パルプ

 

 

 中身を知らないで読んだけど想像の倍は読みやすかった。たまたまチャンドラーとかロバート・B・パーカーとか読んでたからこの本の "パルプみ" を苦労せず理解できたところがあるかもしれない。ハードボイルドな私立探偵モノのパロディやオマージュにあたる部分。

 訳が柴田元幸なのも全体的な読みやすさの秘訣だったかもしれないのだけど、おそらく慣用を崩して言っているようなところは日本語でも崩した表記になっていて、雰囲気を伝えるという意味では丁寧なんだろうけど日本語としてはそもそもその形の慣用をしなかったりするので、いっそ英語でなんて書いてあったか知りたくなる箇所がいくつかあった。翻訳のむずがゆさ。原語読むより200倍楽なのでぜんぜんいいけども。

( 翻訳と言えばこの本に名前が出てきたからマッカラーズも読むかと思って調べたら未来屋書店にも在庫があった。ええやんと思ったけどあるやつ全部村上春樹訳で、それはいかほどのハルキみなん、だいじょぶなん、となって一旦保留。)

 1時間6ドル(今のレートだと普通に日本の最賃くらいあって笑うけど)の探偵である主人公のもとに、死んだはずの作家が生きてるらしいから本物か確かめろだの、宇宙人をやっつけろだの、次々と支離滅裂な依頼がやってきて、探偵はまぁ特に大した推理も努力もしないけど出来事がぶつかり合って消滅したりしてワーッと色んなことが起きて終わる話で、本当にこれでいいのかと思うような筋書きなのに、強烈な登場人物たちと会話の軽妙さで持って行かれてしまう。

 品があることや確からしいことなんてほとんど何も書いてないのに、時々本当のことが書いてあって、油断しているからかスッと入ってくる。好きだったところを引いておく。

俺たちはさんざん待った。俺たちみんな。待つことが人生を狂わせる大きな原因だってことくらい、医者は知らんのか?人はみな待って一生を過ごす。生きるために待ち、死ぬために待つ。トイレットペーパーを買うために並んで待つ。金をもらうために並んで待つ。金がなけりゃ、並ぶ列はもっと長くなる。眠るために待ち、目ざめるために待つ。結婚するために待ち、離婚するために待つ。雨が降るのを待ち雨が止むのを待つ。食べるために待ち、それからまた、食べるために待つ。頭のおかしい奴らと一緒に精神科の待合室で待ち、自分もやっぱりおかしいんだろうかと思案する。

 この本を書き終えたあとブコウスキーは列に並び終わって死んだ。少し順番飛ばししたように見える死に方だけど、そういう順番だったんだろう。頭がおかしくなろうがなんだろうが待つしかすることがなくて、暇で仕方ないからブコウスキーなんか読んでる。ブコウスキーが待ってる間に小説書いといてくれてよかったな。

メインテーマは殺人

 

 

 以前3作目を読んだシリーズの1作目。伏線がかなり丁寧なので途中でなんとなく犯人がわかった。こういう犯人当ても楽しみのひとつだろうミステリ、目星がついたところで立ち止まってきちんと考えればいいんだけど、いつも読むスピードをほとんど緩められないで最後まで読んでしまう。

 シリーズの最初の作品なのでキャラクターを立ち上げるためにかなり丁寧な登場人物や情景の描写があって、それがとてもよかった。携帯電話はある時代の話なのだけど、バディもので探偵もので舞台がイギリスで、本格推理小説ファンも読めそうだし青い鳥文庫上がりのミステリファン(私)も読める。

 最初に殺されるのはその日の午前中に自身の葬儀の予約をした裕福な老婦人で、警察の顧問であるホーソーンと、彼に自身の本を書くように依頼されたアンソニーホロヴィッツが捜査に乗り出すところから始まるお話。

 ハリウッドスターが出てくるのだけど、ハリウッドでの暮らしはかなり悪し様に言われていて、イギリスっぽくてよかったな。ロンドンとハリウッドって結構遠いように思うけど、言葉は英語だから通じるんだよね。どんな感覚なんだろう。

 語り手兼探偵の相棒役のアンソニーがなにかまずいことを言ったり調子に乗ったりするたびに薄めの共感性羞恥に襲われる。昔から度々思うけどやっぱりこういう探偵モノは相棒のトンチンカンなところを多少は描かないと面白くならないものなんだろうか。でも確かに思い返せばそういう失敗が読者へのヒントになっているところもあって、ミステリを読みたければ耐えるしかないのかもしれない。

 いずれにしてもクラシックな手触りと現代の価値観が並走していてかなり好きなシリーズだなと思うので未読で残っている2冊目やそのあとも読むでしょう。

透明な夜の香り

 

 

(以下全編ネタバレ)

 

 

 

 

 

 自死遺族である女性が、尋常でない嗅覚の持ち主である調香師の屋敷で家政婦として働く話。

 

 主人公は兄の死から一年ほど経った頃、突然出勤できなくなって前職を辞めた。半年程引きこもったあとにこの屋敷の求人広告を見て応募する。そういう人がこんなに緻密に働けるものだろうか、と思うのだけど、対人ストレスの形が違うから平気だったのかもしれない。この調香師に何かを隠すのはとても難しいのだけど、 "この人に何かを隠しても無駄だ" と悟ると、むしろ楽になるようなことってあるし、もしかしたら主人公もそうなのかも。

 この小説の結末は腑に落ちない。ある出来事をきっかけに家政婦の仕事を辞めてしばらくたった女性を、調香師が訪ねてくる。和解のような会話を経て、ほとんどラストシーンで、女性が "友人として(屋敷に)遊びに行く" 、という。あの家の仕事がなくなったわけではないのに、どうして友人としてなのだろう、と不思議に思っている。他に適任者がいたわけでもないだろうに。

 対等な友人関係では、香りを調香師の思うようにするために自家製の日用品を支給したり、日焼け止めを塗らせなかったりできないだろうし、調香師の相棒である探偵が吸うタバコの匂いを受け入れているのと同様に、主人公の匂いを受け入れるということなんだろうか。 あるいは現時点では友人と言っているだけで、遠からず香りを共有する近しい関係を想定しているのか。意味が取れなくてやや混乱したのだけど、まぁなんであっても、やっとそういう、あなたとお近づきになりたいです、ということをお互いに示せるようになった、丁度のところで小説が終わっているのだと思う。固い蕾が綻ぶまでの物語。

  主人公の生活は、(巣立ちまで含めて)保護された野鳥のような経過を辿る。屋敷というサンクチュアリで、調香師の庇護管理下に置かれることで内部的に癒やされていく過程が描かれているのだが、彼女が屋敷での仕事に馴染むほどに、彼女がどこにどのような傷を持ち、どのように弱っていたかが明らかになっていった。

 野生では弱っていても元気なふりをしなければならないから、傷を隠さなくていい環境は生き物を安心させるのだと思う。彼女にとってあの屋敷は世間から隔絶されたシェルターのようなものなのだと感じた。

 お話の筋がよくわからないみたいなことを書いておいて申し訳ないけど、記憶と傷と手当、他者のわからない感情や傷に触れることが丁寧に綴られていて、じんわりと光る癒しの魔法に触れ続けているような気持ちで読んだ。蒸しタオルを顔に乗せてもらったときの一息目を吐くときみたいな瞬間が何度もあって、自分がどのように強張っているかは、吐いてみるとわかる。

 

マルテの手記

 

 

 たしか9月の終わりに最初のページを開いて、12月の最初までかかって読み終わった。実際文字を追っていたのは5時間そこそこだろうと思うが、時系列が整っていない断片的な文章を読むことになるせいか集中できるきっかけを逃していた。文章自体はそれほど読みにくくないのだし、と思って後半は一気に読んだ。読み終わってから、そのバラバラさは、ひとりの人間の記憶、あるいは同一性、連続性と言われるようなものの有様を表しているように感じた。

 一番印象に残っているのが、少年時代のマルテがおじの家に滞在している間に、既に亡くなっている女の人が現れる場面で、そこだけホラー映画みたいに映像で想像しながら読んだ。もうひとつはアペローネと本を読んでいるところ。最初の独白の部分で、彼が28歳の青年で、半ば生に絶望しながらもがいているような状態だ、ということを読んでいるからこそ、回想と思われるような部分が鮮やかに映るのかもしれない。

 最後の方は興が乗ってきて、シャルル6世のことや、「ゲーテとある子供の往復書簡集」のことを調べながら読んだ。リルケが当然のように引用するものについて私は何一つ知らない。調べたところで100年以上前の文化習俗、あるいは本気の古典なので距離を感じるのだけど、一方それらを引きながらマルテが紡ぎ出す人間の苦悩のようなものは、すぐそこに、触れるものとしてあった。

 J-POPの歌詞でも、当時の語彙を理解できなくても、それでも伝わるものがある、それでも詞として美しかったり面白かったりするものが残っていくのかな、と思うことがある。プライベートの関係では、受話器をとることも電話をかけてくる相手の名前がわからないことももうあまりないけど、「Automatic」は再発見され続ける。

結局古典を読むたびに感じることを今回もなぞるように考えていて、これ一冊を読んでもリルケのことはなにもわからなかったから、佐野洋子に教えてもらいながら次のリルケを読むしかないのだと思う。

約束の地

 

 

70年代のハードボイルドミステリ。探偵スペンサーが、家出した妻を探して欲しいという依頼を受けるところから始まる。

お話自体は面白いだけなんだけど、妻が拾われるのがウーマン・リヴ活動家の女性ふたり、というのが味付けになっていて、かなり興味深かった。そのことについてスペンサーの考えが記されていて、当時の男性としては偏見などのない見方だったので、フェミニストの皆さんが読んでも即嘔吐はしないんじゃないかと思う。ただ、作劇の都合上、その思想が今この場では役に立たないということが都度確認される。もちろん、このシリーズではスペンサーの経験に基づくポリシーや哲学に関係のない思想は、前後左右に関わらず捨象されるので、彼が特にフェミニズムを嫌っているわけではない。しかし、このシリーズ内では、そもそも思想や理想、社会運動といったものの価値が、策を巡らせる機知や、命を守る腕力、それを支える行動指針に比して低く見積もられているのだと思う。それはふつうにいくと、生き残る能力や即時の行動力の低い個体の価値が下がる考えだと思うので、己のマチズモを自嘲する以上の折り合いの付け方を読んでみたかったような気もする。強いものが弱いものを守ればいい、と考えていないかどうか。

たびたび彼が読書をすることがわかる描写があるのだけど、この時代は本を読むことで一人前のフェミニストが誕生する時代ではないだろう。でも作中の描写のみだと、スペンサーは自分の中にある偏見や、今までにした差別的行いについて、なんの屈託もなく手放したかのように見え、そいつはちょっと無理だ、と感じた。もしかしたら自分が何を差別したか、彼が気づく描写がある作品は他にあるのかもしれない。

まぁそもそも大衆向け娯楽小説でこのモチーフを取り上げられることがすごいし、"あの女性たちと話すには自分では間に合わないから恋人のスーザンにその場にいて欲しい"といった尊重の仕方があるようだったので、むしろ他の思想より特別に配慮された扱いのように思った。白人男性がこれを書く勇気を尊敬する。

先に書いたことと無関係ではないはずのことだけど、私がこのシリーズを時々読むのは、スペンサーが "普通" であることや、沢山の人に評価されることには興味がないが、自分や自分の生活をコントロールすることには異常な執着があり、それなのにスーザンや女のこととなると感情を制御するのにずいぶん苦労しているのが面白いからかもしれない。

自分で料理をし、外食でもよく食べよく飲む主人公の食生活の描写自体はシンプルに美味しそうでかなり好きだけど、お酒の量など含めそのコントロール欲が根底にあり、付き合ったらうるさそうな男だなと思う。

コンジュジ

 

 

単行本で読んだけど今は文庫が出ているみたい。文庫だとあとがきがあったりするのかな。

児童性虐待の描写があるのでトラウマのあるひととかは読まない方がいいと思う。

 

小説はすごくよかった。1980年代生まれの主人公せれなは、11歳のとき、70年代のロックバンドのボーカル、リアンに恋をする。彼女は没後10年の特集番組で姿を知ったそのスターと、健やかなるときも実父に性的虐待を受けるときも、イマジナリーフレンドのように一緒にいることになる。父親の元恋人に父親が殺されたあとも、自分の人生の記憶を補完するもうひとつの世界として、彼をとりまくあのころの世界が機能し続けている。

父親を殺したベラさんというブラジル人の女性が実力者で、どうしてこんな気持ちの悪い男といっときでも付き合うことになったのかはわからないけど、お金の問題だったのかもしれない。たぶん娘であるせれなへの性的虐待を知った上で殺したのだと思う。

高校を中退し、18で一人暮らしを始めたせれなの人生には特に暖かい救いの手のようなものはなくて、ただフラッシュバックや解離の症状と折り合いをつけて過ごすことが続いてゆくらしいのだけど、抜け落ちている記憶と向き合う作業が、彼女自身が作り上げたリアンとの世界と現実世界のあわいで行われることが、どうやら彼女にとってはセラピーの一種であるらしいと思う。本来なら医療ケアの対象になるだろう状態なのだけど、どんなに病気らしい人であったとしても、その人全体が病気になってしまうわけではなく、病気なら病気なりの内的な世界というものがあり、それは生きるために必要な働きを得ようと絶えず蠢いているのだと感じた。

彼女は父の命日に、リアンの棺に入る夢を見るが、その死は生きるために必要なものだ。自分の大切な部分を安らかに休ませること、侵されない領域に隠すこと、大切に弔うこと。ラストシーンを私はそのようなイメージで読んだ。このためなら毎日死んで毎日棺から出勤してもいい。

 

追伸:全体にとにかく重たくて悲しいはずなのだけど、リアンとザ・カップスの側の描写は、私たちが生きた世界のいくつかのバンドを掛け合わせたような、ある種テンプレ的なストーリーで、そこのメタを感じておくことで多少 "フィクションを読んでいる" 気分を保ちやすくなったように思う。せれなにとってだけでなく読者にとってもありがたい逃避先だった。

映画館がはねて

 

 

古本のリンクしか見つけられなかった。1989年に出た本だから仕方がないか。

寅さんシリーズで有名な山田洋次監督があちこちに連載したエッセイやコラムを集めた本。同じエピソードが違う切り取り方で2回登場したりして、忙しい人はこうやって書くのか、なるほどなあと思ったりした。

百貨店の店員がくれた休憩中のバッジをつけて山田洋次とのお茶に現れる渥美清のエピソードはよかった。

「今、何をしてらっしゃるんですか」と尋ねたので、お正月の寅さんの撮影が済んで、現在休憩中です、と答えたところ、彼女は、「じゃ、これつけてあげましょう」

と言って自分の胸につけてあった『休憩中』と書いたバッジをはずし、渥美さんの胸につけてくれたそうである。-中略-

「その時からずーっと、このバッジつけて歩いてるんですよ。何しろ私は休憩中なんですから」

小さな恋の話として読んだけど、店員さんが素人なのに渥美清と1カット共演して負けていないのがすごい、国民的スター相手にそんなことをやってのける店員、あまりいないだろうと思う。

そのほかも時代の雰囲気が伝わってくるエピソードがたくさん読める。映画人について書いているものも多いので、映画が好きな人なら寅さんをたいして見てなくても興味深いんじゃないかなと思う。

そういえばこの本に、寅さんシリーズはマンネリを心配しだしたころ、8作目が同じ日に封切られたゴッドファーザーよりヒットして、作るのをやめられなくなった旨書いてあったので、気になってマドンナを調べたら池内淳子だった。なんとも言えない納得があって、寅さんはいつもリビングで流れているのをチラチラ見るくらいだったけど、今度ひとりで見てみようかと思った。