『中世の罪と罰』を読んで(博奕について)

競艇などの公営賭博をしたことはいちどもありません。が、酔ってあるチームの勝敗を賭けて負けたらなんでもしてやると彼氏に云ったことがあり、結果裸エプロンを所望され、そのテの小さな博奕はしたことがあります。条文上は一時の娯楽に供するものは除外するとあるので裸エプロンはおそらく問題にならないはずで…って裸エプロンはどうでもよくて。

これを書いてるのは元法学部生で、大学生の頃、刑法の授業で冒頭に「総論で60、各論で60くらい語りたいところがあるけどすべてに触れることは出来ない」という説明があって、恥ずかしながら授業でとりあげたところはそれなりに詳細を記憶していますが飛ばされたところはあんまり…です。賭博罪も飛ばされてて、なぜ偶然の勝負を楽しむ博奕がダメなのか?というと、勤労によって生活を維持するという勤労生活の風習を堕落させ、同時に、博奕に付随して生じかねない窃盗などを防止するため、という判例の通り一遍の知識しかありません。くわえて「いつから博奕が罰せられるようになったのか?」なんてのは知りませんし知識の欠如は自覚していて、ので『中世の罪と罰』(網野善彦石井進笠松宏至・勝俣鎮夫・講談社学術文庫・2019)という本を目にして博奕の項目もあったので知識の欠損を補充したいというのもあって即買いしています。

さて、史料に現れる最古の博奕は日本書紀天武天皇がさせたものですが(P124)、本書ではじめて知ったのですが博奕について規制をはじめて設けたのは(ここらへん事実は小説より奇なりで)持統天皇で、雙六の禁制をだします(P133)。養老雑律では財物を賭けたら杖一百、賭けたものの額が大きいときは盗みと同等としていたのですが(P133)、もちろん罰則が出来たからといって博奕が無くなったかといったらそんなことはなく、梁塵秘抄には博奕の職人としての博党が歌われていて(P127)、江戸末期には甲州では博徒でありながら赤報隊に加わった黒駒勝蔵のような人物が出てきます。もちろん令和に至るいままで博奕は無くなっていません。

博奕に対して時の権力者はなにもしていなかったわけではなくときとして厳しく規制をします。たとえば明月記を引用しながら「博打狂者」の「雙六の芸」に対して六波羅の武士が搦めとった上で鼻を削ぎ指を2本切った事例などを紹介しつつ(P134)、本書では鎌倉幕府の追加法等を紹介していて興味深いのは四一半というサイコロ賭博の一種を「偏に是盗犯の基」とし、弘長三年の公家新制では「諸悪の源、博奕より起こる」とまで云い切っています(P134)。ここで

お題「この前読んだ本」

をひっぱると読んだ直後に野球選手の通訳のギャンブルの報道を知り、なぜ博奕がダメなのかについて、ああなるほど…などといったんは腑に落ちていました…って私のことはどうでもよくて。戦国期には六角氏式目などでは博奕は死罪や流罪(P135)となり江戸幕府も初期は斬首としています。

でもなんですが。

鎌倉幕府には訴訟にあたり自己の主張を正当化するために自らの所領を賭け物として扱い万一敗訴した場合には相手方もしくは第三者に渡すという「懸物押書」というシステムがありくわえてそれらは従前から慣習としてあったのではあるまいかと述べ、鎌倉後期以降は法令に出て来なくなるものの執筆した網野さんは懸物押書の制度は賭けを前提にしている点で当時は博奕そのものをどこか容認していたのではあるまいか?と投げかけます(P137)。また塵塚物語を引用する形で鎌倉室町期には他人の土蔵を賭けの対象にして負けたら掠奪を行うことを約すことも行われ徳政の起こりは博奕である、とする説を紹介しています(P125)。どう考えても博奕の存在が前提で、かつ、博奕の肯定があったことを否定できないわけで。

詳細は本書を読んでいただくとして、本書は博奕は罪とする発想は戦国期にあるのではないか?としつつも(P139)、博奕の禁制が結果的に博奕を隠微な世界に追いやっただけと喝破し(P149)。また博奕を楽しみ博奕に熱中する庶民の常識が中世以前から続く博奕の肯定に源流があるのではないか?(P139)と述べています。話がすっ飛んで恐縮なのですが歌舞伎と狂言に個人的には腹を抱えて笑ってしまうサイコロ賭博を扱った『博奕十王』というのがあっていつ成立したかは謎なのであるものの、罪とする発想だけでは偶然の勝負を楽しむその狂言はでてこないはずで、網野説に腑に落ちています。

読んでるうちに「ああ、博奕は無くならないかもな…」という感慨を改めて持ったのですが、裸エプロンを賭けるような些細なものは別として、窃盗などの犯罪とも近接するのは確かで、千年以上かけて解決できなかったそれらの問題を克服するのは難しいかも、という毒にも薬にもならない感想も持っています。

さて本書は博奕に限らず「悪口を言うとなぜ罰せられるのか」といったような根源的な疑問を含め10個の項目を日本史のもしくは法制史の点からかなり深堀した本です。「読んでなんの役に立つのか?」と問われると正直答えに窮してしまうのですが、でもかなり刺激的な本でした。

 

桜散りかけの井の頭池

井の頭池は花見の名所みたいな扱いにいまはなってはいますが、吉祥寺の隣の三鷹に住んでいた太宰治の『ヴィヨンの妻』だとかつて井の頭の池のほとりには以前は杉があったことになっていて、上記の作品ではそれが伐られて「寒々した感じ」と描かれていて、いまある桜はおそらくそのあとに植えられたものと推測します。つまり古くからの桜の名所ってわけではないようで。杉の代わりになぜ桜を植えたのか経緯は知らぬものの、そのおこぼれを都民は享受していることになります…ってそんなことを書きたかったわけでは無くて。

今年は桜の開花が東京では遅かったのですが

さすがにかなり経ったのでずいぶん散ってしまっています。それでも花見客はけっこう居て、書かなくても良いバカにされそうなことを書くと、他の人がお酒をうまそうに呑んでいると「いいなあ…」とおもっちまうところがあります。池のほとりには茶店があって黒ラベルを筆頭に麦酒も売られていて、それを横目で眺めていると欲してるのが顔に出ていたのか「花粉症の薬飲んでただろ?」と確認の上、止められています。もちろんキツくなるのは自明の理なので、諦めています。こうなってくると花粉症になってしまったおのれを恨むしかありません。ここではてな今週のお題「外でしたいこと」を引っ張ると、花粉症が落ち着いたら桜でなくても良いので太陽が沈まぬ時間から外でお酒を呑みたいな、と。呑めないと判ると余計に欲しくなるというか。くわえて陽の出てる時間帯に呑むお酒ってどこか背徳感があって惹かれるものがあります。

書いてて気が付いたのですが匿名を奇貨として書くと「お酒をお酒が人をダメにするのではなく、お酒は人のダメなところに露にするだけだ」という仮説を持ってるのですが、背徳感に惹かれて…などと書いてる時点で吞まずしてその証明とビールクズの証明をしてしまっている気が。

マジメなことを書くと井の頭池はかなり緑が濃くなってきました。

最近の試行錯誤

どうでもよいことを書きます。

高校は地学と技術家庭がなく大学は家政ではなく法学で、大人になってからどこかちゃんとした料理教室のようなところへ通えばよかったのかもしれませんが通わずに来ちまいまってて、なので料理関係の引き出しはそれほど多くはありません。「作れるか?」と訊かれて「うーん…」と唸ってしまうことがあります。

それが越中でメジャーな食べ物であるかどうかは不勉強なので知らないものの、富山で「とろろ昆布とおそらく生姜を酢で漬けてあるもの」を食べています。東京に戻ってから似たようなものを試しに作ろうとしたのですが食べたものは酢の効かせ具合が絶妙だったせいもあって、やはり同じものは出来ていません。

都心部に富山のアンテナショップが複数あるようなので似たようなものがあったら買ってみて研究するつもりです。なんだかほのかに悔しいのでもう少し試行錯誤してみます。

富山薬種商の館金岡邸見学

富山市内の東新庄に金岡邸という明治期の薬種商の建物が現存していて先日見学していました。薬でも小田原の外郎家は透頂香を小売りをしているので小田原城のすぐそばですが、金岡家は薬そのものではなく薬の材料を商う薬種商で、富山市内でも城のそばではなくどちらかというと郊外の住宅地にあります。

外観を眺めてると屋根の上になにかが載っていて、あれはなんだろう?灯台代わり?などと不思議に思えたのですが、それはいまは横に置いておくとして。

道路に面したところに店があり、多種類の薬の原材料≒薬種を入れる引き出しの多い百味箪笥が目を惹きます。人に見えるのは人形です。

センブリなどの薬草を入れていた引出そのものはたいして大きくありません。センブリは日本で採れますが、漢方の原材料は大陸や東南アジアなどからの輸入です。富山市の東岩瀬は江戸期は北前船の寄港地で、北前船に載せた蝦夷地の昆布は薩摩藩領に流れて琉球経由で中国へ行き、代わりに漢方の原材料は琉球経由で薩摩藩領から入手してそれが北前船で富山に来て金岡家などの薬種商が引き取り、薬種商は薬売りに原材料を売る仕組みです。

店の壁には個人が調合した薬の看板(左)が張ってありました(恥ずかしながらなんて読むのかはわからないです)。右の実母散は生理痛の薬で、上の健通丸はお通じの薬でつまるところ下剤です。おそらくそれらも取り次いでいたと思われます。

店のすぐ後ろには囲炉裏があり、かまどが見当たらなかったのでおそらくここが調理場兼食事スペースであった可能性が高いです。

この囲炉裏のあるスペースは非常に天井が高く、南面に窓があり陽が差し込み、くわえて白漆喰なので明るい印象を受けます。

囲炉裏の次の間は灰緑色の漆喰で天井に採光があり

外から眺めたときの灯台もどきは採光窓だったのか、と氷解しました。さきほどの囲炉裏の間の南面の窓と白漆喰を含め、雪の降る地域の太陽光に対する扱い方にちょっと唸らされています。ただ、この部屋がなにに使われていたのか尋ねたのですが不明で、つまるところ明治の富山の人たちの設計意図を現代人は理解できていないわけで。

灰緑色の漆喰の部屋の隣は赤い漆喰で、部屋ごとに漆喰の色を使い分けてることが理解できてきました。隣の加賀金沢だと赤い漆喰の部屋はもてなしの場などにつかうのですが、この赤い漆喰の部屋は天井が低くほぼ光が差し込まずでそのようには思えず、やはりどのように使われていたのかは謎です。

床の間のある部屋は手がかかる黒漆喰で、つい吹き出してしまってます。こうなってくると施主の金岡さんの遊び心なのではあるまいか?と思えてきたのですが、ほんとのところはわかりません。ここらへん工業製品ではない建築の素敵で不思議でバカバカしくて愛おしいところなのですが。

さて、金岡邸は明治天皇の訪問を受けていてその際に大広間などを増築してあります。

その増築部分で印象に残ったのがおそらくガラスが嵌め込まれた板戸です。ガラスを埋め込む必要があるのだろうか?と思わなくもないのですが

場所によってはガラス戸の先にガラスの嵌め込まれた板戸があって、先ほどの採光窓を思い出し、なにがなんでも陽の光を家の中に持ち込む執念を感じ、息をのんでいます。気候が違うといえばそれまでですがちょっと興味深く、設計者や施主の意図を汲むためには鈍色の空が続く冬に来るべきだったかな…と、春に来たことをほんのちょっと後悔しました。

なお大事なことを書いておくと金岡邸は越中の薬業の関しての展示がほとんどでその展示も時間泥棒で

名前をかろうじて知ってる熊胆であるとか富山の薬売りが扱っていた薬の展示もあってついまじまじと見入ってしまっていて、その中に強精剤があって、症状を治すだけが薬ではないんだよな、と思い知らされてます。くだらないことを書くと、いまのところ必要を感じていませんがそこに有ったらちょっと試してみようかな…と思わせる薬を忍ばせてる点で商売が巧いなあ…と思っちまったり。

富山城址およびTOYAMAキラリ見学

金沢に用があり帰途に富山に寄っていました。

富山市の富山城の跡は現在公園で模擬天守が戦後に作られ、その模擬天守の中はかんたんな資料館になっています。恥ずかしながら「戦国時代に誰が富山を治めていたの?」という問いに答えられないくらい富山の歴史に詳しくなく、詳細はかなり複雑なので現地へ行っていただくとして、越後の上杉謙信が西進するのを阻止するために甲斐の武田信玄公が越中南砺の一向一揆を支援していた史実を館内で知ってああそういえば新田次郎の小説にその記述がでてきたかもしれない…などとおのれの記憶力の怪しさを呪っています…って記憶力なんてどうでもよくて。資料館で富山のにわか勉強をしています。

いまは南側に堀が残されてるだけですが資料館の古地図をみる限り、かつては城の北側に神通川が流れており、くわえて西と東側の堀があり、ゆえに攻めにくい城ではあったようで。その神通川は富山と北の岩瀬を結ぶ運河の土砂で埋め立てられ

(金網越しで恐縮ですが)県庁や市役所になっています。かつて神通川がそばにあったことと関係あるかどうかは不勉強で知らぬものの目撃したことを書いておくと正月の能登地震

南側の堀の一部が崩れ

石垣には近づける状態ではなく

城址内でも砂が噴出した痕跡があったので液状化していたと思われる場所があるほか

トイレとおぼしき建物が西側に傾いており、それらの場所はやはり規制線が張られていました。おそらく神通川の自然堤防の上に築城されたと思われ、ゆえに上記の現象はすべて腑に落ちます。ブラタモリで「土地の歴史は消せない」というフレーズがあった記憶があるのですがまさにそれで、築城後数百年を経て出て来た過去の痕跡をみて唸らされちまってます。

さて、富山城からそれほど離れていない西町というところに

TOYAMAキラリという建物があり、富山第一銀行と図書館、それにガラスの美術館を10階建ての建物ひとつにまとめてます。ガラスとアルミと白御影の細長いパネルを無数に外壁にランダムに張り付けて外観を構成しているものの、右側の低層階と高層階全フロアは銀行ゆえにガラスの開口部が多め、中層階は図書館と美術館ゆえにガラスの開口部少なめ、と意図して変化をつけてあります。

銀行部分に近づいてパネルを撮ってみたのですが、法則性があるようで無く、見ていて飽きません。ついでに書いておくと写真は撮っていませんが館内は吹き抜けが斜めにあり、すべての床を効率よく使ってるわけではありません。パネルも吹き抜けも効率を考えれば無駄の極地でやらなくてもいいもので、にもかかわらず承認して突き進んだ施主は将来恨まれるかもしれぬものの、でも愛すべき冒険者のような気が。

パネルも平板なものがあったり尖ったりしているものが併存しています。石垣みたいだな…などと思っちまったのですが、石垣のように法則性があるようでない状態で並べられたものって、なんかこう、惹かれるものがありませんかね…ってそんなことはどうでもよくて。大事なことを書いておくと富山城址とTOYAMAキラリ、けっこう時間泥棒でした。

富山市内でも北部の岩瀬浜などで地震の影響があった模様ですがいまは市内電車は通常運行で、もちろん白エビもホタルイカも変わらずに美味かったです。

切符売り場にて

そのうち消すささいな話を書きます。

よく使う中央線はみどりの窓口を無くす方向に進んでいて、例えば特急停車駅も例外ではなく知ってる限りは石和も塩山も上諏訪も終了してます。代わりに値引きになるチケットレスサービスを使え!ということらしいのですが、困ったことに東日本の中央線から東海の身延線には対応していません。ので、たとえば中央線の吉祥寺から身延線の身延だと紙の切符を発券するしかありません。

当然特急が停まるわけではないよく使う駅も見逃されるわけがなく、その駅の場合は指定券券売機と話せる券売機というのとがそれぞれ1機置かれています。ただこの指定券券売機と話せる券売機が厄介で誰にでも使いやすいかといったらそんなことはありません。特に後者はどこか別のところに居る駅員と電話で話すことが出来るやつなのですが肝心の電話がなかなかつながらず、実質いつかは話せるかも券売機です。

駅でチケットレスにならない区間の切符を買おうとし「指定券券売機と話せる券売機を利用の方は並んでお待ちください」と書いてある列に加わって待っていました。話せる券売機は(つながるまで5分から8分かかるほどのアナウンスがエンドレスで流れていて)今日もいつかは話せる券売機状態で、くわえて指定券券売機も使い勝手が良いわけでは無く、列がなかなか進みません。10分くらいしてから指定券券売機が空いたのですがなぜか駅員さんがブロックする状態になって列が進まず、そこになぜか別の駅員さんに誘導された若い女性がやって来て指定券券売機を使おうとしたのでさすがにカチンと来て「順番守ってるこちらがバカみたいじゃないか」と大声で異議を述べると平謝りして券種の希望を聞き列の整理をはじめ、結果的になんだか器の狭い客が行ったカスハラみたいな構図になっちまいました。

B型は猫と同じで思ってることと違う顔ができない、といいますが、黙ってればよかったかもしれないもののそれができなかった点で、今日もまたB型猫説の傍証の事例を作ってしまってます。あははのは…ってわらうところじゃないかもしれませんが。

さて『注文の多い料理店』は文字に書かれてることを信用しその通りにするととんでもないことになる…という戒めの童話だと思うのですが、話せる券売機といい、並んでお待ちくださいという表示といい、どんどんその世界に近づいて行ってる気が。でも書いてある文字を信用できなくなった世界では何を信用したらいいんすかね。

比較対象を置いて評価するもの言いについて

静岡の三島の東側には箱根山がありその箱根山の麓ではジャガイモを栽培していて、その箱根の西麓のジャガイモを利用して三島ではコロッケを作り、市内の中小の商店を巻き込んでそれを名物として三島コロッケの名で売っています。都市部へ出荷するのと違いそれほど運賃もかからないわけで農業生産者にもメリットがあるうえ、コロッケですから値段も手ごろで観光客の財布にも優しく、くわえて地元の商業振興にも一役買う三方良しのシステムです。専門外なのでヘタなことは云えぬものの「野菜を売る」のは頭を使わないか?といわれるとコロッケの取り組みを横目で眺めていたので「そんなことぜったいないやろ」感があったりします…って、コロッケの話をしたかったわけでは無くて。

ある知事さんが職員を前にして職員の仕事について「野菜を売るのとは違う」という発言をしてそれが報道されたのを新聞で読んでいます。私個人は(三島の取り組みをGJ!と考えていたので悲しみはあっても)野菜を売る人間ではないのと政治に詳しくはないのでそれについての深入りは避けます。

が、気になってることがあって

あるものを評価するときに比較対象として別のもの(今回の例でいえば野菜を売る)を置きそれを軸にして評価しようとする

ことをなぜ人はしてしまうのか、という点です。以前はてなハイクというところである作家と別の作家を並べて「格が違うんだよ格が」と書いてる人が居て(それが妥当かどうかを含め)どうしてそういうことをするのだろう?と印象に残ったのですが、おそらく知事さんだけの問題ではないはずです。もちろんそれらをやっちゃいけないわけではありません。が、比較対象があってはじめて他方の評価につながってる点でその人の中に固有の評価の軸が明確には無いことは明らかで、くわえてその人の中でどこをどう評価するのかということについて言語化できていないから安易に比較対象を置いてしまうのかなあ、と推測していますが、ほんとのところはわかりません。

幸か不幸かほかの対象物を置いて褒めるもしくは褒められるというのとは無縁で生きて来たので、今回の件がどうしても気になっちまったのですが、他山の石としてそのテのもの言いは避けようと思いました…って、なんだかうまくまとまらないのでこのへんで。