2024/04/11

⚫︎4月から6月はやるべきことが山のようにあって、考えるだけでアップアップになるが、それでも時間を作ってエリー・デューリング『Faux raccords : la coexistence des images』を、3人のAIたちに助けてもらいながらちょぼちょぼと読んでいる。いつものことだが、エリー・デューリングを読んでいるとしばしば新海誠の作品が頭によぎる。たとえば、『トップをねらえ ! 』が、徹底して「正しい繋ぎ」にこだわった作品だとすれば、『ほしのこえ』は、はじめから「繋ぎ間違い」によってできている作品だ。そしてそれは偉大な繋ぎ間違いの傑作である『君の名は。』に結実する(『天気の子』と『すずめの戸締まり』はあまり「繋ぎ間違い」要素は感じられないが)。

さらに言えば、繋ぎ間違いとは「断絶」の強調ではなく、非連続性を連続性(共存)のための媒介とする、ということだ。『ほしのこえ』の永久に出会う(再会する)ことのできない男女は、作品そのものの原理である非連続的なモンタージュによって繋がっている。だが、このモンタージュを正当化する論理は「世界の内側」には存在しない。対して、『トップをねらえ ! 』の登場人物たちは、何度も出会い直すが、出会うたびにズレが大きくなっていく。これは、相対性理論の正しい使用だ。

2024/04/10

⚫︎ハーマン的な「出会い」の図式。

実在的なわたしと実在的な木があり、わたしの志向性のなかで実在的わたしと感覚的な木とが真摯な出会いをする。それにより実在的な対象「わたし+木」が生まれるが、実在的な「わたし+木」は、その構成要素でもある「わたし」からも脱去する。これは幽体離脱的と言えるのではないか。あるいは、大江健三郎の小説における古義人とコギーの関係を思わせる。

実在的な「わたし+木」の一部であると同時に、その外にある実在的わたしに、豊かに茂る木の葉の緑と美しい対比を見せる、その隣に咲いている鮮やかに赤い花が目に入ってくる。ここで実在的わたしは、感覚的な「木+花」に出会っており、この出会いが実在的な「わたし+「木+花」」を生む。そしてそれも、実在的わたしから脱去する。わたしの経験する空間は、感覚的な「わたし+木」から、感覚的な「わたし+「木+花」」へと移行している。

このようなときの、現在の「実在的なわたし」と、先ほどまでの「感覚的なわたし」の関係を考える。

 

2024/04/09

⚫︎あらゆる物は複数の部分からなる(下方解体・還元主義)。あらゆる物は相互作用する(上方解体・ホーリズム)。しかし、下方解体によっても上方解体によっても還元されないものこそが物(対象)である。ハーマンはそのように言う。だからハーマンの言う対象(存在者)は、下方解体と上方解体の中間にある「形」あるいは「輪郭線」あるいは「外皮」あるいは「ブランク」のようなものとなるだろう。存在しない輪郭線こそが「存在(者)」である。あるいは、輪郭線を確定する主体はそれを見る者(認識論)ではなく、輪郭線そのものの方だ(存在論)、ということになる。対象のもつ「汲み尽くせなさ」や「無限の深さ」は、その徹底した薄っぺらさ(深さのなさ)による捉え難さからくる。ある対象が環境からも構成要素からも自律して存在するということを、ハーマンはそのように捉えていると言えると思う。

対象は、リテラルな記述によっては捉えられず、比喩によってしか捉えられないというハーマンの理屈は、固有名は確定記述の束には還元できないとするクリプキの理屈に似ている。しかしここで、固有名(≒比喩)によって名指される存在は、それを名指す者によって定められる(認識論)のではなく、名指されるものそのものが自ら固有の何かとなる(存在論)、という理屈になる。

自らの輪郭を自ら定める輪郭線そのものとしての対象。モノとは、中味(構成要素)でもなく、関係でもないとすれは、それが「何処」にあるのかわからなくなる。だから「モノの持つ深さ」とは、我々が「深さ」という語からイメージするものとはまったく異なっているだろう。モノの深さは、それが存在する「位置」を確定できず、故にはっきりとは捉えられないことからくる。あえて言えば、モノは、世界の外からこの世界の内側に射映される、無限に薄っぺらくて厚みのない「形(影)」のようなものだ、ということになる、と言っていいのか?

(クリプキの固有名論は、様相理論、可能世界意味論へと通じる。固有名は「この世界の内部」だけでは捉えられない。)

こういう言い方をすると、『ART AND OBJECTS』の中ではあまり高く評価されていないデュシャンと、ハーマンは近くにいるように思えてくる(『ART AND OBJECTS』では、デュシャンレディメイドの人としてしか考えられていない)。そして、アラカワ+ギンズにも近づいてくるように思われる。

2024/04/08

⚫︎『ART AND OBJECTS』(グレアム・ハーマン)が扱っているのは、具体的な作品というよりあくまで美術に関する言説で、作品そのものについて多少なりとも突っ込んで書かれているのは、六章のダダとシュルレアリスムとの根本的な違いについての部分くらいだろうか。だから、美術というより美学の本で、カントから始まり、フリード、グリーンバーグ、ローゼンバーグ、スタインバーグ、クラーク、クラウス、ランシエールが扱われ、加えて、ダントーやド・デューヴ、フォスターなどにも触れられる。扱われている人たちは、「モダニズムとの距離感」によって立場を測れるような、つまり、批判的であったとしても割合とモダニズムの近傍にいる人たちで、クレア・ビショップとかボリス・グロイスみたいな人には触れられない。要するに「古いモード」の中で書かれている。今、あえて、この「古いモード」を(魔改造して)持ち出すというところに、ハーマンの意図があるはずだろう。

(少し読み進めれば、ハーマンの「演劇性」とフリードの「演劇性」とでは、どう考えても違う事柄を指しているよなあ、と思う。)

⚫︎カントについて検討されたあと、様々な、グリーンバーグ以降の美術に関する言説が、OOOとの比較の中で検討される。だからこの本には、OOOの原理を用いれば何でも語れてしまうよ、というような危険さはある(様々な言説は、OOOとの相違によって測られる)。それに、「専門家」であれば、相当の慎重さが要求されるであろう「言説史」を、(美術の専門家ではなく、あくまで哲学者だという立場を「悪用」して)かなり大胆にざっくりした感じでやっているようにも見える。だが、ぼくにとっては、この「粗さ」こそがハーマンの魅力であるように思われる。専門家ではないからこそ(美術の方の専門家ではなく哲学の方の専門家であることで)、(美術の)現在の文脈の上に「古いモード」をしれっと乗っけることもできる。ツッコミどころのない、精度の高い本を書くよりも、今、これが必要だというものを、今、ここに出現させようとする。

(少なくともぼくにとって、今、こういう本があってくれることで大変に助かる。)

(この本が、たとえば大学で「グリーンバーグ以降の美術批評」という講義があった場合、そのためのテキストとして使えるものなのかどうかを「専門家」に聞いてみたい感じはある。)

⚫︎「OOOの原理を用いれば何でも語れてしまうよ」というような危険さは、ハーマンの書くものには常にあるように思う。でもそれは逆から考えると、OOOの原理をどこまでも拡張して使ってみるという実験であり、ある装置を、どこまで拡張できるのか、実際に拡張してみるとどうなるのかを試しているのだとも言える。脇を固めるよりも、とにかくどんどんやっていく(本を書きまくる)という姿勢に好感を持っている。

(ジジェクの「ラカンを使えば何でも説明できるよ」とはかなり違うように思われる。)