最近は帰ってきたら近所を30分くらいランニングしている。村上春樹が「職業としての小説家」の中で、有酸素運動ニューロンが増えるらしいと言及しているのを読んだ。一方で、レディオヘッドが名作「OK コンピューター」で、定期的なエクササイズ、節制の効いた食事、適切な感情コントロール抗生物質まみれのケージの中の豚、みたいな歌詞の曲をリリースしてから10年が経っている。10年。びっくりする。その間、ケージの中の豚にだけはなりたくないと思い、酒を飲み、妙に高価な中古の家具を買って金に困り、本を置く場所がなくなったりした。自分にとっての文化的な生活を送ろうとした。文化的なアルコールを摂取したつもりだった。でも、僕はここのところ太るようになってしまった。そしてそれは何より怖い。一切の比喩性のない、正真正銘の豚になってしまう。だから近所を走っている。頭にもいいらしい。そのうちにすごい良い文章を書けるかもしれない。可能性だ。可能性だけならどこにだってある。しっかりと探してみるようにしようと思う。

原付で1号線を走っていて寒くなったなと思う。乗る前にミラーに写った自分が、歳をとって疲れた男でショックだったのもある。とても寒い。18歳の時に、その頃としては奮発して買った、よく分からない上着が風にカサカサいう。よくまだ着られるものだ。買って帰ってみると頻繁に着るほどには気に入らず、かといって捨てるほど嫌いなわけでもなかったからだろう。心の中に澱のようなものが溜まっていっている。これは知っている。対処のしようがないものだ。ずっと前から持っていて、ここ最近は目に入らないふりをしていた。

若いうちの憂鬱はまだいい。歳をとってからのそれは許容されるのだろうか。誰が、というのではなく、美的観点での話だ。

あえて言おう。心の底から思っていることだ。歳をとりたくなかった。経験や思想がそれをケアしてくれる、とあなたは考えるかもしれない。そうかもしれないけど、僕の印象としては、それらは問題に対して全然見合っていない。世界のすべての疑問に対する回答を得て、社会に遍在するあらゆる悲しみを癒すことができるほどの、経験や思想があるのなら、あるいは歳をとることの慰め程度にはなるだろう。そしてそんなものは存在しない。子供だって分かる。

世界は美しい。理解できる。1号線の前を行く、車のテールランプだって見ようによっては美しい。赤いラインの連なり。

僕は見た目の話をしているのだろうか。それはかなりの部分そうだ。それから純粋性も論点になる。例えば僕は今、かなり憂鬱であるが、それに浸りきる快楽を自分に許すことができない。有り体に言えば恥ずかしいのだ。それから怖い。もう既に、これがどのくらいの奥行きを持っているかも、中の暗さも、戻ることの困難さも想像ができなくなっている。まして今の自分が抱えている社会的状況で、それに耐えることができるのだろうか、と。

社会的状況、と書いたら、スッと澱がはけた。社会的状況、ときた。僕はもう、継続する躁的な日常を繰り返すのがいいのだろう。それはそんなに嫌じゃないのだ。性格的にも合っていると思う。大切に感じるものもいっぱいできた。ただたまに、すごく寂しい。

ミツバチの巣を見に行った。刺さないハチだと聞いて、巣の近くをうろうろしていた。緊張感はある。ハチなのだから、絶対に刺さないということはないだろうし、今日に限って気分が違うことだってあるかもしれない。腕まくりしていた袖をもとに戻した。ミツバチに少しも隙を見せない算段。

眠いと気分が乗らない。それが日中まで影響して、しゃべってるそばから、そんなこと言うつもりじゃなかったんだよなあ、と思ってる。家に帰ってから酒を飲みインターネット。この青い光が良くない、確か。そのあと上手に寝られなくなる。循環する。

ハチだったら刺してみたくもなるだろう。

僕には針がないから、違うことを考えてバランスを取ろうとする。遠くの山並みを眺めたり、雑草だらけだと思っていた路傍に意外に綺麗な花が咲いているのに気づいてみたり。そうやって納得しようとする。

お土産にもらった蜂蜜を舐めてみた。取れたてだからなのか、何だか紅茶みたいな風味がした。

本社があるところの都会に行ってきた。普段、遊びに行く中途半端な街ではなく、本当の都会だ。そういうところには何でもある。人々が昼休みに外に出てきて、お洒落なお店でお洒落なパスタなどを食べる。

気の利いた昼食は少し高い。美味しさはそれなり。気分を買っていると考える。会話が弾む。今日も話した。

海が近くにある。でも、海は見に行かない。即物的になったかな、と考える。そもそも、そうでなかった時などあっただろうか。

公園から眺めたかもしれない海。ちょうどその対岸で建設中だった、新興の高層マンション群の辺りを歩くのが好きだった。運河といくつかの倉庫を横目に見ながら、まっすぐな道を行くと現れるスカイスクレイパー。ほとんど誰とも会わない。作ってるところだから。

あれから何年かが経った。人々が住み始めただろう。数十年のローンだ。窓の外には夕焼けと横浜港。昼に食べたパスタは、不満を感じない程度の味ではあった。そういうことを繰り返す。美しいと、立ち止まって実感するくらいの風景にも度々出会う。個別には些細なことでも。大切に思う人間とも一緒に暮らす。その人の幸福が自分にとっての幸福でもある。くっついたり離れたり、思い出したり、悲しむくらい微かな朧げな記憶になったり。誰かに話そうと思うかもしれない。もはや話す相手もいないかもしれない。それから顔にかかって普通に死ぬ。自分が入っている墓を、自分が見ることはない。

あなたに幸あれかし。

隣の隣の街まで酒を飲みに行ってきた。ここは田舎なのに、2駅でシュッとしたお洒落な都市に着く。市街化の波が、ウチから10キロ向こうの川で止まったのだと思ってる。僕が子どもの頃から変わらない。いろんなことがすごいスピードで動いていくというのに。

一緒に飲んだ先輩とは、初めて会った時から10年くらい経っていて、もう完全にいい年なのに、相変わらず少年みたいなことばかり言っている。少年みたいって、いい意味と悪い意味と、2通りの響きがありそうだけど、その人と会うと大体が後者。キャラクターとしては好きで、誘われると飲みに行くのだけど、毎回少しイライラするし、態度にも出てしまう。

最後の方は酔いが回っていて、仲のいい感じになっていた。また飲みに行くのだろう。そして少し気まずくなって、迫る終電が全てを洗い流してくれる。

シュッとした都市では店員さんが外まで見送ってくれた。2件目なんてチェーン店だったのに。流行っているのだろうか。駅の上り階段では、油断しきった女の子が瞬間ではないレベルでパンツを見せてくれた。酒代はほとんど払ってもらった。概ねいい日だった。

コンビニでタバコを買う。だんだんと寂しい気持ちになってくる。1日、たくさん話をして同じくらいたくさんのタバコを吸う。それでもなぜ、酒を飲んだ帰り道で決まって寂しくなるのだろうか。

その時だけは特別な感覚を味わえる。大人になると、自分が寂しいなどと、はっきりと実感することはほぼないし、例えあってもまともな理性があれば押し込めようとする。俺は寂しい、俺は寂しいと頭のなかで繰り返す。国道にはほとんど車なんて走っていない。ここは田舎だから。市街化はしなかった。発展もしないし過疎化もしない。寂しいとだけ思うようになっていた。

小児科の待合室で知らない子どもと遊んだ。僕が持っていたポテトのミニカーを転がしていた。ああ、この子は父親と遊んでもらえないのかな、とか、何の根拠もないことを想像して世を儚んだ。子どもはそのうちに帰って行った。

女の子はトラックの荷台にぬいぐるみを入れようともしていた。いろいろ試すのだけど、どうしても蓋が閉まらない。格納ができないと、トラックの魅力はそのほとんどを失う。僕にも理解できる。小さいぬいぐるみを一緒に探す。もう少し、でもどうしてもぬいぐるみの頭が出ている。

妻と息子が戻って、どうということもない風邪だと分かり、それでもまだ小さなぬいぐるみを探した。見つけても、もう見せる相手がいなかった。

大きい熊のぬいぐるみが良いものだと、今日までは思っていた。

悲しみはないほうが良い。それで世の中から崇高なもののいくらかが失われるのだとしても、それはそれで構わない。代わりにビールを飲みながら、バラエティ番組を見て過ごす。日々は流れる。質は問われない。ブラックマヨネーズはあんなにも面白いじゃない。

他人の幸福がどういう形をとるものでも僕には構わない。それは、こちらから容喙できる類のものではない。小さいぬいぐるみはある。今日、たまたま、あそこには無かっただけだ。まだ、長く生きるのだから、あの子にはきっと見つかる。

いくら近づいてきていようと、季節はまだ夏ではない。うっかりすると寒い日なんかがあったりする。梅雨というのは季節なのだろうか。春夏秋冬という概念を長い間、自然なものとして受け入れてきた僕たちは、完全に独立したキャラクターを持つ梅雨を軽視しているのではないのだろうか。なにせ、この曇天は一ヶ月くらい続くのだから。そして、日によって、たまには、虚をつくように寒かったりする。

夏は好きなのだけど、肌に合わない。ぎらぎらした感じがする。圧倒的な生命感がある。

梅雨が続いて、このまま夏が来ないような気になる。だってもう6月の中旬でしょう。現実味がない。毎年、そう思う。今のところ、実際に夏が来なかったことはない。

もっと夏のことを考えて。気持ちだけ8月。

暑くなったら新宿で遊びたい。夏と歌舞伎町はぴったりの関係だと思う。夜まで酒を飲んでいる。ネオン街は何時になっても華やかなままなのだ。椎名林檎の歌で、そうやって聞いて憧れて育った。

いい加減、夜中になったら、コマ劇場のあった辺りにうなぎ屋があるからちょっと奮発しちゃって、始発を待つ間はカラオケにこもっている。外に出ると、まだ弱い朝日と、スーツのまま広場に寝ちゃってるサラリーマンのコントラスト。どっちも言語的には灰色だけれど。密室で気に入らないことが増えていたのなら、彼らを蹴っ飛ばしてみてもいい。どうせ寝ている。でも、そんなことはするべきではないし、することもないってちゃんと分かってる。寝ているのと死んでいるのは、とても似ている。遠目に見分けはつかない。僕たちは生きているから山手線で帰る。緑色が自慢気の電車だ。早い、早い。

そしてそれは、様々な接続を持っている。だとすると、乗っている僕たちは、理論上はどこまででも行ける。

僕はずっとここにいる(今のところ)。君だってたぶん同じだ(僕よりいくらか若いとしても)。でも信じて。