ふるきち、グレート・ガマ対ズビスコの謎を解く。

何と1年半ぶりの更新である(苦笑)。


今回のテーマはプロレス史において90年にわたって謎とされるグレート・ガマ対スタニスラフ・ズビスコである。以下、例によって某所での駄文ツイート転載よろしく。


(参考)
伝説の「ズビスコ対グレート・ガマ」戦
http://www4.point.ne.jp/~kirisame/battle/zubisuko/4aria.html


>90年前(1928年。26年説も)の今月末、インドの強豪グレート・ガマが古豪スタニスラフ・ズビスコを破る。30秒とも4秒ともいわれる短時間決着で伝説的な試合に。ズビスコエド・ルイスやジョー・ステッカーと並ぶ名レスラーであっただけに、未だに謎とされるが、二人の年齢差を考えると(続


>(続)少し謎が解けてくる。ズビスコは1876年生まれ、ガマは86年生まれで10歳差。猪木と藤波、藤波と蝶野の年齢差である。そして二人は実は1910年にロンドンで対戦しており、その時は2時間40分の激闘の末ドローに。ガマにとってはズビスコとの決着はまさに18年越しのテーマだった(続


>(続)のだ。初対戦時に24歳だったガマは42歳の円熟した選手となり、自分の唯一の忘れ物であったズビスコとの再戦をついに地元インドで成し遂げる。52歳のズビスコはその執念に呆れ返りながら、「まあいいか」と地元での勝利をガマに贈る・・・そんなところではなかったか。まさかズビスコも(続


>(続)自分の敗北が数十年後も語り継がれるような伝説となるとは思っていない(苦笑)。かくてガマとズビスコが生み出したインドレスリングの幻想は、力道山に強豪ダラ・シンを招聘させ、漫画「タイガーマスク」で老雄ミスター・クエスチョンを生み出し、そしてТ・J・シンに巨万の富を与えるのであった^^;…(了


こんなオチでいいのか(苦笑)。


ちなみに「タイガーマスク」でタイガーにクエスチョン戦勝利のチャンスを与えたのが「石頭」大木金太郎
74年の猪木対大木でプロレスファンになったワタシにとっては、ミスター・クエスチョンもまた思い出深い存在ですなあ・・・そしてそのモデルになったグレート・ガマにもある種の縁を感じるのであります。


ではではまた(いつになるやら^^;;;)。

25年前、黒船来航前夜のリングスで行われていた試行錯誤。

25年前の本日、リングス仙台大会で平直行とエリック・エデレンボス(リングスオランダ)が対戦。3か月前の格闘技オリンピックでの初戦(平のアームロック一本勝ち)のリマッチだったが、結果こそエデレンボスの反則負けで不透明だったが、スピーデイーな攻防に決して評価は低くなかった…さて(続


続)実はこの一戦、平の要望により掌底禁止のルールだった。なぜか? この頃、リングスが突き当たっていた問題をもう一度思い起こしたい。リングスに出てる選手たちがフルにパフォーマンスを発揮した場合、目に指が入る可能性のある掌底はかなりに危険であると見られていたんである。実際(続


続)この時期のリングスにおいて目に指が入る事故は多数起こっており、対策は急務と思われていたんである…まさか1年半後に相手に馬乗りになって(当時はベアナックルで)殴っていい競技(VT⇒ММA)が生まれるとは思ってもいなかったんである(苦笑)…今となっては甘いルール談義に見える(続


(続)だろう(苦笑)。だが当時は、あの時代状況の中でどれだけ各選手がフルに力を発揮する舞台が出来るのかということを、各選手各団体が試行錯誤してたんである。あたかも江戸末期・幕末前夜において、江戸の知識人たちが、やがてくる外圧に対していかに抗しえるかを考え続けていたことを(続)


続)思い起こさせるではないか。最終的にアルティメットという黒船・外圧がやってくるまで本質的には変わり得なかったことを(それは確かにそうなのだが)あまりにあげつらうのもどうかと思ってしまうんである。少なくとも僕はあの92年のリングスが心地よかった…黒船前夜の江戸を見るようで。(了


Sadistic Mica Band - 黒船 (Full Ver.)-2007 (高中正義)  


ではではまた。

「証言UWF 最後の真実」を読む。そしてそこで述べられてる高田最強論?について。

調子に乗って、久々の連投(笑)。

全ては表題の通り。
以下、例によって乱筆乱文ツイート転載ご容赦あれ。


>宝島社刊「証言UWF 最後の真実」読了。https://www.amazon.co.jp/%E8%A8%BC%E8%A8%80UWF-%E6%9C%80%E5%BE%8C%E3%81%AE%E7%9C%9F%E5%AE%9F-%E5%89%8D%E7%94%B0-%E6%97%A5%E6%98%8E/dp/4800271231 選手・関係者17人の証言が微妙に食い違っているところがむしろリアリテイを感じる良書であったが、ワタシにとってはむしろ「スパーリングにおける高田延彦」の強さがあちこちで語られてるのが大きく。


>いや、中野や安生が言ってるだけなら何てことないのですよ。Uインターで上下関係があったんだから、で済むんだけど。しかし船木や鈴木が言ってるとなれば事情が違ってくる。ことに船木が「高田さんは道場に来るたびに鈴木に挑戦されてて、いつも同じ技で返り討ちにしていた」といい


>当の鈴木もまた「高田さんは強かった。とれた(極めた)ことは一度もなく、いつもやられてた」というんだから事実なのだろうと。まあ89年・90年の時点ではそうであったのだろう(ちなみに前田は中野龍雄によれば、力任せで相手をケガさせて藤原さんに怒られてたとか^^;)。


>実際、90年代に入ってからの藤原組長の衰え、91年の前田のケガを考えれば、少なくとも91年か92年までの時点で「U系選手中、高田最強」の時期は確かにあったのだろうと。パンクラス旗揚げからの船木・鈴木の進境を考えた場合、抜かれてた可能性はあるが。「高田最強」の印象が(続)


>今一つ薄いのは89年8月船木相手の幻のKОがあるからだがあれはもちろん打撃で食らった不覚なわけで(苦笑)。グラウンドに関していえば、フィジカルで衰え始めた組長、逆にフィジカルに頼り過ぎる前田をも高田が上回り、船木ら若手をも押さえてた可能性はある・・・そしてまたその高田が


>97年ヒクソン相手に何も出来ずに敗れてしまったのはやはり「Uの終焉」であったのである・・・それにしても第1回ヒクソン戦での高田は何も出来な過ぎた。やはり94〜97年のゴタゴタゴタで練習時間も取れず、体型すら崩れつつあった90年代後半の高田はそれ以前の高田とは違ったの


>だろう。ゴッチさんがヒクソン戦の時の高田を見て「これは私の知るタカダではない」と言ったのは理由(ゆえ)なきことではないんである・・・まあベストでも負けてたとは思うが(苦笑)。その高田を引退試合にてKОし、かつて若手の頃に「勝てる気がしなかった」とまで思った船木をも(続)


>後に下した田村潔司の証言もまた貴重。「証言UWF 最後の真実」は、「1984年のUWF」を読んで抱いたあなたの印象の答え合わせとなり得る一冊なんである・・・皆様ぜひ手にお取りあれ。ではではまた。(この項了)


まあやっぱり宮〇と安〇が悪いんじゃよと(適当過ぎるまとめ・笑)。


ではではではまた。

白井義男世界王座奪取から65周年の「ボクシングの日」に。力道山・馬場・猪木のプロレストップ3はボクシングにいかに向き合ったか。

すべては表題の通り。
以下、例によって乱筆乱文ツイート転載、ご笑覧あれ。


>本日、65年前に白井義男がアルビン・R・カーン博士の指導のもと日本人初のボクシング世界王座を奪った「ボクシングの日」。湯川秀樹ノーベル物理学賞受賞・古橋広之進の水泳世界記録と並んで、敗戦に打ちひしがれた日本人の誇りを取り戻させた快挙であったわけですが、さて彼らとともに


>日本人戦後復興の象徴となった力道山はどうボクシングと向かい合ったのか?そして力道だけでなく、彼の弟子・馬場&猪木は「世間に、そして世界に認知された格闘技」ボクシングとどう向かい合ったのか、というのが今回のテーマであります、お立合い(笑)。さて、まず力道山でありますが


>彼の全盛期は同時代人・白井義男の世界王座在位とどう重なっているのか、ということですが・・・。まず白井義男の王座在位は1952年5月から54年の11月であります。そして彼の次に世界フライ級王座を奪ったファイティング原田の最初の在位は62年10月から63年1月、次の


>奪取(バンタム級)が65年5月…何かにお気づきですか? そう、白井の王座転落からF原田の王座奪取までは8年間の空白(!)があり、その8年間に力道山の全盛期がスッポリ入るのです!! 白井の王座が54年11月までで、シャープ兄弟との試合による力道の国内デビュー(同年2月)


>はこれに重なりますが、木村政彦撃破による日本制圧が同年12月のことで、この時点で白井は王座転落している。そしてそこからボクシング世界王座8年間の空白・・・つまりは「ボクシング世界王者のいない8年間の間に、力道山はその全盛期を謳歌し、プロレス人気の土台を作り上げた」ので


>あります!! もしボクシング世界王者がこの時期にいて、それが太陽のごときカリスマをもった名王者であったとしたら…果たして力道山はファイティングスポーツの帝王たりえたか、と思ってしまうのですね(^^;)。そしてその力道の全盛期末期(62年10月)にF原田が世界王座奪取


>してるのですが、これもわずか3カ月で転落。バンタム級王座を奪って2階級制覇を成し遂げるのは65年5月のことで、結局63年12月の力道山逝去時にはボクシングの日本人世界王者はゼロのままであったのであります。力道本人もそのことを意識してかリキボクシングジムを創設し、かの


エディ・タウンゼントトレーナーを招へいするなどしてボクシング進出を図っていたわけですが(それが業界のためになったかどうかはともかくとして・苦笑)、彼の死でそれも夢と帰してしまったわけであります・・・。さて、力道山が日本人ボクシング王者の不在時にファイテイングスポーツの


>王者として君臨しプロレスの基礎固めをしたとすれば、彼の後継者であったジャイアント馬場はどうであったか? まず日本人ボクサーにとって夢のまた夢であった(そして今でも夢かもしれない)全米で一時的にでもスーパースターとなる夢を彼はそのキャリア初期にしてすでにかなえているわけで


>このあたりのことはかの柳澤健著「1964年のジャイアント馬場」に詳しい・笑)。さらに何より馬場の全盛時にはすでに続々と現れていた日本人世界王者がいずれも70キロ未満の軽量級であったこと・・・日本人の巨漢コンプレックスを209センチ・145キロ(全盛時公称)の馬場は


>払拭し得る存在であったというのは大きい。ゆえに歴代ボクシング王者に負けないスターとして馬場は君臨し得た・・・ならば、彼のライバルであったアントニオ猪木は?といえば、むろん日本人ボクシング王座たちに比べれば格段に巨躯の猪木ではありますが、日本人の巨漢コンプレックスを


>克服し得るほどではもちろんない。ボクシングに対抗するために、そしてそれ以上に永遠のライバルである馬場に打ち勝つために猪木は異種格闘技路線に踏み込まざるを得なかった。そしてその初期の段階でボクシング界の巨大なる象徴であるモハメッド・アリと戦わざるを得なかった。そしてそれは


>アリ戦の後、その内容はともかくとしてその実現を誇るがゆえにアリのテーマ曲「アリ・ボンバイエ」を譲り受ける形で「炎のファイター(イノキ・ボンバイエ)」として入場曲に使っていくことに・・・猪木にとってそれほどまでにアリの存在は大きかった。ひいてはボクシングそのものへの


>対抗意識はそれほどまでに大きかった。それは世間と、そして世界と戦っていくことだったから・・・。さて、今のプロレスラー達はどうなのか。ボクシングを、世間を、世界をそれほどまでに意識しているのかどうか。会場内では復活しているかのように見えるプロレス界ですが、世間に、世界に


>対抗せずに良いのか。もちろん異種格闘技戦を復活させろなどという気は毛頭ありませんが(苦笑)。世間にとって依然格闘スポーツの代表であるボクシングへの対抗意識を先人が持ち続けたことを、振り返ってみることもまた決して意味のないことではないのでは、と思ったりするのです。(了)



ご高覧ありがとうございました。
しかしまあ「89年(平成元年)にはボクシング日本人世界王者は1人もいなかった」のもまた事実。そこから28年の歳月を経て、現在女子含め15人(!)の世界王者を持つに至るまで復興した日本ボクシング界には改めて畏敬の念をもつのであります。
ちなみにWBC世界女子ミニフライ級王者(現在5度防衛)の黒木優子選手はかなり可愛いですね(笑)。https://www.youtube.com/watch?v=GJuCS76Q9ag https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E6%9C%A8%E5%84%AA%E5%AD%90
RENAとエキシビションやってくれんかな(^^)。
ではではまた。

15年前のルー・テーズ逝去の日、日本では誰がデビューしていたか。そしてその年末、日本プロレス界はその両者にどう報いたか。

すべては題名の通り。ルー・テーズとこの選手を絡めて取り上げるのは当コラムだけ(笑)。
以下、乱筆乱文ツイート転載、ご笑覧あれ。



>本日、鉄人ルー・テーズ15周忌。日本のプロレスの祖・力道山が終生尊敬し目標としたアイコンの命日であります・・・さて、この鉄人テーズがフロリダ州オーランドの病院で亡くなった日、日本でマットデビューしていたのは誰でしょう?・・・そう、実はボブ・サップなのですね!! PRIDE20の


>リングにおきまして、リングス休止後PRIDEに戦いの場を移したヤマノリこと山本憲尚相手にKО勝ちを飾っております。https://www.youtube.com/watch?v=ePjry7AmaBM(途中のみ。表記にK1とあるのは誤り) この後サップは田村・高山といったU系選手達を食い、さらにノゲイラ相手に(続


>名勝負を演じ、ついでにプロレスでも10月に新日ドームで中西、翌月WRESTLE-1グレート・ムタと対戦し、何とこの年のプロレス大賞МVPを受賞してしまうのでした…この年(02年)の明確なプロレス出場はこの2試合のみだったのですが(苦笑)。さて、サップがМVPを受賞した(続


>この年のプロレス大賞、逝去したルー・テーズにはどんな賞が贈られたのでしょうか?・・・答えは「無し」。いいですか、もう一度言いますよ、「無し」。どこをどう見ても、この年のプロレス大賞には「ルー・テーズ」の名前はないのです。http://www.tokyo-sports.co.jp/wrestling/wrestling_past4/(続


>つまりはこういうことです。「2002年の日本プロレス業界は、この年デビューしたばかりでプロレスイベントには2回しか出場していないサップにМVPを受賞させてその人気のおこぼれにあずかろうとし、創世期の象徴的アイコンであったテーズには何の敬意も示さなかった…」何て業界だよ(続


>と言わざるを得ないのですけどね(ちなみに5年後、07年のカール・ゴッチの逝去には特別功労賞を与えている)。今、新日本プロレスを中心とした日本のプロレス業界は会場レベルでは人気復興の兆しを示している。それは実にめでたいこと。しかし偉大なる先人の逝去に何の感謝も弔意をも(続


>示さなかった15年前のことを思い、もしそんな体質が今も残っているなら、いつかその繁栄も跡形もなく消え去ってしまうのではないか、とすら思ってしまうのであります。ちなみにサップは翌年の対ミルコ戦、翌々年の藤田戦での敗戦からガタガタと崩れゆき、今やわざとケガなく負けることに(続


>よりギャラを稼ぐのみの存在に堕している(一昨年大晦日の曙戦での勝利は実に5年ぶり白星)わけで。02年のプロレス大賞受賞の意味など何もなかった、実に実に見識のないことであったと断じざるを得ない。テーズ15周忌のこの日に、改めてその情けなさを明記しておくものです。妄言多謝。



こういうことを思い返し蒸し返すのも当ブログの役割でございます(笑)。


鉄人ルー・テーズの冥福を改めてお祈りいたします。
ではではまた。

ブッカーK川崎浩市氏の「1984年のUWF」への反証、カクトウログにリンク掲載!!

おそらくUに最も密着し最も客観的に語り得る人物の一人、ブッカーKこと川崎浩市氏が「1984年のUWF」への反証を挙げ、そのリンク先(ここね⇒前編http://gendai.ismedia.jp/articles/-/51392 後編http://gendai.ismedia.jp/articles/-/51393)がカクトウログに!!


ベストセラー「1984年のUWF」へのもっとも有効なアンチテーゼになり得るであろう、大きな出来事なのでございますよ、これは(^^)。
よって、例によって駄文ツイート転載連発ご容赦あれ。ではでは。




>おお、ここに載るのは大きい!(^0^)<ブッカーKが語る「1988年の新生UWF」〜大阪球場&東京ドーム不入り説、神社長横領の噂の内実とは?http://kakutolog.cocolog-nifty.com/kakuto/2017/04/post-598a.html いや、実際「ベストセラーの一つ」であるところの「1984年のUWF」の波及力に抗するのは


>正直難しいと踏んでいたのだが・・・事実上プロレスブログの人気トップをダントツで走るカクトウログ様に取り上げていただくのは非常に大きいんである。思い返してみると、「1984年のUWF」は今月3刷がかかったという。発売直後に増刷がかかったのは凄かったが、3か月かけての3刷は


>実はベストセラーの中では割と普通のペースなのではと(苦笑・もちろんプロレス部門のそれとしてはケタ違いのヒットである)。ちなみにノンフィクション部門のトップである「うつヌケ」(田中圭一著・名作!)は発売2カ月で「84U」の倍の6刷、18万部。「84U」はまだ5万部に


>届いたとは聞かない(2月時点で2万部であったという)。月間3万アクセス以上(http://blog.with2.net/rank1226-0.html)3カ月ならやはり10万アクセスを行くだろうカクトウログ様に取り上げていただくのは、繰り返しだが実に大きいんである・・・。さらにちなみに実は


斎藤文彦氏の「1984年のUWF」への反論(今月14日)は、カクトウログ様ではトップに取り上げられていない(苦笑)。これは別にカクトウログ様がフミ・サイトー氏に悪意を持ってるわけではなくて(多分・笑)その前にあったオカダ対柴田⇒柴田入院のインパクトがあまりにも


>大きかったため、そしてその直後(15日)にライジンの興行&テレビ中継があったためである。常に「今」を意識しているカクトウログ様がフミ・サイトー必死の反論を取り上げなかったのは、実に当然だったんである・・・。さて、一方でゴング格闘技休刊号が今回「84U」の影響を受けた


>誌面構成になってるのは表紙を見ただけで明白であって(https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170422-00000064-sph-soci)。中井祐樹先生の表紙に文句をつけるわけではないが、「1984年のUWF」に引きずられることもなかったのではないか…あまり指摘されないが、ライジンが押しのけられたのですよ?


>そりゃライジンの在り様には多々文句はあるけれど(苦笑)、それでも那須川やRENAを押しのけてまで「フィーチャリング84U」を休刊号でプッシュする必要があったのかどうかと思ってしまうんである・・・その存在が消えて25年近くになるUを「今」検証することがゴン格最後の


>「格闘技への提言」になりえるとはどうにも思えんのですけどね・・・話がそれた(苦笑)。今回のブッカーK・川崎氏の証言は実にタイムリーなものでした。そしてライジン大会後の報道を妨げないものでもありました。ゴン格の方で取り上げられないのは残念だったけど(那須川&RENAが


>表紙&巻頭特集で、川崎氏証言は中盤でくらいが理想だったのだけど)、それでもその主張内容は「俺たちのプロレス」誌上にも反映されているらしい(https://www.amazon.co.jp/%E4%BF%BA%E3%81%9F%E3%81%A1%E3%81%AE%E3%83%97%E3%83%AD%E3%83%AC%E3%82%B9-7-%E5%8F%8C%E8%91%89%E7%A4%BE%E3%82%B9%E3%83%BC%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%83%83%E3%82%AF-%E5%8F%8C%E8%91%89%E7%A4%BE/dp/4575456780/ref=pd_lpo_sbs_14_img_2?_encoding=UTF8&psc=1&refRID=PGDPSBPM7ME71VHSN4FB川崎浩市」の名がしっかりクレジットされている)。こちらも楽しみではあるが、まずは


>取り上げてくださったカクトウログ様経由で、その「1984年のUWF」への反証内容に触れていただきたいものです。もう一度リンクしておきます。http://kakutolog.cocolog-nifty.com/kakuto/2017/04/post-598a.html ワタシの妄言長文まことにもって多謝ですハイ。


>追記。良書「闘魂最終章」を双葉社から出したばかりの井上譲二氏が、今度は宝島社から「昭和プロレス版 悪魔の辞典」を出してて。http://amazon.co.jp/dp/4800270308 筆者ならではの情報(キラーカーンのニードロップは実に上手く対戦相手は全く痛くなかったとか…アンドレとの・続)


>事故はどうなのかとなるが、あれはアンドレが途中で立ち上がろうとしてしまったための失敗だったとか)が色々満載、ツッコミどころも少々という面白本であるが(笑)。僕にとっては終盤の【ぶっ殺す】という物騒な項目に注目。やはりというか、前田兄さんが登場(苦笑)。とあるスクープでの


>訴訟から疎遠となった前田と筆者・井上氏が、ある機会に和解の席を設けたと。ところがその前日に顔を合わせてしまった前田と井上氏、ある行き違いから前田が激怒し「ぶっ殺すぞ!」と怒鳴る羽目に。やむなく井上氏が退席することになるのだが、その時の様子がこう描かれているんである。


>「『何でこんなことに…』と怒りとともに寂しげな前田の表情が印象的であった。そしてあの日以来、私は前田と会っていない。」…ああ、そうだろうなあ、いつもそうなんだろうなあ、と思ってしまうんである。そしてこういうヒトはやはり通り一遍の周辺取材で描いちゃいけないんである…。




1984年のUWF」が書籍として世に出てから3か月。
それへの反証は、すでに今回の川崎浩市氏のそれで十分ではないかなあと。
後は、おのおのの胸のうちのUと向かい合っていけばいいのでしょう。


ではではではまた。

ガチエキシ?前田日明対木村浩一郎ようつべアップに思う。


懐かしきこの25年前の映像に思う、老害の雑感アップです(笑)。

以降、例によって例のごとく駄文ツイート連打転載、お許しあれ。



>懐かしいね、「グラウンドはガチ」であったという92・3・26「格闘技オリンピック」前田日明木村浩一郎戦。https://www.youtube.com/watch?v=TPK5-0FibD4 http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20170309 当時、市販ビデオが出てたんで、食い入るように見てたっけ・・・(遠い目)。



>当事者・木村浩一郎がこの時の試合(エキシ)を語った時の記事。http://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/ar569058 一目見りゃ分かるが、掲載写真での木村の顔色があまりにも悪い。このインタビューを受けたわずか3か月後に、木村は亡くなってしまうんである・・・改めて、合掌。



>ちなみにこの時の大会(92年格闘技オリンピック)では、平直行対エリック・エデレンボスも面白かった。平がアームロックにいくんだが、右手で相手の左手首をもって極め⇒左手で相手の手首を持ち直し深く極め⇒右手で持ち直しさらに深く極める、という動作を回転体でやってて、新鮮だった(続



>さらにグリフォンさんとこのこの記事コメント欄(http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20140717)でも語ったことだが、この大会の1週間後にリングス広島大会があって。会場で椎名誠発見、さらに高校時代の有吉弘行も来てたという。さらには徳光康之「最狂超プロレスファン烈伝」の主人公(続



>鬼藪宙道君もこのリングス広島大会に来てた設定に(1巻収録)。つまりは椎名誠有吉弘行と鬼藪宙道と不肖ふるきちが一緒の会場に来てたことに(笑)。格オリでのスミス戦で佐竹がダウン2回取られたことを知ってたので、わざわざ格通編集部に「佐竹、広島出ます?」と電話問い合わせたというw(注・無事出場、ヘルマン・レンテイングをローで粉砕してました)



>さらにちなみにこの92年3月、格オリから20日前の6日に大阪でリングスルール改正会議が行われ、石井館長がヒジ有りを主張するも安全性を危ぶむ前田によって「ヒジパット装着なら認める」ことに落ち着いたことが広島大会のパンフでレポートされてたはず。このときはヒジ有りを主張してた(続



石井館長が、5月のリングス有明大会で当時上り調子だった「オランダの怪童」が初来日にしてアダム・ワットをショートレンジのヒジにより難なく撃破したのを見て、Kー1ではヒジを撤廃したという(笑)。言うまでもなく「ピーター・アーツ」21歳の姿である・・・いやはや往時茫々(^^;)



>と言う風に、プロレスと格闘技の狭間の在り様、そして時代の変遷を楽しむことが出来たからこそUファン残党は幸福だったのですよ(笑)。異文化の相剋・交流ほど見てて楽しいものはない(^^)。



しかしまあ、現人生の半分くらいのころに見た映像を未だに懐かしんでしまうのは幸福なのかどうなのか(^^;)。

ではではまたー。