の説明のやり方にもよるので、それはケーススタディになるんですけれど。
少なくとも、この三つを伝えてこなかった場合は、「え? どういう意味?」って言います。確実に。

と言うことで

冒頭の話に戻りますね。

新人のうちは、「質問する側」で、なおかつ「察してもらう側」なので、「察しない」って言うスキルは不要でした。
ところが、後輩を持つと、「質問を受ける側」に変わるわけですね。

大体、若手のうちから仕事ができる人って言うのは、相手を察するスキルが高いか、技術力が人の外側に居るくらい高いかなわけですから、質問されるとついつい丁寧に答えちゃうんですけど。
一歩進んで、「良い質問をするノウハウ」をどうやって伝えるか、という所に目を向けて欲しい、と思います。

ずっとその新人と組んで仕事をするんなら良いですけど、どうせその新人は一年か二年で手を離れるわけですよ。
更にいうと、実力社会を推進している人は、「いずれ後輩に追い抜かれる」ことすらも視野に入れて行動しなければならないですよね。
なので、さっさと私みたいな下っ端の頭を飛び越えて、私の上司、あるいはプロジェクトの管理者、更にはユーザーに質問できるようになって欲しいわけです。

残念ながら、社二病に羅患しちゃった人は、大体において「こういうことも分かんないの? 社会としてはこれが常識だよ」と、露骨にフォローしちゃうんですよね。
察しないフリをしていても、それが露骨過ぎてバレバレで、最終的に新人に上手くコントロールされて情報を引き出されちゃう、って言う。

そろそろ、「質問を受ける技術」、勉強してみてください。

ということで、まずは、察しない練習から。

*1:経験が深い部下の場合は全然別ですけど、今回はその話は除外

メモの書かせ方

新年から若干憂鬱でした

新年あけましておめでとうございます。

今年に入ってから、新人教育をしています。
大炎上しているプロジェクトに参加してもらってのOJTなので、かなり難しい、と言うか、時間が取れないのですが。
とりあえず、おおまかなルールを決め、そこからその新人がどういう気づきを得られるか、をこちらがどこまでコントロールできるか、という部分に勝負を賭けることにしました。

ということで、メモの取り方を、OJTナイズ*1してみようかなぁ、ということで、今回はそのお話。

そもそもメモは頭の整理ツールでしかない

最初のポイントとして、仕事をする上で、「相手にメモをさせる」のは非常にリスキーだと言うことは、話し手としては意識する必要があります。
特に経験が足りない人のメモって「あとから読み返して意味がわからない」ものになりやすいですし。
話し手が伝えたいことと、聞き手が知りたいことの間にズレがあるとメモは一瞬で意味不明なものになります。
ですから、本来は伝えたいことはちゃんと文書や資料にまとめて、自分が伝えたいことを可視化した資料を用いることが良いでしょう。*2

とは言っても、大体資料には穴がありますし、そもそもただ話を聞いているだけでは暇で暇で死にそうなので、話を聞く側はなんだかんだメモを取ってるワケですね。
学生の頃、教科書やレジュメに書き込みを加えたのと同じですね。
ってことで、二つ目のポイントとして、話し手の意志にかかわらず、メモというものは「相手の伝えたい情報を把握」することと同時に「相手が伝えたい情報を自分なりに理解する」ためのツールとしては欠かせないモノとして、聞き手は利用するわけです。

ということで、メモをさせるポイントは、こんなところでしょうか。

  1. メモさせる情報は話し手側が意図的に絞る
  2. メモには「相手の伝えたい情報は何か」「自分の理解はどうか」の二つを分けて記載させる
メモさせる情報は話し手側が意図的に絞る

何でもかんでもメモをさせると情報の伝達に齟齬が発生するのは、相手が新人でもベテランでも同じなので、ここで正確なメモとは何か、みたいな話をしても迷走してしまいます。
大体先輩から後輩にする説教なんていうものは「ある程度は正しい」ので、聞いている側(後輩)からすれば、「なるほどなるほど」って思っちゃう部分も多いんですよ。
そんなものを逐一メモさせても何にもならないんです。
説教なんて先輩の自己満足である部分が大きいわけで、仮にメモさせるとすれば、その情報は二行か三行程度にしかなりません。

ということで、メモさせたい話は「メモして下さい」と事前に伝えることと、そのための深沢の話専用メモノートを渡すことにしました。

メモには「相手の伝えたい情報は何か」「自分の理解はどうか」の二つを分けて記載させる

メモは「相手の伝えたい情報を把握」してそれを「自分なりに理解する」ための橋渡しとなるツールです。
書くことで頭を整理するんですね。

なので、この二つを意図的に分けて書かせるようにしました。
簡単に言うと、「メモを清書する」ステップを追加させたんですね。
基本的にメモは清書するものではない、と私は考えているのですが、頭の中を適切に整理できないうちは、清書させても良いかなぁ、と思っています。

上の話ともリンクしますが、話を聞いている時、特にこちらが意識的に自信ありげに話せば、相手には「それなりの説得力」を持って伝わります。
ところが、いざ後から考えなおして(=頭を整理して)みると、「あれ? なんかおかしいな」って気づくんですよ。
メモを取る、情報を整理する上でとても大切なのは、この「あれ? なんかおかしい」って言う違和感を言語化する作業なんです。

なので、「自分の理解はどうなったか?」を最後に足すことが大切なんですね。

メモを取る時は4フィールドに分けて使う

上記二つのメモにおけるポイントを元に、深沢の話専用メモノートの書き方を色々考えてみました。

大体、くどくどと長い説教をする人も居ますが、その内容もメモにまとめようとすれば、いわゆる大学ノートの1ページの半分に収まる、というのが私の持論です。
大学ノートの1ページの半分に収まらない内容を一度に伝える場合はメモを取らせることは無駄だと思っています。
1ページの半分、となると、おおよそ5分〜10分くらいでしょうか。それ以上の時間、説明しなければならないのであれば、「こちらがメモを作ってから渡す」か、「後で話をした内容を文書で伝える」方が良いでしょう。
そうしなければ、聞き手は話の内容を覚えきれません。

うことで、メモの使い方が決まってきました。
つまり、「1ページの半分に収まる話」を元に、「2ページ使って頭を整理する」ルールにしよう、って感じ。

基本ルールとして、左ページは「相手の言葉」をまとめるもので、右ページは「自分の言葉」をまとめるものとして、そして上半分は「今」を描くもので下半分は「振り返り」を書くためのものとしました。

左側ページ 上半分: 話の内容をリアルタイムでまとめてみる

まず最初、左側のページの上半分。
話の内容を聞きながら、箇条書きでもなんでも良いので、リアルタイムにまとめてみましょう。
この時、ページ最上部の左端に「日付」を書いておくとなお良いです。

大体うまく行かないのですが、これは「会話後のためのステップ」になるわけです。
とりあえず5分〜10分の内容のうち、最初のうちは頭に残ったキーワードなどを箇条書きにして書くくらいになるかと思いますが、まとめておくことはとても重要です。

左側ページ 下半分: 話を聞いた直後に、上の情報と記憶を頼りに、会話内容をまとめる

次のステップが、「会話内容をまとめる」作業です。会話内容の振り返りですね。
基本的に、メモを取れ、って話に出てくる「メモ」って言うのはこの部分の内容を指していますが、話を聞きながらまとめて主題を理解する、というセンスを磨くために、最初は2ステップに分けることにしました。

まとめている最中に、「あれ? ここはなんて言ってたっけなぁ」とか「ここはよくわからんなぁ」ってところは、適宜「さっきの話でここがわからなかったんですけど」って説明を求めてもらっても構いません。
大切なのは、「さっきの話はどういう内容だったのか?」を半ページで綺麗にまとめること、です。

右側ページ 上半分: メモの内容を元にした気付き、発見、改善案などを記載する

ここからは「自分の言葉」を記載するポイントです。
「会話内容や左側のメモに対して自分が感じたこと」を書くことですね。

「そうは言ってもこの話を実現するのはどう考えても難しすぎる」とか「この考え方は理解できるけど納得したくない」とか、そういうネガティブなものでも良いですし、「明日から実践できそうなのでまずは○○から始めたい」とかでも良いです。
あまり相手に感情を見せすぎるのは良くないのは事実ですが、そのせいか、「感情を抑制して仕事をすることが正しい」と勘違いされてしまっている気がしますが、仕事をする上で、「感情」って言うのはかなり重要なものです。
楽しくない作業はモチベーションが下がるだけですし、楽しい作業であれば結果もより良いものになりやすいわけです。

だからこそ、「感じたこと」をちゃんとメモに残しておくことが重要です。

右側ページ 下半分: 最後の振り返りに使う

右側ページの下半分は、メモを取ってからしばらくした時点、例えば三日後〜翌週などに、「読み返した結果」を書きます。
メモを取らせていて一番感じるのは、メモを取ることで満足している人が多すぎることです。
最初に書いたとおり、メモというものはあくまで頭のなかを整理するツールでしかないため、基本的には「読み返す」作業は不要だと私は考えています。
ところが、それは、メモを取ることがある程度できるようになってからやる応用編に過ぎず、メモをまともに取れないうちは、読み返す作業は必ずやるべきでしょう。

このやり方をやって2週間

今のところ、どういう変化があったか、って部分が見えてこないので、このやり方が果たして成功なのかはわからないのですが。
メモを取る、頭を整理する、って言うのは、仕事柄どうしてもずっと必要なので、OJTのうちに何とか形にできれば良いなぁ、と考えています。

*1:OJTナイズ: OJT向けにアレンジすること、深沢語

*2:自分が主役で話をする場合、メモする間をなるべく与えないようにする、というのが一つのスキルになるのはそういう理由ですね。

お仕事でやる会議の三分類

そもそも会議にはいくつか種類がある

仕事をしていて良く思うのですが、「会議慣れしてないなぁ」って人が結構居ます。
全く発言しない、とかもまぁアレな感じですが、それ以上に、「自分が求められている立ち位置」を見間違えている人が多い、と言った方が適切かもしれません。

大体、会議というものは、何らかの「型」を持っていることが大半です。
この「型」を見逃してしまっていると、なんか会議として全体のしまりのなさが目立つんですよね。

ということで、今回は、会議の三分類についてです。
予め断っておきますが、この分類はあくまで私の経験則に基づくものであって、特に参考文献とかありませんよ。

会議を構成する二つの役目

会議を3つに分類するにあたって、会議の出席者には二つの役割に切り分けることができます。
この役割の構成で分類するんですね。

話者:会議の舵を取る人

会議の舵を取る人を、ここでは「話者」と位置づけます。
例えば講演会で人の前に立っている人が話者、という立ち位置ですね。

話者の特徴は、「会議に出席する時点で、既に話すことの大半を決めている」事にあります。
この準備を入念に行うことで、話者は会議の場で舵取りに専念できるようになるわけですね。

反応者:会議の海を泳ぐ人

話者の反対はまぁ聴者になるのでしょうが、「聞き手」は会議の場には基本的には不要です。
話者の言葉に対して「反応を返す」ことが反応者の役目ですね。

反応者のポイントは、「会議の場で出たキーワードに対して、何らかの反応を返す」ことです。
耳を傾けるのは話者の言葉に対してが重要で、その会議の外側にあるような話題に対して手を出すと大体会議が迷走します。

出席者の構成比から見た会議の3分類

上記二つの役割は、会議での振る舞いの基本スタンスになります。
次に、会議の場で、周囲を見渡してみてください。
話者と反応者の構成比で、大体会議は3つに分類されます。

プレゼンテーション: 話者1名に対し、反応者が複数

コアとなる話者は一人だけで、その人主となって色々資料を準備したり話を組み立てたりする会議を、ここでは「プレゼンテーション」と呼びます。
会議と言いながら、一方的に誰かが話すことが多く、基本的には「話者がこれまで組み立ててきたものを全員で共有する」ことが主軸にあります。
ITで業界で良くあるのは「成果物レビュー」なんかが当たりますね。

この形式の会議が成功するには、それぞれ以下のような心構えが必要です。

話者に必要な心構え:
 自分以外が全員反応者に当たるため、その人達全員に対して伝わるように、かなり細かい準備が必要です。
 また、多くの場合、この会議は「反応者全員に対して何かを依頼する」か「話者がこの結果を踏まえて次のステップに進む」ためのものです。
 いずれにせよ、ここで話者の準備が不足している場合、自分の作業が不明瞭になったり、依頼した作業が適切に完了しなかったりするため、注意が必要です。
 
反応者に必要な心構え:
 話者が一人だけなので、その人が今から伝えたいことが何かを理解し、その「何か」に沿った反応を返すことが求められます。
 話者の考えを根本から覆すようなことを発言してしまうと、会議として成立しなくなってしまいます。
 そのような発言をする場合は、「会議を中断すること(=話者に再度準備をしてもらうこと)」を含めた提案をする必要があります。
 また、反応者同士での会話が発生した場合も、必ず「話者に伝わる形で」会話をしなければ、プレゼンテーション型の会議は崩壊します。

セレモニー:反応者1名に対し、話者が複数

「プレゼンテーション」とは逆の構成です。
こちらも話者が一方的に話す(もとい反応者が反応をしない)展開になりやすいという点ではプレゼンテーションに近いのですが、この場合のポイントは「反応者の発言力が圧倒的に高い」ことにあります。
セレモニーと呼んだのはそういう理由で、「偉い人が最終的にOKを言うための儀式」であることが多いです。
ITで業界で良くあるのは「導入判定会議(と言いつつもやる前から結果がわかってる系)」なんかが当たりますね。
あるいは、「進捗報告会」なんかもそれに近いです。

話者に必要な心構え:
 反応者の発言力や地位が高い事が多く、また、話者が複数いるため、個々の話者が話す時間は非常に限られます。
 従って、資料を細かくつくり上げるよりも、「どの情報を伝え、どの情報を伝えないか」の選択が最も重要になります。
 話者同士の情報共有は他のタイミングでもできる(後述のディスカッション)のですから、ここで意識すべきは「反応者にどう伝えるか」です。
 
反応者に必要な心構え:
 反応者が一名である以上、殆どの場合、反応が間に合いません。
 会議に臨む前に、「全体を通じてどこに目を向けるか?」を予め考慮しておく必要があります。
 また、その他にも、話者同士の「矛盾」や「ズレ」がないか、を探りながら話を聞きましょう。
 この会議の形式では、多くの場合、「反応者が責任を取る」事が多いです。しっかりと把握するように努めましょう。

ディスカッション:すべての人が話者であり反応者である

ここまでの二つは話者と反応者が明確に切り分けられていました。
最後の一つはその関係が曖昧なものです。
「ディスカッション」の場では、全ての出席者が同一のテーマに対して準備し、反応を返すことで成り立ちます。
いわゆる「会議」と言われて想像するのがこの会議になるでしょうか。

すべての人が話者であり反応者とならなければ、上記のセレモニーやプレゼンテーションの形に、会議が変貌してしまいます。
例えば、自分の考えをひたすら話し続ける「話者」が一人でもいれば、その瞬間に「その人の考えをプレゼンテーションする場」となり、ディスカッションが成立しません。
例えば、他人の考えに対して反応を返すだけの「反応者」がいれば、「次にどういう答えを導くか」の部分で大きく時間をロスしてしまいます。

出席者の心構え:
 すべての人が話者であるため、会議に挑む前に「何を話すか」「どの立場を取るか」などの準備をしっかりとしましょう。
 もちろん、準備をしても、その準備にこだわらず、「相手の言葉を受けて、自分の考えはどう変わるか、自分の視点からはどう見えるか」の反応を返すことを忘れては行けません。
 話者、反応者、いずれか一方だけの立場から参加してしまうと、それは「ディスカッション」ではなくなります。

まずは、会議がどんなものか? をしっかりと見極めることが大切

会議に参加する時に、これから行われる会議がどの形式になるのかを考えてから参加して下さい。
「反応者ばかりのディスカッション」だったり、「話者が準備できていないプレゼンテーション」だったりしませんか?
大体そういう会議で決まったものは、後になって問題が見つかったり、参加するだけ時間の無駄になったりするんです。

まずは、「どういう会議にすべきか?」を考え、その上で「自分は話者なのか反応者なのか」を見極めるようにしましょう。

ちなみに

話者、反応者がそれぞれ1人の場合、それはインタビューとなります。
つまり、会議じゃないです。

常に何かを妬んでる気がする

たまにぐったり疲れる

仕事をしていると、「自分はこのままやってていいのかなぁ」みたいな思いに駆られる事があります。
だいたい、そういう時は、同期とか上司とかに相談しようとみんなの仕事を眺めたりするんですけど。
こう、余計に劣等感に苛まれたりしてあれであれです。

隣の芝生はだいたい青い

例えば私の同期なんかはみんな会計関連のITコンサルタントだったりするので、もっぱら「あー今日もコーディング1000stepしか書いてないわー」とか「開発チームのメンバーが愚痴しか言わないからなんか最近カウンセラーになったみたいな気分だわー」くらいしか愚痴を言わない低次元な私に比べてですね、「あーマジでここの業務あかんわー、監査引っかかるから直さないといけないのに渋られるわー」とか「あー予算3000万円しか降りないわー、導入規模がでかいのにこれじゃあ開発できないわー」とか、そんなハイレベルな話を聞いていると、「なんだよこのやろう!」と思うわけです。
私レベルだったらせいぜい7人月くらいの見積の承認取るくらいだよこのやろう! 金額にして数百万程度だよこのやろう! しかもその予算もどうせ最初から決まってる枠の範囲内だよこのやろう! みたいな。
もう隣の芝生は今日も真っ青ですよ。
劣等感にさいなまれる日々です。

ところがまぁ、どうも、同期から見た私は何故か評価が高いらしく、彼らにとっても我が家の庭の芝は青いらしいです。
コンサルタントに高評価のSEってどう考えてもなんか違和感があって、どうせ「これは良く動く左手だ」みたいに思われてるんじゃないの、みたいにひねくれていじけているのですが。

この感じを無理やり言語化するならば、、「同じ時間の人生を生きてきたのに、自分はどんなに密度の低い人生を送ってきたんだ」っていう苛立ちなんですよね。
だから、私の同期にとって、「私の生きてきた道」っていうのは彼らの想定外の人生だったのでしょう。私にとって彼らの人生がそうであるように。
「もし、昔の自分が彼らと同じ選択をしたら、自分も同じようなことができたかもしれない、あるいは、もっと上手くてきたかもしれない」って言う、「自分が選ばなかった選択肢に対しての憧れ」もあるのかもしれませんけど。

自分の下の世代の芝生はなんか輝いてる

で、ちょっと前までは、下の世代の芝生も青く見えてたんですよね。
つまり、「自分もその域(後輩の見ている世界)に達することができるはず!」って言う、自分への期待を含んだ、後輩への妬みが少なからずあったんですよ。
なので、先輩が後輩に対して「お前には敵わないわ」って白旗を挙げることが理解できなかったし、先輩から褒められても単におだてて木に登らせようとしているだけだと思っていたんですね。

ところが、社会人になって数年経って、なんとなく、いや、かなり強く感じているのですが。
「自分はもう(新人当時の自分の読みよりもおどろくほど早く)成長速度が頭打ちになりつつあるなぁ」って感じのぼんやりした諦めがあるんですよね。
多分、今自分がやっている仕事を、本気で後輩に教えれば、ものの一年か二年で、今の自分の立ち位置まで後輩は上がってくるんだろうなぁ、とか、「そもそも最初から負けてるんじゃないかなぁ」って気付いてしまった感じ。
もしかしたら、私が教えなくても、三年くらい待てば、私よりも後輩の方が仕事ができるようになっているかもしれない、って言う、二年目とか三年目の天狗時代には考えもしなかったことも、最近では確信になりつつあります。

となると、妬みとか苛立ちとかそういうものを感じにくくなったと言うか、単純に眩しいんですよね。
「あ、この勢いがもう無いな」みたいな。
特に、自分と似た道をたどってきた後輩を見ると、その眩しさは尋常じゃなくてですね。
「あ、同じ道を辿ってきたはずなのに、この輝きはなんだろう」って感じて、まだ三十路なのに老兵の気分を味わってしまうんですよ。
仕事をしていると特に、「後輩と同じ方向を見て仕事をする」わけで、その視界の広さや視点の違いって言うのはやっぱり眩しいんですね。

じゃあ、自分の上の世代は?

ってことで、上の世代なんですけど。
これはもう、燃え盛ってるんですよね。

どこかのタイミングで、自分の上の世代は二つに別れるんですよ。
一つは「絶対追いつけない、逃げ切られる!」って人。
なんかちょっと自分のほうが仕事ができる部分がある気がするけど、定年になるまでこっちが頑張ってもなんか逃げ切られるなぁ、みたいな。
簡単に言うと「お前のほうがスタートが早かったから俺が負けてるんであって一緒にスタートしてたら俺が勝つもん!」って言う感じの妬みね。

もう一つは「もう追いついた、あるいは追いつける!」って人。
自分のスキル的には多分この人に勝ってるな、って人ですね。
もちろん、そうは言っても全然勝ててなかったりすることもあるんですけど、それは横においておいて。
そういう人が相手だと「なんだよお前のほうが年齢が上ってだけでなんでお前そんないい思いしてんだよ畜生!」って感じの妬みですかね。

ってことで、基本的に上の世代の芝生って燃え盛ってるんですよ。嫉妬の炎で。

他人と比較しても良いことってあんまりない

自分の同世代の人を眺めていると、「何故自分は彼らのような選択ができなかったのか?」を自問するし、後輩の仕事を見ていると、「今の自分に未来はあるのか?」って言う不安があるんですよね。
その答えを探して、自分の上の世代を見てみても、「既にゴールしている、どうやっても追いつけそうにない人」と「自分より下だと思っている、参考になりそうもない人」なんですよね。

つまり、「今の自分を肯定する材料」って、職場にいる人ではないんですよ。

この「将来への不安」って、自分の成長だったり学習だったりの原動力にもなるんですが、こんなかんじでこじらせてしまうと、全く動けなくなったりするんですよね。

ということで。

なんか周囲が眩しかったり妬ましかったり羨ましかったりしたらですね。「自分のやってきた仕事」を振り返るようにすると良いですよ。
それが、自分を肯定する唯一の材料なのかなぁ、と。