俺と幸せの材料 もくじ 登場人物


俺と百割の快濶 もくじ


※なお、この記事を常にトップに表示するため投稿年月日は未来のものになっています


 結果が表示された。
 1000%SPARKINGの横に表示されていた文字は、7。
 7位。7位で、終わってしまった。
 俺とセンスパはしばらく何も喋らなかった。
 その沈黙を破ったのはセンスパの方だった。
「・・・・・駄目、でしたね」
「・・・・・うん」
 俺は何も喋る気になれない。それはセンスパも同じなんだと思う。しかしセンスパは、無理をしたように声を出す。
「これで、貴方ともお別れです。短い間でしたけど――」
「ちょっとまった」
 俺はセンスパの言葉を途中で制した。
「もし、もしもセンスパが一位になってたら、どうなってたの?」
 俺は疑問に思っていたことを思い切って質問した。心残り、という奴だろうか。訊かずにはいられなかった。
「もし、ですか?・・・・・分かりました、お話します」
 センスパは俺の方をじっと見て軽く深呼吸をすると、続けた。
「私が一位になっていたら、私はこの世界の住人になっていました。そういう誓約だったからです。一位になったら私は一度消えて、貴方の記憶から消えた後、また改めてこの世界に形として作られていたはずです。そのときは、一人の人間として」
 そう言うセンスパの声はとても冷静だ。
「もちろん姉さんもその誓約でこちらに、物後の世界に来ていました。そうなることを夢みてこちらに来る"物"は多いですが、成功した例は非常に稀です」
「・・・・・」
「――この説明で、満足しましたか?」
 センスパの言葉に俺は頷く。
「・・・・・うん、ありがとう」
 そして、沈黙が訪れる。今まで味わった中で一番嫌な沈黙だった。
「私も、結局一位にはなれませんでした」
 センスパが言った。俺は何も言わず、それの続きを待つ。
「それどころか私、姉さんほどみんなに好かれていなかった」
「何もそんな言い方しないでも・・・・・」
「だって、そうじゃないですか。7位ですよ?この穴場週に・・・・・」
 投げやりな言葉だが、哀愁を漂わせたそれは、俺の心を痛めつけた。しかし、センスパの心は俺以上に傷ついていると思う。
「もう、何もないんです。私が非力でした。それだけ。これで、貴方ともさよならなんです」
「そうだけど――」
 俺はセンスパの言葉を半分遮るように、大きい声を出した。センスパは驚いたような表情を見せた。俺は、それを見ながら続ける。
「それでも、センスパは確かに俺に思い出をくれたんだ。一位になっていたらセンスパの記憶は俺から消えていたんだろう?だったら俺はこうなっても、良かったとさえ思ってる」
 本心だった。嘘ではない。
「俺も、もちろんセンスパと別れなんてしたくない。したくないけど、センスパと過ごしたこの2ヶ月を俺は忘れることは、絶対に拒んだと思う。それだけセンスパとの生活が楽しかったっていうことさ――。みんなから好かれていなかったなんて、関係ない。俺はセンスパが好きだった。一緒にいて楽しかった。それだけで、十分じゃない?」
 センスパは俺の顔を見つめて、その後に微笑んだ。
「ありがとうございます――。私・・・・・、嬉しいです」
 見つめ合う。
 時間が流れる。
 この時間の流れは、嫌いではない。
「キス・・・・・、しましょう?」
 センスパが言った。
 俺は何も言わずにセンスパの唇を奪った。センスパは驚く様子もなく、そのまま俺を受け入れてくれた。長いキス。そして、深い。
 その長く、深く、熱いキスの体感時間はとても長く感じられた。
 息継ぎをして、センスパは顔を離す。
「私、貴方のこと忘れませんよ」
「俺も、きっと忘れない」
 時間の流れはきっと、緩急がある。緩やかなほど、体感的には早い。そういう仕組みになっているのだと思う。きっと、そうに違いない。
「さて、そろそろ時間です」
 センスパはそう言って立ち上がった。ハピマテは突然熱を出して倒れ、この世界を去っていった。しかしセンスパは具合が悪い様子はない。俺が
ハピマテのときとは、少し違うみたいだね」
と言うと、センスパは
「はい」
と頷いた。とても冷静な様子だ。これから別れを告げる雰囲気には、とても思えない。
「姉さんはこちらの世界を離れる際、それを心の中で拒んだ。だから、こちらの世界での"死"という無理矢理な方法が使われたんです。私はそうは思っていません。自分で、こちらを経ちます」
 そう言った後にセンスパは部屋の窓を開けた。風が入り込み、センスパのスカートと髪の毛を揺らす。ここは二階であるため、一階より周りの景色が多少はみえる。既に完全に夜景だ。
「ちょっとまって」
 俺はセンスパの後ろ姿を見ながら言う。
「今の俺と昔の俺、ハピマテがいたころの俺が決定的に違うのは、俺が中学生か高校生かということだ」
 そう言ってから俺は部屋の電気を消した。外からの光だけが入ってくる。暗闇の中でぼんやりと見えるセンスパの顔は俺の方をしっかり見つめていた。
「時間は少ししかないの?・・・・・少しでもいい。今の俺の身体なら、十分にすることができる」
 もちろんそれが現す意味は、一つしかない。俺はベッドの横を少しだけ開けた。最後にセンスパのぬくもりを確かめたい、と思う気持ちが、少しだけあったのだ。
「もちろん、センスパが望むのなら、だけど」
 続けた言葉をセンスパはちゃんと受け止めてくれたようだ。その後に少し考え込み、その少しの間に答えを出したセンスパは、笑いながらこう言った。
「遠慮しておきます」
 そう言いつつも笑顔のセンスパを見ていると、俺の顔にも笑顔が浮かぶ。
「そっか。それでこそ、センスパなのかもしれない」
 自分が馬鹿らしくなってきた。最後の最後に、俺は何を言っているのだろう。
 なにもかもが、儚い。
 電気が流れていない蛍光灯も、窓の外から入ってくる風も、俺も、センスパも、何もかもが――
「それでは、そろそろ――」
 センスパが言う。俺は無言のまま頷く。
「名残惜しいなぁ・・・・・」
 窓の方に背中を向けて、俺の方を見ながら立っているセンスパは呟いた。
「でも、行かなくちゃ」
 なんだろう。
 俺の頬を伝う、
 涙?
 その液体はもう流すつもりはなかったのに、
 だが、それが俺の中に残っていたことには、
 少し、感動する。
「ありがとう。それと、さようなら――」
 センスパの身体がからふわっと力が抜けたように見えた。その身体が後ろにのけぞる。時間がゆっくりと進む。俺は何も言うことができない。センスパは、笑顔だ。その笑顔の目からは、涙が止めどなく流れている。しかし、笑顔なのだ。
「楽しかった・・・・・」
 そう告げると、センスパは窓の外へ、頭から落下した。
 ここは、二階。
 少ししても、物が落ちるような音はしない。しかし、この場にセンスパはもういない。
 俺は窓の方に近づく。身を乗り出して外を見る。真下を確認しても、センスパの姿はない。少し横の方に目をやるが、やはりそこにはセンスパはいなかった。
 行ってしまったか――
 だが、そうであったとしても、俺はもう悲しまない。
 センスパは、ハピマテと共に俺に沢山のものをくれた。だから、悲しむ必要はない。それに、俺の部屋にあるセンスパのCDの存在を俺が忘れない限り、センスパは居なくなることはないのだ。そして俺は、それを死ぬまで忘れるつもりはない。
 死んでからも、ハピマテとセンスパ、この二曲が伝説として世の中に残り続けることを、俺は祈っている。
 だから、悲しむ必要はない。
 センスパは俺の記憶の中で生き続ける。そうだ、センスパのことを忘れるよりも、こうして俺の中でずっと生きている方が幸せなのかもしれない。それは俺の過剰意志だろうか。そんなことは、ないはずだ。
 今までありがとう、センスパ。
 そしてこれからも、ずっと、


 快濶であってくれ。




―― Fin…――


                  (70話掲載)


どうも、作者です。
残すところは最終話である70話だけになりました。そちらの方は、大晦日、12月31日にブログ掲載ということにしたいと思います(掲示板の方に貼り付けるのは、25日です)。
どうぞ最後までお付き合いください。

 妹さんの表情はいつも見せてくれた活気にあふれたものとはほど遠いものだった。現実を飲み込めることはできるが、それをしたくない、というような青ざめた表情は、月明かりだけでも確認できる。
「あ、あの――」
 俺はそう言いかけたが、その瞬間、妹さんははっと我に返ったような仕草をして、何も言わずに俺達に背を向け、そして走り去った。
「ちょっとまって!」
 彼女がそう呼び止めるが、妹さんは聞く耳を持たない。追いかけようか迷ったが、ここは無理に追いかけない方が得策だと、俺は考え、その場に立ち止まった。
「・・・・・どうしよう」
 妹さんの姿が見えなくなってから、彼女はそう呟く。俺が考えていたことと完全に合致していた。
 困った表情を浮かべている彼女を、俺は真剣な顔を見せながら、
「大丈夫、俺がなんとかする・・・・・」
と言って安心させようとした。が、俺自身の精神状態が安心とはほど遠いものだったため、それは叶わなかったかもしれない。
 しかし彼女はそんな俺の心境を察してくれたのか、無理に笑顔を作ると
「じゃ、じゃあ、今日は遅いから・・・・・」
と言って軽く片手をあげた。別れの挨拶なのだと認識した俺も
「うん、じゃあまた」
と返事をして、その場を離れ、家路についた。
 あのまま、妹さんに目撃されていなかった場合、彼女があの後、どんな行動をとるつもりだったのかは分からない。同じくそこで別れを告げていたかもしれないし、ひょっとするとホテルの中に俺を連れ込んでいたかもしれない。しかし、それも既に空虚な妄想にすぎなかった。


「ただいま・・・・・」
 俺はそう言って自宅のドアを開ける。中から
「お帰りなさい」
といつも通りのセンスパの言葉が返ってきたことで、俺は幾分安心する。
 部屋に入ってベッドの上に腰を下ろすと、センスパも俺の隣にすとんと座り、そして俺の方を見てから口を開いた。
「何をしていたんですか?」
「・・・・・」
 その質問に俺は答えない。否、答えるための言葉が見つからない。
 無言の俺に、センスパは更に鋭く問いを重ねる。
「告白されたんですか?」
 今度は無言で頷く。もちろん、イエスという意味のジェスチャーだ。
 するとセンスパは、意外な反応を見せた。
 ふっと、笑みを見せたのだ。
「良かったですね、おめでとうございます」
「え?」
 俺はセンスパの方を見る。センスパは、にっこりと笑って、ゆっくりと発音した。
「私、貴方のこと、心配していたんですよ。はっきり言いますが、貴方はもう姉さんとは会えません。だから、貴方が姉さんを忘れられないというんは、少々考え物だったんです。だから、貴方に新しい恋人が出来たということは、私も素直に、とはいきませんが、喜べることなんです」
「うん、ありがとう・・・・・。ごめん・・・・・」
 笑顔のセンスパを見て、俺はそれしか言うことができなかった。自分でも、何を言っているのか、よく分からなかった。


 あの後、俺は携帯で妹さんにメールをした。明日、会えないか、という内容のメール。妹さんからの返信は、夕方なら会える、という短いものだった。俺はその返信を見て、放課後に妹さんと会う約束をした。
 次に俺は彼女にもメールをした。妹さんと会って話をするから、心配しなくてもいい、という内容。彼女にメールすべきかは少し迷ったが、俺は考えた末、送信ボタンを押した。彼女からの返信も、簡略的だった。そうであって、内容は意味深でもあった。
『うん、よろしく。あと、ごめんなさい』
 その返信の意味を、俺は理解することができなかったがポジティブな方向で受け取ることにした。そうでないと、身体が壊れてしまいそうだったから。
 そして今、俺は妹さんの通学している中学校――俺の母校であるが――の校門の前で、妹さんが出てくるのを待っていた。最後のホームルームが終わる時間を大体記憶していたこともあって、あまり待つこともなく、妹さんが出てくる。三人の女子生徒と話をしながらその表情に浮かべている笑顔は、俺が見慣れたものであった。
 妹さんが俺のことに気が付いたようなので、俺は片手をポケットに入れたまま、反対側の手で挨拶をする。妹さんはとてとてと走ってくる。
「こんにちは〜。ごめんなさい、待たせてしまったみたいで〜」
「いや、大丈夫。待ってないよ」
 友達と思われる三人もこちらに歩いてくる。眼鏡を掛けた女の子が、
「え?何?もしかして彼氏?」
と妹さんに尋ねた。
 俺は少し動揺する。が、妹さんは至って冷静だった。
「ううん、違うよ〜」
 きっぱりとそう発言した。いつもの妹さんとは違う反応だと、俺は思った。普段なら、「えへへ〜」などと言って俺の手を握ってきてもおかしくないシチュエーションであった。
「それじゃ、行きましょう〜」
 妹さんは俺にそう言った後、友達に別れを告げて他の人達とは違う道へ歩き出した。何処へ行くとも決めていなかったが、俺は妹さんに従う。妹さんも、友達に今から起こるであろう事態を知られたくないのだろう。
 しばらくして、近くにある公園に到着した。俺は入り口に自転車を留めて、妹さんに着いていく。中にあった小さなベンチに妹さんが腰を下ろした。その隣に俺も静かに座る。
 1分ほどして、妹さんが重い口を開いた。ぽつり、という擬音が似つかわしいようなしゃべり方。俺が聞いたことがないような真剣な声だった。
「昨日はごめんなさい。私、なんだかわけが分からないことをしてしまって・・・・・」
「・・・・・どこから、見てた?」
 俺はなるべく優しい口調で尋ねる。それに、妹さんはうつむいたまま答える。
「多分、最初から・・・・・」
「そうか・・・・・」
 考えていた限りの、最悪の展開だ。だが、最悪も想定さえしてしまえば、そんなに悪いものでもない。人は想定外の事態を真に最悪と呼ぶ。
「じゃあ、聞いた通りなんだ。ただ彼女は一週間だけって言ったから、彼女が帰国してからは――」
「いいんです」
 俺が一晩かけて考えた台詞を、妹さんは途中で遮った。
「私、はじめからあなたのことは諦めていたんです。言いましたよね、たしか、遊園地で。だから、いいんです、気を遣わなくても――」
 妹さんの言葉は震えていた。震えていたが、一語一語、はっきりしていた。
「それなのに、なんだか泣きたくなっちゃうんだ・・・・・。なんで、なんででしょうね。なんだか、悔しくって・・・・・・。自分が、悔しいんです。諦めてたのに・・・・・。私なんて、可愛くなくて、変なことばっかり言って、学力だけ無駄にあって、背が低くて、ぺったんこで・・・・・、なんだか、もう嫌・・・・・」
「自分のことを卑下するんじゃない」
 俺は優しい口調で妹さんに言う。そして、その小さい肩に俺の手を乗せる。
「可愛くないなんて、そんなわけない。君は凄く可愛い。可愛いよ。だから、俺より良い他の男の子だって、すぐ見つかるし――」
 俺の言葉は、そこで中断することになる。妹さんが、俺の手を自分の肩から振り払ってベンチから立ち上がり、俺の方を振り向いたからだ。
「あなたより良いなんて、いないんです。だからこうして泣いてるんじゃないですか!」
 眉をつり上げ、目から涙をこぼしながら大声を出す妹さんの迫力に、俺は黙り込んでしまった。黙り込んだのと同時に、とても驚いた。ここまで感情的な妹さんは、初めてだ。
 泣いて、そして怒っている顔を見せたくないというように妹さんは振り返って俺に背を向け、制服の袖で涙を拭くと
「さよなら・・・・・」
とぽつりと呟き、走ってその場を去った。
「あ、ちょっと!」
 俺もそう言って立ち上がるが、妹さんは立ち止まろうとしない。公園の出入り口から出ていったその姿はすぐに見えなくなった。
 俺は黙ってその場に立ちつくすことしかできなかった。何かを考えることすら、できずにいた。



 それから、妹さんとは音沙汰なしだった。あの人が俺に対して何も問いつめてこないのは、妹さんが家では何もなかったような顔をしているのか、それともあの人が俺に対して何か尋ねるのは野暮だと考えているのか、そのどちらかであるものと思われるが、後者だった場合、なんとも俺の胸が痛む。
 そんな妹さんのことを引きずりながらも反面、俺の心の一部は興奮を隠せずにいた。
 今日は運命の日だ。
 カレンダーを見て、今日の日付をもう一度確認する。11月8日。そう、今日はいよいよやってきた、1000%SPARKINGの発売日だった。
 平日のため学校に行かなければならないが、放課後に時間がないわけではない。俺とあの人、それからあいつ、あの娘、彼女、そしてセンスパの6人は放課後の時間帯に駅前に集まる約束をしていた。目的はもちろん、他でもないセンスパ購入である。
 その日の授業は一つ一つがとても長く感じられたが、その憂鬱な授業もなんとか切り抜け、ホームルームが終わってから俺はすぐに教室を飛びだした。待ち合わせの時間に遅れそうだったということもあったが、早くこの手でCDを買いたい、という単純な感性もあった。
 あの人は冷静に俺の後ろをついてくる。ポーカーフェイスを保っているが、きっと彼もCDを手に取りたくてたまらないはずだ。
 ――あの人と二人で自転車をこぎ、駅前までやってきた。
 周りを探すと、すぐにその4人を見つけることができた。
「おせーぞ!」
といいながらも手を振っているあいつ。その横にあの娘と彼女、そしてセンスパが揃って立っている。
「悪い悪い、ホームルームが長引いちゃってさ・・・・・」
 俺はそういいながら無料の自転車置き場(つまり路上駐輪であるが)に自転車を置き、あいつの方へと歩いていく。あの人も俺と同じ行動をとった。
「じゃ、全部の店を回りきれなくなるから、さっさと行くぜ」
 そう言って、あいつは歩き出した。まず最初の目的地は駅に一番近いところにあるCDショップ。ハピマテ祭りをしていたときも、この店で大量にハピマテを買った記憶がある。
「いやぁ、懐かしいなぁ・・・・・」
「本当に、懐かしい――」
 あの娘と彼女が口々に呟く。俺も心の中で同意する。
「今も楽しいだろ?楽しまないと」
 あいつがそう言う。あの娘と彼女はあいつに対して、違う類の笑みを見せた。
 次に俺はあの人の方を見る。数秒で俺に見つめられていることに気付くと、あの人は俺に対して「どうしたの?」というような表情を作った。それが作った表情なのか、本当にそおう思っているのかは定かではない。が、少なくとも今日のところは、妹さんについての話題を出すことはなさそうだった。


 CDショップに着き、俺達は新譜の棚を探した。
 案の定、すぐにセンスパは見つかった。数列に渡ってセンスパが並んでいる。この店は、アニソンの品揃えが良いということで俺達の間でだけであるが、有名だった。
「よし、じゃあさっそく・・・・・。分かってると思うけど、1枚ずつレジに運べよ」
 あいつの忠告に頷き、俺達は一人一枚、CDを手に取る。
 センスパはそのジャケットをじっと見つめていた。自分で自分のことを見つめるというのが、不思議なのだろう。
 俺が予め預けて置いた五千円札をポケットから出すと、センスパが一番最初にレジに並んだ。
 各々、一枚目のCDを購入して、俺達はすぐさま二枚目に取りかかる。幸いなことに客は疎らで、このような買い方をしても他の客に迷惑をかけることはなさそうだ。
 ――と、そこで俺の視線が一点に集中した。隣にいるあの人も気付いたようだ。
「あれ?何してるの?」
 視線の先の人物も、俺達に気付いたようでこちらに向かって歩いてきた。
 控えめな色をしたフレームの眼鏡を片手で直す仕草が、もうお馴染みのものになっている、女史が学校で会った服装のまま、そこにいた。
 女史はあいつとあの娘、そして彼女の方を見ると
「なんだか初めましての人が多いようだけど・・・・・」
と言って、軽く微笑んだ。
「ども、こいつの旧友っす」
 あいつは俺の肩を叩いてそう挨拶した。
「初めまして。右に同じです」
と冗談めかした口調であの娘も挨拶し、にこりと微笑む。
 一方、彼女の方は
「あ・・・・・、えっと、あの・・・・・、は、初めまして――」
とたどたどしい挨拶。初対面の人と話をするのが苦手なその性格は、アメリカに行っても変わっていなかったようだ、と思うと、俺の表情に笑みが浮かんだ。なんとも可愛らしい。
「それでさ――」
 あいつの方は初対面だろうと気にすることなく、昔から友達だったような馴れ馴れしさで女史にすり寄った。それが、あいつの長所であると俺は思う。
 あいつは女史に、センスパ祭りについて簡単に説明した。あいつの話を時折相づちを打ちながら聞いていた女史だったが、あいつの話が終わると一言、
「面白そうね」
と言って、棚からセンスパのCDを一枚取り、俺達に見せると微笑んだ。
 一般人である女史にそんな話をして軽蔑されるのではないかと心配したが、女史は思った以上に快くあいつの頼みを承諾してくれた。まぁ、その場にあの人が同伴していたこともあるのかもしれないが。
 女史に対して、あいつはにかっと笑顔を見せた。昔の自分達を見ているようだ、と俺は心の中で呟いた。


 発売日にセンスパを購入し、帰宅してからしばらくすると俺の携帯がうなり声をあげた。
 彼女からのメール。内容は要約すると、『明日、デートに行こう』というようなものだった。俺はもちろん、OKの返事。彼女が日本にいられるのは一週間しかなく、もう3日が過ぎようとしている。彼女から告白されたのは良いが、それだけではなんとも言えない。
 一方、センスパのデイリーランキングの方はとても良いとは言えない結果だった。デイリー分ではあるもののモーニング娘に1位を明け渡し、微妙な順位からのスタートであったが、ハレ晴レユカイのときは初登場が10位以下であったにも関わらず、週間で5位を取ることができたのだ。それに比べれば悪くないスタートと言ってもいいだろう。
 俺の隣でオリコンのサイトを見ていたセンスパは複雑な表情を見せていたが、俺が励ましたことによって少しだけ笑顔を見せてくれた。そのことに一番安心したのは、他でもない俺であった。


 そして、翌日の放課後である。
 駅前で彼女と待ち合わせをする。俺が自転車で向かうと、既に彼女はそこにいた。きっと、待ち合わせ時間の15分前にはそこでそうして待っていたのだと思う。俺は授業の関係でぎりぎりにしか到着できなかったが、彼女はそういう人だ。
「ごめん、お待たせ」
「ううん、待ってないよ――」
 彼女はそう言って、にこりと笑った。その仕草が、とても可愛い。俺の心臓が一度だけ、大きく鼓動を打った。
 彼女は俺をCDショップに連れて行った。昨日、あいつ達と来た店だ。
「私、アメリカに帰るまでに、円のお金を全部使わないといけないから・・・・・。また、センスパ買おう?」
 彼女の口からそんな発言が飛びだすとは夢にも思っていなかったが、俺はなるべく驚いた表情を見せないように心がける。微笑んでから頷き、棚にあるセンスパを手にとる、という仕草を選んだ。それが彼女に対する最前の接し方だと思ったからだ。
 と、その時。
「よう」
と後ろから急に声を掛けられ、俺は仰天した。彼女もそれは同じだったようで、俺と彼女はほぼ同時に、後ろを振り向くという動作を取った。
 そこに立っていたのは見慣れた5人組。そう、花鳥風月の五人だった。各々の手には、センスパが一枚ずつ握られている。彼女はそれにまた驚いたようだが、俺は先日のライブの件があったので、その点には驚かずにすんだ。
「おっ、そっちの彼女は久しぶりだな。日本に帰ってたの?」
 花鳥風月の一人が、彼女の方を見て微笑んだ。キラースマイルと言って良いだろう。
「え・・・・・、あ・・・・・、あの、はい・・・・・」
という彼女の控えめな返事に奴は笑って
「ははっ、なに緊張しちゃってんの?俺が格好良すぎるから?なんつって」
と言うと一転、表情を変えて
「日本に帰ってきた機会に、俺の女になっちゃう?」
「え?あ・・・・・、その、えと・・・・・・」
 奴らのジョークを彼女は素直に本気で受け止めてしまったようで、たじろぎながら俺の腕にぴったりと寄り添った。無意識な動作なのだろうが、俺の鼓動が高鳴る。
 花鳥風月はそんな彼女の様子を見て、笑いながら言った。
「冗談だよ冗談!もうそっちの彼のお手つきなんだろ?」


 その後、奴らは
「俺達は他の店に行くぜ。いいか?着いてくるなよ?」
と言い残し、店を出ていった。彼女は不思議そうな顔で手を振りながらそれを見ていた。
 俺と彼女もCDショップを出ると、今度は俺が彼女をアクセサリーショップに誘う。きらびやかな店内は控えめな彼女には似つかわしくないようなグッズばかり置いてあり、俺は失敗したかと思ったがその中で一つ、良いバッグを見つけた。
「何か買ってあげようか?」
 俺はそう尋ねる。
「え?でも、そんな・・・・・、いいよ――」
 彼女はそう答えるが、それも予想済みのことだった。俺は彼女にほほえみかけ、その後に
「じゃあ俺が選んであげるよ」
と言って、目をつけていたバッグを手に持つ。彼女の表情を見る限り、それを気に入ったようなので俺は安心する。俺の物を見る目も冴えてきたようだ。
「あ、ありがとう――」
という彼女を見ていると、彼女の思いで作りにと思ってこの店に入ったが、かえって俺の思いでを作ってしまった、と俺はその時思った。


 彼女とのデートを終え、俺は帰宅する。楽しい時間を過ごしたと、自分でも思う。
一息ついたところで、コンピュータの電源を投入し、いつもの巡回サイトを廻る。センスパも床に自分のノートパソコンを弄っている。お互いに何も話そうとしない。つまり、沈黙。ハードディスクの回転音と、時折発生する発熱用ファンの音だけが部屋に響いている状況だ。
 センスパとこうして一緒にいられるのも、そう何日もない。それであってこの状況はいかがなものかと自分で思うが、どうもきっかけがつかめない。そのため、終始を無言を保っているのだ。
 と、その時、センスパがぽつりと口を開いた。
「――夜、出かけないんですね」
「え?」
 突然話しかけられ、俺は驚いた。振り向くが、センスパは自分のノートパソコンのディスプレイに集中しており、こちらを見ない。その状態で話しかけてきたようだ。
「どういうこと?」
 俺は再度尋ねた。センスパは無表情を保ち、その様子を変えることもなく
「ガールフレンドのところに」
と補足する。
「ああ・・・・・」
「出かけないんですか?」
 再び同じ質問を繰り返す。どういう意図でそれを聞いているのか、俺には分からない。否、分かってはいるのだ。しかし、理解ができないふりをしている。誰に対してなのかは、分からないが。
「出かけない・・・・・」
 自分でも弱気な口調になってしまったと思う。しかしセンスパはそんなことを気にする様子もなく、さらに行動を変えることもせずに
「そうですか」
と一言。そのあと、沈黙が訪れる。
「・・・・・俺って中途半端な男だろ?」
 躍起になった発言だった。言ってから反省する。
 センスパもそんな一言に、一瞬だけ黙り込んでから
「そんなことないですよ」
と言って手を止め、初めて俺の方を見た。その目は何かを訴えるような視線で、しかしその表情に乱れはない。
 その反応に呆気にとられている俺相手にセンスパは続ける。
「中途半端って悪いことじゃないですよ。だってその後、どの方向に行くこともできるんですから」
 そう言ってからセンスパはコーヒーを一口すすった。その後、コーヒーカップを置くと、その場を立ち上がり、ベッドに腰掛ける。自分の身体をパソコンから遠ざけようとする仕草のようだ。つまり、俺との話に集中したいという意思表示であった。
「いいですか、前も言いましたが、私は貴方のことが好きです。愛しています」
センスパが突然言うので俺は驚くが、表情には出さない。
「だから、貴方の全て、どんな部分も好きになれます。でも、でもね――」
 そこで一度、言葉を句切る。次に出す言葉を選んでいるような様子。俺も黙って話が再開されるのを待った。それが最善策のはずだ。
「でも、それはみんな同じなんです」
 センスパは1ミクロンも表情を動かさずに、続けた。
アメリカからの彼女も、妹ちゃんも、姉さんも、貴方の全てを好きになれると思っているはずです。だから私はそのことで自慢もできませんし、それをアピールポイントにすることもできません。ただ、私達、つまり、貴方のことが好きな女性はみんな、貴方の全てを受け止める覚悟ができていること、それを忘れないでください」
 俺は何か言おうと口を開く。が、言葉が出てこない。
「だから――」
 俺が言葉を発するより前に、センスパが言葉を継いだ。
「そのことを忘れてただ一人しか見ずに、他は気にならない。他のことを考えられない。そのくせ自分で中途半端という――。それは、全員を代表して私は、許しませんよ?」
 強い口調ではなかった。しかし、威圧感は十分だった。センスパの言葉が身に染みる。たしかに俺は彼女をいかに楽しませるか、自分も一緒に楽しむかということしか考えていなかったかもしれない。だから、妹さんの気持ちを考えないようなことを本人に言ってしまったのかもしれないのだ。そんな俺のせいで妹さんが悲しんでいるであろうことは、考えるまでもない。
「・・・・・改めて訊きますけど、貴方が今、好きな人は誰ですか?」
 センスパの問いは、先ほどと種類が違うようだった。今回の問いは、センスパ自身が答えを欲している。そんな雰囲気がした。
 だが俺は、少し考えた後、ぽつりと答えてしまう。さっきから自分の何に自信がないのか分からないが、何故、こんなしゃべり方になってしまうのだろうか。
「・・・・・・分からない」
 センスパに対して良い答えになったとは、思っていない。



 12日の日曜日。彼女がアメリカに帰米するその日、俺と彼女はお馴染みとなった遊園地にいた。
 彼女が乗る便は夕方に日本を発つため、午前中はフリーであった。俺と彼女がこの遊園地を最後のデート地として選んだのは、彼女の方のリクエストだ。その頼みに、俺は快くOKを出した。
 ベンチに座って、売店で買ったクレープを食べる。隣に座る彼女は心なしかいつもよりめかし込んでいるように見える。
「美味しい――」
 彼女が言った。
「この納豆味っていうのはあんまり美味しくないな・・・・・」
「ふふ、そんなの頼むからだよ――」
 俺はそう言って笑う彼女の顔を見る。この笑顔とも、もうすぐ別れを告げなければならないと思うと、何故だかもの悲しい。ずっと日本にいてくれたらいいのに、と思うのは自然なことなのだろうか。
「ほっぺにクリームついてるよ」
 彼女はそう言うと、俺の顔にその繊細な指を近づける。そして俺の頬からクリームを拭うと、それを自分の口に運んだ。
「あ、ありがとう」
 その仕草に俺の中にまた感情が芽生える。今日の彼女は何処となく積極的だ。少なくとも、俺の目にはそう見える。目の前にいる彼女がもう一度、微笑んだ。とても魅力的だ。


 いくつかのアトラクションに乗り少し休憩した後、俺は彼女に言う。
「次はこれに行こうか」
「あ、うん、いいよ――」
 新しく出来たばかりのアトラクションで、2人乗りであるトロッコ型のコースターに乗り、隠された財宝を探す、というストーリーで進んでいくものだ。アップダウンが激しく楽しめると雑誌に載っていたのを思い出した。
 対して列も出来ておらず、俺と彼女はすぐにそれに乗ることができた。
 思ったより内部は暗く、左右の壁から圧迫感がある。
 トロッコが動き出した。
 きらきらと光る財宝を形取られたものや、財宝を狙ってその途中で息絶えたのだろうか、と想像させる骸骨などのが周りにおいてある。それには触れることができるが、持ち帰ることはできないように出来ていた。
 彼女は時々加速するトロッコに小さい悲鳴を上げたりしながら、俺の顔をのぞき込んだ。
「大丈夫・・・・・?」
 俺も自分で気付いていた。調子がおかしい。こんなところで自分の症状が現れるとは思っていなかった。暗いと言っても、まっ暗なわけではない。それなのに、何故、今・・・・・。今は大切な時なのに・・・・・
 その先を進むと、俺の調子は徐々に悪化していった。自分で意識すればするほど、そうなる。彼女も心配そうな顔で終始、俺の表情をのぞき込む。俺はそのたびに無理して笑顔を作ろうとしたが、無駄な努力だった。
 そうしているうちに、トロッコは終了する。最終的に大きなアップダウンは存在せずスリルはそれほどなかったが、それでも俺の体調は回復していない。
 外のベンチに俺達二人は座る。彼女は俺の頬に手を当てると
「大丈夫?」
ともう一度尋ねた。
 俺は頷くが、自分でも大丈夫でないことは分かっている。彼女が
「顔色悪いよ・・・・・?」
と言うと、俺の前髪を上にたくしあげ、そしてお互いの額同志を密着させた。当然だが、彼女の顔が近い。ほとんどキスと同じ。俺はそれだけで体温が上昇するような気がした。
「ちょっと熱あるみたい・・・・・」
 彼女がそう言ったので俺は驚く。
「え?本当に?」
「うん、私、向こうで看護専門の単位取ってるから――」
 彼女はそう言うと自分の姿勢を正した。
「横になって少し休んだ方がいいかも・・・・・」
「いや、大丈夫だよ」
「だめ・・・・・」
 彼女の控えめな制止も聞かず、俺は立ち上がろうとした。
「でも、横になる場所もないし・・・・・」
 そうは言うが、立ち上がってから立ちくらみがして、俺は再びベンチに腰を下ろした。彼女も心配そうな顔で
「ほら、やっぱり・・・・・」
というと、自分の膝の上に乗っていたバッグを横に除けた。俺がプレゼントしたものだ。
「ここに横になって・・・・・、いいよ・・・・・?」
「・・・・・え?」
 拍子抜けしている俺のことを、彼女はじっと見つめる。
「で、でも・・・・・」
「いいから」
 そう言う彼女は、ほんの少しだけ強い口調を見せた。ほんの少しでもこんな反応を見せる彼女に、俺は驚くが表情にそれは出さない。
 俺は控えめに
「うん・・・・・」
と言ってから、ゆっくりと横になる。膝枕状態。彼女の良い香りが俺の鼻を刺激する。こちらを見下ろして心配そうな顔をする彼女を見ているうちに、意識をしていないのに瞼が下がる。そして、目の前の光景が暗闇に変わって――


 再び目を開いた時、彼女は俺が目を閉じた時の姿勢のまま、目の前にいた。俺は急いで起きあがり時計を確認する。驚いたことに、あれから一時間以上が経過していた。
「ご、ごめん!俺、すっかり寝ちゃって・・・・・」
「いいんだよ――」
 おっとりした口調で彼女は言うが、寝ている俺を一時間も膝の上に載せていたのだ。その負担は、かなり大きかったはずである。しかし彼女は全く気にしている様子を出さない。
「具合はどう?」
「ああ、うん・・・・・、おかげで気分も良くなったよ」
 そう言ってから、俺は立ち上がってみる。先ほどのような立ちくらみはもう起こらない。彼女も立ち上がると、俺の額に真っ白なその手の平を当てた。
「うん、まだちょっと微熱があるけど・・・・・、大丈夫みたい。良かった。それが一番だから」
 そうは言っても、デートの時間はほとんど残されていない。俺は少し慌てた。最後のデートだったのに、相手にこんな思いをさせるなんて俺は最低な男だ。
「私は大丈夫だってば――」
 彼女はにこりと微笑んだ。その仕草にうっとりしている暇はない。俺はもう一度時計を確認してから、
「何かに乗ろうか」
と尋ねた。
「じゃあ――」
 俺の問いに彼女は少しだけ考えてから、この遊園地の中で一番目立つアトラクションを指さした。
「観覧車・・・・・」
「OK」
 その答えをある程度予想していた俺は、彼女を見てから微笑んだ。


 様々な思い出があるこの観覧車だが、今のところ俺の身体に異常は起こっていない。異常など起こしてたまるかと俺は自己の精神を安定させようと努めた。
「私、看護士さんになろうと思ってるんだ――」
 ゴンドラが観覧車のほぼ頂点に達したとき、今までの話題が尽きたところをすかさず彼女はそう言った。ほとんど呟きに近かったと思う。
「ああ、だから・・・・・」
 だからさっき、看護専門の単位を取っている、と言っていたのか。俺は心の中で言葉を続ける。病人の看病も手慣れていたはずだ。
「だから今、いろいろ勉強中で――」
 彼女は少しうつむいて、顔を赤らめた。自分の夢を他人に話すことが恥ずかしかったのだろうか、と俺は想像する。そんな彼女の気持ちを察して俺は
「俺も応援するよ」
となるべく優しい口調で言い、彼女の表情を伺った。
 彼女は俺の言葉に少し黙り込んだ後、顔を上げ、俺の顔をしっかりと見据えると一度言葉を飲み込み、その後、少しだけ重い口を開いた。
「・・・・・私が、アメリカに帰っても応援してくれる?」
「もちろん」
 俺がすぐそう答えると、彼女の顔に再び笑顔がよみがえった。


 観覧車を降りてから、俺はすぐに園内のガイドマップを開いた。
「次は何処に行きたい?」
 そう尋ねると彼女は少しだけ考え込んで、園内にあった時計をちらりと見ると、ぽつりと何かを呟いた。
「え?何?」
 上手く聞き取れなかったため、俺はそう訊く。彼女は少しだけ声を大きくして、もう一度繰り返した。
「空港・・・・・」


 空港に帰る途中の電車。俺と彼女は空いている座席に座っている。会話は、ない。無言の空気が続く。どちらからとも話を切りだしにくい雰囲気と言うのが適切な表現だろう。
「もう具合は大丈夫?」
 その空気に耐えかねた彼女が俺に尋ねる。
「え、ああ、うん。おかげさまで――」
「そう、なら良かった・・・・・」
 俺が答え、彼女が応じる。それで会話終了。無言の再来。この空気は、なかなか辛いものがある。それは彼女も同じであることは分かっているが、そうであっても俺は何か話題を提示することができない。
「私が帰ったら――」
 彼女が突然、言葉を口に出したので俺は少し驚いた。が、その内容にさらに驚くことになる。
「私が帰ったら、私のこと、忘れてもいいよ・・・・・」
「・・・・・え?」
 俺が声を出した時、電車がちょうど駅に到着した。ドアが開く。彼女は俺の疑問符が聞こえなかったかのように立ち上がると
「さ、降りなききゃ――」
と言って、俺の手をひいた。俺はされるがままに、電車から降りた。


 空港のロビーには既にメンバーが揃っていた。メンバーというのは、あいつ、あの娘、あの人、そしてセンスパのことである。彼女を迎える時にいた妹さんは、その場にはいない。俺と彼女のキスシーンを目撃してしまったのだ。当然と言えば当然だろう。
 飛行機の搭乗時間まではあと20分ほどある。それを俺が腕時計で確認したところで、あいつが
「これでお別れかぁ・・・・・、ま、元気でな!」
としんみりした口調で言った。彼女は笑顔でそれに頷く。
「・・・・・それで、ちょっとお願いがあるんだけど良いかな」
 次にあの人が言葉を発した。彼女は
「なに?」
と言ってあの人の方を見る。あの人はポーカーフェイスを崩さずに、続けた。
「妹がさ、今日は来れないっていうからパソコンのメールアドレスがあれば、教えてほしいそうなんだ。メールなら日米間でも無料だからって。お願いできる?」
「いいけど――」
 彼女はそう言いながらバッグからメモ用紙を取り出すとさらさらとペンを滑らせ、それを切り取って二回折り畳んだ。
「あの、妹さんに見せるまでこのメモ帳開かないで?その、つまり、妹さんにだけ見せてほしいの・・・・・。失礼なお願いだけど・・・・・、いい?」
 あの人は彼女からメールアドレスが書かれているメモ用紙を受け取るとそれを開かずにポケットにしまって
「OK、約束する」
「あ、じゃあ俺にも教えてよ」
 あいつが名乗り出た。あの娘と俺も
「私にも教えて?」
「じゃあ俺も――」
と便乗する。が、彼女は自然な仕草で右手人差し指を口の前に持ってくると、上目遣いで
「みんなには、教えられない・・・・・、理由は言えないけど・・・・・、ごめんなさい・・・・・」
と、申し訳なさそうに謝った。そのそぶりが魅力的すぎて、俺は頷かざるをえない。それはあいつも同じのようだ。彼女の言うことに関して深い散策は無用である。世の中の7割の男は、この場面に立たされたらそう思うはずだ。


 そしてまもなく、時間になった。交わしていた談笑もしだいにしんみりとしてくる。俺は時計を確認する。搭乗時間まで、あと3分ほどになっている。
 あいつ、あの娘、あの人、そしてセンスパが口々に別れを告げる。その一つ一つに、彼女は「ありがとう」と微笑んだ。
 最後に俺が残る。あいつが意味ありげに俺の肩をぽんと叩いた。俺は一歩前に、つまり彼女に近くに来て、
「あの・・・・・、向こうに行っても頑張ってね」
とたどたどしく言った。何も言葉を考えていなかったことを少し後悔する。それでも彼女は
「うん、ありがとう」
と微笑んでくれた。
 俺は、頭に思い浮かんだ言葉を言うかどうか、少し迷った。迷ったが、俺は口を開く。
「あのさ・・・・・、俺、君のことを忘れたりしないよ、絶対に」
「・・・・・」
 先ほど電車で、「私のこと、忘れてもいいよ」と言われたことが俺の頭の中に鮮明に残っていたのだ。彼女は俺の言葉に、黙り込んでしまう。そんな彼女に、俺は続けた。
「でも、君のことをずっと引きずったりしない。それで、良い?」
 この言葉に、彼女の顔が少し、明るくなったような気がした。
「・・・・・うん、そうでいてくれれば、嬉しい」
 やはり、と俺は思った。彼女は、自分が原因で俺が変わってしまうことを恐れたのだと思う。と、いうより、優しい彼女はそれを心配してくれていたのだ。そのため俺はその言葉を選んで使った。それは、吉と出たようだ。
「ありがとう、楽しかったよ」
 俺は最後にそう付け加えた。
 そのとき、アナウンスが鳴った。搭乗開始のアナウンス。いよいよこれで、彼女ともお別れだ。俺の本心が心の中でそう呟いた。
 彼女はそのアナウンスを聞いて、寂しそうな表情を見せる。それは、俺達も同じだったはずだ。しかし無情にも、アナウンスは言葉を繰り返す。
 連絡の声が聞こえなくなったところで、彼女は俺の方に近づいてきた。
 俺は何が起こるのか、全く分からなかった。本当に。
 そして、彼女は目を閉じた。
 時間が、止まった。
 彼女は俺の頬をその両手で優しく包むと、ゆっくりと形の整ったその顔を近づける。俺は驚いたが、どうすることもできない。彼女はそのまま、その唇を、俺の唇に密着させた。
 人目を気にしない、長い、ロマンティックなキスだった。
 5秒ほどだったのだろうが、非常に時間が長く感じられた。そして彼女が見せた、今までで一番積極的な行動に、俺は少なからず感動していた。そのキスはとても深くて、クリーミィで、完璧だった。
 彼女は顔を離す。そして、恥ずかしそうに、しかし最高の笑顔で微笑んだ。
 そのままゲートの方に向かっていく。俺もそちらへと歩く。気を利かせているのか、他の4人はついてこない。
「さよなら・・・・・」
 彼女はそう言って、片手をあげ、ひらひらと振る。俺も同じ動作をとる。
 そして彼女は最後に一言、付け加えた。
「またね――」



 運命の日である。
 今日は、運命の日だ。それは何かというと、つまり、センスパのウィークリーランキング発表日。それが、今日だ。
 去年、ハピマテはウィークリーの発表日にいなくなってしまった。自分が1位になれなかったことを確認したかのように、俺の前からいなくなってしまった。それを基本として物の世界が動いているとすれば、センスパも今日、俺の前から消えてしまうことになる。
 しかしセンスパは、今日が運命の日だということを忘れたかのように、普段通りの生活をしていた。いつものように早起きをして寝坊の俺を起こし、朝ご飯を一緒に食べ、そして俺を高校へと送りだしてくれた。
 高校で授業を受けている最中も、俺の魂はその場になかったようなものだった。センスパのことが気にかかった。もしかしたら、俺が家に帰るともうセンスパはいないのではないか。その不安を抱えたのは二度目だったが、今回はその可能性が大きかったこともあって、俺は心臓が締め付けられる思いだった。
 不安な授業を終え、俺は全速力で自転車をこいで家に帰った。
「ただいま」
 そう言って玄関のドアを開ける。中からは、これも普段通り
「おかえりなさい」
という鋭く洗練されたようなセンスパの声が帰ってきた。俺はひとまず、ほっと胸をなで下ろす。
「今日は早かったんですね」
 センスパはそう言って、顔を出した。何故かエプロンを着ている。そのことを俺が尋ねると、センスパは
「クッキーを作ってみたんです」
と答えた。俺は急いで靴を脱ぎ、家に上がる。ダイニングに入ると、甘い良い匂いが部屋中にたちこめていた。
「これなんです。本を身ながら作ったので、美味しいかどうかは分からないんですけど・・・・・」
 そう言ってセンスパが差し出したクッキーはちょうど良い焦げ目がついており、手作り感があふれ、とても美味しそうだった。
「じゃあ、いただきます・・・・・」
 俺はそう言ってそれを一つ口に運ぶ。そして、
「うん、甘くて美味しい」
と笑う。その言葉に、センスパもにっこりと微笑んだ。


 夜になり、俺とセンスパはいつものように部屋に入って、テレビを見る。否、テレビはただかけていあるだけで、二人ともそちらに目はやっていない。センスパは自分のノートパソコンでブラウジングを楽しんでいるようだったし、俺は読めもしない分厚い本に目を滑らせていた。
 俺は時計を確認する。ウィークリーランキング発表まで、あと1時間もない。
「あの」
と、センスパが控えめに俺に話しかけてきた。俺は回転椅子で後ろを向き、センスパの方を見る。
「なに?」
「また、質問していいですか?」
 そういうセンスパの顔は、真剣だ。
「何の?」
「この前と同じ質問です」
「・・・・・いいよ」
 俺は短く答える。センスパからの質問はほぼ100%、予想できていた。そしてその答えもほぼ100%、固まっていた。そしてセンスパの口からは、予想通り、一字一句違わない質問がゆっくりと飛びだした。
「貴方が今、好きなのは、誰ですか?」
 俺は黙り込んで、考えていた回答を頭の中で繰り返す。散々考え、センスパのことを待たせた末に導き出した答えが、これだ。
「彼女と妹さんとセンスパと――、それから、ハピマテ
 俺の発音は、今までにないくらいはっきりしていたと思う。それが、俺の意志の強固さを表現していたはずだ。
「こんな答えで納得するとは思わないけど――」
と俺が口に出すと、センスパは
「いえ、納得しました」
と言って、笑った。
「私が想定していた中で、最善の答えです」
 そう言った後、センスパはリモコンを使ってテレビの電源を消し、次に自分のコンピュータの電源を切った。騒がしかった音声がとたんに排除され、無音が訪れた。
「良かった・・・・・、これで貴方のために、これをすることができます――」
「・・・・・え?」
 センスパは意味深にそう呟いた後、俺のコンピュータの方を見る。すると、触れてもいないのに自然にその電源が入る。俺は驚くが、センスパは表情を崩さない。
 ハードディスクが回転し、OSが読み込まれる。そして見慣れたデスクトップが現れる。
 俺は何も操作しない。センスパが無言の視線で「触るな」と訴えかけていた。
 完全にデスクトップが現れると次にコンピュータはソフトウェアを1つ自動起動する。スカイプという音声通話ソフトだ。俺はそんな設定をした覚えはない。
 そして、コールがかかった。コンピュータは自動認識し、操作をしていないのにそれを受信する。
 次の瞬間、スピーカーから音声が発せられた。
 忘れるはずもないその声に、俺は息をするのを忘れるほど驚いた。
 一瞬で自己をコントロールすることを覚えた俺は振り返り、センスパの方を見る。
「・・・・・俺、喋っていいの?」
「はい、どうぞ」
 センスパに言われ、俺は絶対に使わないだろうと思っていたハンドマイクを録りだし、コンピュータのプラグに差し込む。ぶつり、という鈍い音がして本体がそれを認識した。
 息を吸う。呼吸を整える。
 そうした後に、俺は通話相手に話しかけた。
 ゆっくりと、
 通常の声を装って。
ハピマテ・・・・・、なのか?」


 俺の周りで渦巻いていた時間が止まったかのように思われた。
「聞こえる?聞こえるのね?」
という声が、スピーカーから響いている。その声は紛れもなく、1年前、俺が愛した女の子、ハピマテのものだった。
「うん、聞こえてるよ」
 俺はマイクに向かって話す。声が震えているのが自分でも確認できる。自分の鼓動の高鳴りが、確かに確認できる。
「良かった・・・・・」
 スピーカーからの声がそう言った。システムトラブルが起こらなくて良かった、という意味のようだ。そして、声の主は続けた。
「久しぶり。私、ハピマテだよ。覚えててくれたみたいだね」
 ハピマテだ。間違いない。俺の記憶に刻みついているハピマテだった。俺はつい、
「ど、どうして・・・・・」
という声を漏らした。その俺の声に、ハピマテが答えを出す。
「センスパのおかげだよ」
 そこで一度、含み笑いをする。懐かしい、笑い声だった。
「センスパがいろいろ申請書とかを出してくれたんだ。私にはよく分からないんだけど・・・・・。だからこうやって、少しだけだけど会話ができることになったの」
「・・・・・そうなんだ」
 俺の顔が、ふっと笑顔になる。さっきまではこわばった表情をしていただろう。それの力が、一気に抜けた。
「本当に久しぶりだ」
「うん、なんか照れちゃうな」
 それは俺も同じだよ。そう言おうとした時、
「15分だけです」
とセンスパが言った。冷静な声だ。
「今からだと、あと13分25秒ですね。話は急いだ方がいいです」
 俺はセンスパに礼を言って、マイクを握り直す。
「しっかりものの妹でしょ?」
「まったくだ」
 俺はそう言って笑った。
 その後、少しだけ沈黙があった。お互い、話題を探しているようだった。
「私は全然寂しくなかったよ」
 ハピマテが言う。
「あなたが頻繁に私を聴いてくれてたから」
「俺は寂しかったよ、ハピマテに会えなくて」
 俺の言葉に、ハピマテは一瞬、一瞬だけ次の言葉を言うのを躊躇した。が、言葉は続いた。
「・・・・・私も本当のこというと、寂しかったな」
「当然だよ。そうであって、当たり前なんだ」
「でも今、私、幸せだよ?」
 その言葉を聞いて、俺は笑った。
「俺もだ」


「そっちの世界はどんな感じなの?」
 少し会話を続けてそれが途切れたのを見計らい、俺は尋ねる。
「うーん、そっちの世界とは形そのものが違うから、説明しにくいんだけど・・・・・。妹ができてから、凄く楽しかったよ」
「それは良かった」
「・・・・・私ね、あなたのこと、一回も忘れなかったよ?」
 ハピマテが声を少しだけ変える。きっと、意図的なものではなかったと思う。俺が
「もちろん、俺もさ」
と答えると、向こうは安心したような口調で
「良かったぁ・・・・・」
と優しい声を漏らした。その声が懐かしい。何もかもが、懐かしい。
「大好きだよ、ハピマテ。今でも」
「私も大好き」
 二人で改めて、愛を確かめ合う。
「絶対私はこっちでも死なない。ずっと、あなたを覚えてる」
 そのしっかりとした声で、スピーカーごしにハピマテの表情が分かるような気がした。こちらの世界にいる間、何度も見せてくれた、あの気合いに満ちあふれた表情をしているのだと思う。
「ねぇ・・・・・、抱きしめて?」
 ハピマテが細い声で言った。
「どうやって?」
「私のCDを、ぎゅっと抱きしめて・・・・・」
「分かった」
 俺はCDラックに大事にしまわれていたハピマテを取り出した。全ての始まりだった五月度。俺はそれを、目を閉じてから抱きしめた。
 無機質のプラスティックから、何故か暖かみを感じる。スピーカーから声はしない。しないが、きっとハピマテも俺の暖かみを感じてくれているはずだ。
「・・・・・また、会いたいよ」
「俺も、会いたい」
「会えるかな?」
 不安そうなハピマテを、俺は
「大丈夫、ハピマテは歴史に根付いてずっと生き続けるんだ。だから、きっと会える」
と言って励ました。ハピマテの笑い声が聞こえる。それだけで、俺は幸せだった。
「あ、もう――」
 ハピマテが声を漏らす。
「なに?」
と俺が尋ねても、ハピマテはそれに対して答えを出さない。その代わりに、こう言った。
「――ありがとう」
「え?」
 俺は再び聞き返した。が、ハピマテにそれは届いていないようだった。
「・・・・・大好き」
 接続が、切れた。
 コンピュータが自動でシャットダウンを始める。放心している俺に、センスパがはっきりと鋭く発音した。
「時間です」


 それからどのくらい経っただろう。時間の流れさえも感じられずにいた俺がはっと気が付くと、既に時間がきていた。
 俺はコンピュータの電源を入れて、オリコンのサイトを開く。マウスを操作してウィークリーランキングのページを表示した。結果の画面にはまだ先週のものが記されている。
 手招きをしてセンスパを呼んだ。センスパが俺の隣に来たのを見てから、時計の秒針を確認する。この日のために買った電波時計だ。
 そしてその時間になったとき、俺は更新ボタンを押した。俺とセンスパの視線は、画面に釘付けだった。


           (62話から69話まで掲載)

「郵便でーす」
 花鳥風月のライブから一週間後の日曜日。俺は一階の方から聞こえるその声とインターホンの音で目を覚ました。
 時計を見ると午前8時。起きあがってもう一つあるベッドの方を見る。いつも早起きのセンスパが珍しくまだ眠っていた。
 俺は手近にあったパーカーを羽織り、急いで一階に降りていく。
「お待たせしました・・・・・」
 そう言って玄関のドアを開け、郵便配達員を招き入れた。俺は小包を受け取る。
「速達ではなかったのですが、国際便なので直接お渡ししておきますね」
 配達員はそう言って笑顔を見せた。営業スマイルだろう。
「ありがとうございます」
 こちらも形式に反った挨拶をすると、配達員の男は自分の帽子をちょいとあげて会釈するとバイクに乗って去っていった。
 国際便。確かさきほどの男はそう言った。小包の宛名の部分を見ると確かに二種類の書き方をされていた。つまり日本語と英語だ。JAPANという文字に下線が引いてあるその書き方は、明かに国際便だ。
 俺はそれを持って二階に上がる。宛名には俺の名前が記載されていた。俺は海外に友人を持った覚えがない。否、一人だけ、いた。
 アメリカへ行ってしまった中学時代の友人。友人と表すのも少し気が引けるのだが。
 自分の部屋のドアを開けてから、俺は小包の裏側をちらりと見た。
 やはり、そうだった。
 そこには中学時代に付き合った経験がある、彼女の名前が記されていた。
「あれ、私・・・・・、寝坊しちゃった・・・・・」
 センスパが眠そうな目を擦りながら身を起こした。
「休みの日に8時起きだったら寝坊じゃないよ」
 俺はセンスパの方を見ずにそう行った。もちろん視線は、小包に向けられているのだ。
「郵便ですか?貴方宛に?」
「うん、そう」
「誰からですか?」
アメリカに引っ越した友達・・・・・」
 俺ははさみを探して小包の封を開ける。そんな俺の様子を見ながらセンスパは
「もしかして、前に付き合っていた方ですか?」
と尋ねてきた。俺はそれに無言で頷いた。無言になったのは、封を開けることに集中していたからだ。
 一番始めに出てきたのは小さな絵はがきだった。目を見張るような大自然の写真がプリントされている。説明文が英語で書いてある。俺が持っている語学力の総力を結集させて読んでみたところ、アメリカの某州にある自然のようだ。
 前略、と始まるその文面は、当然ながら全て日本語だ。俺はほっと胸をなで下ろしながら、それに目を通す。
  ――前略、お元気ですか?しばらく手紙を出すこともできずにいて、すみません。私は元気に過ごしています。こちらの生活にも、慣れてきました。はがきの写真は私の住んでいる州にある場所です。綺麗でしょう?
 彼女らしい丁寧な文面は、俺の顔に自然な笑みを産む。センスパが横にすり寄るように近づいてきたので、俺はセンスパにもそのハガキを見せる。
  ――こちらの学校の授業でセーターを作ったので送ってみました。サイズが合うと良いけど、もし合わなかったらごめんなさい。
 小包の中に入っていたセーターを俺は取り出した。淡いブルーの優しい色をしたそれは、俺の身体にぴったり合っていた。
  ――今の日本ではどんなことが流行しているのだろう、と考えるのが楽しいです。こちらは比較的温暖な気候なので、その点では戸惑うことはありませんでした。英語もこちらに来てから大分覚えました。
 もともと彼女は頭が良かった。中学ではあの人に継いでナンバー2を三年間守り抜いたほどだ。語学の点では困ることは何もなかったのだろう。
 その後にもアメリカでの生活の様子が綺麗な文章で綴られていた。そして最後に、こう締めくくられてた。
  ――今度、そちらの時間の11月5日の日曜日に日本に一時帰国します。そちらにも寄るので、よろしくね
 そして英語での署名。俺はその部分だけを、3回繰り返して読んだ。
 読んでから、一度溜息をつく。もちろん、感動の溜息だ。
「――いつ帰ってくるかは書かれていませんね」
 センスパの言葉に俺は頷いた。
「この近くに空港がありますよね。帰ってくるのはそこでしょうから、ネットで調べれば何時何分着の便で帰ってくるか、分かると思います」
 センスパの仕事は早い。既にノートパソコンの電源を入れている。
 俺はセンスパに、その絵はがきに書かれていた州の名前を伝える。キーボードを叩く音が心地よい。少ししてからセンスパが口を開く。
「その日に向こうの空港を出て、こちらの空港に到着する便は一つしかありませんね。11月5日14時33分着の便です」
 機械的なその言葉だったが、暖かみが籠もっていた。少なくとも俺はそう感じた。
 俺はまず、そのことをあいつにメールで知らせる。あいつからの返信はすぐに来た。迎えに行こう。それだけの内容だった。
「私も一緒に空港に行きたいです」
 そう言ってすがるような目をするセンスパに、俺は笑顔を向けた。
「OK」
 今なら、大抵のことは許してしまいそうな気分だった。


 それから、あっという間に一週間が経った。彼女がアメリカから帰ってくる日を前日に控えた土曜日。休日だというのに珍しく早起きした俺は、ある程度そわそわしつつも適度に平静を保っていた。
 その日、朝食を食べ終えるとセンスパがすごすごと俺の方にすがり寄ってきた。どことなく子猫を連想させるその動きは、なんとも言えず愛らしい。
「あの、実はこの前に新しい服を自分で選んで買ったんですけど・・・・・、見てくれますか?」
 いつの間にそんな買い物をしたのだろうと思いつつも俺は頷いて
「いいよ」
と返事をする。
 俺の返事を聞いてから安堵したような表情を見せた後、とたとたと階段をのぼって俺の部屋に入っていったセンスパは数分後、かちゃりと静かな音を立ててドアを少しだけ開けると、二階から俺を手招きした。
 俺も階段をのぼり、部屋に入る。そこに立っていたセンスパは、まるで別人のような風貌をしていた。つまり、いつもに増して可愛かったのは言うまでもないが、可愛い、のジャンルが違ったのだ。
 いつものTシャツの上に申し訳程度にフリルがついた、ライムに近いパーカーを羽織り、下半身にはチェック柄のミニスカート。今まで、あまり露出を好まない格好をしていたセンスパが着ていると新鮮な印象を持つようなファッションスタイルだった。
「どうですか?」
 少し上目遣いのセンスパが尋ねてくる。俺は少しだけ微笑んだ。
「うん、似合ってるよ」
「本当ですか?」
「うん」
 センスパは少し照れながらも足を使ってくるりと一回転した。スカートが捲れ上がりそうになる。際どい。そうしてからセンスパは、恥じらいを残しつつも続けて尋ねた。
「じゃあ・・・・・、可愛いって、思いますか?」
 センスパにしては大胆な発言だったと思う。俺はそのことに驚いたが、今度はにっこりと笑顔を作った。
「うん、可愛いよ」
 紅潮していたセンスパの頬が、ますます赤くなった。冷静な言葉とは裏腹に表情は冷静を保てていない。
 センスパはその後少し、躊躇を重ねていた。しかしふとしたタイミングで何か決意をしたような表情を見せ、その後に俺の方をまっすぐ見据え、そして言った。
「じゃあ、その・・・・・、これから一緒にデートしてくれますか?」


「美味しい?」
「はい、美味しいです」
 隣に座ってクレープを頬張るセンスパの姿を、俺は街中のベンチで眺めている。
 センスパがデートと言い出した時は少しドキリとしたが、休日の街に二人でやってくるだけ。いやらしいことは、もちろん何もない。何もないからこそ、満天の笑みでクレープを食べているセンスパの姿を見て、俺は癒されることができるわけだ。
 何をしたかというと、実際は何もしていない。雑貨店で冷やかしをしたりカフェでクリームパフェを食べたり(センスパの希望で二人で1つのものを)、それから最近流行の出店でクレープを食べている。それだけの、いたって日常的なデートだ。
 俺の経験上、こういう時は誰か知り合いと会う展開が多いのだが、今日はまだそれはなかった。ないに越したことはないので、特に文句もない。
「あそこ、入りましょう」
 クレープを食べ終えたセンスパが指さしたのはゲームセンターだった。何かのゲームに興味があるのだろうか、と思いながら俺はセンスパに手を引かれ、その中へと入った。
 目的のものがあるらしく、センスパは周りをきょろきょろと見回す。俺はあまり、ゲームセンターの騒音が好きではない。一つのゲームに集中すれば周りの音が聞こえなくなるのだろうが、ただ徘徊しているだけのときは、沢山のゲームの操作音が混ざってたまらなく耳障りだ。
「あ!あれです!」
 騒音に負けないようにセンスパも珍しく大声を出し、さらに俺を引っ張る。センスパの手が柔らかい。
「これ、撮りましょう」
 そう言ってセンスパが指さしたのは、プリクラマシンだった。最近のプリクラがハイテクになったことは、前に妹さんと遊園地に行った時に知っていた。
「ね?」
 そう言ってセンスパは俺の方に振り返って首を傾け、笑顔を作る。なんだろう、今日のセンスパはとても女性的で、魅力的だ。
「うん、いいよ」
 俺がそう言うとセンスパはいち早くカーテンをくぐって中に入った。俺もそれに続く。
 コインを入れてマシンを起動。好みの枠などを選び、やっと撮影画面に入った。そこまでの道のりが長い。ボタンを押すと機械がカウントダウンを始めた。
 そしてそのカウントが1になった時、俺の横でピースサインを出していたセンスパは首を軽く横に傾けた。その小柄な顔が俺の肩に乗る。センスパの顔が近い。良い匂いがする・・・・・
 フラッシュが光る。画面には優しく微笑んでいるセンスパと、それに少し驚き気味の俺の顔が写った。


 俺とセンスパが家路につくころには、空はすっかり赤く染まっていた。日が落ちるのも早くなってきたと思いつつ、完全に暗くならないうちに家に着くために俺は歩を早める。
「楽しかったですね」
「うん・・・・・」
 にっこりと笑顔を作っているセンスパの問いに俺はそう答えた。そう答えたものの、少しだけ疑問が残っていた。本当に、少しだけなのだが。
「あのさ、センスパ」
 俺は立ち止まって、センスパの方を向いて、続けた。
「どうか、したの?」
「え?」
 センスパが不思議そうな顔をするのは、無理もない。俺の唐突な問いが悪かったことは重々承知だ。
「いや、いつもと違うなぁ、と思って・・・・・」
 俺は思ったことを素直に表現して、問いに補足した。これでやっと意味をなす質問になってきた、という具合か。
 センスパは立ち止まって笑顔のまま俺の方を見つめ返す。
「何も、ありませんよ?」
 そうは言ったが、といった様子でセンスパは一瞬だけ暗い表情を見せた。だがその表情のすぐに消える。笑顔がまた舞い戻ってくる。
「ただ――」
 小さく開く、センスパの口。そこから漏れる少量の音。
「――貴方とこうして過ごせるのも、もうないかな、って・・・・・」
 重みがあった。その言葉には、重みがあると俺は感じた。
「だって明日はアメリカから女の人が帰ってきますよね。貴方もその彼女と会ったりするでしょうし、再開できるのを楽しみにしているでしょう?」
 センスパの不動だった表情が、徐々に崩れていく。
「知っている通り、私はオリコンの順位が発表されたら物の世界に帰る必要があります。姉さんと同じ、ということです。」
 センスパの話を俺はじっと、無言で聞く。だんだんその声が震え始めるのが分かる。
「だから・・・・・、だから、今日は貴方と出来るだけ楽しもうって思ってたんです」
 そこでセンスパは黙り込んでしまった。その後、沈黙。
 沈黙をうち破ることになったのは、センスパだった。すすり泣くような、涙を堪えているが堪えきれないような、そんな泣き声が、その沈黙を破った。
「あれ?なんで私、泣いてるんだろう・・・・・。楽しいのに、今はとっても・・・・・」
 センスパは自分の目からこぼれ落ちる涙を拭おうとしない。その代わりに俺が、その背中をさすってあげる。
「センスパ・・・・・」
「ごめんなさい・・・・・、なんだろう、私・・・・・」
 自分の涙の意味も分からずに涙を流しているセンスパに、俺は
「大丈夫、大丈夫だよ」
と声を掛ける。
「お前が物の世界に帰るまで、まだ時間はある。それに――」
 第三者が誰もいない路地。夕焼け空を背景に、俺はセンスパを抱き寄せた。俺の胸に顔を埋めて泣くセンスパ。
「――それに、俺はお前のことをずっと忘れない」
 俺のその言葉にセンスパは、声を途切らせながら
「あり・・・・・、がとう、ございます・・・・・・」
と言った。そのセンスパは、今まで見たなかで一番可愛い。その時、俺がそう思ったのは、紛れもない事実だ。



 翌日の日曜日。昼ごろに俺とセンスパは電車を使って空港まで言った。目的はもちろん、彼女のお迎えだ。
 集まったのは俺、センスパの他に、あいつ、あの娘、あの人、そして妹さんの4人である。全員が集まってから30分後、館内アナウンスが鳴って飛行機の到着が知らされた。
 俺達全員の視線が、改札に集められる。そこから大勢の人が歩いてきた。大半は日本人だが、外国人も勿論いる。
 その中の一人の女の子が、俺達の方をちらりと見た。
「え――」
 俺が声もまともに出せなくなったのは、ある意味正常な反応だったと思う。中学卒業のとき以来、彼女とは会っていなかったために久しぶりに再開となったのだが、ここまで彼女が変わっているとは思っていなかった。
 否、彼女の本質は何一つとして変わっていない。変わったというより、成長した、というのが適切な表現だろう。
 彼女は俺達を見つけ、一度目を大きく開けてから、こちらに向かって小走りに駆けてきた。俺達のところまで来てから、彼女は口を開いた。
「あ、あれ、来てくれたんだ――」
 絶世の美女が、そこにいた。
「はぁ・・・・・、綺麗になったな・・・・・」
 あいつがぼそりと呟く。その呟きに、俺も強く同意する。数ヶ月前までの彼女より、あらゆる意味で一回り成長していた。成長しているのだが、それぞれの顔のパーツや、少しシャイなその仕草は変わっていない。女として磨きが掛かった。そんな感じだった。
 これは後から聞いた話だが、この時、妹さんはあの人から「お前がまだ彼のことを狙っているんだったら、諦めた方がいい。彼女とお前じゃあ、勝負にならない」と言われたのだそうだ。(この場合の“彼”というのは、俺、ということになる)。三次元に興味なしのあの人でさえこの絶賛だ、と言えば、彼女の凄さが分かって貰えるだろうか。
「ほら、お前もなんか言えよ」
 あいつに肩を叩かれ、俺は彼女の方を見る。見つめるだけで自分が恥ずかしくなる。そんなオーラを、彼女は身にまとっていた。
「あ、えっと・・・・・、久しぶり」
 ぎこちなく俺が言うと、彼女も少し照れた感じで
「う、うん、久しぶり――」
と返す。あいつがにやにやしながら俺を見ているのは、気にしないことにしよう。
「本当に久しぶりだ」
「いやぁ、凄く綺麗な女の子になったわね・・・・・、アメリカで何かあったの?」
 あの人とあの娘が、口々に言った。あの娘の言葉に対し、
「そんな・・・・・、何も変わってないよ――」
と彼女は謙遜をしてから、ふと他の人物に目をやった。妹さんとセンスパがそこに立っている。
「えっと・・・・・」
 考えてみると彼女は妹さんとセンスパとは初対面だ。少し不思議そうな顔をしている彼女に妹さんが
「私は初めましてですね〜。えっと、私はこの人の妹です」
と、あの人のことを指さしながら自己紹介する。あの人にこんな可愛らしい妹がいることを知った彼女が、俺やあいつ、あの娘と全く同じ驚き方をしたのは、言うまでもないだろう。
「私も初めまして。あの・・・・・」
 センスパも挨拶をするが、なんと自己紹介をしたら良いか分からないようだ。そこは俺がすかさずに
「この子は俺の親戚の子なんだ」
とフォローを入れる。
「初めまして、よろしくね」
 二人を見て彼女はそう言うと、ふっと微笑んだ。その微笑みに、俺はどきっとする。全ての男を魅了する微笑みだ。そう思った。


 彼女は俺とあの人が通学している高校の隣町にあるホテルに宿泊するそうなので、俺達は全員で電車を使い、そこまで移動する。電車内は比較的混雑しており(休日のため当たり前なのだが)、空席は2つしか見つからなかったのでここは年下のセンスパと妹さんにその席を譲り、他の高校生5人組は吊革に捕まっての移動となった。5人組、と呼ぶことができるのも、大分久しぶりだ。
「何日、こっちにいるの?」
 俺は隣に立っている彼女に尋ねる。
「一週間だけ。12日の便で向こうに帰るから――」
「それなら、ゆっくりできるね」
「うん、久しぶりの日本でいろいろ楽しみたいし――」
 そう言う彼女を見て、俺の顔に微笑みが浮かんだ。
 その微笑みと真逆の笑い方をしているのが、向かい側にあの娘とあの人を引き連れて立っている、あいつである。俺と彼女の方を見てにやにや笑っているあいつに、俺は声を掛ける。
「・・・・・なんだよ?」
「いやいや、お熱いなぁと思いまして・・・・・」
 あいつの返答で気が付いたが、いつのまに彼女と二人で話し込んでいた。だが、俺と彼女はもうそういう関係ではないのだ。それは一番俺が承知している。勿論、今の彼女を見れば元の関係に戻りたい、という気持ちがないわけではない。しかし、もう過去のことなのだ。仕方がない。
 一方、センスパと妹さんは小さくなって席に座り込んでいる。二人とも、何も話す様子はない。だがしかし、今の俺にはその二人の様子に気付くこともできなかった。久しぶりの彼女との再開で、俺の感情は高ぶっていた。


 吊革に掴まって電車に揺られること数十分。既に5〜6個の駅を通過しただろうか。正確な数字は覚えていない。
 その間、会話をしているうちに、ずっと俺の隣で共に立っていた彼女の様子がおかしくなってきた。
「大丈夫?なんか顔色悪いけど・・・・・」
「うん・・・・・、大丈夫・・・・・」
 俺の問いに彼女はそう答えたが、どう見ても具合が悪そうだ。息づかいも荒い。向かい側に立っていたあいつ達もそれに気付いたようで、彼女の様子をしきりにうかがっていた。
 ――と、その時。彼女はふっと目を閉じて、足で立つという運動を失い、倒れ込んだ。身体から力が抜けてしまったように見えた。支えるものが何もなかったら床に激突、というところだったが、幸いなことに彼女の倒れる身体を支えるものが、そこにあった。つまりは、俺の身体そのものである。
 倒れ込んだ先に俺がいたため、とっさに俺は彼女を両手で包むように支えた。結果的に、彼女は俺に体重を預け、二人の身体は密着するような状況になった。
「え、ちょ・・・・・、大丈夫?」
 俺は彼女の身体を揺する。あいつ達も何事かとこちらに近づいてきた。
 彼女はゆっくり目を開け状況を確認し、そして理解するとすぐに俺の身体から離れ、自分の足で身体を支えた(あとから思うと至福のひとときだったと思う)。しかしその足はふらついている。
「あ・・・・・、ごめんなさい・・・・・」
という彼女に俺は、
「えっと・・・・・、座った方が・・・・・」
と囁く。センスパと妹さんが気を利かせて席を立ってくれたため、彼女は電車の座席に座ることができた。
「ちょっとジェットラグで気分が悪くて・・・・・・、少し休めば良くなるはずだから・・・・・、ごめんなさい――」
 座ってから彼女は消え入りそうな声でそう言った。
「ジェットラグって?」
「時差ぼけのことだよ」
 俺の疑問には、あの人が解答を示してくれた。時差ぼけなら俺も知っている。時差がある二つの国の間を行き来した時に脳がそれに耐えられずに気分が悪くなってしまうことだ。
 彼女の隣のもう一つ空いた席に、あいつに促されて俺は座った。
「じゃあ、ホテルに着くまで座席で休めば――」
 俺はそこで口を閉ざした。彼女がうとうとしながら俺の肩に頭を乗せ、眠っているのに気が付いた。


 ホテルに到着して俺達はロビーに入る。特に高価な感じもせず、かと言って貧乏臭いような雰囲気もない。高校生が一週間宿泊するにはちょうど良いようなホテルだった。ただ、ロビーの近くには立派なレストランがあり、夕方であるが客席はほぼ満員に近い。
「じゃあチェックインしてくるから――。あ、あの、大人数で一気にホテルの部屋に行くと怪しまれるから、うーん・・・・・、10分後に407号室まで来てくれる?」
 彼女はそう言って、軽く微笑んでからフロントの方へ向かう。俺は時計を確認し、10分後の時間も記憶する。
「いやぁ、びっくりしたなぁ・・・・・」
 彼女がいなくなってから、あいつが呟いた。あの人も
「同意」
と短い返事をする。
「あそこまで可愛くなって帰ってくるとは、思ってなかった・・・・・」
 こんなあいつの言葉を聞いてもどうも思わないあの娘は心が広いのか冗談が分かるのか・・・・・。あいつとあの娘が相互に信頼し合っているということなのであろうが。まぁ、少なくともあいつの言葉には同意せざるをえない。
「あんなの卑怯だよ〜・・・・・」
 今までずっと黙っていた妹さんがぽつりと言った。
「そういう事は、言うものじゃない」
とあの人が咎めるが、妹さんは
「だって、あんな・・・・・、ぼいーんって・・・・・」
と頬を膨らませて、そして少しうつむいた。妹さんが言う、その観点で見れば、あの娘の方が上を行っているだろう(飽くまで俺の見立てである)。しかし二人とも、女子高生の標準を軽く凌駕いていることは間違いないが。って、俺は何を考えているんだ・・・・・
「あんなに綺麗な方だったんですね」
 思考の途中に突然話しかけられ、俺は少し驚いた。声の主は、妹さんと共に無言を保っていたセンスパだ。
「え、ああ、うん・・・・・」
 俺が曖昧な返事をすると、センスパは俺の目をじっと見つめて、そして真剣な顔で尋ねた。
「心移り、しましたか?」


 腕時計で10分が経過したことを確認して、俺達は彼女が宿泊している部屋を訪ねた。
「具合はどう?」
と俺が問う。
「うん・・・・・、大分落ち着いたみたい・・・・・」
「時差ぼけはベッドで寝るのが一番良いらしいけど――」
 俺がそう言うと、あいつが俺の肩をぽんと叩く。
「おっ、大胆だな。いきなりベッドか」
「そういう意味じゃなくてさ・・・・・」
「冗談だよ、そう慌てるなって!まだ夕方なんだからさ!」
 あいつの冗談は分かりやすいが反応が難しい。俺が苦笑して彼女の方に振り返ると、そこにいた彼女は頬を紅潮させていた。これだからあいつの冗談は、難しい。
「あの、もし良ければなんだけど――」
 彼女がその流れを断ち切るように少しだけ超えを大きくした。全員が彼女の方に注目した。彼女はそれに少しびくついたが、すぐに気を取り直して、言った。
「今日の夜、ここのホテルのレストランに集まって、みんなでお食事会しない?久しぶりに、みんなと話したいから――」


 あの人の提案で、彼女を一人にして十分な睡眠をとらせることにした俺達は一度ホテルを離れ、彼女と約束をした夜の7時になってから再び集まった。
 ロビーで待っていると、エレベーターから彼女が降りてくる。先ほどと違った服装だったが派手というわけではなく、なんとなく控えめなそのドレスは彼女らしい、と俺は思った。
 先ほど、豪華だという印象を持ったレストランに入る。彼女は宿泊しているため顔パスだったが、俺達はその彼女と同じテーブルにつくために多少の説明をすることになった。あの人が適切な言葉遣いでボーイを説得してくれたため、いとも簡単に彼女と同じテーブルに案内される。
 料理を注文し、代わりに出てきたお冷やを一気飲みする。思ったよりも手頃な値段で良かった。もしかすると、一番安いライスだけを頼むはめになっていたかもしれない。
アメリカはどう?」
と切り出したのはあの娘だった。
「極端に暑かったり寒かったり、道にライオンがいたりしないの?」
 あの娘のジョークに彼女はくすりと笑う。そのくどくない、上品な仕草も久々である。
「うん、日本と変わらない聴こうだから住みやすくて――」
 そこまで言ってから彼女は言葉を切った。注文した料理が運ばれてきたためだ。全員分の料理が揃ったところで俺達は丁寧に手を合わせると食事を始める。
「日本では何か変わったこと、あった?」
「うーん、あんまり大したことないなぁ・・・・・」
 彼女の質問に、あの娘が答える。するとあいつが
「これから目立つ行事といえば、センスパ発売くらいだ」
と補足する。その言葉に俺の左隣に座っているセンスパが、ぴくりと反応した。
「センスパって・・・・・?」
 不思議そうな顔をする彼女に、あいつはひと通りの説明をする。あいつの話を熱心にい聞いていた彼女はその話が終わると
「それなら、日本にいる間に発売だから、私も買えるね」
と微笑んだ。
 彼女の反応はとてもありがたかった。昔、ハピマテを買いあさった友人であったが、冷めた反応をされたらどうしようと冷や冷やしていたのだ。が、彼女は思っていた以上の反応を見せてくれた。本当に、ありがたい。
「向こうはどうだった?」
 今度はあいつが逆に質問をする。
メリケンボーイからモテモテなんじゃねぇの?彼氏何人作った?」
「そ、そんな・・・・・」
 あいつの質問に彼女はうろたえた。しかしあいつは面白がって質問を重ねる。
「でも、告られはしただろ?アメリカの男子に」
「・・・・・う、うん――」
 今度は控えめながらも頷く彼女。こういう時に正直な返答しかできないのは、彼女の良さであると俺は思う。
「告られて、何人にOKした?」
「ゼロ人だよ――。なに?この話題――」
 そう言いつつ、彼女は微笑んだ。
「はは、ゼロとは流石だなぁ・・・・・」
そう言ったが、あいつも節度が分かる人間だ。そのタイミングでその話題を中断した。否、もう欲しい情報は彼女の口から得られたのだろうか。
 あいつが俺の方をちらりと見てくる。俺はあいつからの視線を避けるために右側に首を向ける。と、今度は彼女と目が合ってしまう。その瞬間、彼女はほんの少しだけ赤面した。
「あっ、あのっ!」
 今までずっと無言だった妹さんが少し大きな声を出して注目を集めた。どうやら彼女に向けての声だったようだ。
「どうしたの?」
 彼女は優しい口調で応える。妹さんは少しだけ躊躇ったが、すぐに大きな目を彼女の方に向けると食事を食べるのも忘れながら尋ねた。
「私、兄から中学校のころの写真を見せてもらって、あながたどんな人か――凄く綺麗な人なんだってことは、知ってました」
 不要な相槌は打たない。それが彼女の話の聞き方だ。しかしそれを知らない妹さんは無言の彼女に不安になったのか、少しだけ早口になった。
「でも、でも、どうやったら、あの、どうなるんですか?アメリカで、何したんですか?」
 そう良いながら、妹さんは彼女の方を指さす。正確に言えば、妹さんの指が向けられているのは彼女の胴体の中でも上、つまり、胸に当たる部分だった。
「・・・・・え?あ、えっと、あの――」
 彼女の方も困ったような声をあげる。確かに彼女の身体的な成長は、アメリカでめまぐるしく行われたようだった。中学のころとは、比べ物にならない。
「こらこら・・・・・」
とあの人に咎められ、それでも妹さんは
「だって〜」
と反抗する。俺の隣のセンスパも、彼女の返答を真剣な顔で待っている。この場でその話に無関心で、若干あきれ顔なのは女性陣の中ではあの娘だけだ。
「何もしてないけど・・・・・、うん、何もしてない・・・・・」
 彼女の困り顔の返答を聞いても妹さんはあまり納得しなかったようだ。思い出したように自分の料理を凄い速さで口に運んでいる。
 俺はセンスパの言葉を思い出す。「心移り、しましたか?」というセンスパの言葉。ハピマテが忘れられずにいた俺だったが、思わぬ彼女の帰国で心がぐらついているのは事実だ。今の彼女はとても魅力的だ。中学時代の彼女に兵器を拡張搭載したような感じ・・・・・。そんな彼女に俺が惹かれていないと言えば、それは大嘘だ。
 今、俺が好きなのは、誰なのだろう――


 そのあと40分ほどで食事会は終わった。久しぶりに思いっきり言葉を交わした俺達は、誰もが満足していた。最初は余り喋らなかったセンスパも、次第に口を開きだして、最後には彼女とも親しくなれたようで、俺としても安心だった。
 彼女以外の全員が帰り支度をしてホテルの外に出る。彼女も俺達を見送るために出てきてくれた。
「それじゃあ、また」
 あいつがそう言って片手を挙げた。俺を含める他のメンバーも口々に別れの挨拶をした。
 明日以降はきっと彼女にも予定があるはずだ。だが、彼女が日本に滞在している間、もう会えないわけではないだろう。別れというのもはばかられるほど、小さな別れだ。
 しかし、彼女は少しだけうつむいた後、何かを決心したような顔をして、そうしてから俺の方をまっすぐと見た。そして、口を開く。
「あ、あの・・・・・」
「ん?」
「あの、ごめんなさい。少しだけ、いい?」
 その言葉はおそらく、否、確実に俺一人に向けられたものだった。月がぽっかりと、空に浮かんでいる。


 センスパ達を先に帰し、俺と彼女だけがそのホテルに残った。二人はどちらからともなく、無言のまま歩き出す。ホテルの周りをゆっくりと周回するように動き、やがて噴水がついている洒落た中庭にたどり着いた。昼間は草木と花が鮮やかに雰囲気を彩るものと思われるが、夜になるとそれらは息を潜めたように静まりかえり、何も変わらず音を立てている噴水と、そこに反射した月の形が印象的なひっそりとした空間に早変わり、といった具合だろうか。
「えっと・・・・・、何?」
 沈黙に耐えかねた俺の方が先に声を出した。彼女の方も、俺が何か言うのを待っていたようで、考えていた言葉をそのまま口に出す。
「本当に久しぶりの日本みたいな気がするけど、まだこっちを離れてから一年経ってないんだ――」
 彼女は俺に背を向け、空を見上げている。相手の目を見ずに話をするというのは、彼女にしては珍しいことだ、と俺は考える。
「あなたと離ればなれになってから、まだ一年経ってないってこと・・・・・」
「でも、久しい再会ではある」
 俺は彼女の話の途中に言葉を挟んでから、何も言うべきでなかったと後悔する。しかし、彼女は全く気にする様子もなく、月を見上げたままこう尋ねた。
「・・・・・私がアメリカに行っている間・・・・・、一度でも私のことを思いだしてくれた?」
「・・・・・え?」
 俺は彼女の質問に、とっさに答えられなかった。もちろん、何度も彼女の顔を思い壁足り、その声を頭の中で再生したり、交わした会話の一つ一つを思い出したりしていた。しかし俺は、その彼女の質問にイエスと答えることができなかった。何故だかは、自分でもわからない。
「私は向こうでも毎日あなたのことを思い返していた。うん、そう、本当に毎日――」
 彼女はゆっくりと歩を進める。先に進もうというより、その場の土をゆっくりと踏みしめるような、そんな動き。
「もちろん、あの彼が行ったように向こうの男の子に告白されたりしたよ?でも・・・・・、みんな断っちゃって・・・・・」
 あの彼、言うのはあいつのことだろう。俺は先ほどのことも考えて、口を挟まない。ただひたすら彼女の話を完全に記憶するほど耳を凝らして聞き、そしてその姿を見つめているだけ。
 俺のそんな考えを察するように、彼女は自分の言葉を使って、自分の口で話をする。
「断ったのはその人達が嫌いだったんじゃなくて、ただ、他に好きな人がいただけ――」
 そこで彼女は一端言葉を切った。切ってから片足を使ってくるりと身体を反転させると、俺の方をしっかりと見つめる。そう、いつも彼女が話をするときの訴えかけるようなその目で。彼女の口が開く。次の言葉を言うために。その動作が、スローモーションのように感じられた。
「あなたに今、他に好きな人がいるんだったら話は別です。でも、そうでないなら――、私が日本にいる一週間だけ、私と・・・・・、つ、付き合って・・・・・、下さい・・・・・」
 語尾がはっきりしなかったが、それで彼女の精一杯の勇気だったはずだ。彼女は土を強く蹴って、俺に抱きついた。彼女の顔が、俺の顔のすぐ横にある。顔の皮膚で、否、全身で彼女の呼吸を感じる。俺は両腕を使って彼女の身体を優しく抱いた。衣服を身にまとって抱き合う行為こそ、現代の人類が考え出した最高のロマンティックな行為である、と俺は考える。
 彼女は俺の耳元で、ぽそりと呟くように付け加えた。
「私・・・・・、やっぱりあなたのことが忘れられない・・・・・」
 その言葉に、俺の脳が回転する。
 今、好きな人は、誰なのだろう?
 思いつかないのではない。多数ある選択肢から選べないわけでもない。分からないんだ。分からない。でも――
「・・・・・うん、分かった」
 俺はそう返事をした。了承の返事。それが、彼女にどう聞こえたかは分からない。しかし、少なくともマイナスには聞こえなかったはずだ。
 彼女は
「本当?・・・・・ありがとう――」
とゆっくり発音し、耳元で微笑んだ。彼女の表情は見えなかったが、彼女がその時、微笑んでいたと俺は断言できる。あの、魅力的で昔と変わらない笑顔で。
 とその時、後ろからがたん、という大きな音がした。
 彼女は驚いて俺から離れ、音がした方向を見る。俺もそれに従う。
 そこには持っていたバッグを地面に落とし、ただ放心して立ちすくむ、一人の人物がいた。彼女の顔からはもう微笑みが消えていた。その人物がいつも見せてくれた微笑みを、表情に持ち合わせていないのと同じように。
「妹さん・・・・・」
 俺は無意識のうちに、その人物の名前を呼んでいた。



              (55話から61話まで掲載)


 その翌日のことだ。センスパとの決別も解消しほっと一息つきたいところだったが今日は平日。つまり俺は学校でだ。
「いってらっしゃい」
 今まで通り、そう、今まで通りにセンスパに送り出され、俺は自転車のペダルを強く蹴った。
「おはよう」
と声を掛けられ、俺は振り返る。脇見運転だが、そんなことは気にしない。
 あの人が片手をあげてこちらを見ていた。俺も挨拶をして自転車の速度を下げ、あの人と横並びになる。あの人は俺の顔を少し眺めた後、
「先週とは別人みたいだね」
と一言。俺は軽く笑みを作ってから首を横に振って
「そう?」
と一言。あの人も冷静な微笑を見せて、無言で頷いた。


 学校に到着して鞄を置くと、あの人は俺の席の近くに来て窓辺のアルミサッシに軽く身体を預ける。そして言った。
「やぁ・・・・・、君のところにも来た?招待状」
 あの言葉に俺は目を見張るように驚いて、
「え?そっちも?」
と返答。あの人が頷いたのをトリガーに、俺の頭の中で回想が始まる。
 昨日の朝、センスパが俺のところにもってきた封筒。それを開けた俺は、そこに何が書いてあるか理解するのに数秒かかってしまった。
 そこに入っていた白い紙の上端には『学祭ライブ招待状』とゴシック体で書かれていた。
 差出人は『花鳥風月』。中学時代に俺達が結成していたバンド『MATERIALS』と敵対関係にあったバンドである。
 『MATERIALS』のメンバーは高校でばらばらになってしまったが、『花鳥風月』のメンバーは全員が同じ高校に行ってまだバンド活動を続けていると聞いている。そのメンバーうち二人にこの前、不良に襲われたところを助けて貰っていた。
 次の日曜日に高校で学園祭がありそこで生徒によるライブが行われる。『花鳥風月』はそこで大トリを勤めることになった。生徒会主催イベントのため本来ならば入場料300円が必要だが特別に無料招待チケットを同封した。是非来場して欲しい。そんな内容が書かれていた。たしかに封筒の中にもう1枚、小さな紙が入っておりそこには『学祭ライブ特別チケット』と手作り感満載で書かれていた。
 俺はてっきり、以前の不良との一件で俺が招待されたものだと思っていた。しかし、あの人まで招待されていたということは、『花鳥風月』の連中が俺に招待状を送ってきたのは『MATERIALS』絡みのようだ。
「向こうにどんな思惑があるか知らないけど、行くよね?」
 あの人が俺に尋ねる。俺は頷いてから
「ああ、もちろん」
と返答した。
 『花鳥風月』は中学校時代、ORANGE RANGEコピーバンドとして活動していた。そのため、アニソンをカバーして演奏していた『MATERIALS』とは自然と敵対関係に至っていた。向こうはアニソンを軽蔑していたし、俺達はORANGE RANGEを嫌っていた。
 そういう意味で俺達に招待状が送られてきたのは一種の挑戦である、というのが俺の見解だった。あと1ヶ月ほどでセンスパも発売される。この時期に挑まれた果たし状は、受け取るしかない。
「あいつにも来てるかなぁ、招待状・・・・・」
 あいつというのはもちろん中学時代に一緒にバンドを組んでおり、先日も一緒にキャンプに行ったり、センスパとの問題についてアドバイスをくれたあいつのことだ。
 恐らくあいつだけではなく、あの娘にも招待状は届いているはずだ。飽くまでも俺の直感だが。
 そのとき、背後から
「ねぇ、ちょっといい?」
と声がした。俺が振り返ると、そこにいたのはいつもの眼鏡をかけた女史の姿があった。
「なに?」
 俺より前にあの人が反応する。あの人が返事をしてくれたことに、女史は少し嬉しそうな表情を見せた。少なからず悔しい。
「あのね、父さんが会社で映画の鑑賞券を貰ってきて、期日が明日なんだけど、一緒に行ってくれる?」
 デートの誘い。もちろんあの人にだろう。俺は場違いを認識し
「いいね、行ってきなよ」
とあの人を促した。あの人も俺の方を見て小さく頷く。
 が、女史は慌てて手をひらひらと動かすと、
「いや、あなた達二人を誘ってるの」
と俺の方を見た。俺とあの人が不思議そうな顔をすると、女史は言葉を継ぎ足した。
「この券、五人一組の招待券なのよね――」


 次の日の放課後、駅前に集合したのは俺、あの人、女史の他に、妹さんとセンスパだった。何しろ急なことであったし五人一組のチケットの空席2名分を埋めるためにはそれぞれの身内を集めるしかなかった、ということだ。あのチケットは五人いなければ完全無効となる代物だった。
「よし、5人揃ったね。じゃあ、行こうか」
 あの人は全員を促して自分から電車に乗り込む。映画館に行くためには電車を使うのが最短且つ最善策であった。
「二人とも、ありがとうね」
 女史は初対面である年下二人(つまり妹さんとセンスパ)に両手を合わせている。急な頼み事に付き合ってくれてありがとう、という意味のようだ。
 妹さんとセンスパは二人揃って首を横に振ると
「いえ、いいんですよ〜」
「私、映画って観てみたかったんです」
と口にした。


 映画館のロビー――パンフレットや飲み物を売っている場所である――に到着して俺は自分の腕時計を確認する。18時35分。上映開始までまだ30分ほどある。
「何か買おうか。ポップコーンでも」
 俺の提案に全員が賛成した。
 平日だが長蛇の列を作っているポップコーン売り場の最後尾に並ぶ。並んでいる最中に俺達の中でも一番後ろに立っていた妹さんが口を開いた。
「いいなぁ」
「何が?」
 俺が尋ね返す。すると妹さんは、女史とあの人が楽しげな様子で(少なくとも女史は)話をしている姿をじっと見つめてから答えた。
「だってお兄ちゃん、彼女出来たみたいなんですもん。お二人も付き合ってるんでしょ?」
 お二人、というのは俺とセンスパのことのようだ。俺が言葉を発するために口を開くより前にセンスパが
「そういうんじゃないって!」
と否定した。俺は心の中で、あの人と女史の関係もそういうんじゃない、と付け加えるが口外には出さない。
「だったらお前も早く彼氏作ればいいのに」
 いつのまにかこちらに振り向いていたあの人が妹さんに言う。俺も
「そうそう、クラスの男子でも捕まえて・・・・・」
と補足。しかし妹さんはそれが気に入らなかったようだ。
「クラスの男の子じゃ駄目なんですよ〜」
「何で?」
 尋ねたのはあの人だ。
「それは・・・・・、なんとなくだけど・・・・・」
 妹さんは珍しくお茶を濁すように語尾を曖昧に表現した。
 と、その時だ。俺の服がくいくいと後ろから引っ張られたので振り返ると、そこにはセンスパが俺の顔を少しばかり見上げ気味に立っていた。
「何?」
 俺がそう言うとセンスパは俺に耳打ちしてきた。
「あの、妹ちゃんを元気づけてくれませんか?」
 センスパと俺の内緒話は、三人で話に夢中になっているあの人達には聞こえないだろう。センスパは続ける。
「いつも通りに見えますけど、落ち込んでるんです。私には分かります」
「でも、なんで俺が?」
「それは妹ちゃんは貴方のことが好きだからです」
 センスパの言葉に俺は少し驚く。
「・・・・・なんでそれを?」
「知ってますよ」
 当然、という顔をしたセンスパは少し誇らしげだ。
「友達ですから」


 映画が始まり俺達はシアターの中に入った。あの人と女史が隣同士で座っているのは当然だが、俺の右隣に妹さんがいるのは少し違和感を感じる。ちなみに妹さんの反対側にはセンスパが座って俺の方を見ている。さっき言ったことを忘れるな、と目で訴えていた。
 照明が落ち、映画が始まった。
 肘掛けに腕を乗せていた俺の右手に圧力がかかった。顔を動かさずに横を見ると、妹さんが俺の手を握っている。俺もその手を軽く握り返す。
 今度は首を動かし右を見てみる。妹さんもこちらを見ている。その上目遣いは少なからず魅力的だった。


 映画が終わり、俺達は映画館を出て電車に乗り、帰り道を歩いているところだった。
 時刻は9時過ぎ。高校生である俺やあの人、女史は別として、中学生の妹さんはこの時間に外を歩くのは少し問題のような気もする。
 映画が終わってから俺は妹さんに映画館の売店で映画のグッズを買ってあげた。妹さんを励ますと言っても、俺が思いついたことはそれくらいだった。
 あの人と女史は先を歩いており、二人で話をしている。よって俺はセンスパと妹さんの三人の集団で歩いていることになる。両手に花状態だが、緊張はしない。
「映画面白かった〜」
 妹さんが少し大きな独り言を言う。
「私もあんなロマンチックな恋がしたいなぁ」
 街灯が少ない道を歩いているためほとんど月明かりを頼りに進んでいる状態だ。今の状況もなかなかロマンチックなのではないだろうか、と思う。夜空にはぽっかりとまん丸の月が浮かんでいる。その周りを砂のように星が覆い尽くしているのだ。都会では珍しい、絶景とも言える満天の夜空だった。
「妹ちゃんは可愛いからきっとできるよ、ロマンチックな恋」
 センスパが言う。
「でも、あんな男の人いないしなぁ〜・・・・・」
「まぁ、あれは演技だしね」
 妹さんの呟きに反応したのは俺だ。
 俺の返答に妹さんは頬をぷくっと膨らませた。
「あぁ〜、それ、ロマンチックじゃないですよ〜」
「え、ああ、ごめん」
 とりあえず謝る。鉄則である。もちろん妹さんは本気で怒ったわけではなかったのだろうが、俺の口と声帯が自然に動いたという具合だ。
「えへへ、じゃあ――」
 妹さんは月明かりを背にくるりと回り、言葉を継いだ。
「映画みたいにロマンチックなキス、してくれますか?雰囲気を壊したお詫びとして」
「・・・・・え?」
 妹さんの言葉を脳内でリピートし、意味を理解する。・・・・・なんだって?
 俺の隣にいたセンスパはその言葉にさっと赤面したが、何の反応も示さない。聞こえない振りをしているようだ。センスパはセンスパなりに、俺と妹さんの雰囲気を作ってくれているのかもしれない。
 が、つい最近にあんなことがあった俺とセンスパの前でキスという言葉を使うのは、少しタイムリー過ぎたかもしれない。
「えっと・・・・・」
 俺が言葉に詰まっていると妹さんはにっこりと笑って
「ふふ、冗談ですよ〜。今、本気にしたでしょ?」
と言った。なんだ、冗談か、と安心しつつも俺は言葉で
「いや、本気になんてしてないよ・・・・・」
と妹さんの指摘を否定。しかし妹さんは
「うそうそ〜、絶対本気にしてる目でしたもん〜」
と少し前屈みな姿勢で俺の顔を見上げるように上目遣いをする。可愛い、この子は。俺の精神が揺らぎそうになる。それ以上揺らがないようにキープする精神力は持っているつもりではあるが。
 妹さんはさっと俺に背を向けると空を見上げながら誰に言うわけでもないような口調で呟くように言う。
「私だって彼氏欲しいんです。お兄ちゃんとは違って、異性関係に興味ありますもん。だけど、これだっていう人と出会えないんです。そういう人が私の周りにいないんです」
 そこまで言って言葉を句切るように妹さんは振り返り、俺の方を見た。軽い足取りでとてとてと俺の方に近寄ってくると、優しいその指で俺のことを指さしながら、こう言った。
「あなた以外に」
 心臓が一度だけ、大きく脈打った。
 存在するのは月明かりだけ。ロマンチック。そんな単語が、俺の頭の中で渦巻く。俺以外に、これだっていう人がいない。二度目の告白であるが、回数など関係なかろう。それに今は、前回のような二人きりという場面ではない。
「ほら、帰るぞ」
 向こうから声がしたと思うと、それはあの人だった。知らない間に、分かれ道のところまで来ていたようだ。俺の家はここから右、女史とあの人の家は左の道だ。
「あ、それじゃあ・・・・・」
 俺は向こうに歩いていく女史とあの人に手を振る。ちょうど良いタイミングだった、と思う。あのままの俺では、妹さんに何の返事をすることもできなかった。そうなれば、悲しむのは妹さん以外にいない。
「じゃあ、またね」
 センスパが妹さんに言った。妹さんも頷いて手を振る。俺も、妹さんに手を振る。
 妹さんは一度、あの人に着いていこうと歩いたがぴたりと立ち止まって振り返り、俺の方に向かってきた。
 何事かと首を傾げる俺に妹さんは少しだけ躊躇したような仕草をとったが、すぐにいつもの笑顔を見せると少しだけ背伸びをし、そして、俺の頬にその柔らかな唇を優しく当てた――
 驚く俺を差し置いて妹さんはすぐに唇を離すと
「今日はありがとうございました、それじゃあ、さよなら〜」
と手を振って、あの人の方へと駆けていった。
 状況を理解した俺は、手で頬を軽くさする。残っている感触を、自分の肌で確かめたかった。
 妹さん達が見えなくなるまで俺はその場に立っていた。センスパも、もちろんそうだ。俺の視界から三人が完全に消えたころ、センスパが思い出したかのように自然な口調で、俺に囁いた。
「・・・・・姉さんの、ハピマテのこと、もう引きずる必要はないと、私は思います」
 うっかりすると聞き流してしまいそうなその声は、コンタクトレンズのように軽く、しかし凸レンズのように通すものすべてを屈折させてしまいそうだった。
「センスパ・・・・・?それって、どういう・・・・・」
 しばらく放心状態に近かった俺だが我に返ってセンスパに尋ねる。
 ハピマテのことをもう引きずる必要はない、だって?そんなこと、今まで一度でもセンスパが口にしたことがあっただろうか。センスパは、ハピマテがまだ俺のことを想い続けているという事実を教えてくれたし、そんな自分の姉を応援するような姿勢を取っていたはずだ。
 しかし今、センスパの口から漏れた言葉。何の意図があるのか、まったく分からない。否、もしかしたら意図などないのかもしれない。
「あの・・・・・、センスパ・・・・・?」
 俺はもう一度、名前を呼ぶ。するとセンスパは、はっと現実に引き戻されたような仕草を取り、
「すみません、なんでもないんです」
と慌てて言ってから、
「さぁ、帰りましょう?夜も遅いです」
と続けた。
 確かにそうかもしれない、と俺は思う。
 ハピマテのことが忘れられず、他の異性と付き合う気にはなれずにいるのが、現在の俺だ。しかし、ハピマテはもう帰ってこない、そう、帰ってこないのである。いつまでも、現在の状況を続けていて良いわけがない。何処かで割り切ることが必要になってくるのは明白だ。そのタイミングが今であるということを、センスパは教えてくれたのかもしれない。
 俺はいつの間にか下を向いていた顔を上にあげ、一度だけ空の星を見てから自宅へと歩きだそうとしているセンスパの名前を呼んだ。
「なんですか?」
 センスパが振り返る。
「なぁ、もしも、もしもだけど――」
 センスパが俺の方を見ている。俺は「もしも」ということを強調した後に続けた。
「今、俺が寄り道しようって言ったら、どうする?」
「・・・・・え?」
 時刻は9時過ぎ。人間で表すと中学生ほどのセンスパには、血縁のない同年代の男と二人で“寄り道”するには些か非常識な時刻だ。それは承知だ。と、いうより、非常識なことを、今の俺はセンスパに伝えようとしていた。
 いや、と呟いてから俺は言葉を継ぐ。
「寄り道する必要もないんだ。家に帰っても、親はずっと一階にいる。俺の部屋は二階だ。多少の物音には気付かれない――」
 自分の表情が、意志とは独立した動きを見せたことが分かった。
「――そうさ、夜も遅いんだ」
 俺は笑っているのだと思う。きっと、うつろな目で微笑んでいるはずだ。その顔を鏡で見たら、自分で恐怖するかもしれない。
 無言のセンスパを、俺はただじっと見つめた。
 センスパも、無言の俺を見つめ返してくる。
「――そう言ったら、どうする?」
 俺は再度返答を求める。その顔は、もう笑ってはいない。
 センスパは震える唇を開き、声を出した。
「・・・・・お断りします」
「・・・・・そっか」
 それきりで、会話は終了した。センスパは先ほどの元気が嘘のように黙り込んでしまったし、俺もずっと黙っていた。
 無言のまま、家路をゆっくりと歩いた。
 星だけが空に輝いていた。


 帰宅後、センスパは俺とあまり話をせずに風呂に入り、そのまま布団を被って寝てしまった。俺もセンスパの睡眠の邪魔をしない程度に勉強をした後、布団に入る。
 ふと気が付いて自分の携帯を見た。
 予感的中というべきか、ディスプレイには「新着メッセージ1件」の文字が浮かんでいた。俺は手慣れた操作をして、メールボックスを確認。あいつからのメールだった。
 花鳥風月から招待状が来たんだが、お前にも来てるよな?――と、そんな内容だ。メールの最後には、あの娘にも招待状が来ていたのでお前にメールしてみた、というような事柄も加えられていた。
 時間が少し気になったが、まだあいつが寝ているような時間ではない。俺は、自分とあの人にも招待状が来ていることをあいつに報告する。
 センスパが横で静かな寝息を立てていた。


 その後、俺はあいつと何度かメールを交換した。
 そして次に日曜日に開催される花鳥風月のライブ。それにあいつと一緒に行く約束をした。あの娘、そしてあの人ももちろん同行であるから、久しぶりにそのメンバーで花鳥風月に会いに行くことになる。アメリカに行ってしまった彼女がいないのは、仕方ないだろう。
 ――彼女とはもう会えないのだろうか
 俺の脳裏にそんな不安がよぎった。彼女は、俺と何となく気まずいような関係のまま、アメリカに行ってしまった。となると、もう会えないのかもしれない。後悔が尽きないが、彼女の方がそう考えているのだ。俺にどうにかできることではない。
 そして、翌日。つまらない学校の授業を終え、俺は早く自転車を取って帰ろうと、自転車置き場に向かった。今日は水曜日、アニメ『ネギま!?』の放映日だ。
 自転車置き場には既に二人の人がいた。
 俺が特に気にすることなく中へ入ろうとした時、
「あ、あの、好きです・・・・・・、付き合ってください・・・・・」
という女の子の声が、自転車置き場に響いた。
 どうやら俺には気付いていないようだ。俺は慌てて木陰に隠れる。こういう場合、それが最善策であることは経験済みだった。
 すると今度は男の方が返答をした。俺はその声を聞いて驚いた。
「・・・・・ごめん」
 あの人の声だった。
 しかしよく考えてみると驚くことでもない。あの人はイケメンなので学校の女子からモテモテだ。自転車置き場という人の入りが多い場所ではあるが、告白されていても不思議ではない。
 だが、俺はあの人が続けた次の言葉に驚愕した。
「他にいるんだ。先客が」
 ・・・・・・なんだって?
 先客、というのは、恋人の先客がいるということだろう。あの人は三次元には興味がないはずだ。だが先客ということは、もう付き合っている彼女がいる、ということだろうか?
 そう考えているうちに、女の子が小走りに走っていった。たしか、隣のクラスの子だ、と俺は思い返す。
 次に少ししてから何喰わぬ顔であの人が出てきた。俺は木陰から飛び出し、あの人に話しかける。
「あの、今のは・・・・・」
「あれ、しまったな、見られてたのか・・・・・」
 あの人は人差し指で額をぽりぽりと掻く。
「他の先客って、誰?」
 俺の率直な問いにあの人は
「逃げ口実・・・・・、じゃ、通用しないようだね」
と言ってから苦笑すると
「女史だよ。向こうから僕にアプローチを仕掛けている。少なくとも今、告白してきた女の子より先にね。だから、先客だ」
と答えた。
 俺はすぐに自分の自転車と取ってきて、あの人と並んで帰った。
 帰り道を走る間、俺は、あの人が女史のことを「先客」と呼んだことをずっと考えていた。
 僅かだとしてもあの人は女史のことを“女”として見ているということだ。三次元にしか興味がないと言っていたあの人も、こうやって彼女を作ろうとしている。
 そのことに俺は少しだけ、ほんの少しだけ驚いていた。そして、自分の今立たされている状況を振り返った。昨日、センスパが言った言葉も含めて、振り返っていた。


 家に帰ってアニメを見終えた俺はコンピュータの電源を入れる。それと同時に、隣でセンスパが自分のノートパソコンを立ち上げた。
 そして数分後、センスパが声をあげた。
「VIPにスレが立ってます」
「え?ホントに?」
「ほら、ここに・・・・・、今、スカイプでアドレス送りますね」
 すぐにセンスパからメッセージが飛んできた。俺はそのアドレスをそのままLive2chに打ち込み、VIP板にあるそのスレを閲覧した。
 センスパを1位にしよう、というそのスレはアニメが終わった直後に立てられたもののようだった。
 俺も、今回の祭りは自分でスレを立てずとも自然とVIPにスレを立てる流れになるものだと思っていたので、そこまでは予想通りだった。しかし――
「こりゃあ・・・・・」
「・・・・・」
 俺とセンスパは共に黙り込んでしまった。そのスレの流れは、一言で表現すると最悪だった。
 アンチの多さはある程度覚悟していたが、これほどとは思わなかった。スレの最初の方での反対意見が、そのまま後まで引きずられてしまっている。正論も、完全にスルー状態。
 黙ってログをスクロールしながら見ていたセンスパが言った。否、声を漏らしたと言った方が正確だろうか。
「・・・・・私、1位になれるのでしょうか」
 俺はセンスパの方をみて、
「大丈夫」
と言う。しかしそれも、呟きにすぎなかったかもしれない。



 ――日曜日。
 俺とあの人は昼過ぎ、1時ころに駅前に向かった。
 そこには既に二人の影があった。
「おい、おっせーぞ!」
 そう言いつつも笑顔のあいつと、その横で手を振っているあの娘。俺とあの人は軽く片手をあげて挨拶に代える。
「じゃあ行こうか。場所は――」
「大丈夫、俺が分かってるから」
 俺は安心してあいつに着いていく。駅の近くにあるその学校。花鳥風月の5人が通学している高校。現在、そこでは文化祭が盛大に開催中である。
 校門近くまで歩いてくるとそこはもうさながら祭りであった(文化“祭”ではあるのだが・・・・・)。
 赤、白、黄・・・・・、様々な色があふれ、飛び交う。ピエロやリーゼント風の仮装をした集団がビラ配りをしている。かつて敵だった連中が通っている高校だと分かっていても、笑顔がこぼれるような雰囲気だった。
「招待状によるとライブは夕方からだ」
 あいつは自分の腕時計と招待状に付属されていたパンフレットを交互に見ながら言う。
「それまで学校の中を回ってようぜ。せっかく他校の文化祭に中学のころのメンバーで来たんだ。楽しもうじゃないか」
 人が余りいないスペースを見つけ、俺達はパンフレットを改めて広げた。昼時だったためどのコーナーも混んでいると思われたが、しかたない。昼食を取った後なので本格的な飲食コーナーに興味はない。
「これなんか、どうかな」
 珍しくあの人がそう言って、一箇所を指さした。『カフェ 3-B』というネーミングセンスの欠片もないような喫茶店だったが、このメンバーで飲み物を飲みながら話をするにはちょうど良さそうだった。場所も今、俺達がいる校舎の中にあった。


 喫茶店の中で一息ついた俺達はまず、花鳥風月がライブに招待してきたことについて軽い議論を交わした。
 初めのうちは先日の不良が中にいないかと若干不安だった俺だが、よく考えてみると不良ぶっている奴らが文化祭なんかに参加するはずがないと考え直し、陰ながら胸をなで下ろす。
「ところでセンスパについてだけどよ――」
 あいつがコーヒーに口を付け、全員を見回してから言った。俺は少しギクリとするが、あいつがいう“センスパ”はCDのことだと理解し直す。
「水曜日、VIPにスレが立った」
 あの人がコーヒーをすする。あの人のようなルックスで足を組んでコーヒーを飲んでいると、とても絵になる。
「ああ、それは俺も見た・・・・・」
 あいつのしゃべり方が、沈む。その理由は明白だった。
「もう、VIPには頼れないと考えた方がいい」
 あの人の口調には全く変化が見られない。見られないが、俺にはその声が少しだけ震えて聞こえた。あの人は顔の色一つ変えずに続けた。
「もう2ちゃんねる外のネット各所で何とかするしかないんだ。・・・・・今回の祭りは僕にも少しだけ思い入れがあってね」
 そう言ってからあの人は俺の方を見て、少しだけ微笑んだ。俺は意味もなく微笑み返していた。


 4時になり、俺達はパンフレットの見取り図を見ながら俺達はライブ会場であるB校庭に向かった。校舎の陰に隠れている校庭であったが、人の収容面積は十分だった。
 B校庭の周りは熱気に包まれていた。激しいビート音が鳴り響き、さながら本物のライブ会場だ。
 長蛇の列が受付前に出来ており俺達が入れるかどうか心配だったが、あの人を先頭に4人で招待券を見せると、なんと顔パスで並ばずに入場することができた。花鳥風月が送ってきたのは、それほどのチケットだったようだ。
 この高校は学生バンドが盛んなようでオーディションを勝ち抜いたバンドが文化祭のステージに上がっている。花鳥風月は一年生であるが、この文化祭ライブのトリを勤めるのだというから驚きだ。
 入場と同時にちょうど前のバンドの演奏が終わった。会場の熱気が若干低下し、ざわめきが上がる。
 が、そのざわめきも一瞬にして吹き飛んだ。暗くなったステージが、熱を発生させるほどのライトで明るくなったかと思うと、そこには5人の影が整列していたからだ。
 女子生徒からの奇声に近い歓声が上がる。客席の中で顔をしかめるか、平常の表情かをしていたのは、俺達4人だけだったのではないか。
 中学のころとまったく変わっていない5人組、花鳥風月がそこにいた。
 ――連中のライブは一段の盛り上がりを見せた。歌のクオリティも中学のころとは比にならないほど上がっている。歌っている曲は様々なJ-POPアーティストのものであり、中学のころに専門で演奏していたORANGE ERANGEのカヴァー曲は一曲も流れていない。それだけのはずなのだ。だが、なんだろう。この妙に引っかかる感覚は・・・・・
「なぁ!」
 歓声に声をかき消されないように、あいつも大声で俺達に話しかけてくる。
「確かに中学に比べたら、あの野郎共、腕をあげてる。それは認めるさ。・・・・・でも、この程度かよ。俺らに招待状を送りつけておいて、これか?」
 あいつの話はもっともだった。これなら、俺達をわざわざ呼ぶ必要はなかったはずだ。俺達がいても何の意味もなさない。それなのに奴らは何故、俺達に特別な招待状などを送ってきたのだろう・・・・・
 お粗末なトークが終わり、曲は4曲目に入った。
 そして、俺はそこで気付いた。
 俺は横に立っているあの人を見る。あの人は腕組みをしたまま俺の方を見て、無表情で口を開いた。
「君も気付いたみたいだね」
 俺は頷く。あの人も相槌を打つように頷いて、続けた。
「一見普通のアーティストのJ-POPをコピーしているバンドだ。だけど今まで流れた3曲、そして今流れている曲も全て――」
 楽器の音が一瞬だけ大きくなり、あの人の声が消し飛ばされる。あの人は改めて、声を出した。
「――全て、何らかのアニメ主題歌だ」


 その後、2曲ほどの演奏を終え(その2曲も一般アーティストのアニメソングだった)、連中は息をあげながらトークに入り、そして叫ぶ。
「いよいよ次で、最後の曲になりました!」
 会場からの反対の声。しかし花鳥風月は続ける。
「最後は生まれ変わった俺達が見せる、究極の音楽です!」
 一度、奴は息を大きく吸った。
「――原曲、平野綾で『God knows…』!」
 ・・・・・なんだって?
 予想もしていなかった花鳥風月の選曲に完全に意表を突かれた俺達は、ただ唖然とすることしか出来なかった。
 何事もなかったかのように連中の演奏が始まる。他の客も、もちろんこの曲を知っている人はいないようで始めは動揺しているようだがすぐに乗りを取り戻し、知らない曲なりに盛り上がっているようだった。
「・・・・・まぁ、この曲は一般受けするアニソンだからね」
 演奏が終わって弾けるような拍手と声援が飛ぶ中、あの人が俺の方を見て言った。冷静な台詞だが、その顔は驚きを隠せない。
 奴らが涼宮ハルヒなんていう深夜アニメを知っているということがまず驚きだったし、それ以上にアニソンをあれほど嫌っていた花鳥風月が、ライブを全てアニソンで埋めてしまうことが驚愕的だ。俺達を招待した理由が、それだったことは間違いない。俺達に対する報復なのか共感なのか、それは分からないが。
「アンコール!」
のかけ声が周りから上がり、やがて渦となってこのB校庭を取り巻く。俺達を含めた全員が、アンコールの声に合わせて手拍子をしていた。隣にいるあの人までもが、いかにも自然だというように手を叩いていた。
 一端舞台裏に引っ込んでいった花鳥風月がタイミングを見計らったかのようにまた登場してきた。客席の盛り上がりが最高潮に達した。
 奴らがマイクを取って息を大きく吸ったかと思うと
「それではアンコールにお答えします!」
の声がスピーカーから鳴り響く。
「アンコール曲は、俺達花鳥風月の永遠のライバルに送る、スペシャルメドレー!」
 その言葉がスピーカーから客席に響いた瞬間、俺達4人全員が反応を見せた。俺達は今の言葉が、自分達宛ものだと確信していた。
 一度照明が落ち、観客のペンライトだけが不気味に光る。小さな前奏ビートから、爆音へ。刻む鼓動――
 奴らの前奏が始まった瞬間、俺の脳細胞の動きが一瞬停止したかに思われた。
 口がふさがらない俺より先にあいつが言う。
「これって・・・・・、ハレ晴レユカイだよな?」
 ――まさに俺が言いたいことを、そのまま発言してくれた。
 聞き覚えのあるメロディーは、今年流行したハレ晴レユカイそのものだ。そしてステージ上で花鳥風月の連中が踊っているダンスにも、見覚えがある。
 客席の反応は上々だった。結局、奴らが踊って歌えばなんでも良いのかもしれない。
 ――そして、俺達の驚きは連鎖する。
 メドレーということで、一番のみの演奏を終えたところでハレ晴レユカイは終了、続けて次の曲が始まったのだが、その曲はさらに俺の耳に馴染んだ。
 ハッピーマテリアル。聞き間違えるはずもないその曲が、花鳥風月の楽器から奏でられた。
「馬鹿な・・・・・」
 あの人が呟いた。観客の盛り上がりは変わらない。逆に、ヒートアップしてきたような気がする。曲自体がロック調にアレンジされておりアニメ色はほとんどないが、原型を全くとどめないというわけではない。とても良くできたアレンジだった。
 ――盛り上がりを保ったまま、メドレーは三曲目に突入する。
 もうここまで来ると何も驚かない。スピーカーから奏でられる音楽。ロック調のその曲は、俺の心に強く響いた。
 1000%SPARKING。それが、その曲のタイトルだ。


 ――ライブが完全に終わった。完全燃焼。それが今、一番似合う言葉であろう。
「やってくれたな・・・・・」
 あいつが呟くように言うのが、俺の耳に入った。あの人が
「ああ・・・・・、完全にしてやられた・・・・・」
と答える。
 次の瞬間、爆発する拍手と歓声に、俺達の会話はかき消された。俺達も素直に手を叩く。今日は、観客だった俺達が意表を突かれた。完全に、負けた。
「今日は、お客さんの一人に伝えたいことがあります」
 ステージ上の花鳥風月の一人が、マイクを持つ。どうやら最後のMCのようだ。客席のざわめきが静まりかえる。
 そして、俺は目が痛くなるほどの光りを向けられた。否、光りが向けられた対象は俺ではない。俺のすぐ側に立っていたあの娘に、全てのスポットライトが向けられていた。
「・・・・・私?」
 あの娘はまぶしそうに目を細めた後に呟いた。
 花鳥風月の一人はあの娘にスポットライトが当たったことを確認すると一度、スピーカーを通して客席にも分かるくらいの深呼吸をしてから、言った。
「――中学のころから、好きでした!俺と、付き合ってくださーい!!」
 ――あの娘に向けられた、告白だった。
 あの娘が少し後ずさりするように驚いた。それもそうだ。客席全員の女が、こちらを見ているのだから。
 がしかし、その後すぐにあの娘はステージの方をまっすぐ見据えて、いっぱいに空気を吸い込むと手でメガホンを作って、叫んだ。
「ごめんなさーい!!」
 この上ないくらいの笑顔だった。
 あの娘はそう言った後、見せびらかすように隣にいたあいつに抱きつく。少したじろぐあいつに目もくれず、
「私、もう彼がいるので!」
 会場から笑い声と溜息と、そしてブーイングが漏れるが、あの娘はそれくらいで気にするような人間ではないのだ。
 それに比べて、照れ気味のあいつがその雰囲気をよく表現していた。



「よう、お疲れ」
 ライブが完全に終わった後、メンバーの控え室になっている教室に俺達は立ち寄った。
「なんだ、お前らか」
 教室の隅の方でタオルを使って汗を拭いていた花鳥風月は、俺達の方をちらりと見る。
「びっくりさせられたみたいで、何よりだ」
 連中は俺達に改めて向き直ると、こちら側の質問を予測していたように話を始めた。
「俺達も改心したってことだよ。完全にアニオタに落ちぶれたわけじゃないがな」
「とにかく、1000%SPARKINGは買ってやる。それだけだ」
 その言葉に俺の顔に笑みが浮かぶ。
 メンバーの一人、さっきあの娘に告白した男が冗談めかした口調で
「やっぱ付き合ってくんない?」
と尋ねる。しかしあの娘側も
「しつこい男は嫌いよ」
と冗談めかした返答をした。二人とも、笑顔だ。
「飲む?」
 俺は缶ジュースを差し出した。もちろん、もともと差し入れとして持ってきたものだ。
 だが、奴らはそれを受け取らなかった。
「悪いな、お前らと手を組むつもりはない。これからは、敵じゃなくライバルだがな」
 そう言って鼻で笑われてしまった。だが、それさえも微笑ましい。今回のライブは、様々な意味で最高だった。どういう意味で最高かというとつまり、ライバルという言葉を聞けたというところだ。
 中学生並の思考だが、その局面に立たされれば何かが奮い立たされる。それが、俺達と花鳥風月の存在なのだと自覚する。自負する。そして、自認する。
 あいつが言う。笑顔で。
「じゃあ、俺達はお前達をライバルとは思わない。何故かって言うと、ライバルっていうのは口先だけで認め合っちゃいけないからだ。分かるな?」
 その言葉は重かった。重かったが、頭の中にするりと入ってくる軽さが、中には含まれていた。



              (48話から54話まで掲載)