再読『二百十日』

 先日(2015年9月14日)の阿蘇山の噴火のニュースを聞いて、ある本を久しぶりに読み返したくなりました。夏目漱石の『二百十日』です。漱石は熊本の第五高等学校在職中に阿蘇を旅しています(山頂に登るのは断念した模様)。『二百十日』はこのときの経験をもとに書かれた作品です。仕事帰りの電車内で、青空文庫から手元のiPhoneにダウンロードしてざっと読んでみました。
 初めてこの小説を読んだのは高校生の頃。1980年代ですねえ(笑)。今これを読み返してみようと思ったのは、テレビのニュースで現在の阿蘇山の様子を見てふと「漱石が見た阿蘇の風景はどんなものだったのだろう」という興味がわいたからです。

 しかし読んでみるとなんかエラいことが書いてある。夜の風景の描写で「奈落から半空に向って、真直に立つ火の柱」などという表現が出てきます。立ちのぼる噴煙が赤熱した溶岩に照らされて赤く見えるさまを描いたものかと思いますがこれ入山規制とか避難勧告とか出るレベルなんじゃないの。のんきに旅行なんかしてて大丈夫なのかな。

 漱石が五高の教師となったのは1896年。阿蘇山 | 阿蘇ペディアによれば、阿蘇はその2年前の1894年に噴火、その翌年の1895年には大爆発(!)。その2年後の1897年にも噴火を起こしたとあります。そして彼の阿蘇旅行は1899年の8月29日から9月2日にかけてのことだそうです(二百十日 (小説) - Wikipedia)。まだ火山活動は活発だったんじゃないでしょうか。
 ちなみに彼は1896年に結婚し、1899年の5月には第1子(長女)が生まれています(夏目漱石 - Wikipedia)。無茶するなあ漱石

 その後、イギリス留学を経て東京へ戻った漱石が『吾輩は猫である』の連載を雑誌『ホトトギス』に開始して小説家の道を歩み始めるのが1905年。『二百十日』が発表されたのはその翌年、1906年の10月です。ここで再び阿蘇山 | 阿蘇ペディアを見てみますと、1906年、「6月7日阿蘇山爆発、新火口出現」とあります。新火口!

 漱石もこの報に接したとすれば少なからず驚いたことでしょう。そして、現地の状況に思いを馳せつつ、「自分の思い出の中の阿蘇」を、当時彼が手がけ始めた小説という形式で表現しよう、と考えて『二百十日』を書いたのかな......と、このあたり私の勝手な想像ですが。

 ......おっと、肝心の小説の方を飛ばし読みのまま放置していました。iPhoneでは字が小さくて読みづらい(そういう歳になりました(^^;;)ので、iPadにダウンロードし直して改めて読むことにします。これを機に、他の漱石作品もぼちぼちと読み返していこうかな。

Googleの案内で会社から歩いて帰ってみた

今週のお題ゴールデンウィーク

 しかし休日になんでわざわざ会社へ行くのか、って話ですが(笑)。しかも自宅へ帰るために行く、という馬鹿さ加減。

 先日の記事「2012年新春ウォーキング - GEN’s BlogHouse」にも書きましたが、私は毎年正月二日にウォーキングを行っています。今年は「非常時の職場からの徒歩帰宅」という事を考え、職場の最寄り駅から、災害時に帰宅困難者向けに情報が提供される場所を目指して歩きました。
 このウォーキングを終えて帰宅して、ブログの記事を書いていた時にふと思いました。「徒歩帰宅者支援ルートを完全無視し、被災者の支援拠点にも立ち寄らず、最短の経路で歩いたらどうだろうか」と。早速Googleマップで経路検索。すると、なかなか興味深いルートを提示してきました。
 10年ほど前、徒歩帰宅者支援ルートに従って歩いた時には、職場あたりから自宅まで、6時間ほどかかりました。Googleがはじき出した経路では所要時間4時間弱。だいぶ違うなあ。「旧街道に沿って歩くのが最短になるのでは?」と予想していましたが、それとも全く違う経路でした。

 愛知県や名古屋市が定めた徒歩帰宅者支援ルートを歩くと遠回りになってしまうだろうなあ、とは以前から思っていました。もちろん、非常時だからこそ、遠回りでも安全な経路をとるべきで、自治体の定めたルートが不合理だとは考えていません。今回このような事をやってみたのは、単なる好奇心からです(笑)。

 てなわけで、昨日、Googleの案内で歩いてきましたよ、職場から家まで。まあ、本当に職場まで行くのはちと興ざめなので、職場最寄り駅の一つ手前で電車を降りて、そこから歩き始めました(笑)。しかし距離的にはこれで職場まで行ってから歩き出したのと同じくらいになったはずです。
 今日歩いたルートの後半、名古屋市内を抜けてから自宅までの部分は車で何度か通った事もあるのですが、前半部分は初めて歩く道ばかりでした。通った事のある道でも10数年前に一度だけ歩いた事がある、とか、そんな感じ。今の会社にお世話になる前のフリーター時代、外を回る仕事で歩いた場所もあったかな。
 ガーデン埠頭あたりから北西方向へ、途中、名四・東海通・国一を横切りながら進むルートなので、地図を見ていたかぎりでは「割とガチャガチャした所ばかり歩くんだろうな」と思っていたのですが、実際歩いてみると、庄内川を渡る手前まではのんびりした住宅街を縫うように進む経路でした。もう少し早い時期だったら、荒子川沿いの桜並木など綺麗だっただろうなあ。しかし災害時には河口近くは危険なので、やはりこのルートは避難経路としては使えなさそう(^^;;。お散歩ルートです。

 明徳橋・日の出橋で庄内川と新川を次々と渡ると、Googleはいきなり危なっかしいルートを提示してきます。大丈夫か、と不安ですが、マップを拡大すると表示される小さなお店の名前などから見てもその道でしかありませんのでそのまま進みます。
 昭和(もしくはそれ以前)の雰囲気漂う、微妙に屈曲しながら長く続く細い道。なかなか楽しい散歩道です。昔は漁師町だったのでしょうか、今も「船頭場」という町名が残っています。「徒歩なら旧街道沿いが最短」という予想も方向性としては間違ってなかったのかも。

 次に雰囲気が変わるポイントが国一と302号の交差点です。この付近が昔「外回りの仕事で歩いた場所」なんだな。良くも悪くも昔と変わってない。そう感じました。…まだ、『農村』を守っているのかなあ。
 しかしこの少し先でやられましたよ。検索結果に正直に従って歩いたら、田んぼのあぜ道に入っちゃった(><)!これは非常にマズいので、あわてて方向転換です。しかしそれでもちょっと私有地を通っちゃったような気がします…すみません!m(_ _)m

 舗装された道を探して戻り、近鉄線を横切り戸田川を渡ると戸田の町。さらに進めば名古屋市を出て蟹江町に入ります。先程も書きましたが、ここから先は割とよく知った道です。15時ちょうどに自宅到着。10時40分に歩き始めたので、途中の休憩時間を除いた正味の歩行時間は4時間ほどではないでしょうか。Googleの計算どおりだなあ。
 4時間のうち最後の1時間ほどは脚がパンパンに張ってしまってかなりヤバかったのですが、それでもなんとか歩き通せました。1日経った現在、まだちょっと疲れは残っていますが、筋肉痛や関節痛は出ていません…今のところは(笑)。まあでもたぶん大丈夫でしょう。
 iPhoneのバッテリーもよくもったなあ。SafariGoogleマップを見ながら、随時TwitterInstagramに投稿したり、4時間ずーっとこき使ってましたが、自宅に到着した時にはまだ残量が10%ほどあったと思います。一応補助電源も持っていったのですが、ぎりぎりで使わずに済みました。

 さて、とても便利である事もわかったGoogleマップですが、実際に現地を歩いてみて気付いた問題点もいくつかありました。

 まず、信号機がかなり間引いて記載されているのは困ります。例えば「2つ目の信号を左折して…」などという感じで道順を覚えたり、他の人に伝えたりというのは日常よくする事で、信号機は目印としても重要だと思うのですがね。たまたま、いま手元に2005年版のアルプス社のアトラスRDXがあったので見比べてみましたが、古い地図にすらちゃんと記載されている信号がGoogleマップにはない、という事がよくあります。つまりこれ、データの更新が遅れているとかいう理由ではないですよね。省略せず記載して欲しいものです。

 そしてこれはBeta版として注意書きがされている事なので今後の改良を待つところですが、ところどころ歩行に適さない箇所を提示してこられるのも、やはり困りますね。あぜ道とか(笑)。
 以前別件で経路検索をしたところ、自動車専用道に進入する箇所が出てきた事があります。今回のルートでも、歩けなくはないが自動車の通行量が多く危ないかな、と思い、歩行者・自転車通路を探して少し回り道をした所がありました。これは歩道橋や歩行者用通路などの設備も経路探索の対象に組み入れることで解決できるのでは?と思うのですが…、難しいんですかね。技術的な難しさというより、手間がかかるため、なのかな?
 逆に、あぜ道は検索対象から外すべきでしょう。ていうか、そもそも地図上に表示する必要があるとは私には思えません。ほとんどの場合、あぜ道は農地の一部であって公道ではないのでは?
 とは言え、実際に現地を訪れて見てみると、どこまでが公道でどこからが農地なのか、ということが一目でわからない場所も少なくない、のは事実。うちの近くなんか、東西に通る幅1.5mほどの短い道の、南半分が公道で北半分が私有地、という場所があります(あ、南北が逆だったかもしれない)。

 ここで気になるのは、「地図を作製するにあたって、現地調査をきちんとやったのか?」という事です。やってるはずなのです。しらみつぶしに歩いて調べてるはずなのです。

 Googleマップの日本のエリアの地図データは株式会社ゼンリンから提供されています。実は私、ゼンリンで調査員のバイトをやってた事があるのです。上に書いた、「フリーター時代の外を回る仕事」てのがそれです。
 実際に現地を訪れて、見て、それでもわからなければ土地の所有者の方などに直接おたずねして、調査をするのです。その場所が公道なのかそうでないのか、そのようにして調査をしてたらわかるはずなのですが。
 しかし逆に言えば、機械ではなく、人がやっている事ですので。ごくわずかに、見落としなどのミスもあったかもしれません。そして昨日、たまたま私が調査不十分な場所を通ることになっただけで、他にはほとんどミスはない、のかもしれません。

 Googleマップもまだまだ発展途上のサービスのようですが、技術的に未熟というよりは、アナログというか体力勝負的な部分でのより一層の積み重ねが必要、という状況にあるのかな、という感想を持ちました。

音楽会終わりました。

 前の記事「おとのもり一家 もうひとつの音楽会 No.10 - GEN’s BlogHouse」で告知した音楽会、先日無事開催されました。

 今回は会場がおなじみの中川文化小劇場でなく、港文化小劇場だったからか、今回はお客さんにあまり来ていただけなかったような…(^^;;。しかしこれまた例年の春にはないような寒さの中、会場に足をお運び下さった皆様にはお礼を申し上げます。ほんとうにありがとうございました。

 そうしたお客様に喜んで頂けるような演奏だったかと言いますと…、どうでしたかね、自分個人の事を言えば、消化不良で反省点が多かったなあ、と思います。他の皆さんが、しっかり準備をされて本番に臨まれたのだろうと感じさせる演奏をなさっていたのにひきかえ、私はいささか準備不足でした。

 それにしても、ソロの曲の演奏直前、椅子に座ろうとした途端に左足の指がつってしまったのには困りました(^^;;。とりあえずつったまま弾いてましたが「早く終わらせて休みたい」って、演奏中ずっとそう思ってました。上の空でしたね。あちこちで音がひっくり返ってしまって、さんざんでした。本番では難しいハイポジションでも割と音程が当たっていたので、発音が乱れたのは本当に残念。
 一言断って中断させてもらえばよかったかと今になってみれば思うのですが、そこまで気が回りませんでした。

 でも、どこがどうダメだったかきちんとわかる失敗だったので、今は少なからず凹んでますが、改善のヒントもたくさんつかめました。これを次につなげていかなきゃ、だなあ。練習練習。
 あと、「コントラバスが好き」って言って下さる方々とお会いしてお話ができたのも嬉しかった。励みになります。

 あー、あと、今回は差し入れにお酒をたくさん頂いてしまって。これもとても嬉しいですね(笑)。ありがとうございます。今度の週末、頂いたお酒をどれか一本持って、近くの公園に出かけて花見酒と洒落てみますかな?

 …(おい練習はどうした。>俺)

おとのもり一家 もうひとつの音楽会 No.10

 コンサートのお知らせです。近々また、「おとのもり」のコンサートが開かれます。ちなみに「おとのもり」についてはこちらをご覧下さい。→おとのもり - GEN’s BlogHouse

  • おとのもり一家 もうひとつの音楽会

 とき :2012年4月1日(日)13:30開演(13:00開場)
 ところ:名古屋市港文化小劇場
 入場無料

 右の画像をクリックするとチラシがご覧頂けます。iPhoneのカメラで撮ってそのまま上げてるのでちょっと見づらいですね(^^;;.。

 今日からコンサートに向けて合奏曲の合同練習が始まりました。これまで練習で利用させて頂いていたホールが使用できなくなったので、今回は初めて利用するスタジオでの練習です。勝手がわかってなくて、今日はスタジオの方にご迷惑をおかけしてしまいました…次から気をつけます。
 本番会場もこれまでおなじみの中川文化小劇場とは違って、前回の「もうひとつの音楽会」の時と同じ港文化小劇場です。

 肩肘張らない気楽な音楽会です。お近くの方、休日の午後の暇つぶしにでもいかがでしょう?(笑)

2012年新春ウォーキング

 あけましておめでとうございます。今年もゆるゆるとまいります。

 さて。昨日、今年の『新春ウォーキング』、決行しました。
 2000年に起きたいわゆる『東海豪雨』がきっかけで職場からの徒歩での帰宅について考えるようになり、ここ10年くらい、正月二日にウォーキングをやっています。最近は避難訓練というより単なる散策になってしまっていましたが、昨年の大地震を受けて、今年は原点に立ち帰り、職場からの徒歩帰宅を念頭に置いてルートを選定しました。名古屋市港区にある職場の最寄駅から歩き出し、まずは西区のノリタケの森を目指します。できればそのあと庄内川を越えて名古屋市内を抜けるのがこの日の目標。

 まあ結局は勝手気ままな“ぶらり旅”になるんですが(笑)。

 7時20分までには朝食を済ませていたのですが、その後もたもたしていて家を出たのは8時過ぎ。こんなことで今月5日以降、6時に朝食をとり6時40分頃家を出る普段の生活に戻れるのかかなり不安ですが、まあそれはおいといて。名鉄名古屋市地下鉄と乗り継ぎ、9時過ぎに名港線築地口駅に着きました。ここが私の職場の最寄り駅です。うわっ、雨降ってる。それも強めに。

 まずは築地口商店街の入り口近くにある築地口神社にお詣り。氏子さんたち(商店街の店主さんたちです)が参拝者を迎える準備をなさっている最中に来てしまいました(^^;;。お邪魔して申し訳ないです。こちらでは、お下がりの、紅白のお餅を頂きました。わーい。お詣りを済ませたら雨も止んできました。いいぞ。

 ここから、熱田神宮を目指して国道154号を歩きます。災害時徒歩で自分の家へ帰る、と考えた場合、途中に大きな工場もあり遠回りでもあるこのルートを歩くのはどうかな、とは思うのですが…、まあここはお正月ということで、熱田さんにも立ち寄ってお詣りしていきたいんですよ(笑)。ちなみに熱田神宮尾張国三の宮です。
 千年の交差点で154号から離れ、細い道を西に入ります。しばらく歩くと八幡様(千年八幡神社)がありました。ここでもお詣り。境内に軍人さんの忠魂碑と民間人の方々の慰霊碑があったので、拝見していきます。
 こういった戦争がらみの碑の問題については、以前から思うところもあるのですが、それを記事として書くにはまだまだ知識が不十分なので、ここでは深く掘り下げないことにします。ただ、このような碑を、安易に軍国主義と結びつけて排斥せず、広く人々の目に止まるような形で残すべきだと、私は考えています。こちらの八幡様の境内にある碑も、戦争を賛美するものではなく、逆に戦争の悲惨さを我々に訴えかけるものだと感じました。

 おっと、寄り道はこの程度に(笑)。熱田さんに向かって、八幡様の前の道を北北西に進み、堀川を渡ったのが10時ちょうど。橋を渡り切ったところに軻具突智社がありました。ここにもご挨拶をしていきます。
 七里の渡し舟着場跡に立ち寄り、ここから旧東海道を進んで熱田さんへ、というところで、iPhoneの挙動が不安定に(><)。とったはずの写真がカメラロールに保存されてない。歩きながら、MapやTwitterクライアント、foursquareInstagramなどのアプリを同時に起動し頻繁に切り替えて操作してたのが良くなかったかな?ここで一度iPhone再起動(^^;;。

 10時18分、熱田神宮に到着。いいペースで来ています。この時間帯ならまだ空いており、参拝も比較的スムーズにできます。参拝後は名鉄神宮前駅のほうへ出ました。この先の道順はうろ覚えなので、ここからはiPhoneのMapアプリの経路探索結果を参考にしながら歩きます。

 大津通北へ。大きな道路沿いに歩くのは退屈ですねえ…、どこまで行ってもビルの建ち並ぶ似たような景色が続いて。高蔵の交差点まで歩いたところで忍耐が続かなくなりました(早っ(^^;;)。少し寄り道、高座結御子神社にお詣り。このあとすぐ大津通に戻って歩き始めるのですが、ここでもうiPhoneの提示してくる経路に従う気は失せてます(笑)。
 それでも金山駅あたりまではおおよそiPhoneの経路探索結果に従って歩きました。ああ、金山神社に寄っていくの忘れたなあ。金山総合駅南口の前を11時少し過ぎに通過。そして、金山新橋を渡って鉄道線路の北側に出ます。ここから線路沿いに西へ進み、堀川に突き当たったら川沿いに北へ向かいます。

 Mapは、この先松重閘門あたりから江川線に入り、その後名駅通へ向かうルートを提示してくるのですが、どうもそのルートに従う気が起きないんだな〜。大津通もそうでしたが、幹線道路沿いに歩くのは退屈なんですよ(笑)。車の排気ガスに吹かれるのも御免蒙りたいです。名駅前の歩道は人でごった返してるだろうし…。
 てなわけで、このまま堀川沿いに北上します。

 堀川も昔のような“ドブ川”のイメージは払拭されつつあります。岸では古い構造物の取り壊しも進められており、川沿いの風景も数年のうちに小綺麗なものに生まれ変わるのではないでしょうか。昔ながらの風情も消えてしまうのかなあ。松重閘門の尖塔や納屋橋のたもとにある旧加藤商会ビルのような“それらしい雰囲気”のある建築物は今後も残されるかもしれませんが、“ただ古いだけ”としか見られないものは早晩なくなってしまうでしょう。

 途中、とある神社の前に『白龍龍壽社』という看板があるのを見ました。洲崎神社です。今年は「たつ」年ですねえ、こちらにもお詣りしていきましょう。境内に入ると、オシャレな若い女性の姿が目につきます。後で知りましたが、こちらは縁結びの神様として評判なのだそうですね(笑)。本殿でお詣りしたあと、右側にある白龍社でもお詣り。こちらのご利益は「商売繁盛」だそうです。

 さらに堀川左岸を北上。納屋橋を過ぎ、錦橋を渡って堀川の西側に出ます。桜通を渡ってもう少し北に行き、最初の橋のかかる通りを西に行くと浅間神社があります。こちらでもお詣り。時刻はちょうど正午頃でした。
 浅間神社の門前を北へ行く道が四間道。江戸時代の風情が今に残る通りです。この道をさらに北に進むとその先に見えるアーケード街が円頓寺商店街です。商店街を西へ歩き、この日の目的地、『ノリタケの森』を目指します。

 この日ノリタケの森は休館日でした。ここを目指して歩いてきたのはここで遊ぶためではありません(笑)。名古屋市徒歩帰宅支援マップによれば、非常時にはここで私の自宅方面の交通機関の案内が行われることになっているからです。それで、職場からここまでのルートを歩いてみたわけです。
 しかし、警戒宣言発令時には私の自宅方面の路線は運転が休止されるそうなので、どうであっても歩いて帰らねばなりません…。

 ノリタケの森到着は12時20分。ここからもう少しだけ歩いて、次は名古屋市内脱出を目指します。栄生駅の前を過ぎ、名鉄病院の前を通って庄内川へ向かって歩きます。12時40分、枇杷島橋到着。これを渡り、名古屋市を抜けて清須市に入りました。とりあえずこれで目標はクリア。
 名鉄本線西枇杷島駅に着いて時刻表を見ると、電車は3分前に出たところでした。電車は30分に1本。もう疲れたし、座って待とうかとも思ったけど…、もう一駅、歩きましょうか。

 西枇杷島駅を出て、さらに西へと歩きます。すぐにJRの築堤に突き当たりますが、見ると、築堤をくぐる小さな小さなトンネルがあります(画像)。このトンネルを抜けて西へと進み、12時53分、二ツ杁駅到着。ここでまた時刻表を見ると、57分に電車が来るようです。西枇杷島は普通しか停まらないけど、二ツ杁は急行なども停まります。57分に来るのは準急。一駅歩いといてよかった!

 この新春ウォーキングを始めた頃は、職場のあたりから自宅まで歩き通すことができました。しかし最近は体が衰えたなあ。歩くスピードは以前とそう変わらず、人より遅いということもないと思います。昨日帰宅後も、それから一日たった今日も、筋肉痛は出ていません。しかし関節が弱った。現在、左の足首にやや違和感を覚えます。
 ただこの日はほとんど休みなしで歩いた(昼食も帰宅してからとりました)ので、適宜休憩をはさみながらだったら今でも職場から自宅まで歩き通せるかもしれません。来年以降のウォーキングではうまく休憩をいれていく事を考えて、実際に避難する状況に近づけたコース選定をしようと思います。

年の終わりに空気読まないこと言ってみる

 もうすぐ、2011年が終わります。

 あえて、「いい年だった」と言って今年の締めくくりとします。

 こんな事を申し上げると、「何を無神経な事を」とお怒りになる方も多いでしょう。確かに、悲しい事、辛い事の多くあった一年でした。しかし、私の周囲の狭い範囲に限ってみれば、心暖まる、嬉しい出来事もありました。
 いささか無理があるかなあとは自分でも思うのですが、その事だけをとりあげて「いい年だった」と、ここは言い切ってしまいます。

 ひとの気持ちは、損益計算書のようなものではあらわしきれないものだと思うのです。ですから、何物をもってしても埋めようのない悲しみ、というものはあるでしょう。そして、今年、この世の中を襲ったのはまさにそのような悲しみだったと思います。

 しかしここで、空気読まない発言、屁理屈をこねてみたいと思います。
「何物をもってしても埋めようのない悲しみ」があるのなら、「何物をもってしても消し去る事のできない喜び」というものもあるのではないでしょうか。

 今年、私にはそんな嬉しい出来事がありました。他の多くの悲しい出来事の中にあっても、その嬉しい記憶は私の中で決してその輝きを失ってはいません。
 そんな喜びを私に与えて下さった方々に感謝して、そして、今年悲しい思いをなさった方々にも来年は「何物をもってしても消し去る事のできない喜び」が訪れる事を願って、ゆく年を送りたいと思います。

 …そんな思いで、年の終わりに、あえて空気読まないことを言ってみました。

山椒の木

 久々の更新です…(・・;;

 何も書いてないわけではなく、書きかけで中断しているものばかりで(笑)。書きかけの記事は下書きとして保存してあって、中にはだいぶ長い事寝かせっぱなしの記事もあります(汗)。下書きの中で一番新しいものは夏の暑い頃のやつだなあ…、これはボツにして書き直すか。
 ぐーたらで、ほんとダメですねえ…ああそうそう、最近新たに始めた事があるので、それについて書いてみます。

 6月の半ば頃から、山椒の木を育て始めました。

 Twitterへの投稿を参照すると、6月18日の事だったようです。確か、草木の写真を撮っていたのだと思いますが、その時、庭の隅で変わった形の葉をつけた芽を見つけて興味が湧き、空いていた器に植え替えて玄関に置きました。
 私には特に植物を育てた経験はないし、そのまま庭に置いておくのがその芽にとっても良いのでしょうけど、それだと親父が雑草と一緒に抜いて捨ててしまうんじゃないかと思ったもので(笑)。

 しかしこの時点ではこれが何の木かは私にはわかっていませんでした。何となく、「山椒かなあ」とは思っていましたが。

 この芽が山椒だという事がはっきりわかったのはそれから10日ほどたった頃の事です。器に植え替えた当初は玄関の靴箱の上に置いていましたが、数日後、もう少し大きい器に替えて室内の窓際に移しました。しかしこれがいけなかった。
 室内に移して1~2日すると、まだ4枚ほどしかない葉のうちの2枚が褐色がかった色になってきました…。
 再び置き場所を玄関に戻しましたが状態がなかなか回復しません。ホームセンターで買った植物活力液というのを与えてみたりもしましたが、活力が出て来ない感じです。どう対処してよいか全くわからず、とりあえず、だめになった葉を取ってみたのですが、葉を摘んだ時に手に付いた香りでこの芽が山椒だとわかりました。

 この処置が良かったのか悪かったのか、ともかく、それから3日ほどすると新しい葉が出てきました。まだ完全には活力を失っていないようです。望みが出てきました。

 山椒について、ネットで色々調べてみました。根の張りが浅く、水分不足になりやすい事、半日陰の場所でよく育つ事等わかりました。窓際に置いたのは日当たりの良い所に置くのが良いかと考えての事だったのですが、日当たりが良すぎて、かえって水分不足になってしまったようでした。
 さらに一週間ほど見ていると、新しく出た葉も大きく育ってきました。新しい葉は見ただけでわかる山椒独特の形をしています。

 最初の数日でうっかり枯らしてしまうところでしたが、この失敗を乗り切ってからは順調に来ています。梅雨が明けて7月の終わり頃になると、これも山椒の特徴であるトゲも出てきました。
 写真ではわからないと思いますが、この頃はカップ麺の空き容器に植えていました(^^;;。ちなみに一番最初に使ってた器はケーキの空き容器です(^^;;;;。
 しかしいつまでも空き容器というわけにもいきませんので、庭の隅にころがっていた植木鉢に植え替えました。8月の終わりの事です。

 もうひとつ、このままにしておくわけにいかない事があります。植木鉢に植えておける間はいいですが、それにしてもいつまでも玄関に置いてはおけません。
 しかし山椒の葉はアゲハチョウの幼虫が好んで食べるとの事(Wikipediaで調べました)。アゲハチョウが外を飛んでいるうちは外に出せません。まだ小さい木に卵を産みつけられたらおしまいです。
 結局、夏の間はずっと玄関に置いておき、10月下旬に鉢を玄関脇の屋外に出しました。

 外に出すと、若木はぐんぐんとたくましくなっていきました。いきなり外に出すとしおれてしまうのではないかと心配もしましたが、取り越し苦労だったようですね(なんという過保護)。左の写真は11月13日の山椒です。

 さて、今のところ順調ですが、この先、初めての冬、そして再びやってくる夏(アゲハチョウの恐怖(^^;;)。さらに大きくなったら地植えに移行させたいし、いろいろ手間もかかるんだろうなあ。
 まあ、楽しみでもあるんですが、ね。