広告代理店という「映像コンテンツ」を一つの売り物にしている会社に入るということもあり、去年の今頃から意識して映画を観ることにした。
元々僕は「小説」や「音楽」といった「直接目には見えない表現」が好きで、「映画」というのは、まあ映画館で年に2、3本も観ればいいかなと思っていた性質の人間だったのだけど、いろいろ知っていくと映画もまた面白い。
というわけで、映画素人が150本くらい観て良かったなと思える作品のランキングです。
ネタバレもたくさんあるので注意してください!
第10位
ブレードランナー
監督:リドリー・スコット
時は2019年。人間たちのために作られたアンドロイド「レプリカント」の一部が反逆を起こし、宇宙開拓基地から逃走する。主人公のデッカードは彼らレプリカントを処刑するための専任捜査官「ブレードランナー」である。
東アジア圏の各国の文化をごちゃまぜにしたような街並みは、刺激的なはずなのにどこか懐かしく、観る者を夢中にさせてくれる。これは、京都の祇園の風景や、『千と千尋の神隠し』、それから溝口健二の『赤線地帯』にも通じる、日本人なら誰でも感じるノスタルジーだと思う。
この映画はSFやアニメーションに多大なる影響を与えたようだが、僕は残念ながらそのどちらにも詳しくない。ただ、観ていて一つだけ引っかかった点があり、その謎が解けた時、改めてこの映画は名作だなと思った。
ラスト近くの超有名なシーン、レプリカントのリーダー・バッティが、瀕死のデッカードを助ける。
なぜ助けたのか?その理由は作品中には明記されていないし、このシーンがSF映画史上屈指の名場面としてよく挙げられる割には、あまりその理由について考えられていないように感じる。
僕は、レプリカントたちがその寿命が切れる前に、「俺たちはここに存在したんだ」という事実を、どうにかして後世に残したかったからではないかと思う。
おそらく、彼らに生殖能力は備わっていないだろう。アンドロイドに生殖能力があれば、アンドロイドを生産する企業は商売あがったりだからだ。だから、自分自身の遺伝子を残す、という形では、自らの存在を後に残すことはできない。
しかし、バッティがデッカードの命を助けたなら、そのエピソードを人間たちが語り継ぐ「記憶」という形で、レプリカントたちは自らの存在を後世に残すことができる。
デッカードを殺してしまえば、彼らはせいぜい「そういえば昔レプリカントっていうヤツらが人間に反逆しようとしていたよなぁ」という形でしか語り継がれないところが、彼を助けることで「レプリカントたちが自分たちの存在意義について葛藤していたこと」の生き証人を残すことができる。
リチャード・ドーキンスの『利己的な遺伝子』の言葉を借りるなら、ジーン(gene:遺伝子)ではなくミームを残すことで、彼らは物質的な寿命を超えたのだ。映画を観た僕たち自身が、「レプリカントたちがかつてこの地球上に存在していた」ということの証人なのだ。(まあ、フィクションではあるのだけど。)
自らの記憶を残すという行為によって、レプリカントたちは「人間らしくありたい」という悲願に、少しでも近づくことができたのではないだろうか。
- 作者: リチャード・ドーキンス,日高敏隆,岸由二,羽田節子,垂水雄二
- 出版社/メーカー: 紀伊國屋書店
- 発売日: 2006/05/01
- メディア: 単行本
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第9位
近松物語
監督:溝口健二
京都の有名店に嫁入りした若妻おさんと使用人の茂兵衛の駆け落ちを中心に、人間関係の儚さや人生の不条理さを描いた作品。
実はこの2人は当初駆け落ちなどするつもりはなかったのだが、偶然が重なって2人して家出する形になってしまったために、おさんの主人をはじめとする周囲の人たちから不義密通の上での駆け落ちだと考えられてしまうのである。
主人の以春は不義密通者を内々で捕らえようと追手を差し向ける。「どうせ捕まってあんな家に引き戻されるくらいなら」と、おさんは琵琶湖で身投げをはかり、茂兵衛はその手助けをするが、その間際で茂兵衛がおさんへの愛を告白する。それをきっかけにして家出は本物の駆け落ちとなり、2人は逃避行を続ける…というストーリー。
人生とは偶然に左右されるものであり、大変不条理なものである、ということを強く感じさせる作品。人間の心の移り変わりの描写がとても鮮やかで、観る者をドキドキさせる。
溝口健二監督はのちのフランスの映画運動である「ヌーヴェルヴァーグ」に大きな影響を与えたといわれている。本作をヌーヴェルヴァーグの代表作の一つである『勝手にしやがれ』と観比べてみても、逃避行を中心に描かれる不条理性や人の心の揺らぎなど、共通する点は実に多い。
僕個人的には溝口監督の作品により親近感を覚えるが、そのはっきりした理由はよくわからない。おそらくその言葉にできない部分こそが、僕が日本人であってフランス人ではないために生じる、映画作品に対する理解の差なのだろう。
第8位
タクシードライバー
監督:マーティン・スコセッシ
言いようのない閉塞感を抱え街を徘徊するタクシードライバーが議員を射殺しようと目論むも、シークレットサービスに邪魔されたため、手近なところにいた売春あっせん業者たちを次々と殺していく物語。
Wikipediaなどでは最後のアメリカン・ニューシネマ作品だと記載されているが、主人公が英雄扱いされるハッピーエンド的な結末を迎えるため、一見ニューシネマっぽくない作品だと感じられるかもしれない。
だが、実のところ主人公トラヴィスが殺すのは誰でもよかったのだ。上院議員でも、それから売春あっせん業者でも、社会への不満を表明し自らが特別であることを証明できるのなら、相手は誰でもよかったのだ。
表面上は売春していた少女を救った英雄であっても、一皮むけば反社会的なマインドを持った異常者である。そして彼は今も黄色いタクシーに乗り、夜の底を徘徊している―。
この映画が観る者をぞっとさせるのは、そういった点にある。誰も人の心の内側を窺い知ることはできない。彼らは自分の隣に座っているかもしれない。おそらく都会に住んでいる人の方が、この作品の恐ろしさを強く感じることができるだろう。
一見ハッピーエンドだが実のところ本質的な問題は何も解決していないバッドエンドである、という点で、これは確かにアメリカン・ニューシネマと呼ばれるにふさわしい。例えば好きな女の子を結婚式場から奪って逃げるシーンで終わる『卒業』などと、本作品は同じ構図を持っているのである。
第7位
七人の侍
監督:黒澤明
この作品、名前は知っていても観たことはないという人は多いのではないだろうか。
率直に言おう。めちゃくちゃ面白い。
僕は何よりもまず「最後まで観させること」が映画における名作の条件だと思っているが、この作品ほど観客を惹きつけて離さない作品は滅多に無いだろう。
『七人の侍』どんなに潤沢な予算で作られたハリウッド映画にも引けを取らない、至高のエンターテイメントかつ人間ドラマ。仲間を集めていくONE PIECEのようなワクワク感、野伏たちを罠に嵌めていくホームアローンのような爽快感。ちょっとこの面白さは半端じゃない。
— はじめさけ (@Hajime_Sake) 2014, 10月 27
このツイートでも書いたように、この作品にはエンターテイメントの粋が詰まっている。同じく黒澤監督の代表作の一つである『羅生門』と比べても格段にわかりやすく、シンプルに「面白い!」と感じられる作品であるはずだ。
第6位
スタンド・バイ・ミー
監督:ロブ・ライナー
- 作者: ウィル・イートン
- 出版社/メーカー: ソニー・ピクチャーズ エンタテインメント
- 発売日: 1998/10/23
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4人組の少年たちが、「死体探しの冒険」を通して成長する様を描いた物語。
少年たちが「死」への興味から行動を起こし、その過程であれやこれやと経験をして大人になってゆく、という筋書きは、小説『夏の庭』にも見られるものだ。僕もそうだったが、10歳くらいというのは「死」に対する興味を強く持つ年頃なのかもしれない。
この映画については、僕はスティーヴン・キングが書いた原作を読んでいないし、特段何か考察するような部分があったとも感じられなかった。
何よりも、4人の少年が線路に向かって歩いてゆくその様が懐かしくて美しくて涙が出た。こういうノスタルジーに僕はめっぽう弱いのだ。
自分にも、こんなバカをやった時代があった。そうしんみりと思わせてくれて、ちょっとセンチメンタルな気分になれる作品だ。
第5位
イージー・ライダー
監督:デニス・ホッパー
映画を観始めてから、「どうも自分はアメリカン・ニューシネマなるものに惹かれるみたいだな…」と感じつつ、現時点で一番ドハマりしたのがこの作品。
ロックが大好きな自分にとっては、ステッペンウルフやジミ・ヘンドリックス、バーズといったお馴染みのバンドの曲がバイクの疾走シーンをバックに次々と流れていくのもツボだった。
「自由を体現する者は周囲から怖れられる」と語る弁護士ハンセンの言葉は、SNSで知人の動向を気にしてしまう現代の僕たちにも、50年越しで突き刺さる真理だと思う。
ラスト近く、キャプテン・アメリカとビリーは売春婦たちとともにLSDとアルコールに溺れる。彼らは幻想の向こう側に、道路沿いに投げ出され燃え盛っているバイクの残骸を見る。
この映画を最後まで観て初めて、彼らが自分たちの結末を予期していたことを僕たちは悟り、そして涙するのだ。
主題歌を歌うステッペンウルフのバンド名は、ヘルマン・ヘッセの小説『荒野のおおかみ』(原題:Der Steppenwolf)から取られている。『荒野のおおかみ』もまた世間的な暮らしからはぐれて生きるアウトサイダーが主人公だった。
ただ、『イージー・ライダー』と『荒野のおおかみ』を比べた時に異なるのは、前者が最後まで俗世間に対して反抗し続けるのに対して、後者が通俗的なもの(例えばジャズやダンス)からも楽しみを見出そうとする点である。
僕は「イージー・ライダー」の生き方はめちゃくちゃかっこいいと思うけれども、個人としては「荒野のおおかみ」のように、いつまでも自分の壁を壊し続けて生きていきたいと思う。
ところで、「アメリカン・ニューシネマ」(英語ではNew Hollywood)と言った時に、本国アメリカと日本とではその言葉が指し示す映画作品群は微妙に異なっているようだ。
アメリカのWikipediaの New Hollywood の項を見ると、『俺たちに明日はない』(原題:Bonnie and Clyde)や『カッコーの巣の上で』(原題:One Flew Over the Cuckoo's Nest)といったお馴染みの名前に加えて、『2001年宇宙の旅』や『ゴッドファーザー』といった、日本ではニューシネマにカウントされない作品も挙げられている。
詳しくは触れないが、それまでのハリウッド映画へのアンチテーゼが"New Hollywood"という流れであり、その中でも日本人の心の琴線に触れたものが「アメリカン・ニューシネマ」として残った、と考えるのが妥当であるように僕は思う。
日本において「アメリカン・ニューシネマ」と呼ばれている作品には、多くの場合「滅びの美学」が見受けられる。この記事で挙げた『イージー・ライダー』もそうだし、『ワイルドバンチ』や『バニシング・ポイント』もそうだ。
その「滅びの美学」が、切腹をはじめ古来から同様の美意識を育んできた日本の文化にうまくハマり、「アメリカン・ニューシネマ」として親しまれるようになった―。そんな風に考えてみることもできるのではないだろうか。
第4位
ジョゼと虎と魚たち
監督:犬童一心
なんだろう、この胸に重く残るやりきれなさと甘美さは―。
足に障害を持ち車椅子の生活を送るジョゼと、大学生の恒夫の恋愛物語。もともと女遊びが大好きなクズ男の恒夫が、ジョゼと出会い少しずつ変わってゆく。くるりの「ハイウェイ」のテーマに乗って、2人はジョゼの好きな「虎と魚」を見に行く。
しかし、水族館が休館のため「魚」を見ることはできなかった。その夜泊まった「お魚の館」というラブホテルで、2人は特殊な照明が照らしだす「幻想の魚」を見る。
眠ってしまった恒夫にジョゼは「いつかあんたがおらん様んなったら、迷子の貝殻みたいにひとりぼっちで海の底をコロコロコロコロ転がり続けることになるんやろ」と語りかける。このあたりで、結末はもう暗示されていたように思う。
最後はジョゼと別れ、元々関係を持っていた香苗を選んだ恒夫。彼は香苗とのデート中、道端で不意に号泣し出す。障害者であるジョゼから逃げた自分のふがいなさ、ずるさ、ジョゼのことが本当に好きだったという気持ち―。それらがないまぜになった感情が、とめどなくあふれ出す。
僕はこのシーンが大好きだ。
恒夫は、別に聖人君子でもなんでもないただのお気楽な男だ。そんな彼が、恋愛を通して一時強く優しくなれる。でも、やっぱり弱い人間だから最後には易きに流れてしまう。障害を持った彼女を一生支えていくという覚悟ができなかったのだ。
それでも、人を愛するということの意味を知った恒夫は、それ以前よりも少しだけ、イイ男になっているように思えた。
田辺聖子の原作『ジョゼと虎と魚たち』、「ジョゼ」という名前の由来であるフランソワーズ・サガンの『一年ののち』もお勧めです。
- 作者: フランソワーズサガン,Francoise Sagan,朝吹登水子
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 1960/01
- メディア: 文庫
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第3位
ファニーゲーム
監督:ミヒャエル・ハネケ
理不尽な暴力、無慈悲な抵抗、奇跡の救出など望むべくもない惨殺…。
まあ、胸糞悪いとしか思えない映画なのだが、不思議と人を惹きつけるものがある。
それは、自分の中にもきっと存在している嗜虐性を、この映画によって暴かれてしまうからだと思う。
ミヒャエル・ハネケ監督の作品は今やっと半分くらい観終わったところなのだが、これまで観る限りでは、彼の映画には救いなどない。人の心の暗い部分を、徹底的に引きずりだそうとしている。
この作品ではそれが特に顕著だ。「ファニーゲーム」を提案する若者パウルは、時折観客に向かって言葉を投げかけてくる。
そのメタフィジカルな演出は、スクリーンのこちら側にいる僕たちもこの残酷な「ファニーゲーム」に参加しているという事実を、否が応にも思い知らせてくる。
僕たちがなぜこの映画を観て恐れおののくかというと、人間社会の基本的なルールを踏みにじられる思いがするからだ。
その基本的なルールとは「互恵性」である。
この映画は、「卵を貸してくれませんか」と言う若者に対し、ある家族が善意からそのお願いを聞いてあげようとするところから始まる。当然若者の側からは、感謝の言葉なり、小さな贈り物なりが返ってくることを僕たちは期待する。それが人間社会の暗黙のルールだからだ。
- 作者: マルセルモース,Marcel Mauss,吉田禎吾,江川純一
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2009/02
- メディア: 文庫
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しかし、そのような期待は打ち砕かれ、 一家はおぞましい仕打ちを受けることになる。
もし、他者に向けた自分の善意が、この映画にあるような形で裏切られてしまったら…。僕たちは誰も信頼することができなくなり、人間社会は崩壊するだろう。
人間社会の暗黙のルールを根底から揺るがしてくること。それが、僕たちがこの映画に底知れぬ恐怖を覚える理由だと思う。
第2位
ライフ・イズ・ビューティフル
監督:ロベルト・ベニーニ
第二次世界大戦時のユダヤ人に対する迫害を、父グイドと息子ジョズエの強制収容所生活から描いた作品。
…と書くと、あたかも重苦しく辛い気持ちになる作品なのかと思われるが、決してそんなことはない。収容所の生活を「ゲーム」に例えるグイドの明るいキャラクターは、観る者を笑わせ、和ませてくれる。
一方で、そういったお気楽な描写が「ユダヤ人迫害の現実を映していない」と批判されることもあるようだ。
だが僕は、その批判は的外れなものではないか、と思う。
なぜなら、ラストシーンにかぶさるジョズエのナレーション(「これが私の物語~」)からもわかるように、この物語は「ジョズエから見た」強制収容所の生活の描写だからだ。
幼いジョズエの目に、収容所の生活があれほど楽しげに映っていたのだとしたら…。それは、父親グイドの「息子に辛い思いをさせまい」とする努力とその勝利を示す証左に他ならない。
実際に収容所生活を体験したユダヤ人の精神科医ヴィクトール・フランクルは、その著書『夜と霧』の中でこう書いている。
人間が生きることには、つねに、どんな状況でも、意味がある、この存在することの無限の意味は苦しむことと死ぬことを、苦と死をもふくむのだ、とわたしは語った。
(『夜と霧』p. 138)
精神的に追い詰められ、肉体的にも極限状態にあった強制収容所の中でも、その時々でどう生きるかは、それぞれの人間にかかっている。飢えで苦しんでいても、別の死にかけた仲間にわずかばかりのスープを譲ってやることはできる。
私たちが人生の意味を問うのではなく、人生が私たちに投げかける問いに日々答えること(例えば、スープを譲るか否かということ)こそ、私たちが「よりよく生きる」ということなのだ。フランクルは著書の中でそう書いている。
父親グイドこそ、「いつでも人生から投げかけられた問いに答える」というその姿勢を、その生き様をもって示しているキャラクターではないかと僕は思う。
- 作者: ヴィクトール・E・フランクル,池田香代子
- 出版社/メーカー: みすず書房
- 発売日: 2002/11/06
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第1位
風立ちぬ
監督:宮崎駿
この映画については この記事 でけっこう書いたので、改めて書くこともあまりないが、死ぬほど素晴らしい映画だということは変わらない。
僕が一番胸にこたえたのは、第4位に挙げた『ジョゼと虎と魚たち』と同じく、ヒロインとの別れのシーンだ。
零戦の実験に向かう二郎を送り出した後、菜穂子は家人に偽り家を出て、そのまま永遠に戻らなかった。
「一番美しいところだけ、好きな人に見てもらったのね…」黒川夫人がそうつぶやくシーンは、涙なしでは見られない。
夢を追いかけることの美しさ、それによって損なわれるものたち―。そういった儚さに思いを馳せずにはいられない、名作だ。
と、10作ランキング形式で発表してみたけれども、あなたの好きな作品はあっただろうか?
好みが全然違っても、お互いの好きな作品を通して、お互いのことを理解できるのが映画の(それから音楽とか漫画とかの)良いところだ。
これからも、いろんな映画を観てみたいと思う。