プシェドモスティー

 わたしが散策したマンモスの地を説明しておきたい。
http://4travel.jp/traveler/fk/album/10026504/
  チェコ鉄道プシェロフ駅からバスで10分のところがバス停プシェドモスティーだ。プシェドモスティーは大戦前は寒村で大きな建物といえば教会だけだった。プシェロフ市に建設された工業が大発展する第二次世界大戦後の社会主義体制の時代にこの寒村は開拓され市に組みこまれてから多くのアパート(パネラークと呼ばれる高層住宅)が建設されて,住宅街となった。なだからな傾斜地の郊外は閑静な住宅地であるが古代人が住んでいたのとマンモスの骨が大量に発見されたことで研究者のあいだではよく知られている古代人も住んでいた場所。
 
 パネラーク群の中にちょっとした記念公園がある。そこには大きな岩があり24,000年前には人々が集落をつくり生活していたと説明書きがある。マンモス狩人たちの部落であった。1571年にはすでに,ある学校の先生がこの地には古代遺跡があるはずと発表している。 プシェドモスティー住宅街からかなりの勾配をしている散策道がある。その先1.5kmに数年前にマンモスの像が建てられ記念公園が完成した。そこを目指して歩き出した。


 散策を始めるとすぐ左手に,150年前に大量のマンモスの骨が発見されたと伝えられる場所があるがいまではなにも残っていない。そこには記念碑も何もなくただ雑草ばかりが生い茂っている。 道路の右には小学校があってその校舎の中に簡単な博物館がある。もちろんマンモスの博物館で,小学生にとり大好きな展示などがたくさんある。


 丘を歩きながら道路の右を眺めると低くなっている遙か彼方には牧歌的な村がある。そのまた遙か彼方には,右と左に続く山脈系に切れ目があり低地になっている、これがモラヴィアン・ゲートと呼ばれる古代からの街道である。ポーランドに続く街道が太古の昔から通じ通商で重要なモラヴィア門だ。そのなだらかな街道はマンモスやズブル(野生牛)など古代生物も往来しただろうと想像されている。人口大移動も戦争の軍隊もこの道を通ったことであろう。

 丘の上から右側の遙か彼方に煙突をみる。長い間チェコ産業の一つの代表だった砂糖工業は製品を欧州に輸出する大切な産業だった。経済自由化後,その会社はフランスの砂糖会社に買収された。そして潰された。 フランスの会社が砂糖をチェコに輸出する目的で安くチェコ企業を買収してから倒産させたのだった。チェコへの外国投資ではこの様なケースが山ほどあり,チェコ人は戦々恐々としている。チェコ人には外国を信頼することができないという難しい歴史的背景があるのに、いままた外国資本の餌食になる会社が多い。


 バス停プシェドモスティーから1.5キロの距離は、散歩するのに丁度いい傾斜と道幅で,それに右側遠景がポーランドに向いている景色が雄大である。人の気配もなければ自動車も走っていない。麓のベチョヴァ川沿いはむかしの琥珀街道だ。古代人が眺めた景色がおおく残っているような自然の風景だ。


 マンモス像が林の中に見えてきた。150年前1000頭近くのマンモスの化石が見つかった。が,当時の寒村の人々はその価値を全く知らなないので,骨を砕きビートの飼料にしたり近くの砂糖工場に売って、砂糖フィルターとしてぜんぶ使われてしまった。あとで後悔したのは学者達だった。だが幸いにその後も少しずつ骨や古代人の生活遺跡が見つかっている。

http://4travel.jp/traveler/fk/album/10083797/ ○プシェロフ


チェコのマンモス化石

マンモス化石についてもう一度整理して書いておきたい。
プシェロフ市郊外のプシェドモスティはむかし大量のマンモス化石が発見されてたいへん有名なところである。プシェドモスティで2006年7月現在、やっと本格的調査が始まった。この発掘現場は、今までに本格的発掘がなされてきたヴェストニツェという有名なマンモス化石の地よりも、さらに劇的な発見があるのではないかと期待されていが、本格的な発掘と調査はずいぶんと遅れてしまったが、これから取組むそうである。


ここですでに正式なチェコ考古学上の大発見となったヴェストニツェというチェコ中南部で発見されたマンモス狩猟民の遺跡の報告を翻訳して要点をメモしておきたい。
Images of the Past, T.Douglas Price/Gary M. Feinman共著、2001年第三版、
Dolni Vestoniceの章、P.124〜P.127
 かってヨーロッパのツンドラ地帯にはマンモスが生息していた。チェコのヴェストニツ          
 ェには800〜900頭のマンモス化石が見つかったが、黄土に覆われた土壌に埋もれていた化石の保存状態はいいものであった。
 1947年から本格的な発掘調査が始まり、25,000年前の化石がたくさん見つかった。当時この地方は永久凍土に覆われていたのだった。
 そこには巨大な小屋があった。石、土、木柱、マンモスの骨をつかって建てた住むための建築物で、9x15メートルの楕円形をしていた。そこに堆積していた灰のなかに、マンモスの骨に女性を彫刻した見事な美術品が見つかった。ヴェストニツェのヴィーナスと呼ばれる作品である。

 その後近くのべつの小屋では中空の小鳥の骨が発見されたが、楽器として用いられたようである。さらにその小屋の真ん中には炉床があり、そこに2300個の15,000年ぐらい前に焼いた粘土の小さな像が出土したのである。いまだ陶器製造の方法が発明されていない前の、世界でもっとも古い焼土の像であった。

コメンスキーの実績

「教育の父」コメンスキー(ラテン語名はコメニウス、1592−1670年)の部屋が館長自慢のものである。この博物館はコメンスキーの遺品を集大成して展示するという目的で設立されて、40年近く館長として働いてきたヒブルさんは多くの遺品収集を手がけてきた。
フレスコ画で美しい天井のこの部屋はオーストリア帝国調の部屋である。コメンスキーは教育関係ではチェコでもっとも有名な人物で、当時のモラヴィア地方の大領主ジェラチーン家の金銭的支援を受けて数々の栄光ある実績を残している。
バイブルをチェコ語に翻訳した、
宗教音楽も作曲した、
地図の作成、
思想の書物、
絵を書いて教育したから多くの絵本を残した、
手紙を残した、
(多数ある手紙はただの二枚がオリジナルのまま残っているが、その他は火事で焼失して、展示されているのは後になって書き直されたものである。)
幼児教育の重要性と物理の重要性を強調した、
(当時科学・物理が魔法だと信じられていた時代に、科学的頭脳の持ち主であったコメンスキーは、水パイプのオルガンとか反射鏡その他の工具道具を使って教育をした。)


30年戦争に敗れたチェコ人名士は多くが殺されたり国外追放になったがコメンスキーは欧州各国に出かけて考え方を広めた。これもチェコ人ジェロチーン家の支援があったから出来たことであった。


ハナー衣装と伝統の部屋も魅力ある作品を展示している。ここでも館長が収集された作品が多い。華やかなハナーの伝統衣装は刺繍が多く施され色も派手で、チェコで代表的な民族衣装だ。特にハナーの伝統では、結婚式に着飾る衣装は日本の着物の豪華さに等しいが、男女のかぶる帽子がチェコ歴史の王冠にも似てひときわ目立つ豪華さを誇る。


中身のない鶏の卵がある。これは、キリスト教が9世紀に伝播される前の話であるが、長く寒い冬が終わり死の神モレナから開放される頃、春が来て自然が生き返るのを表わすシンボルとして使った。わら人形を作り外で遊び踊り最後ははでに飾るわら人形を川に流したのだった。むかしこの辺りの冬の寒さは厳しく、今では地球の温暖化と暖房の完備で真冬でもそれ程苦痛でないが、電気もガスも水道もないころの生活では、「死の季節」冬をことさら恐ろしがり、暖かくなる頃、「生きかえる」春の到来を心から喜んだのだった。人形を川に流す習慣は、日本ではのどかな夏の風物詩であったが、こちらでは春を喜ぶお祭のひとつの催しだった。


オロモウツ県のなかでも土地が平坦で土地が肥えているお陰で農業が栄えた地方をハナー地域と呼び、豊かさが育んだ伝統衣装はチェコで最も美しく豪華なつくりになって伝統衣装といわれる。現在では、ハナーというとハナーの伝統舞踏が有名となり、伝統衣装で着飾った男女が室内の舞台か野外で舞踏する。
ハナー地域に25ほどのグループが結成されて伝統を守っているが、社会主義時代には団体活動は事実上禁止されていたので,伝統を守るのは大変な苦労であった。ひっそりと継承した踊りの文化は、だが、自由化後にはすぐ復活した。

通路には、古いハナー衣装の写真が飾ってある。1830年、1837年の絵画もある。


プシェロフの博物館では、チェコの大教育家コメンスキーを知るのと、ハナーの衣装を見るのが値打ちだろう。
 

コメンスキー博物館

この町にも博物館(もとはお城だった)があるので訪問した。そのお城の円形の屋根は随分とスマートだ。尖塔のすぐ下のほうにある丸い金色の玉には日常品(1リットルのお酒、新聞・日用雑貨等)が2002年に保管された。屋根を造り直す工事のときだった。30年戦争のとき日本ではバイキングとして知られる獰猛なスウェーデン軍が進軍して戦いとなっていたころ教会の屋根が壊れてしまい、その後長いあいだ仮に造られた平たい屋根で風雪を絶えてきたものだ。それがスマートな尖がり帽子のような屋根に修復されたのが2002年であったから,ずいぶんと悠長なはなしである。この高くて遠くから見張らせる尖がり帽子の形をした見張搭がランドマークなのである。


博物館の前庭にはプロテスタントの司教の像が立つ、17世紀の司教の像である。彼は誇らしげに両手を高く突き出し、その両手にチェコ語のバイブルをかざしている。この地はチェコが生んだ気骨の反カトリック思想を唱えて殺されたヤン・フスとフス派その後はプロテスタント擁護の町であった。石像になっているその司教の時代に、この地で教鞭をとったことのある世界的に有名な「教育の父」コメンスキーの遺品の数々が展示されているのが、この博物館なのだ。


地下が博物館入口となっている。土器とともに琥珀が展示されている。博物館の近くを流れるベチュヴァ川に沿ってむかし琥珀街道があった。バルト海で産出された琥珀とともに毛皮、金の装飾品が運ばれた。琥珀その他はウイーンまで運ばれ、そこからバルカン半島と現在のイタリアにまで運ばれ交易されたのでその道は琥珀街道と呼ばれた。
男女ネアンデルタール人旧人類)の人形がある。狩猟生活で疲れるのか男は若死にした。女性の方が大きく長生きしたと館長の秘書が説明する。子供を産む女性が強い時代だったようである。ネアンデルタール人の遺骨はモラヴィア地方数カ所で発見されている。
マンモスの骨が多数展示されているが、960頭のマンモス骨がこのプシェロフ市郊外で発見された。その辺りには25,000〜30,000年前にマンモス狩りをするグループが住んでいたと判明している。市街のプシェドモスティという地の丘の中に住んでいた。欧州の考古学では名の知れた丘なのである。


紀元前4000−5500年には小麦栽培が始まっていたのは、大きなツボのなかに麦跡が発見されて判明した。ブロンズ時代紀元2000―1550年のブロンズのお金は大きなワッカの形だ。商人が琥珀などを交易しながら踏み固めたて琥珀街道を形成した時代でもある。但し、当時の遺跡も残っていないし記録もないので、ただ琥珀等の跡から解明された街道である。
人口大移動初期の時代5世紀にケルト族がチェコに移り住んだ。ケルトの時代から歴史遺跡が多くなった。ツボを墓にした形跡がある。


この博物館がまだ城として機能していたとき使われた「黒い台所」と呼ばれる台所が保存されている。地下洞窟の中の台所なので長年の間に煤で真っ黒になっているから「黒い台所」と呼ばれる。

 
モラヴィア地方を中心として現在のポーランドスロバキアの領土にスラブ民族の統一を果たした大モラビア時代は東西南北 人の移動が活発になり金具作りの道具・土器・綺麗な装飾品等を使い始めた10―11世紀中ごろの遺跡が保存されている。その頃プシェロフ城の基礎と砦が作られた村の様子は壁にあるスケッチをながめるとよく分かる。そして13世紀には博物館前のいまもある広場の基礎が造られた。4世紀後になってその広場の中心に、両手でチェコ語のバイブルを差し出す姿をした司教の銅像が建てられ、現在は博物館となった旧お城の広場に立っているわけである。


15―16世紀に使用されたズブルの土製リリーフが置いてある。16世紀の砦のスケッチをみるとこの時代には二つのゲートタワーがあった事がわかる。今も市の紋章には門が描かれているがそのゲートである。


18世紀にはお城全体の大改造があり二つのタワーは取り払われた。その模型を眺めて気が付くが、アーチ付きコリドールのある建築は後期ゴシックで、城は石垣で囲まれていた。この石垣もおおく現存しおり、小さな城砦跡なので徒歩で一周ぐるりと観察してもそれほど時間はかからない。


チェコスロバキア時代に入って1928年までお城であったが、その後博物館に改造されてコメンスキー博物館と名付けられた。このお城の最後のチェコ人君主はモラヴィアで広大な領土をもっていたジェロチーン家であったが、30年戦争後の宗主国の命令でチェロチーンは追放されて、その後残った資産すべてをドイツ人貴族が所有した。それはチェコの主だった城も教会も同じ経緯をたどって、戦後のチェコ政府によるドイツ人追放の結果として政府の持ち物になる経緯まで同じであった。

プシェロフ

 チェコ東部のプシェロフの国鉄駅は、鉄道マニアなら建物を見るだけでも楽しくなるだろう。2002年ごろに改装されてしまったが、かなり歴史的な部分が残っている。東のスロヴァキアとの国境近くでベチョヴァ川が生まれてこの街を流れ、西南に向かいモラヴィア川に合流する。モラヴィア川はさらに南下してスロヴァキアの首都ブラティスラヴァを経由してハンガリー共和国に入るとドナウ河と呼ばれ、最後に黒海に流れ込む。琥珀街道はベチョヴァ川に沿った街道でもあった。琥珀街道はウイーンまで続きそこからイタリアとバルカン半島に続いていたと言われている。



プシェロフの人口は戦前1万であったが、戦後になって大きな工業が起こり発展して現在5万となっている。チェコでは中規模都市である。日本人の目を引くことだが,町の中に空手や剣道の学校がある。


町の紋章はズブルという野生牛の頭が中央にあり、その左右に門、中央上部に冠が描かれる。ピィボヴァー・ズブルというのが地元のビールメーカーで1873年に製造販売を開始したと書いてあり、プシェロフはビール1,000年の歴史があると豪語するが、チェコでは昔どの家庭でもビールやワインを作っていた。今でも作ろうとすれば可能だ。

地底湖

無人のテプリツェ駅から徒歩で一キロ離れたところに国の自然公園があるというので、わたしたちは自動車に乗って、遠回りして、背の高い野草が目の前をふさいでいる道を走った。テプリツェ駅から公園には自動車道が通じていないから、遠回りしたわけだが、そのお陰でなだらかな丘を眼下にしてかわいい小村が散らばる平原と遥かかなたの山脈を見学するドライブだった。10月の紅葉は美しいそうだ。
国の自然公園へは草木をかき分けて入った。

国指定とはいえ自然公園に興味があったわけでないがジュラチャン氏がつよく勧めるので連れて行ってもらったこの公園には、わたしは初めてお目にかかる地底湖というのがあった。中欧でもっとも深い地底湖だという。
林の中にぽっかりとおおきな穴があいている。水が落ちているわけではないから滝ではない。やはり地底湖と呼ぶのだろうか、または水中洞窟と呼ぶのが正しいのだろうか、眼下に小さく見える小屋があり、梯子が水面に潜っている。ガイドがいないと水面近くまで行けないのでわたしたちは手すりにつかまって水面を覗き込んだ。

聞いた話によると、1995年には水面下205メートルの深さを確認した記録があり、最近はオランダ人探検隊がロボットを沈めて水面下260メートルぐらいはあると観測したが、確認はできなかったそうだ。未確認では300メートル以上の深さだと報告されている。
冒険家にとって挑戦の甲斐がありそうなこの地底湖は、フラニツェ洞窟の底である。フラニツェはオロモウツから30キロメートル東の町で、その洞窟は町の南方向の郊外にあるローカル線テプリツェ駅から一キロの距離。

今日案内してもらった場所のごく近いところには石灰を採掘した現場が残っている。治療スパーで療養者と観光客が集まるテプリツェも近く、そこには観光者が冒険する探検洞窟がある。フラニツェからさらに東40キロも行くとわたしたちも観光した古代化石が発見されたシプカ洞窟があり、その他古い人類の骨が発見された洞窟もある。ジュラチャン氏の洞窟も、国指定の自然公園の地下にある地底湖も今後の開拓が楽しみな大自然の贈り物である。

食事ではマス料理をご馳走になった。

http://4travel.jp/traveler/fk/album/10085097/