2024/03/24

⚫︎部屋のソファーの上に積み上げられた、連続講座第二回のための資料の山を切り崩し、本棚などに戻しつつ、第三回、第四回のための資料をぼちぼちと掘り出して、それらはまたソファーの上に積み上げられる。

次回は、大岩雄典さんにお話を伺うことを通して、グレアム・ハーマン『Art and Objects』を読みときつつ、ハーマンとマイケル・フリードについて改めて考える回になると思います。

(ハーマンの『Art and Objects』は、オブジェクト指向実在論(OOO)の立場から、モダニズム以降の芸術作品やその言説について書かれた本ですが、ハーマン自身が、この本の多くをマイケル・フリードに負っていると書いています。フリードは、「芸術と客体性」という論文で有名で、グリーンバーグの批判的継承者みたいなイメージが一般的ですが、ぼくには、90年代の「批評空間」に載っていた「二つのレアリズムの間に」という、なんとも不思議なテキストが強く印象にあって、いわゆるフォーマリズムとは違った感触によって、ずっと気に掛かってきた存在でした。とはいえ、あくまで語学弱者の「ぼんやりイメージ」として気になっていただけですが、下に埋め込んである大岩さんの動画(「世界はここで終わる」)を観て、こんなに面白い人なのか、と改めて興味が湧いたのでした。)

連続講座、特別回。大岩雄典トークマイケル・フリードとグレアム・ハーマン―芸術作品はどのようにして、この世界にあることができるのか」

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僕のみるかぎり、ハーマンの読解には、フリードの批評を実在論のテーゼに読み換える魅力的なメタファーと、その副産物としてのフリード批評の再解釈がある。前者はOOOに、後者は美術に役立つだろう。だが他方で、むしろハーマンの読めていないところに(フリードの悪文のせいだ)、フリードの批評的なエッセンスがあるようにも思う。

《僕が3月に提出した博士論文は、インスタレーション・アートの理論にフリードの批評の体系を引き継いだものだ。これも一種の「魔改造」である。インスタレーションという、輪郭のわからない芸術の経験や制作を論じるうえで、「芸術作品はどのようにあるのか」というフリードのテーマは役に立つ。他方でハーマンの芸術論も、ジャンルを限らない、芸術作品という対象を広汎に考えるテーゼを提案している。フリードも近年は文学論に手を伸ばしている。

ハーマンとフリードが芸術を通じて論じるのは、ものの「自律」である。何が個別で、私たちや他のものとは異なるものとしてあるのかという問いが、芸術という、特異に個別なものを通じて語られる。であるからして、ハーマンの理論とフリードの理論がそれぞれどのように個別にありうるのかも、読み取らないといけない。》

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このテキストは、まさにフォーマリズムの現代的アップデートという感じで、美術という文脈において、こういうものをこの20年くらいずっと求めていた、という感じです。

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2024/03/23

⚫︎RYOZAN PARK 巣鴨で、連続講座「未だ十分に尽くされていない近代絵画の可能性について(おさらいとみらい)」、第二回「「実の透明性/虚の透明性」を魔改造する」。スライド600枚弱で、四時間を超えるイベントになった。コーリン・ロウ+ロバート・スラツキイの論文「透明性―虚と実」の解説から始まって、幽体離脱的な、一でもあり多でもある「わたし」というありようを実現する表現(魔改造された「透明性」)に至るところにまで持っていくのに、最低限そのくらいかかった、ということだ(アーカイブもあります)。

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流れとしては、「透明性―虚と実」の解説→論文にない実例の提示→セザンヌの分析(「りんごとオレンジ」から、晩年のブランクのある作品について、ホックニーの写真との類似性など)→カントールの塵とブランクについて→小津安二郎麦秋』と成瀬巳喜男『稲妻』の特定場面のカット割の分析と比較→多平面的(多レイヤー的)空間表現としてのアニメティズム(トマス・ラマール)について。ここでいったん休憩。

続いて、桂離宮の庭園回遊ヴァーチャルツアーと分析(「かつてあったことと、これからあるであろうことについての無知」「自身が遠くに没入している」をもたらす空間)。休憩。

終盤は、小鷹研理による幽体離脱研究を参照しつつ、小鷹研のいくつかの作品(装置)と「知らせ」(神村恵+津田道子)の紹介→チェルフィッチュ『フリータイム』とアピチャッポン『光りの墓』の分析。虚の透明性が拡張・進展された表現としてチェルフィッチュがあり、実の透明性が拡張・進展された表現としてアピチャッポンがある、というところで、一応終わり。

直前まで、『寝ても覚めても』(柴崎友香)と、「音から作る映画」シリーズ(七里圭)についても触れたいと思って準備していたが、時間的にもどうやっても入りきれなかった。柴崎友香における、東京と大阪というバイロケーション性(≒虚の透明性)と、七里圭における、とにかく「重ねまくる」、実の透明性を極限まで過激に追求することによって実現するもの、については、また別の機会に考えたい。

2024/03/22

⚫︎『不適切にもほどがある ! 』、第九話。円井わんの仲里依紗に対する感情は、嫉妬と羨望からくる憎悪の状態にあって、つまり、円井から仲へのハラスメントの告発は、憎悪する相手を陥れる策略であろう。たとえば、昭和の時代、職場におけるハラスメントが社会的にほぼ問題になっていない時に、円井による仲への感情と同様の嫉妬と羨望からくる憎悪があった場合、円井は、ハラスメントへの告発とは別の形で(その時代、その環境に合った)、何かしらのダメージを相手に与えるような策略を実行しただろう。ここにあるのはあくまで、円井と仲との間に生じた人間関係の問題(こじれ)であり、感情の問題だと言える。ハラスメントが、社会的な権力関係の中で、それを利用して相手の人権を踏み躙るような行為をすることだとすれば、円井の仲への感情(仲に傷つけられたと感じること)は、そこには含まれないはずだ。

阿部サダヲは、円井に対して、仲里依紗よりもずっと酷いことを言っているが、円井にとって阿部など眼中になく(関心がなく)、故に阿部の言葉に傷つくことはなく、せいぜい仲を追い詰めるための格好の素材くらいの意味しかないだろう。円井にとって仲の言葉は、直属の上司からの言葉ではなく、嫉妬と羨望からくる憎悪の対象にからの言葉となる。それによって円井に生じた感情(傷つけられた)について、「上司」としての仲が責任を取らされるのは理不尽なことだ。

(仲が、「人として」配慮が足りなかったと反省することはあるかもしれないが。しかしそれは、個と個の間のコミュニケーションの問題であって権力関係の問題ではない。)

(このことの背景には、この社会の中にマタハラという問題が存在してしまうという事実がある。しかし、「マタハラが存在してしまう」ということのツケを個人としての仲里依紗が負わされるのは理不尽だろう。だが、人は往々にして、遠くにいる敵対的強者よりも、近くにいて、同じ問題を共有してさえいる、決して「敵」ではない人物の「小さな配慮不足」の方を、強く恨んでしまいがちだ。)

だからここで問題となるのは、上司と部下との間にある権力関係ではなく、「裁く側」と「裁かれる側」との間にある権力関係だろう。ここで「裁く側」に明らかに大きな問題がある。そもそも、誰に「人を裁く」権利があるのか。必要上、第三者的な立場として裁く側になってしまった場合、そこには「部下に対する上司の責任」よりも重い責任が課されることになる。だが、このテレビ局のハラスメント対策委員会は、その責任を果たしていない。調査が十分でないばかりか「被疑者」に十分な反論の機会を与えることもない。彼らの目的が、フェアなジェッジを行うことではなく、問題を大きくしないこと(危機管理)にあるからだ。この点について、仲は会社組織から明らかなハラスメントを受けているが、それを告発する窓口はない。

(仲に、感情として、円井に対する罪悪感がほんのわずかでもある場合、ここで抵抗することはほぼ不可能だろう。)

(このような「委員会」の様子を見ると、60年代の前衛映画によくあった、革命的勢力による、反革命分子を糾弾する委員会の様を連想させられる。)

もちろん、ハラスメントは大きな問題であるが、では、それにかんして、誰が、どのような権利において裁くのか。人が、直接的に加害を受けているわけではない誰かを(疑問を呈するというレベルではなく)強く非難する時、その人は、その強い非難に見合った根拠を本当に持っているのか。あるいは、非難が言説のレベルで機能する(論争や政治的対立)なら良いとして、実質的に、社会的評価にかんして決定的に「裁いてしまう」ような力を持ってしまうとしたら、どうなのか。とはいえ、誰かが、何がしかの責任を負って「裁かないわけにはいかない」場合は端的に存在し、その場合、その根拠は何重にも検証される必要があるだろう。

(ただ、このような疑問を持ってしまうことがそのまま、「既得権を持つ者の有利」に通じてしまうというどうしようもないジレンマもあり、故に、とりあえず真偽はともかく「弱い側」に立つという暫定的態度は必要だ。しかしそれは暫定的な判断であり、状況により判断は流動的になり、裁きを決定的に色付けることは避けなければならないと思う。)

「委員会」のメンバーは、何も裁きたくて裁いているわけではない。裁く立場であることの全能感に酔っているわけでもなく、正義感や使命感に突き動かされているのでもない。彼らは、同僚である仲里依紗が悪い奴ではないことを知っているし、「そんなつもりはなかった」が言い訳でないことも知っている。ただ、円井わんがこれ以上騒ぎを大きくしないために、「ここは君が我慢してくれ」という話だ(組織としての危機管理)。いわば、ヤクザ映画で、若手が汚れ仕事を請け負わされて、何年かの懲役を済ませて帰ってきたら幹部待遇を約束するから「ここは我慢してくれ」というのと同じ構造だ。

(そもそも、委員会のメンバーの中に、被告発者の親しい仕事仲間が含まれている時点で、この委員会には正当性・第三者性がない。だから、彼らがするのはジャッジではなく「(組織内の)調整・調停」になるしかない。まずここに大きな問題があるのだが。)

委員会のメンバーはその事情を知っている。あるいは、仲と近い位置にいる内部の人は、ここで仲が「汚れ役」を引き受けさせられていることを知っている(だから復職後の彼女を責めることはないだろう)。しかし、すべての人がそれを知るわけではない。事情を知らない第三者には、ただ「パワハラで休職させられている人」という情報だけがもたらされ、それ(だけ)を元に彼女は「裁かれる」。あらゆる事柄には複雑な事情があるが、それを知る人はごくわずかだ。

2024/03/21

⚫︎夢にピカソが出てきた。ピカソはなぜか、学校の威圧的な先輩で、何か集団的な作業をして忙しくしているとき、遠くからこちらに視線を向けてきて(こちらにわかるようにあからさまに視線で圧をかけてきて)、あ、やだな、絡まれるな、なんか言われるな、と思ったら案の定、「お前さっきの体育の時、アディダスの靴の底が見えてなかったぞ(意味不明だが「歯が見えてたぞ」みたいなニュアンスで)、やる気あんのか、舐めてるんだろ」と大声で怒鳴られ、近づいてきて詰め寄られた。圧が強くて怖かった。

2024/03/20

⚫︎23日のイベント、「「実の透明性/虚の透明性」を魔改造する」で使用するスライドより。「イサムちゃん」の回遊を90度で回転するカメラで捉える『麦秋』(小津安二郎)のカット割り。

間宮家の一階間取り。

90度、90度、90度、平行移動、そして90度。

 

2024/03/19

⚫︎ふと思い立って金井美恵子「孤独な場所で」(『金井美恵子全短編Ⅲ』)を読む。別の本を探している本棚から気まぐれに取り出したら読み込んでしまった。

話者である中年男性が、二十三歳年下の妻と入院中の父親の見舞いに行く場面から始まる。病院の裏手で解体中の屋敷の話題から、母親の女学生時代の噂話、父親の中学時代の奉公の話が混じり合う。

つづく場面で、若い妻が話者の息子に出迎えてもらう様子が描写される。そして、妻はその息子に、わたしはあなたの父親の妻であって、あなたにおかあさんと呼んでもらうつもりはないと言ったのだと、妻が話者に向かって語る。それが、前の場面で入院中だった父の葬式であることが匂わされる。つまり、父は程なく亡くなり、中年男は再婚で息子がいることがわかる。

というか、これらのことは一切説明されず、高いヒマラヤ杉のある建物の近くにある宴会場から結婚式後の人々が出てくるという場面の情景描写が長く続いた後、ふいに、《そうしたら、むこうから晋さんが歩いてきて、わかりやすい場所だから、わざわざ出むかえてくれなくてもよかったのに、と言ったのね、と彼女はビールとグラスをテーブルに置きながら、興奮して喋りつづけ、おかあさんと呼んでもらうつもりはないし、あたしは、いわばあなたのおとうさんの妻なんですから、と大きな眼を見開いて笑った》と書かれることで、ただの情景描写がある特定の「位置」や「意味」に着地する。ここでいきなり出てくる「晋さん」が誰なのかもまったく説明がないので、前後関係から察するしかない。

(だからここでの「情景の描写」は話者の視線によるものではなく妻からの「伝聞」であることになるのだが、それが事後的にわかる。わかるまでは「話者」の位置は確定されずに開かれたままだ。)

次に、同じくヒマラヤ杉のある場所の近くに(つまりこれは話者の住んでいる部屋の近くということだろう)、妻の乗っているのと同じ《ターコイズブルーシトロエン》が停められているのを見た話者が、《彼女は戻ってきたのだろうか》と思う場面になる。話者のこの「戻ってきたのか」という内省によって、既に二人が別れていることが知られる。

(この後、結婚している時期に話者が息子と妻との関係を疑っているような場面も出てくる。)

これら一連の場面が、東京の郊外の高級住宅地を思わせる共通したトーンを持つ情景描写の連続の中に溶かし込まれるようにして描かれる。なぜわざわざ、こんなにわかりずらくて読みずらい書き方がなされるのか。それはおそらく、これらの場面を「時空の一塊」として形作ろうとしているからだと思われる。エリー・デューリング風に言えば、これらの複数の異なる時間に属する場面たちが「同時性」という関係を形作ろうとしているということだろう。この、「一つの塊」としての同時的時空において、父は入院していると同時に亡くなっているし、夫婦は愛し合っいていると同時に破綻している。マティスの絵において、矛盾する要素たちが「赤い広がり」の中で同居するように、いくつもの時間的に離れた場所にある出来事が、郊外の高級住宅地を思わせる情景描写の持つ「調子の連続性」の中で同時的に関係している、のだと思う。

2024/03/18

⚫︎韓国でパロディアス・ユニティの特集上映を行おうとする動きがあるらしいという話を聞いて、昔、吉祥寺のバウスシアターであったパロディアス・ユニティの特集上映に通ったことをおもいだす。この日記を検索しても出てこないので、偽日記以前、90年代のことなのだろう(この日記に限らず、Googleで検索してもその記録は全く出てこないが)。路地のを入った先にあった、バウスシアターの二階のテラスのようになった空間の感触を今でも生々しい感じで思い出すが、あれは90年年代なのか。

(いや、もしかすると、日記を移動する時にアップしきれなかった欠落部分にその時の日記があるのかもしれない。だとするとゼロ年代前半かもしれない。)

(バウスシアターはもっと後まであったし、特集上映でカサヴェテスを初めて観たのもバウスシアターだったはずだが、パロディアス・ユニティの上映に通ったときのことを最も生々しく憶えている、が、ウェブ上に記録がないということは、記憶違いという可能性もある。)

高校生の時に四方田犬彦の本で読んだ、あの伝説のパロディアス・ユニティの、黒沢清万田邦敏の学生時代の映画をとうとう観ることができると、とても興奮した。とはいえ既に、高校時代にPFFで、塩田明彦「ファ・ララ」と浅野秀二「この道はいつか来た道」は観ているし、「しがらみ学園」は別の機会に一回くらいは観ていた気がする。

この時に初めて観られたのは、黒沢清SCHOOL DAYS」、黒沢清万田邦敏・田山秀之「SCHOOL SOUNDS」、万田邦敏「四つ数えろ」、黒沢清万田邦敏「逃走前夜」くらいだったろうか。「SCHOOL DAYS」にめちゃくちゃ興奮したことを憶えているが、中身的には、暗くて、重たくて、暴力的な映画だった、ということくらいしか憶えていない。