憲法22条と競業避止義務について

会社を退職して別のところに就職するさいに、競業避止義務が問題になることがあります。しかし、憲法22条からすると、退職も再就職も自由であり、これを合理的に規制する法律もないため、競業を避止させる根拠がありません。この点、日本法は、契約の内容により、民法90条などで、当該競業避止義務が合理的かどうかを決するという実務になっていますが、契約の中に設定されている競業避止義務を民法90条のような一般条項で裁量的に評価する実務は、憲法の人権の論理に違反しています。人権という論理は、基本的に自由を認めておき、その限界を法律で明確に定めるということになりますが、一般条項による裁量的判断は、明確性に違反するからです。一般条項を根拠に人権の限界が裁判官の裁量で決せられれば、人権はその本質が死んでしまいます。ゆえに、少なくとも競業避止義務に関する日本法の実務は、人権違反なのです。
判例は「競業禁止の特約は経済的弱者である被用者から生計の道を奪い、その生存をおびやかす虞れがあると同時に被用者の職業選択の自由を制限し、又競争の制限による不当な独占の発生する虞れ等を伴うからその特約締結につき合理的な事情の存在することの立証が無いときは一応営業の自由に対する干渉とみなされ、特にその特約が単に競争者に排除、抑制を目的とする場合には、公序良俗に反し無効であることは明らかである。従って被用者は、雇用中、様々の経験により、多くの知識・技能を修得することがあるが、これらが当時の同一業種の営業において普遍的なものである場合、即ち、被用者が他の使用者のもとにあっても同様に修得できるであろう一般的知識・技能を獲得したにとどまる場合には、それらは被用者の一種の主観的財産を構成するのであってそのような知識・技能は被用者は雇用終了後大いにこれを活用して差しつかえなく、これを禁ずることは単純な競争の制限に他ならず被用者の職業選択の自由を不当に制限するものであって公序良俗に反するというべきである。しかしながら、当該使用者のみが有する特殊な知識は使用者にとり一種の客観的財産である、他人に譲渡しうる価値を有する点において右に述べた一般的知識・技能と全く性質を異にするものであり、これらはいわゆる営業上の秘密として営業の自由とならんで共に保護されるべき法益というべく、そのため一定の範囲において被用者の競業を禁ずる特約を結ぶことは十分合理性があるものと言うべきである。このような営業上の秘密としては、顧客等の人的関係、製品製造上の材料、製法等に関する技術的秘密が考えられ、……右のような技術的秘密を保護するために当該使用者の営業上の秘密を知り得る立場にある者……に秘密保持義務を負わせ、又右秘密保持義務を実質的に担保するために退職後における一定期間、競業避止義務を負わせることは適法・有効と解するのを相当とする。」「競業の制限が合理的範囲を超え、Yらの職業選択の自由等を不当に拘束し、同人の生存を脅かす場合には、その制限の期間、場所的範囲、制限の対象となる職種の範囲、代償の有無等について、Xの利益(企業秘密の保護)、Yの不利益(転職、再就職の不自由)及び社会的利害(独占集中の虞れ、それに伴う一般消費者の利害)の3つの視点に立って慎重に検討していくことを要するところ」(フォセコ・ジャパン・リミティッド事件、奈良地裁、S45.10.23)としています。

日本法の最高価値は政治家の都合

要するに、日本憲法の真髄は、政治家のご都合である。公共の福祉と人権という矛盾する価値を両方認める、ということは、日本憲法の価値は、それら自体ではなく、その背後にあるご都合(きまぐれ)ということだ。ご都合にとって、公共の福祉を重視するか、人権を重視するかを比較考量して決めるのである。なんと、日本法の最高価値は、政治家の都合だった。しかし、このようなことは許容されないので、憲法は無効である。憲法も法律も無効なので、日本の公共にはルールはない。

日本の法律は根本から矛盾している

憲法12条の「公共の福祉の為に人権を使え」というのは、公共の福祉のために生きろ、人権は認めない、ということである。であるのに、人権を保障しているのが、嘘である。条文は 「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。 又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。」 とあるが、http://www.mars.dti.ne.jp/~saitota/kenpo12.htmでも、支離滅裂と批判されている。いわく「子供にお金を与えて、「好きに使っていいよ」と言えば『お金を上げた』と言えるでしょう。「何々を買ってきなさい」あるいは「ゲームソフトを買っちゃだめだよ」と言えば『お金を上げたことにならない』でしょう。それは買い物を指示したに過ぎません。組織論から言えば規則で実施手順を定めているならば権限を委譲したとは言えません。11条12条を考えると『基本的人権を与える』と言いながら、『濫用せず、公共の福祉に使え』というならば基本的人権を与えていないことになります。なぜ、個人の幸福追求、利益追求に使っちゃいけないんですか?ちょっと待ってください、基本的人権とは何でしたっけ? 自由、所有、安全、平等、参政権、などですよね、これらは過去の成立過程を顧みれば決して公共の福祉のために要求し勝ち取ってきたものでないことは明らかです。これらは市民が自分たちの当然の権利として文字とおり戦い勝ち取ってきたものであります。すると、この憲法の文言は支離滅裂であるとともに論理的にも破綻しています。」。実は、全法曹が隠しているのが、憲法12条のこの欠陥である。根本的に矛盾しているのだから、そもそも日本憲法は成立していないのである。12条は全法体系で最も権威あると習ったが、その最高権威の条文が内在矛盾している法体系は破綻している。12条は、いわば「偶数かつ奇数であるような数がある」と言っているようなものなのだから。 つまり、日本法は根本的に終了している。 日本法の急所を突いたので、日本法は死んだ。日本人には生きていく指針が存在しない。

犯罪をしても犯罪にならないことがある

それは、次のような場合である。(ア)まず、犯罪をしても、捜査機関が関知しない場合である。たとえば、住居侵入窃盗をしても、家人も近所もそれに気づかないとき、すなわち、犯罪の事実が社会的に消えているときである。(イ)また、警察署等に拘置されても、証拠不足などで最終的に送検されなければ、犯罪にならない。(ウ)最後に、刑事訴訟法第247条「公訴は、検察官がこれを行う。」およびその判例、第248条「犯人の性格、年齢及び境遇、犯罪の軽重及び情状並びに犯罪後の情況により訴追を必要としないときは、公訴を提起しないことができる。」により、当該公訴の判断が職務犯罪を構成しなければ、犯罪を起訴するかどうかの判断は検察官の裁量に委ねられる。逆にいえば、犯罪を起訴するかどうかの判断は、検察官の自由である。したがって、犯罪があっても、検察官が起訴をしないと判断すれば、犯罪にならない。逆に、犯罪をしていないのに、犯罪になることがある。(障ネ)まず、私人が濡れ衣を着せる場合である(可能である)。たとえば、痴漢をしていないのに、痴漢をされたような演技をして、人を警察に突き出す女がいる。被害者が「女が痴漢をされた演技をした可能性がある」などという主張をせず、手続のベルトコンベアに運ばれて、自白まがいのことをしてしまうと、それがそのまま事実として採用され、有罪になってしまう。また、軽微な犯罪が横行しており、普段はそれを見逃しておいて、社会的に抹消したいターゲットの犯罪のみを目ざとく取り上げて起訴までもっていくという差別的起訴なども合法化されている。(障ノ)また、捜査機関が証拠を捏造する場合もある。これも「証拠に捏造の可能性がある」などという主張をせず、自白まがいのことをしてしまうと、有罪になってしまう。このような場合は、たいてい裁判官とグルである。(障ハ)最後に(ウ)でみたように、公訴は検察官の裁量であるから、常識的に犯罪に当たらないのに、検察の都合で公訴される場合がある。この場合、裁判官と検察にコネクションがあると、有罪になることがある(ただし、大野病院事件のように、社会的なブーイングが起こった場合は、やむなく無罪にすることがある)。以上のとおり、当事者の知能次第では、犯罪を犯罪でないとし、犯罪でないのに犯罪とすることができるなど、穴だらけの法令である。

ご都合政治を正当化するための粗雑なドグマとしての日本法

宮沢俊義という学者が「公共の福祉は人権の内在的制約原理である」と述べていますが、憲法12条の文面に違反するし、日本の実態にも反します。日本の実態は、全体社会の福祉のために、人権を殺しているからです。このようなものが通説になるのはどうみてもおかしいです。要するに、憲法はほとんど崩壊しており、上の無理な解釈で首の皮一枚つながっている感じです。

最高裁判事は馬鹿の集まりです

判例は何と言っているかというと、12条については明確に述べていませんが、刑事訴訟法などで「公共の福祉」と「人権」を同時に認めつつ、その衝突部分について、「社会通念上相当」とか「社会的相当性」とか「具体的相当性」とか「社会的合理性」といった、いずれにもとれるマジックワードでごまかしているので、12条の矛盾自体をそのまま受容しているようです。そういうわけでこんな矛盾した憲法では、社会的安定性を害するので、早く書き換えたほうがいいです。放置している連中、改正の機会に修正しようとしない連中は、何を考えているのでしょうか。

では日本にこのような社会を実現する能力があるのか

私はこのような自然な多元社会こそ理想的だと思うので、是非実現してほしいが、ホープレスだというのなら、いっそ明確に一元化してもらいたい。もともと日本は江戸時代、明治時代を通して、幕府や天皇を頂点とする形で一元化されていた。戦後も、一見多元社会かにみえるが、実は官僚と大学による一元的社会なのであり、要するに日本の風土には一元社会が親和的のようである。戦後は、英語教育にみるごとく、多元社会を飲み込んだが、それが一元社会と衝突して消化不良となり、下痢を起こしている状態である。結局出来上がったのは、一元とも多元ともわからぬ玉虫色の社会であり、現代日本人は、この玉虫色の不安定状態に対してノイローゼ気味となり、不幸になっているようにみえる。つまり、現代日本の本質は、単なる統合失調であり、分裂病であり、論理矛盾であり、混乱でしかない。かかる問題を解消するには、一気呵成に多元化を成し遂げるか、できないのなら、さっさと復古して一元化した方がよい。