わたしのこと

じぶんのまわりのことについてかんがえる。わたしはまわりのひとのことをあいしている。とてもたいせつにおもうし、まもりたい。ひとりにちゅうりょくするよりも、できるだけちゃんとぜんいんとむきあいたい。ほんとにそうおもう。わたしはひととのかんけいをながくつづけるのがとくいではなかった。だけど、ここすうねんはちがう。とくにさくねんはじたくができたので、いえにていちゃくするかんじがすごくいい。とにかく、よく、なく。かなしいことにもうれしいことにも、きもちがどんどんゆれうごいて、じんわりとめのまえがぼやける、はながつんといたむ。ぽろぽろ、というかぼろぼろ、なみだがこぼれる。しんじられないけど、すこしずついきやすくなってるようにおもう。というかそうおもいたいのだけど、どうだろう。

生きているなあ、のこと

11月11日はアイツの命日だった。甘えん坊で、わがままで、素直で、やさしくて、気性の激しい、そんなアイツ。大好きで大切でたくさんのことを教えてくれたアイツ。最後に連絡もらっていたのに、なんにもできなくて、会えた時にはもう、コンクリートよりもひんやりと冷たかったアイツ。わたしはなんにもできなくて、なんにもできなくなった。まいにち罪悪感や喪失感、幻覚や幻聴がわたしを襲ってきた。どこにも逃げられなくて、苦しかった。時間だけがかわらずにずっとずっと味方して癒し続けてくれた。

正直に言います。

わたしは昨年より悲しくなくなっていて
そして一昨年より悲しくなくなっている。

あいつは今日、ここに生きていないけれど
わたしは今日、ここに生きているなあと感じる。

「わたしの人生を生きる」ということは
わたしにしかできないこと。
昔のことも、今のことも、明日のことも
全部ひっくるめて自分なのだと、思いたいな。

大切な人は、できるだけ、なくしたくないです。

はやくげんきになってね、のはなし

はやくげんきになってね、といいにくくなったのはいつからだったっけな。「うつのひとにがんばってっていったらだめなんだよせつ」をしってからというものこれはよくいしきするようになったきがする。じっさい「はやくよくなってね」っていうのにはいわかんがある。だってだれかからみて「よくないほう」からしても「はやくよく」なれたら、そりゃなりたいだろう。そこになぜはやさをもとめられるのかっていうのと、よくなることがすいしんされすぎているのがきにくわない。そもそも「ぐあいのいい○○」がかんげいされて「ぐあいのわるい○○」はひていされているきがする(そもそもいいわるいってなんやろか)それはうまれてきてせいがこうていされていて、しはひていされがちというのにもにているきもしてきた。ここまではいいわるいのかんかくのはなし。しかしそうかんがえていたらあめはいやだというかんかくもすこしにているなあとぼんやりおもったりもした。まああめがどうかときかれるとばいくはのわたしはだいすきとてばなしでよろこぶでもないのだけれどでんしゃにのるこうじつができたりがいしゅつするよていがなくひさしぶりにあめをみたりきいたりするとまあまあすきだったりするのもじじつですがそれはどうでもよくってぜんていとしてあめがぜんめんてきにわるいみたいないいかたをするのにいわかんがあるってことだとおもう。そうなるとおかねってのもそうなのかとかおもったりしている。たとえばおかねはこわいとかわるいとかいらないとかねいやもちろんいわかんなきゃそれでいいのだけどいわかんあったりするんです。自分以外の人に難癖をつけるというわけではなく、自分が使うことばについて、もうちょっと考え直していきたい。

がいねんのこと

さいきん「既存の概念・ことばがぴったり来る」ことが少なくなっているような気がする。それで、それについての話ばっかりしている。なにかしらの違和感を常に感じている。どうしたもんか。とにかく、はなしたり、かいたりして、どうにか向き合っていこうと思っている。考えすぎかもしれないけど、これもまた、悪くないと思っている。これをたのしく思えるのは、いいかもしれない。

性、のこと

さいきん知り合った生徒さんの中で、すごく気になるこがいる。あのこは戸籍上の性別は女性なんだけど、とってもスタイリッシュですてきな雰囲気の子だ。前からお話したいなーと思っていたら、今日たまたま、部屋にふらりと、来てくれた。先生の話をしたり、バイクの話で盛り上がったりした。あのこ、と呼ぶことにするけれど、あのこは学校内で「性同一性障害の…」と噂されているよう。(先生たちも、はれものにさわるように、こっそりそんな話を、している。)あのこが部屋から出て行った後、一人の男子生徒が私に「あのこ、女なんやで!知ってた?なんか、病気らしい」と言って、最後に「かわいそうやなぁ。」といった。わたしは「病気かどうかはしらんけど、性別に違和感があるってかんじなんちゃうかな?…かわいそう、ではないけど、しんどいやろうなぁ。」と返した。

わたしには、身に覚えがあった。

わたしは小学校、中学校、高校とずっと違和感を覚えていた。空手を続けて習っていて、そこでリーダーをしていた。本当に強くなりたかった。体が丸くなっていくのがいやだった。初潮ってやつを迎えるのも。スカートを履かなくちゃいけないのも、いやだった。女の子と遊ぶのが苦手だった。男の子と殴り合いのケンカをしたりして、精神病院にも連れて行かれた。高校はズボンを履いて通った。先生に反抗して停学になったりもした。あのころは、とても、きゅうくつだった。

どうにかさまざまな考え方を咀嚼して、通過して、悩んでいる人に出会えて、今、なのだけど、今も戸籍上の性別に違和感を覚えることはよくある。それに、自分のこと、よくわからなくなることもある。考え続けていたらLGBT(レズ・ゲイ・バイセクシュアル・トランスセクシュアル)ということばにたどり着くことができた。性という言葉について理解しようと思うとき1.戸籍における性別2.性自認3.性対象にわけることができる、という風にし、「LGB」は3の話、1と2の間に違和感がある人のことを「T」とするよう。

トランスセクシュアルのひとのなかには「男に生まれたけど女になりたくて、でも性対象は女、だからわたしはレズビアンです。」という人もいる。かたや、対照的な性別になることを望むのではなく「男、女、そんなのどっちもいやだ!だからわたしはどっちでもないⅩだ!」という人もいる。もちろんそれは、人によってバラバラだから、グラデーションってことで。性に関する団体やイベントは、レインボー(虹)がシンボルになっていたりする。

わたしは現時点で、すべての人の「性」が「虹」だと、思っている。そしてそれは天気と一緒で、日によっても違うはず。自分の戸籍上の性別なんて、生まれた瞬間に性器を見ただけで医者に判断されているだけで、生まれたときから無意識に、自分が男だとか女だとかいうことに縛られていて、好きになるべき対象も、着たい服も「あらかじめ大幅に制限されてしまって」いる。

3.性対象は特にそうだといえる。昨日のゆでたまごの日記にも書いたけれど、人として好き、という部分がある限り、その人自身のよさに惹かれ、見た目に惹かれ、フィーリングに惹かれ、つまり、その人自身がどこからどう見ても、どう考えても素敵なんだってことだ。性別はあまり関係ない。同姓が好きな自分はおかしいんだって、思わなくていいと思う。誰を好きになるのも、いたって正常で、いつでも自由だ。

女の人に対して「カレシできた?」って聞くのが当たり前になっているかもしれないけど、それがプレッシャーになっている人が少なからずいる。たしかにそりゃそうだ。自分のパートナーはいわゆるカレシ(男)ではない。でも、嘘はつきたくない。でも、カミングアウトもしたくない。答えにくいだろうし、人間関係も立ち行かなくなる。

ところで私は「男の人が好きだ」と公言したことは一度もない。だからといって「女性が好きだ」と言いたいわけではない。「男女ともすきだ」と公言するつもりもない。性って、そういうものだ。性のことについて、いちいち、当事者がカミングアウトする必要はないと思う。

かえりに職員室で、あのこがさっき担任の先生とケンカして暴れていたって話を聞いた。ちょっぴり心配になった。あのこと、また、ゆっくり話したいなぁと思った。

性同一性障害っていうことばについても、今後深めていきたいと思う。

ゆでたまごのこと

藤田くんと電話していたら、とうとう、自分の中の人間関係の話がまとまりそうなので、書き留めておく。(先日まで「バームクーヘン」で表現していた人間関係をここに「ゆでたまご」で言い換えることにする。)

さてイメージしてみましょう。まずは卵を大きな鍋の中にそうっと入れて、水をたくさん入れます。しっかり卵が浸かるように入れましょう。弱火でいいので、グツグツとゆで、もういいかな、というところで、ゆでるのは、おしまいです。(いきなり冷水につけてあげると、あとからむきやすいそうですよ。)さあ、殻のついたままのゆでたまごを、包丁で半分に切って下さい。たてでも、よこでも、かまいません。殻がちょっと音を立ててバリバリと崩れてしまいましたね、でも特に問題ありません。あと、この、卵をゆでるとこの文章は、ほんとは特にいりません。書きたかっただけです。

さて、このときの断面図を具体的に思い描いてみてください。まずは中心から①生命の核、黄身の部分。ここはわたし、すなわち、自分自身と考えます。②黄身の周辺を大きく包み込んでいる、ここは大事な白身ですね。いいバランスが保たれているでしょうか?これは自分のまわりの「人としてすき」な分類のひとびとです。③そして問題がここ。これは殻の部分です。ここは「いわゆる“恋”やいわゆる“愛”の対象としてすきな人」です。

人間関係は簡単に分けると、この三層にわかれているのでは?ということにたどり着いています。現時点でこの③がわりと厄介です。③から始まると、アッサリ②に戻り“にくい”。いやそれは私が、という意味ではなくて、客観的に見て、ということなんだけれど、それは非常にもったいないことだと思っているんですね。とはいえ①から②の③がベストなのではなく、③から②でももちろんすばらしい。というよりも、行ったり来たりできる関係性というのも、とてもすばらしいと、思ったりもする。

そして、最近思うのが「果たして③の概念は必要なのか?」ということ。この26年間それなりに、いわゆる「交際」「結婚」「出産」「老後」などについていろいろと考えを巡らせてきたけれど、他人から奨励されたり、批判されたり色々だった。「おとしごろ」になると「ジブンノコセキノウエデノイセイニアタルタイショウシャ」の「カレシ」「カノジョ」ができて当然で「コウサイ」したらゆくゆくは「ケッコン」そんで「コドモ」というのが世の中での暗黙のルール。カタカナで表記したのは違和感を感じているところ。このへんは知らないうちに「Must化」されている気がする。ただ、わたしは、もう、その手には、のりたくない。関係性の軸も、きまりごとも、とっぱらいたい。いま、その過渡期にきているところ。ルールは、自分でつくるものだ。

そう、私は、喫茶店のモーニングでたべる、ゆでたまごが、とても、すきだ。

はたらき方(眼科のこと)

先日から近くの眼科へ通っている。ドライアイとのことで、週に一度はここにおいでなさい、とのことだったから、その日も、眼科へきていた。その日はとても空いていた。いや、先客はだれもいなかった。その日わたしはその後の仕事のために、余裕を持って来ていたものの、まぁそこそこ早く終わったらいいなぁと思っていた。受付が済んで、待つこと15分。姿勢を変えてそのあと10分ぐらい。なんでだろう、先生が来る気配はない。手術の日なのかしら。看護婦さんはたくさんいて、わたしはここに座っているのに、誰も声をかけてはくれない。なんだか、わたしは取り残されているような気がしていた。そのうちに、近くで看護婦さんたちが雑談を始める。清潔感のある、かわいい看護婦さん、ふたりがここで、仕事とはぜんぜん関係ない話を繰り広げる。あいらしく、ころころと、たのしそうに話す。でもわたしは、ぜんぜん、楽しくない。そのうち看護婦さんがひとり入れ替わりで来て、また雑談を始める。楽しそう。なんだかなぁ、おしゃべりばっかりしないで、早く診てよね!って思ったとき、ハッとした。なんでこんなせかせかしているんだろう?目の前での雑談を許せないと思うなんて。「勤務時間内のおしゃべりは許せない」と思うようになったのは、いつからなんだろう?そして、それにイライラしているのはいつからなんだろう。なんだろうこのモヤモヤは。こういうことって、ほかにもあるんだろうなぁ…。そしたら先生がきて、お待たせしましたってにこっとしてくれた。わたしは、ここにいるんだよなぁって思い出した。ちょっと、ほっとした。引き続き考察を深めていきたい。