感謝、さようなら

●今日で、私は、インターネットの世界から去る。この、「傀儡子の日記」にアクセスして下さった、多くの方々に、まず、御礼を申し上げる。

今月のアクセスは、 4719÷29=162 1日160人の方が、この、愚にもつかない、何の役にも立たない記録に目を通して下さった。


長い間、本当に有り難うございました。  心から御礼申し上げます。

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国立国会図書館 深沢秋男 316件
国文学研究資料館 論文目録 深沢秋男 145件
都立中央図書館 深沢秋男 51件
昭和女子大学図書館 深沢秋男 20件
■法政大学図書館 深沢秋男 22件

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皆様 さようなら

最後の仕事

最後の仕事

●私は、生涯をかけて、仮名草子作者、如儡子・斎藤親盛の研究をしてきた。しかし、それは、未だ、完了していない。永遠に完了しないかも知れない。それが、人間存在である。完了した場合、以下の如くなるはずである。出版社は、大阪の 和泉書院を希望している。

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如儡子・斎藤親盛の研究』

平成27年8月30日 〔21〕

目 次

序 章
はじめに
研究史

第一章 如儡子・斎藤親盛の伝記
第一節 初代、祖父・斎藤光
第二節 二代、父・斎藤広盛
第三節 三代、如儡子・斎藤親盛
第四節 四代、子・斎藤秋盛
第五節 五代以後の斎藤家

第二章 如儡子の著作『可笑記
第一節 作者・成立時期・巻数・章段数
〔一〕作者
〔二〕成立時期
〔三〕巻数・章段数
〔四〕「如儡子」「可笑記」の意味と読み
第二節 諸本
第一項 諸本の書誌
〔一〕寛永六年跋写本
〔二〕寛永十九年版十一行本
〔三〕寛永十九年版十二行本
〔四〕無刊記本
〔五〕万治二年絵入本
〔六〕その他(取合本)
〔七〕写本
第二項 諸本の考察
〔一〕寛永六年跋写本
〔二〕寛永十九年版十一行本
〔三〕寛永十九年版十二行本
〔四〕無刊記本
〔五〕万治二年絵入本
〔六〕その他(取合本)
〔七〕写本
諸本系統図
翻刻・影印本等
注・付記
第三節 典拠
第一項 『徒然草
〔一〕はじめに
〔二〕使用した『徒然草』のテキスト
〔三〕『徒然草』の注釈書
〔四〕『可笑記』巻一の二段と『徒然草』一四二段
〔五〕『可笑記』巻一の四段と『徒然草』一五七段
〔六〕まとめ

第二項 『甲陽軍鑑
〔一〕『甲陽軍鑑』の成立年と刊行年
〔二〕『可笑記』・『甲陽軍鑑』関係章段一覧
〔三〕浅井了意の出典の指摘
〔四〕巻一の三十一段、巻三の三十九段の考察
〔五〕その他の関係章段
〔六〕関係章段の考察
〔七〕書名「可笑記」出処
〔八〕まとめ
第三項 その他
〔一〕『沙石集』
〔二〕『十訓抄』
〔三〕『無名冊子』
〔四〕『童観抄』
〔五〕『巵言抄』
第四節 内容 各章段の類型
〔一〕一般人の心得に関するもの
A、学問に関するもの
B、友および人付合いに関するもの
C、恋および婬慾に関するもの
D、貧福に関するもの
E、善悪に関するもの
F、親と子の道に関するもの
G、妻に関するもの
H、慈悲に関するもの
I、その他
〔二〕侍の心得に関するもの
A、日常の心得に関するもの
B、戦に関するもの
〔三〕主君の道に関するもの
A、日常の心得に関するもの
B、法度に関するもの
〔四〕仏教に関するもの
〔五〕儒教に関するもの
〔六〕儒仏に関するもの
〔七〕医道に関するもの
〔八〕説話的なもの
〔九〕身辺雑記的なもの
〔十〕その他のもの

第五節 文体
第六節 儒教思想・仏教思想
第七節 批判性
第八節 近世的要素
第九節 浅井了意の『可笑記評判』との関係
第十節 後続作品
第十一節 文学的価値、文学史上の価値
随筆的仮名草子

第三章 如儡子の著作『砕玉抄
●『如儡子百人一首注釈の研究』を要約
第一節 成立時期
第二節 諸本
1、砕玉抄 (武蔵野美術大学 美術館・図書館 金原文庫)
2、百人一首鈔 (水戸彰考館文庫)
3、酔玉集 (国立国会図書館
4、百人一首註解(京都大学附属図書館)
第三節 如儡子、「百人一首注釈」の概略


第四章 如儡子の編著作『堪忍記』
第一節 成立時期
第二節 編者の問題
第三節 諸本
1 松平文庫本(松平宗紀氏蔵、福井県立図書館保管)
2 内閣文庫・和学講談所本(国立公文書館蔵)
3 内閣文庫・昌平坂学問所本(国立公文書館蔵)
第四節 松平文庫本 本文翻刻

第五章 如儡子の著作『百八丁記』
第一節 成立時期
第二節 諸本
第三節 内容の概略
第四節

第六章 如儡子俳諧
第一節

第二節

第七章 研究書・論文など
一、研究・本文校訂・本文複製等の単行本
二、雑誌・紀要・単行本等に発表した論文等
三、論文以外のもの

○参考文献
○斎藤親盛関係年表・斎藤親盛関係系図
○索引
あとがき

情報収集と情報発信

情報収集と情報発信

●HP 「近世初期文芸研究会」 開設して17年になる。この立ち上げには菊池先生の御協力があった。デザインも先生が担当して下さった。ネット利用の原則は、ギブ&テイクだと認識して、実名で責任ある情報を発信し、有益な情報を収集してきた。このネットによって、私は、研究上、計り知れない恩恵を蒙った。また、情報提供も積極的に行ってきた。ネット活用の出来ない御仁は、自己宣伝とカゲグチをたたく向きもあったが、自己宣伝ではなく、事実の発信であった。自分に、データの蓄積がなければ、発信は出来ない。その点、私は、大学生の頃から、データの蓄積は有用と考え、記録蓄積してきた。それをネット上に乗せたまでのことである。

●情報発信

HP 「近世初期文芸研究会」 を通して、基本的情報の発信を行い、ウェブ日記、ブログを通して、雑録を発信し、ツイッターフェイスブックも活用して、意思表示はした。

●情報収集

○菊池眞一研究室
○J−TEXTS
○荒山慶一
国会図書館
都立中央図書館
国文学研究資料館
昭和女子大学図書館
所沢市立図書館
○法政大学図書館
○最近の書誌図書関係文献 中西裕
○日本の古本屋
朝日新聞
○荘内日報
ウィキペディア 情報発信も
はてな キーワード 情報発信も
ツイッター
○菊池エッセイ
富士川舟下り
○ヤフー地図・路線
○郵便追跡サービス
東京堂出版

●とにかく、ネット情報で、私の研究は、非常に効果的になった。しかし、私は、文章を書くとき、極力、ネット情報は削減し、文献を重視した。文章もワードからは、極力離れるようにしている。

如儡子の辞世詠

辞世詠 291 如儡子

●ネット上に 「辞世千人一首」 というサイトを見つけた。その中に、如儡子の歌を見つけた。

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辞世詠 291  如儡子

身はかくて死すともこの書見ん人の 知恵の鑑の影は離れし

江戸前期の仮名草子作者。延宝二年(1674)の没、享年未詳。

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●これは、『百八町記』の巻末に載る歌。『百八町記』の巻末には、

「承応四年秋始下日  如儡子これを躙書にす

百八町記巻之第五終

薪つき滅なん跡の思ひおとこのもとことにのこすことの葉

身はかくて死すとも此書みん人の智恵の鑑の影は離れし

物故 武心士峯居士老後加筆

  武藤氏西察書之 」  

とある。承応4年、の時、如儡子は、62歳くらいであったかと推測される。


出羽三山神社 秋の峰

●今日の、荘内日報は、出羽三山神社の「秋の峰」の修行が始まったと報じている。実に懐かしい。私は、仮名草子作者・如儡子、斎藤親盛の伝記研究の調査で、何度もこの羽黒出羽三山神社に伺って、お世話になった。三山神社祝部・小林庸高氏は、法螺貝の名手で、この秋の峰の折など、先頭に立っておられた。私は、この小林氏にお世話になり、三山神社の調査を進めることが出来た。感謝している。

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出羽三山神社「秋の峰」始まる   

出羽三山神社(宮野直生宮司)の山伏修行「秋の峰」が26日、出羽三山を舞台に始まった。海外を含む県内外の158人が「擬死再生」の荒行に挑んでいる。
同神社の山伏修行は、出羽三山の開祖・蜂子皇子による羽黒古修験道を受け継ぐとされる。「秋の峰」は羽黒修験の四季の峰のうち、一般に公開された最大級のもの。今年は国内は北は北海道から南は佐賀県までの19―78歳の男性が入峰(にゅうぶ)した。
初日の26日、山伏の装束に身を包んだ一行は、正午すぎに手向地区の下宿(明光院)を出発。途中の神社で笈(おい)に新しい生命を宿すとされる儀式「梵天投じ」を行った後、随神門から石段を上り、拝所で唱え事をしながら山頂を目指した。
朝晩はぐっと冷え込むものの日中は青空が広がる天気に恵まれ、杉木立にほら貝の音が響き渡った。3度目の参加というさいたま市、保険代理業、園部浩誉さん(50)は「携帯電話といった電化製品もなくほら貝の音で始まり、ほら貝の音で寝るという非日常にはまった。普段は味わえない体験」と話し、国指定無形民俗文化財黒川能」で役者も務めるという鶴岡市黒川、農業、清和荘一郎さん(29)は「知人に誘われて初めて参加する。能役者の世界と同じか、違うのか。どう自分が変わるか楽しみにしたい」と話していた。
一行は来月1日まで7日間、羽黒山中腹の吹越籠堂に寝泊まりし、月山など山々を巡る「山駆け」、トウガラシをいぶした煙の中に居続ける「南蛮いぶし」などの行に挑む。
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忘れられる権利

●今日の、朝日新聞に、ネット上における、忘れられる権利に関しての記事が載った。人間、この世に生を享けて、それぞれに生きて、そうして去ってゆく。去る者は日々に疎し、である。しかし、インターネットが、人間の生活のうえに登場して、事情は一変した。去る者が忘れられずに、何時までも、ネットの上を走り回るのである。
●先刻、紹介した私の現役時代の書き込みも、その一例だろう。私は、インターネットを利用した時から、全て実名で情報発信してきた。責任のある内容しか書き込まなかった。従って、私の死後、すぐに消されても、何時までも保存されても、一向に構わない。ただ、私の情報の上に登場した、方々が、それを消してくれ、と言われても、これは、なかなか、むつかしい。その点は、あらかじめ、お詫び申し上げておく。お許しください。

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(耕論)忘れられる権利 生貝直人さん、宮下紘さん   朝日新聞デジタル より

2015年8月28日05時00分
インターネットに流れた個人の情報は本人の意思とは関係なく、コピーが繰り返され漂い続ける。欧州では「忘れられる権利」の法制化作業が進んでいる。ネットで忘れられることは可能か。プライバシーと知る権利をどう考えるべきか。

■検索の削除基準、オープンに 生貝直人さん(東京大学特任講師)

いったんネットに公開された自分の情報を、時間の経過とともに消したい、忘れられたい、と求める。そんな「忘れられる権利」が注目される背景には、誰でも情報が発信できるようになった、この10年ほどのネットメディアの普及があります。

ブログやツイッターフェイスブックなどの登場で、個人の生活レベルの情報までがネットを行き交うようになりました。

ただ、どんな情報は出してよくて、どんな情報は出すべきでないか、というリテラシー(判断能力)を身につける機会もないままに、ツールだけが広がってきた。

それらを使って若いころに不用意に公開した情報は、ネットの中でいつまでも消えません。社会的地位のある大人になって「消したい」というケースなど、これからどんどん出てくると思います。

<EUは法制化へ> 昨年5月、欧州連合(EU)の司法裁判所が「忘れられる権利」を認め、ネット検索のグーグルは検索結果の削除義務を負う、との判決を出したことで、この権利が広く知られるようになりました。

EUでは3年前から「忘れられる権利」の法制化の取り組みも続き、詰めの作業に入っています。

日本でも、同じようにグーグルに対し、個人情報を含む検索結果の削除を命じる判断が、昨年10月に東京地裁、今年6月にもさいたま地裁で出されました。

EU司法裁の判決は、情報が「不適切、すでに関連性がない、過度である」場合には削除を求められる、との判断を示しました。

この判決を受け、グーグルはこれまでに、EU域内から100万件を超す削除申請を受け、一つひとつその可否を判断しています。

問題になるのは、メディアの記事に掲載された犯罪歴などの情報です。検索結果が対象とはいえ、その削除は「表現の自由」「知る権利」に関わってきます。

そんな情報の削除を企業の手に委ねていいのか、各国のプライバシー保護当局が判断をすべきではないか、という指摘もあります。

一方で、ネットに拡散した情報自体を、例えば政府がしらみつぶしに削除することは、技術的にも難しいし、望ましくありません。

その点、検索はネット情報への入り口であり、大手のグーグルが対応することは技術的に可能で、効果的だとも言えます。

ただ、その客観性、中立性をどう担保するか。そのためには、削除の判断を、外部から検証できる仕組みが必要です。

グーグルは「忘れられる権利」について欧米の専門家による諮問委員会をつくり、今年1月、削除基準などの報告書を公開しました。また、削除の件数や傾向などを継続的に公開しています。

とはいえ、その内容はまだ不十分です。もっと具体的な削除の基準、個別の判断の内容をオープンにしていくべきでしょう。

これはグーグルだけのことではありません。日本のヤフーは3月、専門家による議論をもとに、検索結果の削除基準や「忘れられる権利」についての考え方についての報告書を公表しました。

グーグルの件も含め、こういった情報が公開されると、「忘れられる権利」の問題にどう取り組んでいけばいいのか、という幅広い議論の土台になります。

<「消せる」保証を> ソーシャルメディアのサービスも、「忘れられる権利」への対応が求められます。

グーグルが削除した検索結果で最も件数が多いのは、フェイスブックに掲載されている情報です。

米国ではカリフォルニア州が今年1月、未成年者が自分の投稿を後から削除できるようにする「消しゴム法」を施行しています。

自分のプライバシー情報をコントロールしやすくする。後から消したい情報は消すことができる。そういう点をしっかり保証していくことで、利用者も安心して使えるようになるでしょう。

(聞き手・平和博)
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現役時代のウェブ日記

●私は、現役時代に、大学の自分のサイトに日記を記入していた。容量が膨大であるので、その1部を紹介する。ネット終了の置き土産である。
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■日 録■

平成15年5月10日(土)
本日、昭和女子大学のHPをようやく開くことができた。今後、折に触れ書き込んでゆくことにする。
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平成19年(2007年)3月20日(火)
昭和女子大学に感謝!!!

●平成17年(2005年)3月2日(水) 「さようなら・・・昭和女子大学」 として、次のように書いた。

●本年度で、昭和女子大学ともお別れである。20年間お世話になった。学長の人見楠郎先生、副学長の原田親貞先生、同じく松本昭先生、同じく岡村浩先生、そのほか、多くの方々の御指導を頂いた。未熟者の私が、曲りなりにも定年まで勤務できたのも、皆様の御厚情によるものである。心からの感謝と御礼を申し上げます。
●このサイト「深沢秋男研究室」も間も無く閉鎖する。ただし、これらのデータは、菊池真一先生の御配慮で、私のHP「近世初期文芸研究会」にコピーされる。今後は、そこで更新を継続してゆきたい。御興味のある方は、アクセスしてみて下さい。
◎「近世初期文芸研究会」→http://www.ksskbg.com/
◎「近世文学研究所」→http://www.gwaikotsu.com/
◎「日本文学電子図書館」→http://www.j-texts.com/

●2年間が経過した。毎週、火曜日に日本文学科で、仮名草子と近世出版文化・版本書誌学を講じてきた。その任務もこの3月で終り、非常勤講師も辞める。24年間、昭和女子大学にお世話になった。この間、私の講義を受けた学生は、少しは得るものがあったのだろうか。はなはだ、覚束ない。しかし、私は、昭和女子大学によって身分を保証され、研究を進める事ができた。このことに、心から感謝している。
●「深沢秋男研究室」も予定通り「近世初期文芸研究会」に移行し、それなりに追加更新をしてきた。これには、菊池真一先生の御配慮があった。合せて感謝する。ただ、その後、「近世文学研究所」は閉鎖され、データは「近世初期文芸」に移動した。
●私が「近世初期文芸研究会」のHPを開設したのは平成10年であるから、9年前である。この時、昭和女子大に自分のHPを作りたい、と申し出たが、そのようなシステムは無い、と断られた。システムが完備して、「深沢秋男研究室」を開設できたのは、5年後の平成15年であった。今、振り返ると懐かしい。
昭和女子大学は、この3月で完全に辞するが、この研究室は、今後も継続追加更新してゆく予定である。

平成19年1月18日(金)
「井関隆子を知る会」開設

昭和女子大学コミュニティ に新しく「井関隆子を知る会」という掲示板を開設した。昭和女子大学図書館には、『井関隆子日記』をはじめ、関係資料が多く所蔵されているので、これらを知って貰いたいと言う意図のものである。その内容も、折々、こちらで紹介したいと思う。

【14】江戸博で『井関隆子日記』を御覧下さい。
●昨日、江戸東京博物館へ行って、特別展「江戸城」を見学して来た。素晴らしい展示会である。私など未見の資料が多く江戸博の質の高さを痛感した。
桜山文庫所蔵の『井関隆子日記』が2箇所に展示されていた。畑尚子氏の適切な解説が付いていて、隆子の子の親経が、将軍家から賜った五葉松の盆栽の絵の部分が展示されていた。
●また、昭和女子大学の平井学長の御配慮かと思うが、昭和女子大学所蔵の弘化年間の江戸城の「大広間模型」も展示されていた。
●いずれにしても、このようにして、多くの一般の方々に『井関隆子日記』の原本を見て頂ける事は、誠に有難く、そこに「昭和女子大学所蔵」と出されていることも、おのずと、パブリシティとしての効果もあり、喜ばしい事だと思う。
2007/01/05(FRI) 07:56

【13】井関隆子と杉嶋カツイチ
●隆子は、天保期の一人の文化人として、かなり知られていたようである。従って当時の文化人との交流も多かった。ここでは、現在、余り知られていない、盲目の歌人・杉嶋カツイチを紹介致したい。
●杉嶋は名をカツイチ(一一=かずいち かという、吉海直人氏の説がある)は、勾当(検校の下、座頭の上の位)で、歌人としても良い歌を詠み、隆子のもとをよく訪れている。隆子は、この盲目の歌人を温かく迎え、『古事記伝』や『万葉集』を読んで聞かせている。また、著者未詳とされている『当道要録』は、どうも、この杉嶋の著作のようである。郷里は府中の六社あたりだという事はわかっている。
●この盲目の歌人を紹介するのは、天保14年11月5日に隆子の許を訪れて、前田夏蔭の文会に出す物語の執筆を依頼していて、この物語が、面白い内容であるためである。
●隆子は、木村定良・北村季文・蔵田茂樹・桑原やよ子・賀茂季鷹などとも交流があった。これらについても、おいおい紹介したいと思う。
2007/01/03(WED) 09:27

【12】 井関隆子の創作紹介・3 『いなみ野』

●この作品は同志社女子大学の吉海直人氏が発見された。吉海氏は古書店で『物かたり合』という写本を発見され、その中にこの作品が収録されていたのである。他の作者の作品19点と共に入っていた。隆子の作品の分量は5葉である。
●播磨の国の印南野(兵庫県加古川明石川の間に広がる平野)に1人の男が住んでいた。6月の頃涼を求めて野原へ出かける。あちこちに秋の花の蕾が見られ、誠に風情がある。男は思わず一首口ずさむ。すると、どこからともなく、歌が返って来る。一段と高いススキ(尾花)の陰から美しい女性が現れる。男はススキが大好きで、野原に出てきたと伝えると、女性も感激して、2人はしばらく語り合う。やがて、男は女性の色香に惹かれて、つい言い寄ると、女性は「いな(否)」とのみ答えて姿を消してしまう。
●隆子は、草花の中では、ススキ・尾花が大好きであった。ススキこそ、草花の中の筆頭にあると評価している。その彼女の好みを作品化したものと、私は考えている。隆子は『日記』の中には、極めて現実的な事を書きとめているが、創作となると、非常に空想的な構想を使用している。彼女の創作的な才能の豊かさを示しているものと思う。
●この作品は、『同志社女子大学・日本語日本文学』第8号(1996年10月)と、私の『井関隆子の研究』に全文収録されている。是非、一度お読み頂きたい。
2006/12/31(SUN) 08:17

【11】 井関隆子の創作紹介・2 『神代のいましめ』

●原本は、昭和女子大学図書館・翠園文庫の「翠園叢書」巻26に収録されている。写本、半紙本、墨付28葉。佐渡歌人・蔵田茂樹の子の茂時が書写して、佐渡奉行鈴木重嶺に献上したものと推測される。
●この一編の冒頭に「武蔵野の原」とあり、「ならぶ国なくなん栄えたり」とあることから解るように、江戸がその舞台となっている。
●主人公は公事に従事する某の少将で、経済的にも地位の上でも、また家庭の中も全て満ち足りた生活をしている。ところが、この少将は、ある時、平公誠の歌「隠れ蓑隠れ笠をも得てしがな……」を見てから、隠れ蓑笠が無性に欲しくなる。近習に相談しても効果がないので、屋敷の内の大国神に祈願したところ、その甲斐があって、これを入手する事が出来る。この隠れ蓑笠に身をかくした少将は、無二の友や、少将の所へ出入りしている歌人や、家中の全てを任せておく家長や、深い契りを交わしている女性などの所へ行き、自分に対する様々の批評や批判、また世間の人々の予想外の行動に接し、驚き、怒り、悔しがる。
●そんな事を続けているうちに、長男に、隠れ蓑のみを着ているところ(首のみ見える状態)を見られてしまい、それを知った少将は、変な噂の立つのを恐れて、隠れ蓑笠を神に返す、というのが、この物語の荒筋である。
●この主人公は領地を広く持ち、将軍の覚えも第一で、世間の人々も少将に従い、全てが思いのままである。妻もしかるべき人の娘を迎え、子供も皆それぞれに立派に成人している。使用人も目やすい者を選び、遊びも雅びを好んで、歌合わせ・絵合わせなどが絶えない。住まいも立派で見所が多く、調度品も日本の物は勿論、唐の物まで集め、何不足ない生活ぶりで、少将自身「大方あかぬ事なき身」と言って、この生活に満足している。
●このように現実生活で、全ての面で満ち足りた日々を送っている人間が、次に望むことは、自分の身を隠すというような、超現実的な望みしか残っていない。主人公は、隠れ蓑笠を入手したいと願うようになり、もしその願いが実現出来たなら、自分の思う所へ行き、知らない人の側に立ち、世間の人々の有様を見て、「公の御ため後ろめだきことをも聞出」す事が出来るであろう、もしそれが実現できたなら、さらに満足であると思う。
●つまり、隠れ蓑笠に身を隠して、世の中を見て歩く理由として、幕府に対する陰での批判を聞き出す事をあげている。これは、政治を司っている老中クラスの人物としてみれば当然の事と言えるのであり、好色的な目的が第一であったであろうと推測される、平安朝の『隠れ蓑』とは大きな違いである。
●作者は、この一編を通して、人間の表裏の二面性を指摘し、最終的には、徳川幕府の政治の中心にある、首席老中・水野忠邦批判をしているのである。女性の作品としては、注目すべきものだと思う。
2006/12/24(SUN) 07:26

【10】井関隆子の九段坂下の屋敷

●井関隆子の嫁ぎ先の屋敷は、江戸城に近い九段坂下にあった。現在のりそな銀行九段支店の場所である。屋敷はおよそ500坪位だったと思われる。
北側は九段坂上から俎板橋への広い通りに面し、こちらに玄関があったものと推測される。西側は飯田町から清水門への通りに面していて、こちらの面の方が広かったようである。この西側の通りの向かい側には、井関家と親戚関係にある、新見正路の屋敷があった。現在の九段会館の場所である。東隣には榊原隠岐守の屋敷があり、南隣には能勢河内守の屋敷があった。
井関家の屋敷が、江戸城の近くにあるのは、井関家は代々、初めは小納戸衆という、将軍の身の回りの世話をする掛りであり、だんだん出世して、晩年には、江戸城の表(将軍が政治を行う所)と大奥(将軍が私生活をする所)との接点である御広敷(おひろしき)の責任者になる、という家系であったからであろうと思われる。
隆子は、この江戸の中心の、文字通り将軍家のお膝元で、当時の江戸の様々な動きを見ていたのである。
2006/12/17(SUN) 12:23

【9】隆子の実家・庄田家の新宿の屋敷

●隆子の実家の庄田家は、3千石の旗本庄田安信の本家からの分家である。本家は築地の東本願寺の近くに屋敷があったが、第4代・安勝の時、長男・安利に2600石、次男・安議に400石を分知して、これを分家とした。分家・庄田家の屋敷は『庄田家系譜』の延宝5年(1677)の条に「於四谷表大番町屋敷六百六拾坪余納領仕候」とあり、場所は現在の新宿区大京町26番地辺で、幕末まで存続していたと思われる。現在の慶応大学病院の辺りと推測される。
●余談であるが、赤穂事件で、元禄16年2月4日、幕府は、大石良雄ら46名に対して切腹を命じるが、その時の大目付・庄田下総守は、本家4代・安利である。
2006/12/17(SUN) 12:17

【8】井関隆子の創作紹介 ・1 『さくら雄が物語』

●原本は、東北大学狩野文庫所蔵、自筆本、全39葉。
主人公・桜雄は、荏原の君と桜の木の精との間に生まれた男の子でおるが、花のように香り、光源氏のように美しく、その評判は江戸中に広まりまった。成人すると求婚者が次々とあらわれ、親は豊かになって喜ぶが、桜雄は全ての相手を拒絶して、桜の花の咲き乱れる頃、愛宕山の川に投身して死んでしまう。その川をいつからか桜川と呼ぶようになった。
●この作品は、『竹取物語』『伊勢物語』『源氏物語』などの構想をかりて創られた物語である。天保9年(1838)、隆子が54歳の時の成立である。
●この作品は、『竹取物語』のかぐや姫(女性)の位置に、桜雄(男性)をおいて、天保期の仏教界の腐敗ぶりを徹底的に批判したもので、作者の厳しく烈しい批判精神を伺うことができる。
2006/12/17(SUN) 12:05

【7】歴史における事実と虚構

●本日、12月16日、歴史文化学科の「文化史学会」で「歴史における事実と虚構―『井関隆子日記』の記述から」と題して、お話しさせて頂いた。同学会の諸先生、歴史文化学科の学生の皆さんが参加して下さった。さらに驚いたのであるが、いつも、お世話になっている図書館の皆さんが聞きに来て下さった。これには感謝している。図書館の方々にも昭和女子大学所蔵の資料に関心を持って欲しいと願っている。
●このようにして、少しでも多くの方々に、この『日記』や、その著者の事を知って頂ければ、有難いことだと感謝している。
2006/12/16(SAT) 19:33

【6】『井関隆子日記』 江戸博へ

昭和女子大学図書館・桜山文庫所蔵の『井関隆子日記』が東京江戸博物館の特別展〔これを見ずして江戸は語れない 江戸城〕に出品展示される予定である。なかなか閲覧できない貴重本であるから、是非、会期中に江戸博へ足を運んで頂きたい。
江戸東京博物館の、この特別展は、平成19年1月2日〜3月4日 に開催される。アクセスは、JR総武線 両国駅西口、都営地下鉄 大江戸線 両国駅A4出口 である。詳細は私のHP「近世初期」の「近世文学関係ニュース」を御覧頂きたい。

【5】井関隆子の批評精神

井関隆子(いせきたかこ)が世間に少し知られてきたのは、平成11年度の大学入試センター試験の、本試験の国語?・?の古文に『井関隆子日記』が採り上げられてからである。
しかし、私と隆子との出会いは、もう30年も前になる。鹿島神宮宮司家・67代の鹿島則文のコレクション・桜山文庫の中に,桐箱入り・全12冊の自筆の『日記』を発見した時から彼女との付き合いが始まった。
この全く無名の著者の『日記』を初めて読んだ時、大変驚いた。『日記』は幕末の天保11年(1840)から5年間に亙って書かれていたが、そこには、徳川11代将軍・家斉、12代・家慶、13代・家定の名が所々に出てきて、しかも将軍家の動静がかなり詳しく書かれていたからである。
隆子は江戸城に近い九段坂下に住んでいた。夫は、この時すでに他界していたが、子の親経は御広敷御用人を勤め、家斉の正室の広大院の掛をしていた。孫の親賢も家慶の御小納戸を勤め、後には御広敷御用人となり、和宮の掛となっている。
井関家は、代々、初めは将軍の身の回りの世話をする掛であり、だんだん出世して、晩年には、江戸城の表(政治を行う所)と大奥(将軍の私生活の場)との接点である御広敷の責任者になる、そんな家柄であった。隆子は将軍家へ仕える子や孫から、毎日、江戸城中での出来事を聞き、それを『日記』に書さ残していたものと推測される。
一例を紹介すると、将軍・家斉は天保12年閏1月30日に他界した、というのが、現在でも定説になっている。しかし、隆子は、閏1月7日に家斉が没した事を記している。徳川家の正史ともいうべき『徳川実紀』には虚構があり、一女牲の日記に真実が伝えられていると言う訳である。隆子は、当時の女性としては珍しく、広い視野の持ち主で、その興味は、歴史・文芸・文化・政治・社会と多方面に亙っている。国学者鹿島則文は、最初、男性の日記かと間違えた程である。そして、単に興味を示すに止まらず、それらに、ことごとく論評を加えているが、その批評は極めて厳しく、しかも的確なものが多いのである。
隆子が的確な批判をする事が出来たのは、彼女自身、広く古典を渉猟し、豊かな学識を備えていて、人間を歴史の流れの中でとらえるという、視点を持っていたからだと思う。その上、親経・親賢父子から、江戸城内の様子や幕政等に関する正確な情報を得ていた事も関係しているように思う。
首席老中・水野忠邦は、家斉没後、天保の改革に着手し、強引な政策を実行しているが、隆子はこれらを手厳しく批判している。そこに、彼女の老いてますます衰えることのない批評精神を見る事ができる。
2006/12/13(WED) 23:14

【4】『井関隆子日記』 との出会い

●昭和47年、恩師・重友先生の使いとして、桜山本『春雨物語』を返却するため、鹿島則幸氏の御自宅へお伺いした。用件が済んだ時、鹿島様は「こんなものもございますが」と言って、桐箱入りの12冊の写本を見せて下さった。私の専攻は近世初期の仮名草子であり、幕末の名も無い女性の日記に手を着けるのは、憚られた。しかし、初めから読み進めるうちに、その文体と内容に、グングン惹かれていった。
●岩波の『国書総目録』は書名を「天保日記」とし、著者は「井筒隆女」から「井筒隆」へと変更していた。女性の日記か、男性の著作か、それさえはっきりはしていなかったのである。
●『日記』を読みながら、著者の調査も進めた。幕末の旗本の妻であり、「井関隆子(いせき たかこ)」と言う女性である事が明らかになっていった。もともと出版社の要請で原稿作成に着手したのであるが、オイルショックで企画は中止となってしまった。しかし、その時、私は、この『日記』のトリコになってしまっていた。
勉誠社に頼み込んで、全3冊の校注を終えるまでに8年間の年月を費やした。仮名草子研究者としては、8年間の寄り道だったのである。
2006/12/13(WED) 08:09

【3】『井関隆子日記』 とは?

昭和女子大学図書館の桜山文庫に、桐箱入りの、12冊の写本が所蔵されている。これは、幼名・庄田キチ、後に井関隆子の自筆の日記である。天保11年(1840)から5年間に亙る日記で、隆子が55歳から60歳で没するまで書き記したものである。
●隆子は、55歳の正月、老いの身として、これと言って為す事もない、手持ち無沙汰な日々の自分の心遣りとして日記を書き始める。『日記』は年老いた女性の心の発散の場として出発している。
●しかし、生来の批評精神の旺盛な彼女の、目に触れ、耳にする天保の時代は、極めて興味深い現実の連続だったのである。そこから、『日記』に書かれる内容に変化が生じてくる。
●このように、この女性の日記には、極めて主観的な心の発散と、結果的には、その対極にある、この天保期の社会の動き、政治的な変動の裏面をも伝えることとなった。
●私たちは、この一人の幕末の旗本夫人の日記を読む時、江戸時代の人々の生活の様子を多く学ぶことになる。
2006/12/13(WED) 00:47

【2】井関隆子は幕末の旗本夫人

●井関隆子は、天明5年(1785)に江戸の四谷で生まれた。現在の慶応病院のあたりである。この辺は当時は、大番衆という、江戸城などを警護する旗本が住んでいた。隆子の実家は庄田家で、代々、江戸城大坂城の警備を担当する家系であった。隆子は、天保15年(1844)に60歳で没している。
●20歳の頃、松波に嫁いだが、事情があって間もなく離婚した。その後、実家で本を読んだり、和歌を作ったりしていたが、30歳の頃、今度は井関親興(いせき・ちかおき)と再婚した。そこで、井関隆子になった訳である。
●井関家は、実家の庄田家とは異なり、江戸城に近い九段坂下の飯田町に屋敷があった。井関家は、代々、将軍の近くに使える役目の家柄だったので、お城の近くに屋敷を拝領していたのである。およそ350坪位の広さだった。現在の九段会館の前あたりである。ここで、人生の後半の、およそ30年間を過ごした。

【1】井関隆子(いせき・たかこ) について

●井関隆子と言っても、あまり知られていない。私が初めてこの女性の日記に出会ったのは、もう30年以上前であるが、その時、「名前はまだ無い」であった。ナツケ親は私である。漱石ではない。何年も調査を重ねた結果、ようやく「いせき・たかこ」の名前を付ける事が出来た。
昭和女子大学には、井関隆子の自筆の日記が所蔵されている。昭和の関係者に、少しでも、この女性を知って頂きたいと思って、掲示板を新設た。今後、この女性に関する事を書き込んで行きたいと思う。皆様の御意見や御質問が寄せられる事を、楽しみに待っている。
2006/12/11(MON) 14:03

平成18年9月19日(火)
昭和女子大コミュニティ・掲示板書込み(4)

[28] 私の書斎 投稿者:深澤 秋男 [返信] [修正] [削除]

●私の書斎には部屋の両端に、原稿執筆用の机があります。1つは従来の机、ここでは、手紙や様々な書き物をしたり、本を読んだりします。もう1つはパソコンで原稿執筆するデスクです。最近の原稿は殆どパソコンです。このデスクの前の壁に、恩師の写真や書を掛けて、気を引き締めていますが、鈴木重嶺の色紙も掛けてあります。
●重嶺の色紙は、重嶺関係の資料を昭和女子大学に寄贈して頂いた時、御子孫の松本誠先生の奥様から頂いたもの。笹竹の見事な墨絵と「翠園散人」の陽刻方形朱印が押してあります。重嶺が没する2年前の83歳の時のもの。自分の生涯を振り返って、私は竹の笹の緑のように、一貫した信念に従って生きてきた事だ、と詠じる重嶺に親近感と尊敬の思いさえわいてきます。彼は、右往左往しない人生だったのかも知れません。故に、海舟も一目おいたように思えてきました。


[27] 佐渡天領ゼミナール 投稿者:深澤 秋男 [返信] [修正] [削除]

●8月5日(土)、佐渡の全国天領ゼミナールで、鈴木重嶺についてお話しました。能楽の大成者・世阿弥配流の縁の金井能楽堂が会場でした。参加者は、全体で100名位でした。佐渡以外からも1割ほど参加しておられるそうです。
●私の記念講演は、5日のトップでした。自分としては、準備はして行ったのですが、十分だったとは思えず、イマイチというところでした。
●今後は、昭和女子大の重嶺関係の資料を、雑誌等に翻刻して紹介してゆきたいと、切に思いました。本学に、このように貴重な資料がある事を、佐渡の多くの方々に伝えられたのは、良かったと思います。

[26] 鈴木重嶺肖像画 投稿者:深澤 秋男 [返信] [修正] [削除]

昭和女子大学の重嶺の関係資料は、平成8年7月16日、御子孫の松本栄子氏から、全て本学へ寄贈された。ただ1点、重嶺の油絵の肖像画は、仏壇のある部屋に掛けてあり、これは毎日お線香を上げながら拝むと申され、寄贈リストから除外された。
●しかし、平成16年2月19日、この肖像画も寄贈された。この肖像画も頂く事になったので、私は画家の「川久保正名」について調査した。小杉放庵記念日光美術館の田中正史氏や東京文化財研究所の山梨絵美子氏の御教示によって、この画家の概略は判明し、この肖像画は重嶺70歳頃のものと推測された。
●山梨絵美子氏の助言もあり、貴重な存在であることが判ったので、図書館では、特別予算を計上して、この油彩画を文化財補修の専門家に依頼して補修を済ませ、大切に保管している。


[25] 重嶺のお墓にお参り 投稿者:深澤 秋男 [返信] [修正] [削除]

●今日は、午前10時ころ大学に着いたら、キャンパスガイダンスを実施していた。今回も高校生の来学は多く、キャンパスは活気付いていた。来年度の受験生は、本年度と同様に、多い様に思った。
●前期の採点簿を日本文学科の教務の先生に提出して、帰途に新大久保で下車して、全龍寺へ伺い、御住職様に御挨拶して、重嶺の墓にお参りして、来週は佐渡へ伺い、「鈴木重嶺佐渡」と題し、お話しする旨を報告した。
●松本誠先生のお墓にも、お花と香を手向け、現在ここまで進みました、と報告した。国語学者の先生は、私のした事に満足していてくれるであろうか・・・。


[24] 近代文庫の『開化新題歌集』 投稿者:深澤 秋男 [返信] [修正] [削除]

●昨日は、昭和の図書館の、大久保忠保編の『開化新題歌集』を閲覧・調査しました。昭和女子大学図書館の近代文庫は、人見円吉先生が、戦後収集されたコレクションで、貴重な資料が沢山所蔵されています。

[23] 鈴木重嶺の葬儀記録 投稿者:深澤 秋男 [返信] [修正] [削除]

昭和女子大学図書館・翠園文庫には、重嶺の御子孫・松本誠氏(栄子氏)から寄贈された貴重な資料が所蔵されています。本日は、佐渡市での講演に備えて、関係資料の複写をしました。
●『葬儀記録』(翠?/92)は重嶺の葬儀の際の記録として実に貴重なものです。墨付37枚、1帖。1号〜15号まであり、鈴木重嶺の葬儀の参列者と思われる人々の氏名が記録されています。
●1号には、毛利元徳近衛忠熈・正親町実徳・勝海舟など貴族・政治家28名が記録され、全体で1072名となります。黒川真頼・小中村清矩・井上頼国・佐佐木信綱・中嶋歌子などの文化人も多く、地域は東京を中心にして全国に及んでいます。特に佐渡奉行時代に、短歌の指導をした事も関係して、佐渡の人々が多く参列しています。

平成18年6月21日(水)
昭和女子大学図書館・桜山文庫蔵『撰集抄』
昭和女子大学図書館の桜山文庫には、嵯峨本の『撰集抄』3巻が所蔵されている。この本には、実に貴重な識語が書き込まれている。
●嵯峨本 撰集抄、大本、元和8年頃刊、各巻末に「此本三冊全部洛西嵯峨角倉与一入道素庵墨蹟板行之即従素庵直賜之 元和八年 豊松庵法橋玄伯(花押)」の識語がある。従来、嵯峨本は本阿弥光悦の版下が中心とされてきたが、本書の奥書によって、光悦以外に素庵も版下を書いていた事が明らかとなり、書誌学的にも貴重な存在である。
●この度、高木浩明氏が、「嵯峨本再見―嵯峨本『撰集抄』についての書誌的報告」(『汲古』第49号、平成18年6月)を発表され、昭和女子大学の『撰集抄』の意義について、詳細に論じておられる。有り難い事である。
桜山文庫は、昭和61年9月に約8000冊が、鹿島則幸氏から昭和女子大学に一括譲渡されたが、その中でも、『撰集抄』は特に貴重な本であった。その真価が、次第に学界に知られてゆく事は、私としても、非常に嬉しい。

平成18年6月16日(金)
久し振りの『井関隆子日記』
●13日は、久し振りに仕事をした、という1日であった。火曜日なので、大学へ行ったが、イデタチが凄い。我ながら行き過ぎかなと思った。両手にはProtecaのカバンと黒の布袋、いずれも教材。背中には、ニコンF6とD100を入れたリュックを背負った。慎重を期して駅までは妻に送ってもらう。
●2コマ終了後、図書館へ回り、かねて依頼してあった、『井関隆子日記』の複写をさせてもらった。3時から5時までの2時間。何回も何回も手にし、読みふけった幕末旗本夫人の日記の原本であるが、久し振りに挿絵等の部分を複写させてもらった。汗の出ないように冷房してもらい、夢中でシャッターを切り続けた。前之園さんに返却して図書館を出た時、ドット疲れが襲った。
●久し振りにキャンデーに回ってコーヒーを飲み、ひと息入れて、帰宅した。思えば、この喫茶店にもお世話になったものである。昭和に勤務していた頃は、毎朝ここに寄った。多くは副学長だった岡村先生と一緒。たまに、原田・松本両副学長も寄られた。22年間であるから長かった。今となれば、いずれも、良い思い出となった。岡村・原田・松本の先生はお元気だろうか。たまには、御連絡したいと思う。
●若い頃は、この出で立ちに三脚を追加して、全国の図書館や大学を歩いた。複写したものが失敗して、思うように撮れていない事もあり、そんな時は再度出かける。この労働に耐えられなくなったら、私の研究は終りである。昨日の疲労感は、ソロソロ終りかな、と思わせた。

〔21] 全国天領ゼミナール 投稿者:深澤 秋男 [返信] [修正] [削除]

佐渡市では長年「全国天領ゼミナール」が開催されています。今年の夏に、その第21回目が開催されます。第1日目の記念講演に「鈴木重嶺佐渡」と題してお話するようにと、依頼がありました。
●重嶺は余り知られていない、幕末維新の人物で、日本歴史の上から見ても重要な意味を持っていると思います。この点を、少しでも多くの方々に知って頂きたいと、喜んでお引き受けする事にしました。佐渡研究では第一人者の田中圭一先生の主宰されるセミナーですので、恥ずかしくないような内容を伝えたいと思います。

[20] 鈴木重嶺 を易しく紹介したい 投稿者:深澤 秋男 [返信] [修正] [削除]

鈴木重嶺(すずき しげね)と言っても、御存知ない方が大部分だと思います。そこで、研究論文という、固苦しいものではなく、もっと読み易いものを書きたいと思っています。
●私も昭和女子大学を定年退職しましたので、これからは、自由に、易しい文章を書いて、世間一般の方々にも読んでもらえるような本を出したいと思います。実現した時には、御報告申し上げます。

平成18年2月21日(火)
野々山三枝歌集 『海の地図』を読む

■2006/02/20 (月) 詩作と研鑽と

●この度、第4歌集を出版された、野々山三枝氏は、伝記研究から短歌制作の道へ進まれたように思う。私の尊敬する研究者・横山重先生は、この逆の道を歩まれた。先生の犬山時代から、私は御指導を頂いた。
●『神道物語集』『琉球資料叢書』『古浄瑠璃正本集』『竹林抄古注』『室町時代物語大成』等々の多くの日本古典の本文校訂に全精力を傾注しておられた先生として、御指導を賜った。
●しかし、先生から頂く手紙の中に、時々、歌のような部分が混じっていた。感情の昂ぶった時や、コモゴモの想いを短い文章にして下さった時などであった。後で知ったのであるが、横山先生は、同郷の歌人・島木赤彦に師事し、歌誌『アララギ』に参加した歌人であった。
●齋藤茂吉の労作『明治大正和歌史』を読んだ時、若い頃の横山先生の短歌に接する事になった。伝記研究と短歌、古典の本文校訂と短歌。一見、相反するような、精神的営みが、1人の人間の中に流れている。野々山氏と横山先生と、お二人の体内には、共通したモノが、脈々と流れていたように思う。(深沢)

野々山三枝氏の歌集『海の地図』(平成18年2月4日、短歌研究社発行、2600円)

平成18年2月10日(金)
昭和女子大コミュニティ・掲示板書込み(2)
昭和女子大学コミュニティ「グループ掲示板」(鈴木重嶺顕彰会)に 以下の内容で投稿がありました。

                                                                                              • -

【仮投稿番号】 18
【投稿日時】 2006/02/08 07:34
【投稿者名】 深澤 秋男
【タイトル】 勝海舟西郷隆盛
【メッセージ】
●元治元年(1864)9月、勝海舟は大坂で西郷隆盛と会談しています。時局打開の重要な一件が済んだ後、西郷は佐渡奉行の人選に困っている事を打ち明けます。すると、勝は、今は無名であるが、鈴木という人物がいる。これに佐渡奉行の辞令を出しなさい、と薦めました。最後の佐渡奉行鈴木重嶺誕生の瞬間だと推測されます。
鈴木重嶺は、慶応元年(1865)9月14日、佐渡への船の中にありました。
「国のため 大君のため わたる船路ぞ 日を経ずも 追手吹 かせよ わだつみの神」
船の中で、荒れ狂う海の神に捧げて、海中に投じた、重嶺の旋頭歌です。

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【仮投稿番号】 17
【投稿日時】 2006/02/07 08:43
【投稿者名】 深澤 秋男
【タイトル】 鈴木重嶺勝海舟
【メッセージ】
勝海舟は、よく知られていますが、鈴木重嶺は余り知られていない、と言うよりも、ほとんど知られていません。しかし、この2人は、極めて親しい間柄です。それは、2人の出生に関わっています。海舟も重嶺も、空屋敷伊賀という低い身分の出だったのです。この伊賀者という低い身分の出身で、諸太夫という地位まで出世したのは、海舟と都築駿河守と重嶺の3人だけでした。
こんな事情からか、海舟は重嶺と極めて親しく、10歳ほど年下の海舟は、重嶺を慕っていたようです。

平成18年1月27日(金)
昭和女子大コミュニティ・掲示板書込み
16] 鈴木重嶺菩提寺
●翠園・鈴木重嶺菩提寺は、新宿区大久保1丁目にある全龍寺です。JR山手線・新大久保駅から徒歩で5分ほどの所です。鈴木家二代・重元は徳川家康に仕え、大久保村に領地4000坪を拝領していました。重元は寛永13年(1636)に没し、全龍寺に葬られました。以後、代々の菩提寺となりました。
●全龍寺の重嶺のお墓には「最後の佐渡奉行歌人 鈴木重嶺・翠園の墓」という案内表示板が建てられています。是非、一度足を運んでみて下さい。そして、最後の佐渡奉行、幕末明治の歌人に興味をもたれた方は、メールを下さい。

[15] 鈴木重嶺の新資料
●正月早々、甲南女子大の菊池真一氏から、重嶺に関する情報の提供があった。
都立中央図書館の特別買上文庫の加賀豊三郎旧蔵資料の中に、「鈴木重嶺 詠新年山歌 懐紙」が所蔵されている。
伊沢修二編『小学唱歌』第4巻に、鈴木重嶺作歌の『日本三景』が収録されている。
早稲田大学図書館の古典籍データベースによれば、黒川真頼啓発・三田葆光伝述の『玉の緒変格弁』(明治16年)に、鈴木重嶺が序文を書いている。

[8] 鈴木重嶺の著作
鈴木重嶺(翠園)の著作
鈴木重嶺の著書・編書を,現在知り得る範囲で列記すると以下の通りである。
伊香保前橋之記 1冊,写本。国会図書館(桜園叢書・41)学習院図書館。
◎詠史清渚集 1冊,写本。昭和女子大学図書館。
◎オト子との差別或人問 1冊,写本。国会図書館(桜園叢書・68)。
◎於よづれ言 1冊,写本。静嘉堂文庫。
◎紀行 1冊,写本。国会図書館(桜園叢書・41)。
◎絹川花見の記 1冊,写本。国会図書館(二荒廼山裹の内)。
◎御諡号概略 1冊,写本。国会図書館(桜園叢書・11)。
◎夢路の日記 1冊,写本。国会図書館(桜園叢書・41),無窮会・神習文庫。
◎二荒山歌会 1冊,写本。内閣文庫。
◎皇風大意 1冊,写本。国会図書館(桜園叢書・15),無窮会・神習文庫。
◎旅路記恵の露 1冊,写本。国会図書館(桜園叢書・41),無窮会・神習文庫。
◎島曲廼古豆美 1冊,写本。国会図書館(桜園叢書・1)。
◎旅路廼日記 1冊,写本。国会図書館(桜園叢書・41)。
◎翠園兼当歌 1冊,写本。昭和女子大学図書館。
◎翠園詠草二 1冊,写本。昭和女子大学図書館。
◎雅言解 4巻4冊,版本。昭和女子大学図書館,他。
この他,明治以後出版された単行本や,雑誌等に発表された歌論,歌集等に収録された重嶺の歌は,かなりの量になるものと思われるが,現在,未調査の状態である。

[7] 久し振りの墓参
●7月30日(土)の夕方、久し振りに、新大久保の全龍寺へ行って、重嶺のお墓にお参りしてきた。乃村氏も同行してくれた。乃村さんは、全龍寺の御住職さんとも旧知の仲で、以前から重嶺の墓参をして、案内板のチェックもしていてくれる。副住職さんにも挨拶した。
●重嶺の隣には、松本誠先生の墓石もある。重嶺と松本先生(国語学)に手を合わせて、今後、少しでも世間に知られるような活動もします、と報告して、寺を辞去した。
●帰りに、新宿の高島屋の今半で夕食をした。私は、人形町の本店に何度かいっているが、やはり伝統の味わいは、良い。

6] 明治歌壇と鈴木重嶺
●幕府・新政府の公職を辞した後、重嶺・翠園は文事の道にいそしみました。佐渡奉行・相川県知事の時代は、相川を中心として歌の指導を行い、東京に戻ってからは、短歌雑誌『詞林』を発行して、全国の人々に短歌の指導をしました。
斎藤茂吉の「明治大正短歌史概観」「明治大正和歌史」(『斎藤茂吉全集』21巻収録)は、この時期の旧派歌人、新派歌人の関係を適切に評価した力作だと思います。
斎藤茂吉は、これらの研究の中で、鈴木翠園を、三条実美・高崎正風・小出粲・福羽美静・本居豊頴・税所敦子・中島歌子等と共に、旧派歌人の代表歌人として位置づけています。
●明治・大正期の歌壇の研究は、未開拓の分野と言ってよいと思います。昭和女子大の日本文学科の学生さんたちが、本学所蔵の鈴木重嶺関係を活用して、研究して下さるよう、切に希望しています。そうすれば、資料収集に理解を示された、人見楠郎先生も、きっと喜ばれると思います。

[5] 鈴木重嶺墓所の案内板
●平成16年6月、大久保の重嶺の菩提寺・全龍寺に、次のような案内板を設置しました。
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最後の佐渡奉行歌人 鈴木重嶺・翠園の墓
鈴木家の祖・重経は北条氏康に仕えていましたが、二代・重元は徳川家康に召し出され、武州豊島郡大久保村に四千坪の領地を拝領し、以後、代々徳川家に仕えました。重元寛永十三年(一六三六)十月八日に没し大久保村の全龍寺に葬られ。鈴木家は代々全龍寺を菩提寺としています。
鈴木重嶺は、文化十一年(一八一四)、幕臣、小幡有則の次男として江戸駿河台で生まれましたが、鈴木家十代・重親の養子となって十一代を継ぎました。
二十歳で広敷伊賀者となり、以後、広敷取締掛、勘定吟味役勘定奉行、鎗奉行を勤め、慶応元年(一八六五)佐渡奉行となりました。明治維新後、佐渡相川県知事等を歴任しましたが、明治九年(一八七六)官を辞し、以後は和歌の道に励みました。
鈴木重嶺は若い頃から、和歌や国学を村山素行・伊庭秀賢に学び、佐渡奉行在任中も相川を中心とする佐渡の人々の和歌の指導にあたり、多くの門弟を育てました。東京に戻ってからは、鶯蛙吟社を組織し、短歌雑誌『詞林』を主宰しました。明治歌壇旧派の代表歌人として活躍し、当時としては若い歌人佐佐木信綱とともに活動して、『詞林』は後に佐佐木信綱の『心の華』と合併しています。また、当時の歌会には、樋口一葉も同席して、鈴木重嶺の指導を受けています。
鈴木重嶺勝海舟とも深い交流があり、『海舟日記』には、その様子が記されています。明治三十一年(一八九八)十一月二十六日、八十五歳の生涯を閉じましたが、『葬儀記録』には、毛利元徳・近衛忠園熈・正親町実徳・久我建通・蜂須賀茂韻・前田利嗣・勝安房等々、錚々たる人々をはじめ、萩野由之・黒川真頼・井上頼国め中島歌子・佐佐木信綱等々、全国の歌人など一〇六八名の氏名が記載されています。
平成十六年六月二十六日
鈴木重嶺 顕彰会
佐渡市教育委員会
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●全龍寺は、JR新大久保駅下車、徒歩5分の所です。是非いちど、訪ねて下さい。

[4] 重嶺と一葉
鈴木重嶺は、橘千蔭系の山村素行・伊庭秀賢に和歌を学び、佐渡奉行の時は、佐渡の人々に和歌を教えました。また、明治維新以後は、東京にもどり、鶯蛙吟社を組織して、短歌雑誌『詞林』を発行しました。この雑誌は、後に佐佐木信綱の『心の華』と合併しています。重嶺・翠園の歌の教え子は多くいましたが、樋口一葉も中島歌子を通して、翠園に歌の指導を受けています。
●『一葉日記』明治25年3月9日の条に、

「九日 晴天。早朝より支度をなして小石川へ行く。月次会なり。暫時ありて田中君まいらる。今日の来会者三十八、九名成し。島田政君も参られたり。点取題「野鶯」にて重嶺、恒久、信綱、安彦四君の点なり。恒久君の甲重嶺君、安彦君の甲恒久君、重嶺君甲安彦君成しかば、「こは誠に詮なし」などいふ。信綱君の甲はおのれ成けり。・・・」

このように記されています。若き日の一葉は、重嶺にも歌の指導を受けていました。



平成17年9月20日(火)
為永春水と妙善寺

平成17年5月30日(月)
昭和女子大学コミュニティに〔鈴木重嶺顕彰会〕開設
●2、3日前に昭和女子大学コミュニティの〔グループ掲示板〕に〔鈴木重嶺顕彰会〕を開設した。昭和女子大の図書館に〔翠園文庫〕があり、かなり貴重な資料があるので、昭和女子大の関係者に知ってもらいたい、という目的である。昭和の多くの方々に関心を持って頂き、資料を使った研究を進めて欲しいと思う。掲示板の概要は以下の通りである。関係者のアクセスと投稿を期待しています。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
昭和女子大学図書館には、鈴木重嶺(翠園)に関するコレクション「翠園文庫」が所蔵されています。これは重嶺の御子孫の松本栄子氏から寄贈された資料が中核になっています。重嶺の伝記資料や歌人としての自筆草稿が多くあります。
鈴木重嶺は、勝海舟とも親交のあった幕臣で、最後の佐渡奉行をつとめました。また、幕末・明治初期の歌人としても、佐佐木信綱と共に活躍しています。
●歴史・文学の両面で歴史に名を留めて良い人物です。本学の多くの方々の参加を頂いて、これ等の資料の研究を進めて、鈴木重嶺を再評価したいと願っています。興味のある方は、下記宛てメールしてみて下さい。
●会は、当分の間、
kinbun@dream.jp
359−1104 所沢市榎町3−20 深沢秋男方
とします。


平成17年4月30日(土)
非常勤講師の立場
●定年退職して、この4月からは非常勤で学部の日本文学科の2科目を担当することになった。大島先生と岸田先生の御配慮によるものである。私は、退職に際して、一般教養も大学院も断った。ただ、学部の日文の学生には教えたい、という希望があった。それが望み通り実現した訳である。火曜日の2限と3限で、古典文学15(仮名草子)と古典文学17(近世文学と出版)、履修者も52名と60名で多い。週1日であるが、遣り甲斐がある。有難い事だと感謝している。
●非常勤の経験は生まれて初めてであるので、戸惑う事が多い。私が非常勤講師室に入ると自然に点灯した。センサーか、日文は昭和の中でも進んでいるナ、と思ったら、助手さんが点けてくれたとのこと。これも嬉しい。研究室が無いので、教材を置くのが大変。連絡はレターケースであるが、私物はロッカー1つ。ワンルームマンションに置きたい放題だった専任時代とは違う。回覧の資料も家から持参して、その日に持ち帰る事になる。ただ、日文の先生方も助手の方々も、皆親切で、この点も感謝している。
●幸い、受講生もマジメで、熱心さがあるようなので、頑張って少しでも役に立つような授業にしたい。

平成17年(2005年)3月2日(水)
さようなら・・・昭和女子大学
●本年度で、昭和女子大学ともお別れである。20年間お世話になった。学長の人見楠郎先生、副学長の原田親貞先生、同じく松本昭先生、同じく岡村浩先生、そのほか、多くの方々の御指導を頂いた。未熟者の私が、曲りなりにも定年まで勤務できたのも、皆様の御厚情によるものである。心からの感謝と御礼を申し上げます。
●このサイト「深沢秋男研究室」も間も無く閉鎖する。ただし、これらのデータは、菊池真一先生の御配慮で、私のHP「近世初期文芸研究会」にコピーされる。今後は、そこで更新を継続してゆきたい。御興味のある方は、アクセスしてみて下さい。
◎「近世初期文芸研究会」→http://www.ksskbg.com/
◎「近世文学研究所」→http://www.gwaikotsu.com/
◎「日本文学電子図書館」→http://www.j-texts.com/

平成17年3月1日(火)
定年退職後の計画(予定)
●定年退職後は、自分の研究のまとめをしたいと思う。何年か前のある人の年賀状に、私も80歳になったので、研究のまとめをしたい、とあった。この方は、多分、まとめは出来ないだろうと思う。まとめる分量にもよるだろうが、80歳では遅すぎるだろう。私の見るところ、70歳でなければ、まとめは出来ないように思う。
●私は、これまで、校注・校訂・複製等の単行本を約50冊出した。しかし、雑誌等に発表した論文を集めて単行本にした事は一度も無い。言ってみれば、リプリントのような作業は、余り意義は無いと考えているからである。しかし、これで、現役を引退する訳だし、個人的な人生の締めくくりとしては、これも悪くはない、と思う。そこで、これまで雑誌に発表した論文や、単行本等の解説などを主題別に編纂して出したいと思う。
■研究書の出版
?『仮名草子の書誌学的研究』
?『斎藤親盛(如儡子)の研究』
?『鈴木重嶺(翠園)の研究』
?『近世文学雑纂』
?『雑録集 付、年譜・著作年表』?
■資料等の出版
?『如儡子著「百人一首注釈」砕玉抄
?『斎藤親盛(如儡子)全集』
●果たして、どこまで実現するか覚束ない。特に『・・・全集』は膨大であり、5巻位になるだろうから、これは困難なところがある。しかし、その他のものは、是非出版したいと思う。
■執筆活動等
●私は、これまでの執筆活動で、原稿料の出るものは極力避けてきた。お金になる仕事となると、何故か意欲がわかない。結果的には、他の方に回したり、出版社が怒って関係資料を引き上げられたりした。50冊ほど単行本も出したが、印税は全く貰っていない。(本は頂いたが、お金は貰っていない。)。また、昭和女子大以外から、非常勤講師の依頼も3回ほどあったが、全てお断りしてきた。講演なども、アチコチから依頼されて、応じてきたが、千葉の市民文化大学での講演(上田秋成の『雨月物語』)を最後に、全てお断りしている。本学で協力していた館山市の講座で、芭蕉について話すようにとお声をかけて頂いたが、これもお断りした。理由は、未だ一人前の研究者ではない、と自覚したからである。
●一人前になったかな、と自分で思ったのは、日本女子大の、石川松太郎先生の主宰される学会でお話した時である。一般よりも遅い自立ではあった。今後は、お金になる原稿も書きたいと思う。現に、何点か依頼がきているが、これらも喜んで執筆し、原稿料や謝礼を頂くことにしている。年金生活者となる訳であるから、あまりミギレイにばかりにもなっていられないだろうと思う。講演も依頼があれば、今度はお受けして、謝礼も頂くつもりである。勿論、原稿料や講演料のない仕事の方が、楽しくもあり、これらを優先させてゆく事に、些かの変りも無い。

■困った、大事業
●大先生から、私の定年を待っていたかの如きタイミングで『・・・・集成』を引き継いでくれ、と依頼された。このシリーズは、現在、36巻まで出版され、おそらく完結は60巻にはなるものと予想される。これはオオゴトである。私の人生設計からすると、予定外の事で、しかも命取りにもなりかねない大事業である。本心ではお断りしたい。しかし、人間として、研究者としては、迷うところである。自分勝手な事も随分してきたが、ここは、お引き受けせざるを得ないか・・・。若い研究者の協力を頂いて、完結を目指すか・・・。今、思案中である。
■『近世初期文芸』の継承
●私は、昭和44年12月、島本昌一氏と共に「近世初期文芸研究会」を設立して、機関誌『近世初期文芸』を創刊した。現在、第21号まで発行し、近世初期の論文をかなり発信してきた。執筆者も次第に増えて、内容も充実してきた(と、自分では思っている)。
●創刊以来35年間、全て私が編集実務を担当してきたが、定年を機に、この4月1日から、若い研究者、甲南女子大学菊池真一氏に引き継いでもらう事にした。近世初期の文芸状況を解明したいと、熱い意欲をもって創刊した学術雑誌が、曲がりなりにも、ここまで続き、さらに、私の後を継承してもらえる事に感謝せずにいられない。
■健康管理
●私は、外観は一見健康そうに見えるが、人間ドックの検査結果は、かなり厳しい。肝臓と糖尿病と血圧が芳しくない。肝臓はALT(GPT)が132と3桁で異状である。通常の男子は、6〜50である。B型肝炎C型肝炎の検査をしても陰性である。医者も原因が判明しないとコメントしている。糖尿は長い間、境界型で要注意。血圧は高め。そんな状態が長期間続いたので、同年の日文の学科長・川嶋至先生の御他界を目の前にみたので、学科長の辞任を自ら申し出て認められた。幸い、その後の3年間は事無く経過しているが、今後の事は分からない。アイバランスやネーブルファインなど、8種類ほどのサプリメントを机の側に置いて、毎日常用している。これは、長生きしたいからではなく、研究のまとめが終わるまで生きていたいからである。
●机に向かっている時間がどうしても長いので、運動不足になる。定年後は、週一回水曜日に、ジョギングをしようと、息子が提案している。二人で軽く走ろうかなとは思っているが、実行されるかどうか未定。
■家庭サービス
●これまでは、研究第一として、余り家庭の仕事はしてこなかった。犬の散歩とゴミ出し、コーヒー淹れの前の食器洗い、月3回までと許可の出ている、サッポロ味噌ラーメン作り、雨戸の開け閉め、掃除も自分の書斎のみ、・・・。そんなものか?
●これまで、妻や息子の世話になる事が多かった。『井関隆子日記』の原稿3000枚は、全て妻が清書してくれた。今後は、こちらが、何か協力しなければ済まないとは思う。妻は、美容院の収支の記録をパソコンで処理して欲しいと依頼してきたが、承諾はしていない。『勘定奉行』か何かのソフトで、毎日毎日、売上、支出の入力をしていると、人間が俗化するのではないかと心配されるからである。


平成17年2月23日(水)
最終講義と送別会など・・・
●大学教員生活もあと1ヶ月となったが、年度末採点もほぼ終わり、卒業査定と在学年次の査定が終われば、卒業式・終業式で、春休みに入るので、大学へ来るのも、あとわずかである。20年間の教員生活の終りであり、40年間の労働生活の終りでもあるので、ある種の感慨はわく。
●本年度から、本学の日本文学研究会は、会員が定年になった場合、その例会を、研究発表ではなく「最終講義」のような、お話の会にして、会員に退職を知らせるという方式になった。たまたま、私が本年度で退職なので、お引き受けした。
●2月16日(水)の午前中であったが、教授会と重なったので、余り多くの方々は出席できないと、資料も少なめに作って係りの方に渡した。ところが、担当の先生方が配慮して、時間を調節してくれたお陰で、日文・人文の方々が、多数参加して下さった。
●びっくりした事に、名誉教授の高橋先生・甲斐先生、大塚先生や元図書館長の青柳先生もお出で下さった。院生も駆けつけてくれた。
●「仮名草子研究の思い出」と題して、このサイトにヒマヒマに書き込んでおいた、思い出話をプリントして配布、短時間ゆえ、要点を掻い摘んで、お話した。貴重な時間を割いて来て下さった方々には、カルイ内容で済まないと思ったが、私としては心から感謝している。
●退職者に対しては、所属の学科で送別会を開く。私自身、20年前に歓迎会を開いて頂いてから、多くの方々の歓送迎会に参加してきた。今度は、私が開いて頂ける事になる。送別会には最後に綺麗なお花を差し上げる。そして拍手。私は、花を持ち歩くのが大嫌いである。で、先日、お花と同額のボールペンにしてくれないか、と助手さんに、コッソリお願いしておいた。願いが実現するかどうかは、分からない。
●所属学科の送別会以外に、幾つかのグループが開いて下さる。昨夜も、ビックリするようなメンバーで開いて下さった。今後も日程に空きはない。こんなにして頂いてよいのか、と少し疑問もあるが、これも心から感謝している。
●以下に、わたしのサイトのウェブ日記の一部をコピーしておく。この大学での「日録」も間もなく閉鎖する。
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■2005/02/10 (木) 最終講義
●この季節になると、いずこの大学も、今年度で定年退職する教員の最終講義の案内で賑わう。中にはノーベル賞候補のような世界的な研究者もいるし、そうでない、地方の大学の、全く存じ上げない方もいる。分野も、自然科学、環境、社会、歴史、哲学、文学等々、様々である。しかし、その人が生涯をかけて研究してきた事に関してのお話である事はほぼ共通しているようだ。
●かつて『最終講義』なる本で、矢内原忠雄大内兵衛石田英一郎桑原武夫中村元等々の最終講義を読んだ事がある。一人の人間の足跡として、スゴイなと感動したものである。
●本学でも、長谷川強先生の、確か京都の歴史地理と文学というお話や、岡村浩先生の皮革に関するお話を伺った事がある。いずれも、長い御研究の蓄積が感動を呼んだ。
●本学・日本文学研究会は、私の定年退職に際して、例会でお話する機会をつくってくれた。有難い事である。タイトルは「仮名草子研究の思い出」であるが、あいにく、当日、同時間に教授会が急に入り、聴講者は少人数になる模様。何か、私にふさわしいようにも思い、すがすがしい気分でもある。(深沢)

■2005/02/17 (木) 最終講義終了
●私のマンダンのような、昭和女子大学で最後のお話が終わりました。昨日はあいにくの雨、さらに緊急教授会とも重なり、話を聞いてくれるのは、助手さん位かと予想していたが、運営委員の先生の御配慮で、時間を少しずらしたため、多くの方々が出席して下さった。現役の日文・人文の先生方、図書館の方々、それに院生も掛け付けてくれた。
●さらに驚いたのは、私が昭和にお世話になった時の学科長、教務委員、元図書館長の諸先生、皆さん現在は名誉教授になられているが、これらの皆様が雨の中、お出で下さった。全体では、40名〜50名はおられたのかと思う。何と幸せな事か。感謝、感激である。
●40年間に亙る仮名草子研究の思い出ばなしであったが、このように、錚々たる先生方の前で、取りとめも無い事をお話ししていて、我が身の小ささを、否という程、思い知らされた。これが客観化であり、現実である。余生は多くはないが、反省すべき点は反省して、今後に努める以外に方法は無いだろう。それにしても、有難いイベントではあった。(深沢)
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平成17年2月5日(土)
全龍寺にて鈴木重嶺関係資料発見
●1月27日、鈴木重嶺菩提寺・全龍寺の御住職・高崎宗平氏からお電話を頂いた。鈴木重嶺関係の書簡や短冊が大量に出てきたとのこと。有難い知らせである。
●1月30日(日)、早速、全龍寺へお伺いして、閲覧・調査させて頂いた。明治31年11月13日、重嶺は85歳で没した。葬儀には、1068名の人々が参列したが、この中には和歌の門下生が多かった。佐々木信綱や井上頼国など、この門下生が中心になって、霊前に歌を捧げた。その短冊がおよそ250枚。それに関連した書簡等である。重嶺の人間関係を知る上でも、また、当時の歌壇の状況を知る上でも、極めて貴重な資料と言える。
●当日は、午前10時前に全龍寺に到着。まず、重嶺の墓前に樒を挿して、香を手向け、これから関連資料の調査に入る事を報告。続いて、隣に建てられた松本誠先生の墓石にも報告した。
●全龍寺には、重嶺の他に、サンカの研究で名高い、三角寛の墓もあり、今をときめく演歌歌手の瀬川瑛子さんの家のお墓もある。
●全龍寺は、鉄筋の近代的な立派な建物で、資料調査には、控室の1号室を自由に使うようにと、キーを貸してくれた。空調も照明も、申し分のない部屋である。午前10時に調査に取り掛かったが、昼食抜きで、夜の7時にようやく終了した。若い頃は、こんな事も多かったが、定年直前の身としては、コタエル1日であった。が、このような貴重な資料に、この時期に巡り合えた事の方が、幸せに思えた。
最後の佐渡奉行歌人 鈴木重嶺・翠園の墓
●昨年、6月、佐渡市教育委員会と共同で、このような案内標示板を重嶺の墓に建てた。全龍寺はJR新大久保駅で下車して5分程の所にある。最近は、重嶺の墓に詣でてくれる人々も多くなっている。これも、有難い事である。なお、付け加える。
鈴木重嶺顕彰会」創設
●平成16年5月、法政大学名誉教授・村上直先生の御指導と、佐渡市相川の皆様と相談して、鈴木重嶺顕彰会を発足させた。現在のメンバーは少ないが、いずれは、「翠園文庫」の所蔵されている本学の関係者に引き継いでもらい、貴重な資料の研究をして頂きたいと念じている。

平成16年12月11日(土)
研究室の整理
●定年を前にして、研究室の整理を進めている。前々から本の整理はしていたが、10月の後期に入って本格的に開始した。周りの方々は早いと言われたが、こういう事は、遅すぎるよりも、早めの方がよいと思うし、殊に私は、雑誌・書籍の量が多い。書籍約2000冊、雑誌多数、参考資料も多い。並みの時間では処理出来ない。
●まず、雑誌は全て捨てた。作家やテーマなどの特集は、そのテーマの研究者に差し上げて喜ばれたものも少しはあった。2000冊ほどあった書籍の内、1000冊は、上海交通大学へ寄贈した。基本図書・一般図書の類である。これでだいぶ減量できて感謝している。
●私は、研究室には、自分の研究上の文献は殆ど置いていない。多くは、授業の参考書である。従って家に持ち帰る物は少ない。70箱ほどは、既に自宅に宅急便で送り、玄関のポーチに積み上げられている。4月以後にゆっくり開封・整理して今後の利用に備える予定。
●残りの本で、同じ近世関係の資料は学内の近世の方に差し上げた。が、さらに残った本などは、差し上げると言っては失礼になるものもあるので、ゴミとして捨てる事にした。紐で縛って廊下に出し、捨てて下さい、とメモを貼っておいたら、紐をほどいて持ち去ってくれた人々がいた。これは有難い、と次からは、縛らずに積み上げて置いたら、大部分が無くなり、残りを清掃の掛の人々が片付けてくれた。時には、学生も廊下に座り込んで選別して、大量に抱えて持ち帰ってくれた。これには感動した。
●今日は、息子が来てくれる。実は、図書館用のスチール製の大きな書架があり、これは10年ほど前に購入したものであるが、何人かの方に貰ってくれないかと打診したが、これだけ大きな書架は、どなたも必要ないと断られた。仕方なく破棄かと残念に思っていたところ、引き取ってくれる人が現れ、本日、息子に手伝ってもらって移動する事になった。ついでに、パソコンとワープロを1台ずつ持ち帰ることにした。
●最後に残っているのが、授業用の資料。各科目毎に、全てB4の罫紙に作成されている。私は、全科目の全時間をテープに録音してあり、そのテープと資料が連動している。これを、年度ごとに改訂増補してきた。これらは極めて貴重な資料であるので、持ち帰って保管する。ベネツィア大のラウラ氏には、テープと資料をワンセット送って、日本近世文学の講義の参考にしてもらっている。
●さらに、公務の資料があり、学科長時代の重要な資料は、ことごとく次期学科長に申し送ったが、残余のものは、慎重に処理する。

平成16年10月30日(土)
サイト内コンテンツのバイト数
●昨年5月に昭和女子大学のHPを開設して、ヒマヒマにデータを追加更新していたら、だいぶ大きくなってきた。因みに、スコア上位3つのサイトのバイトをチェックしてみたら、次の通りであった。我ながら驚いている。(2004.10.30現在)
?芦川研究室(score:30)18万7276bytes
?深沢秋男研究室(score:28)412万1630bytes
?佐野研究室(score:28) 3万4550bytes
●私は、バイト数の増大を防止するため、写真等は極力入れず、文字情報に主点をおいて追加更新してきた。それにしても、論文全文のアップなどを含めているので、情報量は大きくなってしまう。
●私は、甲南女子大学菊池真一氏と共同運営のHPを2つ〔?近世文学研究所、?J−TEXTES(日本文学電子図書館)〕を運営している。この内、特に?の情報量は膨大なもので、プロバイダーの運営者の予想をはるかに上回るもので、利用規定を変更した程であった。ネット社会も、未だ発展途上である。


平成16年10月19日(火)
江田治郎氏急逝

平成16年10月12日(火)
安蔵裕子・谷井淑子 2人展 開催
造形のプロセスに 美の原理を求めて 展
■安蔵裕子
捺染の「型」に潜む、造形美を生み出すエネルギーに焦点をあててみました。
■谷井淑子
幾何学文様のくり返しや、パターンの連続による無限の広がりに着目しました。


平成16年8月30日(月)
アテネ五輪、射撃・稲田容子選手(国文卒業生)

平成16年7月22(木)
『庄田家系譜』(正・副)の閲覧
●昨21日、3時に、井関隆子の実家の庄田家の方が『庄田家系譜』(正本・副本)の閲覧にお出でになった。グループ研究室を予約しておいて、ゆっくりご覧頂いた。庄田家第11代安豊氏が昨年2月急逝され、実母の井下氏から本学に寄贈されたものである。本学図書館・桜山文庫に『井関隆子日記』の原本が所蔵されている関係による。
●私は、この日記の研究過程で、第10代・満洲五郎氏の弟の金造氏にもお世話になり、大妻女子大学教授であった、安豊氏にも大変お世話になっている。本日来学されたのは、金造氏のお子様の豊彦氏と信彦氏である。お二人とも、御自分の先祖の系譜を、心ゆくまでご覧になって帰られた。

平成16年7月21日(水)
学生の授業アンケート
●今日、「出版編集」の時間に、履修者のアンケートに関して、学生に披露して、後期の心構えについて話した。最も厳しい意見に、「教員には熱意が無く、魅力の無い授業であった。」というのがあり、これには、私も手の施しようがなく、どうか、そのような学生

平成16年6月29日(火)
鈴木重嶺のお墓参り
●6月18日に大久保の全龍寺の重嶺の墓に、標識を設置したが、私が宣伝にツトメるものだから、私の情熱的な口調(?)に誘われて、参拝者が出ている。有難い事である。
●1人は、研究仲間の田中宏君、彼は仮名草子の『竹斎』や宮本武蔵の『五輪書』の研究をしているが、27日の研究会の例会で会ったら、19日にお参りして来たと言ってくれた。もう1人は、昭和の乃村さん。乃村さんのお父さんは、陶芸家で、板谷波山のお弟子さんである。全龍寺の御住職さんとは、何か御縁があるらしく、27日にお参りしてきたとメールをくれた。いずれにしても、あのプレートのお陰で、2人も重嶺に手を合わせてくれた。感謝感激である。
●余談ながら、この全龍寺には、『山カ物語』の三角寛や、歌手の瀬川瑛子さんの家のお墓もあります。JR新大久保駅の近くです。興味のある方は是非、一度お参りしてみて下さい。


平成16年6月19日(土)
鈴木重嶺(翠園)の墓
●昨18日、本学出入りの KOTOBUKI CORPORATIONの御協力で、新大久保の駅近くにある、重嶺の菩提寺・全龍寺のお墓に標識を建てる事が出来た。御子孫の松本栄子氏、全龍寺の御住職・高崎宗矩氏、副住職・高崎宗平氏、法政大学名誉教授・村上直氏、佐渡市教育委員会の皆様の御支援、御協力のお陰である。
●昨日は、私も全工程に参加して、重嶺のお墓、松本誠先生のお墓、先祖代々のお墓に香華を手向け、標識設置の御報告を済ませた。これで、重嶺の墓所は、後世に伝えられる事と思う。

平成16年6月17日(木)
新撰組!」と図書館の意外な関係〔図書館だより〕
■徳富里美さんの好レポート■

平成16年5月12日(水)
西田茜秋の世界

平成16年5月1日(土)
『庄田家系譜 副本』増補完了
●井関隆子の実家は庄田家である。庄田本家の嫡祖は、徳川家康に仕えた安勝。3000石を食む旗本であったが、長男・安利に2600石を、次男・安僚に400石を与えて、これを分家とした。隆子は、この分家の出である。
●庄田家には、系譜が、正本と副本の2点が伝えられている。正本は巻子本で、極めて貴重な存在であるが、これは、7代・安明までの記載である。これに対して、副本は冊子本であるが、10代・満洲五郎まで記載されていて、これはこれで存在価値がある。
●11代・安豊氏は、大妻女子大学の教授として活躍されていたが、平成15年2月7日、58歳の若さで他界されてしまわれた。安豊氏の実母の澄江氏は、この副本に、11代まで記録して、系譜を締め括りたい、という希望を出された。井関隆子を研究している私としては、断る訳にもゆかない。そこで、原稿を書いてもらって、増補することにした。
●本日届けられた『庄田家系譜 副本』の末尾には、次の如くある。
「追記 平成十六年四月三十日/庄田安豊母 井下澄江 稿/昭和女子大学講師 承春先 書」
●私は、今、増補完了の『系譜』を手にして、承先生の墨書を読みながら、落涙に及ぶ寸前である。原稿を書いて下さった井下澄江氏も、黄泉の安豊先生も、きっと喜んで下さるだろう。だから、人間の社会は楽しいのである。承先生とお父さんに感謝。

平成16年4月1日(木)
桜満開
●新年度に合わせたように、学園内の桜が満開である。一時暖かい日々が続いたので、心配したが、その後、寒い日もあり、自然が調整してくれた。3日の土曜日は入学式なので、ちょうど見ごろとなろう。

平成16年3月21日(日)友引・快晴
浮山温泉郷[坐漁荘(ざぎょそう)]
●今日は、大学の仲間と伊東へ一泊で遊びに行く。先日、長谷川強先生の『嬉遊笑覧(2)』(岩波文庫)を頂き、チェックしたら(1)と関連があるので、研究室へ取りに寄った。で、少々早めになってしまった。
●今日は、昨日の小雪交じりの天候に引きかえ、快晴である。9:00に三茶集合。伊東の浮山と言えば、勉誠社の社長さんの別荘があり、晩年の横山重先生が長年居られたので、何回も何回も伺った。懐かしい土地柄である。晩年のこの自然公園での横山先生の思い出は、沢山ある。いずれ纏めたいと思うが、今日は、兎に角、楽しんでこよう。(深沢)

平成16年3月9日(火)
長谷川卓の新作・『嶽神忍風・一』

平成16年3月8日(月)
『文学研究』第92号、責了、4月1日発行

平成16年2月19日(木)
鈴木重嶺肖像画
●本日、午後、奥沢の松本氏のお宅へ伺った。鈴木重嶺関係資料を御寄贈頂いた時以来であるから、8年振りということになる。300坪のお宅は四方を竹や楠木、山茶花、椎の木で囲まれ、実に閑静。
●仏壇の上に掛けてあった鈴木重嶺肖像画を、昭和女子大学に寄贈して下さるというので頂きに上がった。縦68センチ、横56センチ。松本先生御在世中から長い間、下から見上げていた画を、下に下ろしてしみじみとながめた。実に厳しく凛々しい表情。明治の有名な画家、河久保正名のサインがある。
●松本先生のお孫さんが車で、静かにゆっくりと運転してくれた。そして、午後3時40分無事、図書館に到着。今後の保管は、文化財の保存に詳しい本学の先生に相談して進める事になった。
●これで、松本家所蔵の、鈴木重嶺関係資料は全て本学に移管されたことになる。有難い事だ。50年後、100年後の人々は、きっと感謝するであろう。そして、松本誠先生も黄泉の世界で喜んでくれていると思う。

平成16年1月24(土)
図書館展示「外国に紹介された日本文学」

平成16年1月20日(火)
ネット上のデータのダウンロード
●「近世初期文芸」「近世文学研究所」「J−TEXTS」で公開していた、所蔵和本の全冊画像、データが大き過ぎ、ダウンロードする人々も多く、プロバイダーから、そのデータの削除、または適切な処置を講じるようにと連絡があった。菊池先生と相談して、一時閲覧不可とした。
●私は、閲覧は自由であるが、ダウンロード等の場合は、こちらの許可を得て欲しい、と注記しておいたが、1年以上の間、1人も連絡はしてこなかった。ところが、15日の22:55の時点で、6点のダウンロードが行われていた。ネットの世界はこんなものである。もちろん、私の予想していた事ではある。

平成15年12月24日(水)
日 直

平成15年12月13日(土)
特集 江戸300年 将軍家の女たち
●『歴史読本』の2004年2月号の特集で、井関隆子についての寄稿依頼があった。タイトルは「旗本夫人 井関隆子がみた幕末の江戸城」である。早速、OKの返事をして、後日原稿を送った。昭和女子大学図書館所蔵の『井関隆子日記』の写真も4点ほど掲載する。
●私は、これまで、この種の、言ってみれば啓蒙的な原稿は、依頼があっても、お断りしてきた。現にこの雑誌からも20年以上も前に依頼された事があったが、婉曲にお断りした。それは、恩師・重友先生が、研究姿勢として、余りに啓蒙的な原稿の執筆は、厳に戒めておられたからである。
●『井関隆子日記』の現代語訳を出さないか、というお言葉を、ある新聞社から頂いた事もあったが、井関隆子の研究も纏めていない状態で、そのような作業に時間は消費できない、と丁寧にお断りした。4年前の事である。
●現在、『井関隆子の研究』の原稿を纏めていて、ほぼ見通しがついた。来年は発行できるものと思う。ここまでくれば、少しは、余計な事をしても許されるか、と思ってOKした次第である。

平成15年12月6日(土)
キャンディの大変
●毎朝立ち寄っていた、近所の喫茶店・キャンディに一大変革が持ち上がった。開店時間の突然の変更である。これまでは、午前7時であったが、12月から9時に変更された。理由は、早出の岩崎さんが辞めたためである。私は、生活のパターンを変更しなければならない。

平成15年11月6日(木)
秋桜祭参加「百人一首の世界」(人間文化学科)

平成15年10月11日(土)
仮名草子『竹斎』のイタリア語訳、出版。 Laura Moretti 著
●昨日、イタリア、ヴェネツィア大学の、ラウラ・モレッティさんから1冊の本が届いた。

仮名草子『因果物語』の版木発見
共同通信社の報道によると、奈良大学の永井一彰氏が、京都の仏光寺所蔵の版木3500枚を発見、その調査中に、御伽草子の版木や、仮名草子の『因果物語』の版木も見つけたのことである。しかも『因果物語』は全冊揃いで、平仮名12行本の由。貴重な発見で、今後の詳細な発表が楽しみである。

平成15年10月9日(木)
『ホテルの日本語』高見沢孟監修、大石安慧著

平成15年10月1日(水)
最後の佐渡奉行 歌人鈴木重嶺
昭和女子大学図書館の本年度第2回展示が本日より11月9日まで、図書館3階の展示室で開催される。本学所蔵の重嶺の「翠園文庫」所蔵の貴重な資料を多数展示し、図書館員による、資料解説と鈴木重嶺に関する解説が付けられている。

平成15年9月30日(火)
日録再開
●前期末にパソコンのトラブル発生、コンピュータ室の池田さんに調整してもらい、既存データの公開は出来るようになったが、更新は出来なかった。夏休み中に、これも池田さんに無理を言って、ようやく更新可能になった。システムのよくわからないロウジンが、チョコチョコして、周囲に面倒をかけて、済まないと思っている。何はともあれ、感謝、感謝。

下高井戸の吉田園

●妻の母の関係資料を整理していたら、下高井戸の吉田園の写真が出てきた。義母は沢村氏と結婚したが、本性は吉田である。念のため、吉田園をネットで検索してみたら、吉田本家は、大変広大な土地を所有していたことがわかった。菩提寺は、下高井戸の宗源寺である。2年ほど前にお参りしたが、吉田一族の墓所の広大さに驚いた。その様子を次の如く記している。
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●今日は、妻の母のお墓参りに行った。新宿から京王線桜上水へ行き、甲州街道沿いの、日蓮宗・叡昌山宗源寺。この宗源寺は、甲斐の国吉田郷に住した、吉田宗利が法華宗に帰依して法名を「宗源」と称した。その末孫・日善が、この地に一寺を開いて寺の名にしたと伝えられる。それは慶長(1596〜1614)の頃だったという。

●山門を入って、すぐ左に吉田一族の広大な墓域がある。妻の母は、吉田家の出であり、この一郭にお墓はあった。葬儀の時ももちろん行っているが、これほど広い墓域とは思わなかった。おそらく、一族、数十家のお墓があるのだろう。吉田本家と思しき墓石には、寛文、元禄の年号があった。杉並区教育委員会の説明標識には、この宗源寺の檀家で、有名な地理学者・志賀重繡の記した『宗源寺開基碑』があるとのことである。いずれ、調べてみたいと思う。それにしても、妻の母は、結婚して沢村姓を名乗ったが、大変な一族の出であったのだ、と今日、痛感した。
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●下高井戸の吉田園のことは、「すぎなみ学倶楽部」というサイトに「謎の吉田園 杉並のスケート場」と題して、御子孫の吉田哲夫氏の談話も紹介して、詳細に調査されている。それにしても、推測すれば、武田信玄一族が滅亡したのを機に、甲斐の富士吉田から武蔵の国に移住した吉田一族ではないか。その吉田一族は、以後、下高井戸を舞台に活躍してきたのだと、そのように思う。

東禅寺正宗の名刀

庄内藩の池田家の名刀の、盗難・転売・展示のニュースに接した。この名刀、転売の時、1億円で、致道博物館では買い戻せなかったという。私の探索している、名刀、東禅寺正宗は、もし、現在、オークションに出たならば、20億、30億の高値が付くだろう。『可笑記』巻5の20段に、東北の関ヶ原合戦、十五里ケ原の合戦の様子を、次の如く記している。
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「・・・汝が母かたのおぢ東禅寺右馬頭、・・・一とせ出羽国庄内千安合戦の時、上杉景勝公の軍大将、本庄重長とはせあはせ、勝負を決する刻、敵、大勢なるやへに、四十三歳にして討死せられぬ。その時、本庄重長も星甲のかたびん二寸ばかり切り落とされ、わたがみへ打ちこまれ、あやうき命いきられぬ、とうけ給はりしなり。切れたるも道理かな、相州正宗がきたいたる二尺七寸大はば物、ぬけば玉ちるばかりなる刀也。此の刀、重長が手にわたり、景勝公へまいり、それより羽柴太閤公へまいり、其の後、当御家へまいり、只今は二尺三寸とやらんにすり上られ、紀州大納言に御座あるよしを受け給はり及び申し候。・・・」
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仮名草子作者・斎藤親盛(如儡子)の母方のおじ(兄か弟)に、東禅寺右馬頭・勝正がいた。酒田の東禅寺城主・筑前守の弟といわれている。天正16年(1588)に、越後の上杉軍・本庄重長が庄内に攻め込んだ時、十五里ケ原で戦いで、最上軍の東禅寺兄弟は敗れる。

●この時、兄の筑前守は討死したが、弟の右馬頭は、味方の侍の頭を左手にぶら下げて、越後方の武将に成りすまして、本庄重長の本陣に駆け込み、最上方の武将東禅寺右馬頭を討ち取ったり、確認してくれと声高に叫んだ。物凄い形相に、越後方の侍も道を空けて重長の前へ通した。東禅寺は重長の前に達すると、ぶら下げた頭を放り出し、大刀を抜くや、重長に斬り付けた。事の次第に周囲の侍も気付いて応戦し、やがて、右馬頭は討取られてしまう。

●この時に東禅寺右馬頭が持っていた太刀が正宗の鍛えた名刀であった。太刀を奪い取った本庄重長は、主君・上杉景勝にこれを献上した。その後、豊臣秀次に渡り、秀吉に移ったが、ここで、本阿弥光悦が相州正宗であると鑑定し、以後、名品として伝わることになる。島津義弘徳川家康→頼宣→家綱→綱吉→吉宗→家重→家治→家斉→家慶→家定→家茂→家喜→家達・・・。昭和14年に国宝に指定たが、第二次世界大戦終結の時、進駐軍によってアメリカへ持ち去られ、現在は所在未詳とのこと。

●私の調査で、ここまでわかっている。第二次世界大戦終結の時、アメリカは、何故、この東禅寺正宗を自国に持ち帰ったのか。刀は武士の魂、徳川家に伝来する名刀、これを日本の精神的戦利品、そのように解釈したのではないか、私は、そのようにも推測できると思う。この名刀は、アメリカの中心的な博物館に保存されているのではないか、そんな推測も可能である。

体験授業

齋藤彰先生の体験授業

昭和女子大学の日本文学科のブログを見たら、今日、オープンキャンパスで、高校生向けの体験授業は、齋藤彰先生の「百人一首の世界」だという。実に懐かしい、齋藤先生と共に勤務していた頃、「百人一首」に関して、多くのアドバイスを頂いた。如儡子の「百人一首注釈」の研究を手がけたころである。先生の研究は、『徒然草』の研究は、言うまでもなく、「百人一首」の研究も窮極の域に達していると思う。今日、受講する高校生は、学問の深さの一端にふれる事になるだろう。

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■体験授業

8月22日(土)

百人一首の世界」

齋藤彰先生

時間 11:05〜11:45 / 14:05〜14:45
※各回同一内容

場所 大学1号館3階 3S38教室

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●私は、平成7年10月21日(土)に、体験授業を担当した。「芭蕉について」と題して、30分ほど、高校生に話した。当時の録音を久し振りに聞いてみたが、『奥の細道』ではなく、俳諧七部集の『猿蓑』を取り上げていた。プリントを配布して、「初しぐれ 猿も小蓑を ほしげなり」の巻頭の一句を詳しく紹介していた。「虚構」を板書しようとしてスラスラ書けなかったのは、御愛嬌である。このとき、高校生のお母さんが、2人いて、私の授業を聞いてくれたのは、光栄だった。20年前の思い出である。

■齋藤彰先生  「百人一首の世界」