2024/04/18

⚫︎目黒区美術館が、再開発のために解体されるという話が出ているらしい。もう何十年も行ってないけど、色々と思い出すことがある。ぼくが初めて、自分の作品を大学以外の場で展示するという経験をしたのが、目黒区美術館に併設されている区民ギャラリーでだった。大学内で、学生が主体で、責任者が下の年代へと受け継がれる形で毎年行われていた「Young Power of Art」展という、信じがたくダサいタイトルの展覧会があって、募集のチラシを見てそこに参加した。三浪の間我慢して受験絵画ばかり描いていて創作意欲が爆発していた入学当時のぼくは、とにかく作品を作りたかったし、作ったものをアウトプットしたかったのだった(起きているほとんどの時間を大学のアトリエで過ごした)。その展示が行われたのが目黒区美術館の区民ギャラリーだった。一年の時だったか、二年の時だったか、あるいは、一年と二年と両方参加したのだったかもしれない。

そのときに、どうやったら区民ギャラリーを借りられるかというノウハウを知り、確か三年の時だったと思うが、同級生五人か六人で「共振する離点」というグループ展を企画して行った。自分たちで仕切った最初の展示だった。なぜ、メンバーに目黒区民が一人もいないのに区民ギャラリーが使えたのか覚えていない。区民じゃなくても都民だったらOKだったのかもしれない。

区民ギャラリーの空間はとても広くて(天井はあまり高くないが)、全面を借りられると本当に思う通りに展示ができた。大学のアトリエが巨大で、かつ、当時は抽象表現主義にハマっていたので、やたらとデカい作品をたくさん作っていたのだが、自分の作った巨大絵画を7、8枚くらいダーッと並べられたのはとても嬉しかった。あんなに贅沢に空間を使って展示できたのは、今に至るまで「共振する離点」のときだけだ。

大学四年間で、三回か、少なくとも二回は区民ギャラリーで展示をした。ホームグラウンドみたいな感覚があった。だから学生の時は、目黒区美術館には結構頻繁に行っていた(展示の時だけでなく、応募のためや下見のためなどで)。目黒駅から、権之助坂を通って、目黒川まで。川に突き当たると、川沿いの小道へ入って、しばらく行けば、公園の中に美術館がある。区民ギャラリーは美術館と違う入り口で、地下にあり、階段を下っていくと、見下ろす形で徐々に展示スペースが見えてくる。この道のりを歩いている感触はそんなに古い記憶じゃないように感じるが、でも80年代末から90年代初めころのことだ。

大学三年のときに特待生に選ばれて学費が半額免除になった。親と交渉して、返納された学費の一部で銀座のギャラリーを借りて、四年の時に初めての個展をやった。1992年。目黒での展示はそれよりも前の話だ。

2024/04/17

⚫︎神奈川近代文学館橋本治に関する展示をやっているみたい(見に行っていない)だし、橋本治についての新しい批評の本が出たみたい(読んでいない)なので、昔書いた『ふしぎとぼくらはなにをしたらよいかの殺人事件』論(『世界へと滲み出す脳』所収)をnoteにアップしてみました。

(この小説はとても面白いのだが、とはいえ、読もうとしても入手するのが難しいだろうなあと思っていたが、なんと、二年前に復刊していた ! ということを、今、知った。)

note.com

2024/04/16

⚫︎エリー・デューリングは、「仮想世界と第四次元:マルセル・デュシャン」で、「SF美術家」としてマルセル・デュシャンを評価し、その高いポテンシャルをさまざまに検討し、記述しながら、しかし、デュシャンは結局、その可能性を十分には展開・実行・実演するには至らなかった、と、結論づける(デュシャンには、アインシュタインが足りなかった、と)。とはいえ、デュシャンがやり残したこと、彼が十分には実現できなかったポテンシャルの中にこそ、今日の芸術の重要な問題があるのだ、と言っているように読める。

《「差異とは一つの操作である」とデュシャンは書いている。切断も同様だ。しかし、どのようにしてこの操作を示し、語ることができるだろうか ? 私たちはすでに四次元の中にいる。私たちは絶えずそれを切り取っている。それは私たちを包み込み、鏡に映る像が開いた仮想空間のように私たちに付き従う。どうすればそれを見せることができるだろうか ? デュシャンは、見世物小屋や発明品コンテスト、そして新しい幾何学といったものの要素を含む大作品を構想していた。それは網膜の絵画であるキュビズムに対する本当の美的戦争機械となるはずだった。しかし、数年の労作の末に「花嫁(花婿たちに裸体にされた)」が、これらの最初の直観の移植を提示しているように見えるが、それは本当に作品なのだろうか ? 作者の言葉を借りれば、想像を超えた「痛烈な」「燃え立つような」「可能性の表象」として捉えるべきではないだろうか ? そしてそうだとすれば、デュシャンが大ガラスによって与えようとしていたもの、つまり四次元の仮想的ドラマのプロトタイプを本当に与えているのか、と問わざるを得なくなる。答えは間違いない。それは、デュシャンの覚書に精通した観客が、実物の大ガラスを見て正当に感じる失望の大きさに等しい。デュシャンがガラス板に込めようとしたものを「読み取る」ためには、確かに多大な努力が必要となる。二枚のガラス板の「無限小の」接合点によって表される地平線を越えて、偶然に割れたガラスを越えて、ポアンカレによる位相幾何学的特徴付けにおいて、デュシャンが一般的手順として孤立させることに成功した切断の理念を、どのように具体化したのか言うことは難しい。大ガラスを実演する必要があるだろう。》

《時間が速度の鏡の中で可変的に拡張されるような視点的時間を持つ相対性理論は、彼が大ガラスに取り組んでいた当時にはまだ彼の元に届いていなかった。1920年代にそれが一般化し始めた頃には、もう遅すぎたのかもしれない。「白い箱」の覚書は最終的に、「時間のずれ」と「横向きに見た振り子」の言及で、「時間が消えるように」とデュシャンが明確に述べている言葉で、私たちを川の中州に放り出す。この言及は非常にアインシュタインの理論の時間的なアナモルフォーゼを連想させる。透視画法の岸を離れるために、切断の分析学の険しい道を通らざるを得なかった行程の最後に、速度を空間変換の演算子とすることは、その素材的な逸話の詳細に興味を持つにしても、大部分は推測の域を出ないことを認めざるを得ない。それでも今日、ビデオアートやロケーションメディアの実践者となったデュシャンを夢見ることは許されるだろう。》

2024/04/15

⚫︎ポアンカレによる「n次元の連続体は、それを切断することで得られる複数のn-1次元の連続体によって定義できる」とする定義を受けて、デュシャンは、n-1次元としての3次元によって切断された、n次元である4次元の断面(3次元)について、それを4次元の連続体の「仮想的イメージ」と呼ぶことの正当性を主張する。

さらにデュシャンは、「ホワイトボックス」の別のところで次のように述べている。

(チョコレート製の物体のような空間の物体においては)表面への出現があるが、この出現はこの物体の製造に役立つらしい一種の映像=鏡のようなもの、鋳型のようなものである。しかし形のこのような鋳型はそれ自体で物体ではなく、それはn次元のこの物体の主要な点がn-1次元に現れる映像である。三次元の外観は、その外観(の形)の鋳型である二次元の出現から生じる。

何ものかの出現は、事物そのものの出現ではなく、n次元にある事物が、n-1次元にその鋳型(=映像=鏡像)として出現している、とする。ここで、鋳型が、映像や鏡と同様なものとされていることは重要だ。n-1次元に出現するものが「鋳型」なのであれば、その鋳型によって、n次元にある事物が生じるということになるが、それが「映像」や「鏡像」なのだとすると、n-1次元の出現は、n次元の事物の反映ということになる。鋳型と映像とが並べられているのは、これが双方向に働くことを表しているのだろう。

(とはいえ、「鋳型」のよって生じるn次元の事物は、鋳型を介している時点で既にオリジナルではないことになるが。)

そしてn-1次元に出現する、この鋳型・映像・鏡が、n次元の「仮想的イメージ」ということになる。

三次元の物体は、二次元の「鋳型(=映像・鏡)」の出現から生じる。同様に、四次元の物体は、三次元の「鋳型(=映像・鏡)」の出現から生じる。これを逆向きに見ると、この世界(三次元)の物体は、四次元の物体の「映像・鏡(=鋳型)」である、となる。深さのないモノの表面こそが、高次元を仮想的に表現している、と。

⚫︎四次元を説明する、とても素晴らしい動画を見つけた。これはわかりやすい。

Visualizing 4D Geometry - A Journey Into the 4th Dimension [Part 2] - YouTube

2024/04/14

⚫︎マルセル・デュシャンに関する、エリー・デューリングのテキストをAIに助けられながら読んでいる。

20世紀初頭の芸術家たちの間では「四次元」に関する関心が高まっていた。ただそれは、意外なことにアインシュタインの影響ではない。多くの人は、四次元を探求した数学者、チャールズ・ハワード・ヒントンの著作か、彼から大きな影響を受けた建築家(四次元の伝道師と呼ばれた)、クロード・ブラグドンの著作から、関心を持つようになる。以上は、エリー・デューリングのテキストに書かれていることではない(中沢新一の「四次元の花嫁」とかに書かれている)。

デューリングは、デュシャンの特異性を、彼が「四次元」に関して受けた影響が、ポアンカレに由来するものであった点を強調している。我々は、四次元空間を直接的にイメージすることができないので、通常は、二次元空間に対する三次元空間の関係を見て、そこから類推して、三次元空間に対する四次元空間の関係を考える。そのようなやり方でしか四次元空間をイメージできない。

(二次元的な帯を三次元空間でひねって繋げるとメビウスの帯になる。同様に、三次元的な筒を四次元空間でひねって繋げるとクラインの壷になる、というように。)

しかしデュシャンは、類推でではなく、ポアンカレによる「切断」という定義・操作によって「四次元」を捉えようとした。以下は、ポアンカレ『科学と仮説』から、「ホワイトボックス」でデュシャンが引用した部分。

n次元の連続体とは、そこに1つまたは複数の切断を施すことで、n-1次元の連続体となる複数の部分に分解できるものをいう。n次元の連続体は、こうしてn-1次元の連続体によって定義される。これは帰納的定義である。

たとえば三次元の立方体を、二次元の平面で切断できるように、四次元の立方体(ハイパーキューブ)を、三次元の体積で切断することができる。三次元の立方体を二次元で切断すると二次元の断面が現れる。同様に、四次元の立方体を三次元で切断すると、三次元の断面が現れる。重要なのは、この三次元の断面は、四次元立方体を構成するその一部であるということだ。糸は一点で切れ、はさみで紙を切り、斧の一撃で薪を二つに割ることでn-1次元の「断面」が生じる。類推によって得られる四次元ではなく、四次元のオブジェクトの部分そのものとして三次元が得られる。以下は、「ホワイトボックス」からデュシャンの言葉。

ポアンカレによるn-1次元連続体の切断によるn次元連続体の説明は誤っていない。それどころか確認されており、まさにこの説明に基づいて、その無限の幾何学的形態において3次元の典型的な対象(物体=型)によってしか切断が得られない、仮想的イメージの連続体に4次元と呼ぶ名称を正当化することができるのである。

ある四次元連続体を三次元で切断して得られた三次元連続体があるとする。それは元の四次元連続体を構成する一部(四次元的存在)であるが、ある一つの軸方向への広がりが無限小まで縮減されている。しかしその縮減された軸方向の広がりは《いわば我々の世界の表面やへりに食い込んで》いる(エリー・デューリング)。この、縮減されながらも世界の「表面」に「食い込んで」いる、深さのない四次元的な深さのことを、おそらくデュシャンはアンフラマンスと呼んだ。

(エリー・デューリングはこの「深さのない四次元的深さ」に「仮想的次元」というステイタスを与えているように思われる。)

たとえばデュシャンにとって、大量生産される工業製品であるレディメイドは、四次元連続体の中から切り出された三次元断面と映っていたのだろうと思う。類推すれば、三次元連続体である金太郎飴から切り出された、断面としての金太郎の平面的イメージのようなものとしてのレディメイド

2024/04/13

⚫︎RYOZAN PARK 巣鴨で、連続講座 第3回 「マイケル・フリードとグレアム・ハーマン―芸術作品はどのようにして、この世界にあることができるのか」。今回は特別会として大岩雄典さんにゲストとして来ていただいた。

現場でも言ったことだが、この件について(フリードとハーマンについて)の講演を大岩さんにお願いできて本当に良かったと思った。30年来のモヤモヤが色々腑に落ちたのと同時に、新たな刺激を多く受けた。詳細についてはアーカイブ動画もあるので、そちらを観てください。

inunosenakaza.com

一つ、余談のような話。一般に、フォーマリズムの批評では、ダリやマグリットなどのシュルレアリスムの絵画は、いわゆる伝統的な三次元空間の表象に留まっているということで、アカデミズムの絵画として、評価は低めになっている。モダニズムの作品においては、表象されるもの(主題)と、それを表象するメディウムとの間に緊張関係がなければならないとされるのだが(いわゆる「メディウム自己批判」のようなものが必要とされるのだが)、それに対して、作品がメディウムのありように対して無自覚というか、メディウムの存在(メディウムの抵抗)をなるべく見えないようにする傾向の作品を、グリーンバーグはアカデミズムの作品と名付けて批判的に取り扱った。要するに、シュルレアリスムの絵画は「絵画空間」としてはとても普通で、新しさは何もない、と。

それに対してハーマンは『芸術と対象』で、ダリやマグリットなどの作品の「普通の空間に異様なオブジェクト」というあり方が、OOOにおける「通常の道具的連関の中に突如現れる壊れたオブジェクト」というあり方に似ているとして、高く評価する。デュシャンよりもダリの方が偉い、みたいな感じになっている(フォーマリズムの批評ではデュシャンの評価も低いが…)。そして大岩さんもまた、ハーマンの主張を受けつつ、シュルレアリスムの絵画(マグリットデ・キリコ)の「普通の空間に異様なオブジェクト」という感覚が、ゲームのUIや、現在のインスタレーションの作品などとの親和性が高いとして、好感触な感じとして語っていた。

その話を、なるほどなあと聞きながら、ぼくとしてはどうしても「空間」それ自身というか、「時空」それ自身を歪ませたいと思ってしまうんだよなあと思っていた。「普通の空間に異様なオブジェクト」ではなくて「歪んだ時空に普通のオブジェクト」という方向を指向してしまう。時空そのもののあり方を変えたいと思ってしまう。もしかするとこれこそが、ぼくに刻まれた「モダニズムの刻印」なのかもなあと思った。

2024/04/12

⚫︎Geminiが翻訳してくれない事案がまた発生した(原文はエリー・デューリングによるフランス語)。何度頼んでも「私はテキストの処理と生成のみを目的として設計されています。すみませんが、そちらについてはお手伝いできません」という応えだ。ChatDPTに同じ文の翻訳を頼んだら、文中に「戦争」や「兵器」という語彙があり、これが拒否された理由なのかも、と思った。とはいえそれは、デュシャンの「大ガラス」について書かれたもので、《それはキュビスムに対する美的な戦争の本当の兵器であり、視覚的な絵画の前哨基地であろうと考えていました》という文だから、リアルな戦争や兵器には関係ないのだが。

試しに「要約」を頼んだら、ちゃんとした要約が(しかし「戦争」や「兵器」という語彙抜きで)返ってきた。逐語訳は拒否するが、要約は受け入れるのか、と。

(Geminiはもともと、「できるだけ逐語的に訳してください」と指定しないと初めから「要約」が返ってくる傾向があるが。)

⚫︎スマホについている、写真を撮るとテキストを抽出してくれるテクストスキャナーは、アルファベットだとほぼ完璧に読み取ってくれるが、日本語だとまだまだ精度が悪い。複雑な漢字を読み間違えるのはまだわかるが、平気で何文字か飛ばしたりする。本を直接写真で撮るとあまりに不正確だが、スキャナーでスキャンしてPDFにして、PCのモニターに大きく映し出してそれを写真に撮ると少しはマシになる。それにしても今日は、「ニュースキャスター(傍点つき)」という文字を「シコいたわやかかし」と解釈したので驚いた。傍点がついていると混乱するのか。