SPIRIT


 強さを求める戦いが血なまぐさい殺人の応酬に行き着く前半、自然や村人との調和の中で生きる中盤、そして両方の特徴つまり静と動を併せ持つアクションをジェット・リーが見せるクライマックスの戦い、という三つのパートがうまくつながっていて面白い。
 アクションの演出もストーリー展開と密接に関係していて、前半の最後の戦いは爽快感のない陰惨で血なまぐさい場面として演出されている。復讐の連鎖で家族を失った悲しみを徐々にいやしていく田園地帯の場面では、主人公の傲慢な態度が穏やかな表情へと変化していき、動きもゆったりと大きなものになっていく。そしてクライマックスの外国人たちとの戦いでは、動きはすばやいが前半とは違う表情をしている。
 前半の荒々しいライバルたち、田園地帯の盲目の女性(スン・リー)、前半から最後まで主人公を見捨てない親友(ドン・ヨン)など、各パートを盛り上げる役者たちもなかなかいい味を出している。植民地支配に苦しむ中国が舞台であり、日本人はみんな悪役だろうなと思い見に行ったが、最後の戦いに登場する中村獅童はフェアに戦う日本人という好感度の高い役を与えられている(そのかわり原田眞人が典型的な悪役をやっている)。スクリーン上でジェット・リーと対峙しても見劣りしない存在感があってなかなか格好良かったと思う。

県庁の星


 他の建物よりも飛び抜けて高い県庁と平べったい形の三流スーパーが示すように、官の世界と民の世界は明確に色分けされている。この明確な色分けは登場人物の造形にも表れていて、県議会議長や癒着する大手建築会社などは時代劇で言えば悪代官と悪徳商人であり、スーパーで働いている人たちは頼りないところやいい加減なところもあるけれど憎めない下町の人たちということになるだろう。織田裕二の婚約者が住んでいる建築会社社長の家と柴咲コウがすんでいる公営団地、彼が乗る高級車と彼女が乗る自転車など、娯楽映画としてのわかりやすさに徹した構成になっている。主人公の婚約者のエピソードなど、官の世界の描写にあまりにステレオタイプだなあと思わせるところもあり、リアルさには欠ける。ただ、テレビ時代劇と違って悪を成敗すればいいと言うわけではないので、その点はうまく工夫して、県庁とスーパーそれぞれの世界でうまくクライマックスの場面を作っている。
 ただ官が悪者になるだけではもっとつまらない話になっただろうが、この映画では民間の側の問題点も描かれている。コスト意識に欠けるのが官の側の問題だとすれば、民間の側の問題はコストを最優先して安全や生命を軽視する点にあり、スーパーが危機を迎えるのもずさんな管理体制のせいである。だから主人公が施設課から生活福祉課に移ったのは象徴的で、彼のこれからの仕事は、スーパーの改革の時のように、コスト意識優先で切り捨てられるような人たちを官の側からサポートすることになるだろう。ダイヤ過密による列車転覆、アスベスト、建築偽装など官のチェックをすり抜けて起こる事故が多発しているだけに、この設定はなかなか身近で面白い。
 主人公二人が対立から和解へ向かうプロセスを織田と柴咲がお互い持ち味を出して演じている。彼の滑舌がしっかりしてメリハリのきいた演技は最後の県議会での演説の場面などで十分発揮されている。柴咲は対立しているときのプンプン怒った顔(ただし、客に嫌悪感は抱かせない)から、相手への好意がにじみ出してくるまでの表情(ただし、相手に媚びているようには見えないところがいい)の変化をいつものように見せてくれる。

エミリー・ローズ


 大学寮で平穏な学生生活を送っているエミリー(ジェニファー・カーペンター)が、ある夜不気味な気配を感じた後金縛りのように体が硬直するという、最初の悪魔との接触場面や、その後空の黒雲から同級生の顔まであらゆるものが悪魔に見えてくる場面、また神父(トム・ウィルキンソン)や神父の弁護を担当する女性弁護士(ローラ・リニー)の部屋に夜中不気味な影が忍び寄る場面などは、私たちが日常的に感じている影や闇に対する不安を思い出させるようなシーンになっている。ただ、悪魔の憑依によってエミリーの錯乱がひどくなってくると、エミリーの絶叫の連続でやや単調になってくる。ただ、キリスト教の世界を身近に感じている人にとってはエミリーが叫ぶ悪魔の言葉を不気味なものに感じるかもしれない。
 裁判劇が中心なので、普通の状態の時のエミリーの描写がもっとあれば、裁判終盤で出てくるエミリーの手紙ももっと心を打つものになっていたと思う。憑依後もそばを離れなかったボーイフレンドとエミリーの関係や、神父とエミリーの関係の描写は、この裁判劇にとっては必要なものだと思うが、あまり説明されていない。特に神父と普通の状態の時のエミリーとの会話場面は絶対必要ではないだろうか。また、エミリーが普段どれだけ信心深い女性であったかということも、終盤に聖母マリアとの遭遇場面があるのだから、描写してほしかった。
 ある症状に対して全く異なる二つの解釈が出てくるところが、この裁判の見所になっている。検察側(キャンベル・スコット)は薬の服用を続けていれば症状は改善されたはずなのにそれを怠ったのは、神父に責任があると訴える。一方弁護側は、世界中で普遍的に見られる憑依現象に対して悪魔払いの儀式は有効なのに、薬で脳が麻痺していたため悪魔払いが効かなかったと反論する。どちらも合理的な説明であり、どちらが真実なのか確かめることはもはや不可能である。どちらの言説も事実を完璧に捉えることは不可能であり、検察と弁護側の間には、壮絶な死に方をしたエミリーの写真が置かれている。

力道山


 この映画で、力道山ソル・ギョング)は日韓双方の観客の安易な感情移入を拒む怪物として描かれている。冒頭、相撲部屋で朝鮮人であるという理由でリンチされる場面では確かに抑圧される被害者だが、彼はそんな位置に甘んじるスケールの人間ではない。逆にリンチの首謀者を脅して味方につけ、有力な後援者管野(藤竜也)を得るための作戦に組み込んでしまう。
 神社に参る場面や自転車に乗る場面など 妻の綾(中谷美紀)との美しい場面がいくつかある。しかし二人の関係は美しい夫婦の物語になっているわけではない。レジャー施設の建築などほとんど誇大妄想に近いような上昇志向と、引きづり落とされることへの不安が入り交じった彼の精神状態と有り余るエネルギーは、平穏な家庭生活を破壊してしまう。彼の周りにいる人たちは彼の魅力に引きつけられながらも、その並外れたエネルギーの暴発についていけない。
 相撲部屋で差別的な扱いを受けた力道山は、しかし朝鮮人を代表するという立場に立っているわけでもない。確かに彼の中には故郷の風景がいつまでも残っている。しかし同時に、そこには二度と戻らないという決意を固めてもいる。古い友人の焼き肉屋で、彼は友人に朝鮮が自分に何をしてくれたと語る。もし残っていたら朝鮮戦争の玉除けにされて死んでいただろうと。彼は日本人の代表、ヒーローとしてリングに上がりアメリカのレスラーと戦う。彼はその役割を引き受け出自を隠しながら戦い続けるが、元柔道選手や元横綱など他の日本人に取って代わられるかもしれないという不安がつねにつきまとう。彼が広い野原の前で夢を語る場面では、そばに運転手吉町(萩原聖人)がいるものの、孤立感を漂わせている。施設建築などの大きな夢は、本当の居場所を持たない彼にふさわしい夢なのかもしれない。
 ソル・ギョングの演技は、リング上で本物のプロレスラーと並んでも見劣りしない殺気を漂わせていて、時々ぎこちなくなる日本語さえ、主人公が孤独な怪物であることを印象づけるのに役立っている。

クラッシュ


 The sense of touch という言葉で始まるこの映画は、他人に触れることの優しさと残酷さをこちらの肌にひりひりと感じさせる映画である。この映画を見た人なら、誰しも忘れられない「触れあい」の場面がいくつかあるのではないだろうか。
 鍵屋の父親(マイケル・ペニャ)が銃の恐怖におびえる小さな娘(アシュリン・サンチェス)に妖精の透明なマントをかけてやるときの、娘の髪をかき上げあごのところでひもを結ぶあの繊細な手つき。そして娘がそのマントで父親を守ろうとして駆け出す後ろ姿と、抱きついて父親の耳元で It's OK, Daddy とささやく瞬間。 
 黒人夫婦(テレンス・ハワード、サンディ・ニュートン)の自尊心を粉々にするいやしい行為をした白人警官(マット・ディロン)の手が、その黒人女性の命を救い出す手となり、さらには病気で苦しむ父親の肩と首にそっとおかれる優しい手となりうること。そこに私たちは希望を見いだせるかもしれない。しかし、その希望は絶望と紙一重のものである。先輩警官の人種差別に憤りを感じ射殺寸前の黒人男性を救った若い警官(ライアン・フィリップ)は、Wait till you've been doin' it a little longer. You think you know who you are, hmm? You have no idea. という先輩の不気味な予言をなぞるように、自分の無意識の中に刷り込まれた黒人への優越感や不信感をちょっとした誤解から暴発させてしまう。偏見に満ちた人間が人を救い、偏見に憤りを感じる人間が人を殺す。強盗の被害にあったペルシャ人の男(ショーン・トーブ)が鍵屋に発砲するエピソードからわかるように、人間同士の触れあいから生じる瞬間的な怒りや衝動を、銃は殺人へと簡単に変えてしまう。触れあいがもたらす恐怖が、LAの人たちを metal and glass の背後に押しやっているのだろうか。
 母と溺愛される弟を見ながら育ったグラハム警部(ドン・チードル)が、病室の前で自分をののしる母の前でうかべる、あの絶望に満ちた冷たい眼を、そして病院を立ち去る時に見せる悲しい表情を忘れることができない。触れあいのぬくもりから遠ざけられてきた男の表情。
 しかし、この映画は希望を指し示す方向へと向かっていく。自尊心を粉々にされ自暴自棄になっていた男が、LAでは珍しい粉雪が降る中でうかべる穏やかな表情と夫婦の和解。人に銃を突きつけて車を奪っていた男(クリス・リュダクリス・ブリッジス)が、ある事件をきっかけに何かを感じ始め、東洋系の移民たちを解放した時にうかべる満足した表情。治安の悪化に怯え、不信感をもちながら生きている都会の人々を描きながら、触れあい、ぶつかり合いがもたらすものを、この映画は肯定しようとしている。

ホテル・ルワンダ

ホテル・ルワンダ サウンド・トラック
 普段混ざり合って生きている人々の間に、突然線が引かれる。そしてどちらの側に所属しているかによって、彼らの生死が決まる。ルワンダフツ族とツイ族の間の差異は、彼らでさえIDカードを見なければ確認することができない。しかし、植民地支配の政策として強化されてきた差異は、ベルギーから独立した後も彼らの意識に深く刷り込まれている。ラジオで虐殺を煽る放送を流し続ける男のあの異様な執念はいったいどっからくるものなのだろうか。
 観客にとって印象に残るのは、もう一つの差異である。それは雨が降る中、救出のバスが止まっているホテルの前で引かれる。国連軍によってホテルから救出される外国人と、取り残されるツチ族の避難民たち。世界から生き残るべきと見なされた人々と、見捨てられた人々の間に、見えないが確実に存在する線が引かれる。海外資本のホテルで重要な地位にまで上り詰めた主人公のポール(ドン・チードル)は、自分がどちら側の人間なのか改めて意識させられる。しかしポールはこの見えない差異を、無防備なホテルを守る防壁として利用し始める。海外資本のホテルにフツ族の兵士たちはなかなか手が出せない。電話やファックスで積極的に海外に働きかけ、政府軍にも欧米の監視があることをほのめかす。執拗に執念深く攻撃してくる相手と交渉術で立ち向かうポールとのやりとりは映画として見所のあるサスペンスになっている。
 最初は隣人をかくまうことさえ嫌がっていた男が、最後は自分が脱出するチャンスさえ捨ててホテルの避難民を救おうとするプロセスを、ドン・チードルが見事に演じている。迷い、弱さ、繊細さなどを表現する彼の表情によって、この映画のポールはヒーローではなく普通の人間として存在している。