2024/04/14

⚫︎マルセル・デュシャンに関する、エリー・デューリングのテキストをAIに助けられながら読んでいる。

20世紀初頭の芸術家たちの間では「四次元」に関する関心が高まっていた。ただそれは、意外なことにアインシュタインの影響ではない。多くの人は、四次元を探求した数学者、チャールズ・ハワード・ヒントンの著作か、彼から大きな影響を受けた建築家(四次元の伝道師と呼ばれた)、クロード・ブラグドンの著作から、関心を持つようになる。以上は、エリー・デューリングのテキストに書かれていることではない(中沢新一の「四次元の花嫁」とかに書かれている)。

デューリングは、デュシャンの特異性を、彼が「四次元」に関して受けた影響が、ポアンカレに由来するものであった点を強調している。我々は、四次元空間を直接的にイメージすることができないので、通常は、二次元空間に対する三次元空間の関係を見て、そこから類推して、三次元空間に対する四次元空間の関係を考える。そのようなやり方でしか四次元空間をイメージできない。

(二次元的な帯を三次元空間でひねって繋げるとメビウスの帯になる。同様に、三次元的な筒を四次元空間でひねって繋げるとクラインの壷になる、というように。)

しかしデュシャンは、類推でではなく、ポアンカレによる「切断」という定義・操作によって「四次元」を捉えようとした。以下は、ポアンカレ『科学と仮説』から、「ホワイトボックス」でデュシャンが引用した部分。

n次元の連続体とは、そこに1つまたは複数の切断を施すことで、n-1次元の連続体となる複数の部分に分解できるものをいう。n次元の連続体は、こうしてn-1次元の連続体によって定義される。これは帰納的定義である。

たとえば三次元の立方体を、二次元の平面で切断できるように、四次元の立方体(ハイパーキューブ)を、三次元の体積で切断することができる。三次元の立方体を二次元で切断すると二次元の断面が現れる。同様に、四次元の立方体を三次元で切断すると、三次元の断面が現れる。重要なのは、この三次元の断面は、四次元立方体を構成するその一部であるということだ。糸は一点で切れ、はさみで紙を切り、斧の一撃で薪を二つに割ることでn-1次元の「断面」が生じる。類推によって得られる四次元ではなく、四次元のオブジェクトの部分そのものとして三次元が得られる。以下は、「ホワイトボックス」からデュシャンの言葉。

ポアンカレによるn-1次元連続体の切断によるn次元連続体の説明は誤っていない。それどころか確認されており、まさにこの説明に基づいて、その無限の幾何学的形態において3次元の典型的な対象(物体=型)によってしか切断が得られない、仮想的イメージの連続体に4次元と呼ぶ名称を正当化することができるのである。

ある四次元連続体を三次元で切断して得られた三次元連続体があるとする。それは元の四次元連続体を構成する一部(四次元的存在)であるが、ある一つの軸方向への広がりが無限小まで縮減されている。しかしその縮減された軸方向の広がりは《いわば我々の世界の表面やへりに食い込んで》いる(エリー・デューリング)。この、縮減されながらも世界の「表面」に「食い込んで」いる、深さのない四次元的な深さのことを、おそらくデュシャンはアンフラマンスと呼んだ。

(エリー・デューリングはこの「深さのない四次元的深さ」に「仮想的次元」というステイタスを与えているように思われる。)

たとえばデュシャンにとって、大量生産される工業製品であるレディメイドは、四次元連続体の中から切り出された三次元断面と映っていたのだろうと思う。類推すれば、三次元連続体である金太郎飴から切り出された、断面としての金太郎の平面的イメージのようなものとしてのレディメイド

2024/04/13

⚫︎RYOZAN PARK 巣鴨で、連続講座 第3回 「マイケル・フリードとグレアム・ハーマン―芸術作品はどのようにして、この世界にあることができるのか」。今回は特別会として大岩雄典さんにゲストとして来ていただいた。

現場でも言ったことだが、この件について(フリードとハーマンについて)の講演を大岩さんにお願いできて本当に良かったと思った。30年来のモヤモヤが色々腑に落ちたのと同時に、新たな刺激を多く受けた。詳細についてはアーカイブ動画もあるので、そちらを観てください。

inunosenakaza.com

一つ、余談のような話。一般に、フォーマリズムの批評では、ダリやマグリットなどのシュルレアリスムの絵画は、いわゆる伝統的な三次元空間の表象に留まっているということで、アカデミズムの絵画として、評価は低めになっている。モダニズムの作品においては、表象されるもの(主題)と、それを表象するメディウムとの間に緊張関係がなければならないとされるのだが(いわゆる「メディウム自己批判」のようなものが必要とされるのだが)、それに対して、作品がメディウムのありように対して無自覚というか、メディウムの存在(メディウムの抵抗)をなるべく見えないようにする傾向の作品を、グリーンバーグはアカデミズムの作品と名付けて批判的に取り扱った。要するに、シュルレアリスムの絵画は「絵画空間」としてはとても普通で、新しさは何もない、と。

それに対してハーマンは『芸術と対象』で、ダリやマグリットなどの作品の「普通の空間に異様なオブジェクト」というあり方が、OOOにおける「通常の道具的連関の中に突如現れる壊れたオブジェクト」というあり方に似ているとして、高く評価する。デュシャンよりもダリの方が偉い、みたいな感じになっている(フォーマリズムの批評ではデュシャンの評価も低いが…)。そして大岩さんもまた、ハーマンの主張を受けつつ、シュルレアリスムの絵画(マグリットデ・キリコ)の「普通の空間に異様なオブジェクト」という感覚が、ゲームのUIや、現在のインスタレーションの作品などとの親和性が高いとして、好感触な感じとして語っていた。

その話を、なるほどなあと聞きながら、ぼくとしてはどうしても「空間」それ自身というか、「時空」それ自身を歪ませたいと思ってしまうんだよなあと思っていた。「普通の空間に異様なオブジェクト」ではなくて「歪んだ時空に普通のオブジェクト」という方向を指向してしまう。時空そのもののあり方を変えたいと思ってしまう。もしかするとこれこそが、ぼくに刻まれた「モダニズムの刻印」なのかもなあと思った。

2024/04/12

⚫︎Geminiが翻訳してくれない事案がまた発生した(原文はエリー・デューリングによるフランス語)。何度頼んでも「私はテキストの処理と生成のみを目的として設計されています。すみませんが、そちらについてはお手伝いできません」という応えだ。ChatDPTに同じ文の翻訳を頼んだら、文中に「戦争」や「兵器」という語彙があり、これが拒否された理由なのかも、と思った。とはいえそれは、デュシャンの「大ガラス」について書かれたもので、《それはキュビスムに対する美的な戦争の本当の兵器であり、視覚的な絵画の前哨基地であろうと考えていました》という文だから、リアルな戦争や兵器には関係ないのだが。

試しに「要約」を頼んだら、ちゃんとした要約が(しかし「戦争」や「兵器」という語彙抜きで)返ってきた。逐語訳は拒否するが、要約は受け入れるのか、と。

(Geminiはもともと、「できるだけ逐語的に訳してください」と指定しないと初めから「要約」が返ってくる傾向があるが。)

⚫︎スマホについている、写真を撮るとテキストを抽出してくれるテクストスキャナーは、アルファベットだとほぼ完璧に読み取ってくれるが、日本語だとまだまだ精度が悪い。複雑な漢字を読み間違えるのはまだわかるが、平気で何文字か飛ばしたりする。本を直接写真で撮るとあまりに不正確だが、スキャナーでスキャンしてPDFにして、PCのモニターに大きく映し出してそれを写真に撮ると少しはマシになる。それにしても今日は、「ニュースキャスター(傍点つき)」という文字を「シコいたわやかかし」と解釈したので驚いた。傍点がついていると混乱するのか。

2024/04/11

⚫︎4月から6月はやるべきことが山のようにあって、考えるだけでアップアップになるが、それでも時間を作ってエリー・デューリング『Faux raccords : la coexistence des images』を、3人のAIたちに助けてもらいながらちょぼちょぼと読んでいる。いつものことだが、エリー・デューリングを読んでいるとしばしば新海誠の作品が頭によぎる。たとえば、『トップをねらえ ! 』が、徹底して「正しい繋ぎ」にこだわった作品だとすれば、『ほしのこえ』は、はじめから「繋ぎ間違い」によってできている作品だ。そしてそれは偉大な繋ぎ間違いの傑作である『君の名は。』に結実する(『天気の子』と『すずめの戸締まり』はあまり「繋ぎ間違い」要素は感じられないが)。

さらに言えば、繋ぎ間違いとは「断絶」の強調ではなく、非連続性を連続性(共存)のための媒介とする、ということだ。『ほしのこえ』の永久に出会う(再会する)ことのできない男女は、作品そのものの原理である非連続的なモンタージュによって繋がっている。だが、このモンタージュを正当化する論理は「世界の内側」には存在しない。対して、『トップをねらえ ! 』の登場人物たちは、何度も出会い直すが、出会うたびにズレが大きくなっていく。これは、相対性理論の正しい使用だ。

2024/04/10

⚫︎ハーマン的な「出会い」の図式。

実在的なわたしと実在的な木があり、わたしの志向性のなかで実在的わたしと感覚的な木とが真摯な出会いをする。それにより実在的な対象「わたし+木」が生まれるが、実在的な「わたし+木」は、その構成要素でもある「わたし」からも脱去する。これは幽体離脱的と言えるのではないか。あるいは、大江健三郎の小説における古義人とコギーの関係を思わせる。

実在的な「わたし+木」の一部であると同時に、その外にある実在的わたしに、豊かに茂る木の葉の緑と美しい対比を見せる、その隣に咲いている鮮やかに赤い花が目に入ってくる。ここで実在的わたしは、感覚的な「木+花」に出会っており、この出会いが実在的な「わたし+「木+花」」を生む。そしてそれも、実在的わたしから脱去する。わたしの経験する空間は、感覚的な「わたし+木」から、感覚的な「わたし+「木+花」」へと移行している。

このようなときの、現在の「実在的なわたし」と、先ほどまでの「感覚的なわたし」の関係を考える。

 

2024/04/09

⚫︎あらゆる物は複数の部分からなる(下方解体・還元主義)。あらゆる物は相互作用する(上方解体・ホーリズム)。しかし、下方解体によっても上方解体によっても還元されないものこそが物(対象)である。ハーマンはそのように言う。だからハーマンの言う対象(存在者)は、下方解体と上方解体の中間にある「形」あるいは「輪郭線」あるいは「外皮」あるいは「ブランク」のようなものとなるだろう。存在しない輪郭線こそが「存在(者)」である。あるいは、輪郭線を確定する主体はそれを見る者(認識論)ではなく、輪郭線そのものの方だ(存在論)、ということになる。対象のもつ「汲み尽くせなさ」や「無限の深さ」は、その徹底した薄っぺらさ(深さのなさ)による捉え難さからくる。ある対象が環境からも構成要素からも自律して存在するということを、ハーマンはそのように捉えていると言えると思う。

対象は、リテラルな記述によっては捉えられず、比喩によってしか捉えられないというハーマンの理屈は、固有名は確定記述の束には還元できないとするクリプキの理屈に似ている。しかしここで、固有名(≒比喩)によって名指される存在は、それを名指す者によって定められる(認識論)のではなく、名指されるものそのものが自ら固有の何かとなる(存在論)、という理屈になる。

自らの輪郭を自ら定める輪郭線そのものとしての対象。モノとは、中味(構成要素)でもなく、関係でもないとすれは、それが「何処」にあるのかわからなくなる。だから「モノの持つ深さ」とは、我々が「深さ」という語からイメージするものとはまったく異なっているだろう。モノの深さは、それが存在する「位置」を確定できず、故にはっきりとは捉えられないことからくる。あえて言えば、モノは、世界の外からこの世界の内側に射映される、無限に薄っぺらくて厚みのない「形(影)」のようなものだ、ということになる、と言っていいのか?

(クリプキの固有名論は、様相理論、可能世界意味論へと通じる。固有名は「この世界の内部」だけでは捉えられない。)

こういう言い方をすると、『ART AND OBJECTS』の中ではあまり高く評価されていないデュシャンと、ハーマンは近くにいるように思えてくる(『ART AND OBJECTS』では、デュシャンレディメイドの人としてしか考えられていない)。そして、アラカワ+ギンズにも近づいてくるように思われる。

2024/04/08

⚫︎『ART AND OBJECTS』(グレアム・ハーマン)が扱っているのは、具体的な作品というよりあくまで美術に関する言説で、作品そのものについて多少なりとも突っ込んで書かれているのは、六章のダダとシュルレアリスムとの根本的な違いについての部分くらいだろうか。だから、美術というより美学の本で、カントから始まり、フリード、グリーンバーグ、ローゼンバーグ、スタインバーグ、クラーク、クラウス、ランシエールが扱われ、加えて、ダントーやド・デューヴ、フォスターなどにも触れられる。扱われている人たちは、「モダニズムとの距離感」によって立場を測れるような、つまり、批判的であったとしても割合とモダニズムの近傍にいる人たちで、クレア・ビショップとかボリス・グロイスみたいな人には触れられない。要するに「古いモード」の中で書かれている。今、あえて、この「古いモード」を(魔改造して)持ち出すというところに、ハーマンの意図があるはずだろう。

(少し読み進めれば、ハーマンの「演劇性」とフリードの「演劇性」とでは、どう考えても違う事柄を指しているよなあ、と思う。)

⚫︎カントについて検討されたあと、様々な、グリーンバーグ以降の美術に関する言説が、OOOとの比較の中で検討される。だからこの本には、OOOの原理を用いれば何でも語れてしまうよ、というような危険さはある(様々な言説は、OOOとの相違によって測られる)。それに、「専門家」であれば、相当の慎重さが要求されるであろう「言説史」を、(美術の専門家ではなく、あくまで哲学者だという立場を「悪用」して)かなり大胆にざっくりした感じでやっているようにも見える。だが、ぼくにとっては、この「粗さ」こそがハーマンの魅力であるように思われる。専門家ではないからこそ(美術の方の専門家ではなく哲学の方の専門家であることで)、(美術の)現在の文脈の上に「古いモード」をしれっと乗っけることもできる。ツッコミどころのない、精度の高い本を書くよりも、今、これが必要だというものを、今、ここに出現させようとする。

(少なくともぼくにとって、今、こういう本があってくれることで大変に助かる。)

(この本が、たとえば大学で「グリーンバーグ以降の美術批評」という講義があった場合、そのためのテキストとして使えるものなのかどうかを「専門家」に聞いてみたい感じはある。)

⚫︎「OOOの原理を用いれば何でも語れてしまうよ」というような危険さは、ハーマンの書くものには常にあるように思う。でもそれは逆から考えると、OOOの原理をどこまでも拡張して使ってみるという実験であり、ある装置を、どこまで拡張できるのか、実際に拡張してみるとどうなるのかを試しているのだとも言える。脇を固めるよりも、とにかくどんどんやっていく(本を書きまくる)という姿勢に好感を持っている。

(ジジェクの「ラカンを使えば何でも説明できるよ」とはかなり違うように思われる。)