さようなら、大瀧詠一さん

 大瀧詠一さんが亡くなった。ナイアガラ・カレンダーナイアガラ・フォール・スターズを聴きまくっていた中学時代の僕にとっては、iconというべき巨人だった。
 ネット上では一部のやりとりしか紹介されていないようだが、日本のロック史を考える上で高い資料価値があるものなので、「日本語ロック論争」として知られる、内田裕也大滝詠一の間でかわされた議論をここに引用する。人名表記、バンド名などは原文ママとした。「新宿プレイマップ」70年10月号の喧論戦シリーズ「ニューロック」から。

大滝:ボクはついこの間までGSみたいな事をやってたけど、去年の夏くらいから日本のロックについて考えているんです。つまり日本の中に外国のロックを持ち込んでも何となく馴染めないという原因は、言葉の問題が一つにはあると思うわけです。そこで日本語でロックをやってみたわけです。今度ハッピーエンドというバンドを作って五月にレコードが出るんですけど、何かそういう試みをみんながやってみたらと思いますね。

(中略)

大滝:ボクは別にプロテストのために日本語でやってるんじゃないんです。何か、日本でロックをやるからには、それをいかに土着させるか長い目で見ようというのが出発点なんです。ボクだって、ロックをやるのに日本という国は向いていないと思う。だから、ロックを全世界的にしようという事で始めるんだったらアメリカでもどこでも、ロックが日常生活の中に入り込んでいる所へ行けばいい。全世界的にやるんならその方が早いんじゃないですか。でも、日本でやるというのなら、日本の聴衆を相手にしなくちゃならないわけで、そこに日本語という問題が出てくるんです。でも日本日本と言うからといってボクらは国粋主義者でも何でもないから誤解しないで下さい(笑)

内田:でもロックが日本で土着した状態というのは具体的にどういう事をキミは指すの?土着に成功して、ロックが地方を廻わる興行システムになっちゃうという事?

大滝:ボクらは成功するかしないかじゃなくて、ただやるかやらないかだけなんですよ。

内田:それもいいけど、成功しないかもしれない事をやる気はないね。オレ達が何かやるのは、やっぱり、成功する事で自己の存在を確認して行くという点なんじゃないのか。

大滝:でも成功したいという理由でコピーばっかりやってるというのは逃げ口上じゃないですか。

内田:日本語のオリジナルが好きな奴もいるし、向こうのコピーの好きな奴もいるし、アナタはコピーを馬鹿にした言い方するけど、アナタは自分のバンドよりうまくコピーできる自信があるわけ?

大滝:向こうのバンドより以上に出来るバンドがあったら聞きに行きたいですね。みんなそれを目指してやってるんじゃないですか。

内田:だからどの程度だい。

大滝:そんな事自分じゃ判らないんじゃないですか。

 若さゆえの気負いとプライドが感じられる両者の議論だが、この時22才の大瀧さんが発した、「ボクらは成功するかしないかじゃなくて、ただやるかやらないかだけなんですよ」という言葉に胸打たれるのは、きっと僕だけではないはずだ。近視眼的に成功を追うのでなく、本当に大切だと自分が信じる道を歩むことの大切さを、この大瀧さんの言葉は教えてくれる。
 この言葉と、この言葉をつらぬく信念と、そしてこの信念から生み出された数多くの楽曲を、僕たちに遺してくれた大瀧さんに深く感謝したい。ありがとう。

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ナイアガラ・カレンダー 30th Anniversary Edition大滝詠一

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多和田葉子『言葉と歩く日記』より

 今月21日に発売された、多和田葉子言葉と歩く日記 』(岩波新書、2013)を読む。文ひとつひとつが立っていて、独特の魅力があるので、ついついと読み進めてしまう。魅力があるというのは、たとえばこんな一節。

 日本語にはトルコ語と似たところがある、ということを当時、時々耳にした。構造が似ているので、ウラル・アルタイ語族というものに両者とも属している、と考えていた言語学者も過去にはいたそうだ。一体どんなところが似ていると思われたのか訊いてみると、冠詞がないこと、名詞に文法的性がないこと、前置詞がなくて後置詞(助詞)があることなどだ、と言われたが、わたしは当時この主張をとても不合理に感じた。インド・ヨーロッパ語族を中心とした言語の見方に神経質になり始めた時期だったからだと思う。インド・ヨーロッパ語族を中心と違う者はみんな同じ穴の狢だ、と言われたようで腹がたった。これでは、鍋が自分中心に世界を見て、「ミシンとコウモリ傘は似ている」と主張するようなものではないか。鍋から見れば、ミシンとコウモリ傘にはいろいろ共通点がある。まず蓋がないこと、そして仕事中熱くならないこと、更には調理の役に立たないこと、など。これは鍋の理屈に過ぎないのではないか。世界の言語には冠詞のない言語の方が冠詞のある言語よりずっと多いに違いない。文法的性だって、ない方が普通だと思う。マイノリティであるインド・ヨーロッパ語族が自分を世界の中心だと思っているのではないか。(p159)

 僕もまた、「日本語とハンガリー語が近いから、ハンガリー的な治療態度が日本に受け入れられやすい」などと簡単にいったりするけれど、そういう視点そのものがインド・ヨーロッパ語族を中心とみる思考習慣に影響を受けているのかもしれない。
 ただ、そうした多和田の指摘そのものも面白いけれど、鍋とミシンとコウモリ傘の比喩が何より楽しい。ミシンとコウモリ傘が互いを比べあっている姿が目に浮かぶから、厳しい批判だけれど、主張が嫌みにならず、すっと胸に入ってくる。力が抜けていて、それでいて巧妙な文体がとにかく魅力的だ。
 しかし鍋もこんなところに突然引き出されて、どうも落ち着かない思いをしてるんじゃないかなあ。

言葉と歩く日記 (岩波新書)
言葉と歩く日記 (岩波新書)多和田 葉子

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土門拳『写真随筆』より

 土門拳の『写真随筆』(1979,ダヴィッド社)の一節によい言葉があった。引いておく。

 ・・・その結論が、対象に淫してはならないの一言に尽きるのである。・・・いい古されたことだが、対象に対してきびしい主体性を確立しなければダメである。・・・主体性とは、人間としての、おのれみずからのまなこで、見きわめずにはいられないものをもっているおのれみずからであるということである。それは本質的に悟性的な立場であって、好きだから撮る、撮りたいから撮るといった感性的、恣意的な立場とは異質である。(p.252)

 「鬼」と呼ばれた土門らしい厳しい発言だが、本質を衝いた言葉だ。玩味したい。

写真随筆
写真随筆土門 拳

ダヴィッド社 1979-06
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ダニエル・スターン死す

 発達心理学者ダニエル・スターンが亡くなった。享年78才。The New York Times誌の死亡記事はこちら
 僕は、彼の著作にはいつも関心を寄せてきた。それは彼の著作には常に、乳幼児のこころを理解する視点の確かさと、人間の発達や変化の本質をつかみ、自らの言葉でそれを表現しようとする真摯な努力が満ちあふれていたからだ。
 2008年に横浜で行われた世界乳幼児精神保健学会で彼の姿を見たが、温厚で紳士的で、そして異なる意見に対する寛容さと率直さのバランスがとれた成熟した人、という印象だった。
 近年もなお、思考を喚起するすぐれた著作を著していただけに、今回の喪失はあまりに大きい。もっと書いてほしかった。残念だ。
 スターン関連の過去のエントリ:Forms of vitality 解釈を越えて

母親になるということ: 新しい「私」の誕生
母親になるということ: 新しい「私」の誕生ダニエル・N・スターン ナディア・B-スターン 北村 婦美

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現代夢研究の入門書

 J.Allan Hobson著『Dreaming』。Oxford University PressのA Very Short Introductionシリーズの一冊。夢研究の第一人者、Hobsonの手になる夢についての入門書。これまでの夢研究の歴史、現在の到達点などがシンプルにまとめられて、とても読みやすく、かつ有益な本だ。
 著者は、この本で次のような主張を行う。古来夢研究は、主に内容に焦点が当たってきた。しかし夢を科学的に捉えようとするなら、その形式に注目しなくてはならない。では夢の形式的な特徴は何だろうか。覚醒時と比較して、その特徴を抽出するならば次の二つがあげられる。まず覚醒時より強調される側面があるということ。たとえば内側から生まれてくる知覚や情動は強調して表現される。逆に、覚醒時より弱くなる側面もある。たとえば記憶、思考、自己内省的な気づき、ロジカルな推論力などは低下あるいは消失してしまう。
 このような覚醒時と睡眠時の脳活動の違いは、脳内部のchemicalな違いに依拠しているとHobsonは言う。つまり覚醒と睡眠の違いは、セロトニンノルアドレナリンの放出水準の違いによって生み出されているというわけだ。
 では夢は、どのような神経学的基盤があるのだろうか。Hobsonは、次のように説明する。REM睡眠においては、まず橋から電気的活動がランダムに発射される。この活動は視床を介して大脳皮質のさまざまな領域を活性化し、それによって多数の知覚や情動が引き出される。これらの諸要素を大脳皮質が連合し、筋の通った一つの話に合成する。これが夢として体験されている精神現象なのだという。そしてこの理論モデルが、著者らが1977年に提唱した夢の「活性化-統合モデルactivation-synthesis model」の説明ということになる。
 その他にも興味深い主張が多い。たとえば夢の中でネガティブな情動が多いのはなぜか、という問いについては、それはそちらのほうがより生存に重要な情動であり、古い脳領域の活性化から生じる情動だからだ、と答えている。
 また多数のコラムも挿入されていて、これも興味深いものばかりだ。たとえば、動物は夢を見るのか、夢は白黒なのか色つきなのか、夢は未来を予知するのか、といった問いについて、わかりやすい解説を載せている。
 さらにフロイトの夢理論のどこに問題があったのかを、現代の夢研究の知見をもとに整理して示しているところも、心理臨床家にとっては非常に参考になる部分だ。

Dreaming: A Very Short Introduction (Very Short Introductions)
Dreaming: A Very Short Introduction (Very Short Introductions)J. Allan Hobson

Oxford Univ Pr (T) 2011-06-04
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ポストモダニズムに見られる知的欺瞞性

 ポストモダンの言説の欺瞞性を暴いたことで知られるソーカル事件。この事件の顛末を詳しく紹介し、意義と問題点を明確に示した金森修の著作、『サイエンス・ウォーズ』(2000, 東京大学出版会)を読む。サントリー学芸賞(2000)受賞の一冊。精神分析を学ぶ際にも意識しておくべき論点があったので、ふたつ抽出しておく。
 金森は、「ポストモダニズムの堕落」の典型例としてカルビン・トーマスの本の次の一節を取り上げる。

「肛門・男根・・・は価値を奪われた換喩的隣接性のなかで機能し、男根状の糞塊という概念は隠喩的代置の領域のなかで機能する」(p84)

 そして金森は、この一節を次のように批判する。

 デリダラカンやらの概念装置を何の批判的感覚もなく受け入れ、彼らのレトリックにある程度習熟することが自己目的化されるとき、このようなタイプの言説が生まれる(p84)

 金森が示すこのような力動は、日本においても「思想家」の文章や、精神病理や精神分析の言説の中でも時に認められるものだ。
 またソーカルとブリクモンは1997年に『「知」の欺瞞』を出版し、この本でラカンクリステヴァボードリヤールドゥルーズ=ガタリなどのフランスの現代思想家たちを取り上げ、彼らが自然科学由来の概念を濫用し、そしていかに誤用しているかをあからさまに示したが、この本に触れた際のクリステヴァ−彼女は分析家でもある−の反応を、金森は以下のように紹介している。

 クリステヴァはこの扱いに激怒して、本書をフランスバッシングの一環として捉え、二人の著者に精神病治療を受けさせるべきだなどと放言しているらしいが、彼女自身が精神分析に詳しい人であるからには、他人をそんな風に罵倒する前にもっと自己分析に専念すべきだろう。(p.88)

 この金森の批判は痛烈だ。ただここで金森が触れているクリステヴァのエピソードは、『「知」の欺瞞』の著者ソーカルとブリクモンの論文で紹介されたものなので、本当にクリステヴァがそのように放言したかは確実とは言えず、それゆえこのエピソードに基づいて彼女を断罪するのはフェアとは言えないだろう。ただ、このエピソードが本当のこととして感じさせられるような知的傲慢さが、一部の精神分析家や分析的臨床家に見られることは事実である。
 この『サイエンス・ウォーズ』という著作は、学問的誠実さとは何か、ということについて考えさせられるだけでなく、専門的概念を使いこなせる自分の姿に酔いしれることの醜さ、滑稽さを自覚するためにも非常に有益な一冊だ。

サイエンス・ウォーズ
サイエンス・ウォーズ金森 修

東京大学出版会 2000-07
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ダニエル・スターンのvitality論

 ダニエル・スターンの2010年の著作、Forms of Vitality(Oxford University Press刊)を読んだ。人間の活動の基盤で作動しているvitalityを鍵概念として、人間心理についての定式化をこころみた野心的な書。
 スターンはvitalityを生命性のあらわれととらえ、これが生命をいきいきとしたものにすると考える。そしてvitalityは、動きmovement、時間time、力force、空間space、意図/方向性intention/directionalityの五つの構成要素からなるという。
 そしてvitalityの神経学的な基盤は覚醒系にあり、睡眠と覚醒のリズムのように、活動性の高い状態と低い状態の往還のリズムが、生体のあらゆる活動の中−たとえば運動、感覚、感情、思考といった活動の中に備わっていると、彼は主張する。そしてこのvitalityが、さまざまな神経活動を統合することで全体的な経験が生まれ、生に意味が生じるのだと彼は主張し、音楽やダンス、演劇や映画のようなアートは、このvitalityを刺激することで、感動を与え、いきいきとした感覚をもたらしているのだとも主張する。
 このような立場から、スターンは心理療法についても論及する。心理療法でもっとも重要な要素は治療者と患者がいかにvitalityを表現しているかという点にあり、その表現を促進するのは両者のauthenticな態度である。このような発想は彼もその一員である、ボストン変化プロセス研究会の『解釈を越えて』の主張と重なるものだ。 
 スターンによるvitalityへの注目は、1985年の著作『乳児の対人世界』で生気情動vitality affectsに注目したことに起源があるが、さらに生を活性化する根源的要素としてvitalityを位置づけたのがこの著作である。生気論を現代によみがえらせようという野心が垣間見えて、なかなかにスリリングな一冊だ。

Forms of Vitality
Forms of Vitality: Exploring Dynamic Experience in Psychology, the Arts, Psychotherapy, and DevelopmentDaniel N., M.D. Stern

Oxford University Press 2010-07
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