ウィルキー・コリンズ 仮井三十訳『カインの遺産』

 ってなわけでepubにしたところで苦労したり作品情報入れるところでロイヤリティの設定条件に驚いたりしていたこれ、無事リリースにたどり着いた。

 エントリータイトルでわかるように、作者は『白衣の女』『月長石』なんかが有名なウィルキー・コリンズ。結構好きなので一度訳してみたかった。これを選んだ理由は今までに訳されたことがなさそうな作品のひとつだったのと、コリンズが生前最後に完成させた作品だったから。
 『毒婦の娘』の解説で佐々木徹が「後半失速気味だが、前半は極めて好調で楽しませてくれる」と書いているのが、自分に見つけられた唯一の作品評ってレベルで言及が少ない作ではあるけれど、訳している分には楽しかった。
 テーマは「道徳性は遺伝するのか」って問いで、物語は監獄を舞台に始まる。夫殺しで死刑宣告を受けた囚人が悔悛しないどうしようってところから評判のいい牧師が呼ばれる。囚人は牧師に悔悛してやってもいいけど条件があるって言い、自分の娘を養子にして欲しいと頼む。牧師はそれを引き受ける。さあこの子がどう育つでしょう、にあれこれの大映ドラマっぽい要素が加わるのだけど、贔屓の引き倒し的なことを言わせてもらえば、出揃った大映ドラマな要素を津原泰水が『赤い竪琴』でやったみたいなずらし処理かけようとしていて興味深かった(とは言え、その手つきは津原みたいに洗練されたものではないため「後半失速」という読みが成り立っちゃうんだけど、そこに作者の願いみたいなものがあるんだというふうに訳者のおれは読んだ)。
 このへんもうちょっと書いてみたい気もするけれどリリース初日からネタバレ記事書いてどうするっていう気もするのでこれくらいにしておく。
 とりあえずサンプル読んで気に入ったら続きも読んでもらえたらと思う。お値段安くしてないので、キンドル・アンリミテッド登録してる人がきまぐれ起こしてくれると嬉しいなあ(もちろん購入してくれる人がいたら大喜びしますが)。

 
 

  

35%と70%

 前回の続き(?)
 EPUBファイルをどうにかこうにか作成し、見直しとかもして、そろそろアマゾンさんにアップロードですかねって気分になったので、登録情報をポチポチやっていった。
 KDPのロイヤリティを決める項目で35%にしますか70%にしますかってのを選択する箇所がある。70%を選ぶには読み放題に登録しなきゃいけないとか著作権者でなければいけないとかそういう縛りがある。今回作ってるのは作業量も結構あったので奇蹟: 柴田宵曲随筆選のときみたいに99円で売るのは無理(奇蹟の場合は無料がないので有料の下限に設定しただけだった)と考えており、これくらいはほしいよねというロイヤリティの腹づもりもして数字を入れてみたのだけど、なんと上の条件以外に70%ロイヤリティを受けられる価格の上限なんてもんがあったのね。知らなかった。希望金額入力したらその金額だと35%しか選択できませんって言われちゃったよ。もともとKU登録してる人をメインターゲットにするしかあるまいと思っていただけに定価はむしろ好きに設定してしてしまえと思ってたわけだけど、好きに設定するとロイヤリティの%が減るんじゃもっかい考え直さなきゃいけないなあっていうか、現実問題としては読み放題設定できる範囲に収めるしかないよなあ。やらないと知らないままのことは色々あるもんだと思いつつ上限の数字を入力した。2000円とか強気の値付けがしてみたかった。まあ、仕方ない。っつーことで、もうすぐリリース。何も問題なく出てくれるだろうか。

EPUBファイルをくっつけたり分解したり不意にあらわれた目次を消したり

『鬼啾啾』KDPしたときに、結構な苦労をしたのに、『通夜の人々・見えぬ顔』出したときは割とスムーズに公開までたどり着いたもんだから文字飾りさえなきゃどうとでもなるだろうと高をくくって次のKDP用ファイルをポチポチ作成して、表紙なんかも仮こしらえして、そろそろキンドルでどんなふうに見えるかチェックしとこうかなあって一太郎さんにepubファイル作らせてプレヴューワーで開いてみたら、なんか一画面一文、みたいな区切り方がなされていて慌ててsigilにファイル放り込んでみれば、恐ろしい数のdocumentってファイルが並んでいた。
 入力方式はまえと変わらないのになぜこんな未体験ゾーンに突入した? と首をひねったが、なぜ起きたかよりもさっさと直してしまおうとファイルをマージして邪魔なタグ消してってやっていったら、途中から今度は複数の章が1ファイルにまとまっており、ここまで1章1ファイルにしてきたんだから、最後までそうしたほうがよかろうがどうしたらそうできるのかと考えて、スキルがないのだからちまちまやるしかあるまいってことで、コピーとデリートに頼った整形をちまちま行った。ファイルのコピーつくって元ファイルは冒頭の1章残して全デリート、コピーしたファイルは冒頭の1章デリートしたら名前変えてコピー作って冒頭になった章以外全デリートみたいなスマートさゼロスタイル
 何回かこれ繰り返して一休みがてらプレヴューワーでファイル開こうとしたら、レイアウトがおかしいどころか開けなくなっていた。なぜ……と涙目になりつつ調べてみたら、目次のリンクがエラーを起こしているらしいとわかる。
 ファイルのリネームは自動で更新してくれるスマートなsigilさんもコピーしたファイルまでは追いかけてくれなかった(そりゃそうだ)っつーことで、作業に目次のリンク修正も加えてスマートさゼロスタイルの作業は続く。
 途中で「このあと本文をいじろうと思ったら元の文書ファイルとepubファイルの両方とも別個の更新作業しないと駄目なんじゃない? 文書ファイルいじってepub出力したらまた一からやり直し状態なんだよね」と気がついたがもはや後の祭りであった。
 で、ちまちまちまちまと作業を続け、最後まで1章1ファイルに仕上がったのでプレヴューワーでファイルを開いた。今回は目次が直っているので開けた……が、今度はなんか前回なかった謎の横組み目次が発生していた。なんで? こんなん出なくていい。と、思ったときに、そういえば『鬼啾啾』作ったときに、どっかの解説記事でタイトル前に出てくる横書き目次(現れたのはまさにそれ)消せるって言ってたような。と思い出したので検索。
 当時見たサイトが出てくる前にこちらの記事がヒット。
note.com
あーそうだったそうだった、論理目次とかいう言い方見たよー、でも作り方じゃなくて消し方なんだよねえ、と思いつつ読み進めていったら、

Sigilの左側にあるブラウザナビで順番を設定してください。

論理目次(navi.xhtml)はテキスト(xhtml)の最後にドラックして移動

HTML目次(toc.xhtml)はテキストの最初へ移動してください。

これで論理目次とHTML目次が設置できました。

 と書いてあり、自分のファイルを見るとnavi.xhtmlは上から二つめくらいの場所にあった。だから突然登場したの? でも最初からこの位置で前回見てみたときは出て来なかったし、ほかの作品ファイルでもこんな出方してなかったけどなあ……と思いつつ、ものは例なのでファイルの場所を動かしてみた。
 そしたらば、
 消えた。ちゃんと非表示になった。
 なんでなのかはわからんが問題解決(たぶん)。
 もうちょっと確認作業して問題なければ(まだありそうな気もするけど)リリースへ向かいたい。今回は自分で訳した翻訳。
 オチはないけど、リンク先の記事に助けられた話の前後関係は書けたからこのエントリーはこの辺で。

小酒井不木『通夜の人々・見得ぬ顔他十篇(附国枝史郎評・随筆)』

 先日、本棚で眠り続けていた『国枝史郎探偵小説全集全一巻(amazon)』をなんとなく引っ張り出して全部読んでみた。国枝については、大昔に『神州纐纈城(青空文庫)』を読んで、筋はそれほどでもなかったのだけども、漢字の使い方が楽しくてなんとなく好きって思っていた時期があって、その頃に買ったもの。どうして未読のままだったかと言えば、ジャンルが探偵小説になってもやはり、筋はそこまで好きと思えなかったので何本か読んで挫折していたのである。で、この本、デカくて厚くて、高かった。それがいつも本棚を眺めるときに視界に入る。買ったのに読んでねえなと思いつつスルーし続けるのもいい加減いやになったので、もっかい読みにかかって合わないなら処分だと決めて読み出してみた。創作についてはやっぱり自分には合わないという結論だった。
 ところでこの本、探偵小説全集というタイトルではあるのだけど、創作は全体の半分ちょっとくらいの分量で後半は探偵小説評論的な文章が「評論・感想篇」としてまとめられている。当然そっちも読んだ。篇の最初を飾っているのは、「日本探偵小説界寸評(青空文庫)」。その冒頭を引く。

 二十八歳で博士号を得た、不木小酒井光次氏は、素晴らしい秀才といわざるを得ない。その専門は法医学、犯罪物の研究あるは将に当然というべきであろう。最近同氏は探偵小説の創作方面にも野心を抱き、続々新作を発表している。犯罪物の研究は、今や本邦第一流類と真似手のない点からも、珍重すべきものではあるが、その創作に至っては、遺憾乍ら未成品である。「二人の犯人」「通夜の人々」これらの作を読んでみても、先ず感じられる欠点は、先を急いで余悠がなく、描写から来る詩味に乏しく、謎を解く鍵には間違いはなくとも、その解き方に奇想天外がなく、矢張り学者の余技たることをともすれば思わせることである。但し市井の新聞記事から、巧に材料を選び出して、作の基調にするという、そういう際物的やり方には評者は大いに賛成する。豊富な資力、有り余る語学力、立派な邸宅、美しい夫人、よいものずくめの氏ではあるが、ひとつの病弱という悪いものがあって、氏を不幸に導こうとしている。併し病弱であればこそ、そうやって筆も執られるので、そうでなかったら勅任教授か何かで、大学あたりの教壇で干涸ひからびて了うに相違ない。文壇擦ずれの毫も無い、謙遜温雅な態度の中に、一脈鬱々たる覇気があって、人をして容易に狎なれしめないのは、長袖者流でないからである。

 慇懃無礼っつーか褒め殺しっつーか。要するに「大したお人だけれど作品はつまんないね」と言っているわけである。このあと乱歩はじめ何人かに言及してこの文は終わる。
 次が「マイクロフォンーー雑感ーー(青空文庫)」
 ここの第3パラグラフにまた小酒井不木の名前が出てくる。

小酒井不木氏は「手術」を書いて、素人の域から飛躍した。しかし「遺伝」に至っては、学者の余技たる欠点を、露骨に現わしたものである。「犯罪文学研究」は、西洋物ほどには精彩がない。

 なんか偉そうである。ケチをつけるために一本だけ褒めてみた、みたいに見える。感じわる、と思った。
 ところが、その次の「大衆物寸感(青空文庫)」を読むと、「手術」を褒めたのは決してほかを下げるためのレトリックではなかったらしいのである。こんなふうに書いている。

小酒井不木氏の探偵小説は、専門の智識を根底とし、そこへ鋭い観察眼を加え、凄惨酷烈の味を出した点で、他たに殆ど匹儔を見ない。――と、こんなような真正面から、ムキ出しに讃辞を呈すると、或は謙恭な小酒井氏は、恐縮して閉口するかもしれない。併し他人の閉口なんか、私はちっとも苦にしない。で、平気で褒めつづける。
「手術」は凄惨な作である。縮尻ると惨酷になったろう。だが夫れは救われている。正直な質朴な表現が、それを救っているのである。「痴人の復讐」も凄惨な作で、これを読んだ大方の読者は、恐らく頭のテッペンへ、ビーンと太い五寸釘を、打ち込まれた感を得るだろう。この作には社会性がある。大袈裟にいえば人道主義がある。態度がノロマだということだけで不当に他人から軽蔑される、そういう人間の憎人主義の片鱗を示した作である。こういうことは社会に多い。こういう受難者は怒っていい。勇気があったら復讐していい。この作一つを取り上げて、五十枚の論文をつくることが出来る。
(略)
 同じく心臓を扱った作に「人工心臓」というのがある。同氏は自分でこの作を、失敗な作だと云って居る。私は然そうは思わない。しかし作者がそう云っているものをいや結構でございますと、結構の押売りをするということは、些いささか変なものである。妥協をすることにする。

 べた褒めっつーか、押売的に褒めている。さっきはほかにケチをつけるために褒めたように見えた「手術」評が今度は「手術」好きすぎてほかまで褒めたみたいになっている。というか、これ以後、篇の最後まで国枝は取り上げた小酒井不木作品をすべて褒めている。
 『探偵小説全集』編者の末國善己は、国枝の探偵小説評論が「親しい作家は褒めるが、あまり面識のないと思われる作家に対しては辛辣な言葉で批判するなど、立脚点が不明瞭で場あたり的な発言も目立つ」と評しているのだけど、これは「日本探偵小説界寸評」から「大衆小説寸感」までのあいだに国枝が小酒井不木と仲良くなったってことなんじゃろかなどと、文章の内容とは全然無関係な方向に想像が広がる。
 もちろん、著者との親疎でスタンスが決まっているような作品評は当てにならない。が、「好き好き大好き超愛してる」ってな具合に飛び跳ねるワンちゃんが微笑ましいのと同じように、国枝の小酒井不木評は微笑ましい。あまりに微笑ましすぎて小酒井不木の作品を読む気にさせる。少なくともおれ相手にはそういう効果を持っていた。
 で、「国枝がこう評した作品がこれ」もしくは「この作品を国枝はこう評した」をまとめたら楽しいんじゃないかなと思って、国枝が言及している作品をピックアップして短編集を作ってみた。それが

である。本日リリース。お値段480円。キンドル・アンリミテッド対応。よかったら読んでみて。
 国枝の話しかしてないのに小酒井不木の作品集ってどういうことだと思われるかもしれないが、作ったほうは半ば以上国枝史郎の「好き好き小酒井さん」を楽しむために作っちゃったんだから致し方ないではないか。
 編者的にアピールしたいポイントは上記国枝の微笑ましさなのだけども、おまけ情報的に付け加えると収録12本のうち3本(「ふたりの犯人」「通夜の人々」「見得ぬ顔」は現時点青空文庫未収録、キンドルで読めるのはこの短編集だけ。この3本の入力は改造社の『小酒井不木全集』から行った。で、どうせならと思って、青空文庫に収録されているほかの短編についても漢字にするか平仮名にするかは『小酒井不木全集』にあわせた(もっとも、字体は新字にし、仮名遣いは新仮名にした)。
 こういうのが楽しめる人に見つかるといいなあと思いつつ、発売開始の宣伝おしまい。

宮崎夢柳『鬼啾啾』

 去年のことであるけれど、『〈怪異〉とナショナリズム』(amazon)って本を読んだ。で、これは複数執筆者による論集なので一本一本当たり外れ(読んでるおれとの相性といったほうが適切か?)が当然あったのだけど、論じられているものに興味を持ったという基準で行くとマイベストは倉田容子の「テロルの女たちはなぜ描かれたのか――宮崎夢柳『鬼啾啾』の虚無党表象をめぐる一考察」だった。こんな感じに始まる。

 革命/恐怖(テロル)の女たちは、なぜ政治小説に必要とされたのだろうか。
 本章では、宮崎夢柳の代表作「鬼啾啾」(「自由燈」 一八八四年十二月十日付—八五年四月三日付)を主に取り上げ、恐怖の表現とイデオロギー、そして女性像の結び付きについて考察する。 夢柳は自由民権運動の興隆に伴って生産された政治小説の書き手であり、その小説には当然、自由民権思想が反映されている。ただし、同時にそこには、思想を伝達するためだけであれば必要とは思われない恐怖の表現が過剰なほど織り込まれている。それらの恐怖の表現は、一見すると常套的な怪談の再生産にもみえるが、その中心に自らの意志によって革命に身を投じる女たちが置かれている点や、虚無党員が投獄された監獄表象と連続性がある点に、伝統的な怪談との差異を見いだすことができる。
 検討したいのは、これらの恐怖の表現がテクストの政治的側面とどのように結び付いているのかということである。先ほど夢柳の小説には自由民権思想が反映されていると述べたが、実のところ、その思想の内実は必ずしも自明ではなく、近世から近代への移行期特有の種々の秩序の揺らぎが内包されている。思想や秩序の揺らぎと恐怖の表現の結び付きについて考察するとともに、そこで女性像が何を担わされているのか検討したい。

 これを読んだ時点でおれにわかったのは、この論考が宮崎夢柳って人の書いた『鬼啾啾』に出てくる女性キャラについて論じるということと『鬼啾啾』という作品に怪談めいた記述があること、自由民権思想を反映していると言われているけれど、そこには思想や秩序の揺らぎが見られることで、知っていたのは明治の二十年以前、政治小説というジャンルがあったということくらい(読んだことがあるのは『経国美談感想)』の前半だけかな)。なんだけども、上記の出だしだけで、「なんか面白そうな」と思ってしまったので、そっから結構前のめりになって論を読んだ。どうやらロシアの虚無党(ニヒリスト)の活動を書いたルポルタージュを翻案した小説らしい。で、クライマックスというか最後のほうの部分の引用(ここでも引っ張りたいのはやまやまだが、ルビの対処するのが面倒すぎるので割愛、ごめん)があって、そこでは、

サンクトペテルブルクの風雨の夜、虚無党員の幽魂がロシア皇帝ピョートル一世の騎馬像に集う。幽魂が再び散乱して消えるやいなや「啾啾たる哭声」が響き、またしばらくすると燐火が帝宮のうえで「呵々(からから)と笑ふ」光景が見える。(略)この描写は「鳴呼何れの時か斯る不吉不祥の光景を一変し、啾啾たる鬼哭全く絶えて魯西亜官民の間、温風和気の緩然たるに至るべきか、想へば嘆息の極みなりかし」という一文へと続き、官民調和が鬼哭の絶える要件とされている。

 幽霊が飛び交ってからから笑うってさすが明治時代の翻案小説である。これは読んでみたいじゃないか。と、このとき早くも『鬼啾啾』はおれの読みたい作品リスト入りしていた。ものは明治の前半である。宮崎夢柳が百歳の寿命を誇ったとしても著作権保護期間は終わっているだろう(この時点では生年月日も没年も知らなかった)と、まずは青空文庫へ。
 なかった。
 んじゃamazonへ。
『虚無党実伝記鬼啾啾 (リプリント日本近代文学 81)』というのがヒットしたけど在庫も中古もなかった。
 仕方ないのでググった。全然情報がない。
 ということは、である。
 この倉田容子の論考、面白いのに扱ってる作品を読める人はごく限られてしまってるってことで、それってもったいなくない?
 と思ってしまったがために、『鬼啾啾』捜しの目的が変わってしまった。
 こりゃテキスト手に入れてKDPするべーよ。倉田の読者(おれのお仲間)が『鬼啾啾』読めるようにしたろーじゃないの。
 となり、どうしたら本文が手に入るか考え、図書館のサイトで政治小説集ってキーワードを入れ、出てきた文学全集の名前をググって収録作に『鬼啾啾』が入っているものを捜したら、大昔に出た筑摩の全集がヒットした。古書価も安いので注文し、本文ゲット。
 そのあと近代書誌・近代画像データベースっちゅうありがたいサイトの存在を知り、そこで『鬼啾啾』の本文が公開されていることを知り、「しまった、買うことなかったのか」と一瞬嘆いたのだけれどさにあらず。見に行ってもらうとわかるんだけど、明治十年代ってまだ平仮名の字形も統一されてなかったらしく、その時点のおれの判断としては「こんなもん読めん」だった。
 というわけで届いた『明治文學全集5 明治政治小説集(一)』に収録された『鬼啾啾』をざっと読んだ。
 開巻早々白昼堂々の暗殺事件発生である。なぜそうなるに至ったか当時の政治状況、民衆の困窮、虚無党の発生を語る前半から、ペートル、クラポキン候(現代だとピョートル・クロポトキンと書かれる)の脱獄計画を語る中盤、そして皇帝アレクサンドル2世暗殺事件の終盤へと話は進む。それぞれのパートには、ウエラ、サシユリツチ(現代の表記はヴェーラ・ザスーリチ)アレイ、リソツプ(モデルがいるのかどうか不明)、ソヒヤ、ペロウスキー(現代の表記はソフィア・ペロフスカヤ)というヒロインが配され、うまいこと連作っぽくまとめられているが、伊藤整日本文壇史1』によれば、『鬼啾啾』連載中に掲載紙「自由灯」は二度販売停止処分を食らったそうで、その影響なのかソフィアが中心人物になったあたりから勢いが落ちていく感じはあった。最近で言うと『エルピス』ってドラマを見たときと同じような印象をおぼえた(『エルピス』も途中から脚本が「何してるのこれ?」って大崩れを起こす。結果、俳優ってすげえなって感想になったけど)。もうひとつ印象に残ったのはロシアの政治を語る話なのに、喩えに使われるのが中国の故事だったことで、柳瀬尚紀とかが言っていた「われわれにはもう漢文の素養がない」ってのは、こういう話かと納得がいった。確かに今だったら中国の故事を使ってロシアの事象を「わかりやすくしよう」とは思わないもんなあ。見たことのない漢字が出てくるとか以上にこういうところが失われたんだなあとか思った。
 で、あとは入力と思って一太郎でポチポチ始め、半分くらいまで快調に進んでいた(「何これどうしたら出てくるの?」って文字は漢字辞典オンラインに頼ったらほぼ解決した。大変ありがたかった)のだけど、ある箇所でロシアの漢字表記が「西亜」になっていたのが引っ掛かった。前半はずっと「西亜」だったのである。昔の作品だし表記の統一とかあんまないのかなあと思いつつ、上記近代書誌・近代画像データベースの該当箇所を見てみたら、「魯西亜」となっていた。写し間違いである。そりゃ多少はあるだろう。が、見つけてしまった以上は直さないわけにはいかない……ほかにもあったりするの? と、この時点で写すネタ元を変えたほうがいいんでね? という考えが浮かんでしまう*1。漢字はなんとかなる。問題は平仮名だ。「〇〇は」が「〇〇ハ」と表記されてるのはまだわかるとして、「す」とかおれの目には「む」の親戚ですか? だし、「に」は「み」の異体字ですか? ってな見え方をしている。これを読み解けるの? となった。
 原典という意味で写すときに安心なのは近代書誌・近代画像データベース本だけども、読むのに時間がかかる、読み解き楽な活字本には紛れがある。作成した電子書籍が何部売れるかを考えるなら投げてしまうのが正解か、しかしもう半分以上写している……と頭を抱え、結果取りあえず今写している本文を最後まで写してから原典で全面チェックするっていう、後から考えると一番面倒くさい選択肢を選ぶことにして、最後まで写し、チェックを開始した。そしたら手元にデータがあるせいか、結構妙な形の平仮名も読めるようになった。
 そうなると今度気になるのはレイアウトである。原典には段落も句読点も一切なく、『明治文學全集5』は適宜段落を分け、句読点を挿入していた。もちのろんであったほうがいい。が、後から挿入したものだったら、おれが変更してもいいよね? ってことで、このほうがよさそうって箇所の句読点を変えたり段落を変えたりまで始めてしまい、ますます完成が先延ばしになった。
 で、やーっと大体できただろって思い、あとは一太郎epubファイルを作ってキンドルページビューワーで残ったミスやらを確認し販売ですよとふんふん表示を見てみたら、今度は傍線がおかしい。
 この作品は人名に傍線、地名に二重傍線が引いてあり、当然それも忠実に写したのだけど、なぜかどちらもが一本線で、しかも人名の右じゃなくて左に線が引かれている……。何これ。
 想像するに、キンドルの読んでくれる書式設定と一太郎の書式設定とのあいだに齟齬があるんだろう。となると、epubスタイルシートをいじらないと駄目ってこと? 
 いやいやいや、面倒くさすぎるだろ。なんかもっといい(楽な)解決策があるはずだ……思い浮かばねえ。
 ってことで仕方なく未知の領域に踏み込む覚悟を決めsigilをインストール。悪さしてるのがなんなのかって傍線の設定に決まっているのでそこに狙いを定めて検索してみたところ、文字飾りunderlineをoverlineにすれば、傍線右側に出るよってepub3の解説みたいなので見てやってみた。できた。しかし二重傍線が出ない。どうやったら二重傍線出るの? って検索してたらamazonさんの説明がヒットして、二重傍線タグは無視しますって書いてあり、ゲームオーバー。波線とかにもできないようなので、いっそ傍線か二重傍線のどっちかを消すかと考えたのだけど、今だと中黒使うところが「、」で表現されていて、たとえば、
ウエラ、サシユリツチソヒヤ、ペロウスキー
 みたいに人名が並ぶところを考えると、人数が2人から4人に化けてしまう。地名も1つで2箇所みたいに見えてしまう。
 じゃあ両方とも一本傍線だけで……とすると、人名か地名か微妙なところが原典よりもわかりにくい。
 太字や傍点も試してみたが、妙に浮き上がって見えてしまうのが引っ掛かる。
 大人しく中黒使って文字飾りなしにするのは、せっかく「、」の今はなくなった(よね?)使用法が記録されているのだから、拾わないともったいない気がする。
 結局、人名をoverlineにして地名はunderlineのまま左傍線にする形で妥協した。将来的に二重傍線が表示できるようになったら、そのまま二重傍線に移行するはず(原稿のスタイルシートは二重傍線指示のままなので)なのでその日を待ちたい。っていうかmobiファイル非推奨に変わったっていうからいい子にepub作ったのに、mobiより表示が思うようにならないってなんなのいったい(mobi出力だと右傍線はそのまま出てくる。一本線しかないけど)。
(追記2023/05/15 こういうの詳しい知り合いになんとかならない? と連休前に質問したら返事が届きスタイルの定義文を送ってきてくれた。早速貼りつけて表示を確認してみたら二重傍線にしか見えない線がちゃんと入っていた。ので、再アップロードしてみた。専門家すごい。)
 と、いった具合に、落ちる穴全部落ちながら進んだ感じではある私作成バージョン『虚無党実伝記 鬼啾啾』であるけれど、どうにか本日レビューも通り、発売開始のお知らせが来た。価格は240円。『〈怪異〉とナショナリズム』読んだときのおれが味わった「読みたいのにない」を味わっているお仲間の方に言いたい。今日から手に入るよ! ついでにこの経路以外で『鬼啾啾』読んでみたいと思っている人(本稿執筆時点か将来かは問わない)にも言いたい、読めるよ!
 まあ、何人くらいいるのかはわからんけどね、でもほら、こういうのっていつ読みたくなるかわからないし、読みたくなったときに手に入るって大事じゃん? ってことで商品ページへのリンクを貼っておくからよかったら覗いてみてね。

*1:なお『明治文學全集』の作業に関わった人の名誉のために付言しておくと、仕事が雑だったわけではない。たとえば原典の振り仮名は結構適当で辞書に基づいて判断すると仮名遣いが間違っているという所が少なからず存在していたが、『明治文學全集』版ではその多くが修正されていた。単に完璧を期すというのは難しいっつー話である。それとは別にそのルビミスのおかげで当時の人の感覚がちょっとわかった気もして面白かった。辞書的には用字が複数ある同じ言葉の仮名遣いが複数存在することがあり得るのだけれど、同じ言葉なんだから用字ごとの表記をおぼえたりしなくていいじゃんって意識が垣間見えた。ついでに「同じ単語」とはどこまでを含むのか、みたいな問題も考えられそうで興味は尽きない(ただし調べる程強い興味ではない)