渋滞

unaで続けている古典の会。今回から白隠禅師の「夜船閑話」。高名な禅僧という以外は全く未知の人物。で、彼の人柄や「夜船閑話」の導入をしてくれる。とても魅力溢れる人物で、惹かれる。若き日に彼自身が病んだ経験からの養生が書かれているらしく、それも楽しみだ。

東洋医学では、気・血・水(体液?)の流れをみるという。講座が終わり、不調を訴えたM氏に普段はオルタナティブ医療をしている講師のC氏が施術をすることに。。
何を診て、何をしたかというと、全体の渋滞部分を感じ、手当てしている。

そう、「渋滞」。その言葉に、ストンと落ちた。
気、血、水がどこかで滞る。それを病いと言うのではないだろうか…
道路の渋滞学というものが、あると聞く。車は多いから渋滞するのではなく、個々に速度が違ってしまうから、行き詰まってしまう。
理論的には、道路いっぱいにつながっていても、同じ速度なら、車間は変わらないので、流れは止まらないはず。

それと同じことかもしれない。どこかで速度が変わってしまう。すると流れずに停滞し、先に酸素や養分などが行き渡らない、また老廃物を回収できない……
そうなった事態を様々な手段で調整しようとしているのが、東洋医学という診方なのかもしれない。

そうか、「渋滞」という視点は、医学だけではなく、すべての関係に言えることではないかと思えてきた。

白隠禅師―健康法と逸話

白隠禅師―健康法と逸話

養生訓 (講談社学術文庫)

養生訓 (講談社学術文庫)

現況

放置したまま、空家状態の当BLOG。とりあえず存在していて、よかった。

日々を書き留めるというエネルギーもなかなか見いだせず、ぼんやり時を過ごしてきてしまった。何もなかった、感じなかったというわけではなく、むしろ有りすぎた。それは多種多様であり、更にそれぞれが関係し合っていて、なかなかすっきりと文字にはできないまま、たくさんの感情をやり過ごしてきた。
加齢もあるだろうか、震災のショックもあるだろうか…と言い訳をしてきた。

年も改まり、フェードアウトを考えたりしていた折り、「頂上が見えてくる時期。勾配がきつくなる道程には、ギアをアップしていこう」といったような前向きメッセージを受け取った。「えええ、この年齢で?」と思ったが、そのことが、脳裏の隅に居座っていたのだろう。

昨日、超リアルな夢を見た。
なぜか期待の若手、Tくんと、対面で深い話をしている(夢とは言え面識もないのに…)
内容は、かなり実生活に近く、具体的だ。もう記憶は飛んでしまったが、要するに「書け」ということだったような・・・

夢は脳内を整理する役割りがあると、聞いたことがある。
例のメッセージの隠喩とも取れなくもない。
最近、精神の集中が続かなくなり、受信した情報を整理し発信するための脳内編集ができなくなったと、加齢を理由に怠ってきた。それは言い訳だったか。ただサボっていたに過ぎなかったのか。かもしれない…

若い時より脳細胞が劣化したとはいえ、手を放すのはやはり怠慢なのだろう。自分自身とどうかかわるかは、他者との比較ではないのだから…
ちょうど新学期、少し精神に付加をかけてみよう。

明恵 夢を生きる (講談社+α文庫)

明恵 夢を生きる (講談社+α文庫)

「来たるべき」でいい

歓談の話から想起したもの。備忘録として。

辺見庸藤原新也氏の発信は読むようにしている。(藤圭子死亡に関しての記事は、陳腐なコメントの中で唯一心に残った)辺見庸と新也氏の言葉は重さがあります。

でも次の世代に伝染していないかな?北山修氏は戦争を知らない子どもという存在を歌っている。それが現在まで訂正されることなく歌えることは幸せなことだと思う。だが、歌うのはシニア世代に留まっていないか…。(嫌な言葉だが、あえて)バトンを受け取って走る人が見当たらない。

斉藤和義は「僕の見たビートルズはTVの中」で歌う。雨の降る日はどこへも出たくない/だけど大切な傘がないわけじゃない…と。食うに困ったことも、欲しいものもない僕は、マシンガンも撃ったことなどないが、ブラウン管には今日も戦車が走ってる。解らないものは解らないけどスッとしない、けどひねくれているばかりじゃ能がない、かといって波風のない空気は吸いたくない…と次の世代として歌っている('93)。その空気はわかるのだが、今やイマジンはTVの中でもなくPCやスマホの中なのだ。

その間の考察は省略。
で、欲しいものが出過ぎている現代に、モノをすくってきたザルから落ちたものの欠落に気がつき始めた気がする。震災でモノが消えた後、人々は思い始めたのではないか。

私と言えば、このドサクサで泥地から浮き上がってきた現実に、戦後民主主義がお題目にすぎないと愕然とした。が早々に決めつけて、諦めたり否定してはいけないと思う(批判・否定は結果、バトンを落とす(寸断)ことになる。先人たちの悪い癖)

74年生まれの哲学者国分功一郎は、住民として行政に触れ愕然としたという。「こんなことになっていたのか」と。住民投票を行った経験から、これからは選挙だけではなく、行政と一緒に地域を考えていくというスタイルの民主主義を、と提唱する。
『来たるべき民主主義ー小平市都道…』幻冬舎新書 

若者たちを見ていて「釜の中の蛙たちが茹でられる前に」と少々歯がゆい。でもバトンを拾った人たちも増えている。持って走る人はどんな走り方でもいい、どんなスピードでもいい、コケてもいい。

「来たるべき」って、いいかも。先人たちは訳知り顔をせず、声援はするが、邪魔はしないことだね。

たとえ明日世界が滅びようとも

たとえ明日世界が滅びようとも

瓦礫の中から言葉を わたしの〈死者〉へ (NHK出版新書)

瓦礫の中から言葉を わたしの〈死者〉へ (NHK出版新書)

改めてこころに留める

9月に入ったと思っていたら、もう1/3が過ぎた。日というより、時間が経つのが早すぎる。自分の体内時計の刻み方が遅くなったのかも知れない・・・

それにしても今年の夏の暑さは格別だった…。日本各地で40度を越えた日が何度もあった。小さいころの記憶には30度を越えたら「すごい暑さ」という印象がある。温暖化してるということなのかな。年齢が加算されるほどに暑さが堪える。(今日は随分涼しく、からだがほっとしている)

それに加え今年は聞き慣れない竜巻の予報が登場した。そして外国の事ではないかというほどの被害をまき散らしていった。風の威力とはすごいものだ。

地震・雷・火事・おやじ、ではないが、おやじは早々に撤退し、竜巻・津波が加った。笑い事ではない。もっと深刻なことを言えばそこに放射能が加わっているのだが。

自然現象と言われるもの。地震も雷も竜巻も津波も火事(山火事)も途轍もない力を持っている。我々人間が征服できるものでも、コントロールできるものでもない。3・11震災を経験してつくづく思い知らされた。「自然、なめんなよ」と言われているような気がする。汝おごるなかれ。

天災と日本人  寺田寅彦随筆選 (角川ソフィア文庫)

天災と日本人 寺田寅彦随筆選 (角川ソフィア文庫)

「選挙2」を観る

暑い!意を決して家を出る。それ以上に「観たい」という気持ちが勝っていたのだろう。初日にと思っていたが、整理券がもう夜しかないという情報。諦めた。平日だから、混んでいてもそこそこだろうと思っていたら、すでに立ち見だった。次回まで待てず、おばさんは決意した(大げさだが年齢的には冒険)。

開演前に想田和弘監督、主演(?)の山内和彦氏と政治コント集団ニュースペーパーの福本さんが得意の安倍さん役で登場。ラッキー!さて、今回の舞台も「選挙」と同じ川崎区宮前区。前回は自民党公認落下傘候補。典型的などぶ板選挙で、当選。一期務める。今回は完全無所属で、選挙カーの連呼ナシ、握手ナシ。ポスターとはがきとチラシのみ。

時は2011年4月、そう3・11直後の地方選挙だ。福島原発では大変な事故が起きているというのに、どの候補者も原発のことに全く触れないことに、怒りを感じての立候補だった。前回から山内氏は父親になっていた。そして脱原発の立場から「子どもにツケをまわさない!」という標語だけをかかげた。

想田監督はドキュメンタリー作品を「観察映画」と称し、モザイク、ナレーション、バック音楽を使用していない。どれも長時間を費やしているが、長さが全く気にならいくらい、集中(没入)してしまう。今回もゆるい空気感であったにもかかわらず、あっという間だった。

今回の山さんは、前述のように活動らしきものをしていない、唯一の告知であるポスターの剥げをひたすら補修して回る。あとはギリギリまでのはがき書きである(それも限度枚数未満で終了)。必然的に?監督は他の候補者を被写体としていく。それぞれの候補者の姿が映しだされていく。これは後々、貴重な情報になっているなと思った。候補者との間にそれぞれのエピソードが生まれている。

山さんは演説しないの?と待ちわびていると、最後に駅前で10分の演説をする。それもやっと確保した場所で。その脇で息子くんが夢中で何かになりきって遊んでいる(多分戦隊もの)。「あ、このシーンで監督は編集軸を見つけたのかな?」と思うくらいナイスな映像だ。そして彼は演説を始める。「〜僕に投票してくれなくてもいい、でも選挙には必ず行ってください!それが民主主義の一歩なのですから」…完全無所属というこだわりと、この言葉に、グッときた。

因みに一緒にチラシを配っていた竹田候補(若い!30歳くらい?)は前作の「選挙」を観て、選挙スタイルを改め、みんなの党から離党し、辻立ちとチラシのみで当選している。しかも山さん(8万円くらい)より低額の4万円台!さらに驚くべきはトップ当選だったそうだ。
イイね!ボタンがあったら押したい気持ち。

選挙 [DVD]

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精神病とモザイク タブーの世界にカメラを向ける (シリーズCura)

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なぜ僕はドキュメンタリーを撮るのか (講談社現代新書)

なぜ僕はドキュメンタリーを撮るのか (講談社現代新書)

したたかに蔓延ろう

先週時間を勘違いして見逃してしまった番組がある。ゲストに阿川佐和子さんがお話を聞くという30分番組「サワコの朝」である。気がついて、急いでチャンネル合わせた時は残り時間5、6分の時点。残念無念。

ゲストは生物学者の長沼毅氏。辺境の地に生きる生物を研究している。極寒地だったり火山口だったり、深海だったり。研究対象は他の惑星の生物までも及ぶ。キャラクターも面白い方なので、科学界のインディージョーンズと呼ばれたりしているらしい。

何年か前に初めてお話を聞いたとき「なぜあちこち研究分野を行き来するのだろう」と不思議だった。研究分野として深海だったら、海洋生物のなかの深海生物学者というように、分野が細分化されているような印象があったからだ(医療とかを考えてみても…)。

ほどなく「そっか長沼氏の究極のテーマは<生命そのもの(起源?)>にあるのか」と気づく。となれば非常に興味深い。以来興味を持っている。

それで、今回の番組出演の話に戻るのだが、最後の数分のお話がとても心に響いた。現在、生命体として存在しているわれわれ人間は、過酷な環境の変化を乗り切り生き延びてきた種である。
確かに現在はボディとしては脆弱になっているかもしれないが、生命(魂)はそんなに軟じゃない。相当に蔓延る力はあるはず。「はびこっていきましょう!」。
なぜかグッときた。元気になった気がする。

その前に、人間は内部にも外部にも何兆もの微生物がいて、微生物と共生している生命体。普通に落ちたもの食べたりしますよ。というような発言に、大いに共鳴していたので、全編見れなかったことが返す返す残念だ。

私の衛生観に影響している本も紹介してみる。(随分昔の話ではある)

辺境生物探訪記 生命の本質を求めて (光文社新書)

辺境生物探訪記 生命の本質を求めて (光文社新書)

記憶の劣化

電車のお供にと持ち出した本の中に寺田寅彦『柿の種』がある。一気に読むことはなく、その都度何篇かを読んできたものだ。岩波文庫大型版で、文字が大きく読みやすいうえ、ソフトカバーなので携帯しやすい。

パラパラとページを繰ってみて驚いた。ほとんどに付箋がしてあるのだ。にも関わらず、記憶にない!いくら加齢したとは言え、愕然とした。

特に科学者池内了氏のあとがき。
全編紹介できず残念なのだが、あまりに今日的で示唆深い。
記載日は1996.1.17。「阪神淡路大震災一周年の日に」とある。
最後は寺田氏の関東大震災後の銀座の街並みの記述からあわただしく復興が進む神戸の街を思い、彼の考えてきたことを、現在と重ね合わせ「こころ忙しくなく」思い及ぶ、そのようなひとときを持ちたい、という言葉で閉めている。

それを読んでいる私は当然のことながら、2011年に起きた震災と事故の今を重ねている。こんなことが10年前の発行時に書かれていたということさえ失念していたことに、絶句。

柿の種 (ワイド版岩波文庫)

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科学の限界 (ちくま新書)

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