けいざいがくにゅうもんいっぽまえ

たねが ひとつぶ おちました。

たねは つちに だかれて いいきもち。


たねから めが でて
きれいな はなが さきました。

はなは かぜに だかれて いいきもち。


ちょうちょが ひらひら とんできました。

ちょうちょは
はなの においに だかれて いいきもち。


さかなが ぱしゃんと はねました。

さかなは みずに だかれて いいきもち。


かわの ほとりに きが ありました。

きは
ことりの うたに だかれて いいきもち。


りすが きに かけのぼります。

りすは みどりの はっぱに だかれて いいきもち。


おとうさんと おかあさんと
こどもたちが おさんぽしています。

あかちゃんは
おかあさんに だかれて いいきもち。



おひさまが そらから みんなを みています。



たねも はなも ちょうちょも さかなも
きも りすも あかちゃんも

みんな みんな
おひさまに だかれて いいきもち。


いいきもち

いいきもち

政治的に正しい脱デフレ法

(このエントリーは、badgebadgeさんのコメントに対する回答でもあります。)

以前、「『タクシー』でアベノミクスを理解する」というエントリーに対して、(私が「デフレの説明」としてどうですか?と質問してしまったせいですが)badgebadgeさんから「デフレの当初原因はやはり日本企業による低賃金国からの開発輸入だと思います」という指摘がありました。

これについては私もまったく同意見で、むしろ「当初」「開発」というワードを外してもいいと思っているくらいです。

今後日本がデフレを克服したとしても(できなかったとしても)、日本が先進国である限り(日本より低賃金国が存在する限り)、低価格の輸入品は(鎖国でもしない限り)常にデフレ要因として存在するでしょう。

では、これをどうするか。

たとえば「円安誘導」などの技術的なことで解決する・・・今がまさにそうですね・・・それについての可能/不可能性については、議論できなくもないのですが、私は(少なくともbadgebadgeさんとは)そういうことを話したいとは思いません。

なぜ、(他の先進国に対してではなく、途上国の通貨に対して)「円」が高いのか。

それは、「経済の強さ」を反映しているからです。

であれば、日本の「先進国としての責任」は、「途上国の商品を買う」ことでしょう。

途上国の商品を買って、途上国がそれによって経済成長を果たし、その結果途上国の通貨が高くなることによって「相対的に」円安が実現する。

これが「政治的に正しい脱デフレ法」でしょう。

この視点を(無意識であれ意図的であれ)外した脱デフレ法は、途上国から見れば結局は「差別」そのものに映るでしょう。

日本国内の脱デフレ議論が、「日本の先進国としての地位をいかにして確保するか」が前提となっているものばかりの中、(失礼ながら)私見ですがbadgebadgeさんはそれとは一線を画す考え方の持ち主だと思っています。

そういう人と経済の話(ソフトランディングの方法とか)であればしてみたい、そのように思っています。
(他にも、脱「『生産性の向上』が原因のデフレ」→成長を「必要条件としない」経済理論、とかいろいろ(これについては2015年1月1日エントリーをご参照ください)。)


では。
今後のご活躍を期待しています。

脱成長とは

It is scarcely necessary to remark that a stationary condition of capital and population implies no stationary state of human improvement. There would be as much scope as ever for all kinds of mental culture, and moral and social progress; as much room for improving the Art of Living, and much more likelihood of its being improved, when minds ceased to be engrossed by the art of getting on. Even the industrial arts might be as earnestly and as successfully cultivated, with this sole difference, that instead of serving no purpose but the increase of wealth, industrial improvement would produce their legitimate effect, that of abridging labour.

Mill, John Stuart (1806-1873)

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資本および人口の定常状態というものが、必ずしも人間の進歩が停止してしまった状態を意味するものではないということは、改めて指摘するまでもないだろう。
たとえ定常状態であっても、以前と同じように、あらゆる種類の精神的文化や道徳的社会的な進歩のための可能性が十分あることに変わりはなく、また、生活様式を改善する可能性についても以前と全く変わりはない。
むしろ、それらが改善される可能性は、人間が「仕事」に心奪われる必要がなくなるがゆえに、以前よりはるかに大きくなるであろう。
産業における技術でさえも、これまでと同じように熱心に研究され、同じように成功するであろう。
唯一つ違うこと、それは、これまでのようにその研究成果が富の増大という目的だけに奉仕させられてしまう代わりに、労働を節約させるという、本来あるべき効果をもたらすようになる、ということだけだ。

ジョン・スチュアート・ミル (1806-1873)