発達障害の人と働くその2 物事を関連づける能力

まず、シミュレーション能力について。

発達障害の人と一緒に仕事をしていると気になるのが「空気を読めない」こと。
相手の細かい感情が把握できない、その場にそぐわない言動をしてしまうなどなど。
これは相手や周囲の人の考えや感情を自分の中でうまくシミュレートできていないのだ。
脳のどの部分の問題かは特定されていて、前頭葉とされている。


しかし、シミュレーション能力の問題は「周囲の人の心」の問題にとどまらない。
例えば発達障害の人は将来のことや予定を立てて行動するのが苦手である。
未来の自分をシミュレートするのが苦手だからだ。あるいは未来の自分と対話するのが苦手と言い換えてもいい。
発達障害の人に運動が苦手な人が多いのも、自分の動作をイメージしてその通りに動くのが苦手だからかもしれない。*1

また、臨機応変な対応が苦手というのも、問題が持ち上がった時、複数の選択肢をシミュレートできないからかもしれない。*2

このシミュレートできないという問題と関係がある、あるいは本質かもしれないと考える問題は、物事を関係づける能力の低下である*3。複数の選択肢を思い浮かべても、どの選択肢がよいか判定できないことには意味がない。何かがよいか悪いかを比較するためには、ある出来事と何らかの判定基準を結びつけなくてはならない。結びつかないことには判定できないのである。例えば、目的地に行くのに複数の交通手段があるとして、いずれかを選ぶ場合、距離や費用、アクセスの容易さなどを考慮に入れて決定するはずだが、発達障害の人は交通手段の選択とこれらが結びつきにくいようなのである。この場合、もっぱら頼るのが過去の経験である。発達障害の人がかたくなに過去の経験にしがみついて新しいことを試そうとしないのはこれが原因かもしれない。

また、発達障害の人は衝動的に結論を出してしまうことが多い。これはシミュレートできないからだともいえるし、衝動的だからシミュレートできないとも言えるが、深く考えることがあまりないように見える。これも裏を返せば「物事を関係づける能力」の低下が原因かもしれない。これは発達障害の人が「わかりました」と返事をするけれどしっかりと理解していなかったなどと評価されることが多いことにも関係している。知識が複数結びつくことで理解が深まるのだが、発達障害の人は断片的な知識がばらばらに入っているだけなのかもしれない。

*1:運動が上手にできるというのは、まずイメージ通りに動くことから始めて徐々に意識しないでもできるようになることだ

*2:もちろん、後で述べるように注意力のリソースが少ない、あるいは、注意力のリソースが配分がうまくできないから割り込み処理が苦手という説明もできる。両方が重なっているのだと思う

*3:これは今後投稿する予定の「短期記憶と関心」問題にも関係があると考えている。

発達障害の人と働くその1

発達障害を抱える人と働く機会があったので気付いたことをまとめる。
まず、特徴。散々ネットにアップされているが改めてまとめると

  • シミュレーションが苦手
  • 注意力のリソースが少ないあるいは配分がうまくできない
  • 短期記憶の問題
  • 衝動性

(以後追加していく予定)

これらの問題に集約できるように思う。

実際に起きた問題から、障害についての考察や対応方法をまとめてみたい。

『階級「断絶」社会アメリカ』を読む、その3

第III部 それがなぜ問題なのか

マレーは建国の父たちが唱えた「小さい政府」の考えに戻らなければならないという

今までのテータをもとに、マレーは小さい政府を支持する。

第14章 アメリカ社会の選択的崩壊

アメリカにはかつて相互扶助のコミュニティがあった。特にフィッシュタウンでのその崩壊が顕著である。

マレーはノスタルジィと批判される可能性を自覚しつつも、濃密なコミュニティに価値を見いだしているが、現代の都市生活者は否定的だと思う。

第15章 建国の美徳と人生の本質

幸福と関係するのは家族、仕事、コミュニティ、信仰の4つの領域である。これらは建国の美徳とも関係し、フィッシュタウンでは特に幸福度が低下している。

日本ではやはり信仰というのはピンとこない。コミュニティも都市部ではどんな幸福をもたらすのか。

第16章 分つことのできない一つの国

今までの話は、白人だけにしぼっていたが、結局はアメリカ全体の問題である。

知的な格差が所得格差になるのは日本でも同じだろう。

第17章 未来のシナリオ

マレーは、小さな政府と大きな政府を対比していく。

最終章でマレーはヨーロッパ型の福祉国家が破綻に向かうことを述べる。これは日本でも同じことだが、あまり理解されていない。

『階級「断絶」社会アメリカ』を読む、その2

第II部 新下層階級の形成
労働者階級の中に新しい集団が形成されてきている。今までは人種による経済格差が強調されていたが、白人に限定しても新しい下層階級が形成されてきている。この集団はアメリカの伝統的規範からははずれてきている。

日本では人種による経済格差はあまり問題になっていない。だからこそ、文化すら違う集団に別れつつあるという視点は日本の現状を考える上でも有効なのではないかと思われる。

第6章 建国の美徳
かつてのアメリカ人は上品ではなかったが、美徳があった。著者はその特質として「勤勉、正直、結婚、信仰」をあげる。また、全国民が同じ道徳観を共有していた。建国の美徳がアメリカが成功の理由の一つである。

信仰という部分は日本ではちょっとピンとこない。勤勉・正直等という部分はプロテスタントの倫理を彷彿とさせるが、そのような信念体系を選ぶ人間が成功しやすいということなのではないかと考える。

第7章 ベルモントとフィッシュタウン
著者は架空の新上流階級の街ベルモントと同じく架空の新下層階級の街フィッシュタウンを設定する。

典型的な街を設定することで後半の著者の論点がわかりやすくなった。

第8章 結婚
ベルモントとフィッシュタウンで結婚の様々な状態を比較する。フィッシュタウンでは未婚や離婚、片親の割合が高い。

これは日本でも同じようなことが言えるだろう。

第9章 勤勉
ベルモントとフィッシュタウンでどの位働いているかについて比較する。フィッシュタウンでは労働時間が短く、説明のつかない障害給付を受ける割合が高く、働いていない人の割合も高い。

これはそのままストレートに所得に結びつくだろう。

第10章 正直
まず、ベルモントとフィッシュタウンで犯罪について比較する。フィッシュタウンの方が圧倒的に犯罪が多い。ただし、破産という観点から見ると、両者とも誠実さが少なくなっている可能性がある。

学歴が高い方が人間性が悪いという誤った認識を抱く人がいるが間違いである。学歴やIQでみても高学歴の方が圧倒的に犯罪を犯す可能性が低い。

第11章 信仰
ベルモントとフィッシュタウンでともに信仰離れが進みつつあるとする。ただし、フィッシュタウンの方がより進んでいる。

ドーキンスも指摘しているが、アメリカでは無神論者と称するのははばかられるのかもしれない。定義からベルモントは知的に洗練された人たちであるから、信仰とは道徳の体系程度に捉えているのだろうとも思ったが、日本とアメリカでは全く違うのかもしれない。

第12章 現実のフィッシュタウン
今までにデータで示してきたフィッシュタウンの具体的な様子を描く。フィッシュタウンが都市から郊外へ移転しつつあることも述べられる。

日本でも生活保護の問題と絡んで描かれる様子とそっくりである。今の日本は豊かであり、なんとか再分配も成立している。そのため、働かないとすぐに飢え死にするということにはなかなかならない。

第13章 新下層階級の規模
新下層階級に分類される人の割合は増えている。

現代は豊かである。新下層階級がそのまま飢え死ににつながるわけではない。知的な能力が労働市場で高く評価されるからこそ格差が開いているのだと考える。

『階級「断絶」社会アメリカ』を読む、その1

階級「断絶」社会アメリカ、本書は「ベルカーブ」で有名なチャールズ・マレーによるものであり、集大成でもある。アメリカの現状を分析したものであるが、日本の現状を考える上でも極めて有効な本であると思われる。
まとまりごとに簡単に要約し、明確にするため引用スタイルで記すことにした。自分の考えはその後に記すことにした。

プロローグ
1963年11月21日、ケネディ暗殺を境にアメリカの様子が大きく変わったことをまとめる。それ以前のアメリカにも階級はあったが、ケネディ暗殺以後、行動様式や価値観の核の部分で違う階級が生まれたとする。

マレーは本書の後半で知的能力で階級が別れていることを示したが、日本でも同じ現象はあるように考えている。人間の行動様式は、半分以上が遺伝的に規定される。どんな進路を選び、どんな職につき、どんな人と付き合うかは、周りから強制されるものではないからこそ、潜在的な遺伝の作用が大きく現れるのではないかと考える。どんな本を読み、どんな人と付き合うかこそ、ドーキンスの言う「延長された表現型」の典型だろう*1。職業についても、似たような考え方をする人間が集まりやすいだろうから、進化論的に考えてもある種のクラスターができやすいのは当然と思われる。

第I部 新上流階級の形成
マレーは第I部の冒頭で新上流階級の定義を試みる。単に資産があるというだけではなく、アメリカに対して大きな影響力を持ち、ある特定のところにまとまりがちで、他の集団から孤立しつつあるというものだ。

大きな影響力があるというのは、やはり何らかの知的な能力があることの裏返しだろうか。

第1章 わたしたちのような人々
以前は上流階級と言っても生活のスタイルは似たようなものだったが、新上流階級は食べ物、子育て等様々な点で違うことが論じられる。好むテレビ番組や余暇の過ごし方なども全く違う。

大多数の人の考えとは違い、アメリカでは貧困層に肥満が多いことや、日本での学歴の再生産の話題が頭に浮かぶ。また、どんな本を読むか、もっと単純に一ヶ月で何冊の本を読むかなども面白い指標になりそうである。どんな本を読むかは典型的な「延長された表現型」であり、別の学問領域の言葉で言えば「シグナル」でもあるから、現代のような豊かで選択肢の多い世の中だと、より「どのような人間であるか」がはっきりするのだと思う。

第2章 新上流階級形成の基盤
新上流階級が形成された原因として、頭脳の市場価値が上昇したこと、そのため知的な人々が高所得を得ることが可能になったこと、名門大学が形成の場として重要であることが示される。名門大学には、認知能力の似た人間が集まり、さらに同じような認知能力を持ち、同じような文化背景を持つもの同士が結婚し、子供も同じようなコースを歩むことが示される。

現在の社会科学では、人間は空白の石盤であるという前提があるようだが、知的能力や文化背景が違うものが結婚してもうまく行きにくいだろう。学歴の再生産は自然科学や遺伝と言った方面から見れば起こるべくして起こっていると言える。

第3章 新種の居住地分離
マレーは新上流階級の住んでいるところがクラスターを形成していることを示す。また、政治的な信条はリベラルに偏っているわけでもないことを示す。

どこに住むかは自由である。ならば、地価をシグナルとして自分にふさわしいところを探すのは当然のことのように思う。地価と自分の延長された表現型はある程度相関があるのだろう。

第4章 あなたのエリート・バブル度は?
マレーはいくつかの質問を通して新上流階級の特徴を浮き彫りにしようとする。新上流階級で生まれ育った人は他の社会を知らないという本書の重要な論点が登場する。

日本でも世襲政治家等はこのような点があるように思う。

第5章 新上流階級のプラス面
マレーは新上流階級が社会を引っ張り、豊かさをもたらしているとする。

イノベーションに限らず、知的な人々が要職に就き、社会を牽引していることは当然だと思う。学歴批判をする人の言い分にも耳を傾けるべき部分はあるが、常習犯罪者や粗暴犯のほとんどがあまり知的ではない事実から目をそらしてはならない。

*1:付き合う相手も延長された表現型としてこちらを選んでいるわけだから、個人の遺伝子プールと個人の遺伝子プールが相性が良いのだろう

robustな理論

蔵さんが紹介していた「性欲の科学」を読み終えた*1。内容に関する感想は蔵さんとあまり違わないのだが、なかなか本音を聞きづらい分野をネットを使ってうまくまとめたなというのが印象的であった。男女の違いを色々な角度から捉えていて面白い。
もう一つ、科学とタブーの問題について考えさせられた。「性欲の科学」の前半で、いかに「性」に関する研究がタブーでありなかなか手がけにくいものであったか書かれている。ここは著者に全く賛成で、本来自然科学にタブーなど不要である。その意味ではリバタリアン的な気質にもあうかもというのが蔵さんに勧めた理由であった。
このように従来タブーとなっていたことにも少しずつ科学のメスが入り、解明されてきているが、もう一つ最も遅れている分野が宗教だろう。無神論については何度か書いたことがあるが、最近は宗教についても科学的に取り組んだ著作が増えているのは喜ばしい。信仰の自由と科学による解明は全く無関係である。どんどんメスを入れるべきだろう。
さて、宗教が私にとってあまり説得的ではないように感じられるのは、前提や論理の展開がrobustではないからだ。数学の公理は非常に厳密に構築されるし、物理の検証も10億分の1秒という単位で行われるようになっている。こうなってくると人間の感覚で「正しい」などというレベルではない。また、社会現象や生物学的な現象も統計を取ってみると直感と違っていることがよく目につく。多分、理論構築、データの裏付けといった部分で私にとって説得的かどうかが決まっているように思う。

*1:そもそもアマゾンのリコメンドから蔵さんに勧めたのは私だった