2024/04/29

⚫︎なんと、米澤穂信「小市民シリーズ」の完結編が出ていることに気づいた(『冬期限定ボンボンショコラ事件』)。一体、何年待ったことか。本棚から取り出して調べてみると、『秋期限定栗きんとん事件』が出たのは2009年だった。15年待ったのか。米澤穂信、すっかり読まなくなってしまったが、これだけは読まずにはいられない。ぼくの中で15年間高校生であり続けた小鳩くんと小山内さん。このシリーズの決着を一体どうやってつけるのかずっとずっと気に掛かっていた(しかし、読めるのは六月後半だ…)。

 

2024/04/28

⚫︎黄金町のYPAMフリンジセンターで、Dr.Holiday Laboratoryのイベント「無かったことを無いことにする」。横浜のイベントだと、終電をそんなに気にしなくていい。終電を気にしなくていいということが、どれだけ気楽なことか。

⚫︎基本的に、山本伊等さんの発表が中心にあり、時々、客席からの協力的介入と妨害的介入があり、適宜、俳優たち(ロビン・マナバットさん、石川朝日さん、油井文寧さん)や宮崎玲奈さん(演劇カンパニームニ・直前のイベントの登壇者)と山本さんとの対話が挟まれるという感じ。

⚫︎Dr.Holiday Laboratoryの前作、『脱獄計画(仮)』は、戯曲のレベルでは、俳優が上演の場で何をやろうが、どんな逸脱をみせようが、戯曲がそれを先回りして取り込んでいて、それらはすべて「あらかじめ戯曲に書かれていた」ことになってしまうという構造を持っていた。上演を観るより前に戯曲を読んでいたので、この戯曲はとても面白いし、すごく完成度が高いが、しかし、これを「上演する」ということはどういうことなのだろうかという疑問(危惧)を持っていた。しかし上演を観ると、戯曲で予想していたものとはぜんぜん別の方向から弾が飛んできたみたいな感じでとても驚かされた。

おそらく二つの側面があって、一つは、俳優が何をしようが、あらかじめすべて戯曲に書き込まれている(俳優は何をしても戯曲に取り込まれるしかない)という側面で、しかしもう一つは、戯曲に何が書かれていようが、実際に舞台の上にいるのは俳優で、俳優がいなければ何も始まらないという側面。我々が見ているのは戯曲ではなく俳優の身体や声だ。それは戯曲とはまた別の位相にある出来事だろう。この二つは一見、基本的に排他的で相入れない。Aが成り立つならBは成り立たず、Bが成り立つならAは成り立たない。しかしこの相容れない裏と表とが、見方によってくるくる反転する、ということはある。排他的であるのだとしても、どちらか一方には決められない。というか、別のレベルのあり方として両者並走している、と言うべきか。そういうあり方が面白い。ぼくはそのように観たし、感じた。

ただ、宮崎玲奈さんは、『脱獄計画(仮)』の戯曲が、俳優のあり方すべてをあらかじめ取り込んでしまうような構造を持っていることがどうしても腑におちないというか、納得できない感じで、この点について、山本さんとの間に緊張をはらんだやりとりが結構続いた。このやりとりを興味深く聞きながらも、ぼくには宮崎さんがどうしてそこまでこだわるのか、その感覚はよくわからなかった。

だが、この件について、客席にいた山本浩貴さんが、仲介というか、問題の整理をするような発言をして、それで、なんとなくそういうことなのかとわかったような気にはなった。

現代の演劇を作る人たちの中で、「戯曲(テキスト)」というものが、そこに参加するすべての人が平等にアクセスすることが可能な「根拠」のようなものとして機能しているという側面がある、と山本浩貴さんは言う。実際に、演劇を作る現場では、理不尽な権力の格差のようなことが発生しがちだ。たとえば、演出家が、恣意的な「自分の好み」に過ぎないようなことを俳優に強いる、というようなことが起こる。このとき、「戯曲」を根拠にすることで、俳優は演出家が押し付けてくるものが恣意的なものであることを示して(この戯曲をそのように解釈することは適当ではない、など)、それに抵抗することができる。このように、平等の根拠として「戯曲(テキスト)」がある、と。そのように考えるのならば、平等の根拠としてあるはずの戯曲が、俳優の完全敗北があらかじめ書き込まれているようなものであることに納得できないというのも、わかるように思う。

(それとは別の問題として、稽古の現場で俳優から生まれた「創造的な何か」を、作・演出家が「自分の手柄」として取り込んでしまう、ということは、おそらく実際によくあって、山本さんの戯曲からそれが想起される、とかいうこともあるのではないか。)

だがおそらく、Dr.Holiday Laboratoryの演劇が作られる現場において、戯曲は「根拠」のような強い位置にないのだと思われる。根拠というより出発点のようなもので、とりあえず「これ」があるんだけど、ここから何が考られる ? 、という感じで共同作業が始まるのではないか。

それ(作品の構造)とは別に、「(無自覚なままで維持される)現場での権力関係」というものがあり、それに対する批判的検討が、現代の演劇を行う人たちの間においてある程度共有された問題としてある、ということなのだろう。だが、山本伊等さんが問題にしている「権力関係」は、それとは少し違う場所にある。宮崎さんと山本さんの問題意識は、一見近いところにあるように見えながら、しかしそれは基本的に別のものなのではないか。おそらくこの食い違いが、戯曲の支配構造に対する感覚の違いとして現れていたのではないかと思った。その違いが見えたことが面白かった。

⚫︎イベント後半は、Dr.Holiday Laboratoryの次回作の「原案」となるタルコフスキーサクリファイス』の徹底分析。

ここで山本さんは、『サクリファイス』に出てくるミニチュアが、現実とミニチュアの間のスケールの違いを相対化するように扱われていることに注目する。つまりミニチュアによって「この現実」そのものがミニチュア化される感じがあることが指摘される。そして同様の感覚が『惑星ソラリス』からも感じられることから、そのように見方の妥当性が主張される。今までタルコフスキーをそのようにみたことがなかったので、この指摘はとても新鮮だった。

(Dr.Holiday Laboratoryで、ミニチュアといえば『シャッセナンビ』が気になっている。「シャッセナンビ」が「しあせな日々」であるということを初めて知った。)

「この現実」のミニチュア化は、『サクリファイス』に描かれている「世界」そのものが、演劇的に再演されているという感覚に繋がる。そのようにみると、郵便配達人のオットーが、アレクサンデルに世界の回復のために犠牲になる役を割り振り、家政婦のマリアに世界を救う魔女の役を割り振っているようにみえるようになる。あるいは、オットーとマリアが共謀して、アレクサンデルを「世界の犠牲」の役に追い込んでいるようにもみえる(マリアは渋々、魔女の役を強いられているのかもしれない)。この世界は何度も反復され、核戦争は何度も起こり、起こるたびに「無かったこと」になる。こうなると、『サクリファイス』がだんだん『脱獄計画(仮)』化してくる。

アレクサンデルが世界の罪を被り、彼の犠牲で核戦争が無かったことになったのならば、彼が犠牲になったというその事実そのものがこの世界から消える(未然問題と、非記憶問題)。世界を救うことで世界から消えてしまう「まどか⭐︎マギカ」のまどかのように、あるいは、世界線が移動したことを世界で唯一知っている「シュタインズゲート」のオカリンのように。

『脱獄計画(仮)』から、さらに先に進むとするならば、山本さんの次作のモチーフは、「世界を救うことによって世界から消失したアレクサンデルの犠牲」をどのように「救う」のか、ということになるのだろうか。

2024/04/27

⚫︎RYOZAN PARK巣鴨で、保坂和志「小説的思考塾 vol.16 with 山下澄人」。バタバタ忙しく、「文藝」に掲載された山下さんの3年ぶりだという新作はまだ読めていない(六月の後半に読む)。保坂さんは、山下さんと話すととても楽しそう。以下は内容の紹介ではなく、話を聞いていてぼくが思ったこと。
⚫︎小林秀雄の「感想」の話。最初に書かれている「蛍をみて、おっかさんだと思った」というところと、「駅のホームから落ちたのに無傷だった」という話はとても面白いし、多くの人が話題にするが、「感想」本体については、あまり誰も言及しない。あまり面白くないから。ぼくも、新潮社から出ている小林秀雄全集は「感想」が掲載されている「別巻1」だけ持っているが、最初のその話のことしか覚えていない。そもそも、最初の何回分かしか読んでいないと思う。あまり面白くないから。小林秀雄本人も、うまく書けなかったと思ったから本にしなかった。
「感想」は、ベルクソンについての本ということだが、おそらく、ベルクソンについて書きたかったというより、「蛍をみて、おっかさんだと思った」という経験について書きたかったのだろう。ただ、小林秀雄には、それをどう書いたらいいのかわからなかった。かなり以前の「新潮」に、小林秀雄の講演が収録されたCDが付録としてついていたことがあった。そこで小林秀雄は、ベルクソンの講演について話している。ある人が、夫が戦死した夢を見る。後に、夫はその人が夢を見ていた同じ頃、同じ状況で亡くなっていたことを知る。フランスのある高名な医者は、その話を、誰もが近親者の夢を繰り返し見る。そして、たまたま事実と一致した「その夢」だけを覚えていて、他の大多数の夢は忘れるのだ、と解釈する。しかしベルクソンは、それは問題の立て方が間違っているとする。夢が事実と一致していることが問題ではなく、夫が戦死した夢を、生々しくリアルに経験したということが問題なのだ。わたしが「痛い」と感じることに主観も客観もない、ただ「痛い」という直接経験があるのだ、と。
この論のはこびもまた、話の面白さ(リアリティ)の芯からズレていっているように思われる。「蛍をみて、おっかさんだと思った」ことと、その前年に小林秀雄を母を亡くしていることとは、どの程度関係があるのか。ある人の夢のリアリティが、夫がじっさいに戦争で亡くなっていることと、どの程度関係があるのか。たとえば母親が存命中に、酒に酔ってホームから落下しても無傷だったとき、「おっかさんに助けられた」と感じるのだろうか。いや、感じることもあるかもしれないが、その「直接経験」は、亡くなっているときに感じるものとどのくらい違うのか。
この講演で小林秀雄は、ベルクソンのある講演、ある婦人、フランスのある公明な医者、と、出典を示さずに、あたかも人から聞いた噂話や都市伝説のような語りで語る。ある婦人が語っていたと、ベルクソンが語っていた本を読み、それをここでわたしが語っている。伝聞の伝聞であり、その伝達経路も明かされない。それを聞いている聴衆にとってはさらに伝聞である。ある婦人の「直接経験」が何重にも隔てられた伝聞によって語られる。このような「語り」は、「ある婦人の夢」のリアリティを捉えるのに、ある程度は有効であるように思われる。とはいえ十分とは思えず、この技法があまりに使われまくっている現代ではなおさらそう感じる。
「感想」の最初に書かれたエピソードは、今でもなお面白い。今でもなお面白いということは、いまでもなお、その面白さを十分に解明するやり方を我々は知らないということだと思う。
⚫︎山下さんが、劇団をやっていたとき、劇団の仲間とはあまり親しくならないように気をつけていたという話はとても面白かった。緊張感を保つとか、なあなあにならないとかいうことではない。「よく知らない奴の方が面白い」という理由だ、と。よく知らない奴はあやしげに見える。ちょっとした仕草や、もの言い、目付きなどが、いちいち「変」に見えて、引っかかるし、気に障る。その違和感が面白いのだが、親しくなってしまうと、そのひとつひとつ、いちいち「変」だと感じていたものが、その人を構成する「その人らしさ」のようなものに慣らされて着地してしまって、気に障らなく(「変」だとは感じなく)なってしまう。納得してしまう。しかし、変だと感じ続けて(気に障り続けて)いた方が、そこから色々と面白いものが引き出せる。
カフカはそうやって書いている、と。世界と親しくならないし、他人とも親しくならない。親しげにならなずに、気に障り続けながらも、その「気に障る」ことそのものを面白いと感じる。感じ続ける。寛容さとは、こういうことではないかと思った。
(知り合いで、まったく喋らない奴がいた。しかしあるときから、その人が不意に「あら奥さん」と言うようになる。唐突に、さまざまな場面で、繰り返し、「あら奥さん」と言い出すような、おかしな人になる。しかしエキセントリックな行動は、その人にとって大きな契機となったのか、その人は徐々に「普通の人」になっていく。それに従って、自分の記憶から徐々に薄れていき、消えた、と。その人への興味がなくなったとかでなく、いつの間にか記憶から消えているという感じが面白い。)
⚫︎山下さんの乾いた寛容さの感じは、その「親切主義」からも感じられる。新興宗教やマルチに入っている人の何割かは、信仰によってではなく、親切心で入っているに違いない、と。そんなもの少しも信じてはいないけど、あなたがそこまで熱心に勧誘するのであれば、まあ、入ってみてもいいかなあ、と。知っているおばちゃんは、新興宗教に9つも入っている。そんなことは親切心でしか説明できない。この「親切心」という要素は、多くの社会分析から欠落しているものだなあと思った。
⚫︎山下さんの親への感情も興味深い。自分の親は本当に酷かったし、酷いことを山のようにされた。しかし、今となっては面白かったことだけを思い出す、と。というか、その酷さを面白がれる、ということだろう。妹と話すと、今でも「あいつらだけは絶対許さない」という強い怒りがあって、そのことに驚く、と。山下さんはなぜ、そうなれるのか。なぜ、多くの人は山下さんのようになれないのか。
⚫︎人に理解されなければいけないと思うのは、自分に対する「呪い」だし、人に理解してもらいたいと思うことは、他人に対する「煩悩」だ。それはまったくその通りだと思う。しかし、その「呪い」や「煩悩」から多少でも自由になるためには、それが「呪い」であり「煩悩」であるということがある程度は共通了解となっているような友人(たち)が必要だということはあるのではないか。質問にあった「独り善がり」問題もそうなのだが、「人に理解されないようなことをするのは独り善がりに過ぎない」という硬直した思考の紋切り型(呪い)が、この世界の中で強い力を持って作用してしまっている以上、独力でそれに抵抗するのはとても困難だ(その考えは、そもそもその「土台」がおかしいのだが)。ただ、「芸術」というものは、そのような「友人」としてこの世界に存在していると考えることもできる。だからまず、「芸術」にアクセスできるかということがとても重要なこととしてある。だがそこには「運」の作用も大きい。
(芸術は、見上げるものではあっても屈服するものではなく、教師や父や母というより、尊敬すべき友人のようなものではないか。)
⚫︎あるジャンルの底上げがなされ、全体的にそのレベルが上がるというようなことが起きると、互いに拮抗するような優れた人たちが何人も出てくるというのではなく、なぜか、一人、突出した人が出てきてしまうという問題がある。たとえば、大谷翔平とか藤井聡太とか井上尚弥とかのことなのだが(あるいは、Googleとかamazonのことでもあるが)。これは本当は望ましいことではないのではないか(こうなってしまうこと自体が「失敗」なのではないか)。なぜ、群雄割拠ではなく、天下統一がなされてしまうのか。これはこの世界では物理法則のように揺るがないことなのか。深刻な問題だと思う。
⚫︎メモに、「徹夜 根津甚八」と書いてあるのだが、なんのことかまったく思い出せない。

2024/04/26

⚫︎短編小説「セザンヌの犬」が「群像」に掲載されたのが2012年の11月号で、当時、西荻窪でbeco cafeというブックカフェをやっていた人が、なんとその年の小説の年間ベスト1に選んでくれて、記念として、店で磯﨑憲一郎さんとトークイベントをした(2013年3月2日のこと)。そこに聞きに来てくれた十人弱(?)くらいの観客の一人が、現「いぬのせなか座」の山本浩貴さんだったりするのだけど、「セザンヌの犬」でエゴサしてみて、beco cafeをやっていた人のものだと思われるXのアカウントにぶつかり、その人が今は香川県にいるらしいと知って、おお、懐かしい、と思った(今も「beco cafe」という文字を含んだアカウントだし、当時の「セザンヌの犬」についての投稿も削除されていないので、別に隠しているわけではないと判断してここに書いた、リンクははらないが)。

ちなみに、beco cafe店長とそのスタッフが選ぶ2012年のベスト5は、一位「せザンヌの犬」(古谷利裕)、二位「ピース・オブ・ケーキとトゥワイス・トールド・テールズ 」(金井美恵子)、三位「恥辱」(クッツェー)、四位「トーニオ・クレーガー」(トーマス・マン)、五位「カフカ式練習帳」(保坂和志)だった。この並びで一位なのだから、自分、すごいと自慢したい(これ以外はほぼ無反応だったので、今でもとても感謝しています)。

2024/04/23

⚫︎良い作品はそれ自体で良い作品であり、あまり良くない作品はそれ自体であまり良くない作品だ。例えば、作品に一つ一つ点数をつけていって、ベスト10にまで入るのが良い作品で、それ以降はいまひとつのものだ、ということではない。歴史に残るような傑作にだけ意味があるのではない。

とはいえ、人が読むことのできる量には限りがあり、記憶できる量にも限りがあり、持続的に関心を持ち続けられる量にも限りがあるから、結果として、ベスト10以下は切り捨て、のようなことが、そうとは意図せずに起こってしまう。

今日読んで、しみじみと良いと感じた作品や、その良さの感覚は、しばらくすると、それを読んだという事実からして忘れられてしまうかもしれない。とても幸福な夢の感触が、目を覚ましたら程なく消えてしまうように。

しかしそれでも、たとえ忘れられてしまうとしても、良いものは良いものだし、その良さに触れることには大きな意味がある。幸福な夢を見ることは、たとえ目覚めてすぐに忘れてしまうとしても、幸福なことだ。そういうことについて書かれた小説を読んだ。

今日のこのことを忘れるのか、忘れないのかは、今の時点では分からない。